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#062[世界]22先生とA(12)「思い出した」 //「甘い言葉」 三四郎は、作品の冒頭で、未知の女の据え膳を食い損ねて、軽蔑される。だから、[美禰子の場合も据え膳だ]と思うのだろうか。そして、[据え膳を食い損ねたら、また、軽蔑されるぞ]と心配するからか、美禰子を追い回す。ところが、驚くべきことに、三四郎は、[美禰子自身、自分が据え膳を食わせようとしていることに気づかないらしいから、まず、そのことを、彼女に知らせなければならない]と思っているようだ。しかし、美禰子が気づいていないのなら、三四郎が据え膳を食い損ねたとしても、彼女が彼を軽蔑するはずはない。 二人は五、六歩無言で歩いた。三四郎はどうともして、二人のあいだに かかった薄い幕のようなものを裂き破りたくなった。しかしなんといっ たら破れるか、まるで分別が出なかった。小説などにある甘い言葉は使い たくない。趣味のうえからいっても、社交上若い男女の習慣としても、使 いたくない。三四郎は事実上不可能の事を望んでいる。望んでいるばかり ではない。歩きながら工夫している。 (『三四郎』10) 「小説などにある甘い言葉」を遣うしか「分別」が出ないので、思わず、「甘い言葉」を遣ってしまう青年は、気障に見えるかもしれないが、「甘い言葉は使いたくない」と思って「工夫」する青年は、超~気障だろう。 「小説などにある甘い言葉」を遣うという手段は、「分別」の内には入らないのか。「どうともして」というのだから、この手段も「分別」の一つに数えるべきだろう。あるいは、「分別が出なかった」という自覚の後に、「小説などにある甘い言葉」云々という「分別」が出たか。三四郎は、あるいは、語り手は、なぜ、「甘い言葉」の拒否に四苦八苦するのか。 おおまかに言って、[あることをする]ための理由は必要だが、[あることをしない]ための理由など、その[あること]が義務でもない限り、必要ではない。では、三四郎にとって、「甘い言葉」を遣うのは、義務か。そんなはずはない。 義務と言えば、「小説など」を書く義務のようなものはあって、それを自分に課している作者がいる。「甘い言葉は使いたくない」と思うのは、作者だろう。 「甘い言葉」を遣わない理由がくどくどと記されるのは、「甘い言葉」の代わりの「言葉」を、作者が思いつけないからだろう。三四郎を歩かせていると、三四郎の「言葉」を思いつく前に、美禰子の「言葉」を思いついたので、ラッキーだった。[あることをしない。その他のこともしない]ということを要約すれば、[何もしない]となる。語り手は遠回りをしただけのようだ。 [「二人のあいだにかかった薄い幕のようなもの」を破るためには、「小説などにある甘い言葉」を遣わなければならない]という考えは、異様だ。この考えは、三四郎のものではない。三四郎は、ここで、語り手によって揶揄されている。しかし、揶揄する方が、おかしい。 もしかしたら、この異様な考えは、語り手の信念ではなく、[三四郎の語彙は乏しいので、「甘い言葉」を遣うしかない]といった皮肉の表現なのかもしれない。あるいは、[美禰子には、「甘い言葉」しか、効かない]と、作者が攻略法を、そっと読者に教えているところかもしれない。しかし、どちらの場合でも、あるいは、その両方の場合でも、[三四郎と美禰子の物語]は、「甘い言葉」で綴れば、あっと言う間にハッピー・エンドになるはずなのに、語り手が、わざと、のろのろと語っているだけだと、作者が暗示していることになる。 「甘い言葉」でしか破れないような「薄い幕」とは、どのようなものか。それは、甘くない「言葉」では破れないものらしいが。 作者は、重大な過失を犯している。作者は、[「甘い言葉」で「薄い幕」が破れるほど、二人の感情は盛り上がっていない]という可能性を検討していない。作者は、美禰子の感情を、三四郎に対して隠し、読者に対しても隠しているが、作者自身にも隠しているらしい。 三四郎の想定する「小説」がどのようなものか、私には想像できないが、どんな「小説」でも、「甘い言葉」が漏れるには、それなりの設定があるはずだ。なければ、それは、「小説」というよりは、恋歌だろう。恋歌の前文とでもいうべき恋物語が、『三四郎』にはない。[まだ/ついに]ない。 作者は、安直な恋愛「小説」を差別して見せることで、[『三四郎』は、安直な恋愛「小説」ではない]という暗示を、読者に与える。確かに、[『三四郎』は、安直な恋愛「小説」ではない]という文は、虚偽とは言えない。しかし、正確には、[『三四郎』は、「小説」ではないのかもしれない]というべきだ。 三四郎の頭に浮かぶ恋愛「小説」が差別される過程で、[まだ/ついに]ない、「事実上不可能」の[超=恋愛「小説」]を、読者は読みつつあるかのように誤読する。この誤読は、[三四郎の恋愛体験は、三四郎の錯覚かもしれない]という疑惑と、心理的に相殺される。[三四郎は、恋愛感情の表現を禁じられている]と読むとき、[『三四郎』に、恋愛感情は描かれていない]という事実が見えなくなる。作者は、読者が[「甘い言葉」による「社交」の「小説」]を創作することを期待する。過激な読者は、読書中に、作者の期待する「小説」を創作し終える。この「小説」を、三四郎が否定する。作者が否定するのではない。作者が否定すれば、作者は、安直な「小説」に代わる何かを提出しなければならない義務を負う。しかし、安直ではない「小説」は、[まだ/ついに]ない。作者の創作上の苦しみが、三四郎の「事実上」の苦しみに転写される。妙な切迫感が生まれ、その結果、過激な読者は、[甘くない「言葉」で綴られた「小説」]を読み取った気になる。 //「情話」 「最愛の人!」と本人にむかっても孤独の中ででもさけんだ。自分の階級、 自分の同国人への模範たるべき理想の行動をとかねて思い定めていたこ とのすべてを、今この恋に狂った紳士は棄てた。と今はわが容貌をさえ自 由にはしかねた。低く身を屈してまさに跪かぬばかり、それもまことにぶ ざまな姿でだ。