『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#067[世界]27先生とA(17)「時機」

//「大きな真理」
 PがSを「先生」と書く、その積極的な理由は、語られない。Pは、本当は、Sを別の呼称で呼びたいはずだ、「父」と。
  私は父が私の本当の父であり、先生は又いうまでもなく、あかの他人で
 あるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べて見て、始めて大きな
 真理でも発見したかの如くに驚ろいた。
                               (23)
 語られるPが「父」という言葉を「発見」するまで、語り手Pは、この言葉を忘れていたかのようだ。「父」という言葉は、Pにとって、特別のニュアンスを持っているはずだ。しかし、「先生」という言葉を持ち出したとき(3)と同様に、詳述されない。語り手Pは、語られるPを残して、話題を変えてしまう。
 読者は、Pが惚けて見せるので、[「先生」=S=「父」]といった、漠然とした印象を、自分の方が先に「発見」したかのように錯覚することだろう。この錯覚は、読者を誇らしい気分にさせることだろう。そして、自分が「発見」しようとしさえすれば、『こころ』の中には「大きな真理でも発見」できるかのように思い込むことだろう。こうした狙いがあるために、作者は、語り手Pに惚けさせる。
 私は、[『こころ』の中に、「大きな真理」はない]と主張しているのではない。私には、「大きな真理」という言葉が指すような何かを想像できない。
 Pにとって、Sは、「本当の父」でもなく、「あかの他人」でもない何かだ。その何かが何であるか、この段階では、明示できないので、とりあえず、「先生」と呼ばれている。「大きな真理」は、封印として「発見」される。「先生」も封印だ。これらの言葉が隠しているのは、[Sは、Pの「父」だ]という物語だが、この物語は、明示すると同時に虚偽となる。この状態は、「遺書」読了後も、変化しない。いや、変化させようと思えばできるのに、語り手Pは変化させない。なぜなら、「真理」とは、明示すると同時に虚偽となるような物語のことだからだ。「遺書」読了後、Sによって、「本当の」人間関係の危うさを教えられたと思うPは、SとPの関係を「本当の」関係としては、語らない。Pは、[SとPは、師弟関係を装わなければならなかった]と回想する。「世間を憚る遠慮」(1)からだ。仮装によって、「真理」は「証拠立てられる」(6)ものだ。「世間」は、「真理」を虚偽と見做す。「世間」が許容し、強要する「本当の」関係は、疑わしいものだ。むしろ、「世間」が虚偽と見做す事物にこそ、「真理」が内包されている。そのように、語り手Pは考える。そして、[語られるPは、こうした事態を「予期」(3)していた]と回想し、「父」を暗示する言葉として「先生」を使うことに決める。PがSの「記憶を呼び起すごとに、すぐ『先生』と云いたくなる」(1)のは、[Sは、「先生」という言葉を「父」と聞き違えてくれていた]と信じるからだ。SがPの「懐かしみに応じない」(4)のは、Sが「本当の」人間関係の脆さを熟知していたからだ。Sは、その英知によって、誰にとっても「本当の父」ではない自分、「淋しい今の自分」(14)を引き受ける。「寂寞」(107)の自覚によって、Sは、Pや「外の人」(110)の「父」たるべき資格を獲得する。
 こうした言葉遊びを遊びとしてPが明示できないのは、仕方がない。ところが、作者も明示しないので、『こころ』は、不可解なまま、終わる。そして、手品が魔術に変わってしまう。
  エゴイストは「自我」の「子」である。同時にその「父」でもある。子は父を
 愛し、父は子を愛する。二人は最も緊密な絆を通じて愛情を交換する。と
 すれば二人が、そのいずれかを不人情にも傷めつける行為を見るとき、最
 愛の相棒のためにその犯人を心の底から憎悪せずにいられようか? 二人
 は、第三者に危害は加えまいが、お互いが無益に苦しんだり何かをいたず
 らに熱望したりするのを坐視してはいない。二人は、一層強烈な愛情への
