『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#058[世界]18先生とA(08)「出鱈目」

//「まだ」
 何を隠そう、私には、Nが分からない。
 若い頃、[Nのものでも読んでおかなければ、日本人として格好がつかないのかな]と考え、軽い気持ちで繙けば、あれあれ、目が悪くなったのかしら、それとも、頭が悪くなったのかしら、どこかで螺子が切れたちゃったみたいで、[これが国民的文学なら、私ゃ非国民なんだろうね]と思った。あの頃は、まだ、良かった。[年、食や、分かるんだろ]と、甘く考えていた。
 Nの言葉を読むことは、拷問に等しい。吐き気や目眩を催す。ずっと避けて来た。本屋でも、ナ行の棚には近寄りたくない。ナの近辺には、言葉にならない不潔感が漂う。
 Nの言葉は、1個の文としてさえ、意味の取れない場合が、しばしば、ある。粗筋さえ、掴めない。人の書いてくれた粗筋というのはあって、文庫本のカバーなどを拝見するが、[へえ、そんな話なのか]と、感心すればいいのか、恐縮すればいいのか、阿波踊りでも踊ればいいのか、とにかく、[そんな話を読んだような覚えはある]といった感触は訪れない。
 漢文の書き下し文は、厳密に言って、日本語だろうか。いわゆる直訳というのは、日本語だろうか。目の前にある訳文の向こう側に原文の雰囲気を透視するようにして想像できる語学力の持ち主なら、原文の趣旨を、ふわりと掴むことができるのかもしれない。Nの言葉は、日本語に堪能な外国人の書いた日本語を思わせる。流暢のようで、どことなく、おかしい。ニュアンスなどが違う。外国人なら仕方のないことだが、Nは、わざと違和感を作り出して、いい気になっているように見える。だから、読んでいて気持ちが悪くなる。こうした違和感は、同時代の、例えば、坪内逍遥や森鴎外や三遊亭円朝の文からは、受けた記憶がない。
 もし、[Nの言葉は、日本の文化として継承するに値する]と、誰かが言い張るのなら、その人は、Nの言葉について、多くの古典と同じような、詳細な注釈書を拵えるべきだ。価値の話は、それからだ。今は、意味の段階。素人に読めた代物ではない。
 ところが、現状は、私の気持ちとは正反対で、驚くべきことに、小学生向けとして、Nの作品が出版されている。日本では、千円札が通用するように、Nの言葉も通用しているのだろうか。そうだとしたら、日本語がどういう言語なのか、その根底から、私は理解していないことになる。
 さて、どこがどんなふうに分からないのか、説明しなければならないのかもしれない。説明のためには具体例を挙げるべきなのだろうが、どこもかしこも分からないのだから、どこを挙げても同じなので、とりあえず、これね。
  名前はまだ無い。
                  (N『吾輩は猫である』1。以下、『猫』)
 「まだ」とは、何事か。[いつか、名前をもらえる]という話か。違う。[名前がほしいのに、くれない]という愚痴らしい。だが、なぜ、名前をほしがるのか、私には分からない。「吾輩」が「如何に珍重されなかったかは、今日に至るまで名前さえつけてくれないのでも分る」(同1)ということなので、「珍重」しろと、誰やらに訴えているところなのかもしれない。しかし、この尊大な猫が、なぜ、人間ごとき低劣な動物に「珍重」されたがるのか、私には分からない。
 もしかして、『猫』では、猫の目で人間が風刺されているのではなくて、猫のような、覗き見趣味のお客さん的存在の人間が風刺されているのだろうか。
 「生涯この教師の家で無名の猫で終る積りだ」(同1)というのは、拗ねているのかな。いやなら、家出でもすれば? 