いや、彼をとりまく目に見えぬ大群の側の記録には、発作 的な哀願の中でこの男は「リチシア!」と悲痛なさけびを二度くり返しつ つ、しゃくり上げて泣いたと記されている。 (メレディス『エゴイスト』49、朱牟田夏雄訳) 私達は、どの「記録」を読まされているのか。 その時代助は三千代と差向で、より長く坐っている事の危険に、始めて 気が付いた。自然の情合から流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を 駆って、準縄の埒を踏み超えさせるのは、今二三分の裡にあった。 (『それから』13) 「危険」というのは、「準縄の埒を踏み超え」ることだろう。ところが、その逸脱は、「無意識のうちに」起こるはずだ。すると、代助は、[私は、「今二三分の裡に」「意識」を無くしそうだ]と「気が付いた」]らしい。 「相互の言葉」と記されているが、この前には、三千代の言葉として、「貴方は羨ましいのね」(同13)と、「何だって、まだ奥さんを御貰いなさらないの」(同13)の、2文が記されてるだけだ。代助の「言葉」は、ない。 「貴方は羨ましいのね」という「言葉」によって、[三千代は離婚の意志を仄めかした]と、代助が思ったことになるらしい。また、代助が未婚である理由を問うのは、[代助は、三千代への恋慕を引きずっている]と、三千代が代助に仄めかしたと、代助が思ったことになるのだろう。だから、「代助はこの問にも答える事が出来なかった」(同13)と記されるのだろう。 ところで、既婚者が未婚者の自由を羨むのも、また、未婚である理由を問うのも、ありふれたことだ。だから、こんな会話の裏側に「情合」を仮定するのは、特別な理由でもなければ、おかしい。特別な理由がないのに、代助が三千代の言葉の裏側に「情合」を空想する可能性はあるが、そのとき、彼は道化だ。ところが、語り手は、特別な理由もないのに、「情合」を主張する。不気味だ。 代助は固よりそれより先へ進んでも、猶素知らぬ顔で引返し得る、会話 の方を心得ていた。 (同13) 「それより先に」というときの「それ」は「準縄の埒」であるはずだが、それを「踏み超え」るとき、代助は、「無意識」なのではなかったか。代助は、[私は、「無意識」でも、安全に「会話」できる]と自負しているらしい。 代助が「固より」「心得て」いるところの「会話の方」の程度は、知れているはずで、代助は、何にも「答える事が出来な」いまま、「素知らぬ顔で引返」すつもりだろう。「会話」らしい「会話」など、成立しそうにない。 彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出て来る男女の情話が、あま りに露骨で、あまりに放肆で、かつあまりに直線的に濃厚なのを平生から 怪んでいた。原語で読めばとにかく、日本には訳し得ぬ趣味のものと考え ていた。従って彼は自分と三千代との関係を発展させる為に、舶来の台詞 を用いる意志は毫もなかった。少なくとも二人の間では、尋常の言葉で充 分用が足りたのである。が、其所に、甲の位地から、知らぬ間に乙の位置に 滑り込む危険が潜んでいた。代助は辛うじて、今一歩と云う際どい所で、 踏み留まった。 (同13) 「二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りた」というのが代助の考えだとすると、「危険」の差し迫っている今、なぜ、彼は「西洋の小説」などを思い出し、しかも、それを拒否するといった手間を掛けなければならないのだろう。とっとと「尋常の言葉で充分用が足り」るところを見せて貰いたいものだ。 もし、この考えが代助のものではなく、事実であり、この事実を忘れている代助を、語り手がからかっているところなら、語り手は、これまで「二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りた」と回想していることになるわけだが、「危険」が差し迫っていないときに「尋常の言葉で充分用が足りた」のは当然だろうから、語り手は無駄な話をしていることになる。 このあたりは、普通に考えれば、話の順序が逆になっている。第一に考えるべきことは、代助が[何かを言う/言わない]という問題だ。[何かを言う]と決めたとき、初めて、それを[「尋常の言葉」で言う/言わない]という問題が浮上する。[「尋常の言葉」で言わない]場合、[「西洋の小説」風に言う/言わない]という問題に移ることになる。この順序を逆にしたら、意味がない。第一の問題の答えが、[何も言わない]というものなら、その後の検討は不要だ。 普通なら、「尋常な言葉」から「西洋の小説」に向かって上昇するところを、逆に辿ったので、無意味になった。「天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子」(『西方の人』36)に、がりがりと爪を立てている感じだ。 もしも、このあたりの記述が、「代助はこの問にも答える事が出来なかった」ことについての補足説明のつもりなら、検討の順序が逆でも、意図は理解できる。その場合、「代助はこの問にも答える事が出来なかった」という言葉は、「代助は辛うじて、今一歩と云う際どい所で、踏み留まった」という文に直結するはずだ。要するに、特筆すべきことは、何も起きていない。ところが、「西洋の小説」云々によって、作者は、[非=「西洋の小説」]を装った。 私には不明の「自然の情合」というものを代助が信じているのなら、「彼は自分と三千代との関係を発展させる為に、舶来の台詞を用いる意志」を否定する余裕など、なかったはずだ。「自然の情合」の齎す危険を警戒するので、精一杯だろう。 あるいは、「舶来の台詞を用いる意志」の否定が、代助の作業ではなく、語り手の作業だとすれば、「尋常の言葉」の使用に「危険が潜んでいた」と発見するのも語り手だということになるから、代助は、「危険」を察知せずに、「踏み留まった」ことになる。 代助は、語り手のように思考するのかもしれない。登場人物が自分達の「関係を発展させる」ときの「危険」と、作者が恋愛小説を書き進めるときの「危険」とが背中合わせになっているかのようだ。