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#059[世界]19先生とA(09)「いたずらと罰」

//「罰」
  いたずらと罰はつきもんだ。罰があるからいたずらも心持ちよく出来
 る。いたずらだけで罰は御免蒙るなんて下劣な根性がどこの国に流行る
 と思ってるんだ。
                          (N『坊ちゃん』4)
 どこの国でも「流行る」と思う。自首が「流行る」のなら、警察は楽だろう。罰されると分かっていて「いたずら」をする方が「下劣」だと、私は思う。
 私の語彙では、「いたずら」というのは、罰されない程度の逸脱のことだ。勿論、[悪質ないたずら]とか、違法行為を[いたずら]と称する冗談などは、含まない。[「いたずら」は罰される]という概念を作り出せば、犯罪と「いたずら」の区別がなくなる。また、「いたずらと罰」の哲学を作り出した思想家は、おそらく、量刑についても独自の規定を持っていることだろうから、そうなると、裏社会を作り始めたことになる。また、「いたずらと罰」の区別を曖昧にしたとしても、加害者が罪を認めたからと言って、罰が決まるとは限らない。また、罰が決まっても、執行されるとは限らない。ここに述べられているのは、「無鉄砲」(同1)を自認する「おれ」らしい、短絡的な理屈だと言える。だから、[作者は、「おれ」のことを笑い者にしているところだ]と思って、読者は笑って読んでいればいいのだろうか。
 いや,『坊ちゃん』は、笑えない。笑えないどころか、共同謀議による暴行を美化する、恐ろしい話だ。[「赤シャツ」(『坊ちゃん』)らに対する「いたずら」には、辞職という「罰」が適当だ]と、加害者が独自に決めたか。あるいは、[「罰」を覚悟しているが、自首する気はない]ということか。[被害者が「訴えなかった」(同11)のだから、こっちは知らない]ということか。あるいは、[「赤シャツ」らへの暴行は「いたずら」ではなく、「天に代って誅戮を加える夜遊び」(同11)なのだから、「罰」はない]わけか。
 私は、今、Nのファンからの「誅戮」を恐れつつ、こんなことを書いている。
 「おれ」達は、[被害者達には、後ろめたいことがあるので、第三者に被害を訴え出ることはあるまい]と、高を括っているらしいが、被害者が独自の復讐の哲学を持っているとしたら、彼らは草の根を分けてでも加害者達を追跡し、独自の復讐の哲学に基づく「罰」を与えることだろう。そうした可能性を追跡しない作者に、私は驚く。
 「おれ」(同)は「赤シャツ」を観察し、批評し、「罰」を与える。しかし、その物語が終わった瞬間から、「おれ」達と「赤シャツ」達は入れ替わり、同様の物語が繰り返されるはずだ。『坊ちゃんpart*/赤シャツの逆襲』が語られない理由は、作品の内部にはない。「おれ」と「山嵐」(同)の暴行は、作品の内部で、誰にも、「うらなり」(同)や「清」(同)にさえ、承認されてはいない。主役達を庇ったり、匿ったりする人々もいない。
 『坊ちゃん』シリーズは、[赤シャツの逆襲]によって赤シャツが真に敗北し、[生きていた「うらなり」]で振り出しに戻るが、[マドンナの欲望の曖昧な対象]を経由して、[松山沈没]に至り、ようやく、落ちがつく。その間に、[生徒は判ってくれない]とか、[山嵐/危機一髪]とか、[おかしなおかしな狸と野だいこ]とか、[清について「おれ」が知っている二、三の事柄]など、外伝も作られよう。しかし、そのような展開を、日本の大衆は望まない。「おれ」のキャラクタを「山嵐」のそれと取り違え、『暴力教室』(リチャード・ブルックス監督)などと合体させたか、熱血教師物の粗製濫造となる。
 [「親譲りの無鉄砲」(同1)を自認する男は、周到にも、「いたずら」を企てる前から「罰」を覚悟していた]と想像するのは、おかしな話だ。巻頭に、「いたずら」らしい行動が並んでいるが、「おれ」が「罰」を覚悟してやったようには書かれていない。例えば、人参畠を荒らしたとき、「おれ」は、「罰」を覚悟していたか。していないはずだ。そもそも、人参を傷めるのを目的にやったことではない。
