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#065[世界]25先生とA(15)「不思議」

//「第一不思議だ」
  彼は我々の穿く猿股一つの外何物も肌に着けていなかった。私にはそ
 れが第一不思議だった。
                                (2)
 何でもないような文だが、ちゃんと読むと、分からなくなる。「それ」は、何を指すのか。形式的には「猿股」だが、ここは違う。[「猿股一つの外何物も肌に着けていなかった」こと]だろう。だが、「肌」の露出が、なぜ、「不思議」と形容されるのか。[「彼」の気が知れない]という意味か。カルチャー・ショックを、「不思議」と形容したのか。
 Pは、何を「思議」しようとして、できなかったのだろう。[「猿股一つ」を見たPは、自分で自分の気持ちが分からなくなる程、気が動転した]って意味か。
 「第一不思議」があれば、[第二「不思議」]もありそうだが、ここは、[「不思議」の程度が大きい]という意味で使われているらしい。しかし、ここは、程度の問題ではない。「第一」という限定がなくても、「不思議」という言葉を遣うことが、私には「不思議」だ。
 「不思議」な「不思議」という単語は、「日本人にさえあまり交際を有たないのに、そういう外国人と近付になったのは不思議だ」(3)というふうに用いられる。このときの「不思議」は、普通の意味で用いられているようだ。しかし、だからといって、「不思議」という言葉は、Sの語彙では[わけ、分かんない]という意味で、Pの語彙では[ゲェッ!]とか[ギョッ]みたいなもんだ、などと即断することはできまい。
 Pが「西洋人の事を聞いて見た」(3)ら、Sは「日本人にさえあまり交際を有たないのに、そういう外国人と近付になったのは不思議だと云ったりした。私は最後に先生に向って、何処かで先生を見たように思う」(3)という、この続き具合は、「不思議」だ。「西洋人」のことを話題として持ち出したのはPなのだから、Pがその話の纏めをしないまま、「最後に」別のことを言うのは、おかしい。この「最後」という言葉は、何の「最後」を示しているのだろう。Sに「人違じゃないですか」(3)と言われて、[はあ、そうですか。失礼しました。さようなら]と言って、立ち去ったという話なのか。変な立ち去り方だが、もし、そうだとしても、なぜ、[この日の「最後」]ではなく、[話の「最後」]らしく記されるのか。
 新聞連載の、この回の「最後」の挿話といった気分が滲出したのかな。
 この「最後に」という言葉には、[我慢し切れなくなって、ついに]という含みを読み取らなければならないのかもしれない。しかし、このとき、[Pは、聞きたいことを聞かずに我慢している]という話はない。
 [Pは、Sと語り合ううち、「何処かで先生を見たように思う」ようになり、その思いが強まって、その思いを言葉にしたくなり、「最後に」そう言った]という展開なのではないか。違う。既視感は、見初めの後(2)に生まれている。では、この質問をするために、PはSに接近したのか。そして、この質問をしてみたが、答えに「失望」(3)し、希望するような答えを得るまで粘りに粘って、「遺書」を得るという展開か。では、「遺書」によって、既視感の根拠とか意味が明かされるのか。違う。全然、違う。既視感の話は、これっきり。じゃあ、何で、作者は、既視感で読者を連れ回すのか。全然、分からない。
 Sが[Sと「西洋人」の「近付」の物語]において「不思議」という言葉を持ち出したので、語られるPは、その言葉に触発され、[SとPの出会いも、「不思議」なのかな]と思った。「日本人にさえあまり交際を有たないのに、そういう外国人と近付になったのは不思議だ」としたら、[同年配の「日本人にさえあまり交際を有たないのに」、「若い」(3)Pと「近付になったのは不思議だ」]と言えそうではないか。
 語り手Pは、語られるPの意図を伏せて記しているのかもしれない。「其所に住んでいる人の先生の家族でない事も解った」とか、「余り交際を有たない」という発言が記録されているからには、その裏に、Sの現状を探ろうとするPの意図が隠されていると読むべきなのかもしれない。そして、[その日、Sの現状に対する好奇心を満たすために、Pが発した疑問の「最後」のもの]というように読まなければならないのかもしれない。しかし、もし、そうだとしても、既視感が、なぜ、[Sの現状]という話題の「最後に」なるのか。
 [P文書]で、語られるPの思考と語り手Pの語りは、明瞭には区別できない。語られるPは、あたかも、後日、語り手Pによって語られるためであるかのように思考し、行動する。あるいは、そのように、語り手Pは、記憶を偽造する。既視感は、語り手Pによって、偽造されたものかもしれない。しかし、語り手Pは、そのことを知らない。だから、語られるPには説明できない。というより、語り手Pが語られるPに説明させたくても、させられないのは、楽屋の事情によるのだろうか。語られるPに説明できなければ、語り手Pが説明してやればいいのに、説明しないのは、説明の必要がないと思うからではない。また、楽屋の事情で説明しにくいのなら、既視感など、話題として持ち出すのは、危険だ。
 あるいは、[既視感の物語]に、私の知らない原典でもあるのか。そして、当時の人々は、その[世界]を共有していたのか。
 語り手Pの作り出す、過去と未来の間の闇が、語られるPの現在だとすると、語られるPにとって、現在という時間そのものが「不思議」に見える。そして、そのような現在を生きる人は、「若い」と評されることになる。語られるPが、執筆時のPに比べ、どれほど、「若い」と言えよう。「若い」とは、年齢の差を示す言葉ではない。気持ちの比喩だ。そういった表現か。
 「若い」人は、周囲によって語られる物語に属したがらず、自分で語るべき物語を持てない。そこで、妥協策として、自分の意思で自分の属する物語を探す。Pの場合、それが[Sの物語]だった。そういう構えか。勿論、この構えは、作者のものだ。語り手Pのものではない。語り手Pに、そんな自覚は見えない。となると、語り手Pも、まだ、「若い」のかもしれない。[ちょっと昔の自分を「若い」と評するところに、「若い」尻尾が見えてるよ]といった皮肉か。