作者は、[人間は、小説の中の人物のように思考し、行動する]と信じていて、二種の「危険」は類似したものと見做したのか。 さて、[「尋常の言葉」を使えば、「危険」だ]というのなら、[「舶来の台詞」を使えば、安全だ]とでも言いたいのか。「あまりに露骨で、あまりに放肆で、かつあまりに直線的に濃厚なの」に、安全なのか。「危険」な「尋常の言葉」とは、婉曲で、慎重で、曲線的で、淡泊なものらしい。そんな「言葉」があるのだろうか。ないはずだ。したがって、ない「言葉」によって「発展」する物語も、ない。「危険」という「言葉」は、[この先に、どんな物語の「発展」もない]という、作者の予感の表出だろう。作者は、「辛うじて、今一歩と云う際どい所で、踏み留まった」か。 このとき、過激な読者は、[代助と三千代の恋愛の物語]の「西洋の小説」風異本と、「尋常の言葉」風異本とを、超音速で読み飛ばし、しかも、それらに勝るN版異本を読みつつあると誤読するのかもしれない。「舶来の台詞」は、言わば、ミスディレクションとして挿入されている。読者が、この「言葉」に気を取られている間に、「二人の」「関係」は「発展」したか、あるいは、「発展」しそうな根拠を獲得したかのようだ。[何も起こらなかった]ことが、[何かが起こるはずだった]ことの証明になるかのようだ。 どんな「言葉」を遣っても、「二人」の「関係」は「発展」しない。そのことを、作者は隠蔽している。作者は、[困難な/恋愛の物語]を、[困難な恋愛/の物語]に見せかける。 //「玩具の詩歌」 ああ、ヘッダ! ヘッダ・ガーブレル! やっとわかったぞ、あの付き合い の背後にかくれていたものが何だったのか! 君と僕は─! つまりあれ は、君の渇きだったんだ、生命への─ (イプセン『ヘッダ・ガーブレル』原千代海訳) 「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴 方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」 代助の言葉には、普通の愛人の用いる様な甘い文彩を含んでいなかっ た。彼の調子はその言葉と共に簡単で素朴であった。寧ろ厳粛の域に逼っ ていた。但、それだけの事を語る為に、急用として、わざわざ三千代を呼ん だ所が、玩具の詩歌に類していた。けれども、三千代は固より、こう云う意 味での俗を離れた急用を理解し得る女であった。その上世間の小説に出 て来る青春時代の修辞には、多くの興味を持っていなかった。代助の言葉 が、三千代の官能に華やかな何物をも与えなかったのは、事実であった。 三千代がそれに渇いていなかったのも事実であった。代助の言葉は官能 を通り越して、すぐ三千代の心に達した。 (『それから』14) 「少なくとも二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りたのである」(同13)という文は、どうやら、この挿話の予告だったらしい。『それから』では、代助は、「世間の小説」にない「愛人」を演じるために、三千代を「必要」とした。だから、実際に「三千代を呼んだ」りする「必要」はなかった。 「代助の言葉には、普通の愛人の用いる様な甘い文彩を含んでいなかった」のは、代助が「愛人」ではないからだろう。 「代助の言葉」は、「玩具の詩歌に類していた」が、「それだけの事を語る為に、急用として、わざわざ三千代を呼んだ所が」「寧ろ厳粛の域に逼っていた」という。代助は、「世間の小説に出て来る」「普通の愛人」ではなかったらしい。 代助は、「自然の昔に帰る」(同14)という、私には意味不明の目的のために、三千代を巻き込む。なぜ、三千代は、いいように巻き込まれてしまうのか。つまり、「俗を離れた急用を理解し得る女」とされるのか。そのわけは、不明だ。 作者は、『煤烟』(同6)に描かれた男女に対抗意識を燃やし、「官能」や「肉の匂い」(同6)を拒んで見せる。しかし、「代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した」という話は、「代助の言葉」としては読み流せても、情景は浮かばない。どのようにして「言葉は官能を通り越し」たのか。「通り越して」はいないはずだ。作者は、男女の「官能」が機能する以前の人間関係を描こうとしている。「言葉」によって、それも極端に切り詰めた「言葉」によって、いや、できることなら「言葉」以前の通信手段によって、相手の「心に達した」と断言できるような通信法を夢見ている。この夢は、代助と家族との不和を補うものだろう。ところが、そのようには、語られない。作者にとって、その夢は、代助の夢ではないからだ。作者の夢だからだ。だから、作品の内部では、夢ではない。 代助と三千代の結婚が困難なのは、二人の「官能」が盛り上がっていないからだ。三千代が既婚者だというのは、二番目の理由だろう。一番目の理由があれば、二番目の理由など、検討に値しない。三千代が独身だったときから、二人の結婚は、代助の一族にとって、喜ばしいものではなかった。そのことを、代助は元より、三千代も、弁えているはずだ。語り手は、「三千代が平岡に嫁ぐ前、代助と三千代の間柄は、どの位の程度まで進んでいたかは、しばらく措く」(同13)などと記すが、結局、「しばらく」が永遠となってしまう。「進んでいた」などとは、お世辞にも言える「間柄」ではないからだ。語るべき「間柄」など、あるわけがない。代助は、三千代と再会して後に、「愛」(同13)を、「過去」(同13)に発見するのだから。たとえ、[二人は、相手の気持ちどころか、自分の気持ちさえ自覚せずに思い合っていた]としても、それは、『三四郎』と同類の物語で、そんな物語を指して、[「間柄」が「進んでいた」]などとは言えまい。あるいは、もし、本当に、特筆すべき「間柄」があったとしたら、代助は、自分が三千代を諦めた経緯について思い悩む前に、「三千代が平岡に嫁ぐ」決意をした経緯について、とっくりと考えてみるべきだろう。