 『猫』の頃、Nは、「まだ」有名ではなかった。「生涯」を「無名」の創作家で終わるつもりだったか、なかったか。そんなことを読み取らねばならないのだろか。
//「文学者である」
  吾輩は猫である。
                              (『猫』1)
  白井道也は文学者である。
                             (『野分』1)
 明智小五郎は探偵である。しかし、並の探偵ではない。
 「白井道也」は、並の「文学者」か。並の「文学者」ではないのか。「白井道也」が「文学者」でなければ、彼はどうなるのか。彼のどこがどうだから、彼は「文学者」なのか。そもそも、Nの書く「文学者」とは、何者か。「苦沙弥」(『猫』)は「文学者」か。Nは「文学者」か。あなたは「文学者」か。あなたは「文学者」ではないのか。「苦沙弥」が「文学者」なら、誰もが「文学者」になれそうだ。でも、誰が「苦沙弥」になりたいと思うのだろう。「文学者」になる方法よりは、「文学者」にならない方法を知りたいぐらいだ。人は、なぜ、「文学者」であろうとするのか。人は、なぜ、「文学者」であろうとはしないのか。人は、いつ、「文学者」になるのか。人は、いつ、「文学者」ではなくなるのか。
 「文学者」が何者か、知らなくても、[「吾輩は」「文学者である」]という文は意味を持つと予想できる。「白井道也」という人を知らなくても、[「吾輩は」「白井道也」「である」]という文は意味を持つと予想できる。[「白井道也は」「猫である」]という文は、『野分』の中の知性体を「猫」と見做せば、意味を持つと予想できる。だから、もしかしたら、「猫である」ところの「吾輩」は、「吾輩は死ぬ」(『猫』11)と書いたが、書いただけで、死なずに生きて、「白井道也」という名前をもらったのかもしれない。すると、[「猫である」ところの「吾輩は」書く/「白井道也は文学者である」]という文が成り立つ。
 ここで、[「吾輩は猫である」と書いた作者である「白井道也は文学者である」]という文が成り立つと考える方が、もっともらしいようだ。そして、この文を要約し、[作者は書く/「吾輩は」「文学者である」]という文が成り立つような気がする。しかし、もし、この文が目的なら、随分、遠回りをしたことになる。なぜ、遠回りをしたのだろう。「文学者である」ことの内実が、不明だからだろう。
 作者は、[私は、並の「文学者」ではない]とは書かずに、書いたのと同じ効果を出したかったのだろう。言い換えれば、[私は「文学者である」]という文の前提として、[「文学者」は偉い]という文を必要としたのだろう。しかし、誰だって、[「文学者」と称する、あるいは、称される人々のすべては、偉い]などとは、思わないはずだ。
 「吾輩は猫である」という、虚構の文には、[「吾輩は」何か]という疑問の文が前提にあるはずだ。[「吾輩は」何か]という、疑問の文の前提には、[「吾輩は」人間ではない]という、否定の文があるはずだ。この否定の文を作るのは人間だから、[人間であるところの「吾輩は」人間ではない]という文は、虚偽だ。この文が虚偽でないためには、[人間であるところの「吾輩は」(並の)人間ではない]という、条件付きの文を発掘しなければならない。
 [人間であるところの「吾輩は」(並の)人間ではない]という文と、[人間であるところの「白井道也は文学者である」]という文を比べ、「吾輩」と「白井道也」を相殺すると、[「文学者」は(並の)人間ではない]という文が残る。「猫」は人間ではない。よって、[「文学者」は「猫」だ]というのは、勿論、詭弁だ。
 「猫」と「文学者」は、どうして、似ているのか。
 「猫」と「文学者」は、それぞれの属する作品の内部において、怪しげな存在だから、似ている。
 「吾輩は猫である」という文が[「吾輩は」自分の物語の語り手と主人公を「猫」にするの「である」]という文を否定しないとすれば、「白井道也は文学者である」という文は、[「白井道也は」自分の物語の語り手と主人公を「文学者」とするの「である」]という文を否定しないのではないか。