 「いたずら」とは、無自覚な表出が自覚的な表現に変わる、その前の段階で試みられる遊戯だ。[人参畠を荒らした]という物語は、「おれ」の語る物語ではない。「おれ」の語る物語は、[藁の上で相撲を取った]というものだ。[井戸を埋めた](同1)のは、農作業を邪魔するためではない。「おれ」は、「いたずら」によって、藁や井戸と自分との関係を作り出した。勿論、そのような目的を自覚しているわけではない。自覚はできない。なぜなら、やる前には、藁や井戸と自分との関係は、まだ、できあがっていないからだ。
 「いたずらと罰」の哲学は、[あなたは悪い子なのだから、「いたずら」程度でも、罰を受けて、当然だと思え]という、誰かさんの台詞を、自分の物語として語り直したものだろう。「罰があるからいたずらも心持ちよく出来る」といった考えは、[自分のやった程度のことは、罰に値しないのではないか]と疑う能力を封殺させられた思想だ。「おれが間違ってたと恐れ入って引きさがる」(同8)タイプの人間の思想だ。あるいは、考えなしに「恐れ入って引きさがる」のも、「無鉄砲」の表れかしら。
 「おれ」は、「いたずら」を否認する生徒に対し、否認それ自体を罪として問うというナンセンス、非道を唱えるが、こうした態度も、「無鉄砲」の一種に入るのだろうか。とは言え、本物の裁判官さえ、ときどき、こういう無意味な発言をするのだから、あまり、強く言うのも気が引ける。冤罪がなくならないのも、当然だ。
 生徒が本当に「いたずら」をしたのだとしても、生徒は、教師の独自の「いたずらと罰」の哲学を信じるどころか、聞いてもいないのだし、聞いた後だったとしても、生徒は教師の奴隷ではないのだから、従う必要はない。あるいは、生徒が「おれ」と同様の「いたずらと罰」の哲学を信奉していたとしても、この時点では、[「いたずら」を否認する]という「いたずら」を楽しんでいるところかもしれない。
//「大変な区別」
 「已を得ないで犯す罪と、遣らんでも済むのにわざと遂行する過失との間に、大変な区別を立てている健三は、性質の宜しくないこの余裕を非常に悪み出した」(『道草』77)という文を参照すると、「赤シャツ」らに対して「天に代って誅戮を加える夜遊び」(『坊ちゃん』11)は、「已を得ないで犯す罪」に分類されるのだろうか。
 「この余裕」とは、「いたずら」(同4)心と言えよう。すると、ここには、[相手は、健三に、「いたずら」をしたから、相手は「罰」(同4)を甘受すべきだ]という文が隠れていることになる。
 健三には、[健三は、相手の不興を買うようなことをした]という自覚があるらしい。そして、[相手は、その報復として、健三に「いたずら」を仕掛けた]と、健三は想像し、そして、その想像を事実として信じているらしい。このとき、かつての健三の行為は、「已を得ないで犯す罪」に分類され、相手の行為は「遣らんでも済むのにわざと遂行する過失」に分類されるらしい。そして、罰されるべきなのは、健三ではなく、相手であるらしい。その前提として、[「罰」が適用されるのは、「罪」か、「過失」かという「区別」にはなく、「已を得ない」ことだったか、「遣らんでも済む」ことだったかといった条件による]という考えがあるらしい。この場合、「罪」がなくても、「罰」があることになる。ただし、[このような「区別」をするのは、健三だけだ]ということを、語り手は示唆しているらしい。この示唆によって、作者は、健三の考えを支持しているのか、批判しているのか、私には読み取れない。
 「已を得ないで犯す罪」というのを、その字面だけを眺めれば、正当防衛とか、緊急避難のようなことかと思う。ところで、そのとき、これらと「区別」されるのは、何らかの「過失」ではなく、「遣らんでも済むのにわざと遂行する」犯罪なのではなかろうか。また、「わざと遂行する過失」という言い回しは、矛盾のようだ。「過失」と「区別」されるのは、故意だろう。故意と「区別」された「遣らんでも済むのにわざと遂行する過失」とは、認識ある過失に相当するようなことだろうか。
