『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

文字を大きくする 文字を小さくする
#060[世界]20先生とA(10)「見たり読んだり」

//「見たり読んだり」
  僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中
 にも多少僕には満足である。
                       (『或旧友へ送る手記』)
 「見たり読んだりする間丈は詩人である」(N『草枕』1)というのは、Aの綱領でもあったろう。
  そうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴
 こうとしている小娘は、その懐に蔵していた幾顆の蜜柑を窓から投げて、
 わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
                            (A『蜜柑』)
 この語り手は、想像を「了解」という。彼は、本当に、その場にいたのかと疑いたくなる。彼は、自分の想像を、まるで観客のように楽しんでいる。いや、合法的に、覗き見をしている。ちょうど、「一部始終をじっと見て」(A『蜘蛛の糸』)いた「御釈迦様」(同)のように。
 『草枕』の主人公は、他人と自分の間に一線を画すことを望むのではない。語り手の特権を持ったまま、語られる物語の中で生きようとする。
 私的な集まりでカメラを取り出す人があると、場が白ける。本物のカメラではなくても、心のカメラを構えているように見える人が一人いるだけでも、盛り上がらない。記録を取るという行為は、[いま/ここにいる/私達]に対する、一種の裏切りだ。その意味では、最高に公正な「ジアナリスト」(『西方の人』19)さえ、非難を免れまい。[彼/彼女]は、私達を見下す。[彼/彼女]は、その特権を、どこから得たのだろう。こんな私達の苛立ちの理由を知らなくても、[彼/彼女]は、自分が疎まれているということに、[敏感に]気づく。そして、[繊細な私が、また、苛められた]という物語を紡ぎ始める。
 そんなことを考えているらしいという顔をして、あなたが私を見ている。
//「尊とい文芸上の作物」
 Nは、ちょっと知的な女の訪問(N『硝子戸の中』7)を受ける。女は、知的成功者であり、性的強者でもあるNを、死の影をちらつかせて脅かす。劣勢のNは、鉾を収めると見せかけて、言葉の小柄を投げる。その後、「女がこの言葉をどう解釈したか知らない」(同7)と記しながら、驚くべきことに、「人間らしい好い心持を久し振に経験した。そうしてそれが尊とい文芸上の作物を読んだあとの気分と同じものだという事に気が付いた」(同7)と記す。後日談はない。
 『こころ』の「先生」がKを「投げ出す事の出来ない程尊とい過去」(同97)の物語に閉じ込めて死なせたように、Nは、危険な女を「尊とい文芸上の作物」に閉じ込める。
 Nの旧友O(『硝子戸の中』9~10)は、Nお手製の「長者」(同9)の冠を被せられ、[NとOの友情の物語]に閉じ込められる。実際には、「雪と氷に鎖ざされた」(同10)まま、黙ってNの面子を保ち続けることを強制される。後日談はない。
 弟子志願者に、「社交を離れて勘破し合う」(同11)という提案は、ボクシングを習いに来た人に喧嘩を吹っかけるようなものだ。[おととい、お出で]と言われた方が、まだ、ましだろう。
 Nは、「社交」を「現状維持を目的として、上滑りな円滑を主位に置く」(同11)ことと見做すが、「社交」とは、自分にとって有利な条件で和睦に持ち込むことを「目的」とした戦術的局地戦だ。もし、Nが「社交」において「現状維持を目的」とするのなら、彼にとって、「現状」は都合がいいものだからだ。しかし、「社交」が「上滑り」をすれば、「現状維持」さえ、覚束無い。Nが、「社交」を軽んずるのは、「社交」が安直なものだからではなく、極めて困難なものだからだ。
 さて、ここで、Nは、こう言うべきだった。[「社交」は応用問題だから、後回しにして、まず、基本的な公式から学習しましょう]と。しかし、Nは、基本に帰らず、「現状維持を目的」として、実際に起きている出来事を[反「社交」/の物語]に閉じ込めた。[おととい、お出で]と怒鳴るのはリスクを伴うから、[反「社交」/の物語]を起動させる。こうした手際こそ、まさに、「社交」と呼ぶべきものだ。つまり、「社交を離れて勘破し合う」というNの言葉を聞いて、相手は、[おととい、お出で]という含みを受け取る。「社交」という単語は、例え、否定されても、聞いた人の耳の底に残る。そして、そうした事情を、Nは、ちゃんと知っている。だから、後日談はない。後日談のない理由すら、記されない。
 出来事を物語に閉じ込める方法は、兄達から学んだ。彼らによって、「笑いの種」(同26)にされた人が寄り付かなくなるのは当然なのに、「大方死んだのだろう。生きていれば何か消息のある筈」(同26)と記される。死ねば「消息のある筈」とも言えるのに。「便りの無いのは良い頼り」という。Nは、自分から離れて行った人の無事を祈らず、死を夢見る。そして、その夢を[死の物語]に加工して、事実であるかのように信じたふりをする。
 Nは、人々を閉じ込めることのできる物語を構想し続け、拒まれ、苦しむ。どんな物語でも、閉じ込める側には「尊とい」ように思えても、閉じ込められる方は苦しいということが分からないらしい。
//「偽り」
 Nは、写真に撮られた自分の顔が「どうしても手を入れて笑っているように拵えたものとしか見えなかった」(『硝子戸の中』2)として、次のように記す。
  私は生れてから今日までに、人の前で笑いたくもないのに笑って見せ
 た経験が何度となくある。その偽りが今この写真師のために復讐を受け
 たのかも知れない。
  彼は気味のよくない苦笑を洩らしている私の写真を送ってくれたけれ
 ども、その写真を載せると云った雑誌は遂に届けなかった。
                          (『硝子戸の中』2)
 「復讐を受けた」のは、Nではない「のかも知れない」
 「復讐を受けた」のは、「この写真師」な「のかも知れない」