 どこまで読み込めば、[既視感の物語]に足場が作れるのか。足場など、そもそも、作れなくても構わないのか。
 既視感があったとしても、それが語られる理由は、定かではない。しかも、[既視感の記憶]をSが否認すると、既視感が話題から消える。ところが、既視感に纏わる雰囲気は、残響のように消えない。それは、「不思議」という言葉で生き延びる。SがPに既視感を抱かせるから、Pにとって、Sが「不思議」に思えるのか。話の流れの中で既視感に意味がないから、読者にとって「不思議」なのか。どっちとも取れないから、「不思議」なのか。とにかく、S近辺に、もやもやと「不思議」が漂う。
 PのSに対する既視感がSによって否認されると、既視感の残響がSに送り返され、Sの近辺に「不思議」が漂い、[Pの語る/Sの物語]が生まれるという手筈か。Sは、[Pの語る/Sの物語]を[世界]に、[Sの語る/Sの物語]を作り出す。語り手Pは、[Sの語る/Sの物語]の前文として、[Pの語る/Sの物語]を再構成する。
 となると、どこからどこまで、読者は読めばいいのか。人形が操り糸に絡まるのを、失敗と見るか、前衛的な演出と見るか。読者は、[既視感がPをSに接近遭遇させた]と読み取っていいのか、いけないのか。その答えは、ついに得られない。そんな問題はないからだろうか。参ったね。もし、既視感がきっかけでないとすれば、何がきっかけなのか。きっかけなど、どうでもいのなら、[きっかけの根拠が不明だ]という物語が、なぜ、あるのか。おや、そんな物語は、ないのか。では、どんな物語なら、あるのか。
//「研究」
  おそろしい生活を送っているうちに、頭は錯乱し、ついには天才だけの
 知る陶酔を味わうまでになったのである。ある意味で精神の病である神
 経病に全身をゆすぶられているうちに、不思議な透視力をもつ芸術的感
 覚が発達してきたのだった。人を殺してからというもの、肉はいわば軽や
 かなものとなり、乱れた頭脳ははかり知れず大きなものにみえ、こうして
 ふいにひろがった思考のなかを、なんともいえない創造物が、詩人の夢み
 るものがすぎてゆくのが、目に見えるのだ。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』25)、篠田浩一郎訳)
 私は、読むべき物語を発見できないまま、[雑司ケ谷の場](4~5)の後、「不思議」という言葉が着地する現場に立ち会わされる。
  私は不思議に思った。然し私は先生を研究する気でその宅に出入りす
 るのではなかった。私はただそのままにして打ち過ぎた。
                                (7)
 着地はしたが、語り手Pは、語られるPとともに、「ただそのままにして打ち過ぎ」る気らしい。その気どころか、そうした態度を、語り手Pは、大袈裟に自画自賛しさえする。では、「不思議」という言葉で語り手Pが私達をここまで引っ張って来た目的は、何だったのか。ただ、引っ張るだけ引っ張ってみたかっただけか。
 このあたりで、大方の読者は、Sを「研究」するのが、何となく、道義に悖るように感じさせられ、「研究」を、自ら、放棄するのかもしれない。しかし、考えるまでもなく、読者は、Sを「研究」するのに十分な情報は与えられていない。したがって、「研究」放棄は、読者の選択ではなく、ただの流れだ。作者は、[読者にとっての、S「研究」不能]を、[Pによる、S「研究」放棄]に偽装する。[やりたくてもできないことをやらない]という、たったそれだけのことで褒めて貰えるのなら、こんな楽な仕事はない。お客様に簡単な協力をさせて褒めちぎり、最後に、高額の商品を押し付けるのが催眠商法のやり口ですから、「よく覚えていて下さい」(57)
 作者は、Sについての決定的な情報不足という事実を隠蔽する。この事実が明るみに出れば、[Pの語る/Sの物語]は、[「世間」(1)の語る/Sの物語]に埋没してしまうからだろう。この時点での[Sの物語]の薄さは、Pの自画自賛によって覆い隠される。
//「近づき難い不思議」
  先生は何時も静であった。ある時は静過ぎて淋しい位であった。私は最
 初から先生には近づき難い不思議があるように思っていた。それでいて、
 どうしても近づかなければいられないという感じが、何処かに強く働ら
 いた。こういう感じを先生に対して有っていたものは、多くの人のうちで
 或は私だけかも知れない。然しその私だけにはこの直感が後になって事
 実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいと云われても、馬鹿気て
 いると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしく又嬉
 しく思っている。人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでい
 て自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来な
 い人、─これが先生であった。
                                (6)
 この部分と類似の文が、[雑司ケ谷の場]以前に見える。
  私は又軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行
 く気にはなれなかった。寧ろそれとは反対で、不安に揺かされる度に、
 もっと前へ進みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるもの
 が、何時か眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私は若かった。
 けれども凡ての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかっ
 た。私は何故先生に対してだけこんな心持が起るのか解らなかった。それ
 が先生の亡くなった今日になって、始めて解って来た。先生は始めから私
 を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気な
 い挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠けようとする不快の表現ではなかっ