 「過失」と「区別」されるのは、「罪」ではない。「過失」でも「罪」になることはある/だから、語り手は、[健三は、相手の行為が「過失」であっても、相手の「性質」などを理由に「悪み出した」]という事実を、ことさら、話題にする必要はない。このときの健三は、変わり者ではない。変わり者ではない人物を、変わり者のように語るとしたら、語り手が変わり者だということになる。作者が、この語り手を変わり者だと思わないとしたら、作者が変わり者なのだろう。
 作者は、[罪に問えるような行為でも、免罪すべき行為がある]という文と、[罪に問えないような行為によってさえ、不快に感じる人はいる]という文を、「区別」しないで記述した結果、混乱したらしい。なぜ、混乱したかというと、健三は、相手の行為を「罪」と「区別」したかったからだ。[相手には、健三を傷つける意図はなかった]と信じたいからだ。しかし、この物語は、事実だろうか。
 健三に寄り添うように語る語り手は、[相手に、ちょっとした心遣いがありさえすれば、健三は苦しまずに済む]という物語を囁いているらしい。しかし、実際には、相手は、何もしていないのかもしれない。つまり、故意でも「過失」でもなく、健三の想像するような事態は、実際には、全く起きていないのかもしれない。逆に、相手は、健三を「悪み出し」ているのかもしれない。相手は、故意に、健三を苦しめているかもしれない。この「区別」を、健三は、回避したくて、奇妙な[「過失」と「余裕」の物語]を捏造したのかもしれない。
 「大変な区別」は、実は、「変な区別」だ。健三は、相手に対する失望や不満を被害の感覚にすり替え、加害者を想定するが、根拠は薄弱だ。そこで、動機などを話題にし、自己正当化を試みる。『坊ちゃん』で、「いたずら」をした生徒が名乗り出ないのは、[被害の感覚は、妄想か]という、作者の疑いの表出だろう。
//「無鉄砲」
 「無鉄砲」(『坊ちゃん』1)とは、表出を専らにすることだ。「おれ」が幼児的な「無鉄砲」の段階から脱することができないまま、表現力に乏しい青年となってしまったのは、「いたずら」を大目に見てもらえないような育てられ方をしたためだと推測される。しかし、「おれ」は、この因果関係を逆転させ、[「無鉄砲」だから、「おれ」は愛されない]という、[他人の語る/「おれ」の物語]を生きているらしい。
  おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口
 癖の様に云っていた。何が駄目なんだか今に分からない。妙なおやじが
 有ったもんだ。
                               (同1)
 「無鉄砲」だから「駄目」だと言われているようだが、違うのかもしれない。「無鉄砲」は「親譲り」なのだから、「おやじ」も「無鉄砲」なのだろうが、そのことを「おやじ」は自覚していないということなのだろうか。あるいは、「おやじ」が「無鉄砲」らしい挿話はないから、「無鉄砲」なのは母親の方なのかも知れない。作者は、「おれ」の「何が駄目なんだか」知っているのだろうか。作者は、「何が駄目なんだ」と、「おれ」が誰かに質問する場面を想像しないのだろう。
 『坊ちゃん』は、[暗い性格の青年が、自分を道化に見せかけ、陰湿な犯罪の記録を笑い話に作り替えることで、罪悪感をごまかそうとする]ための文書のように思える。しかし、作者がそのように暗示している様子はない。Nは、この作品で、何を描きたかったのだろう。何かが描けたと思ったのだろうか。[口から出任せの嘘でもついていなければ生きられないような「おれ」を憐れんでやれ]という話なら、分からなくもないが、そういう話ではなさそうだ。