 ここには、[「笑いたくもないのに笑って見せ」る癖が出てしまって、お恥ずかしい次第だ。「この写真師」は、あたかも、私に反省を促すかのような仕事をしてくれた。不愉快だが、感謝する。そして、こんな癖をなくすよう、今後は努力する]と書いてあるのではない。もし、そうであれば、雑誌を「届けなかった」などという嫌みを記すはずはない。「届けなかった」のか、届かなかっただけか、私達には、判断できないはずだ。
 ここには、[Nの悪癖は、このときは出なかったのに、「この写真師」は、日頃のNの悪癖を知悉しているかのように、嫌みったらしく、悪癖を複製して見せた。日頃から悪いことをしていると、冤罪を着せられることがある。今は悪いことをしていなくても、過去に「経験」があるのだから、そのときの償いだと思って、冤罪を甘受しよう]と書いてあるのだろうか。しかし、その場合には、「復讐」という言葉が嵌まらない。
 Nは、[「この写真師」は、自分がNから受けた損害に対する「復讐」のために、わざとNの写真の顔を醜く変えた]と告発しているのではない。[Nは、撮影時、笑って見せるべきだったのに、笑って見せなかったのだから、「その偽り」の欠如が「復讐を受けた」のも当然だ]と妥協しているのでもない。[そのとき、笑わなかった]ことが話題なのではない。話題は、[ずっと前に、笑った]ことだ。そして、[その報いを、「今」、「受けた」]という。
 「この写真師」を鉄砲玉にして「復讐」をしたのは、誰か。以前、Nが「笑いたくもないのに笑って見せた」「人」の中の誰かか。Nが「笑って見せた」「人」は、Nの笑顔によって、何か、損害でも蒙ったのか。Nは、自分の顔に対するコンプレックスを表出しているところか。あるいは、[Nが「笑って見せた」「人」は、Nの笑いが「偽り」であることを見破り、侮辱を感じ、「復讐」を「写真師」に命じた]とでもいうのか。
 ここで、撮影現場を思い浮かべよう。Nには、「この写真師」の前で、笑いを見せた覚えはないらしい。だが、Nは、「私はその時突然微かな滑稽を感じた」(同2)と回想している。だから、[このとき、Nの顔に、「微かな」笑いが浮かんだ]と想像しても、おかしくはない。その瞬間、シャッターが切られた。しかし、「わざとらしく笑っている顔の多くが私に与えた不快の印象はいまだ消えずにいた」(同2)ので、「滑稽」と「不快」が入り交じった、複雑な表情になっていた。だから、できた写真の顔は、Nにとって、「どうしても手を入れて笑っているように拵えたものとしか見えなかった」というような出来になった。また、それは、Nの知人にとっても見慣れぬ表情なので、彼らは、「作って笑わせたものらしいという鑑定を下した」(同2)わけだ。
 本当は、知人達は、Nに迎合しただけなのかもしれない。また、雑誌は、「届けなかった」のはなく、届いたのだが、[あの「写真」を見ると、また、Nは癇癪を起こす]と思って、家人が密かに処分してしまったのかもしれない。
 実際には、Nは、撮影中に、「この写真師」から「復讐を受けた」のだろう。「この写真師」は、編集者に、[「わざとらしく」ても構わないから、お偉いさんが踏ん反り返っている姿じゃなくて、読者が密かに抱いている、偶像破壊の欲求に迎合できるような、「笑っている顔」を撮って来い]と命じられて、いやいやながら、やって来た。お仕事は、さっさと済ませ、好きな草花かヌードでも撮りに行きたいのだが、Nは、なかなか、笑ってくれない。しかも、Nは、「笑いたくもない」から「笑って見せ」ないのではないらしい。[「人の前で」、安っぽい笑いなど、見せてたまるか]と、堅く決意しているらしい。
 Nは、「先方の注文には取り合わなかった」(同2)と記す。アポイントメントの段階で、[笑わなくてもいい]という「御約束」(同2)をしたからだ。ここでNが折れたら、騙されたことになる。一方、「この写真師」は、厳密に言えば、騙す気で来た。だから、「この写真師」には、多少、後ろめたいところがある。とは言え、[笑ってくれ]と言って、二つ返事で、[笑うよ]と答える人は、珍しい。「御約束では御座いますが、少しどうか」(同2)と小腰を屈めれば、大抵の人は無下に断るものではないと高を括っている。[騙し騙されるのが世間だ]という構えで来た。この微妙な構えについては、ちょっと、説明しづらい。
 このとき、Nは、写真に撮られるためにではなく、「この写真師」のために「笑って見せ」るべきだ。と、「この写真師」は、思っていた。写真に撮られるために[笑わなくてもいい]という「御約束」はしたが、「この写真師」のために[笑う/笑わない]といった話はしていない。被写体としてのNに、[笑う義務]はないが、被写体としてではなく、一人の人間としてのNに、一人の人間としての「この写真師」に向かって[「笑って見せ」ない権利]があるのか、ないのか。
 「この写真師」の堪忍袋は、今にも切れそうだった。「また前と同じ様な鄭寧な調子で」(同2)とか、「同じ言葉を繰り返した」(同2)という記述を見れば、「この写真師」が慇懃無礼な態度を示したことは、想像に難くない。「この写真師」は、こうして、Nに「復讐」していた。Nには、相手の悪意のようなものが感じ取れたはずだ。だから、Nは「前よりも猶笑う気になれなかった」(同2)わけだ。勿論、その「前」から「笑う気になれなかった」のだが、わざと仏頂面でも拵えたか。こうして、Nも「復讐」していた。要するに、両者で「復讐」し合っていた。
 写真というものは、撮る側の思惑が反映するものだ。つまり、[写真は、絵画と同様に、「拵えたもの」だ]と言える。だから、Nは、ややこしい経路を経て、真実に到達したのかもしれない。つまり、その写真が「拵えたもの」であろうとなかろうと、「この写真師」にとって、Nという人物の印象は、その写真に見えるようなものだったのだろう。あるいは、[写真の顔は、実物よりも明らかに醜いものだ]と、「この写真師」が思っていたのなら、Nは、「この写真師」に与えた苦痛の「復讐を受けた」ことになる。
 「この写真師」は、Nの態度を見て、[あ、この人は、駄目だ。言えば、「猶」、悪くなるよ]と思い、ぎりぎり、「二枚」(同2)で撮影を切り上げた。案の定、写真の出来は悪かった。「この写真師」は、Nに、[おまえさんって、こういうやつなんだよ]と教えて差し上げるために、不出来な写真を送り付けた。あるいは、ここで、[不出来な写真]という言葉を、[わざと醜く修整した写真]という言葉に置き換えてみても、[「この写真師」の物語]の大筋に、変化はないはずだ。