 たのである。傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づく程の
 価値のないものだから止せという警告を与えたのである。他の懐かしみ
 に応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものと見
 える。
                                (4)
 [雑司ケ谷の場]を通過して付加されたものは、「直感」とか「直覚」と、「不思議」だ。[「失望」→「淋しい」]、[「不安」→「不思議」]といった置換の過程で、[「若い血がこう素直に働こうとは思わなかった」→「若々しいと云われても、馬鹿気ていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしく又嬉しく思っている」]といったふうに、何やら、凄みが加わる。また、[「先生に対してだけこんな心持が起る」→「私だけかも知れない」]といったすり替えも起こる。その結果、前の段階ではPの独り合点でしかないはずのS像が、[「他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していた」→「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、─これが先生であった」]というように飛躍する。飛躍は、「遺書」読了後として設定されている語り手Pの特権だろうか。語り手Pは、作品内部の時間の流れに沿ってS像を形成するかに見せかけながら、暗礁に乗り上げると、特権を悪用する。Pは、「予期」というよりは、[「遺書」の予告]を、作者に代わってやっているのか。
 ここで、「価値のないもの」というのは、Sの主張ではない。[Sの主張]として、Pが想像したことだ。だから、もし、[この主張は、真実だ]とPが考えるのなら、Sには「価値」がないわけだから、[Pの「直覚」は「証拠立てられ」なかった]ことになるはずだ。あるいは、[Sは、自分の「価値」を見誤っていたと、Pは思っていて、そこにSの謙譲の美徳などをPが読み取っていた]などと、ふにゃふにゃした物語を、私達は作文しなければならないのか。
 [謙遜するSの物語]が、どこかで語られているのだとしたら、[謙遜するSを敬愛するPの物語]も、どこかで語られているのだろう。そして、[謙遜するSを敬愛するPを尊敬するSの物語]も、どこかで語られていて、そうした、どこにもない物語の大群が、言語化された、細々とした物語を支えている。そして、この見えない物語の大群こそが、作者が伝えようとしている印象の本体だとしたら、点々々。私の目も、点。
 「予期」だの、「直覚」だのが、大真面目に記述されるのは、時代のせいか、Pの趣味か、私には分からないが、では、逆に、どういう事態だったら、[「予期」や「直覚」は、外れた]と言えるのだろうか、教えてもらいたいものだ。[空籖無し]の思い込みでしょう。[Sは、P専用の守護天使だった]とでもいうのなら、おお、そりゃ、「直覚」もありがたいわいと手を打ってみようが、[Sは、意外にも、人殺しだった]というのだから、常識的には[外れ]と言うべきではなかろうか。
 一般的に言って、誰が何を思うにしろ、その思いが正当だったかどうかは、「後になって事実の上に証拠立てられた」りするようなことではない。予感が的中することと、その予感の正当性との間には、何の関係もない。賽子の目を予測することはできない。しかし、当たることは、勿論、ある。天気予報の当たった割合と、予報の正当性との間に、直接の関係はない。直接には関係のないことをあるように語るために、Pは「直感」という概念を引き寄せるのだろう。変なやつ。
 先の引用文から、読み直そう。
 「先生は何時も静であった」というのは、[Sは、いつも、寡黙だった]という意味だろう。いい年した男が、言葉以外のことで、[静かだ/静かではない]などと言われるはずはない。
 「ある時は静過ぎて淋しい位であった」というが、「ある時」というのは、どんな「時」か。「静過ぎて淋しい」ような「時」か。では、堂々巡りだ。「ある時」がどんな「時」か、Pには、思い出せないのかもしれない。あるいは、作者は、この時点では、その「時」のことを書くつもりでいたのだが、忘れてしまったとか。あるいは、[「静過ぎて淋しい位」に感じる「時」も「ある」のだった]というのを、縮めたか。
 [Sは、寡黙過ぎた]というのは、変な日本語だろう。[Sは、ときどき、意味ありげに沈黙した]という含みを読み取るべきか。厭味なやつ。
 「静過ぎ」という話題の文から、改行なしで、「私は最初から先生には近づき難い不思議があるように思っていた」と続く。「静」から、「静過ぎ」を経て、「不思議」に至る経路は、どうなっているのか。「不思議」は、「静」からではなく、「静過ぎ」の「過ぎ」にウェイトを掛けて出現したものらしい。印象として、無色の「静」ではなく、有色の「静過ぎ」が不気味さを演出するか。私には、Sや語られるPよりも、語り手Pの方が「不思議」に思える。
 [Sは、自分でも気づかないのか、ときどき、不意に沈黙することがあった。Sの沈黙には特別の意味があるのだろうと、Pは想像していた]
 まあ、こんなところですかね。でも、Sが自覚せずに沈黙しているのなら、その理由をSが語る可能性はないはずだから、「もう少し濃かな言葉を予期」(4)しても、無駄だろう。では、[Sは、わざと意味ありげに沈黙した]と、Pは思っていたのか。ここらが、どうも、怪しいね。作者だって、このあたりを、すっきりさせたかったろうが、どうも、うまくないみたい。
 手に余る。先へ進もう。
 Pは、Sに「不思議があるように思っていた」という。意味ありげに沈黙されれば、誰しも、[こいつ、何か、隠しているぞ]と感じるはずだ。しかし、ここには誰しも感じるようなことが書かれているのではない。Pは、「私だけかも知れない」と書いている。
 「最初から」とは、いつからか。「最初」の「不思議」は、「猿股」(2)だったのではないか。ま、いいか。