 「おれ」は、自分の父親を非難しながら、何の根拠も示さずに「親譲り」と主張するところの「無鉄砲」を後生大事に抱え込んでいる。[「おやじ」が語る「おれ」についての「駄目」]という言葉と、[「おれ」が語る「親譲りの無鉄砲」]という言葉とが、裏表から相互乗り入れし、つまり、ごちゃまぜになって、収拾がつかない。「駄目」とか「無鉄砲」といった否定的要素を含む単語を、「真っ直でよい御気性」(同1)に全文置換する試みが、『坊ちゃん』だろう。その過程で、「おれ」の兄は、「赤シャツ」や「野だいこ」に変装し、幼い「おれ」は、分身の術を使い、青年の「おれ」と「山嵐」に変わる。「おれ」の兄が「卑怯な待駒」(同1)をしたように、「赤シャツ」らは「人を胡魔化す」(同10)らしい。一方、「おれ」達は、「卑怯」ではないかのように、待ち伏せをする。
 『坊ちゃん』は、不満分子として、「山嵐」一人がいれば成り立つ話だ。「おれ」は、物語の語り手という仕事だけこなしていれば十分だった。ところが、まるで観客が舞台に駆け上がるかのように、「おれ」は[赤シャツ遭難事件]に絡む。しかも、その乱行は、[マドンナの結婚の物語]のささやかなエピソードに過ぎず、結婚話には影響がない。
//「なんでもない事」
  「偽の子だとか、本当の子だとか区別しなければ好いんです。平たく当り
 前にして下されば好いんです。遠慮なんぞなさらなければ好いんです。な
 んでもない事をむずかしく考えなければ好いんです」
  甲野さんは句を切った。母は下を向いて答えない。或は理解出来ないか
 らかと思う。
                         (N『虞美人草』19)
 私にも、「理解出来ない」
 「偽の子」と「本当の子」を「平たく」扱うことのできる母親がいたら、表彰ものじゃないか。それを、「なんでもない事」にしてしまう甲野とは、何者か。しかも、義母は、「遠慮」なんかするような、殊勝な人間には、見えない。よしんば、「遠慮」したとしても、「遠慮」せずに、何をどうしろというのか。義母に困らされているのは甲野の方で、困っている方から「遠慮」するなと言うのは、どういう話なのか。頼むんなら、頼み方というものがありそうなものだ。
 このことは、善悪や尊卑などとは別の事柄で、[絶対に相手の方が悪い]と思っていても、頼むという態度をとる場合がある。頼み方が横柄でも、頼むときの文体がある。[おい、頼んだぞ]とか。
 まさか、[「遠慮」せずに、愛してくれ]と言うんじゃ、あるまいな。でも、[「むずかし」いことだろうが、愛してくれ]と言うべきだよな。どうやら、この男は病気らしいから、その病気が言わせる台詞なのだろうか。でも、周囲で聞いている人達が突っ込む気配はない。憐れんで、言いたいだけ、言わせてやっているようにも見えない。
 甲野の発言の前提には、[甲野を「平たく当り前に」扱うことは、「遠慮」さえしなければ、義母にとって、「なんでもない事」だ]という、甲野の思い込みがなければならない。しかし、甲野は、この文を、どのようにして手に入れたのだろう。「なんでもない事」だから、何でもなく手に入るのかもしれない。では、とにかく、どこからか手に入れたとしよう。しかし、「なんでもない事」が、なぜ、義母には「理解出来ない」と記されるのか。
 「むずかしく考えなければ好い」と、甲野は、こともなげに言う。では、[義母は、「むずかしく考え」ている]と、甲野は考えていることになる。さて、ここで、一般論として、[難しくても、考えろ]と要求された場合に比べ、[難しく考えるな]と要求された場合、却って難しくなるという事実を思い出してもらいたい。[難しく考えるな]という条件は、問題を必要以上に難しくする。甲野は、[難しく考える義務]を免除してやって、[難しく考えない自由]を付与したつもりなのかもしれないが、実際には、[難しく考える自由]を制限して、[難しく考えない義務]を課されたことになる。その結果、当然、義母は、「理解出来ない」という態度を示すことになる。
 ところで、義母の理解力について考慮しているのは、誰なのだろう。つまり、「理解出来ないからかと思う」の主語は、誰か。
