『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#066[世界]26先生とA(16)「真面目」

//「私というものを打ち明ける」
 「私は私の出来る限りこの不可思議な私というものを、貴方に解らせるように、今までの叙述で己れを尽した積りです」(110)という文は、何を語っているのだろうか。[「私は」、「私というものを、貴方に解らせる」]という文は、具体的に、何を指すのか。
 「この私というものを打ち明ける」(86)という言い回しもある。あるいは、「自分を細君に説明しよう」(『道草』77)という例もある。類似の表現は、探せば、もっと、見つかることだろう。作者は、こうした言い回しによって、具体的に、何を語った気でいるのか。「積り」の話に過ぎないとしても、どういう「積り」か。
 例えば、私は、久しぶりに会った人に、別れてから現在までの出来事を語る。だが、その人と出会う前の話はしない。出会ってから別れるまでの間に相手が形成していたはずの過去の私の像と現在の私の像を繋ぐために話をするだけだ。全体的な「私というもの」を伝えようなどとは、思いもよらない。聞き手にとって必要だと思われる情報だけを伝える。尋ねられたこと、尋ねられそうなことに、答える。
 語り手Sは、Pに何を尋ねられたと思って、「遺書]を書くのか。語り手Pは、Sに何を尋ねたと、Xに思わせたがっているのか。語られるSは、Kに、静への思いを告げられない理由を記すが、告げる理由は、もともと、ない。[Kは、静に対する、Sの思いを知りたがっている]と、Sに思えるわけがない。そもそも、何かをしない理由など、問われもしないのに、告げる必要はない。告げる必要がないどころか、告げる権利がない。語られるSは、静が、何を知りたがっているから、静に「私というものを打ち明ける」気でいたのか。静が「知りたくって堪らない」(19)ものは、本当は何だと、『こころ』読者は考えるべきか。
 もしかしたら、作者には、[誰も知りたがらないようなことでも、人には、誰かに語りたいことがあるものだ]と信じていたのかもしれない。言うまでもなく、こんな事態は、実際には、あり得ない。誰かが質問しそうなことしか、人間には考えられない。[誰も質問しそうにない話題]を考えつく人は、質問しそうな誰かの姿を想像したくないのだろう。質問の内容や質問者の意図などを知らなければ、解答は絞り込めない。絞り込めないままの解答は、それを告げた「積り」になることしかできない。
 [「私というもの」でも、昆虫という「もの」でも、それを理解したり、説明したりする]という文は、日本語としては、成り立たない。こうした言い回しは、外国語の直訳のようだ。丁寧に言えば、[「私」の言うことを理解したり、昆虫の生態を説明したりする]などとなる。
 語り手Sは、[「私は」、「私だけの経験」(76)を書いた「ものを、貴方に解らせる」]と書いたのではなさそうだ。[「私だけの経験」を書いた「私というものを、貴方に解らせる」]と書いているつもりらしい。また、[「私は」、「殆んど信仰に近い愛を有って」(68)いることを「打ち明ける」]というのではなく、[「殆んど信仰に近い愛を有って」いる「この私というものを打ち明ける」]と書いたつもりらしい。「私というもの」の中身は、いつまでも、出て来ない。中身のないものを、「解らせ」たり、「打ち明け」たりすることは、できない。作者は、物語の中身、[φ-N]を語らずに、何かを伝えたいらしい。ところが、その試みは起動しない。分かり切ったことだ。ところが、起動しない理由を、作者は、[作者と「個性の一致」(『猫』11)した受信者の不在]に求める。つまり、[N-φ]を偽装する。また、[受信者が不在なら、捏造してしまえ]と捏造してしまったのが、Pだ。
 [「私は」「私というものを、貴方に解らせる」]という文、あるいは、[「貴方」は、「私というものを」「解」る]という文は、正確には、何も指さない。だから、何も指さないような文を「叙述」する「私というもの」は、「不可思議な」存在になるに決まっている。「私は私の出来る限りこの不可思議な私というものを、貴方に解らせるように、今までの叙述で己れを尽した積りです」という文は、[「私は私の出来る限り」、「私というものを、貴方に解らせるように、今までの叙述で己れを尽した積り」で、その過程で、「私は」、語る「私」か、語られる「私」か、分からなくなって、「この不可思議な私というもの」になってしまいました]とでも記すべきだ。
 語り手である「私」(I)は、「叙述」の対象である自分(me)を、「私というもの」に変換しようとする。この「私というもの」とは、[「私」(me)について「叙述」する「私」(I)]のことだ。だから、Sの「遺書」とは、[Sは、Sについて語るSであると語るSであると語る……Sであると語るSである]という文に、つまり、「Sは、Sである]という文に肉付けを施したものに過ぎない。だから、『こころ』とは、[Pは、(SというものがSについて語るSであるということを語るSであるということを語る……Sであると語るSである)という文を理解する]という文、つまり、[Pは、(Sは、Sである)という文を理解する]という文に肉付けを施したものだ。
 [Sは、Sである]という文は、「私はその人を常に先生と呼んでいた」(1)という文として出現する。[Pは、(Sは、Sである)という文を理解する]という文は、[Pは、「私はその人を常に先生と呼んでいた」という文を理解する]というものだが、これは、「私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ『先生』と云いたくなる」(1)という文として出現する。この語り手Pの気分が聞き手に「乗り移って来るよう」(69)であったり、「そういうところに釣り込まれて来る位」(76)になると想像できれば、『こころ』読者の「胸に新らしい命が宿る事が出来る」(56)という手筈らしい。
 要するに、『こころ』は、「私はKの説に賛成しました」(73)という文の拡張されたものに過ぎない。「Kの説」の要素は、「漠然とした言葉」(73)であり、実は、「空虚な言葉」(76)だ。だから、『こころ』読者が「賛成」したりしなかったりする対象は、「説」ではないし、「言葉」でもない。不合理なことを語りたがる語り手が「説」や「言葉」として浮上させられない[「私というもの」の物語」において語る「積り」であるところの「道」(73)だ。いや、本当は、「道」とさえ言えないのだろう。だから、Kは「彼の用いた道という言葉は、恐らく彼にも解っていなかった」(73)としても、許される。また、「道」という「漠然とした言葉が尊く響いた」(73)というSも、耳鼻科に通う必要はなかった。『こころ』読者は、[Kも、Sも、Pも、若さの特権によって、「大きな真理」(23)や「大きな人道の立場から来る愛情」(108)を「直感」(6)する]といった仄めかしを読み取った「積り」にならなければならないのだろう。