 Pは、Sについて、「不思議」という印象を持っているのかもしれない。いや、持ってはいないのかな。「不思議があるように思っていた」という表現によって、語り手Pは、語られるPが、この時点では、まだ、[Sに「不思議がある」のか、ないのか、はっきりしない]段階にあったことを示しているのか。だとしたら、Pは自分が「不思議」に思って、その「不思議」を何とかしようとして、Sに接近したのではないことになる。では、何に引かれて、ここまで来たのか。分からない。やはり、「不思議」だろう。でも、「不思議」とは言えないらしい。いや、そうではなくて、「不思議があるように」の「ように」は、筆が滑っただけなのかもしれない。だったら、あんまり滑らないでね。
 Pのいう「不思議」とは、何だろう。[「話す事の出来ないある」(6)こと]と言い換えれば、通じそうだ。でも、「近づき難い不思議」と書いてあるわけだから、[「近づき難い」ような「話す事の出来ないある」こと]とやっても、もぞもぞする。「近づき難い」というのが、[理解し難い]という意味だとすれば、「不思議」と同義反復になるし、また、[「話す事の出来ないある」こと]は、話されていないのだから、理解の問題にはならない。あるいは、話されたとしても[理解できない]ようなことか。
 「近づき難い不思議」というのは、[理解し難い「不思議」]という同義反復として読むとしても、「自分に近づこうとする」とか、「近づかなければいられない」というのは、[理解したい]とか、[理解しなければならない]というよりは、[交際したい]とか、[交際しないではいられない]と読めるので、困る。「近づき難い」の「近づき」と、「近づかなければ」の「近づか」は、同じ単語でも、意味は違うようだ。もし、そうだとすると、「私は最初から先生には近づき難い不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、何処かに強く働らいた」という文は、[Pは、「最初から」、Sには理解し難い「不思議」があるように思っていた。「それでいて」、どうしても交際したいという気持ちが、どうしてか、強くあった]といった意味になる。この言い換えが適当なら、「それでいて」という接続語は、機能していないことになる。
 「それでいて」という言葉は、「私は又軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。寧ろそれとは反対で、不安に揺かされる度に、もっと前へ進みたくなった」というときの「寧ろそれとは反対で」という言葉の勢いを再現したものかもしれない。もし、そうだとすると、[Pは、Sには理解し難い「不思議」があると思う]という文と、[Pは、Sと交際したい]という文の関係を表す言葉は、実は、ここにはないことになる。[二つの文の関係を表す言葉がない]ということは、[二つの文が示している、二つの事柄の間には、はっきりとした関係がない]ということを示唆する。つまり、Sに纏わる「不思議」と、[P-S接近遭遇]とに、因果関係はないことになる。
 ここは、「日本人にさえあまり交際を有たないのに、そういう外国人と近付になったのは不思議だ」(3)という文の流れが、まだ、生きているのだろうか。では、その流れに乗ってみよう。
 Pは、Sと「外国人」の「交際」について、ある想像をしていて、その想像の「交際」に匹敵するような、あるいは、それ以上の「交際」をしたいと願いつつ、実現できないでいる。そんな気分が、「近づき」という言葉となって表出されているのかもしれない。しかし、この「交際」は想像であるばかりか、想像として自覚されてもいないはずなので、実現となると、到底、無理だろう。その欲求は、語られるPには自覚できなかった欲求であるばかりか、執筆時点でも自覚できていない欲求らしいから、語り手Pも、しどろもどろになるのだろうか。
 物語を持たない「交際」の欲求が暴走しそうになるのを、当時、Pは必死で食い止めていたが、執筆時には、歌い上げてしまった。そういった次第か。
 もともと、「私は又軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。寧ろそれとは反対で、不安に揺かされる度に、もっと前へ進みたくなった」という文は、怪しげなものだ。語られるPは、まるで、この時点では実在しない「遺書」が書かれるべき運命にあることを察知しているかのように、Sに接近する。この察知する力が「直感」などと呼ばれるのだろうが、おかしな話だ。こうした不都合は、語り手Pの捏造、あるいは、記憶の偽造などに理由を求める方が、自然だ。にもかかわらず、捏造、偽造の可能性を作者が否定するとしたら、作者は、却って、自分を窮地に追い込むことになる。Pには、Sに接近する動機がないことになるからだ。すると、Pの動機の欠如は、全面的にSが負担することになる。つまり、[Sは、Pを誘惑した]という文が浮上する。本当は、作者がPをSに接近させているだけなのだが、その演出を、あたかも、Sが作者であるかのようにやっていることになる。作者の企みが、全部、Sの企みに見えてしまう。
 PがSに接近する理由は、「不思議」だ。表面的には、はっきりした理由は見つからない。理由のないことを覆い隠すのが、「不思議」という言葉らしい。言葉は便利だ。
 Pは、調子に乗って、「近づき難い不思議」と記す。「不思議」が、どういうものであれ、Sが感じていることだろう。なのに、それに本人が近づけないというのは、どういう事態か。まさか、[Pは、「不思議」という印象を持ちたいのだが、「不思議」と断定するに足るだけの十分な証拠がない]という意味ではあるまい。[UFOと断定するに足るだけの十分な証拠がない]というのと同じだ。
 Nは、「主人は一寸神秘的な顔をして暫らく一頁を無言のまま眺めている」(『猫』6)と書くような書き手だ。この文において、「神秘的」という言葉は、[主人の顔は、吾輩から見ると、神秘的だ]という意味で使われているのではない。[主人は、神秘的なものに出会ったような顔をした]といった意味だ。別の例では、「退屈な細君は貸本屋から借りた小説を能く床の上で読んだ」(『道草』84)というのもある。この「退屈」という言葉も、[細君は、夫にとって退屈な存在だ]という意味で用いられているのではない。[細君が退屈を感じたとき]といった意味だ。また、「私は退屈な父の相手としてよく将碁盤に向った」(23)という文でも、「退屈」しているのは、「私」ではなく、「父」だろう。だから、[Sには「不思議がある」]というのも、[Sには、Pが「不思議」がる要素がある]ということではなく、[Sが何かを「不思議」がる]という意味なのかもしれない。Sが「不可思議な私」(110)と記すのは、[「私」にとって、「不可思議な私」]という意味ではなく、[Pが「不思議」がるのも当然の「私」]という意味か。