 「理解出来ないからかと思う」の主語が語り手なら、語り手は、[甲野の要求を実現することは、義母にとって、容易だ。しかし、義母の理解力に不足がある]と語っていることになる。すると、「なんでもない事をむずかしく考え」ると甲野が指摘するところの義母の過剰な思考力と、不足しがちな「理解」力との釣り合いが取れなくなる。つまり、作者が正しければ、甲野は間違っていることになりそうだ。
 「理解出来ないからかと思う」の主語が甲野なら、甲野は自己矛盾に陥る。あるいは、彼は、義母を、[思考力だけが肥大し、理解力の著しく欠如した人間]として想定していることになる。すると、読者は、[義母がそのような異常な人間だと知っていて、彼にとっては「当り前」のことであっても、「当り前」のことを人並みに弁えているかどうかも定かでないような、漫画的な義母に何かを要求する甲野の方も、どうかしているのではないか]と疑わねばならない。
 こうした疑いを持って、「理解出来ないからかと思う」という文を見ると、甲野は、[甲野の要求を実現することは、義母にとって、容易だ。しかし、甲野の発言の仕方には、不備があった]と反省していることになる。つまり、甲野は、[自分の言い方は、まずかったのかな。じゃ、補足説明をしようか]と考えたことになる。ところが、今度は、[この後に続く、甲野の発言は、補足説明になっているか]という問題が出てくる。
  甲野さんは再び口を開いた。─
  「あなたは藤尾に家も財産も遣りたかったのでしょう。だから遣ろうと
 私が云うのに、いつまでも私を疑って信用なさらないのが悪いんです。あ
 なたは私が家に居るのを面白く思って御出でなかったでしょう。だから
 私が出ると云うのに、面当の為めだとか、何とか悪く考えるのが不可ない
 です。あなたは小野さんを藤尾の養子にしたかったんでしょう。私が不承
 知を云うだろうと思って、私を京都へ遊びに遣って、その留守中に小野と
 藤尾の関係を一日一日と深くしてしまったのでしょう。そう云う策略が
 不可ないです。私を京都へ遊びにやるんでも私の病気を癒す為に遣った
 んだと、私にも人にも仰しゃるでしょう。そう云う嘘が悪いんです。─
 そう云う所さえ考え直して下されば別に家を出る必要はないのです。何
 時までも御世話をしても好いのです」
                              (同19)
 [甲野は、義母に、「御世話をして」もらっても「好い」]という話ではないはずだから、この台詞は説明になっていない。また、[「偽の子」と「本当の子」を「平たく」扱う]というのが話題なら、財産等を折半するといったような提案でなければ意味がない。そもそも、平等を要求しているのは、義母ではなく、甲野なのだから、義母には、こんな意見を聞かされる必要はない。義母は、[母として、子らを平等に扱う方法が知りたい]と発言してはいないし、思ってもいないはずだ。また、そう思っていると、甲野が思う理由もない。義母が甲野の意見を取り入れたとしても、この時点では、「本当の子」である藤尾が死んでいるのだから、平等そのものを実現する対象がなくなっていて、「そう云う所」の指すような事態は、この先、起きることはない。起きないことについて「考え直して」みる必要はない。
 このとき、甲野だけでなく、登場人物全員に、時間的倒錯が起きているようだ。多分、作者が倒錯を起こしている。普通なら、ここで、甲野は、[偽の子だとか、本当の子だとか区別しなければ好かったんです。平たく当り前にして下されば好かったんです。遠慮なんぞなさらなければ好かったんです。なんでもない事をむずかしく考えなければ好かったんです]と語るべきだ。