//「出鱈目」
  「(略)先達て或る文学者の居る席でハリソンの歴史小説セオファーノの
 話しが出たから僕はあれは歴史小説の中で白眉である。ことに女主人公
 が死ぬところは鬼気人を襲う様だと評したら、僕の向うに坐っている知
 らんと云った事のない先生が、そうそうあすこは実に名文だといった。
 それで僕はこの男もやはり僕同様この小説を読んでおらないという事を
 知った」 神経胃弱性の主人は眼を丸くして問いかけた。「そんな出鱈目を
 いって若し相手が読んでいたらどうするつもりだ」 あたかも人を欺くの
 は差し支ない、只化けの皮があらわれた時は困るじゃないかと感じたも
 のの如くである。美学者は少しも動じない。「なにその時ゃ別の本と間違
 えたとか何とか云うばかりさ」と云ってけらけら笑っている。
                              (『猫』1)
 危なっかしい話だ。「知らんと云った事のない先生」に、[「別の本」とは、どの本か]と突っ込まれたら、「美学者」は、どう答える気でいたのだろう。「歴史小説の中で白眉」の作品は、「白眉」なんだから、数は少ないはずで、[じゃあ、あれと間違えたか、これか]と、問い詰められ、嘘をつき通せるか。
 この挿話では、「知らんと云った事のない先生」が、文明開化の半可通の類型として、批判的に描かれているかのようだ。そして、「美学者」は、「知らんと云った事のない先生」の実体を暴くために、あえて悪役を演じているかのように見える。「吾輩」が家宅侵入や盗聴を「美挙」(同3)と欺瞞するように、「美学者」の嘘も同様の「美挙」とされるのかもしれない。しかし、この挿話の基本形は[偽情報]と[知ったかぶり]の二つの要素さえあれば成り立つもので、誰かによって意図的に「出鱈目」が語られなければならない必要はない。また、この挿話の語り手自身が意図的に「出鱈目」を語る本人である必要は、さらに、ない。
 「この小説」を読んだことのない「美学者」が、[「この小説」に、何であれ、何かが記されていない]と思うのは、不合理だ。「美学者」が[自分は「出鱈目」を言った]という自覚を持っていたとしても、「この男もやはり僕同様この小説を読んでおらないという事を知った」と思うのは、おかしい。「この小説」が「女主人公が死ぬところ」を含む可能性を排除する根拠は、「美学者」には、ないはずだ。したがって、[「知らんと云った事のない先生」は、「この小説」の「女主人公が死ぬところ」を読んでいるから、「そうそうあすこは実に名文だ」と答えた]という可能性を排除する理由もない。
 もし、「美学者」が[「出鱈目」に言ったことは、事実であることはない]と信じるのなら、[目を瞑って歩けば、穴に落ちない]と信じるのだろう。
 もしかして、「美学者」は、「この小説」を読んではいないのだが、誰かに、[「女主人公が死ぬところ」はない]と教えられていて、そして、その情報を鵜呑みにしているのかもしれない。すると、彼は、「知らんと云った事のない先生」に負けず劣らずの知ったかぶりだということになる。そして、そのことを自覚できないほど、「美学者」は愚かだということになる。しかし、このことは、問題にしないでおこう。
 別の疑問もある。[もしかして、「知らんと云った事のない先生」は、「別の本と間違えた」のかもしれない]と、なぜ、「美学者」は考えないのか。「別の本と間違えた」というのは、もっともらしいいいわけとして、「美学者」自身が用意しているものだ。「別の本と間違え」ることは誰にでも起きるはずだから、「知らんと云った事のない先生」にだけ、そういうことが起きないと、「美学者」が考える理由は、ない。もしかしたら、「美学者」は、[そんなことは、いいわけとしては、本当は、通らない]と思っていながら、何か、別の意図があって、そのような発言をいいわけとして強引に通用させようと考えているのだろうか。そうかもしれない。だが、この先は、もう、泥沼のようだ。