 「この写真師」の悪意を善意に置き換えれば、彼の台詞は、こうなる。[ こんな写真でよろしいんですか。よろしいんですね。お気に召さなければ、撮り直し致しましょうか]
 「この写真師」が修整を施したかどうかは、結局、不明だし、ましてや、彼の意図も不明なのだから、このことは措くとして、写真の出来が「この写真師」や「雑誌社」や一般人の目には不出来と映らなかったとしたら、どうか。この場合、Nは、「この写真師」が感じていたかもしれない悪意を想像した後に、「復讐を受けた」という物語を作り、そして、その物語を部分否定するために、「偽り」という言葉を引き寄せたことになる。つまり、「復讐を受けた」という、想像上は妥当な感覚を、ただ、その感覚だけを自覚し、[「この写真師」の悪意の物語]を消去して語るために、[「偽り」の物語]を[世界]にしたことになる。[「復讐」の物語]は、Nと「この写真師」の闘いの物語だった。一方、[「偽り」の物語]は、Nの自伝だ。Nの自伝で、「この写真師」は、ほんの脇役を演じるのに過ぎない。「この写真師」は、Nに対して、悪意はおろか、善意すら持っていない。「この写真師」は、正体不明の何かに操られているだけだ。Nは、「生まれてから今日まで」、その正体不明の誰かと一貫して闘っている。そして、その相手は、「復讐」能力を持っているらしい。こうした物語は、[「この写真師」に対するNの実際の対応は、彼に、悪意も善意も抱かせなかった]という、不自然な物語を可能にするためにある。
 「この写真師」が撮影時に何を考えていたか、他人には分からない。だが、Nは、「この写真師」の悪意を想像していた。なぜなら、N自身が[自分は、相手に悪意を持たれてもおかしくはないような態度で接した]と思っているからだ。しかし、Nは、そのことを自覚したくない。自覚はしなくても、後悔はしているから、想像上の悪意は、どこかに感じられ、その悪意を持つ敵が出現する。
 Nは、個別の人間から受けた苦痛から、一個の敵を空想し、その敵と闘う物語を作り上げる。その目で見ると、「わざとらしく笑っている顔の多く」は、その敵に媚びを売っているように見える。Nは、媚びを売りたくなかった。もし、そのことを自覚していたら、Nは、たとえ、自分が笑わなくても、「人の笑っている顔ばかり沢山載せる」(同2)ような雑誌に「関係」(同2)を持とうとは思わなかったはずだ。ところが、[Nの物語]の中で、「雑誌社」は、Nの仮想の敵の仮装した姿であり、その挑戦を退けることは敗北を意味した。Nは、この挑戦を受け入れる。その闘いは、「電話口」(同2)での、[笑わないぞ]という決意表明から始まる。そして、現場でも、笑わなかった。だから、[Nの物語]では、[Nは勝利した]と語られることになるはずだ。
 ところが、この幻の勝利は、現物の写真によって、打ち砕かれる。その写真の自分は、「笑って見せ」ているように見えた。咄嗟に、Nは、自分の敗北を部分否定する。[この写真は、「拵えたもの」だ]という仮説を思いつく。この仮説に縋り、[撮影現場で「笑って見せた」かもしれない「経験」の物語]を、[「生れてから今日までに、人の前で笑いたくもないのに笑って見せた経験」の物語]の後日談に書き換える。しかし、この後日談は、このままでは着地できない。そこで、[「偽り」と「復讐」の神話]が、[世界]として呼び出される。
 この神話の第1部は、「人の前で笑いたくもないのに笑って見せた」という物語だ。この「経験」は、具体的には、どのようなものだろう。[笑うつもりはなかったのに、つい、笑ってしまった]という、自然な「経験」のことでは、あるまい。「笑って見せ」るつもりで儀礼的に「笑って見せた」「経験」のことだろうか。もし、そうだとすれば、誰にだって、「生まれてから今日まで」どころか、日に「何度となくある」「経験」だろう。
 あるいは、「笑って見せ」ることによって、何らかの利益を得ようとする、さもしい根性を、「偽り」という言葉で表現したつもりなのかもしれない。しかし、その場合だと、必ずしも、「笑いたくもない」状況だとは言えない。利益を目的にしても、利益だけが目的とは限らない。笑うのが趣味の人だっているはずだ。[趣味と実益を兼ねて、笑えば褒められるし、儲かると思って、だから、笑おうと思って、笑いたくて笑って見せて、そして、褒められて、儲かって、ウハウハ、笑いが止まらないよ]といった「経験」もあることだろう。御目出度いかもしれないが、「偽り」とは言えまい。
 神話の第2部は、[「偽りが」-「復讐を受けた」]という構文でできている。この文は、日本語として、おかしい。ここは、[「偽り」の罪によって、「復讐を受けた」]と書くべきだろう。あるいは、[「偽り」が、「復讐」を招き寄せた]とか。どちらにせよ、このとき、「復讐」劇には黒幕がいて、「この写真師」を操っていることになる。Nがこの黒幕を明示しないので、私達は、これを[「復讐]の神]と、勝手に呼ぶことにしよう。一方、「復讐」の客体も、曖昧だ。[「復讐を受けた」のは、N本人だ]とは、書かれていない。「復讐を受けた」のは、「偽り」という言葉になっている。ここでも、私達は、「復讐」の客体を[「偽り」の神]と呼ぶことにしよう。この[「偽り」の神]は、Nの代わりに、「復讐」を受ける役目を帯びて召喚された存在らしい。
 自分の顔写真に対する違和感と、「わざとらしく笑っている顔」から受けた「不快の印象」が衝突し、写真の修整という仮説を元に被害感情を作り出し、「人の前で笑いたくもないのに笑って見せた経験」という[世界]を導入すると、[「復讐」の神]と[「偽り」の神]の闘争が始まる。このとき、事件の当事者であるNは、安全圏に入り、自作の神話を他人事のように眺める「詩人」(『草枕』)に成り上がる。
