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#057[世界]17先生とA(07)「滅びるね」

//「滅びるね」
  「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。する
 と、かの男は、すましたもので、
  「滅びるね」と言った。─熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐら
 れる。悪くすると、国賊扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにも
 こういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だから
 ことによると自分の年若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろう
 かとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つき
 はどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるの
 をやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。
  「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと
 切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
  「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめ
 だ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
  この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。
 同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。
                           (N『三四郎』1)
 「熊本より東京は広い」かどうか、当時の地図を開いてみなければ分からないけど、多分、「熊本より東京」の方が狭いと思う。この場合、「熊本」や「東京」が市街地のみを指すのなら、「広い」というのは、当たっているのかもしれないけど、でも、どうして、そういう話、するかな。そういう話をしてもいいんだけど、そういう話だと言われてもいないのに、どうして、三四郎は、そういう話だと思ったのかな。
 「東京より日本は広い」というのは、無意味だよな。こんな言い方が許されるんなら、[男より人間の数が多い]と言ってもいいわけだ。[全体より大きい部分はない]から議論は無駄だと言うんじゃなくて、この場合、[全体と部分を比較する]こと自体が無意味なんだな。あるいは、東京と東京以外の日本とを比べたつもりかな。そうだとしても、そういうことを言われたんだってことが、三四郎に、よく分かったね。
 次に、「日本より」と来たから、世界とでも言うかなと思って、そう言ったら、[ほら、また]と突っ込んでやろうと思っていたら、「頭の中」なんだな。ということは、今までの比較は、何だったんだろう。現実の計測可能な空間を話題にしているのではなかったのか。となると、最初から、やり直しかな。
 さて、話題は、何なの。三四郎が「西洋人は美しい」(同1)と言ったら、「かの男」が富士山の話(同1)を始めて、そして、こういう展開になったんだよな。「西洋人は美しい」という文に対応するのは、[東洋人は醜い]であるはずだよ。なのに、どうして、ここで、[富士山は「日本一の名物だ」(同1)]という文が飛び出すんだろう。[東洋人は醜い]というと、「東京」では「すぐなぐられる。悪くすると、国賊扱いにされる」からかな。あるいは、「かの男」は「頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した」からかな。西洋人は美しくて、東洋人も、日本人以外は美しくて、日本人だけが醜いんだけど、日本では富士山以外のすべてが醜いのだから、日本人が醜いのは当然で、そして、ええっと、この後、どう続くのかな。[醜い]という言葉を使いたくないのかな。面倒臭い。先、行け。
 「日本のためを思ったって」と言うんだから、日本と対立する国家、あるいは、国家群との、文化程度の比較かな。三四郎か誰かが「日本のため」に何かを思ってるって、書いてあったかな。で、「かの男」は、どういう方法で、三四郎か誰かが愛国心を持っていることや、その内容まで、察したのかな。とにかく、「かの男」には、何もかもお見通しらしいんだけど、で、だから、どうしたってのかい。分かんねえよお。どういう漫才なんだよお。何、言祝いでんだよお。
 でも、三四郎は「悟った」よ。悟るのが[落ち]なんだね。で、何を悟ったかというと、「熊本にいた時の自分は非常に卑怯であった」んだとさ。え、何だって、また、そんなことを。そんなことが、前の方に書いてあったっけ。この先に回想でもあるのかな。
 三四郎は、「かの男」と同じような「思想」を、熊本にいるときから持っていたのに、熊本では殴られたくなくて、黙って暮らしてて、ここで、[俺って、「卑怯」だったよな]かなんか、反省して、そのうち、熊本に戻って、「日本より頭の中のほうが広い」と叫ぶよ。いや、「非常に卑怯であったと悟った」だけで、実は、何もしない三四郎を、作者は批判するのかな。「非常に卑怯であった」のが、普通程度の「卑怯」で収まるって話かな。
 そういう意味の「卑怯」とは違うのかもしれない。だって、「三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちに生長した」んだもんな。「思想を入れる余裕はないような空気のうちに生長した」としても、「思想を入れる」ことがなかったとは言えないけど、やっぱり、入れてないんだろうな。でも、無知なんだったら、「卑怯」ってのは、あんまりだよ。
 何にしても、三四郎は、無知な癖して、よく悟れたね。無知だからこそ悟れるみたいな、ややこしい仄めかしかな。うわあ、だったら、もう、読めないね。もしかして、「卑怯」って、「思想」とは無関係なのかもよ。「どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて」しまおうかしらん。
 やっぱり、三四郎は「愚弄」されてるんだろうね。でも、「愚弄」されるような人が、どうして、悟れるんだろう。生悟りの三四郎を、作者が「愚弄」してるとこかな。なぜ、「愚弄」なんかするんだろうね。おや、誰も「愚弄」なんか、していないのかな。「愚弄」されてないのに、なぜ、「愚弄」なんてこと、思うのかな。思わなきゃ、いいのに。三四郎には「思想」がないから、思うのかな。俺にもないな、思想。「思想」がないと、「愚弄」されるのかな。「思想」がないから、ちっとも読めないのかな。読めないと、「愚弄」されるのかな。いやだなあ。「愚弄」されたくないなあ。「愚弄」されてまで、読みたくないなあ、こんな糞面白くない小説。
 でも、三四郎にもないんだろう、「思想」は。なのに、「悟った」よ。思想、思想。「思想」って、何。日本は「滅びるね」って。ええっ、「滅びるね」が「思想」なの? なこたないよな。あるのかな。うひゃあ、凄いね。俺も言ってみようかしら、「滅びるね」
 でへへ。照れるぜ。でも、滅びないんだよな、日本、昭和の50年になっても。昭和っつって、分かるかな、大正の後なんだけどね。
 おっと、私語してしまいました。ええっと、三四郎は、「悟った」と「同時に」何かしたよ。「この言葉を聞いたとき、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした」んだってさ。ふうん。「この言葉」って、どの言葉。ええっと、どれかな、どれかな。「熊本より」以下かな、「日本より」以下かな、ああ、苛々するよ。
 「耳を傾けている」とき、三四郎は、自分では「聞いた」つもりでいたけど、本当は、聞いていなかったのかもしれない。耳が傾いてたんなら、頭も傾いてるよ。目は開けてたかな。眠ってたんじゃないか。眠ってたんだ。眠たい説教だもんな。熊本を出てから、ずっと眠ってた。でもって、ここらで目が覚めて、「熊本を出たような心持ち」がするんだろう。
 あれ、おかしいな。ここ、どこだっけ。前んとこ、見たって、手遅れだ。だって、ここは汽車の中、汽車は走ってる。


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