 「知らんと云った事のない先生」が「別の本と間違えた」可能性を、「美学者」が排除できると考えているとしたら、その積極的な理由は何だろうか。[「知らんと云った事のない先生」は、知ったかぶりだ]と、もともと、「美学者」が思っているからだろうか。しかし、もし、そうであれば、「美学者」は、「知らんと云ったことのない先生」から、「美学者」が本当だと思っていることを聞かされた場合でさえ、信用しないはずだ。だから、「知らんと云った事のない先生」を、わざわざ、試す必要はない。
 もしかしたら、「知らんと云った事のない先生」を、「美学者」は知ったかぶりだと思っているのではなくて、反対に、実は、[博学で、一度も間違ったことを「云った事のない先生」かもしれない]と思っているのかもしれない。そして、「美学者」は、羨望に由来する憎悪の感情に操られ、汚い手を使ってまでも、「知らんと云った事のない先生」の権威を失墜させようとしたのかもしれない。つまり、「知らんと云った事のない先生」を試すことが真の目的なのではなく、この挿話を流布すること自体が目的だったのかもしれない。しかし、そうだとしても、この挿話を流布するためには、「美学者」は自分の虚言について告白しなければならないのだから、「この小説を読んでおらない」人々は、嘘を自白した「美学者」の言うことは信じないで、「知らんと云った事のない先生」の発言を信用し、[本当は、「この小説」には「女主人公の死ぬところ」がある]と思う可能性が出て来る。ところが、ここで、聞き手の「主人」は、「美学者」を信じてしまう。「主人」は、[誰かが誰かを「欺くのは差し支ない」]と思っているのかもしれないが、[自分は、欺かれても「差し支ない」]とは思っていないはずだ。ところが、「主人」は、[自分は、欺かれているのではないか]とは疑わない。しかも、こういう迂闊さが、作者によってからかわれているわけではない。
 要するに、「美学者」の考えには、[他人の知識を試すためには、自分に知識がなければならない]という大前提が欠落しているので、この挿話は、嘘や冗談としてさえ、成立しない。そして、そのはずなのに、作者が、そのことに気づいていないように見えるので、私は、読んでいて、落ち着かない。
 百歩譲って、客観的事実として、[「この小説」に「女主人公が死ぬところ」はなくて、「美学者」が嘘をついただけでなく、「知らんと云った事のない先生」も、また、嘘をついた]と仮定しよう。この場合、「知らんと云った事のない先生」は、暗示に掛かりやすい性格なのかもしれないし、虚言症の、可哀想な病人なのかもしれない。だから、人を試すために、わざわざ、最初に、嘘をついた「美学者」の方が、はるかに悪いと言えるはずだ。いや、ここは、[どちらが、どれだけ悪い]といった問題ではないのかな。
 私は、勘ぐる。「美学者」は、「出鱈目」を言う人間として設定されている。だから、この挿話も、「出鱈目」なのではないか。事実は、こうだ。「美学者」は、ある場所で、つい、知ったかぶりをやってしまった。つまり、[「この小説」に、「女主人公が死ぬところ」はある]と、発言した。ところが、後から、不安になった。そこで、「美学者」は、「知らんと云った事のない先生」という、架空の人物を作り出し、[その正体を暴くために、わざと「出鱈目」を言った]という話を捏造し、そして、それを流布することによって、知ったかぶりの罪を逃れるためのアリバイにした。「美学者」は、嘘つきと思われるよりは、知ったかぶりと思われる方が、余程、苦しいからだ。嘘つきは無知ではないが、知ったかぶりは無知だから。「美学者」は、無知だと思われることが、何よりも恐ろしい。[本当に犯した罪については疑われるだけでも死ぬほどいやだが、配所の月を気取れるのなら殺されてもかまわない]と考えるタイプなのかもしれない。
 さて、単純な可能性が考えられる。単純だが、極めて、不合理な可能性だ。それは、[「美学者」の不合理な発言は、「この小説」に「女主人公が死ぬところ」はないことを知っている作者の意識が「美学者」に乗り移ったものだ]というものだ。「主人」についても、裏返しで同じことが言える。したがって、「主人」は「美学者」を疑わない。ほかのことでは疑っても、[「この小説」に「女主人公が死ぬところ」はないと思う/作者の意識]は、疑われない。「吾輩」も疑わない。登場人物の間には、「一人前の西洋料理を三人で食う様な」(同10)「暗合」(同2)がある。読者も、作者の意識が乗り移っていれば、疑わない。