 縁は別としても、共感からも互いに身をこすり合わせる。もし、さした被
 害も与えないのに二人の犠牲に供される人があるなら、それは二人の互
 いの愛の祭壇の上に、孝心か父の愛かの犠牲にされるのである。若いほう
 が年上のほうに美味の一口を供えたか、あるいは逆に年上のほうが供え
 たかである。どちらも、献身の立派な手本を見せることに心を奪われてい
 るから、第三者のことなどは頭に上らない。美しいものである。
              (メレディス『エゴイスト』39、朱牟田夏雄訳)
//「上京を待って」
  あなたから過去を問いただされた時、答える事の出来なかった勇気の
 ない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。
                               (53)
 これは、Sの「遺書」の「最初の一頁」(53)だというが、第一行なのかどうか、分からない。常識的には、第一行らしくない。
 「勇気」と「自由」の関係は、不明。[「勇気のな」かったSは、「物語る」「勇気」を得た]と続くのでなければ、おかしい。ところが、「自由」という言葉に引っ掛けて筋を違え、Sは続ける。
  然しその自由はあなたの上京を待っているうちには又失われてしまう
 世間的の自由に過ぎないのであります。
                               (53)
 「世間的の自由」とは、何を指すのか。
  「自由が来たから話す。然しその自由はまた永久に失われなければなら
 ない」
  私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。
                               (53)
 「自由が来た」というのも、「その意味を知るに苦し」む表現だが、その苦しみは、私の苦しみに過ぎない。Pの苦しみの方は、いつ、解消するのだろう。「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世には居ないでしょう」(54)という文に出会うと、解消するのだろうか。あるいは、「遺書」の別の部分によって解消されるのだろうか。あるいは、最後まで解消されないのか。
 「先生は何故私の上京するまで待っていられないだろう」(53)という文は、[なぜ、Sは、Pが「遺書」を読まない可能性や理解しない可能性を考慮せずに、死ねるのだろう]という、常識的な疑問を覆い隠す。郵便物が必着するとは限らない。着いても、Pの家はごたごたしているから、失われるかもしれない。Pの兄が受け取り、握り潰すかもしれない。Pだって、「もうこの世には居ない」かもしれない。こんな懸念が、Sには、微塵もない。[理解される]という思いが先走り、その前の[読まれる]という段階を自明だと勘違いしたか。
//「父の精神」
 「遺書」を「読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる」(53)というとき、Pの時間の意識は、『こころ』読者の時間の意識に変わりつつある。
 [しない前]という表現は、日本語では珍しい。しかも、Nは、常に、そのように書くとは限らない。普通の書き方では、[する前]か、[しないうちに]だろう。[Pが遺書を読み終わる前に、Pの父をどうかしなければならない]という作者の思いが捩れて、[Pが遺書を読んでいる間に、Pの父は死ぬ]という予感に仕立て直したかのようだ。Pが「遺書」を読み進む時間は、Pの父が死に向かいつつある時間と重なる。Pが「遺書」を読み終えたとき、Pの父も死に、Sも死ぬ。[私が遺書を読み終えないと、父が死なない]という文は、[父が死ぬためには、私が遺書を読み終えればよい]という文を、密かに呼び寄せるようだ。「遺書」は、「父」を呪殺する力を持つ。この殺人は、[「親孝行」(47)の物語]に属する。言わば、安楽死。『こころ』には、[「父」は明治の終わりとともに死ぬべきだ]という、呪いが込められている。この幻想の文脈において、殉死を願いながら、そうする気力も、また、資格も持たないはずの実父を、Pは死なせてやる。
