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#063[世界]23先生とA(13)「その人の記憶」

//「その人の記憶」
  自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得た此作物を奨む。
                          (N『心』広告文)
  こころなんてきたならしいもの
  あるもんかい。今頃まで。
                        (金子光晴『くらげ』)
  ムーサよ、わたくしにかの男の物語をして下され。
              (ホメロス『オデュッセイア』1、松平千秋訳)
  私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書く
 だけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方
 が私に取って自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、す
 ぐ「先生」と云いたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。余所々々し
 い頭文字などはとても使う気にならない。
                  (N『こころ』1/以下、通し番号のみ)
 冒頭から「その人」という言葉が記される。だから、勿論、「その」が指す言葉は、ない。どの人? 「本名は」? 「打ち明けない」? なぜ? 「世間を憚る遠慮」*って言うか〜、「その方が私に取って自然」*みたいなあ〜。だから、何? 「すぐ」ゥ「先生」って言いたくなるゥ。勝手に言えばァって感じ? 
 中学生程度の日本語の能力の持ち主であれば、この部分の語り手の「私」(以下、P)が、言語的にか、人格的にか、とにかく、信用できそうにないと思うはずだ。私は、そのように信じたいのだが、本当に信じられるのなら、Pについての考察は、全面的に省略することができる。また、Nについて、いや、文学について、言いたいことの全部とは言わないまでも、半分以上が、なくなる。
 冒頭、Pは、彼が「先生と呼んでいた」と主張する人物(以下、S)と「世間を憚る」という行為の関係について、仄めかしつつ、明示しない。自分から言い出したことなのに、しどろもどろ。
 「だから」は、「先生と書く」に係り、「打ち明けない」には係らないのに、「これ」や「その方」は、「打ち明けない」や「遠慮」を飛び越えて、「先生と書く」を受ける。形式的には、[先生と書きたい]ことと[本名を明かしたくない]ことが、[先生とだけ書く]ことの理由だろう。だから、「世間を憚る遠慮」という文句は不必要だ。この文句は、なぜ、挿入されたのか。「本名は打ち明けない」ことの理由が「世間を憚る遠慮」であることを隠蔽するためだろう。
 1.0[Pは、Sを「先生」と呼んでいた]
 この文は、疑えない。ただし、この文の確かな根拠は、ついに明かされない。
 2.1[だから、Pは、Sを「先生」と書く]
 ここで、「だから」という言葉は機能していない。自分の教師を「先生」と呼んでいても、第三者に対して、「ただ先生と書く」ようでは、少々、お恥ずかしい人だ。もしかして、語り手Pに、聞き手は実在しないのか。だとしたら、かなり、危ない人だ。
 2.2[Pは、Sの本名を打ち明けない]
 打ち明けないのは、Pの自由だが、その理由が面白い。
 3.0[その理由は、世間を憚る遠慮というよりも、その方が、Pにとって自然だからだ]
 Sの本名を打ち明けても、「先生」で通すことはできる。例えば、Sの妻である静は、それが本名だとすれば、打ち明けている。そして、「奥さん」と書き続けている。「遠慮」が理由ではなく、「自然」が理由なら、Sについても、同様の処理ができるはずだ。「自然」は、2.1の理由にはなるが、2.2の理由にはならない。
 4.0[Pは、Sのことを思い出すと、「先生」と言いたくなる]
 変な習性だが、[そうだから、そうなんだ。文句、あっか]とねじ込まれれば、[どうぞ、ご勝手に]と応じるしかない。
 5.0[Pは、Sについて、書こうとすると、「先生」と書きたくなる]
 だから、どうぞ、ご自由にって。
 6.0[余所々々しい頭文字などは、使う気にならない]
 Pは、誰と話しているのだろう。Pと話している誰かが、「頭文字など」を使えと示唆したのか。示唆されてもいないことを否定して、何になるのか。何かにはなるような気がするのかもしれない。すでに、「その人」という言葉を遣っているから、最後まで、「その人」で通しても構わないはずだ。ところが、Pは、いや、作者は、どうしても、「先生」と書きたいらしい。しかし、その積極的理由を示せないので、不必要な代案を提出しては、それを否定しようと頑張る。
 「先生」という呼称の持ち味は、日本人の感覚では、無味であるはずだ。だから、私は、「先生」という単語の前で、わざわざ、立ち止まりたくはない。これが、もしも、[大先生]などというのなら、別だ。「先生」という尊称を受け入れるのに、私は吝かでない。ところが、Pが異様な雰囲気を醸し出すので、ためらう。
 こういう経験は、実際にも、ありがちなことだ。ありがたいお話が聞けるということで、集会に連れて行かれ、変な老人を変な呼称で呼ぶように耳打ちされ、呼べば、献金を迫られる。しかも、あなたが金を出すのは、老人の生活を助けるためではなく、あなたの心を救うためなのだ。
 「先生」という呼称は、変ではない。しかし、Pの仄めかす敬意は、どこか、変だ。変でも、どのように変なのか、分かれば、先へ進める。ところが、[変でも、大して変ではないのだから、さっさと先へ進め]と、Pは促すかのようだ。私は、気が進まない。
 書き出しに戻る。書き出しは、次のようなもので、十分だったはずだ。
 [「私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書く」ことにしたい。なぜなら、「その方が私に取って自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云いたくなる。筆を執っても心持は同じ事である」]