 「アンドレア・デル・サルト」(同1)も、「ニコラス・ニックルベー」(同1)も、「トチメンボー」(同2)も同工異曲で、実に危なっかしい。
//「暗合」
 平岡が出す手紙(N『それから』17)は、平岡の人格を疑わせるに足るもので、しかも、そのような人物を親友にしていた代助自身の人格をも疑わせもするのだが、そのような解釈はすべきではあるまい。平岡は、作者の意を受けて、代助が自分の口からは言い出しにくいことを、代わって表明してやったと考えるべきだ。だから、平岡は低劣ではない。この役目は、「暗合」(『猫』2)としての役目だ。ご都合主義とは違う。[物語の展開のために、密告者が必要だ]と自覚していたら、作者は適当に人物を拵えれば済む。簡単なテクニックだ。
 作者の文脈では、平岡が妻との関係に失敗するのも、「代助の三千代に対する愛情は、この夫婦の現在の関係を、必須条件として募りつつある事もまた一方では否み切れなかった」(同13)とあるように、代助が三千代を欲望しやすいように振る舞ってやったことになる。作者の都合と登場人物の都合とが、奇妙に連動している。
//「誤謬」
  「近松? あの浄瑠璃の近松ですか」 近松に二人はいない。
                              (『猫』2)
 「近松に二人は」いる。近松半二を、作家Nは知っているはずだ。勿論、近松さん、全員に招集を掛けたら、数え切れまい。では、「吾輩」の無知を、作者がからかっているところか。違う。作者は、一時的に、健忘症に罹ったのか。そうかもしれない。あるいは、[一番有名な近松は、一人しかいない]というような、つまらない意味で書いているのかもしれない。
  近松といえば戯曲家の近松に極っている。それを聞き直す主人は余程
 愚だと思っていると、主人は何にも分らずに吾輩の頭を叮嚀に撫でてい
 る。薮睨みから惚れられたと自認している人間もある世の中だからこの
 位の誤謬は決して驚くには足らんと撫でられるがままに済していた。
                              (『猫』2)
 「近松」が「戯曲家」かどうかという話題ではなかったはずだ。話題は、「近松」の人数。が、そのことは、置いておこう。
 「主人」の質問の意図は、[近松とは、意外だ]というようにしか取れない。だとすると、[知っていて「聞き直す」こと]が、「愚」であり、「誤謬」なのか。
 「吾輩」は、「主人」の質問を、「主人」の「愚」に由来すると決めつけているが、「主人」は、ちゃんと、「浄瑠璃の近松」と言っているのだから、「主人」は無知ではないはずだ。[どこが「愚」なのか]と、私は思うが、「愚」についての話題は、「愚だと思っていると」と、「と」で受けられて、「何にも分らずに吾輩の頭を」と、今度は、[猫の考えを察知できない]という話に脱線する。しかも、これは、不当な嘲りだ。さらに、「愚」は「誤謬」と言い換えられ、「薮睨みから惚れられたと自認している人間」に嘲りの対象が拡張される。
 何なんだ、これは。
 「薮睨みから惚れられたと自認している」とは、[「薮睨み」を秋波と「誤謬」する]という意味かな。しかし、「誤謬」に基づき、「惚れられた」と錯覚し、「自認」したとしても、自分の方で惚れていなければ、惚れられるのは迷惑だから、あれは「薮睨み」だと思いたくなるのが普通の人間だろう。つまり、惚れていなければ、「惚れられたと自認して」も、その「自認」は、「誤謬」ごと、忘れ去られる。「自認している」という時間は、ないに等しい。「吾輩」は、[人間は、「薮睨みから惚れられたと自認」する時間を持つ]という、めったに適合する事実がないような文を投げ出すことによって、[自分が惚れた]という文を作らずに、何かをしてみようとしているかのようだ。あるいは、「愚」なのは、[自分が惚れたのに、惚れられたと錯覚する]ことだろうか。