 なお、ここで、「真理」や「人道」という言葉は、神から来たのでもなく、社会から来たのでもなく、PやSの詭弁か妄想の産物でもないとしたら、作者の詭弁か妄想の産物だろうという疑いを、わざわざ、付け加える必要はないと思えるようなら、私は、たった今、この作業を中止することができる。
//「若々しい」
 Pは、誰かから自分に向けられた「若々しい」(6)という形容詞を、受け入れるつもりか。「若々しいと云われても、馬鹿気ていると笑われても」(6)と言ったり笑ったりするのは、誰だと、Pは想定するのか。Sか。「世間」(1)か。Pの家族か。聞き手Xか。Pの被害妄想か。
 「若い血がこう素直に働こうとは思わなかった」(4)というときの「若い」という言葉と、「若々しいと云われても、馬鹿気ていると笑われても」というときの「若々しい」という言葉は、明らかに違う。[「若々しい」=「若い」×2]というようなことだけでなく、また、「若々しい」という言葉に皮肉がたっぷりと含まれているからでもない。
 「若い」ことは「素直」と背反するらしい。一方、「若々しい」ことは、皮肉な意味で、「素直」と同じだ。「若い」と「若々しい」の間に、何があるのか。これらの形容詞を用いる主体が違う。「若い」という言葉を用いるのはPだが、「若々しい」という言葉を用いるのは、正体不明の誰かだ。誰にとって正体不明なのかさえ、分からない。Pにとってか。作者にとってか。あるいは、不明なのは、私だけかもしれない。
 とにかく、[「若い血」は「素直」に働く]という文と、[「若々しい」のは「馬鹿気ている」]という文は、それらが指し示す対象の違いによって使い分けるべきであって、それらを用いる主体の違いによって、そっと変えて見せるのは、おかしい。ある言動に対して、「素直」とか、「馬鹿気ている」といった判断を下す理由は、主体の趣味による以前に、まず、話題となっている言動そのものの価値の違いにある。私達は、論評を加えるとき、対象そのものの価値を巡って議論しているはずであり、前以て対象の価値を固定して、その後、論者の価値観を競っているのではないはずだ。
 Pは、誰かが、[若者は、短絡的行動を取る]と思っていると思っている。同時に、P自身は、[若者は、短絡的行動を取らない]と思っていた。ところが、Pは、Sに対して、自分でも短絡的と思える行動を取った。しかも、Sに対して「素直」であることは、短絡的だったとしても、結果的には、Pにとって、好ましい事実だろう。となると、誰かの観点は、概ね、Pの現実に適合していることになる。ところが、Pは、自分の想定する誰かの判断に含まれた皮肉の要素に、過剰に反応して、[「素直」な行動は、誰かが非難する]と考えているかのように語る。
 Pは、かつては、[若者は、「素直」に動かない]と思っていたのだから、非難するとしたら、まず、[過去の自分は、現在の自分を非難する]と考えるべきだ。ところが、Pは、[過去の自分の観点と現在の自分の行動を突き合わせて反省する]ということをしないで、その代わりに、[自分を非難する誰かを想定し、それと闘う]という演技を、自分自身に向かって、して見せる。しかも、[「馬鹿気ていると笑われても」-「嬉しく思っている」(6)]というふうに文が捩れて、架空の戦闘さえ立ち消えになる。自己満足が空しいものだとしても、事実なら、仕方がない。架空の戦闘の勝利の喜びは、危ない。
 こういう態度は「馬鹿気ている」と、私は思う。年齢とは、関係がない。Pは、なぜ、こうも、攻撃的になるのか、Sに対しても、誰かに対しても、「世間」(1)や自分の家族に対しても。攻撃性は若者の習性だからか。違う。この疑問は、作者に向けるべきだ。Pが苛々するのは、作者がSを信用できないからだ。作者は、Pを通して、Sに対する焦慮を表出している。この焦慮を、しばしば、Sは自分自身にも向ける。Pも、Sも、作者も、苛々している。何か、大事なことを語ろうとすると、つい、自己欺瞞の劇を演じてしまうからだろう。自己欺瞞を欺瞞と気づかなければ、「不思議」(3)に思えるのかもしれない。
 [P-X]のXは、作者の混乱に巻き込まれ、誰かから、もしくは、「世間」から切り離される。混乱にも拘わらず、ではない。混乱に巻き込まれるのでない限り、人は、「世間」から離脱することはない。混乱という言葉が不適切なら、「理解し得ないために起るぼんやりした希薄な点」(108)とか、「唯ぼんやりした不安」(A『或旧友へ送る手記』)とでも言おうか。
 勿論、方法的な、一時的な[脱俗の物語]は、あるイデオロギーの内部に身を置けば、意味をもつ。しかし、そのとき、[脱俗の物語]に先立ち、特定の[イデオロギーの物語]が語られなければならない。しかし、SやPのイデオロギーは、語られていない。また、[脱俗の物語]は、K批判によって、その否定が代行されているはずだ。だから、読者が[脱俗の物語]を読んだような気がするとしたら、あなたは自前の作りかけの、「損料着」(56)でない[脱俗の物語]に、自分で自分を閉じ込めたのだろう。Kのように。
//「手をひろげて抱き締める」
 「手をひろげて抱き締める事の出来ない人」(6)と、Pは記すが、「手をひろげ」たままで「抱き締める事」は、誰にも「出来ない」はずだから、ここは、[自分の懐に入ろうとする人を抱き締めるために、手を広げ、その後、抱き締める]ことが話題なのだろう。「抱き締める」というのは、愛情表現の換喩だろうか。「愛し得る人」(6)と書いてあるから、[人を愛することのできない人]ではあるまい。では、[愛情はあっても、表現ができない]という意味か。
 「懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事」を、普通、誰が誰にするかと考えると、親が子にする。 「懐かしみ」(4)が「懐に入ろう」という表現に変わる過程で、「懐」という文字がジョイントになるらしい。[SとPの物語]は、[親子の物語]らしい。では、なぜ、SはPを子分にしたがらないのか。子分になりたいのは、Sの方だからだ。子分どころか、Pに「宿る事」(56)を望んでいる。胎児期から出直す気だ。
 Pは、[SとKの物語]の[世界]を、その原典を読む前に身に付けるという難題を与えられている。[SとKの物語]の根本にある何かを察知していないと、[SとKの物語]を読む資格は与えられない。このルールは、実は、私達にも適用されているらしい。