 Nは、なぜ、「この写真師」とその関係者を告発しないのか。告発した結果、[修整は行われていない]ことになると、困るからだ。「わざとらしく笑っている顔の多く」に対して抱いた「不快の印象」を自分自身に向けなければならなくなるのは、困る。だから、その可能性のありそうな方向には、一歩も進みたくない。Nは、[私は、この写真で、「わざとらしく笑っている」のではない]と思い込みたかった。駄目押しとして、この思い込みが他人に共有されることを望んだ。さらには、この出来事を文字にして、公表した。しかし、そうまでしても、「わざとらしく笑っている顔の多く」に対して抱いた「不快の印象」が自分自身に向かうのを止められない。
 「わざとらしく笑っている顔」が他人のものでも「不快の印象」を与えるのは、Nにも、そんな顔をした「経験」があり、そして、その前後で、「不快」だったからだ。しかし、Nは、「不快」に至った「経験」を思い出さなかった。「不快の印象」として蘇るだけで、その前後の物語は出て来なかった。写真を見て、Nは、「笑いたくもないのに笑って見せた経験」について、思い出した。しかし、「何度もある」というのに、その前後の物語を、一つも記さない。
 この「経験」は、[「笑いたくもないのに笑って見せ」なければならなかった「経験」]ではない。Nが記すのは、[「偽り」の罪を犯した「経験」の物語]だ。この物語では、「生まれてから今日まで」、Nは、不当に利益を得て来たはずだ。しかし、[「偽り」の罪を強いられた「経験」の物語]では、Nは、「偽り」の前後で、不当に損害を受けたはずだ。ところが、Nは、あたかも、自分が「偽り」によって苦しむかのように語る。「偽り」さえなければ、「復讐」されないかのように記す。この作業にかまけることで、[[「笑いたくもないのに笑って見せ」なければならなかった「経験」の物語]の起動を回避する。
 Nが語りたくて語って見せているのは、[「偽り」の罪と「復讐」の罰の物語]らしいが、この物語は、日本語として、了解不能だ。なぜ、了解不能の物語が生まれるのか。その理由は、[「偽り」と「復讐」の物語]の[世界]が[罪と罰の物語]ではないからだ。[「復讐」という罰を恐れて「偽り」という罪を犯す物語]だからだ。話が逆転している。そして、この逆転した語りも、また、「偽り」の一つに加えられよう。
 Nは、「偽り」を繰り返さなければならなかった自分の「経験」について、「復讐」を甘受するかのように、卑下して見せる。しかし、この卑下こそ、[「偽り」に至る「経験」の物語]を起動させないために選び取った、危うい虚構だ。この起動しない[「経験」の物語]の中で、Nは苦しんでいる。この物語が起動すれば、Nは、過去の苦しみを思い出さなければならない。Nに苦しみを思い出させないように、[「復讐」の神]が立ち上がり、[「偽り」の神]をねじ伏せる。[「偽り」の神]は、[「偽り」の誕生神話]を語るからだ。こうした心理的な操作そのものが、「生まれてから今日まで」の、いや、明日も続くはずの[「偽り」の「経験」]の実例と言えそうだ。
 起動しない[「経験」の物語]の中で、Nは、「偽り」に頼らなければ「復讐」される運命にある。「生れてから」すぐに、Nは、作り笑いをしなければならないような立場に置かれた。だから、Nは、自分の顔写真を目にして、「不快な印象」を得た。そして、咄嗟に否認した。[写真は、「拵えたもの」だ]という仮説にしがみついた。この仮説は実証される必要はない。この仮説は、[「笑って見せ」なかったら、「復讐を受けた」]という物語を迂回するためにあるからだ。この物語なら、程度の違いこそあれ、私達にとっても、[「経験」の物語]であるはずだ。しかし、Nは、この物語が起動することを恐れる。「笑いたくもないのに笑って見せ」なければならなかった、苦しい場面の再現を恐れたからだ。苦境は再現されなかったが、苦痛は再現された。遠い過去の苦境が再現されなかっただけではない。現在の苦境も自覚されなかった。この苦痛は、「この写真師」との関係で失敗したことが原因だが、Nは、この事実を否認し、遠い過去の苦痛の再現としてのみ、苦痛の存在を承認する。この苦痛の埋められていた場所の近くに、「偽り」が落ちている。いつも、落ちている。Nは、この「偽り」をダミーにし、正体不明の誰かから「復讐を受けた」という物語を捏造した。
 [「私」は、苦痛を感じるべきではない。なぜなら、「復讐」は、「偽り」を苦しめているのであって、「今」の「私」を苦しめているのではないのだから]
 言うまでもなく、この物語は、「偽り」だ。いや、[「偽りが」-「復讐を受けた」]という物語は、「偽り」としてさえ、成立しない。無意味だ。あるいは、[不合理な「偽り」]とでも言おうか。
 ところが、Nは、[不合理な「偽り」は、「偽り」ではない]と思い込む。そして、とりあえず、一息付く。その瞬間、[「復讐」の神]がカメラのシャッターを切れば、「気味のよくない苦笑を洩らしている」Nの顔が写ることだろう。
 写真という字は、[真実を写す]と書く。文字通り、そうだと信じる近代人はいないはずだから、[写真は「拵えたもの」だ。写っているのは、本当の自分ではない]などと言い張る必要はない。言い張るとしたら、言い張る人こそが[「この写真師」は、真実を写した]と感じているからだろう。
 「その写真を載せると云った雑誌は遂に届けなかった」という。[届かなかった]と記されているのではない。[「この写真師」は、雑誌を「届けなかった」]といって、責められているらしい。しかし、「雑誌」を届けるのは、写真師の業務ではなかろう。Nは、[「この写真師」は、Nに顔向けできないようなことをしたから、「雑誌」を届けさせまいとした]と仄めかすのか。だったら、「写真」を送ることさえしなかったはずだ。
 「写真」については、[送る]という言葉が用いられている。だが、「雑誌」については「届ける」という言葉が用いられている。この違いは、何かを仄めかすものか。もしかしたら、この文の形式上の読者は、実は、「この写真師」に限定されていて、彼に、[「雑誌」を持参しろ]と催促しているところか。だとすれば、Nは、「この写真師」が雑誌を持って、Nの家の庭先に立つ姿などを思い描いていることになる。Nは、「この写真師」を恋しがっているのか。もし、そうだとしたら、「この写真師」は、Nに忘れがたい印象を与えるような、特異な人物だったのだろうか。むしろ、逆だろう。Nにとって、「この写真師」は、誰でもない。二人は出会っていないのに等しい。少なくとも、Nの方では、出会いを実感できなかった。Nは、目の前の相手も、物語に閉じ込めるからだ。しかし、閉じ込めたつもりでも閉じ込められない印象は残る。相手の個性とは、直接の関係はない。印象は、閉じ込めなければ、やがては消えるものなのに、閉じ込めようとするから、閉じ込められない印象が、居座る。Nは、現場で、彼と十分に付き合うことができなかった。[Nの物語]では、付き合ってやらなかったのだから、Nの勝ちだ。しかし、その論法で行けば、「この写真師」も勝ったことになる。本当は、二人とも負けている。