すると、「どうしてあの女は彼所へ嫁に行ったのだろう」(『明暗』2)という疑惑に繋がるはずだ。『三四郎』と『明暗』の間に立って『こころ』を呼び出し、[「先生」が静をKに「周旋」(『それから』16)すれば、静はKと結婚したか]という問題を拵えれば、どうなるか。代助と三千代の「間柄」は、婚約前の「先生」と静の「間柄」程度にも「進んでいた」とは言えない。 『それから』の語り手は、代助と彼の家族、特に父親との不和が、姦通という問題が発生しなければ熾烈なものとはならなかったかのように語ろうとする。しかし、代助を弁護する語り手を無視し、粗筋だけを眺めれば、事実は逆だと推測される。代助は、父親との闘いに三千代を巻き込んだ。代助にとって重要なのは、父親から分離すべき「僕の存在」であり、三千代の「存在」ではない。三千代は、父との分離によって生じる不安を慰撫するための「玩具の詩歌に類し」た「存在」だろう。 //「思い出した」 ミドルトン嬢が娘の考え方をすてたのは、サー・ウィロビー・パタンの おかげであった。この大変化は一体いつはじまったのか? ふり返ってみ ると、恋愛のいわゆるごく初期に近いころ─いや、ほとんどそもそもの はじまりからだったように想像される。そしてそういう想像は、その頃の 自分の気持を今では想像できなくなったことから来ているような気がす る。ほんとうにもうあの頃の気持は、空想の中の幻の形でさえ蘇って来な いまでに死滅してしまった。まったく理性のない女ではないから、彼女は 罪をウィロビーには着せずに、自分がわなにかかったのだと考える。何だ か夢の中で、わが身を生涯幽閉の身にしてしまった気がする。それもおそ ろしいことに、静かな土牢ではない。殺風景な城壁がまわりを取りまいて いて、しかもそれが言葉を発するのだ。熱を示せと迫り、賛美を期待して いるのだ。 (メレディス『エゴイスト』10、朱牟田夏雄訳) 自分と三千代の現在の関係は、この前逢った時、既に発展していたのだ と思い出した。否、その前逢った時既に、と思い出した。代助は二人の過去 を順次に溯ぼってみて、いずれの断面にも、二人の間に燃る愛の炎を見出 さない事はなかった。必竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いで いたのも同じ事だと考え始めた時、彼は耐えがたき重いものを、胸の中に 投げ込まれた。 (『それから』13) ここで、「思い出した」という言葉は、「考え始めた」という言葉と同様に、想像を示すはずだ。ところが、「見出さない事はなかった」という言葉は、発見を示す。語り手は、想像と発見を混同している。「思い出した」という仮説の段階から、「見出さない事はなかった」という発見の段階を経て、「考え始めた」という確信に至り、「胸の中に投げ込まれた」という感情に見舞われるのかもしれない。だが、この感情は、偽物だ。なぜなら、この感情は、想像と発見が混同された結果に過ぎないからだ。 「愛の炎」が具体的に何を指すのか、明らかでない以上、私達は、どんな人との間にも「燃る愛の炎を見出さない事はなかった」と言える。そんなものは、証拠にも何もならない。 私には出所不明、正体不明の「愛」は、「人と人との間に信仰がない源因から起る野蛮程度の現象」(同10)であるところの「現代の日本に特有なる一種の不安」(同10)を回避するためのものであるはずだ。つまり、「野蛮程度の現象」の文脈において、「信仰」の部分に、誰かが「愛」を代入したらしい。 普通に考えれば、[「愛」が不足しているから、「人と人との間に信仰」が失われ、「不安に襲われ」(同10)る]という順番だ。もし、そうであれば、この「不安」は、「現代の日本に特有な」ものではなく、代助に「特有な」ものと考えられる。代助に「特有な」「不安」を、「現代の日本に特有なる一種の不安」と書き換えるために、作者は、『それから』という迷路を拵え、自ら、その中に迷い込んだらしい。 //「化石」 宗助は当時を憶い出すたびに、自然の進行が其所ではたりと留って、自 分も御米も忽ち化石してしまったら、却って苦はなかったろうと思った。 (N『門』14) この思いは作者のものだ。作者の筆は、恋愛を描こうとするたびに、「自然の進行が其所ではたりと留って」しまうのだから。 二人はこの態度を崩さずに、恋愛の彫刻の如く、凝としていた。 (『それから』14) 那美(『草枕』)や美禰子を、絵の中に閉じ込める方法を会得した作者は、男女を彫像に変えて見せる。そうして、[作者にとって困難な/恋愛の物語]を、[主人公にとって困難な恋愛/の物語]に見せかける。 ぼくの考える婦人の理想像がこわれるとしたら、それは君の責任だと いうことを考えてほしい。理想像の回復は君次第なのだ。ぼくは君を愛す る。ぼくが終始愛して来た女性は君だけだとぼくは気づいた。 (メレディス『エゴイスト』40、朱牟田夏雄訳) [寒月と富子の恋愛](『猫』)を、苦沙弥は妄想し、しかも、自覚せず、邪魔しようとする。だが、妄想でしかないのだから、実際には、邪魔はできない。[赤シャツとマドンナの恋愛](『坊ちゃん』)を、「おれ」は邪魔する。その目的は、[「うらなり」とマドンナの恋愛]の成就にあるのではない。「うらなり」の後裔らしい小野(『虞美人草』)と藤尾の恋愛も、邪魔される。この恋愛は劇中劇のようなものだから、本当にあったとも、なかったとも、断言できない。まるで、邪魔されるために設定された恋愛のようだ。[「おれ」とマドンナの恋愛](『坊ちゃん』)など、かけらもないのに、あったかのように空想しかねない、過激な読者の空想を裏打ちするかのように、[三四郎と美禰子の恋愛]が仄めかされる。美禰子が仄めかすようで、実は、そうではない。『それから』では、恋愛は、過去の恋愛として発見される。しかし、それは想像と区別できないはずだ。 Nの作品では、恋愛は、主人公の記憶の中に、「化石」としてあるのみだ。その事実を否定するために、作者は書き続ける。『門』作者は、否定の対象を、妻の前夫として捏造する。妻の前夫に会いたくないのは、宗助ではない。作者だ。