 「こういう感じを先生に対して有っていたものは、多くの人のうちで或は私だけかも知れない」とある。Pは、[「不思議」な対象を見かけると、近づきたくなるのは、私だけでしょう]と、自己紹介しているのだろうか。
 「こういう感じ」とは、Sに「近づかなければいられないという感じ」のことだろうと思うが、ふらふらする。「不思議」だと思えば近づくのが普通だろうから、ここで「私だけ」というのは、おかしいようだ。「こういう感じ」は、[「不思議があるように思っていた」その思い]を指すのかもしれない。でも、「感じ」と[思い]では、かなり、ずれて来たなって感じ。
 Pは、なぜ、「私だけ」の「感じ」を話題にするのだろう。[Sに接近遭遇したのは、Pだけだ]ということは、「日本人にさえあまり交際を有たない」というSの発言があるから、ほとんど、疑う必要はない。PがSの発言を否定するのでない限り、[「多くの人」も同じ「感じ」を持っていた]という物語は実在しないわけで、だから、何かを否定する必要はないはずだ。[「多くの人」も同じ「感じ」を持っていたが、P「だけ」が接近遭遇した]という物語を、わざわざ、Pが否定するとしたら、その動機は、何か。
 そんな「感じ」は、誰にもないからだろう。Pにないというよりも、作者にない。作者は、必死になって、「直感」なるものを空想している。Pが接近遭遇する理由を、作者は想像できない。だから、魔法のような「直感」をPに付与する。
 「然しその私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいと云われても、馬鹿気ていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしく又嬉しく思っている」で、一応の締め。
 「然し」で、何をひっくり返したつもりか。前の文の「私だけ」と、この文の「その私だけ」では、場合が違う。だから、「然し」は、機能しない。
 「直感」が「証拠立てられ」るような性質のものだとしても、[「直感」は、Pにしかない]という話の流れなのだから、[「直感」が「証拠立てられ」るかどうか]という問題も、徹頭徹尾、Pだけの問題でしかない。「直感」を「証拠立て」たいと願う人物は、捏造してでも、「証拠」を[発見]することだろう。しかも、その「証拠」が「証拠」として成立するかどうかは、どうせ、「直感」のない人間には判定できないのだから、何とでも言える。しかも、「直感」の持ち主はPのみなのだから、本当は、「証拠」など、不要だ。不要な「証拠」を持ち出すのが、怪しい。
 「それを見越した」の「それ」は、何を指すか。[「私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられ」るということ]を「見越した」のか。
 「この直感」というのは、「こういう感じ」と同義だろう。「こういう感じ」とは、何か。「不思議」だろうか。[「不思議」を「見越した」]というのは、どういうことを指すのか。
 「それ」が[「事実の上に証拠立てられ」ること]だとすると、[「この直感が後になって事実の上に証拠立てられ」ることを「見越した自分の直覚」]というふうになって、堂々巡りのような気がする。もしかしたら、「直感」と「直覚」とは、別の概念なのかもしれない。あるいは、この堂々巡り以外に、Pには、何も語れないのかもしれない。
 「それ」は[「不思議がある」こと]なのかもしれない。しかし、「不思議がある」という言葉を、私は、ずっと、未知として考えて来たので、結局、何が何だか、分からない。具体的に何がどのように「証拠立てられ」るのか、分からないから、『こころ』読了後、実際に、何かが「証拠立てられた」ことになっているのかどうか、私には判定のしようがない。
 さて、唐突に、結論。「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、─これが先生であった」(6)とさ。
 ああ、とうとう、やっちゃいましたね。この異様な熱狂! それも、作り話の中の告白なのだから、所詮、作者の過剰な自己愛の表出に過ぎない。この「傷ましい」Nの姿を言葉の裏側に透視する能力の持ち主だけが、Nの言葉を日本語として受け取ることができるのだろう。
 Pは、何かを示したたつもりでいるのか。そこらから、本当に怪しい。
 [Sは、人間を愛する能力も願望もある。また、愛する対象もある。しかし、Sは、その対象を「抱き締める事」はできない]
 [Sは、酒を飲めるし、飲みたがる。酒を買う金もある。禁止する人もいない。でも、アルコール依存にはならない]
 Pは、何を訴えているつもりなのか。程度の問題を無視すれば、どんな出来事だって、「不思議」なことのように語ることができる。
 [原典]を見よう。
  傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づく程の価値のない
 ものだから止せという警告を与えたのである。他の懐かしみに応じない
 先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものと見える。
                                (4)
 ここで、「自分に近づこうとする人間」と「他」とは、同義であるはずだ。そして、Sに「近づこうとする人間」であり、Sに「懐かしみ」を抱く「他」とは、前後の事情から考えて、Pのみだ。静が「懐かしみ」云々という話はない。
 [原典]で言えることが[異本]でも言えるとしたら、「人間」と「自分の懐に入ろうとするもの」についても、Pについてのみ、語られていることになる。
 「これが先生であった」という結論は、おかしい。[こういうのが、SとPの関係だった]というべきだ。しかし、語り手Pは、関係の物語として示そうとはしない。あくまで、SとP、それぞれの固有性の問題として語ろうとする。
 Sの固有性は「抱き締める事の出来ない」という点にあるらしい。このことは、「他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していた」というふうに書かれている。だが、この言い回しは、錯綜している。