 この異文と本文を比較すると、本文には、「本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも」という文句と、「余所々々しい頭文字などはとても使う気にならない」という文句が、小骨のように刺さっていたことが明らかになる。これらの小骨に肉付けを施せば、[「本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮」からだ。しかし、その事実を隠蔽したい。「余所々々しい頭文字など」を使えば、「世間を憚る遠慮」という疑惑が濃厚になるから、使わない]という物語が浮上する。
 この時点で、私達の問題は、[Sは、怪しげな人物か]ということではない。『こころ』が事実に基づく物語なら、SはKを死に追いやったのだから、PがSの本名を隠すのは、「自然」だ。静が存命であれば、なおさら、「遠慮」を隠す必要はない。堂々と「遠慮」すべきだ。私達の疑惑は、「遠慮」なんか、これっぽちもしないかのような素振りを見せながら、実は「遠慮」しているらしいPに向けられる。語り手Pは怪しい。
 Pが「遠慮」を隠す理由は、見当たらない。そのことは、[Sは、「先生」という敬称のためにあるような人物だ]という趣旨の文が見当たらないことと無関係ではあるまい。Pが、Sについて、明確に語れないのは、語り手Pにとって、Sが何者でもないからだ。楽屋の事情では、[Sは、何者でもなかった]のではなく、[Sは、まだ、何者でもない]ということなのかもしれない。つまり、この時点では、作者は、Sのキャラクタを、まだ、固めていなかった。しかし、結末に至っても、[Sは、ついに、何者でもない]というのが、作者の本音だろう。
 [まだ/ついに]という、二つの曖昧な理由から、「その人の記憶を呼び起す」という、奇妙な言葉が並べられる。まるで、記憶喪失になった「その人の記憶」を本人に取り戻させようと、誰かが努力しているかのようだ。しかし、その努力は、作者が「その人」を想像する努力と似ていないとは言えまい。Pにとっての、つまり、虚構としての追想と、作者の実際の想像とが、区別されないまま、語り手Pと作者が未分化の状態で、この言葉が記されているかのようだ。語りの時間は、虚構の過去と現実の未来の接点、不合理な接点として始まるようだ。
 作者の時間では未来に属する物語が、語り手Pの時間では過去に属する。語られるPは、Sの存在をもっともらしく見せかけるために、語り手Pによって、物語へ送り込まれる。語り手Pの実在を、私達は疑わない。疑っても仕方がないからだ。だからといって、語られるPの実在が怪しくないとは言えない。むしろ、物語の中に自分の分身を送り込む語り手は、怪しい。だから、語られるPの実在は怪しい。一方、Sの実在は極めて怪しいので、Sに出会うPの実在も怪しくなる。怪しさと怪しさが出会って、打ち消し合うどころか、ぶんぶん、唸りを上げ始めるのだが、その唸りが心地よいという読者が実在するのかもしれない。
 怪しい語り手Pが、語られるPを送り出す。正体不明のPは、怪しいSに出会う。語られるPに怪しまれたSは、切羽詰まって「遺書」を語り始める。この語り手Sは、語り手Pに輪を掛けて、怪しい。謎は解けるどころか、執拗に梱包され、「何しろ一つの塊り」(90)に変わる。すると、作者は、ポイと物語を放棄する。私にとって、『こころ』とは、そういう文書だ。
 私にとって、最初で、最大で、そして、唯一と言ってもいいような疑問は、[なぜ、Pは、Sを「先生と書く」のか]ということだ。ここで、私は、[私には、Pにとっての「自然」が分からない]と言っていることになる。
 Pの「自然」であり、私の疑問であるのは、「もっと早く死ぬべきだのに何故今まで生きていたのだろう」(102)という、Kの最後の疑問の裏側に潜んでいるように思われる。Kにとっての「自然」は、「死ぬ」ことだったらしい。PとKの「自然」が一致するとすれば、[Kの死]について、[Kは、自分を「先生と書く」ような人物が現れるまで、死なないつもりだった。しかし、そんな人物は現れそうにないから、死ぬことにした]という、二股を掛けたような物語が浮上することになる。この物語が、どこか、遠くで語られていて、『こころ』は、その木霊のようだ。[Sの死]については、[Sは、自分を「先生と書く」ような人物が現れないから、死ななかった。Pが「先生と書く」ので、Sは死ぬ]という、不合理な物語となる。
 Sが「先生」の呼称に相応しい人物であることを示すために、[Sを「先生」と呼んだ人]と[Sを「先生」と呼んだ人がいた/と語る人]とが同一である必要はない。語られるPと匿名の語り手がいれば、十分だ。Sの偉大さを強調するためなら、むしろ、語り手Qなどを別個に設定した方がもっともらしい。しかし、作者は、Sが多数の弟子に取り囲まれている情景を思い浮かべない。その情景がSの偉大さの印象を損なうからではない。Pが、そのような情景を好まないからだろう。
 Sは、作品の始まりに先立って存在するキャラクタではない。Sは、Pの「記憶」という虚構によって呼び出される存在だ。作者にとって、語られるSは、語り手Pの語りによってのみ、出現する。Pは、[Sの物語]を要約できない。作者の事情で、[まだ、できない]のだが、しかし、[ついに、できない]まま、Pは、語り手の地位をSに譲り、沈黙する。
 Pは、[「先生」の物語]を、[まだ/ついに]要約できない。だから、「その人の記憶」を、丸ごと、「呼び起す」ことしか、[まだ/ついに]できない。
//「名前」
 Pの名を問う必要はない。しかし、Sの名は、問われねばならない。そして、問うという行動によって、[人の名を問うこと]の空しさが納得されなければならない。Sには、本当の名前がある。しかし、それを知られてはならない。実印、暗証番号などのように、Sの名は、隠されるべきものだ。実名を知られると、その異能を失う存在であるかのようだ。諱、諡。「先生」という呼称は、アキレス腱のプロテクタとして機能する。その呼称によって、Sの特異性や神秘性などの根拠が隠蔽され、そして、隠蔽されることによって、その特異性や神秘性が高まる。
   『キュクロプスよ、おぬしはわたしの名を知りたいというのだな。では
 名をいおう、おぬしの方も、約束通り土産の品をくれるのだぞ。わたしの
 名は「誰もおらぬ(ウーティス)」という。母も父も、仲間の誰もが、わたしのこと
 を「誰もおらぬ」と呼び慣わしているのだ。』
  こういうと間髪を入れず、キュクロプスめは残忍な心をむき出しにし