  父ははっきり「有難う」と云った。父の精神は存外朦朧としていなかっ
 た。
                               (54)
 『君こそ次の荒鷲だ』(穂積利昌監督)の挿話を思わせる、この場面では、「多少義理を外れても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質」(108)が強くないはずの男である実父は、Pの上京を容認するはずだ。夢現で、父と子の挨拶を済ませると、Pは、「突然立って」(54)停車場へ向かう。
 この後、Pは「遺書」読者に変身するので、実父の死とSの死の確認は、読者には不可能になる。Pにとって、「遺書」を読むことが「父」達の[看取り]から[葬送]に至る儀式に変換される。実父の「朦朧としていな」い精神の有り様は、Sの「頭が悩乱して筆がしどろに走るのではない」(57)精神の有り様へと引き継がれることになる。
 Pは、実父とSの臨終の両方には立ち会えないように、設定される。Sが、Pを試みているのではない。作者が、Pを試みている。もし、この試練が明示されれば、不要で不合理な試練であることは明瞭になる。Pが電話や電報を使ったり、東京に誰かを遣るといった算段をしないのは、作者が自分の作った物語に入り込んでいるからだと思われる。作者は、Pと一緒になって、右往左往しているかのようだ。
//「夫人の姿」
 [明治の「父」達]を呪殺し、葬送する力を持つ「遺書」は、『こころ』の中では、乃木夫妻の死がきっかけで執筆されたことになっている。そして、現実の乃木夫妻の死は、『こころ』作者にとって、『こころ』執筆のきっかけでもあった。Sの死の決意と『こころ』作者の執筆の決意は反転して符合する。だから、「遺書」執筆のためにSが死を延期(110)したという挿話は、『こころ』作者が死を延期するために『こころ』を執筆したことを暗示させる。
 [Sは、新聞に掲載された夫妻の写真を見て、そこに理想の両親像を見つける。写真には、新聞を読む夫と、その近くも遠くもない位置に控え、恐れるふうもなく世間を正視する妻の姿がある。作者は、Pの筆を借りて、「私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女みたような服装をしたその夫人の姿を忘れる事が出来なかった」(48)と記す。Sは、乃木夫妻の息子になるために死ぬ。「妻」と同名の、乃木静子の息子になるために、死ぬ]
 『将軍』(A)という、意図不明の作品の最後で槍玉に上げられるのが、乃木の遺影だ。ここで、Aは、Sの「殉死」の意図を疑ってみせたのかもしれない。
 写真からは、静子自身も自覚できない、必死の叫びが聞こえて来るようだ。彼女の座る場所は、神像でも置くのにふさわしい。彼女は安置されている。あるいは、既に死んでいる。夫は新聞を読んでいる。新聞といえば、この写真を見る人々は、それを新聞紙上で見ることになる。そう思えば、夫は、あたかも自分達の死亡記事を読んでいるかのようだ。妻は、そう考えている。妻の視線の先には、空想上の夫の視線がある。写真に写った妻の視線と、自分の死亡記事を見るかのような夫の視線が、時空を超えて、正面からぶつかる。未来の死者の視線と過去の生者の視線が出会う。そこが、現在だ。現在とは、このような言葉の操作によって、初めて、形を得る観念だ。
 その写真は、まるで合成写真のようだ。二つの人物は別々に撮られたかのようだ。しかし、この不自然な構成が、二重自殺という不自然な死の真実を象徴する。と、『こころ』作者は感じ、戦きとともに、浄化されたように感じる。
 『こころ』に隠された文脈では、乃木夫妻の写真を眺めるPの描写の過程は、[Sの養子になりたいP/の物語]が[乃木静子の養子になりたいS/の物語]に変換される過程だ。その仮定を延長すると、その先に、[精神的孤児としての、近代日本人/の物語]が立ち上がり、『こころ』が日本文学史の神棚に安置されることになる。特殊な[養子の物語]を[精神的孤児の物語]という、一般受けするテーマで過剰包装し、「みんなに訴へる事が出来る」(N/大正4年、断片65)ように作り替えた。