 この文は、二つに分解しなければ、理解できない。まず、[「他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する」ように見えるが、違う]という文が語られ始め、中絶する。次に、[Sは、「他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していた」]という、弁解めいた逆説が述部となる。この述部は、[Sは、「まず自分を軽蔑」「する前に」「他を軽蔑」「していた」]という文の誤記でないとすれば、常識的には、逆説としか、考えられない。「遺書」の、「世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念が何処かにあったのです」(106)という文を参照しても、このことは明らかだ。[Sは、「他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していた」]という文は、このままでは、意味がない。前提として、[Sは、「まず自分を軽蔑」「する前に」「他を軽蔑」「していた」]という文があり、これを受けて、[Sは、「自分を軽蔑する」ようになった]という文が続くのでなければ、おかしい。
 原文は、次のような、手続きによって生じたものと思われる。
 1.0[Sは、「まず自分を軽蔑」「する前に」「他を軽蔑」「していた」]
 2.0[Sは、「自分を軽蔑する」ようになった]
 3.0[この二つの理由から、Sは、「他の懐かしみに応じない」]
 3.1[「他を軽蔑する前に」は、「他の懐かしみに応じない」わけには行かない] 3.2[Sが「他の懐かしみに応じ」れば、「他を軽蔑する」可能性が生まれる]
 3.3[3.1と3.2より、Sは「他の懐かしみに応じない」]
 3.4[ただし、SがPという、特定の「他に懐かしみに応じない」理由は、1.0から3.0の物語によるものではない。2.0から3.0の物語によるものだ]
 3.5[1.0について、Pは、明言を避ける]
 3.6[SがPという、特定の「他を軽蔑する」ことは、回避されるべきだ]
 3.7[3.5と3.6を合成し、「他を軽蔑する前に」という条件を作り出す]
 3.8[3.7は、不合理だから、明示しない]
 こうした手続きによって、語り手P、あるいは、作者は、[1.0の物語]の隠蔽を試みているようだ。「遺書」読者としてのP、あるいは、『こころ』作者は、[1.0の物語]である、「叔父」一家とのトラブルに、この時点で触れるのを省略したかのようだ。しかし、常識的に考えれば、「叔父」一家とのトラブルだけが原因で[1.0の物語]が起動するとは、思えない。別の決定的な原因か、もっと複数の原因があるはずだ。作者は、この原因を隠そうとしているらしい。さらに、[2.0の物語]は、[1.0の物語]と関連づける必要はない。[2.0の物語]は、[1.0の物語]に矛盾せず、単独でも起動する。[Kの自殺の物語]さえあれば、十分だ。また、[Sと叔父一家の物語]と[SとKの物語]の関係は明瞭ではない。作者は、[1,0の物語]と[2.0の物語]が包含される物語を隠蔽していると思われる。
 隠蔽工作は、[Sにとって、Pは「軽蔑」の対象だ]という文の明言を回避するためにある。もしも、この文が明言され、そして、否定されたなら、Sの自殺という結末は、成立しない。隠された物語の中では、Sは、Pを「軽蔑」しているはずだ。Sにとって、[「尊敬」/「軽蔑」]はセット(14)であり、「遺書」では、Pへの「尊敬」(56)が記されているのだから、暗い部分では、Pは、やはり、「軽蔑」されているはずだ。この不毛な対立は、[血の呪法](56)によって贖われると予言されるのだろう。勿論、この予言が実現したという話は、ない。
 [「他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していた」→「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、─これが先生であった」]という飛躍の過程で、[「自分を軽蔑」という自虐の物語]が、「他を軽蔑する」という過剰防衛の物語]を隠蔽する。[過剰防衛の物語]を再生すれば、その原因であるところの、恐ろしい記憶も再生するからだ。この記憶の隠蔽は、[自虐の物語]という不合理な物語では不十分なので、[人類愛の困難の物語]という[小さな巨人の物語]が重しのように乗っかることになる。「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない」などというのは、ものの言い方次第で、万人にとって不可避な現実であるはずだ。例えば、ただ立っているという状態は、[動こうとして動かない状態]であり、これは一種の矛盾体だが、自然体でもある。ところが、作者は、ありふれた状態に[実現不能の意欲の物語]を絡ませて、[動きたくても動けない状態]を示唆し、瓢箪から駒が出るように、無内容の[人類愛の物語]を暗示する。
 [Pは、Sに接近しつつも、「物足りない」(4)思いをする]という挿話は、全体の主題に係わるものだ。この挿話の根幹は、不合理な文で示されている。この不合理は、解決されるどころか、複雑に重なり合い、意味不明になる。
 『こころ』は、[Pの欲求不満解消の物語]として始まりながら、その話題は消滅する。最終的に欲求不満を解消するのは、語り手Sだ。
  始めは貴方に会って話をする気でいたのですが、書いてみると、却って
 その方が自分を判然描き出す事が出来たような心持がして嬉しいのです。
  私は酔興に書くのではありません。
                               (110)
 「遺書」を「酔興に書く」などと、誰が疑うのか。語り手Sだ。いや、作者だ。
//「話す事の出来ないある理由」