 Nは、「この写真師」と再会し、闘わなければならない。具体的には、[写真は「拵えたもの」か。もし、そうであれば]云々といった問題を巡って議論してみなければ、気持ちは収まらない。この議論の行き先は、当事者が自覚しようとすまいと、一つの行動へと向かう。つまり、写真の撮り直しだ。彼らは、撮影という作業を共同で行わなかった。あるいは、悪い共同の仕方をした。だから、心残りになっている。しかし、Nが最初から避けたいと思っていたのは、この共同作業というものであるらしい。
 「私はしばらくその人と彼の従事している雑誌について話をした。それから写真を二枚撮って貰った」(同2)という流れでは、いい仕事などできそうにない。この仕事は、「この写真師」だけの仕事ではなく、Nの仕事でもあるはずだ。だからこそ、「この写真師」は、雑誌の刊行前に、生写真を送って来たのだろう。そして、それを見て、出来が気に入らなければ、それが修整されたものであろうとなかろうと、撮り直しを要求できたはずだ。しかし、Nは、この方向に考えを進めようとはしない。なぜか。[写真は、修整されたものでなければ、被写体としては、受け入れざるを得ない]という前提に捕らわれているからだ。Nは、「この写真師」を、パパラッチ同様に扱いながら、相手の仕事を尊重した気分でいるのかもしれない。
 撮り直しは無理でも、せめて、[無理のようですな]という結論ぐらいは、共有したいものだ。こうした過程をはしょってしまえば、心の中で再会の劇が始まるのを避けられない。
 Nの心の舞台に、「この写真師」が「雑誌」を持って現れる。舞台の自室で、Nは、届かなかった「雑誌」を待ち続けている。二人の間を、「硝子戸」が隔てる。
 [Nの「不快の印象」の物語]は、[「笑って見せた経験」の物語]の異本だった。そこに、[「御約束」の物語]を趣向し、Nは、自分自身に御伽噺を聞かせる。ところが、実物の写真が現れて、御伽噺が機能しなくなる。そこで、[「偽り」と「復讐」の物語]を構想する。しかし、この物語は不合理なので、「不快の印象」は生き残り、それを与え続ける主体として、「この写真師」が復活する。Nは、[「この写真師」は、Nの敗北の証拠の「写真を載せると云った雑誌」を届けることができないのだから、Nの敗北は証明されない。したがって、Nは勝利している]という空想にしがみつく。が、この空想の勝利を維持するために、「雑誌」を届けようとして届けられない「この写真師」が「硝子戸」の外に立ち続けることになる。
//「慈母」
  文学者は慈母の取計いの如く理否の境を脱却して、知らぬ間に吾人の
 心を動かし来る。其方法は表向きならず、公沙汰ならずして其取捌きは裏
 面の消息と内部の生活なり。
                           (N『文学論』4)
 作家と読者の関係が、母子関係に擬せられている。周囲の人々から気まぐれな扱いを受けた子供が自分には理解できない文脈を[隠されたもの]と見做すように、ある種の読者は、文学の「方法は表向きならず、公沙汰ならず」と、神秘化する。
 人間は、読者である前に、まず、語っている。幼児の言葉を聞いて、[うちの子は詩人だ]と触れ回る親には、おめでとうと言ってあげよう。無条件の賛美者を持たない子供は、字を読んで見せる。字が読めたら、赤の他人でも賛美してくれる。語ることを諦めた子供は、他人の物語の行間に、自分が語りたかった物語を探す。
//「人生を震蕩する」
 『歯車』で、小銭をじゃらつかすように列挙される作品群は、それそのものというよりは、Aがそれらの行間に読んだ物語を暗示している。だから、適当な引用や要約を示せない。読者は、それらの作品をAと同じように読むことができなければ、『歯車』を理解できない。Aと同じように、あらゆる作品を「了解」(『蜜柑』)できれば、読者はAという個体の人生を追体験したことになる。たとえば、読者は、『赤光』(『歯車』5)を、単純に[赤い光/危険信号]と読み替えても、満点は貰えない。「死にたまふ母」(『赤光』)の連作を連想しなければならないのかどうか、知らないが、その種の仕掛けがしてあるはずだ。
 Aにとって、斎藤茂吉の文学は、「人生を震蕩するに足る何ものか」(A『僻見』「斎藤茂吉」)だという。読者は、『歯車』における『赤光』という言葉を、Aによって語られていないところの「何ものか」として受け取らねばならない。
    あが母の吾を生ましけむうらわかきかなしき力おもはざらめや
  非才なる僕も時々は僕を生んだ母の力を、─近代の日本の「うらわか
 きかなしき力」を感じてゐる。僕の歌人たる斎藤茂吉に芸術上の導者を発
 見したのは少しも僕自身には偶然ではない。
                        (『僻見』「斎藤茂吉」)
 Aにとって、父は斎藤であり、母は日本近代文学であるかのような記述だ。そして、そうした文芸的家族団欒の有り様を背景に、Aにとっては「偶然ではない」ところの「何ものか」を、読者は想定しなければならない。このことは、勿論、大変な作業だが、とりあえず、それはそれでいいとして、しかし、そのとき、読者に見えるのは、『歯車』なのだろうか。それとも、『歯車』に至るAの「震蕩する」らしい「人生」なのだろうか。あるいは、両者は同じものなのだろうか。
 AやNが自分の読者として想定する読者は、読者としての彼らに似た読者だろう。雑多な作品の行間に、自分の物語を、書くように読み取る読者。
 個体としてのAやNに起きた出来事から、勝手に彼らの伝記を作り上げてはならない。それは、[作家の伝記]でしかない。必要なのは[作家の伝記]ではなく、[読書人の伝記]だ。彼らは、ドン・キホーテのように、本を読み漁った。そして、物語の中に飛び込むようにして、物語を書いた。
//「読書階級」