 Sは、Pに会う前から「自叙伝」(110)を構想しているが、適当な読者像を想定できないので、執筆しかねていた。Sの読者は「淋しい人間」(7)でなければならない。初め、Pは「私はちっとも淋しくはありません」(7)と言うのだが、本当は淋しいのに、「淋しさ」(7)を自覚できなかったのだろうか。そして、Sは、Pに、わざわざ、「淋しさ」なるものを自覚させてやるために、冷たくするとかしないとか、そういう話か。
 「傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づく程の価値のないものだから止せという警告を与えたのである」(4)というわけだが、このPの感想は、おかしい。Sは、なぜ、言葉によって「警告」しなかったのか。Sは、「警告」など、発してはいない。Sは、「淋しさ」を表出しただけだ。しかし、「乗り超えた人」(『道草』78)となったPは、Sの表出を、鋭い表現である「警告」として理解できるようになった。作者の時間では、「乗り超えた人」候補として、Pは登場する。彼らは互いに、「乗り超えた人」であり、また「乗り超えた人」を「物色する事の出来る眼」(同76)を持っていたので、うまく出会えた。とかいうのは、いったい、どんな物語だろう。[「不思議」の物語]かなあ。
 なぜ、[Sは、「傷ましい」]と、Pは思うのか。[Sは、自分を「価値のないもの」と見做す]からか。あるいは、「警告」を表現できなかったからか。「警告」であれ、何であれ、まともな表現手段を持たないから、Sは「傷ましい」のだろう。だったら、Pも「傷ましい」ようだ。実は、作者こそが、「傷ましい」のだろう。
//「傷ましい先生」
 Sは、Kの長所を明確に示さないばかりか、その欠陥に気づいていながら、Kを崇めるふりをする。Sは、Kの欠陥を大目に見てやることで、自分の未熟さや欠陥から目を逸らすことができた。Sは、自分とKに共通すると感じている欠陥が、「天下」(73)には了解不可能な、神秘的な価値を有するものであるかのように語る。もし、その欠陥が「天下」の不評を買いそうに思われれば、Sは、自己弁護のためではなく、「母のない」(75)「親友」(78)を守るという大義名分を盾にして、闘うつもりだ。Sは、そのとき、自分の行動を、エゴイズムを超克した犠牲的精神の発露と欺瞞することだろう。SがKに与える敬意は、元手要らずであるばかりか、その真偽さえ確認できないような、奇怪な代物だ。
 責任のすべてを一人で背負おうとするのは、病識の欠如した病人にありがちな英雄主義だ。英雄は、何でも知っていて、どんな苦痛にも耐えられると自慢する。耐えられないときは、自殺する。少なくとも、その「覚悟」(96)はある。[KやSは、英雄物語の主役だ]と、Kも、Sも、Pも、作者も考えている。彼らは、[自分の知っているK、あるいは、Sは、英雄ではない]という事実を弁えているくせに、あくまでも、[英雄の物語]を[世界]にして語ろうとする。
//「心の底から」
  あなたが権利を奪われたとき、
  たとい人があなたに唾を吐き、悪態をつこうとも、
  あなたの偉大な行為の純正さがあなたを守ります。
  いかにしても僕らからただ一つのことだけは奪うことはできません。
  僕らが心の底からあなたを信じていることを、
  なぜならあなたはドイツの未来だからです、あなただけが! 
  (シーラハ「ドイツ人アドルフ・ヒトラーに」/平井正『ヒトラー・ユーゲ
   ント』から再引用)
//「真面目」
 「懐かしみの根」(30)という言葉の次に持ち出されるカードが「真面目」(31)だ。その後、[最後の「晩餐」](32~35)が開かれる。Pが使徒と見なされる儀式があって、「両親と私」という試練が始まる。ここで、Pの「真面目」ぶりが試される。この試練は、Sには見えないし、語られるPに自覚されてもいないから、聞き手Xのために、語り手Pが語られるPを美化して見せる場面なのだろう。ところが、私の目には、美化になっていない。
 この試練は、「心得があって母を欺むいたと同じ結果に陥った」(47)り、「兄」のS批判(51)に抗うところをXに見せつけたりしながら、危篤の父を置いて上京する(54)という選択で終了する。しかし、[Pは、家族思いだ]という物語は希薄だから、Pの犠牲がどれほどの大きさなのか、計量できない。むしろ、[家族からの離脱を正当化する口実として、Sが賛美されている]と考える方が分かりやすい。
 では、Pは、本当に、「真面目」なのだろうか。いや、その前に、「真面目」とは、どういう状態か、考えなければならない。「真面目」とは、誠実という意味ではない。「大胆」(31)の一部らしい。
  「あなたは大胆だ」
  「ただ真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
  「私の過去を訐いてもですか」
                               (32)
 「私はあなたの意見を軽蔑までしなかったけれども、決して尊敬を払い得る程度にはなれなかった。あなたの考えには何等の背景もなかったし、あなたは自分の過去を有つには余りに若過ぎたからです」(56)という雰囲気を醸し出されれば、血の気の多い青年なら、[では、おまえの「背景」とやらを伺おうか]と迫ることは、目に見えている。だから、実際には、[Pは、Sに「焦慮」(13)されて巻き込まれた]と考えるべきだ。Sによるフォーシング。相手に自由があると思わせておいて、一定の方向に誘導する方法だ。Pは、どうしても、[Sの「過去」の物語]の聞き手にされるようになっている。このことは、作者がやっているというよりも、Sがやっているみたいだが、勿論、そんなはずはない。Sは、Pを、自殺のためのスプリング・ボードに利用したとしか思えないが、そんな読み方は、通用しない。[語り手Pは、Sの自殺から逆算して、無理な筋立てを考案した]といった皮肉を読むこともできない。SがPを籠絡する手管の数々は、作者にとって、自然なものと見做されているわけだ。呆れたね。
 Pが「人間のどうする事も出来ない持って生まれた軽薄」(36)というものを信じるとすれば、「私の命が真面目なものなら」(31)という仮定は、否定されそうだが、否定されない。Pの「軽薄」は、Pの欠点ではなく、「人間」の欠点だからだろう。「軽薄」にも救いはあって、たまに「大胆」になれて、「真面目」にもなれる。要するに、Pは「若々しい」(3)のだろう。
//「半分独言」
  「これでも元は財産家なんだがなあ」
  先生の言葉は半分独言のようであった。それですぐ後に尾いて行き損
 なった私は、つい黙っていた。
  「これでも元は財産家なんですよ、君」と云い直した先生は、次に私の顔