//「失恋」
 苦沙弥は、「失恋」(『猫』2)したらしい。「相互を残りなく解するというのが愛の第一義であるということすら分らない男」(同2)だから、「失恋」したのだろうか。「失恋」の原因は、「愛の第一義」についての無知に由来すると、作者は主張しているのか。「吾輩」の唱える「愛の第一義」について、その有効性は、「吾輩」の対象である三毛子の死(同2)によって、読者に問われることを免れる。
 「失恋」は、あるいは、「胃弱のせい」(同2)か、「金が無くて臆病な性質だから」(同2)か、「明治の歴史に関係する程な人物でもないのだから」(同2)か。作者は、「相互を残りなく解するというのが愛の第一義であるということすら分らない」女に、失恋したのではないか。「愛の第一義」について無知な女を、作者はからかっているのではないのか。あるいは、[「愛の第一義」について無知な男が女に惚れられるような世間の風俗は許容できない]と主張しているのか。「吾輩」は、「失恋」したらしい苦沙弥に当てこすりをするが、私には、「失恋」以前に、恋慕する苦沙弥の姿を空想することができない。
 「恋慕」(同5)なき「失恋」が、中空を漂う。
 「失恋」した苦沙弥が[寒月の結婚]を邪魔するのは、羨望の裏返しのようだ。しかし、「吾輩」も羨望しているらしく、「寒月君の代りにこの泥棒を差し出しても必ず満身の愛を捧げて琴瑟調和の実を挙げらるるに相違ない」(同5)などと、言い掛かりにしても、目茶苦茶なからかい方をする。金田家全員を俗物として叩くのも、寒月を「恋慕」している金田富子だけを嬲れば、羨望が白日の下に晒されそうだからだろう。「畢竟自分が惚れているんでさあ」(同6)
 作者は、苦沙弥をからかいながらも、ある部分では、手厚く守ってやっているようだ。あるいは、守っていることを悟られないために、わざと小さな傷を負わせているのかもしれない。
  先刻から赤い本に指を噛まれた夢を見ていた、主人はこの時寐返りを
 堂と打ちながら「寒月だ」と大きな声を出す。
                              (『猫』5)
 なぜ、本は「赤」なのか。「本」が、なぜ、指を噛むのか。眠る「主人」は、どのような通信回路によって、彼の「所有権」(同1)を犯しつつある人物が寒月に似ていることを夢に見るのか。錯雑として、迷路のようだ。
  陰士は細君の寐顔を上から覗き込んで見たが何の為めかにやにやと笑
 った。笑い方までが寒月君の模写であるには吾輩も驚いた。
                              (『猫』5)
 作者も一緒に「驚いた」ようだ。「陰士」の笑ったのが何のためかということすら、作者は知らないのではないか。
 もともと、[「不活溌な」(同1)苦沙弥]と[鼠を「まだ捕らない」(同1)「吾輩」]という「暗合」(同2)に、「失恋」(同1)の記事が絡まって、そこに、[「寒月君の女連れを羨まし」(同2)がる苦沙弥]と[「寒月君の食い切った蒲鉾の残りを頂戴」(同2)する「吾輩」]の「暗合」が生まれる。苦沙弥と寒月の暗闘の比喩であるかのような、「砂糖」(同2)の描写。こうした指標は、誰が作り、誰が歩けばいいのか分からない迷路を作り出す。こうした指標を文芸的な何かだと見做すことは困難だが、無視しては進めない。
 「寒月君と出掛けた主人はどこをどう歩行いたものか」(同2)というと、女を見て来たのであり、その後、彼は胃の調子がよくなった(同2)かと思うと、「吾輩」も食欲増進したらしく、餅を食って苦しむが、三毛子に会って、「さっぱりと回復した」(同2)ので、帰宅すると、「主人の笑い声さえ陽気に聞える」(同2)のに、「いつの間にか」(同2)、迷亭から手紙が来て、「恋着せる婦人も無之、いず方より艶書も参らず」(同2)と、欲望の解放についての弁解のようなことがあって、慌てふためいたかのように、作者が勝手に舞い上がり、異様にふざけ散らすのを我慢して読んでいると、誰かが誰かを咎めるように、三毛子が病気になり、「吾輩」が「酷評」(同2)され、暗い気分に変わる。迷亭は「首懸の松」(同2)を語り、寒月は思われる令嬢のためか、[生きるための身投げ]という逆説を演じ、さらに、死にかけた苦沙弥の話。「語り了った主人は漸く自分の義務を済ました様な顔をする」(同2)うち、三毛子は死んでいる。