『彼岸過迄』(N)では、恋愛は不可解になり、『行人』(N)では、狂気と混同される。『こころ』の恋愛は、ブラック・ボックス。その中を通せば、物語はどのようにも変換可能だ。しかし、そのとき、[恋愛の物語]は、裏話になる。『明暗』では、[(裏話でしかない、仄めかされただけかもしれない)恋愛の物語/を検討する男の物語]だ。空しい。 //「変る所」 『三四郎』は、『それから』や『明暗』と同様に、[再会の物語]だ。三四郎は、美禰子に会うたびに、[再会]であることを確認しようとする。結局、三四郎が[再会]するのは、絵の中の美禰子だ。[再会の物語]の原型は、『夢十夜』「第一夜」だろう。『永日小品』の「心」、『趣味の遺伝』、広田の夢(『三四郎』11)、三沢と「あの女」(『行人』「友達」18)なども、再会。 注目すべきなのは、[初会]の中身があやふやなことだ。[過去の/恋の予感]が[過去の恋/の記憶]として語られるのだろう。[再会の気分]が[初会の記憶]を捏造するのだろう。 「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。何時どう変るか分らない。 そうして其変る所を己は見たのだ」 (『明暗』2) 「変る」前について、作者は、あやふやではなく、記すことができたろうか。[清子は、津田を愛していた]という証拠は、ない。しかも、[津田は、清子を愛していた]という証拠さえ、読者には、[まだ/ついに]与えられない。 さて、この述懐は、[津田は、自分の「変る所」を見た]という意味ではあるまい。「変る所」とは、清子の心変わりを指すはずだ。しかし、津田は、いつ、清子の心変わりを察知したのだろう。あるいは、[清子は、今も心変わりをせずにいる]とは、なぜ、考えてみないのだろう。「変る所を己は見たのだ」という主張は、「のだ」などと、強い口調を用いなければ維持できないほど、根拠の貧弱なものなのではあるまいか。 清子の結婚を指して、「変る所」だと、津田が思ったとしても、津田自身も結婚したのだから、彼自身も変わったことになる。じゃ、お話にならない。ところが、このお話にならないような、不合理な印象こそが、『明暗』の礎石、ぐらぐらする礎石のようなのでもある。 「彼女に会うのは何の為だろう。永く彼女を記憶するため? 会わなくて も今の自分は忘れずにいるではないか。では彼女を忘れるため? 或はそ うかも知れない。けれども会えば忘れられるだろうか。或はそうかも知れ ない。或はそうでないかも知れない。松の色と水の音、それは今全く忘れ ていた山と溪の存在を憶い出させた。全く忘れていない彼女、想像の眼先 にちらちらする彼女、わざわざ東京から後を踉けて来た彼女は、何んな影 響を彼の上に起すのだろう」 (『明暗』172) 津田が自分を「彼」だと勘違いしている場面か。いや、異本の錯簡。あるいは、作家の覚書が混入したか。自問自答する作者の言葉が、津田の白日夢となる。 [作者は、自分の書きつつある物語の中で、ある女の記憶と再会しようとしている。現実の彼女には会えないので、その似姿で満足しようとしているのかもしれない。あるいは、彼女のことを描くことで無心になり、現実の彼女に会えない悲しみを紛らわそうと思うのかもしれない。作者にとっては、差し当たり、どちらでも構わないようなものだが、しかし、作者の代わりに動いている「彼」に、この先、どんな影響が出るか、分からない。作者の思惑を越え、「彼」は暴走し始めるのかもしれない] そうして其の余裕が彼に教えた。 「今のうちならまだ何うでも出来る。(中略)御前の未来はまだ現前しな いのだよ。お前の過去にあった一条の不可思議より、まだ幾倍かの不可思 議を有っているかも知れないのだよ。過去の不可思議を解くために、自分 の思い通りのものを未来に要求して、今の自由を放り出そうとするお前 は、馬鹿かな利巧かな」 (『明暗』173) ここで「余裕」とは、作者の偽名だ。作者は、自分の作り出した主人公に、「お前」と呼びかける。 [物語の続きは、どうにでもなる。だが、津田の「思い通り」に、作者が書いて行った結果、作者は自由を失うのかもしれない] 「思い通りのもの」とは、何か。男雛と女雛を並んで座らせることだ。そのとき、女雛が誰になるのか、作者には予想できない。清子が誰なのか、作者は知らない。作者は、清子の美質である「緩慢」(同183)な動きが、津田の買いかぶりに過ぎないかのように書く「余裕」を示す。だから、津田が延子を買いかぶれば、津田の目には延子も「緩慢」に見え始め、二人の女性は、津田には識別不能になるのかもしれない。 もともと、津田と延子は、性別と年齢を異にしなければ、その独白において、同一人物と見まごうほど、よく似ている。読者が二人を、はっきりとした別人として識別できるのは、二人のそれぞれの物語が、その不和の表現としてではなく、作者の表出として、分裂して語られているからだ。作者は、津田と延子を同じ物語の中で並べたくないらしい。だから、清子と延子も、並べたくはなかろう。もし、並べてしまえば、二人の女性を識別することは、極めて困難な作業となるはずだ。 「奥さんとは誰だい、関の奥さんかい、それとも僕の奥さんかい」 「何方だが解ってるじゃありませんか」 「いや解らない」 (『明暗』182) 津田は、どうやら、二人の女を識別したくないようだ。あるいは、作者が識別できないのかもしれない。 作者は、[清子に会う津田]を描いているが、そのことは、[清子に会う津田/を想像する津田]を描くことと本質的に違うと言えるのだろうか。大して違わないとすれば、津田に清子を会わせることは、津田が作者のように振る舞うのを許し、作者が「今の自由を放り出そうとする」のに等しいはずだ。 「未来はまだ現前しない」とは、贅言だろう。しかし、[津田の「未来」の物語は、作者にとって、「現前しない」]と読めば、作者の不安が想像される。清子の造形については、まだ、作者の自由に属する。だが、津田は、やがて、清子を人質に取り、清子造形の自由を、作者から奪うのかもしれない。もし、そんな恐れを作者が抱くとしたら、作者は[津田に成り代わって清子を独占したい]と願いつつ、しかし、その願いを自覚できないでいるのではないか。 //「○○子さん」 誰とも知れないような清子(『明暗』)など、実在すると言えるのだろうか。津田の前に座る清子は、「あの快活なあの健康な○○子さん」(『猫』2)と同じように、その中身が空っぽなのではないか。そもそも、作者は、清子の中身を欲しているのだろうか。清子の中身を欲する津田を、作者は描くつもりでいたか。 津田の周囲の人々が[津田と清子の恋愛の物語]を知っているかのように振る舞うので、読者はその物語を事実として受け取らなければならないわけだが、逆に、津田自身が信じ切れないようでもあるので、『明暗』全体の輪郭がぼやける。[津田と清子の過去の関係は、津田の現在の妄想に過ぎない。周囲の人々が清子のことで当てつけるように言うのも、津田の妄想の一部だ]と考えれば、簡単に辻褄が合う。勿論、作者は、そのように描いてはいない。だったら、作者こそ、恋愛と恋愛妄想の区別ができないのかもしれない。 Nの作品で恋愛が成就しないのは、[Nの恋愛観は、妄想的なものだ]という事実を隠蔽するためだろう。『こころ』で、静が夫の自殺の経緯を知らされないのも、[「先生」と静の恋愛の物語]が空っぽなのを隠すためだ。『明暗』で、津田が小林を恐れるのは、津田が潔白を証明できないからではない。勿論、潔白は証明されまいが、その理由は、津田にとって、有利な証拠も、不利な証拠も、何にもないからだ。小林が延子に津田の過去の物語を詳細に語れないのも、清子が再会した津田にはっきりした態度を示さないのも、同じ理由からだ。小林の暗躍を恐れているのは、作者だ。 『明暗』作者は、登場人物達を、次々に始末して来た。津田と清子の[再会]を阻む要素は、これから作るのでなければ、もう、ない。そのことは、「予定なんかまるでないのよ」(同188)という、清子の言葉によって、暗示されている。随分、安穏なようだ。ところが、作者にも、また、「予定なんかまるでない」のだとしたら、『明暗』は、ここらで終わりということになる。 「昔のままの女主人公に再び会う事が出来たという満足」(『明暗』185)は、津田だけのものではあるまい。作者のものでもあるはずだ。読者は、[津田の語る/津田の物語]の中の「女主人公」と、[作者の語る/津田の物語]の中の「女主人公」とが同一であるような感覚とか世界観のようなものを構想しなければならないのではないか。 清子とは、誰か。『草枕』末尾の那美だ。打算を捨てて人の身の上を思いやることのできる女性だ。津田が下界の柵を無視して軽便に飛び乗った頃(『明暗』168)から、『草枕』が[世界]として起動し始めている。那美の後裔である三千代は、柵を捨てた結果、病を得て動けなくなる。清子は、湯治に来た三千代か。 //「微笑の意味」 津田は、『草枕』の主人公のように、見る人になる。と同時に、語り手にも成りかねない勢いだ。 彼女の耳朶は薄かった。そうして位置の関係から、肉の裏側に差し込ん だ日光が、其所に寄った彼女の血潮を通過して、始めて津田の眼に映って くるように思われた。 (『明暗』184) ここで、[再会]は成就した。津田が、ではなく、作者が[再会]したかったのは、この「耳」だ。じっと動かず、黙って聞いてくれる人の「耳」さえ出現すれば、後は、もう、林檎や指輪や髪などの物語が、既に語られたもののようにちらつき、痴話の切れ目を埋めて行くので、十分だろう。 ああ、ヘッダ、ヘッダ、─何だって君は、自分をそう安売りしちまった んだ! (イプセン『ヘッダ・ガーブレル』原千代海訳) 自分を裏切ったと思う相手に向けるにしては、寛容に過ぎる津田の視線。 津田は知っている、[裏切りの物語]は、眠れない夜のための、津田専用の御伽噺にすぎないということを。ところが、作者は、その事実を読者に[まだ/ついに]明かさない。 本当は、誰も津田を裏切らなかった。津田は誰かに捨てられたのではない。誰にも拾われなかったのだ。一度も拾われたことのない人間が、そら、そこに、いる。その事実を否認しようとして、津田のふりをした作者が、[捨てられた人間の物語]を書き続ける。そのとき、捨てた者の恥は、捨てられた者の[明示できない/恥の物語]に変換される。この明示できない物語が、Nの言葉の[世界]だろう。勿論、明示されていないのだから、その内容は分からない。 乳児の物語のように、始まってはすぐに終わる、短い物語の羅列。現在の印象から過去の物語が紡ぎ出される手品。進行しつつある会話が地であり、津田の回想が図であるかのように、象眼される。文芸的騙し絵。「ナイフの持ち方、指の運び方、両肘を膝とすれすれにして、長い袂を外へ開いている具合、ことごとくその時の模写」(同187)という。デジャヴュ、あるいは、アイドルをコラージュする目の作用。「其時」や「あの時」(同187)を、いつと作者は設定しているのか。本当は、過去が現在の「模写」だろう。物語は、それが作中の時間では過去であれ未来であれ、作者にとっては「現前」(同173)する。ちょうど、そのように、津田は、[津田と清子の物語]を思い出す。[津田と清子の物語]は始まったばかりなのに、それは、まるで厚い層を成すかのようだ。 あのなつかしい日々の悪口はいわせないぞ、リチシア。ぼくの目には今 もあの頃のことが見えている。ぼくが馬で君の家のそばを通ると、君は窓 べでペンを手に、髪を額にほつれさせていた。ロマンティックではあって も、愚かではなかった。君がぼくのことを考えたのが、なぜ愚かだったの だ? そのうちぼくはだれか美術家に依頼して、ぼくの口述をもとに、あの 頃の君の肖像を描かせようと思う。われわれがはじめてささやきをかわ した時のことを……いや、君が身をふるわせたのも、ぼくはおぼえてい る。君は忘れたが─ぼくはおぼえている。庭園の、教会に行く道で君と 逢ったのをおぼえている。ぼくが外国旅行から帰って、昔どおりのリチシ アが不動不変でぼくを迎えてくれた、あの天国のような朝のこともおぼ えている。いつになったって忘れられやしない! あれはかき消すことの できない光景、ぼくにまつわりついて離れないわが青春の姿だもの。