 を見て微笑した。私はそれでも何とも答えなかった。寧ろ不調法で答えら
 れなかったのである。すると先生が又問題を他へ移した。
                               (27)
 「不調法」なのは、お互い様ではないか。このSの態度は、[私の過去を暴け]とせかさんばかりだ。
  「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解ってる癖に、
 はっきり云ってくれないのは困ります」
  「私は何にも隠してやしません」
  「隠していらっしゃいます」
  「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃご
 ちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、
 自分の頭で纏め揚げた考を無暗に人に隠しやしません。隠す必要がない
 んだから。けれども私の過去を悉くあなたの前に物語らなくてはならな
 いとなると、それは又別問題になります」
                               (31)
 Sは、「別問題」という言葉によって、却って、その「問題」へと、Pを誘導してしまう。墓穴を掘り続けるSの姿が、語り手Pには見えないらしい。
 「はっきり云ってくれないのは困ります」という訴えに、「隠してやしません」という言葉は、対応しない。[はっきりと言う]ことと、[隠さずに言う]ことは、別だ。もし、Pの訴えの裏側に、[Sは、何かを隠している]という思いがあると勘ぐっていたために、Sがこのような対応をしたとしても、語り手Pによれば、Pの訴えは「思想上の問題に就いて」(31)だったのだから、このとき、語られるPは、Sに向かって、[いや、隠すとか、隠さないというような問題ではありませんよ]と応じるべきだったなあと、語り手Pは反省すべきだ。
 語り手Pは、Xを騙しているか、あるいは、語られるPがSに巻き込まれたことに気づかず、しかも、語り手Pも気づかないでいるか、どちらかであるはずだ。作者は、そのどちらでもないかのような展開を示す。
 [「思想」と「過去」の関係]という話題を、Sが、わざわざ、提出すると、Pは、また、この話題にも飛びつく。そして、「別問題とは思われません」と発言する。Sが墓穴を掘ったのでなければ、PがSに掘らせたのだろう。どちらでもないとしたら、[Sは、Pに強いられたかのように、自分の墓穴を掘って見せたが、Pはその過程に気づかない]とでもいったような、ややこしくて、無用の気配り話になる。
 そもそも、SとPのように、飛躍だらけの会話を持続する人々が、この世に存在するとは思えない。存在するとしても、親しみが生まれるとは思えない。語られるPがSに対して「反抗」(11)するどころか、語り手Pまでが、「研究的に働らき掛けたなら、二人の間を繋ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう」(7)と思うのだから、ブリッ子話だ。Pは、Sの「態度に畏縮して」(31)しまうし、正当な質問さえ、「無遠慮」(31)と卑下して回想する。小波も、Pの頭の中では、大波だ。「私の精神は反抗の意味というよりも、(中略)残念だったからである」(11)などと、聞き手を翻弄する。ここは、実は、[語られるPは、Sに反抗した]のだが、語り手Pは「反抗」の意志を隠蔽したいのだろう。
  代助の頭は急に三年前に飛び返った。当時の記憶が、闇を回る松明の如
 く輝いた。
  「三千代を僕に周旋しようと云い出したものは君だ」
  「貰いたいと云う意志を僕に打ち明けたものは君だ」
  「それは僕だって忘れやしない。今に至るまで君の厚意を感謝している」
  平岡はこう云って、しばらく瞑想していた。
                          (『それから』16)
 元親友の敵同士が、闘いながら、仲良く、対句を拵えている場面だ。二つの台詞を、「記憶」と「瞑想」がサンドイッチしながら、怪しく通じ合う。この後、敵同士が共同作業で回想を語ることになるのだが、こうした怪しさが、SとPの間にもあって、私には意味不明の緊張感を作り出している。
 要するに、作者の自問自答を、登場人物が交互に台詞にしているところらしい。作者は、この対句の後に、「今に至るまで君の厚意を感謝している」という、場違いな文を持ち出す。この文は、作者が平岡の過去の気持ちとして書くべきことであって、「今」の平岡に言わせるのは、おかしい。「今」の平岡は、会話の流れとしては、[それは、話が違うよ]と言うべきだ。その後、「なんだって、僕の為に三千代を周旋しようと盟ったのだ」(同16)と続けなければならない。しかし、代助が平岡の台詞に対句で答えたのに押しまくられ、「今」となっては空しい「厚意」に「感謝」させられてしまう。彼らは、ここで、こういう話を蒸し返しても仕方がないのだから、会話が途切れ、平岡は「瞑想」に入ることになる。当然、代助も黙っていたはずだ。
 Sの「半分独言」の残り半分を、「瞑想」に入らずに、Pが担当しようとすることが、「真面目に人生から教訓を受けたい」(31)という姿勢なのだろう。
//「因縁」
 Nは、他人の心を見破るような「直覚」(『硝子戸の中』33)を与えられるか、「でなければ、この不明な私の前に出て来る凡ての人を、玲瓏透徹な正直ものに変化して、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授け給わん事を祈る」(同33)というが、実は、この二者択一は、どちらを選んでも、ほとんど同じ状態に至る。予感が当たるのと、希望を実現してしまうのとは、ものの言いように過ぎないからだ。
 猫(『硝子戸の中』28)のように、Nと一緒に病んで一緒に癒えれば立派で、犬(同3~4)のように、勝手に病んで癒えないでいると、野垂れ死にすることになるという「因縁」(同28)が、どうも、Nには信じられているようだ。Nが本気で「因縁があるような暗示」(同28)」を否定したいのなら、「微笑する」(同28)だけでなく、例えば、[同じ環境にいたから、同じような経過を辿ったのだろう]といった合理的説明を求めるはずだ。
//「頭のある貴方」
 Sは、「解釈は頭のある貴方に任せる」(66)と、Pに書き送る。では、Sには、「頭」はないのだろうか。「解釈は頭のある貴方に任せる」と書きながら、その「解釈」を聞こうともせずに、死んでしまうSにとって、Pの「頭」や「解釈」などは興味の対象ではなかったはずだ。だから、「頭のある貴方」という言葉は、褒め言葉だとしても、Pは子供扱いされていることになる。そして、そのように扱われていると知りつつ、Pは、嬉しがって、この文を読んでいるところだと、『こころ』読者は「解釈」すべきなのだろうか。あるいは、私には「頭」がないので、どのような「解釈」も不能だと諦めなければならないのだろうか。