 何なんだ、これは。
 作者の心を「探偵」(同11)するしか読む方法はなさそうだが、「探偵」しても、私には分からない。熟練した分析家は分かると主張するかもしれないが、分析家達のお流儀が違っても同じ物語が抽出されるどうか。
 [泥棒事件]以後、「吾輩」は、敵を発見したというか、発明したかのように、侵入者である鼠を捕り(同5)始め、そのことと符合するかのように、迷亭の悪食による「失恋」と老梅の過食による「失恋」が語られる(同6)ことになる。「人売」(同6)の話から、作家Nの分身である高浜虚子の我知らず表出された恋心、東風の恋の詩へと、次第に異様な盛り上がりを見せる。お次は、苦沙弥の番だが、彼は「失恋」を語らず、「大和魂」(同6)をからかう。作者は逃げましたね。
 「吾輩」は「運動を始め」(同7)て、「主人は好んで病気をして喜こんでいる」(同7)と評し、「おい、その猫の頭を一寸撲ってみろ」(同7)というのが「主人」の逆襲。だが、その程度では収まらず、「逆上」(同8)する苦沙弥。鏡を見る(同9)苦沙弥。改名し、「本物」(同8)になった老梅に感服し、その後、不安を覚える苦沙弥。そこへ、泥棒が連れて来られるが、寒月似という話は消滅し、泥棒と刑事が混同されるという、新たな事態が発生する。
 「失恋」というカードが、Nの実体験としての失恋に対応すると断言することはできない。Nが失恋をしたのかどうか、私は知らないが、たとえ、Nが失恋体験を引きずっていたとしても、その失恋が『猫』における「失恋」と同種の何かであるという確証を、どうしたら得られよう。と言うのも、迷亭の「失恋」を、私達は、[興醒め]とはいっても、[失恋]とは呼ばないはずだから。迷亭の「失恋」に出てくる「薬罐頭」(同6)は「細君」の「禿」(同4)を連想せざるを得ないのに、そういう話にはならない。まさか、迷亭が苦沙弥の「細君」に横恋慕したのを、作り替えたというのでもなかろう。もしかして、Nの失恋が迷亭の「失恋」と同種の何かであったとすると、Nは失恋したと思っていても、失恋などしていないのかもしれない。本当に「失恋」したらしいのは老梅だけで、そして、「失恋」の物語が『猫』という作品を通して天下に明らかになったがために、彼は「本物」になったと、作者は思っているのかもしれない。あるいは、作者は、[女に対する男の幻滅]が[男に対する女の拒否]と同種の何かだと思っているのかもしれない。読者は、[期待に反する]という状況と[契約に反する]という状況とが同種の何かであるような人情を想定しなければならないのかもしれない。[裏切られたような気分]と[裏切られた気分]とが同一の何かであるような義務感を想定しなければならないのかもしれない。読者は、「失恋」というカードについて、「誰も口にせぬ者はないが、誰も見た者はない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない」(『猫』6)ような何かとして、想定しなければならないのかもしれない。
  向後もし主人が気狂に就て考える事があるとすれば、もう一返出直し
 て頭から考え始めなければならぬ。そうすると果してこんな径路を取っ
 て、こんな風に「何が何だか分らなくなる」かどうだか保證出来ない。然し
 何返考え直しても、何条の径路をとって進もうとも、遂に「何が何だか分
 らなくなる」だけは慥かである。
                              (『猫』9)