 て答えていうには、
   『では「誰もおらぬ」は、お前らの仲間のうちでは最後に食うことにし
 て、他の奴らをその前に食ってやろう。それがお前への贈物というわけだ』
              (ホメロス『オデュッセイア』9、松平千秋訳)
 Pは、Sの「本名」(1)を秘匿することによって、読者に優越し、Sについての「記憶」(1)とその価値を独占し、Sを「受け入れる事の出来ない人」(56)がSの名前を使って「研究的に」(7)動くことを難しくさせる。
 ところで、驚くべきことに、Pの持つ特権性を、Nも帯びていたらしい。
  あの「心」といふ小説のなかにある先生といふ人はもう死んでしまひま
 した、名前はありますがあなたが覚えても役に立たない人です、
                      (N書簡、大正3年4月24日)
 この書簡を記しつつあるNの意識は、どんな空間にあるのだろう。小説の中か、外か、その境目か。境目は、ないのか。
 Sだって、人間なんだから、猫ではないのだから、名前ぐらい、あるに決まっている。というのは、本当か。名前はあるとしても、どこにあるのか。あるか、ないか、分からないような「名前」を覚えると、どこかの誰かにとって、「名前」などが役に立つのだろうか。いや、そういう話ではないらしい。Sという「人」が役に立つらしい。小説の中の、しかも、死んでしまったSが役に立つかもしれない空間とは、小説の中か、外か、その境目か。境目は、ないのか。
//「尊敬」
  「かつてはその人の膝の前に踞ずいたという記憶が、今度はその人の頭
 の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないため
 に、今の尊敬を斥ぞけたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私
 を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己
 れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみ
 を味わわなくてはならないのです」
  私はこういう覚悟を有っている先生に対して、云うべき言葉を知らな
 かった。
                               (14)
 書き写すのさえ恥ずかしくなるような、安物の翻訳ソフトを使ったみたいな、こんな奇怪な日本語に対して、私は「云うべき言葉を知らな」い。
 Pは、Sの発言のどこを指して「覚悟」などと言うのだろう。[「未来の侮辱を」甘受する]というのなら、「覚悟」のようだが、Sは逆のことを言っている。[「未来」に虫歯になるといけないから、「今」は甘い物を食べない]という予防策を、日本語では「覚悟」というのか。
 「尊敬を斥ぞけ」るというのは、どういうことをすれば、そういうことをしたことになるのか、私には見当もつかない。Sが「尊敬を斥ぞけ」たとしても、Pは、勝手に「尊敬」していられるのではあるまいか。「今の尊敬を斥ぞけ」ることが可能だとしたら、「未来の侮辱」を「斥ぞけ」ることも、可能なのではないか。
 Sに「尊敬」を禁じられたはずのPは、当時も、そして、執筆時も、Sを「尊敬」しないで、何をしているつもりなのだろう。あるいは、禁を犯してSを「尊敬」し、Sの予言どおり、Pは、当時も、「筆を執っても心持は同じ事で」(1)、Sを「侮辱」し続けているわけか。
 Sは、「貴方を尊敬した」(56)と、Pについて記しているから、Sは、そろそろ、Pを「侮辱」しかけていたか。「ただ貴方だけに」(56)という限定を外し、唐突に、「貴方にとっても、外の人にとっても」(110)と、Pをその他大勢に混ぜてしまうのは、Pに対する「侮辱」の表れか。
 [「尊敬」した相手を「侮辱」したくなるのが人情だ]と書かれているとしたら、ただ、ただ、驚き、恐れ入るしかない。日本の明治とは、本当に、そういう社会だったのか。Sの妄想か。あるいは、語られるSと語り手Pの、共有する妄想か。
 「尊敬」を[憧憬]と置き換えれば、何やら作文できそうだが、私は、しない。
 あるいは、二人は、「現代を超越」(『行人』「塵労」44)しちゃって、「尊敬」はしても「侮辱」はしないような境地に、いつしか、到達していたか。でも、Sは自殺してしまう。死は勝利かな。では、なぜ、Pを「一所に連れて行く」(109)ことを考えないのか。Sは、自殺という行為によって、Pを「侮辱」したと言えそうなのに、Pは、「侮辱」とは取らないらしい。なぜか。
 もしかして、作者が「現代」をどうこうしようとしていたとして、そして、その方向を示し得たと自負していたとして、さて、その方向というか、「解脱方」(明治39年、断片35E)みたいのものは、「ニイチェ」(『行人』「塵労」44)とは違うし、「日蓮」(84)とも違ってて、「モハメッド」(74、『行人』「塵労」39-40)には可能性あり、みたいな、そういった次第を、読者は察知しなければならないのか。よそんちの本棚、眺めて、ごにょごにょ、言ってる高校生みたいだよ。
  本の名を聞いてぼくは驚いてしまった。(原註 書簡のこの箇所はやむ
 をえず削除する。余人に多少にかかわらず迷惑を及ぼすきっかけを作ら
 ぬためである。もっとも少女や気まぐれな青年の批評を気にかける著者
 はあるまいと思うが)─ロッテのいうことにはすべてちゃんとした見
 識がある。
             (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳)
 書名や抽象名詞を並べて物語を読み取るという作業は、ほとんど、ロールシャッハ・テストだろう。タロー・カードを読むというのは、書くというのと、本質的に違ったものだろうか。[Sは洋風思想の、Kは和風思想の/寓意]などといった解釈は、読むふりか、雨降りの日の暇潰しには、持って来いのクロスワード・パズルかもしれないが、だったら、[Sは古代日本風の、Kは古代中国風の/寓意]とか、[Sは真宗、Kは禅宗]とか、[Sはイギリス、Kはドイツ]とか、[Sは思春期、Kは少年期]とか、嵌まりそうなピースは、いくらでもありそうだ。うまく嵌まれば、結構なお手前でした。
//「世間」