 二人の会話は、成立しているとは、お世辞にも言えない。そのくせ、離れ難いらしい。SとPの間では、[賢いハンス現象]が起きていたのではないか。Pには、Sに対してのみ機能する「直感」(6)などがあるかのように語るが、実は、[Pは、Sの声や態度といった、非言語的刺激に反応している]という事実を自覚できないのかもしれない。また、そうした事態であることが、Sにも認識できなかったらしい。だから、Sは、本気で、Pの「頭」の良さに驚いていた。さらには、こうした事態に、作者も気づいていないのかもしれない。
//「貰ッ子」
 Sによれば、[Pは、「恋に上る階段」(13)として、Sに接近する]という。では、「恋」の一段下は、何か。「恋」から新婚生活に至る共同生活の予行演習としての、家族愛の学習だろう。異性愛と同性愛が「同じ」(13)である可能性は、家族愛だろうから。予行演習なので、Pが「余所へ動いて行く」(13)ことが、Sには予想されている。
 SとPの関係は、若者宿における宿親と宿子を思わせる。勿論、そうした習俗を作者が念頭に置いていたとは思えない。しかし、読者の頭の隅に、そのような習俗の名残がある場合、SとPの関係は、不可解なようでも、飲み下せるものとなる。
  或時は宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。
  「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いて云った。私
 は「そうですな」と答えた。然し私の心には何の同情も起らなかった。子供
 を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅いものの様に考えてい
 た。
  「一人貰って遣ろうか」と先生が云った。
  「貰ッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんは又私の方を向いた。
  「子供は何時まで経ったって出来っこないよ」と先生が云った。
  奥さんは黙っていた。「何故です」と私が代わりに聞いた時先生は「天罰
 だからさ」と云って高く笑った。
                                (8)
 「子供を持った事のないその時の私」というからには、執筆時のPには子供がいるかのようだが、この文句は、やがて、「子供のない奥さんは、そういう世話を焼くのが」(20)という箇所に捩込まれるべきものだ。この間に、二つのことが語られる。まず、「私の知る限り先生と奥さんとは、仲の好い夫婦の一対であった」(9)こと。そして、本来のSは「頼もしい人」(18)であること。この間は、言わば猶予期間で、「生まれて来るかどうか、よく考え」(『河童』4)るための時間だ。「家庭の一員として暮した事のない私」(9)という記述には、[S夫妻の家庭の一員として暮らせなかった]Pの無念さが隠されている。勿論、隠したのは、Pではなく、作者だ。
 Pは、静の「子供でもあると好い」という言葉の裏に、背反する二つの意味を感じ取る。[Pが養子になればいい]という意味と、[現在のPでは物足りない]という意味だ。「子供をただ蒼蠅いものの様に考え」るのは、Pのジェラシー。「子供は何時まで経ったって出来っこない」というSの断言は、そのジェラシーを宥めたつもり。「天罰」とだけ言って何も言わないのは静をいたぶっているようなものだし、高笑いするのはKに対する冒涜のようでさえある。だが、「宅の中にいるものは先生と私だけ」という、語り手Pの心理がこの場面全体を覆っているので、静やKのことは考慮に入らない。あるいは、聞いていても聞かぬふりをするのが、日本女性の嗜みで、男達は、その嗜みを事実と誤認している。ちょうど、健三が、立ち聞きする妻の癖を知っている(『道草』14)のに、立ち聞きによって得た情報が妻の気持ちを不安にさせていることに、語り手までが気づかない(同49)ようなものか。
 作者にとって、女の住む空間は、男達のそれと地続きではないのかもしれない。はっきりとそうだと思っているわけはないが、何となく、そう感じていて、その感じに支配されたとき、奇妙な文を記してしまうのではないか。
//「あの事件」
 Pが、隠された[養子の物語]において、隠れ養子になると、「偶然国へ帰えらなければならない事」(21)になる。Pの実父は、親に顧みられなくなって退行する子供のように、病気になる。Pの幼児的な心理が、実父に投影されたかのようだ。一方、「病気という病気をした事のない」(21)Sまでが、帰省するPの前に病身を晒す。Pが女性に向かって「動いて行くのは」(13)Sの「希望」(13)だが、実父の側に戻ることは、「希望」ではないからか。
 勿論、Pの動きが、作品の中の論理として、「父」達の健康に影響を与えているという記述はない。しかし、だからこそ、[「父」達は、同時に発病した]という出来事は、異様だ。物語の展開に、何の役にも立っていないからだ。[Pの動きは、「父」達に影響を与える]かのように、Pは記憶していながら、そのことに気づかないまま、執筆していることになる。[Pは、「父」達に影響を与えたい]と願い、そして、実現させたのに、その経緯を自覚できないPが描かれているというのではない。Pも、そして、作者さえ、ぼんやりと書き流している。病気の実父と「代られれば代って上げても好いが」(21)という、Sの社交辞令など、普通なら、記録に値しない。帰省したPが上京しようとすると、「父は又突然引っ繰返った」(45)ので、止まると、今度は、Sが「一寸会いたい」(48)と電報を打つ。二人の「父」は、Pを奪い合うかのようだ。しかし、その暗闘は表面に出ない。「突然」とか「一寸」という言葉は、二人の「父」達の物語が、作品の外とも内とも言いがたい境界にあることを思わせる。
  「あふ、そのことよそのことよ。御身の父の道心は、さてかう申す聖とは、
 この山にて師匠が一つで相弟子で、仲のよかりし折節に、こぞのこのころ
 夏のころ、不思議の病を受け取りて、むなしくならせたうたる。殊にけふ
 はその命日に当りてに、み墓参りを申すとて、御身に会うたと思ひてに、
 それに涙がこぼるるぞ」
                           (『かるかや』)
 Pが上京を先に延ばすと、「遺書」が届く。この「遺書」の出現の理由も、理解しにくい。