だん だん離れてゆくほど一層思いをはせるといってもよい。 (メレディス『エゴイスト』40、朱牟田夏雄訳) この先、[津田と清子の物語]に、[津田と延子の物語]などが合流する予定はない。そのわけは、[津田は、二股を掛けるべきではない]からではない。[過去の清子の「模写」/の物語]が、[津田と延子の物語]を飛び越えて、[「現前」し始めた「未来」(同173)の清子の物語]に直結したからだ。[過去の物語]は、[現在の物語]の何倍も、駒を進めることができる。やがて、『明暗』の「現前」する時間は[過去の物語]に覆い尽くされ、時間は停止に向かって、より「緩慢」(同183)の度を増すことだろう。作者は、「過去の不可思議を解くために、自分の思い通りのものを未来に要求して、今の自由を放り出」(同173)すことだろう。[津田の物語]は、津田と清子の語らいによって語り直される。いや、すべての物語が、語り直される。その目的は、「変る所」(同2)に先立つ[初会]を見出すことにある。二人は、[初会]を捜して時間を遡り続ける。そして、[初会]はないのだから、二人は、永遠に時間を遡り続けなければならない。こんな終わりのない回帰の旅を、津田は心の底で求めていた。いや、作者が求めていた。 その顔を昵と見守った清子の眼に、判然した答を津田から待ち受ける ような予期の光が射した。彼はその光に対する特殊な記憶を呼び起した。 (『明暗』188) ざっと読んだ印象で、もし、この記述が事実なら、[なぜ、清子は、津田と結婚しなかったのか]という疑問が浮かぶ。しかし、この記述が欺瞞なら、この疑問は、即座に消える。津田は、清子について、勘違いをしているはずだ。かつて、津田が清子に対して持っていた印象は、今の印象と同様のものだったのだろう。かつて、津田は、自分を「昵と見守った」誰かと、幻想の中で出会っていた。その人の眼は、「自分があればこそこの眼も存在する」(同188)という。自他の区別はない。ここに「現前」する出来事は、かつても起きていた。そのときの出来事も、また、「予期」と「記憶」の合成物だった。清子は、津田が「待ち伏せ」(同186)をするような男だと指摘する。この言葉は、作者の表出だろう。津田が自分と清子の間で起きたと思い込んでいる出来事は、実は、今も、津田が「待ち伏せ」している出来事であり、一度も「現前」したことはない。 津田は其微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰っ た。 (『明暗』188) この文によって、作者と津田は合体したのかもしれない。「自分の室」とは、作者の心の中の比喩だろう。作者は、「微笑の意味」を考える。だが、「微笑の意味」など、ありはしない。「私の胸に何もありゃしないわ」(同186)と、清子は語るが、清子が「凡ての知識を彼から仰いだ」(同188)「昔のまま」(同188)の清子であり、しかも、「訳さえ伺えば、何でも当り前になっちまう」(同188)と信じているのなら、津田の「説明」とは、実は、「説明」ではなく、調教ということになる。 津田の「説明」を清子が受け入れたとき、津田と清子は罰されるようなことをしでかしてしまう。だが、誰が、二人を罰するのだろう。彼らの配偶者達か、親族か、小林か、世間か。罰することは誰にでも可能なようだが、誰とは決定できそうにない。本当は、「余りに自然を軽蔑し過ぎた」(『それから』16)などというときの「自然」が罰するのではないか。と言うのは、「説明」は調教であり、調教は「自然」に反するから。 津田が清子を「専有」すればするほど、津田と清子が現実から遊離する度合いは大きくなる。危機は、この遊離の果てに潜んでいる。この危機は、二人のものではない。作者の危機だ。津田は、まるで作者のように、清子像を描いている。そのことに、作者は気づいていない。作者は、[清子を描いているのは、自分だ]という事実を忘れかけている。津田は、人々に警告を受けるが、その警告は、どこかしら、筋違いのようだった。なぜか。警告は、作者が作者自身に与えたものだからだ。今度、「自然」に罰されるのは、作者だ。そのことに、作者は気づくまいとしている。恐れつつ、忘れようとしている。 津田は、求めても得られない「意味を一人で説明し」ては、その「説明」を聞いてもらいに通い、また、「微笑」で迎えられるので、あらたな「微笑の意味」を求めて「説明」を考えるという遊びに夢中になる。求めても得られない「意味」だから、「微笑」にも終わりはない。その裏側で、作者は、[「微笑の意味」が「説明」できたとき、清子は実体化する]という夢に賭ける。作者は、[再会]を夢見る。 従って彼女の眼は動いても静であった。何か訊こうとするうちに、信と 平和の輝きがあった。彼はその輝きを一人で専有する特権を有って生れ て来たような気がした。 (『明暗』188) いま考えてみると、どうもあの、─誰ひとり夢にも思ったことのな い、あの不思議な親しさ、あの友だち付き合いには、─何か美しい─ 何か魅惑的な─それに、何か勇ましいものがあったんじゃないでしょ うかね。 (イプセン『ヘッダ・ガーブレル』原千代海訳) とにかくぼくの頭の中にはいろうと心がけてほしい。ぼくと同じに考 え、同じに感じてほしい。ぼくような男の愛がどんなに烈しいものかが一 たんわかれば、求められるまでもなく誓う気になるだろう。選ばれた者と 凡俗とのちがい、理想の愛と獣のつがいとのちがいだ。 (メレディス『エゴイスト』6、朱牟田夏雄訳) この女、若い女性で生娘で、きびしい教育を受けたこの女性、しかも彼 が教えたわけでもないのに、妻が逃げるなどと知っているとは!─逃 げることで夫に、追跡をあきらめ、所有権を放棄するように強制できると 知っているとは! (同15) ここは、極楽。健三(『道草』)が堕ちた夫婦の地獄を反転させた、孤独な誤読の極楽温泉。Nは、理想郷に到達した。だから、作品は、いや、Nの表出は、ここで終わる。「事実上不可能」(『三四郎』10)の「工夫」(同10)が終わる。 