 では、どのような「径路」を取れば、[苦沙弥の物語]は理解できるのか。天道公平事実名立町老梅作の怪文書(同9)は、作者が意図的に社会批判として置いたことは疑えないが、苦沙弥の存在自体が作者による社会批判の道具なのだから、老梅の怪文書は[苦沙弥の物語]の雛形ということになり、堂々巡り。なのに、苦沙弥が怪文書との同一化を拒むのなら、作者は、わざわざ、都合の悪い方向へ物語を導いたことになる。作者は、作家Nと苦沙弥の同一化を拒み始めているのかもしれない。あるいは、自虐の物語として始めた作品が成功したので、自信が生まれ、方針転換を試みているのかもしれない。「吾輩は猫である」(同9)という文は、「吾輩」と苦沙弥の紐帯の結び直しか。
 盗難品を取り返しに行く(同9)という苦沙弥と迷亭の会話。[「行くのはいいが道を知ってるかい」「知るものか」「吉原だよ」「きっと行く」](同9)
 取り返しに行くための「径路」が不快な場所を通過するのでも、頑張って行くと言う。警察への「径路」は、「健康な人」(同9)への思考の「径路」とパラレルであるかのようだが、不純のようでもある。
 盗まれたものを取り返しに行くと「力味で見せた」(同9)くせに、なかなか、起きない(同10)苦沙弥は、「子供の言葉ちがい」(同10)についての一くさりを経て、ようやく起き出す。「八っちゃんに剣突を食わせれば何の苦もなく、主人の横っ面を張った訳になる」(同10)というナンセンスは、最早、私の理解力の限界を越える。まるで、[作者の幼児的心性が悲嘆に暮れるとき、苦沙弥の理性が破綻する]と、作者が主張するかのようだ。
 「探偵」する以外に追跡する方法のないような、奇怪な文が続く。「突然妙な人が御客に来た」(同10)というのは、女性的な何かを導入したい作者の気分の表出だろうが、作者自身も「突然妙な人」と思っているかのようだ。女性論があって、細かい「探偵」はすっ飛ばすが、「珍品」(同10)を抱えて苦沙弥が戻ると、「泥棒の様な親指」(同10)って、どんな指だか、私には分からないが、とにかく、そういう指の持ち主が現れる。苦沙弥が「夢に見る程」(同10)の古井武右衛門の登場。「艷書」(同10)事件の顛末。[名前だけが自分のもので、本心からでも、自書でもない艶書を送った]という奇妙な話を裏返せば、[名前は筆名だが、本心からの自書の艶書を送った]という話になる。その「艶書」とは、『猫』のことか。『猫』は、作者が自分の女性観、人生観を、誰かに知らせるための手紙のような何かなのだろう。苦沙弥の古井への冷たさは、二人が「暗合」による共犯関係にあることの隠蔽か。武右衛門の母親が「継母」(同10)だというのも、奇妙だ。
 寒月が現れ、「冒険に出掛けませんか」(同10)と誘う。作品の外側へ、あるいは、「吾輩」の視線の届かない所へ、主要人物の二人が去る。「元を糺せば金田令嬢のハイカラと生意気から起った事だ」(同10)という文で、一応の締め括りのつもりか。
 [ヴァイオリンの物語]という「径路」もある。「芸術と恋」(同11)という「径路」か。苦沙弥も「ヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりする」(同1)はずなのに、その話は立ち消え。ヴァイオリンを弾くとき、「二人は女で私がその中へまじりました」(同2)と語る寒月に、「浮気な男」(同2)である苦沙弥が羨望を抱くと、「○○子」(同2)が出現し、やがて、名前と両親を持った富子となる。二つの「失恋」話。寒月を挟む「歴然とした女房」(同11)と富子。唐突に引用される「羅甸語」(同11)について、登場人物にせよ、当時の読者にせよ、何人が理解できると作者は思ったか。「弾けば音が出る。出ればすぐ露見する」(同11)という言い回しで、男女のことを仄めかすのか。ヴァイオリンの話を「一句毎に邪魔」(同11)をする男達。ヴァイオリンは鳴らない。聞こえるのは、「ギャーと云う声」(同11)で、そして、なぜか、話が終わる。
 『猫』の文を繋いでいるのは、作品内部の時間や出来事や主題などではなく、作者の気分の表出だと思われる。そして、こうした事態は、無視するわけには行かないが、重視しても、行き着く場所は見えない。
 「主人は早晩胃病で死ぬ」(同11)とは、「吾輩」の死の予兆か。あるいは、Nが自分自身に掛けた呪いか。


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