  然し筆を執ることの嫌な先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、
 私に見せる気になったのだろう。先生は何故私の上京するまで待ってい
 られないだろう。
                               (53)
 この感想は「遺書」読了前のもののようだが、「あの事件」とあるからには読了後のはずだ。では、語り手Pは、Sの「遺書」執筆の意図を、読了後も知らないわけか。まさか、そんなはずはない。と、言いたいところだが、言い切れないから、『こころ』は不気味だ。一方、「待っていられないだろう」という疑問は、やはり、読了前のものだろう。読了後なら、[「待っていられな」かったの「だろう」]となる。ここで、時間は錯綜し、[Pの物語]は行き詰まる。
 「あの事件をこう長く書いて」という言い回しには、Pが「あの事件」を手短に話されたことがあるかのようにも読めるが、勿論、そんなはずはない。このあたりになると、語られるPと語り手Pが混合しているだけではなく、混合したPと語られるSも、混合し始めたように見える。[Sは、どうして、「あの事件」を、Pに知らせる気になったのだろう]と、作者が自問し、文の主客の振り分けが、うまくできなくなったかのようだ。語られるPは、語られるSの弟子としては、合格したが、「遺書」の読者としては、まだ、答えが出ていない。そんな作者のためらいが、Pに対する懸念ではなく、P自身の不安として表出されるのかもしれない。しかも、この作者のためらいは、同時に、語り手Sのものでもあり得るから、ここまで来れば、もはや、語られるPは、語り手Pごと、語り手Sに乗っ取られたようなものだ。つまり、SがPに「宿る事」(56)になった。あるいは、そうなりかけている。
 時間的に言っても、Pの時間はないようなものだ。語られるPは、そろそろ、語り手Pの執筆開始の時刻に追いつこうとしているわけだが、「汽車に飛び乗って」(54)から、「私はその人を常に先生と呼んでいた」(1)と書き始めるまでの時間は、計量できない。一瞬から、数十年にまで引き伸ばすことができる。たっぷりとあるかもしれないはずの時間を、可能な限り、最小に見せかけるために、Pは時間を失わなければならない。[時間は、たっぷりとある]と、読者に思わせてはならない。たっぷりとあれば、語り手Pに、「遺書」読了後の感想が生まれる。感想から、「研究」(7)が始まる。こうした事態を、作者は、可能な限り、回避しなければならない。「遺書」の終わりが、すぐに[P文書]の始まりに接続するように仕立てねばならない。
 こうした理由から、「遺書」の後、Pは再登場できない。
//「父はきっとどうかなる」
 Pが「遺書」を「読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる」(53)という「予覚」(53)が、Pの時間を微分するかのようだ。駒送りのように、動きが鈍くなる。このままでは、作品の時間は停止しそうだ。だから、Pは飛躍する。つまり、「汽車に飛び乗って」(54)しまう。
  あなたがこの手紙を読まれるときには、すでに冷たい墓が、その最期に
 及んであなたと相語らうことにまさるどんなよろこびも知らぬ不幸な落
 ち着きのない男の硬直した四肢を覆っているのです。
             (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳)
 「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世には居ないでしょう。とくに死んでいるでしょう」(54)という「一句が私の眼に這入った」(54)だけで、PがSの死を信じてしまうのは、おかしい。その「一句」の中の「私」がSであるという確信は、簡単には生まれない。常識的には、原稿用紙に書かれたものは「創作」(ex.江戸川乱歩『人間椅子』)だろう。しかも、言うまでもないことだが、Pは、この時点で、Sの死の予告に敏感に反応できるような条件を持ってはいない。「どっちが先へ死ぬだろう」(36)といった程度の記憶が条件として働くとは、考えにくい。この記憶は、Sの死があったからこそ、意義が上昇したものだろう。
 「とくに死んでいる」というのも、おかしい。当時の郵便事情がどうだったか、私は知らないが、Sが「遺書」を投函してからPに届くまでの間に、「とくに」と言える程の時間が経過するものだろうか。また、郵便事情がどうであれ、Sがこの部分を書いている最中に、PがSの家の玄関に立たないとは言えないはずだ。ところが、Sは、[Sが「遺書」を書き終わるまで、Pは上京しない]ことを確信しているらしい。
 「遺書」読了前のPが、「遺書」を「仕舞まで眼を通した」(54)かのように、つまり、語り手Pのように行動することによって、語られるPと語り手Pは、合体し、「遺書」の読者に変身する。この先は、Pの読書の過程が、私達の読書の過程に重なる仕掛けだ。
 このあたりの言葉の流れそのものを、語り手Pの時間として追体験するならば、[Pは、汽車に乗るといった選択をした自分を思い出すことによって、「遺書」を読む資格を得たという確信を得る]というように考えられる。そこをさらに突っ込めば、作者は、[Pが汽車に乗る]という話を書くことによって、やっと、本格的に、[Sは、「遺書」を書き始めた]という印象を引き寄せることができたと思われる。[実父のそばにPがいるとき、Sは「遺書」を書きつつあった]ということは、理屈では分かっていても、想像としては希薄だったのではないか。作者の印象では、死に向かいつつある「父」が二人いるのではなく、一人の同性の「年長者」(3)が、[(語られるS)→「父」→(「遺書」作者S)]という順番で変容しているのではないか。だから、常識的に考えれば、Pが実父の元に引き返す可能性は残っているし、逆に、瀕死のSを救う可能性も残っているのに、この二つの可能性の両方とも、検討されない。この二つの可能性は、[養子の物語]においては、等価だからだろう。現実には、[Pは、実父の元に留まる/と同時に/Pは、Sを救いに向かう]ことは不可能だ。しかし、だからこそ、一方を選ぶことが他方を選ぶことに等しいような[世界]が用意されたと、作者は感じていたと想像される。もし、そのような[世界]が用意されることはあり得ないと、作者が思うのなら、作者は、語られるPに、この不合理を超常的に実現させるか、あるいは、その不合理の一歩手前で別の行動を、例えば、実父の了解を得るとか何とか、一旦、穏当な行動を取らせようとしたことだろう。