 [読者から作家への上昇]という神話の成立には、「読書階級」(A『小説の読者─文芸の鑑賞と評価─』)という、それは近代においては「中流下層階級」(A『大導寺信輔の半生』3)と重なるはずの人々の夢想が作用している。中流上層は法律を作り、中流下層はそれを解釈し、流布する。中流下層は、自分の上と下の階層の媒介としてのみ存在している。落語に出てくる大家さんは、店子に字を読んでやる。代書屋が書くといっても、書写。代言人、教師、学者という具合に、「読書階級」内部での流動は起こるが、中流上層との壁は、まず、破れない。中流上層民にとって、作家になることは、ある種のレベル・ダウン。下流では、売文業は正業と見做されない。中流下層民は、下流上層民のアルチザンと中流下層民のアーティストの差を、ひどく気にする。だが、叙勲に際して、そういう差別はない。[猿回しは芸術だ]という考えに抵抗する人は、出自を吐露している。「大殿」(『地獄変』)にとっては、絵も猿も、鑑賞の対象に過ぎない。
 「読書階級」では、文学趣味と人品とに一義的な関係があるかのように信じられている。
  退屈な細君は貸本屋から借りた小説を能く床の上で読んだ。時々枕
 元に置いてある厚紙の汚ならしい表紙が建三の注意を惹く時、彼は細君
 に向って訊いた。
  「こんなものが面白いのかい」
  細君は自分の文学趣味の低い事を嘲けられているような気がした。
  「可いじゃありませんか、貴夫に面白くなくったって、私にさえ面白け
 りゃ」
  色々な方面に於て自分と夫の隔離を意識していた彼女は、すぐこんな
 口が利きたくなった。
                           (N『道草』84)
 「細君は(中略)嘲けられているような気がした」というが、建三は、自分が妻を[嘲るような気がした]のだろうか。実は、健三は、妻に、常に、「嘲けられているような気がした」ので、ちょっくら、反撃を試みたところ、「読書階級」に属さない彼女は痛痒を感じなかった。そんな妻の姿が、夫の目には、生意気に映る。そういう事態だということが、語り手には分からないらしい。
 「隔離を意識していた」のは、建三の方だ。[妻が、夫に対して、知的な劣等感を抱く]という話など、どうでもいい。「細君」には、劣等感はないはずだ。それどころか、読書傾向のことで、なぜ、劣等感を持たなければならないのか、そのことさえ、分かるまい。また、劣等感を持っていたとしても、それは夫によって植え付けられたものと疑うべきだ。
 本当に、「細君」に劣等感があって、「嘲けられ」るのが嫌なら、三文小説を、夫の目に付く惧れのある「枕元に置いて」はいない。その程度の知恵も働かない女だと、建三が思っているのだとすれば、「文学趣味の低い事」などを話題にしているような、悠長な事態ではなかろう。
 夫は、妻を恥じ入らせようとしたのに、恥じ入らないので、夫が、一人で不愉快になっている。本当は、夫は、自分の階級的劣等感を妻に投影し、妻の知的劣等感を発見、あるいは、捏造している。次の段落で、妻の父が問題になるのが、その証拠。
//「拘泥」
  自分ガ拘泥スルト云フノハ他人ガ其注意ヲ集注スルト思フカラデ、ツ
 マリハ他人ガ拘泥スルカラデアル。従ツテ之ヲ解脱スルニハ二ノ方法ガ
 アル。
                        (明治39年、断片35E)
 この文がNの本意だとすれば、以下、彼の説く「解脱法」(同)など、参考にしない方が無難だ。指摘する必要もなかろうが、最初に出てくる「他人」は「自分」が「思フ」ところの空想上の人物であり、次に出てくる「他人」は実在の人物であり、そして、この二者が同一人物だという証明はなされていない。
 しかも、この論理は逆転させることができる。つまり、[自分が拘泥するから、他人も拘泥する]というように。そして、二つの文はリンクし、ぐるぐる、回転し始める。この回転運動こそが実態だ。
 この連環をどこで切ろうが、論者の自由だが、論者は、自分がある意図を持って切ったということを忘れてはならない。さもなければ、[自分は、実態をありのままに考察した]と勘違いし、その結果を応用し、そして、見事に失敗しても、[実態の方が間違っている]と怒り出すことだろう。
 「代助は凡ての道徳の出立点は社会的事実より外にないと信じていた」(『それから』9)というが、彼は、自分の考える「道徳」が「社会」に許容されないと、怒り出す。代助は、自分が相手に「拘泥スル」のは、その相手が自分に「拘泥スルカラデアル」と考えるのだろう。「道徳」に関してはうまく行かないが、三千代に関しては、彼の「思フ」三千代と実在の三千代とが、めでたく重なるらしい。
//「白紙」
 「見たり読んだりする」(『草枕』)のは、「詩人」(同)ではなく、「探偵」だろう。「吾輩」は、詭弁を弄し、「探偵」行為を「美挙」(『猫』3)と断言する。『手紙』(N)の「自分」は、他人の小説を[世界]にし、信書の秘密を侵す。
 探偵は、犯人を追う。犯人が犯した罪は、何か。それは、探偵という行為だ。[犯人/探偵]の因果関係は、逆転する。犯人がいるから、探偵が登場するのではない。探偵は、探偵という犯行を擬人化し、犯人像を形成した。自分の足跡を追って、歩き回るプー(A.A.ミルン『くまのプーさん』)のようだ。[私は犯人だから、私は探偵を恐れる]というのではない。私が探偵であることを否定するから、私は[反=探偵]としての犯人になって、逃げ隠れする。[私は探偵だから、私は犯人を恐れさせる]というのではない。私は、探偵でも、犯人でもない。どちらでもないから、区別できず、混同される。
 泥棒と刑事は、混同(『猫』8)される。
 寒月に似た「泥棒」(『猫』5)は、大事なものを盗まなかった。大事なものは、すでに、寒月が奪っていた。だから、「泥棒」は、もう、それを盗むことはできない。「泥棒」は寒月の変装で、寒月は、自分が何を盗んだのか、知らないので、再び、盗みに入る。作者は、苦沙弥にとって大事なものが何かを知らないので、「泥棒」に何を盗ませたらいいのか、分からない。何を盗めばいいのか、そのことについての情報から、まず、盗まねばならない。
 作者は、自分が描きつつある登場人物の心の秘密を知らない。なぜか。登場人物の心に、作者の探す秘密はないからだ。
 『夢十夜』(N)「第三夜」で作文する。