 Pは、自分の家族にさえ、Sの長所を説明できなかった(42、51)が、実は、自分の仮想する聞き手(以下、X)にも説明できない。Sは、Pにとって、「口癖」(3)以上の重みを持つはずの「先生」という呼称に相応しい人物であるらしいのに、「世間を憚る」(1)ような人物としてしか、Pには語れない。あたかも、Pの聞き手Xは「世間」であり、PはXを「憚る」かのようだ。だったら、Pは、「世間を憚る」と書くのではなく、[読者の皆様の疑いを恐れる]と書くべきではないか。なぜ、そうしないのか。語り手Pが、「世間」と聞き手Xの区別を、曖昧にしておきたいからだ。あるいは、作者が、「世間」と『こころ』読者の区別を、曖昧にしておきたいからだ。
 聞き手Xは、時間と空間を、語り手Pと共有する。しかし、[Pの時間と空間は、現実の大正の日本に相当する]という証拠はない。このことは、例えば、『地獄変』(A)において、[語り手と聞き手が存在する時間と空間は、現実の中世の日本に相当する]という証拠がないのと同じだ。『地獄変』の聞き手と語り手は、虚構の中世日本人だ。『こころ』でも、PとXは、虚構の近代日本人だ。
 こんなことは、文学なんだから、ノンフィクションではないのだから、自明だろう。だから、とりあえず、[作品内部の時空は、虚構だ]ということで、済ませることにしよう。では、「世間」は、どうか。「世間」は、作品内部の虚構としては、現実だろうが、作者にとって、「世間」という言葉は、虚構としての現実を指すのだろうか。それとも、現実の社会を指すのか。時間に関して言えば、「明治」(109、110)は、作品内部の現実なのか。それとも、個体としてのNが生きた明治なのか。また、語り手Pにとっては、どうなのか。語り手Pにとって、「世間」や[明治」は、現実なのだろうか。
 Pは、「世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だった」(11)と記す。この言葉が[「世間」を「先生」が「知らないで平気でいるのが残念だった」]の誤記ではないとすれば、[「世間」というのは、「平気」だったりなかったりするような何かだ]と、Pは思っていることになる。こんな「世間」を、私は「知らない」ので、「平気でいる」ことはできない。勿論、この「世間」は、擬人化された社会なのだろう。しかし、比喩とは言え、誰かが何かを「知らないで平気でいる」のは、知らぬが仏、不可避なのだから、Pの「残念」がる感じが、私には掴めない。
 通常、「知らないで平気でいる」という言い回しは、[誰かが何かを中途半端に知っていて、それ以上は「知らないで平気でいる」]という含みで用いられる。しかし、そうだとすると、[「世間」は、中途半端にSを知っている]と、Pは思ったことになる。Sを中途半端に知っている人々は、少数だが、実在する。だが、その人々のことが「世間」と称されているのではあるまい。「先生はまるで世間に名前を知られていない人であった」(11)という文脈で、「世間」という言葉は用いられる。あるいは、[「世間」に知られると、知られた人は「著名」(11)になる]のだろう。
 ところで、Pは、「世間」に、Sの存在を知らせたいのだろうか。知らせたいのに、「本名は打ち明けない」(1)のだろうか。勿論、語り手Pの時間では、Kの自殺という醜聞が加わるので、Pの語り口が複雑になるのは避けられない。しかし、こうしたことを、Pが明言しているわけではない。私の推測に過ぎない。「本名を打ち明けない」ことと、「世間を憚かる遠慮」(1)の関係について、Pがもたつく理由は、明らかではない。
 Sは、「私は世間に向って働らきかける資格のない男だ」(11)と自己紹介する。しかし、Sが「世間に向って働らきかけ」たからといって、「著名」になるとは限らない。Pは、あたかも、「世間」のために、Sに能力の善用を勧めたかのように語る。だが、Sの能力について、確かな情報は発信されていない。能力が不明なのだから、「資格」を問題にするのは、早過ぎる。「資格」がなくても、能力があれば、「世間」は惜しむことだろう。「資格」があっても、能力がなければ、「世間」は疎むことだろう。Pは、「世間」の実情を、正確に把握していないようだ。
 「先生の学問や思想に就ては、先生と密切の関係を有っている私より外に敬意を払うもののあるべき筈がなかった」(11)と記されているが、Pが「敬意を払う」としても、「世間」までが「敬意を払う」とは限らない。そもそも、Pは「敬意を払う」可能性を示唆するだけで、Sの「学問や思想」の実情を示さない。また、P自身が、「私の論文は自分が評価していた程に、教授の眼にはよく見えなかったらしい」(32)というような学生だったのだし、卒業はできても、就職どころか、「何をする考えもない」(33)ような人物なのだから、Pの鑑定眼など、まるで当てにならない。こんな人物から「敬意を払う」と言われても、私なら、お断りする。また、こんな若造の紹介状を持たされて、のこのこ、出掛けて来るような高等遊民とは、面会謝絶。「働きかける資格のない男」という自己紹介文を素直に信じ、速やかに、お引き取りを願う。下手に良い顔を見せて「信用」(31)され、私宛の「遺書」でも遺して、「こっそりこの世から居なくなる」(110)なんて真似をされた日には、大迷惑だ。[「世間」は、「先生を知らない」からこそ、「平気でいる」]とも言える。
 語り手Pの立場で、中途半端にSを知っているらしい人物を探せば、一人だけ、見つかる。Xだ。作者の立場なら、『こころ』読者だ。X、あるいは、『こころ』読者は、まだ、中途半端にしか、Sのことを知らない。その原因は、言うまでもなく、P、あるいは、作者が、中途半端にしか、S像を提出していないからだ。ところが、Pの言い回しでは、[Xは、まだ、「世間」の一員で、そして、そのせいで、Xは、Sに「敬意を払う」ことができない]かのようだ。
 Pによれば、Sは「謙遜過ぎて却って世間を冷評する様」(11)な口の利き方をするそうだが、語り手Pは、Sに「敬意を払う」かに見せかけ、[X、あるいは、『こころ』読者は、まだ、「世間」に属しているらしい]と、「冷評する様」だ。