 ところが、そんな発言は、いわば、愚痴に過ぎないし、「御世話をしても好い」という話に繋がらない。もし、義母に差別を止める気がなければ、「財産も家も」甲野には来ないから、彼が義母を「御世話」することは困難だし、また、義母にも、その必要はない。また、義母が差別を止めたところで、[是非、お世話させてください]ではなく、「御世話をしても好い」といった程度の申し入れを、安心して受け入れることはできまい。だからこそ、義母は画策せざるを得ないはずだ。義母としては、甲野の態度に対する不安材料が「何時までも」残る。このことを、甲野も、そして、作者も、因果関係を逆転して、考えているらしい。しかし、この話題が、[甲野は、義母に、「御世話をして」もらっても「好い」]という話なら、おかしくはない。
 話としてはおかしくないが、甲野がおかしくなる。[義母が甲野を「病気を癒す為に遣った」]という話は、本当に、「嘘」なのだろうか。『虞美人草』では、[甲野は、「病気」ではない]という「嘘」の物語が語られているのではないか。[義母が「そう云う所さえ考え直して」しまえば、奇跡的な何かが起こる]という作者の夢想と、[高慢な女が罰される物語]とが、合成されているのではないか。
 原文のままでは、登場人物達は、まるで時間がないかのように語り合っている。彼らは、藤尾が生きていたときであれば無意味ではなかったかもしれないような会話を、彼女の死後に交わしている。なぜ、甲野は、藤尾の生前に、命懸けで発言しなかったのか。自分の哲学の正当性が藤尾の死によって証明される必要があったからだ。藤尾の「いたずら」(『坊ちゃん』)には死という「罰」(同)が必要だったからだ。甲野は、あたかも、作者のように振る舞っている。「悲劇はとうから預想していた」(『虞美人草』)と書かれているが、「預想」というより、必要とされていたはずだ。[藤尾の死は、作者にとって、必要な死だ]という観点を、誰も否定する権利はない。だが、甲野が[藤尾の死は、甲野にとって、必要な死だ]と考えていたとすれば、彼の倫理観は、お話にならないほど、低劣だということになる。ところが、読者は、甲野を、そのように考えてはならないはずだ。「預想」という文字遣いに表出されているように、甲野が想像していたことは、作者から預かったものだろう。
 藤尾の葬儀後の場面は、作者の時間に属するらしい。だから、[藤尾の物語]の外にありながら、『虞美人草』の中にあるという不合理が成り立つ。この場面には、あたかも、改心した藤尾が「驕る眼」(同)を伏せて、「天女の如く美くしい」(同)姿で控えているかのようだ。
  エレーンの屍は凡ての屍のうちにて最も美しい。
                           (N『薤露行』5)
 藤尾の遺体を描く作者は、死体玩弄者か。違う。藤尾は生きている。[死とは永遠の生だ]というような、ロマンティックな文脈で生きているのではない。舞台の上で藤尾を演じている役者は、間違いなく生きていて、美しい死体を演じている。そのような意味で生きていると言える。幕が下りると、俳優は起き上がり、役に入ったままの雰囲気で、観客の拍手に応える。
 藤尾の死は、悔悟すれば蘇生できる程度の「罰」だ。義母が改心したのだから、藤尾の復活もあり得る。[甲野は、義母に、「御世話をして」もらっても「好い」]という話が否定されない限り、藤尾は仮死状態にあると言える。
 藤尾とは、藤の花のように美しい、不二の女だ。そして、不死の女でもある。だが、不治の病に冒されている。作者の表出としては、[不死の藤尾の物語]が前提にある。この実在しない物語を[世界]にして、[不治の藤尾/の物語]が出現する。『虞美人草』は、この二つの物語を重ねたものとして、読まれる。
 こうしたシステムは、『坊ちゃん』にも内在する。[「マドンナ」と「おれ」の恋物語]を、大衆は幻想する。作品の中で、「マドンナ」の恋愛の対象として、人格の面から見ると、「うらなり」も、「赤シャツ」も、適当ではない。だから、[「マドンナ」の恋物語]は成り立たない。ところが、[「マドンナ」の恋物語]は大衆によって期待されているので、彼女のお相手として、優しい正義漢の「おれ」が第一候補として、のし上がる。「清」(同)が推薦人だ。