 [見てはならないことを見てしまったと思った幼児は盲人になり、見たことを語ってはならないと思う幼児は盲人を殺す。殺したことを思い出せば見たことを思い出し、思い出したことは語りたくなるから、殺したことさえ忘れる。何を見たかは、どうでもよくて、見たものをありのままに語りたいという欲求そのものが、禁じられる。あるいは、その禁止すら、思い出せなくなる。何かを禁じられ、そして、禁じられたという体験そのものを忘れ、眠くなると、何かを自分に禁じる遊びを表出する。自分で禁じる遊びだから、まるで何も禁じられてはいないはずだと思い違いをし、あたかも、自分が自由であるかのように、何かを語り始めるのだが、本当に語るべきことを、あるいは、語ってはならないことを思い出せないので、思い出すのも悍ましい体験をしたという物語を作り、そっと怯える遊びをする]
  「こんな光景をよく覚えている癖に、何故自分の有っていたその頃の心
 が思い出せないのだろう」
                           (N『道草』15)
  彼には何等の記憶もなかった。彼の頭はまるで白紙のようなものであっ
 た。
                              (同38)
  「考えるとまるで他の身の上のようだ。自分の事とは思えない」
                              (同44)
  幼き子のらうたきが、片言してそれとも聞えぬ事いひ出でたるは、はか
 なきにつけてもいとほしく、聞き所あるに似たる事も侍るにや。
                (鴨長明『無名抄』「近代の歌の躰の事」)
 「幽玄」の比喩である「片言」を教養で武装し、「幽玄」の名によって解放する美学を想定しよう。そのとき、「我」(A『或阿呆の一生』5)が隠微に回復される。[子供が親になるように、読者は成長し、作家になる]という思い込みは、[作家になれば、自分の思いを語っても愛される]という夢に変換される。
 語るように読み、読むように書く。彼らは、実は、作家ではなく、読者、しかも、過激な読者だ。
//「解釈」
  general caseは人事上殆んど応用きかず。人事はparticular caseノミ。
 其particular caseヲ知るものは本人のみ。
  小説は此特殊な場合を一般的場合に引き直して見せるもの(ある解釈)。
 特殊故に刺戟あり、一般故に首肯せらる。(みんなに訴える事が出来る)
                        (N、大正4年、断片65)
 Nにとって、創作は「解釈」だった。[「奇怪」(N、大正4年、断片68A。以下、同)な原典を、「新シキ道徳ヲ建立スル」ために、「一般ニappealスル」ような異本に「reduceスルコト」が、「小説、ノ尤モ有義ナル役目ノ一ツ」だ]と言い換えられよう。
 ところで、「particular caseヲ知るものは本人のみ」とは、何のことか。[「小説」とは、作家が自分の特殊な事情を「みんなに訴える」ために、一般的な「解釈」を施した文書だ]ということか。
//「一致」
 NとAを繋ぐのは、[語り得ぬ自分/の物語]だ。これは、[語り得ぬ/自分の物語]が区切り間違えられたものだ。彼らは、彼らを外側から語る物語を、安定した形では持たないので、[自分の知らない自分がある]と考えると、恐慌に見舞われる。
 [私が語る私]と[誰かが語る私]は、本質的に一致しない。この不一致は、多くの場合、解消する代わりに、情報交換によって、耐えられる程度に縮小される。耐えられないようなら、共同体からの離脱、ないしは、共同体への反抗などといった手段が講じられる。ところが、AやNには、彼らの属する共同体、例えば、彼らの国家とか、彼らの家族は、彼らの離脱や抵抗などに耐え得るほど強固なものとは見做されなかったらしい。
  文芸が極致に達したときに、これに接するものはもしこれに接し得る
 だけの機縁が熟していれば、還元的感化を受けます。この還元的感化は文
 芸が吾人に与え得る至大至高の感化であります。機縁が熟すという意味
 は、この極致文芸のうちにあらわれたる理想と、自己の理想とが契合する
 場合か、もしくはこれに引つけられたる自己の理想が、新しき点におい
 て、深き点において、もしくは広き点において、啓発を受くる刹那に大悟
 する場合をいうのであります。(中略)
  だから我々の意識の連続が、文芸家の意識の連続とある度まで一致し
 なければ、享楽という事は行われるはずがありません。いわゆる還元的感
 化とはこの一致の極度において始めて起る現象であります。(中略)
  一致というと我の意識と彼の意識があって、この二つのものが合して
 一となるという意味でありますが、それは一致せぬ前にいうべき事で、既
 に一致した以上は一もなく二もない訳でありますからして、この境界に
 入れば既に普通の人間の状態を離れて、物我の上に超越しております。
                      (N『文芸の哲学的基礎』)
 ここに述べられたような考えは、素朴な[読者の文学論]の一例と言えよう。この考えと対立するものとして、「技巧はどうでもよい、人生に触れるのが目的だ」(同)という、素朴な[作者の文学論]が挙げられるらしい。この種の論議を昔話として眺める前に、一度は、こう問うべきなのかもしれない。
 [彼我の「意識」の「一致」という「境界」]という想像上の空間が錯覚ではないことを、Nは、証明できるのだろうか。読者は、読者の「意識」が作者の「意識」と「一致」するように感じたとしても、[「一致」の感じは、好意に基づく誤解ではない]ということを、証明できるのだろうか。私は、できないと思う。
 素朴さを失った[作者の文学論]をすれば、[読者に「一致」の錯覚を与えることなど、付け焼き刃の「技巧」で、お茶の子だ]ということになる。
 [「一致というと我の意識と彼の意識があって、この二つのものが合して一となるという意味でありますが、それは」分裂「せぬ前にいうべき事で」まだ、分裂していない「以上は一もなく二もない訳でありますからして、この境界」を抜けて、やっと、「普通の人間の状態」に到達し、「物我」に到達します。その後、「我の意識と彼の意識があって、この二つのものが合して一となるという意味でありますが、それは一致」していたという回想の再現に過ぎ「ない訳でありますからして、この境界に入れば既に普通の人間の状態を離れて、物我の上に超越して」いるような気がしているだけです]