 Pによれば、Sは、「私のようなものが世の中に出て、口を利いては済まない」(11)と語ったはずだ。ところが、「遺書」(55〜110)では、「外の人」(110)を、受信対象として想定している。「口を利く」ことと「遺書」を示すこととが、決定的に異なる理由など、ないはずだから、Sは、矛盾したことを言っていることになる。矛盾ではないとすれば、[「外の人」は、「世間」とか「世の中」とは無縁の存在だ]と考えなければならない。この考えが正しいとすれば、「遺書」の終わり近くで、[聞き手Xは、「世間」の一員だから、Sに「敬意を払う」ことができない]という事態が、語り手Sにとっては消滅したことになる。つまり、[Sの聞き手であるPと「外の人」は、「世間」の一員ではなく、そのせいで、Sの聞き手であるPと「外の人」は、Sに「敬意を払う」ことができる]ことになるらしい。
 [P、および、「外の人」は、SやPにとっての「世間」に属さないことが望ましい]ということは、別の面からも、推測できる。「私の過去を善悪ともに他の参考に供する積りです。然し妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。(中略)妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中にしまって置いて下さい」(110)」と記されているが、ここで、「他」と「外の人」は等しいはずだし、また、静の死後でなければ、P以外に「遺書」読者(達)は出現せず、しかも、静の死は語られていないから、『こころ』と内容的に等しいはずの[P文書](1〜54)と「遺書」の合本は、「世間」に公表されていないことになる。勿論、「世間」に静が住んでいればの話だが。
 『こころ』が連載されつつあった現実の社会と、『こころ』の中の「世間」とは、地続きではない。この「世間」には、何百年経っても、『こころ』は出現しない。勿論、Nも実在しない。だが、明治天皇や乃木夫妻は、実在する。このことは、私達の側からずれば自明だが、Pの側からは、どうなのだろう。そこが、私には、はっきりとしない。どうも、Pも、Xの場所を、自分の時空とは異なるものと考えているようだ。Pは、創作者の構えを見せている。その典型的な例が、静と[P文書]の関係に見られる曖昧さだ。静が生きていれば、「秘密」(110)にすべき「遺書」の前文である[P文書]を執筆する動機は、Pには生まれないはずだ。勿論、[静の死を待って執筆しつつある]とか、[P文書]は「遺書」とともに非公開で、[Xへの奥義伝授のようなもの]と考えることはできる。しかし、もし、そうなら、そうと、はっきり、書くべきではなかろうか。
 Sの聞き手らしい「外の人」は、Pの聞き手Xと同様に、虚構の空間のどこにいるのか、はっきりとしない。また、「外の人」は、Xに等しいか、等しくないか。「遺書」において、PとXと「外の人」との関係は、どうなっているのか、そこもはっきりとしない。
 まず、Pについて、考えよう。
 「遺書」におけるPが、[P文書]のPと同一ではないことは、自明だろう。Sによって語られるPと、Pによって語られるPとは、常識的に考えて、同一ではない。また、語り手Pは、「遺書」以後の存在だから、論外だ。ところで、「遺書」は、Sによって語られるPとは別に、もう一人のPを出現させる。このPは、語り手Sの聞き手としてのPだ。Sが空想するPだ。Sが一緒に生きたPではない。Sの聞き手となることで、「胸に新らしい命が宿る事」(56)を期待されているPだ。
 語り手Pの「胸に新らしい命が宿る事」ができたのかどうか、私達には、分からない。普通の時間の観念によれば、語り手Pは「遺書」の読者なのだから、Sが自分に掛けた期待について、知っているはずだ。しかし、作者の時間では、語り手Pは、「遺書」を読み終えていない。Pによって語られるPは、未来の「遺書」読者として描かれてはいるが、語り手Pは、作者によって、過去の「遺書」読者としては、十分に描かれていない。
 次に、Pの聞き手Xについて、考えよう。Xは、当然、「遺書」読者でもあるが、「遺書」作者Sは、Xの存在を知らないはずだ。ただし、「遺書」作者Sは、「遺書」読者として、Pと「外の人」を想定している。[Xは、Pに等しくない]ことは自明だが、[Xは、「外の人」に等しくない]と言えるか。この問題は、複雑だ。
 「外の人」は、SやPにとっての「世間」には属さないはずだから、Sの死後にしか出現しない「外の人」は、Pが連れ来てくるのでなければ、出現しようがない。となると、「外の人」はXに等しいことになる。だとしても、Sは、どのようにして、Xの出現を予想したのだろう。
  私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思って
 いる。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。
                               (31)
 Sは、[「私は死ぬ前に」「死にたい」]と語っているのではないらしいが、基数と序数の区別はできないらしい。「他」がn人いても、n人目は「たった一人」だ。Sは、Pに向かって、どんな「一人」に「なれますか。なってくれますか」と迫ったつもりなのだろう。
 [Sは、Pを「信用」する/しない]は、Pの問題ではないから、Pには答えられないはずだ。「他を信用」したければ、勝手にすれば良かろう。「他」の誰が拒むのだろう。もしかして、「信用して」というのは、[「信用」されて]の誤記か。あるいは、[「信用」されていると「信用して」]の略記か。意味不明だが、Pは、異様な熱意で、確約を与えてしまう。その結果、Sは「私の過去を残らず、あなたに話してあげましょう」(31)と告げるわけだが、Sの予告は、二重に実現しない。「話して」はくれないし、「残らず」でもない。Sは話す代わりに書くのだし、書いたのは「長い自叙伝の一節」(110)に過ぎない。ましてや、[Sの物語]から「教訓を受けたい」(31)というPの希望が達せられたのかどうか、確認する気もなく、独り合点で死んじゃう気だ。
 作者は、何をしているつもりなのだろう。
 「たった一人で好い」という言い回しは、[多ければ多いに越したことはない]という含みだ。だから、「外の人」や「他」という言葉がちらつく。ところが、一転して、「たった一人になれますか」と、陣地に退却し、守備を固める。じゃあ、やっぱり、「一人」で十分らしい。「他」の1番目である「一人」は、n番目と同様、「たった一人」なのだが、先着1名様には、特典が付いているらしい。Pは、「その一人」になれたのだろうか。[やっぱり、なれません。ごめんなさい]という物語では、ないはずだから、[なれた]という可能性に、読者は、全額、賭けるしかない。