 ところで、 「みんなに訴へる事が出来る」という言葉は、[多くの人が「首肯」(同)する]という意味ではなく、[「みんなに訴へる」ための「勇気」(53)が、Nに出る]という意味なのかもしれない。
//「可愛がられなかった」
 『こころ』によって暗示された[養子の物語]を[世界]にして、『硝子戸の中』や『道草』が出現する。
 [健三は、養親を、その偽善(『道草」42etc.)や不和などのせいで嫌った]かのように語られるが、養親の本当の手抜かりは、健三に、[おまえだけは、騙さない。捨てない]と信じさせるのを怠ったことにある。また、実家とは知らずに暮らした実家でも、同様だ。
  私は普通の末ッ子のように決して両親から可愛がられなかった。これ
 は私の性質が素直でなかった為だの、久しく両親に遠ざかっていた為だ
 の、色々の原因から来ていた。とくに父からは寧ろ苛酷に取扱かわれたと
 いう記憶がまだ私の頭に残っている。それだのに浅草から牛込へ移され
 た当時の私は、何故か非常に嬉しかった。
                         (『硝子戸の中』29)
 「それだのに」は、おかしい。「苛酷に取り扱かわれ」る前は「嬉し」く思うに決まっている。「何故か」などと考える必要もない。荒れた養親の家を出られたからだ。「それだのに」Nは、実家を実家と知る前から、不思議な力でそのことを悟っていたかのように仄めかす。また、「両親に遠ざかっていた」は、[両親から遠ざかっていた]か、[両親に遠ざけられていた]と書くべきところだろう。事実は後者だが、そのことを明言したくないのだろう。この種の不正確な記述と不思議な力の仄めかしによって、Nの言葉は、深いような、不可解なようなものになる。Nは、幼児的な万能感を、このような個人的神話として、成人後も、保存しなければならなかったらしい。
//「時機」
 「一寸会いたいが来られるかという意味」(48)の電報をSが打った目的は、「貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかった」(55)からだと明かされるが、なぜ、急に、そんな気分になったのだろう。
 Sに、何が起きたのか。多分、何も起きていない。乃木事件程度で気が変わって、話せるのなら、「時機が来なくっちゃ話さない」(31)とか、「死ぬのが厭であった」(56)から「他日を約し」(56)たとか、いろいろ、Sは言ったらしいが、そんなに勿体振ることはなかったはずだ。[Sの気が変わるのも当然だと思われるほど、乃木事件は、Sに強烈な印象を与えた]といった理屈は、空疎だ。
 [Sは、自分の過去を告白すれば、すぐにでも死ぬつもりでいるかのようでいて、しかし、まだ、死にたくはないので、まだ、告白しないけれども、とりあえず、いつかは、告白すると約束する]というような話らしいが、では、その「時機」とは、いつなのか。[死にたくなったとき]なんて、言わないでよね。だったら、いつ、死にたくなるつもりでいたか。予定でもあったか。ないとしたら、告白するという約束は、虚言に等しい。しかし、Sは、嘘をつくような人間ではない。Sが嘘つきでなければ、作者が嘘つきか、嘘つきですらないか。
 作者は、[Sの自殺、Sの告白、乃木夫妻の殉死、告白の予告、Sへの懐かしみ]という計画表を逆に辿って執筆している。ありふれた技術だが、この逆転した時間の意識が、語り手達の意識に影響するので、わけが分からなくなる。作者は、「悩乱して筆がしどろに走る」(57)と疑われるのを恐れるようだが、恐れて当然だろう。
 Sは、「私の過去を訐いてもですか」(31)というが、この質問は、無意味だ。PがSを尊敬していなければ、Sの「過去を訐」くことに躇いはない。Sの「過去を訐」くことは、Pのリスクではない。Sが傷つくのは、Pにとっても、避けたいことだとしても、Sが[Pだって、避けたいはずだ]という前提で話すとしたら、おかしい。Pは、Sの「過去を訐い」たら、Sが傷つくとか、傷つかないとか、まだ、そんなことを知るはずはないし、そして、そのことを、Sは、知っているはずだからだ。「訐いて」という言葉で前以て脅しを掛けたつもりだとしても、出て来るかもしれない旧悪の程度など、Pに計量できるはずがない。また、Sは訐かれたと思っても、Pが出て来た情報を見ても、なお、それでSが傷つくとは思わないかもしれない。[何で、こんな、つまんないこと、隠してたかな]と、却って、「不思議」(6)がるかもしれない。