 「不思議」という言葉に纏わる「不思議」は、Pが「雑司ケ谷」(4)について言及した後になって解消される。「話す事の出来ないある理由」(6)という謎めいた言葉を、Sが吐くからだ。すると、誰しも「不思議」だと思うことだろう。Pも、「私は不思議に思った」(7)と、やっと、私にも抵抗なく受け入れられる書き方をしてくれる。だから、Pは、「最初から先生には近づき難い不思議があるように思っていた」(6)というよりも、Sが墓参りについて謎めいた言葉を吐いた後で、「不思議」(7)だと思ったのであって、つまり、[PがSを追って、わざわざ、雑司ケ谷まで赴く目的は何だったのかと言えば、Sを「不思議」に思うためだった]ということになる。
 Pに発見され、Sは、「私の後を跟けてきたのですか」(5)と尋ねる。普通なら、Sは、[Pも、誰かの墓参りに来て、偶然に出会った]と考えるはずだ。Sのこの発言は、罪悪感を持つSの追跡妄想を示唆するというよりは、語り手Pが語られるPを追跡していたら、PとSの出会いに立ち会っていたというような、作者の印象の表出だろう。
 語られるPは、[Sには「近づき難い不思議があるように思っていた」]と、語り手Pが記すために、「最初から」行動していた。Pは、後に、「雑司ケ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思い起し」(6)たくて、雑司ケ谷に向かう。こうした物語を、[Pに自覚できない記憶の偽造]として解釈することはできない。そのような解釈をすると、「若々しいと云われても、馬鹿気ていると笑われても」(6)などと凄んで見せるのが、滑稽極まりないものになってしまう。
 さて、Sの「予期するあるもの」(4)が、「不思議」ではなく、[「不思議がある」こと]なら、それは「眼の前に満足に現われ」(4)たと言える。作者は、作品の中に、執筆予定を書き込んでいたらしい。その意味では、「証拠」とは、墓参りについての謎めいた発言のことを指し、よって、[「不思議]の物語]は、ここで終了。Pは、「予期するあるもの」に遭遇した。勿論、「不思議」の中身は、相変わらず、「満足に現れ」てはいない。しかし、それは、「何時」、現れるのだろう。「遺書」によって、「不思議」は、明瞭に現れることになるのだろうか。ならないと思うな。勿論、「遺書」そのものは原稿用紙の束として明瞭に出現する。そして、それを得て、Pが「満足」したというのだろうか。[Sは、Pがいても、いなくても、きっかけさえあれば、死ぬことに決めていたのだから、そのきっかけをPが作ったのかもしれないとしても、Pは、悲しんだり、悩んだりするはずがない]と、作者は考えているのだろうか。
//「不可思議な私」
 [「不思議」は、Sの光背であると同時に、その輪郭を形成するのだから、「最初から」(6)最後まであるのでなければならない]と、作者は考えたのだろうか。Sは、「私は私の出来る限りこの不可思議な私というものを、貴方に解らせるように、今までの叙述で己れを尽した積りです」(110)と書くことになる。
 [「私は私の」・「私というものを、貴方に」・「己れを」]と、Sは、「私」と「貴方」を混同しないように苦心している。こんな大変な作業を必要とする「私」こそが、「この不可思議な私」なのだろう。
 [作者は、語り手Sに「出来る限り」、語られるSが読者の目に「不可思議な」人物として映るように語らせようと、「今までの叙述で」、作者としての技巧を「尽した積りです」]といった気持ちの表出か。
 Sが自分について語る「不可思議な私」というときの「不可思議」は、[PがSに対して持っていた「不思議」(6)]のことではなかろう。Sが、Pに、[PがSに対して抱いていた印象は、「不可思議」というものだよ]などと「解らせる」必要はないはずだからだ。
 驚くべきことに、Sは、[Sにとって、Sは「不可思議」な存在だ]と主張しているらしい。自分を「矛盾な人間」(55)と語るのと同工異曲か。本当に、Sは[自分自身を自分にとって「不可思議」な存在]と見做し、そのうえで、そんな自分を他人に「解らせ」ようとしているのだろうか。対象が何であれ、自分にとって「不可思議」な何かを、他人に理解させることはできない。もし、Pが分かったと思っても、それが正解かどうか、Sには分からないはずだ。自分で自分を不思議がる人物など、ナンセンス文学の中にしか、居そうにない。もし、Sが自分自身を「不可思議」だと思っていたとしても、具体的に何を指してそう思うののか、私には分からない。
 Pにとって「最初から」あった「不思議」は、「遺書」読了後には、「不思議」ではなくなっているのだろうか。「遺書」読了後も「不思議」のままなのだとしたら、Pは、自分にも理解できないSの「遺書」を、どうして、「外の人」(110)に示すのだろう。「解釈」(66)しろという、Sの遺言が果たせないから、「外の人」の助けを借りようというのか。逆に、「解釈」ができたのなら、なぜ、それを披瀝しないのか。披瀝する必要のないほど、自明なのか。だったら、なぜ、Sが自分で「解釈」できないのだろう。
 答えは、単純で、そして、不合理なものだ。『こころ』には、作者にも「解釈」できない「不思議」な物語が綴られているからだ。つまり、失敗作だからだ。
 [「不思議」の物語」とは、[何の根拠もなく心が通じ合うSとP/の物語]だろうか。むしろ、根拠はあってはならないとさえ言える。根拠のなさが、何かしら、純一無雑でいいような感じがするのだろう。
 『こころ』には、ドラマは、1個しか、含まれていない。そのドラマこそ、「不思議」なものだ。それは、「遺書」によって、[SとPの物語]が、[語り手Sと聞き手Pの語りの場]として、作品の空間の外側に形成されるというドラマだ。
 [S-P]間で[「不思議」/「不可思議」]という単語が流通可能になる理由は、SとPの人間関係の特殊性にはない。Pの受信者としての特殊性にある。もしも、[「不思議」/「不可思議」]の流通がSとPの関係の特殊性にのみ依拠するものならば、「外の人」への回路は開かない。Sに会わなかった人は、全員、[Sの物語]を「受け入れる事の出来ない」(56)人であるはずだ。Pをお手本にして自己変革を遂げた「外の人」が、仮定されていると考えなければならない。
 Pの聞き手X、及び、SがPの頭越しに仮定する、Sの聞き手である「外の人」(達)は、「真面目」(56)で、「解釈」(66)する「頭」(66)があるので、Sから、「尊敬」(56)という、元手要らずの、しかも、いつ、「侮辱」(14)に転化するか、知れたものではない、結構なものを頂戴できる。そして、「遺書」を拝読する光栄に預かる。こんなにも素敵なお仕事をなさったというのに、Sは「徒労ではなかろう」(110)などと、ご謙遜を。