 では、Pは、何になったのか。まず、Sの「遺書」の「真面目」(31)な読者になった。次に、Sの「自叙伝の一節」の紹介者になった。そして、その前文、[P文書]の作者になった。Sが「他」に対する「信用」という言葉で期待しているのは、読者から作者への転身だろう。ただし、ここで[作者/読者]としたのは、私の言い方では、[語り手/聞き手]となる。
 『こころ』が企画しているのは、[聞き手の「胸に新らしい命」となって語り手の意識が「宿る」]システムの構築だ。別の言い方をすると、実在の聞き手を、[彼/彼女]が属する「世間」から離脱させ、機能体としての聞き手に変換し、語り手の意識の受容体として完成させることだ。このシステムは、『明暗』において、[津田が清子に語る/津田と清子の物語]として、虚構の中で試されることになるらしい。
 ここで、[送信者-受信者]という式を作ると、[P文書]は[P-X]と書ける。
この式は、[PからXに送信された情報]を示す。「遺書」は[S-P]と書けそうだが、「遺書」は鉤で囲まれているから、[P(S-P)X]と書くことにする。また、「遺書」読者には「外の人」が導入されるので、[P(S-P,「外の人」)X]とも書ける。ここで、「外の人」はXと区別できないから、[P(S-P,X)X]となりそうだが、PとXは時間的に並立しないから、[P(S(S-P)X)X]となる。
 『こころ』全体は、[P文書]=[P-X]と、「遺書」=[P(S(S-P)X)X]で、できている。ここで、語り手Sが、聞き手Pと聞き手「外の人」を区別せず、「他」として一括し、語り手Pが、聞き手Pと聞き手Xと「外の人」を区別せず、「他」として一括したとすると、「他」としての聞き手(達)Qが想定される。
 [聞き手Q]=[聞き手(P,X,「外の人」)]=[聞き手「他」]
 すると、[P文書]=[P-X]=[P-Q]と書くことができる。また、「遺書」=[P(S(S-P)X)X]=[P(S(S-Q)Q)Q]と書ける。ここで、[S(S-Q)Q]は同義反復だから、省略して、[P(S-Q)Q]となる。
 ここで、語り手Pが「新らしい命」であるとすれば、語り手Pは語り手Sの変身だと言える。つまり、表面の語り手はPでも、裏面の語り手はSだということになる。すると、[P文書]=[S(P-Q)Q]と書ける。これを、「遺書」の[P(S-Q)Q]という式と比べると、ちょうど、手袋を裏返すように、反転した構造を持っていることが分かる。
 ここで、語り手Pが「遺書」の後に登場しないことを考えると、語り手Pは、途中で消滅したことになる。同時に、Sも死滅する。そこで、SとPが融合し、「新らしい命」となったとして、超越的な語り手Tを想定すると、[P文書]は、[P-Q]=[T-Q]となる。「遺書」は、[P(S-Q)Q]=[T(T-Q)Q]=[T-Q]となり、これは[P文書]に等しい。[S(P-Q)Q]と、その反転である[P(S-Q)Q]の二つの文書は、Sの死滅とPの沈黙によって、裏も表もなくなり、[T-Q]という、単純な式になる。
 Tは、ここまで来ても、まだ、『こころ』作者に等しくはない。Qも、また、『こころ』読者に等しくはない。[語り手/聞き手]は、どれほど変化しても、[作者/読者]にはならない。
 「死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたい」というSの発言は、「私は何千万という日本人のうちで、ただ貴方だけに、私の過去を物語りたいのです」(56)という、怪しげなDMを思わせる文言を経て、「貴方にとっても、外の人にとっても」(110)と拡張される。真意は、「妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密」だという言葉の裏側にある。つまり、[「妻」が死んだら、Sの「秘密」を流布せよ]という、「世間を憚る」(1)指令だ。
 勿論、[P文書]で語られるSに、「遺書」を記す予定はない。だが、作者には、ある。このことをもっともらしく説明すれば、[語られるSは、自分の未来の行動を予感していながら、そのことに気づかず、予言のように仄めかしたという事実を、語り手Pは、自分でも気づかずに記している]ということになる。
 Sの無自覚の秘密指令を受けて、Pは、無自覚に、Xを漁る。Xは、Yを漁る。Yは、Zを。そして、彼らは、無自覚な党派Qを形成する。[P-X]から[X-Y]以下へと展開する、無自覚の語り継ぎの経路は、Pを第一の語り部として鍛え上げることさえできれば、端緒が開かれたことになる。と、無自覚に、Sは信じていた。だから、「たった一人」という言葉が、極めて、強い口調で語られたのだろう。本当かな。
 さて、ここで、[P→X→(N)→(読書家)]という、奇妙な経路が考えられる。これは、[個体としてのNは、Pの聞き手Xから、Sの話を聞き、「遺書」を渡され、両者を纏めて発表する]という意味だ。このとき、Nは、シャーロッキアンの主張するコナン・ドイルに相当する。編者Nだ。編者Nの実在の証拠は、「『心』広告文」だ。
 「『心』広告文」と[P文書]の間には、架空の前文が存在する。その前文の書き手は、Xだ。そうでなければ、Pは「その人」(1)と書き出すことはできない。XはNであっても構わないようなものだが、そうすると、架空の前文作者と編者Nが重複する。また、PがNと面識があるのなら、NはSとも面識がありそうで、居心地が悪い。[P-X]から[X-Y]へと展開する語りの過程のどこかで、Nが介入するという想像の方が、無理が少ない。
 普通の人だったら、もぞもぞして、体を捩りたくなるような経路を、私達は思い描かねばならない。
 このもぞもぞする感じから逃れるために、[TはNだ]と措けば、どうなるか。この前提には、[Tは、『こころ』作者だ。『こころ』作者は、Nだ。よって、TはNだ]という三段論法が真だと認められていなければならない。つまり、[語り手/聞き手]の層と、[作者/読者]の層と、[個体としての作家/読書家]の層の、三つの層の区別が無視されなければならない。『こころ』とは、[語り手/聞き手]の層と[作者/読者]の層が肉薄する過程だと言える。その一方で、Nが[作者/読者]の層と[個体としての作家/読書家]の層に二股を掛けて見せるので、三つの層は接近し、一致するかのように見える。このとき、[S-P]という虚構の関係は、[N-φ]という現実の関係の、厳密に言えば関係の欠如の、写し絵となるはずだ。