 [真実を語るために、死ぬ]という[世界]があるらしい。Sは、歌舞伎などによく出てくる、刃を腹に突き立て、引き回す前に長口舌を揮う人物を思わせる。
 「今は話せない」(31)のは、なぜか。[言えば、死ぬことになる]からかな。この前提は、動かせないらしい。理由は、1個しかない。作者が、そう決めたから。
 静は、「みんなは云えない」(19)と言う。Sは時間の齟齬を隠蔽し、静は空間の齟齬を隠蔽する役目のようだ。
 Sは、どうやって、自分が死にたくなる「時機」を予測したか。「適当の時機」(31)とか、「他日」(56)とかは、具体的な期日として、予定表に書き込めるものか。「この手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎた」(55)というが、この「まだ」という言葉は、乃木殉死を契機に自殺の決意ができて振り返ったときの言葉のはずだ。Sは、乃木殉死を予知していたか。
  九月になったらまた貴方に会おうと約束した私は、嘘を吐いたのでは
 ありません。全く会う気でいたのです。秋が去って、冬が来て、その冬が尽
 きても、きっと会う積りでいたのです。
                               (109)
 恒例の、すり替えですね。「九月」は「冬」ですか。「冬が尽きても」「九月」ですか。問題は、[会う/会わない]ではない。「時機」(31)だ。「秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても」、天皇が死んでも、乃木夫妻が殉死しなければ、「時機」は予定になかったことが、この文によって、明らかだ。
 「話しましょう」(31)とSが言ってから、その後に、最後の「晩餐」(32)がある。そのとき、「話しましょう」という言葉を元に、SとPが打ち合わせなどをした様子はない。なぜか。静が側で聞くから? 作者が「遺書」を書くつもりでいるからだろう。
//「……」
  私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いや
 それは構わない。
                               (31)
 Sは、「その代り……」の次に、何を語るつもりだったのか。「それ」の指すものは、「……」の中に含まれているはずだが、何を「構わない」と、Sは言ったつもりなのか。また、この部分を、Pは発掘できるのか。[「その代り」Sは死ぬぞ。「いや」Sが死ぬことは、Sは「構わない」]というのも、納まりが悪い。[Sが死ぬことは、作者は「構わない」]という気分だろうか。
 ここは会話文なので、Sが言おうとして言わなかったことが、語り手Pに発掘できなくても、仕方がない。しかし、発掘できない「……」が記録に値する理由は、分からせてほしい。
 「……」の部分を、[Pに「過去」を語れば、Sは、死んでしまう]と発掘したとしよう。すると、このとき、語られるPは、Sを精神的に追い詰めて殺したことになる。だから、[誰かに追い詰められて、自殺せざるを得ないような状況を作ることが、Sの積年の本願だった]と、Pが「直覚」(6)していたとしても、語り手Pは、生きていたSを讃える作業の前に、まず、Sを死なせた自分について、反省するのでなければならないような気がする。「いやそれは構わない」か。
//「遠い所」
 「適当な時機」(31)が不定であることと、「受け入れる事の出来」(56)る読者の資格が不明であることによって、[Sの物語]は、作品の外側に語りの場を作り出す。なぜなら、[「時機」とは、「遺書」を含む『こころ』の全体が、読み、かつ語られている現在ではない]とは言えず、[「遺書」読者とは、『こころ』読者ではない]とは言えないから、現実を巻き込む演劇的宇宙が出現することになる。そのとき、「遺書」の語り手Sは、作品の外側にいる『こころ』作者と、危うくも同一視されることになる。