 三四郎と美禰子(『三四郎』)の恋愛も、読者によって、予想されたもののように物語られる。しかし、本当は、何かが起きたとは言えない。
 藤尾の死は、『夢十夜』「第一夜」で起きたような、再生を期すための死だ。しかし、再生の兆候は、『虞美人草』の内部には見当たらない。ただ、甲野の妙な落ち着きが、藤尾の死を、私に確信させない。
 藤尾の死は、すでに迷亭の「出鱈目」(『猫』1)として予告されている。[ある物語にヒロインの死が含まれていない]という主張は、[ヒロインの死を含む物語は、まだ、ない]と読み替えられる。
//「喜劇」
  代助は電流を感じた如く椅子の上で飛び上がった。
  「あっ。解った。三千代さんの死骸だけを僕に見せる積りなんだ。それは
 苛い。それは残酷だ」
                         (N『それから』16)
 三千代の死は描かれない。藤尾の死の場面は、あっけない。藤尾は死んだ「と、日記には書いておこう」(CM「龍拡散トローチ」)というような死だ。
 藤尾の死は、『虞美人草』の中の生活空間に、「悲劇」(『虞美人草』)的状況を齎したというよりは、基本的には『坊ちゃん』的「喜劇」(『虞美人草』)である『虞美人草』を、「悲劇」に見せかけるための擬死であるかのようだ。もし、藤尾が死にかけただけで蘇生し、義母同様に改心してしまったら、『虞美人草』は、完全に喜劇だ、『じゃじゃ馬馴らし』(シェイクスピア)のような。
 [藤尾自身の死による藤尾自身の改心]という不合理な物語を、『虞美人草』は隠している。『虞美人草』における「悲劇」という言葉は、[「喜劇」の拒否]と同義だろう。
 作者は、『虞美人草』を書きながら、この『虞美人草』の[世界]となるべき、[原『虞美人草』]を、空想の中で読んでいる。読者は、現存する、不可解な『虞美人草』ではなく、手前味噌の異本を作成しつつ、読み進む。その異本は、通俗的な[原『虞美人草』]に酷似している。このとき、作者は読者になり、読者は作者になる。読者によって発掘されることになるはずの「喜劇」的な物語を[世界]にして、「悲劇」的な物語を作者が語る。こうした複雑な受発信の形態を、Nは、文学と考えていた。
 『虞美人草』の無理に理を通す方法は、多分、一個しかない。[語り手は、甲野だ]という可能性に賭けることだ。すなわち、[藤尾の物語は、甲野の日記の中で起きた]と見做すことだ。作品が日記を含むのではない。日記が[藤尾の物語]を含む。つまり、『虞美人草』は、甲野の日記帳に書かれている。藤尾は死ななかった。あるいは、藤尾は実在しない。あるいは、甲野は、[藤尾の物語]の中の甲野ではない。甲野という名前でさえないのかもしれない。では、誰なのか。単純に、作家Nと言うわけにもいかない。
 「おれ」(『坊ちゃん』)とは、誰なのか。誰が、誰に、[「おれ」の物語]を語っているのか。誰ならば、あの奇妙な事件の顛末を聞かされて納得できると考えたから、「おれ」は語る気を起こしたのか。語り手の「おれ」が想定している聞き手は、誰か。清か。違う。
 『猫』を書いたのは、「苦沙弥」だ。『三四郎』を書いたのは、「広田」だ。『こころ』の前段を書いたのは、「先生」だ。あるいは、「先生の遺書」を書いたのは、前段に登場する青年だ。では、彼らは、本当は、誰なのか。
 『夢十夜』を書いたのは、本当は、誰なのか。十個の「夢」は、誰が誰に向けて発信した情報なのか。誰ならば、理解可能な文書なのか。
 結局、[Nの作品は、『夢十夜』作者が個体としてのNに送った暗号だ]と考えたくなる。もし、そういうことなら、私にも、Nの言葉が「理解出来ない」(『虞美人草』19)こともない。というのは、結局、[「理解出来ない」理由が理解できる]だけのことで、やはり、「理解出来ない」わけだが、『夢十夜』の分かりにくさは誰にでも分かるはずだから、私は、ここで、一息付ける。


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