 作者は、何をしているつもりなのだろう。[書く/読む]という行為を、[語る/聞く]という行為の場に押し下げようとしているらしい。書くという行為は、語りの場からの離脱を目的にしたものだ。[私-あなた]という関係を疑い、[私-(あなた)]という、冷たい関係を、わざわざ、作り出した。それを温め直すのは、アイスクリームを溶かして飲むようなものだろう。
  自分の影のさす範囲の中でなら、きびしい霜が大地から萌え出す芽を
 封じ去るように、彼は人の意見をおさえられる。が、その範囲を越えたら、
 彼の敏感さは冬の大気の中で身ぐるみ剥がれるのを恐れて、ふるえなが
 ら逃げまわるだけだ。彼が世間を憎む根拠もここにある。裸になった自分
 の虚像、いいかえれば自分の名を着せられて世間の前につき出された自
 我というか弱い幼な児、それを思って肝をひやして怖れるのである。そや
 つに対して、最も高い文明度に達した人間しか抱きえないいつくしみを
 感ずるものの、なお保護の手をさしのべることはできないのだ。だからそ
 のあわれな愛らしい幼な児は、だれでもよい、暖い息を吹きかけてくれる
 者はないかと走りまわって、霜にいためられ打ちたたかれて彼の救いを
 求めるけれども、彼として手の出しようもないのだ! このような扱いを
 する世間を、憎悪するのは当然ではないか? わが影のさす範囲内の人々
 を奴隷と化して、その連中を軽蔑するようになればなるほど、それに比例
 してわれらは世間をきらうのである。
              (メレディス『エゴイスト』29、朱牟田夏雄訳)
//「孤独な人間」
 Sは、Xにとって、作品の「言葉の始り」(3)以前から、「先生」として存在していなければならない。もしも、[P文書]が[Pは、Sを、最初は、胡散臭い人物だと思ったが、親密になるにつれ、その長所を発見した]といった、穏当な物語なら、Pは、Sを「先生と呼んでいた」(1)事実を記しても、「先生と書く」(1)必要はなかったはずだ。つまり、[Sは「先生」だ]という、語り手Pの思い入れを、語り手Pが語られるPに押し付ける必要はなかったろう。語り手Pは、語られるPがSを「『先生』と云いたくなる」頃合を見計らって、自然に「先生」と言わせたら良かったはずだ。
 語られるPは、Sを疑わない人物として設定されている。しかし、語り手Pさえ疑わなければ、話は十分ではないか。語り手Pは、あるいは、作者は、何をしているのだろう。語り手Pは、あるいは、作者は、[Xは、Sを疑う]という可能性を、徹底的に排除しようとしている。普通なら、Xの疑いを晴らすためには、語り手Pは、Sの長所を並べるはずだ。ところが、そんなものは、『こころ』を最後まで読んでも、発見できない。作者にも、見つけられないはずだ。
 Sを疑っているのは、実は、作者だ。作者は、この疑いの主体を、「世間」(1)に置き換える。しかし、その置き換えは不合理なものだから、[「世間」は、Sを疑う]という物語は、ついに語られない。P、もしくは、作者は、X、もしくは、読者の疑いの根拠を、「世間が先生を知らない」(11)ことに求めて見せる。[無知な世間の人々]という、ありがちな偏見を密かに語ることで、正当な疑いの価値を貶め、X、もしくは、『こころ』読者が、喜々として、自ら、疑いを放棄するように促す。
 ところで、『こころ』は、この疑いの過程を裏側からなぞることで進行する。Sの人格を疑われ、「本名」(1)に象徴されるところの正体を「研究」(7)しようとされ、その結果、[Sの「過去」(56)の物語]を「受け入れる事の出来ない人」(56)が出現する。作者は、疑いが深まる過程を信じる過程として、裏返しにして書き進めている。
 Pは、Sの人物を保証するために登場しているのだが、そのPの人物を保証するのは、外ならぬSだ。互いに保証し合っても、第三者には何の値打ちもない。しかし、このことを裏返せば、[読者は、第三者であってはならない]というルールが暗示されたことになりそうだ。
 Pは、Xを、Sと同じような、「世間と交渉のない孤独な人間」(56)に仕立て上げるために、冒頭から、わざわざ、危ない橋を渡って見せる。「世間」(1)や「本名」(1)という言葉に出会ってXが感じる障害を、その言葉が示す物自体に対する不快感と混同させるように、Pは語る。条件反射が作り出され、Xは、自分の意志で、「世間」に背を向ける。そして、「真面目」(56)に、Sの語りに耳を傾けることになる。
 『こころ』とは、Nにとって、「真面目」な読者を生み出す装置だ。かつて、Kは、Sに、「道」(73)を語った。Sは、Kに、「女」(79)を語った。Kは、Sに、「恋」(90)を語った。そして、KとSの、語り手争奪戦は、Kの死で、引き分けになった。KとSは、静を奪い合ったのではない。
 作者は、「真面目」な聞き手Pを導入する。語り手Sにとっての理想的な「遺書」の聞き手であるPの姿は描かれないが、描かれないことこそ、Pが完璧な聞き手であることの不在証明となる。「遺書」後、Pが登場して、「遺書」について語り始めたりしたら、Sは死んでも死にきれない。作者にとっての理想的な受信者は、沈黙によって、使命を果たす。
 [K-S]が[S-K]へ、また、[K-S]へと、堂々巡りになりかけて、Kの項が消え、そこにPが誘導され、[S-P]となる。[…(K(S(K-S)K)S)…]という閉鎖した経路は、「山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合いながら、外を睨めるような」(73)状態を意味する。この閉鎖系は[S-P]によって、開かれる。そのとき、[S-P]の内容は、何か。「道」ではない。「女」ではない。「恋」ではない。[SとKの語り手争奪戦の物語]そのものだ。そして、それは、語られるSの心の中の[語り手Sと「声」(70~90)の語り手争奪戦の物語]の表出でもある。
 語られるSの心の中には、「遺書」の語り手Sとは別の、語り手Sがいた。また、同時に、いつからか、語られるSの心に住み着いている正体不明の「声」があって、これも、[Sの物語]を語っていた。「遺書」の語り手Sは、語られるSの内部の[語り手争奪戦]を整理することができず、それを、そのまま、[SとKの語り手争奪戦の物語]として、表出した。そして、この表出は、作者自身の心の中の[語り手争奪戦]を暗示する。