 [Sの語る/孤独に死ぬSの物語](原『こころ』)は、落語の『あたま山』のように、[Pの語る/Sの「不思議」(3)の物語]を含むことになる。Pの語る「不思議」は、Sの語る「不可思議」(110)と、関係があるともないとも、言えないままなのに、[P文書]を「遺書」が飲み込むかのような、不合理な構成によって、『こころ』は、「不思議」や「不可思議」の解明に成功したかのような終わり方をする。[作者の表出としての終わりが来たら、物語も終わる]というのが、Nの作品のお決まりだ。
 この表出の時間においては、「遺書」を読み続けるPにとって、Sの孤独死が未定であるように、『こころ』作者にとって、個体としての作家Nの死期も未定となるはずだ。
 SとPは、「遺書」を書いたり読んだりしながら、幸せな一時を過ごしましたとさ。Pが、まだ、読み終えていないとすれば、Sは、今でも、きっと書き続けていますよ。
 『それから』が『三四郎』の後日談だとすれば、『こころ』の後日談は、『道草』だ。健三が帰ってきたという「遠い所」(同1)は、Sの「死という遠い所」(『硝子戸の中』30)の象徴だ。[ロンドンは、Nにとって、死のような世界だった]という比喩によって、両者は繋がるのだろう。語り手Sと聞き手Pの住む、語りの場を、作者は、「遺書」という乗り物で縦横に駆け巡るうち、「遠い所」で健三を乗せて帰還する。その間、「遺書」読者(達)は、『道草』読者のいるあたりに押しやられ、作品の内部から姿を消す。同時に、語り手も消えかかる。語り手Sが、過去のSの未来の姿だったように、『道草』の語り手も、未来の健三であるかのようで、だから、健三中心の語りを続けるのだろう。
 [Sと静の「幸福」(10)の物語]は、明暗の反転した形で、[健三と細君の物語]として展開されるが、この暗さに『道草』の語り手が耐えられるのは、『道草』の聞き手を、PとXが合体したような「外の人」(110)として仮設できているからだ。『道草』の語り手は、もう、孤独ではない。しかし、本当は、『道草』作者が孤独を忘れているだけだ。
 「外の人」は、『戯作三昧』の主人公が切望した、理想的な「愛読者」と同質の存在だ。また、『歯車』の時期のAが成りたかったのは、[仮想の愛読者を、仮想の存在とは思わずに欲することのできるN/のような作者A]だろう。Aは、[Nは、仮想を仮想と知らずに生きた]と看破したうえで、そのNのような発信者に成ろうとした。そのことによって、Aは、Nの限界を乗り越えることができると空想した。
 しかし、この空想を実現する方法はないはずだ。実現する前に、Aは、「母のように精神病院にはいること」(『歯車』5)になると思っていたろう。[Aは、Nのようになると、母のようになる。母のようにはなりたくないから、Nのようにはなれない]という、解読不能の文が、中空にぶら下がる。
//「徒労」
  私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有と云っても差支ないで
 しょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜いとも云われるでしょう。私
 にも多少そんな心持があります。ただし受け入れることの出来ない人に
 与える位なら、私は寧ろ私の経験を私の生命と共に葬った方が好いと思
 います。
                               (56)
 「私の過去は私だけの経験だ」というのは、何も、Sに限ったことではなかろう。そして、その意味では、万人の「経験」が記録されずに終わるのは、「惜いとも」言えるが、惜しくない「とも」言えるはずだ。本気でこういう話をすれば、Sの死こそ、惜しむべきだ。死という話題を抜きにしても、Sの「自叙伝」(110)の全体を読めないことが惜しいし、せめて、「遺書」に散見する「矛盾」(66)やら「不可思議」(110)やら、その他の疑問について、質疑応答を交わせなかったのは、惜しいという話になるはずだ。