 作者は、この不合理を、異様ではあっても、合理的な飛躍だと信じている。不合理を合理にする[世界]とは、[Sを捨てないことは、実父を捨てないことと同じ意義を持つ]という物語だ。つまり、[Sは、父だ]という[「大きな真理」(23)の物語]だ。
 勿論、Pは、そのように語ってはいない。作者も、[まだ/ついに]語らない。この[世界]を明示してはならないからだろう。この[世界]を隠すために、Pは、永遠の「遺書」読者として、語り手Sの、言わば影となる。このPは、語り手Pや語り手Sによって語られるPではない。また、語り手Pに変身しつつある姿でもない。『こころ』読者と見分け難い「遺書」読者Pだ。Pは、語り手Sにとっての理想的な聞き手になるための準備段階にある。Sが、というよりも、作者がほしがっているのは、このPだ。このPを獲得できれば、Nの言語の空間において、幻想としての語り手と作者が、すっきりと分離される。Pが幻想としての聞き手になるとき、語り手Sも幻想としての語り手になる可能性が開く。Pが消えたから、Sは死ぬのであって、その逆ではない。『こころ』の不合理は、Pの消え方にある。Sの死は、Pの消滅の二番煎じだ。
 [語り手/聞き手]が幻想に近づくことによって、作者は身軽になれる。同時に、自分について語りたがる主人公達が物語の内部で無様に突出する可能性も、最小に押さえられる。ここまでは、良い。しかし、私にとって不可解なのは、このとき、作者が、[語り手/聞き手]が幻想に近づく過程は、孤独やエゴイズムなどが昇華される過程の比喩として利用できると考えていたらしいことだ。
 作者の孤独と、語り手の孤独とは、似て非なるものだ。語り手が孤独なら、語りは発生しない。一方、人は作者としてふるまうときに、すでに孤独を引き受けている。この孤独は、不可避で、一般的なものだ。この孤独は、作者にとって、苦痛の原因になるようなものではない。
 このことを『こころ』の文脈に沿って言えば、[Sは、理想的な聞き手を見つけるまで、語れない]という文は合理的だが、[Sは、理想的な聞き手Pを見つけたから、「遺書」作者になる]という文は不合理だということになる。
 [語られるSは孤独だが、語り手Sは孤独ではない。なぜなら、Pが聞いているから]という、Sの夢想に現実味を与えるために、Pは、幻想の聞き手Pとなる。そして、[作者/読者]の時間としては、「遺書」の後、語られるPとしても、語り手Pとしても、顔を出さない。語り手Pは、語り手Sを乗り越えてはいない。Pは、過激な読者となった。あるいは、なりつつある。そして、Sが[「経験」(56)を「人に与えないで死ぬ」(56)Sの物語]を[世界]にして、[「経験」を「人に与え」て「死ぬ」Sの物語]という異本を制作する仕事を支え続けている。このとき、語り手Sは、「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて、自分の懐に入ろうとするものを手をひろげて抱き締める事の出来ない人」(6)ではない。だが、「抱き締める」のでもない。語り手Sは、聞き手Pを「抱き締める」寸前の姿で佇み続ける。
//「会って話をする気」
 Pは、Sの「学問や思想」(11)の試験に合格したのではない。Sは、「教壇に立って私を指導してくれる偉い人」(14)と自分を比べるPを、「あんまり逆上ちゃ不可ません」(14)と窘めている。Pの「論文」の受けが良くなかったのも、ある意味で、Sの希望どおりだろう。Sが望んでいるのは、客観的に認知された「思想」の物差しによって、自分の「思想」が計測されることではない。「私は貧弱な思想家です」(31)という自己紹介は、Sの謙遜ではない。Sは、「謙遜過ぎて却って世間を冷評する」(11)のでもない。「世間を冷評する」という印象だけが一人歩きするように、作者が暗示しているのに過ぎない。では、暗示の道具であるところのSの「思想」の中身は、どうなっているのか。「貧弱」なままだ。「間に合わせに借りた損料着」(56)ではないが、「貧弱」なわけだ。[たとえ、「貧弱」でも、「損料着」ではない方が「偉い」のだ。「貧弱」に耐えられなければ、自前の「思想」は手に入らんぞ]といった、作者の切実な思いは場外ホームランとなって、かっ飛び、球の行方は知れない。
 妙な試験に、Pは合格したらしい。私の観点では、縁故入学だが、そんなことは、どうでもいい。私が気になるのは、[Pは、言語的に、合格できたか]ということだ。
 Sは、「貴方にも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、(中略)仕方がありません](110)などと、Pをほったらかしにしている。Sの方では、「解らせるように、今までの叙述で己れを尽した積り」(110)なんだから、後はよろしくねってなことで、さあ、Pの気持ちは、どうか。「遺書」を言語的に「呑み込め」たものか。ここで、『こころ』の冒頭から検証し直しても、無駄だろう。冒頭のPは、「遺書」について、明確な考えを持っていない。何せ、まだ、読んでもいないのだから。
  始めは貴方に会って話をする気でいたのですが、書いて見ると、却って
 その方が自分を判然描き出す事が出来たような心持がして嬉しいのです。
                               (110)
 Sは、Pを、共に語るに足りない人物と見做している。そして、そのことを、Pに対する「侮辱」(14)とは考えていない。何とも、考えていないらしい。Kにとって、話し相手は「昔の人」(85)しかいなかったが、Sにも語り合うことのできる人物は現存しないらしい。現存したら、「遺書」は無駄になるからだろう。作者にとって、[Sは、Pとの対話によって、自己を明かす]という物語の起動は、決定的に不能だった。
 語り手Pによって、語られるSは、まるで、罪人のように誰かの前に引き出され、語り手Sとして、罪を告白するわけだが、この罪がどこから生じるのか、私には理解できない。Sが語るのは、[罪の物語]ではなく、[勝利の物語]でも良かったはずだ。勝利を語ることも、面映ゆいことだから。
 作者は、混乱しているようだ。語ることが困難なのは、語るべき内容が「世間を憚かる」(1)種類のものだからだとは限らない。だからこそ、その問題は棚上げされているのだろう。語ることの困難さは、言うまでもなく、聞き手の不在にある。聞き手不在の状況が、[親友殺しの物語]に象徴されているのかもしれない。この象徴の成立には、素朴な意味での聞き手不在ではなく、聞き手拒否の体験が関係していると考えられる。特に理由もなく、聞き手を拒否しているように見えるのは、誰か。Kだ。[Kの物語]における聞き手不在の状況が、[Sの物語]において、罪のようなものとして語り直されているのかもしれない。Sにとって、聞き手不在は、親友殺しのような罪の結果か、あるいは、一般的な「犠牲」(14)として自覚されている。しかし、『こころ』は、そのどちらか、あるいは、その両方の、由来の物語を隠蔽しつつ、克服するために、試みられた作業だった。このとき、隠蔽しつつ克服するという、矛盾した作業を可能にしているのが、語り手の交替劇という、唯一のドラマだ。この交替劇が、[SとKの物語]における、KからSへの主役交替として、[作者/読者]の時間において、反復されることになる。もし、この主役交代の物語を語るのがSでなければ、この物語こそが、『こころ』の中心のドラマとなるはずだった。しかし、作者は、このドラマの明示を恐れた。恐れつつ、表出した。