//「不思議な恐ろしい力」
 自分は「何をする資格もない男だ」(109)という思いに苛まれていると自認する人物の語る「人道」(108)などという言葉を、読者はどういう構えで受け取ればいいのか。「謙遜過ぎて却って世間を冷評する様にも聞こえ」(11)るが、どうやら、そうではないらしい。わけが分からない。分からない理由は、単純だ。「人道」を語るSと、「御前は何をする資格もない」(109)と告げる「不思議な恐ろしい力」(109)の持ち主とが、別人だからだ。Sは、「力」の持ち主に向かって、[そういうお前に、人を裁く資格はあるのか]と尋ねてみたら、どうか。
 「世の中に働きかける資格」などという、奇妙な「資格」を捏造すること自体が、「世の中に働きかける資格」の欠如だと言うべきだろう。Pは、Sのこの発言を耳にした時点で、Sを胡散臭い人物として「研究」(7)しなければならない。少なくとも、普通の読者なら、[この二人、変だぞ]と思うはずだ。あなたは、思いませんか。
 『こころ』の中の年表には、[Sは、若い日の過ちのせいで、自分から「資格」を剥奪した]と記されているのだろう。しかし、作者の時間では、Sの「資格」は、「最初から」剥奪されている。その理由を捏造するのが「遺書」だと言える。この時間の逆転は、[「近づき難い不思議」(6)の物語]が[雑司ケ谷の場](4~5)を挟んで逆転していることと同じ原理に基づく語りだ。『こころ』では、因果関係は、しばしば、逆転する。
 「最初から」Sが無「資格」である理由は、『こころ』では、明示されない。代助が無職なのは、彼自身の「資格」の有無ではなく、「日本対西洋の関係が駄目だから働かない」(『それから』6)とのことだった。作者は、本来は、自信の問題であろうことを、あるときは「世の中」(同6)のせいにしたり、あるときは自虐的な「資格」の物語として語る主人公達を製造することによって、回避している。あるいは、自信という話題は、読者には刺激が強すぎるとでも思って、いろいろと趣向してくれているのかもしれない。
  おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口
 癖の様に云っていた。何が駄目なんだか今に分からない。妙なおやじが
 有ったもんだ。
                           (『坊ちゃん』1)
 ここで、「おれ」が「駄目」である理由を「おれ」が知らないのは、不合理ではない。「駄目だ」と言うのは、「おれ」の「おやじ」であって、「おれ」自身ではないのだから。しかし、「おれ」は、その理由を知ろうとすべきだ。知る権利はある。一方、Sは、自分で自分を無「資格」者として設定したのだから、Sが無「資格」者である理由をSが知っているのは当然であるはずだ。ところが、Sの心理は、「何が駄目なんだか今に分からない」といった状態の悪化したもののようでもある。「おれ」とSの間には、例えば、代助がいて、「日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ」(『それから』6)などと、「少し胡麻化していらっしゃる」(同6)が、本音は、やる気があるかのように記されている。同じように、Sが失格した理由も「遺書」に記されているかのようだから、Pは、「遺書」読了後には、その理由を知ることになるかのようだが、確実に知ったという記述はない。この主人公達のどの認識が作者のものに近いとか、あるいは、作者の社会観の変遷を反映しているとかいないとか、そんな問題を爼に載せるのに十分な情報は盛られていない。むしろ、[作者は、読者を欺き、誤読を誘発している]という疑いが濃厚だ。
 私は、[個体としてのNは、社会について、真剣に考えていなかった]などと主張するつもりはない。そんな主張は、誰についてであれ、無効だ。おとなの男は、ある程度の年齢になると、誰しも、社会問題にいっちょかみしたがるものだ。Nも、おとなの男だから、彼なりに、考えることもあったろうし、あるような雰囲気の話もしている。しかし、それらの話から私に感じ取れるのは、雰囲気だけだから、『こころ』読解の足しには、ならない。
 そもそも、[「資格」喪失の物語]における「資格」が、Sの自前の「資格」なのだから、そんなものを喪失したとしても、実際には、Sは何も失ったことにはならない。また、[獲得の物語]がないのに[喪失の物語]があるような事態は、「不思議」と言うよりも、嘘と言うべきだろう。やって来なかった宿題が[なくなる]って、ありがちよね。
 『こころ』では、[「資格」獲得の物語]はなく、[「資格」喪失の物語]もそこそこに、[「資格」喪失の理由の物語]が、ブイブイ、言う一方で、「御前は何をする資格もない」という「不思議な」声が、物語を隠蔽したまま、浮上する。この声なき声こそが、語られるSを引きずり回す張本人だろう。
 Sと「不思議な恐ろしい力」の持ち主との問答は、『道草』で語り直されることになる。
   彼の頭の何処かでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそ
 れに答えたくなかった。
                            (『道草』97)
 健三は、「答えたくなかった」のではなくて、質問者の顔を直視したくなかったのだろう。彼は、何かが「分らないのじゃあるまい。分っていても、其所へ行けないのだろう。途中で引懸っているのだろう」(同97)と指摘するところの「質問を彼に掛けるもの」の顔を直視すべきだ。さもなければ、「一遍起ったことは何時までも続くのさ」(同102)
 [健三の「頭の何処か」にいる「質問」者は、誰か]ということを、作者は知らないのか。知っていても「答えたくなかった」ので、「質問」を、「質問」者ごと、消してしまおうとしたか。
 どちらにせよ、その「質問」者を消してはならない。「何が駄目なんだ」と問い返すべきだ。すると、「何にもせぬ男」が答える。[「貴様」は、「親譲りの無鉄砲」(『坊ちゃん』1)だから、「駄目」なんだ]と。そうか。そう来るか。そう来たら、こう聞こう。「親譲り」の「親」って、誰のこと。


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