  「健坊、御前本当は誰の子なの、隠さずにそう御云い」
  彼は苦しめられるような心持がした。時には苦しいより腹が立った。向
 うの聞きたがる返事を与えずに、わざと黙っていたくなった。
                            (『道草』41)
 [あなたの母親は、私だ]という文は、[私の母親は、あなただ]という、健三の声に変換される。養母が健三に語るべき物語が、健三の声によって、語られる。健三は、「声」を乗っ取られる。乗っ取られたくなければ、「わざと黙って」いることになる。誰のものともしれない「声」が、健三の喉の奥で、[健三の物語]を語る。健三の耳は、別の声で語られる[健三の物語]を聞く。誰のものとも知れない声と声とが問答をし、「黙って」しまう。声と声と沈黙が、「ぐるぐる」(57)回る。「孤独な人間」は、忙しい。忙し過ぎて、他人と付き合う暇がない。
//「ぐるぐる」
 「物を解きほどいて見たり、ぐるぐる廻して眺めたりする癖」(57)の由来は、[Sママの看取りの物語]にある。そこで、Sパパはすでに死んでいる。だが、「母の死ぬ時、母には父の死んだ事さえまだ知らせてなかった」(57)という。このとき、[少年Sは、Sママに、Sパパの死を伝達する]という物語が予定されていたはずだ。この物語は、[Sママの回復の物語]に属する。しかし、Sママは死ぬ。[(Sママ)-S]が[φ-S]となると同時に、[S-(Sママ)]は[S-φ]となる。[Sパパの死の物語]は宙吊りになった。
 Sは、[φ-S]の状態で知った感情を、[S-φ]として表出しているのかもしれない。つまり、[Sは、Sママに、もっと構われたかった]という気持ちを、[Sは、Sママに伝えたいことがあった]という物語に作り替えた。「ぐるぐる」癖は、[(S(φ-S)φ)]という式で表現できそうだ。
 しかし、Sも、作者も、[φ-S]を明示しない。明示されない[φ-S]は、[Sパパの死の物語]の暗示として、表出される。暗示された物語とは、[「先生」という呼称で隠蔽された、「本当の父」(23)ではない父としての/Sの自殺の物語]だ。語り手Sは、Sママに伝達すべき物語を、語られるSとして演じて見せることによって、暗示として、Pに伝達する。
 [Sの死の物語]は、静には伝えられない。なぜか。静は、Sにとって、Sママの変身であり、[Sパパの死は、Sママには伝達されなかった]という事実を反復するためだ。
 『こころ』は、[P(S(S-φ)P)X]が、[T(T(T-φ)Q)Q]=[(T(T-φ)Q)]となる過程だ。このとき、φにQが代入できるかどうかに、作者の命運はかかっている。[T(T-φ)Q]=[T(T-Q)Q]=[T-Q]という単純な式への移行を可能にするためには、個体としてのNは、超越的な聞き手Qを獲得する必要があったことになる。
 超越的な聞き手Qに対応する、超越的な語り手Tは、作者ではないが、極めて作者に似た機能体となる。Tは、個体としてのNの主義主張、趣味思考などを削ぎ落とした、言わば裸形の語り手だ。この比喩に、「則天去私」という言葉を引っかけるのは、強引か。
 個体としてのNは、[φ-N]を回避し、[N-φ]へと転倒するという、不合理な作業によって、[φ-N]を通過したのと同様の表出をしていたらしい。
//「念力」
 冒頭の段落は、[「私」の「先生」は「私」の「先生」だったから、「私」は「先生」を「先生」と呼ぶ]とでも要約されそうな、内容の薄いものだ。これは、主題の提示であり、語り物でいう大序に相当する。不可解だが、解く気にもなれないような文言に接すると、人は、単調なリズムで繰り返される経文を聞くときのように、諦めにも似た疲労に襲われ、やがて、忘我の状態に引き込まれる。つまり、「その人の記憶」(1)が刷り込まれやすい状態に落ちる。
 「覚えていて下さい」(57)/「記憶して下さい」(63)/「記憶して下さい」(109)
 記憶して、どうせよというのか。暗誦し、流布せよ。
 「その人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云いたくなる」(1)という。だが、「云いたく」なって、そして、言うのか、言わないのか。
 催眠誘導の文体。
 [あなたは、だんだん、「先生」と言いたくなる、言いたくなる。さあ、言ってみましょう。「先生」と言うと、ほおら、誰かの姿が見えて来ますね。そう、そうです。その人が、「先生」ですよ]
 この催眠は、読者のためというよりは、作者自身に向けたもの、自己催眠だったのかもしれない。「念力」(N「彼岸過迄に就て」)と言うべきか。「自分は自分であるという信念」(同)を強めるための呪文なのかもしれない。
 催眠では、善意の協力者が出現する。この協力者は、暗示にかかったわけではなく、施術者に気を遣って、かかったふりをしてしまう。善意の協力者が出現すると、施術者は、[暗示が効いた]と勘違いすることがある。すると、何も起きていないのに、両者は、[何かが起きた]と主張する。
 『こころ』は、催眠ではなさそうだ。しかし、催眠にかかったふりをする、心優しい読者は出現するらしい。
 あるいは、[「先生」とは、Sの霊魂を「呼び起す」(1)呪文だ]という文の誤記なのかもしれない。「先生」という呪文によって、「呼び起す」ということをされた、Sの霊魂は、「遺書」を語り始める。
 あるいは、『こころ』は、心理試験だったか。「想像して見て下さい」(90)
 あなたは、「海岸」を歩いています。「海岸」に、「猿股一つ」の「西洋人」がいまず。その隣に、あなたよりも年上の男の人が立っています。あなたは、「その人」を「どうも何処かで見た事のある様に思われて」(2)なりません。あなたは、「その人」に呼びかけます。何と、呼びかけますか。
 「友達」/「先生」/「父」/「兄」/「叔父」
 何と呼びかけるかによって、あなたの隠された心が分かります。「猿股一つ」の姿は、欲望の解放を意味します。「海岸」は、欲望の解放を許された空間です。「西洋人」は、あなたが成りたいと思って憧れている人物の象徴です。「西洋人」の側にいる「その人」は、あなたが[自分の欲望を実現するための手助けをしてくれそうだ]と思っている人物の象徴です。


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