 語り手や主役の交替によって、何かは「継続中」(『硝子戸の中』30)だが、何が「継続中」なのかは明示せずに、象徴的に、あるいは、暗示的に、苦境を脱することができる。この方法は、夢の方法と言うべきだが、小説の方法でもあるようだ。私には、Nの作品は、[夢のような小説]ではなく、[小説のような夢/の「叙述」]に見える。作者は、「夢中歩行者」(『明暗』177)のように、迂遠な方法でだが、なぜか、障害物を避けて通ることができる。
 「先生と遺書」の章は、「……」で始まっている。「遺書」の「最初の一頁」(53)という言葉はあるが、「最初の」一行は示されていない。「遺書」は、「こんな夢を見た」(『夢十夜』)と書き出されていたのではないか。そして、その末尾は、「そうして眼が覚めた」(『それから』1)か。
/「変に思う」
 Sは、Pに、「貴方は定めて変に思うでしょう」(66)と書く。読者は、このとき、[Sの心理を「変に思う」Pが実在する]と想像するのだろうか。しかし、その想像に根拠はない。[Sは、Pの心を透視できる]という設定はない。
 語り手Sが、[Pは「変に思う」]と想像したからといって、その想像を聞き手Pが肯定することはないし、否定することもない。しかも、「でしょう」という言い回しを見れば、語り手S自身にも確信がないことは、明らかだ。
 ここで、語り手Sによって語られるSと、聞き手Pは、同年代だ。この設定によって、作者は、SとPを、時代を越えて突き合わせているのだろう。作者が、ではなく、Sが、そんなことをしたいのなら、Sは、Pの上京を待つべきだ。Sが「遺書」読了後のPと顔を合わせないのは、自分がPにとって無用の存在になったと思うからではなく、その反対に、書き文字の中においてのみ、有用な人物に変身し得ると信じたからだ。しかし、こんな話を、誰が本気で信じるのだろう。SとPの突き合わせは、書くことによって、可能になったものだが、そのときに書いているのは、Sではなく、作者だ。このことは、語り手Sの限界を示すものではない。作者の限界を示すものだ。Sは、語ることの限界を感じて、筆を執ったのではない。私には不可解な理由から、つまり、作者の都合で、「遺書」という媒体を選んだ。語ることの限界にぶつかったのは、Sではなく、作者だ。語ることの限界を、作者は、語り口調の書き文字による勝利として、矛盾した形で表出している。
 SがPとの対話を拒む理由らしきものは、一つしかないはずだ。それは、「書いてみると、却ってその方が自分を判然描き出す事が出来たような心持がして嬉しい」(110)という文に隠されている。実在の人物と対話すれば、[Sの物語]が破綻するからだ。Pの介入によって、別の展開を見せるからではない。PがSを自殺させないからでもない。誰であれ、つまり、静はもとより、Pでさえ、[Sの物語]の合理性を認めるはずのないことが、作者には分かっているからだ。そのことが、「貴方は定めて変に思うでしょう」という言い回しに表出されている。本当に「変に思う」のは、作者だ。
 この責任転嫁めいた言葉は、作者にとって、重要な意義を持つはずだ。『こころ』以前の作者が、もし、[作者の肩入れしている登場人物の思想やら心情やらは、もう一人の登場人物によって承認されなければならない]という思い込みに捕らわれていたとすれば、『こころ』における、聞き手Pの取り込みは、技法的転回を意味する。つまり、[作者は、自分にとって都合のいい読者を想定しさえすればいいのであって、語り手と聞き手を登場人物として対話させ、聞き手に語り手の物語の合理性を承認させるという難事業に当たる必要はない]という、平凡な確信を得たことになる。
 語り手Sにとって、語られるPは、必ずしも、実在する必要はなかった。Pのような人物を想像するだけで、十分だった。しかし、理想的な聞き手を想像できた時点で、理想的な聞き手を必要とする語り手は、作者には、不要になる。作者に不足していたのは、[S系の人物を、的確に描く力]ではなかった。不足していたのは、[S系の人物とセットになったP系の人物を、聞き手として、的確に設定する力]だった。語り手Pや語り手Sによって語られるSに不足しているのは、生きる力のようなものだが、語り手Sに不足しているのは、理想的な聞き手を抜きにして、書く力だった。
 Sは、Pを必要としつつ、邪魔にしているふうだが、実情は単純なものだ。[語り手と聞き手は、同一ではない。しかし、語り手と聞き手は、対立しない]という矛盾を始末できないまま、表出しているのだろう。作者は、「遺書」執筆中に、やっと、[「趣味の一致」(『猫』11)はあっても、両者は別人だ]という「覚悟」(14)を手に入れたと思われる。
 最初から、Sに、P系の人物を聞き手として想定することができていたならば、つまり、[Sの物語]を「受け入れる事」のできる人間が「たった一人で好いから」(31)実在するに違いないと、Sに信じることができていたら、Sは、とうの昔に、「遺書」の、いや、「自叙伝」(110)の執筆を開始していたはずだ。そして、その理屈は、作者自身にも適用できる。
 「受け入れる事の出来ない人に与える位なら、私はむしろ私の経験を私の生命と共に葬った方が好い」(56)なんて、落語の『寝床』の台詞みたいだが、その覚悟は、実は、無用になってから自覚されたものだ。
 Nの作品の主役達が「世間」(1)に対して向ける憤りは、P系の読者を想定できない作者自身の苛立ちの表出だった。だから、『こころ』によって、幻想の語り手に幻想の聞き手を贈った作者は、その視線を、いくら、ぶっ叩いても苦情の来ない、言葉だけの「世間」から、撫でただけでも叩き返されそうな「世間」の人々へと向けることになる。「世間」の「代表者」(68)は、「島田」(『道草』)だ。島田は、「彼等が代表している人間というもの」(30)などといった、冗長な文脈に、おとなしく閉じ込められているような存在ではない。


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