 Nは、[受信者は、僅かな時間差で、送信者となる]という話題を、素朴な[作者の文学論]に矮小化し、回避する。子供は、他人の言葉を耳にするという体験を経なければ言葉を覚えることはないはずだから、[人は、言葉の受信者として出発する]と言える。しかし、乳児は、言葉を受信する前から、声を送信しつつ生活している。言語的に未熟な送信者である乳児は、言語的に成熟した受信者であるはずの母親の「迷惑」(同)など、考慮しているようには見えない。受信者である母親の方でも、乳児に「感化」されるという言い方が適切かどうかはともかく、幼児と気を合わせて、「享楽」しているようだが、幼児帰りしてしまうわけではない。
 「親は小児に対して(中略)同情はあるけれども駄菓子を落とした小供と共に大声を揚げて泣くような同情は持たぬ」(N『写生文』)という。ここで、送受信の関係は逆転している。落としたのが「駄菓子」ではなく、眼球だった(松岡譲『漱石先生』、未読)としても、「則天去私」の境地にあれば、「親」は泣かないのかもしれないが、そうだとしても、この逆転現象に変わりはない。泣く子を描くのは、送信された情報の、言わば[異本]だ。この場合、最初の情報は、泣く子から出ている。
 「高い烟突から黒烟がむやみにむくむく立ち騰るのを見て一種の感を得ました」(『文芸の哲学的基礎』)というとき、この「感」の送信者は想定できない。にもかかわず、「感」というものが出現するのなら、[「感を得」るために、送信者は、必要不可欠な存在ではない]ことになる。つまり、「一致」云々という問題が、表現論としては、成り立たない。鑑賞論になる。
 鑑賞論において存在するのは、[送信者/受信者]の対立概念ではなく、孤独な鑑賞者だ。鑑賞者は、出現するものが、送信者の「意識」の表現なのか、送信者の「意識」しない表出なのか、送信者のいない現象なのか、そのような区別に、大きな意味を認めない。「物我」というときの「物」が、「意識」を持つ人なのか、「意識」を持たない物なのか、「意識」を持つ人や「意識」を持つと空想された物から発せられた情報なのか、そうした問題は、どうするのだろう。Nは、「普通の人間の状態を離れて、物我の上に超越して」いるらしい。そして、その「極致」には「大悟」しないことには、到達できないらしい。私には、お手上げだ。
 さて、Nは、対人関係において、「相手にぴたりと合って寸分間違のない微妙な特殊な線の上をあぶなげもなく歩いている」(『硝子戸の中』33)状態を夢想する。この夢想が実現するとき、Nは悪人とも「ぴたりと」合うことになるわけだが、そうなっても構わないのだろうか。私達は、「ぴたりと」合うことなど、滅多にないからこそ、「あぶなげもなく歩いている」ことができているのだと思う。他人と「ぴたりと」合い易い人は、何かの病気だろう。
  畢竟するにインスピレーションとは宇宙の精神即ち神なるものよりし
 て、人間の精神即ち内部の生命なるものに対する一種の感応に過ぎざる
 なり。吾人の之を感ずるは、電気の感応を感ずるが如きなり、斯の感応あ
 らずして、曷んぞ純聖なる理想家あらんや。
  この感応は人間の内部の生命を再造する者なり、この感応は人間の内
 部の経験と内部の自覚とを再造する者なり。この感応によりて瞬時の間、
 人間の眼光はセンシュアル・ウォルドを離るゝなり、吾人が肉を離れ、実
 を忘れ、と言ひたるもの之に外ならざるなり、然れども夜遊病患者の如く
 「忘我」を忘れて立出るものにはあらざるなり、何処までも生命の眼を以
 て、超自然のものを観るなり。再造せられたる生命の眼を以て。
  再造せられたる生命の眼を以て観る時に、造化万物何れか極致なきも
 のあらんや。
                     (北村透谷『内部生命論』)
 言うまでもなく、この主張の真偽を知ることは、誰にもできないはずだ。しかし、話としては、理解できる。そして、この文脈に置けば、『文芸の哲学的基礎』で用いられた「極致」「機縁」「理想」「啓発」「大悟」「超越」といった言葉の座り心地は、良くなりそうだ。透谷の場合、送信者は「神」だから、人間は、安心して「感応」できる。だが、Nの場合は、送信者は個人なのだから、うかうか、「一致」してしまうと、「生命」が危ない。送信者は、悪人や自殺志願者かも知れない。
//「水と油」
  賢夫人になればなる程個性は凄い程発達する。発達すればする程夫と
 合わなくなる。合わなければ自然の勢夫と衝突する。だから賢妻と名がつ
 く以上は朝から晩まで夫と衝突している。まことに結構な事だが、賢妻を
 迎えれば迎える程双方共苦しみの程度が増してくる。水と油の様に夫婦
 の間には截然たるしきりがあって、それも落ちついて、しきりが水平線を
 保っていればまだしもだが、水と油が双方から働らきかけるのだから家
 のなかは大地震の様に上がったり下がったりする。ここに於て夫婦雑居
 は御互の損だと云う事が次第に人間に分ってくる。
                             (『猫』11)
 この枕があって、「芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ」(同11)という落ちになる。「夫婦」と「芸術」と、どちらが本題なのだろう。どちらも本題ではなく、対人関係全般における不安が表出されているのだろうか。
 「個性」が「凄い程発達」しなくても、元は他人なんだし、性が異なるのだから、「合わな」いのは、当然というよりは、自然だろう。だから、「合わなくなる」可能性を排除したければ、自分と結婚するんだね。
 ところが、Aは、自分自身の言葉さえ理解できない絶望(『十本の針』6)として、この「しきり」を高くして見せ、やがて、「ぼんやりとした不安」(『或旧友へ送る手記』)という言い回しによって、骨抜きにする。


[前頁へ] [『いろはきいろ』の目次に戻る] [次頁へ]


© 2002 Taro Shimura. All rights reserved.
このページに記載されている内容の無断転載を禁じます。