が、とにかく物をいったら、聞いていそうゆえ、今にも帰ッて来たら、今 一度運を試して聴かれたらそのとおり、もし聴かれん時にはその時こそ 断然叔父の家を辞し去ろうと、ついにこう決心して、そしてひとまず二階 へ戻った。 (二葉亭四迷『浮雲』末尾) 近代小説『明暗』に、結末はない。未完という結末さえない。現在、刊行されているテキストの末尾に[未完]という文字が印刷されているとしても、その文字を記したのは、Nではなかろう。『明暗』を未完の作品と断定することは、できない。もともと、Nの長編のすべてに、終わりはないようなものだ。未完か、完結かという議論が、そもそも、お洒落な会話に聞こえる。 Nの作品は、小説というよりは、小説の形式を借りた表出だった。Nは、「ただ自分らしいものが書きたいだけ」(N『彼岸過迄に就て』)だった。だから、いつも截然とした結末に辿り着けず、何かが息絶えるように終わった。『明暗』では、主人公が軽便に乗る頃(同168)から弾んでいた、語り手の息が、切れる。[終わることのない夢]の始まりという終わり。桃源郷での茶屋遊び。『三四郎』で、『行人』で、男女は同宿する。そして、何も起こらない。[何も起こらないのは、何かが起こることを阻むものがあるからだ]という欺瞞の物語の終わり。[再会の始まり]という欺瞞の終わり。作品としての終わりではない。表出としての終わり。少なくとも、もう、終わっても良い頃だ。 //「お話」 「私は始から貴方を棄てる気などは有りはしません。それだから篤りと お話を為たいのです。死んで了へとお言ひでなくても、私はもう疾から自 分ぢや生きてゐるとは思つてゐません」 (尾崎紅葉『続金色夜叉』6) 『金色夜叉』シリーズは、[お宮の死か。貫一の許しか]という別れ道で、中絶する。別れ道のどちらを行くにしても、[お宮の物語]が必要だろう。だが、お宮が貫一にしたがっている「お話」を、作者は構想できなかったらしい。個体としての作家の事情を抜きにすれば、中絶の理由は、[お宮の物語]の起動困難にあると思われる。 『浮雲』の場合も、同様に、[お勢の物語]は起動困難だ。しかし、その困難よりも大きな困難がある。それは、複数の物語間の文体的乖離という現象だ。主人公は、自室からというよりは、独白劇から、出られない。『浮雲』は、[文三の物語]で満杯になってしまった。 『明暗』では、[清子の物語]は、作者によってではなく、津田によって、捏造されようとする。だが、その作業は、『明暗』を白紙の状態から始めるようなものだ。あるいは、Nの全作品を根底から書き換えるような作業かもしれない。 男を棄てたようでいて、「棄てる気などは有りはしません」と主張しそうなヒロイン達の物語は、どこに転がっているのか。どこにでも、転がっている。[初めから、そこそこの好意しかなかった]という話だ。女に語らせれば、『十三夜』(樋口一葉)のヒロインのように、[異様に近代的な男達が勝手に燃え上がり、娘は孝行娘だった]という話でしかない。これじゃ足りなくて、[貧乏って、怖くない?]とか、[文系って、ウザイよね]とか、[男のくせして、根暗なの]といった台詞を付け加えたからといって、物語が重厚になるとも思えない。 [男の物語]と[女の物語]の間に、さしたる矛盾や齟齬があるわけではない。勿論、切れ目は、見つけたければ見つかるが、その場合は、[切れ目を見つけたくて、見つけた]という、作者の自覚が必要になろう。 文三が自らを閉じこめた部屋は、文三を描く文体の象徴のようだ。文三は、語るべき物語を持たないのではない。語りかけるための文体を獲得できない。文三の独白は落下し続ける。そして、その文体を作者が変えられないのなら、物語は滞留するしかない。『浮雲』の中絶は、作者の文体的孤立が原因。 お宮の手紙を読みたがらなかったのは、貫一というよりも、作者だ。作者は、主人公を納得させられそうな[お宮の物語]を構想できない。『金色夜叉』の中絶は、作者の物語的孤立が原因。 津田は、清子に語らせるべき物語を、予想できない。実は、[清子の物語]を予想できないのは、作者だ。ところが、作者は、津田に[清子の物語]を捏造させるという裏技を編み出す。『明暗』の中絶は、作者の物語的逸脱が原因。 『こころ』の静は、[静の物語]を語らない。K変死事件関係者の唯一の生存者である静こそ、「先生の遺書」(『こころ』)に含まれた、数多くの不備を説明できそうなのに。『こころ』作者は、『金色夜叉』作者の危機と同様の物語的孤立に陥る。そして、物語は放棄される。 //「盾の中の世界」 作者が[再会の物語]に住み着くためには、個体としてのNの命は調節されなければならなかった。 これは盾の中の世界である。しかしてウィリアムは盾である。 (N『幻影の盾』) Nは、自分(達)を守るために、「盾」を必要とした。ところが、見渡しても、自分を守れるのは、自分だけのようだった。Nは、[自分は、守られている]という物語の「世界」を作り出し、その「中」に入り込んだ。同時に、その「世界」そのものでもあろうとした。[何かが、あるものの内部に存在すると同時に、あるものそれ自体でもある]ということは、勿論、不合理だ。しかし、こうした不合理によってしか、欲望という不合理なものの姿は描けないのかもしれない。そう思い当たったとき、過激な読者Aは、愕然としたことだろう。 他人の文章の行間に自分の物語を読み取る過激な読者は、自分の文章の行間にさえ、自分の物語を読み取ろうとする。そのために、彼自身の物語を、彼の文章の行間に埋め込む。そして、彼自身を現実から消去する。[私は、ここにではなく、そこにいる]という証明のために。 Nの「冒険は物語に始まって、物語に終った。彼の知ろうとする世の中は最初は遠くに見えた。近頃は眼の前に見える。けれども彼は遂にその中に這入って、何事も演じ得ない門外漢に似ていた。彼の役割は絶えず受話器を耳にして「世間」を聴く一種の探訪に過ぎなかった」(『彼岸過迄』「結末」) 人生の一瞬一瞬を記述することからはじめよう、そしてすべての瞬間 を記述し終えるまでは、死者でいることについて考えることはすまい、と 心に決める。 その瞬間、彼は死を迎える。 (イタロ・カルヴィーノ『パロマー』和田和彦訳) |