 しかし、ここは、[Sが「過去」に「経験」したことは、S以外の誰も「経験」したことのないような、特殊な「経験」だ]という主張がなされていると受け取るべきなのだろう。ところが、その内容を、Pは、まだ、知らないのだから、「惜いとも」何とも思いようがないはずだ。「惜いとも」何とも思わないのに、「惜い」と言われたがっている人が目の前にいれば、[「惜い」かもしれない]と言って上げる人はいるのかもしれないが、その人は、厳密に言えば、嘘つきだ。だから、[もし、SがPの前にいれば、Pは、Sに「惜い」か何か、言うかもしれない]という想像を披瀝することによって、語り手Sは、Pを褒めたつもりなのか、けなしたつもりなのか、私には分からない。[Pは、嘘をつく]という設定は、無意味ではない。しかし、[Sは、Pのお世辞を期待する]というのは、おかしい。
 語られるSに起きたことは、もし、Kの「変死」(19)という要素がなければ、特殊な出来事ではない。語り手Sの異様な文体を疑ってしまえば、何も起きていないのと同じに見える。こうした事態は、[作者は、思春期の普遍的な心理を描いた]というような結論に至るようなことではなく、自己史の年表の一部を空欄のまま、残すか、そこに[特記事項なし]と記すかといった違いに過ぎないようなことだ。[Kの死は、その動機において、Sの言動と深く関係があった]という物語なら、敵役の物語として、[Sの物語]は一定の価値を持つのかもしれないが、動機は最後まで不明なのだから、特殊なのは、Sの「経験」なのか、Kの動機なのか、その両方なのか、私には判別できない。
 要するに、SはKの敵役としてすら、不十分だ。Sは、Kを見ていた人に過ぎない。[Pは、Sを見ていた人に過ぎない]ように。語られるSや語られるPは、実際には、傍観者だ。この傍観者達が語り手の地位を獲得するや否や、重要人物に成り上がる。よくあることだ。デモを見物に行っただけの人が、いつの間にか、[私は、デモに参加した]と話している。[参加/不参加]の定義は曖昧だから、何とでも言える。そして、人生の物語とは、そういうものだ。[私は、社会に参加している]と言えるのか、言えないのか。
 しかし、こうした話題に立ち入る必要はない。[Sが「過去」に「経験」したことは、S以外の誰も「経験」したことのないような、特殊な「経験」だ]といった主張は、すぐに怪しいと分からるはずだからだ。[Sのような「経験」をした人間は、「それを人に与えないで死ぬ」]とすれば、Sは、他人の「経験」について無知であるはずだから、自分の「経験」が特殊なものかどうか、分かるはずがない。Sが、[自分の「経験」は、特殊だ]と主張するためには、以前、「それを人に与え」たことがあり、そして、[なるほど、特殊だ]というお墨付きを貰った経験でもなければならない。しかし、この可能性は、前提に反する。あるいは、Sは、今まで、数多くの他人から「過去」を「与え」られたことがあり、そして、それは、Sの「経験」に比べれば特殊ではなかったという経験をしていなければならない。しかし、この可能性は、孤独なSという設定から考えれば、あまりにも小さい。
 「それを人に与えない」というときの、「それ」は、何をさすのか。何も指さず、「それを」が接続詞として用いられているのかもしれない。「死ぬのは、惜い」というのなら分かるが、[Sが何かをどうかすると、Pは、その結果、「惜い」と思う]と、なぜ、Sは思うのだろう。「惜い」とか、惜しくないという話は、どこから転がり出て来たのだろう。[Sには、Pに対して語る義務がある]という話だったはずだ。聞く気になっているPに向かって、[もしかして、聞きたいよね]なんて、聞く必要はない。「私の経験を私の生命と共に葬った方が好い」というようなSの「自由」(53)は、Pに対しては、失われている。書くのはSの「義務」(56)であり、[書かない「自由」]はない。しかも、作者は、意図的に、Sをそういう立場に、強引に追い込んだはずだ。
 あるいは、「義務は別として私の過去を書きたいのです」(56)と主張すれば、「義務」はなくなってしまうものなのか。
 もしかしたら、ここは、聞き手Pを確保していない頃の「自叙伝」(110)の語り口の名残かもしれない。語り手Sにとって、聞き手Pは、馴染みの薄い人物なのかもしれない。
 「惜い」と思うのは、誰あろう、S自身なのかもしれない。「私にも多少そんな心持があります」って、どこまでふざければ、気が済むのだろう。Sは、[Sの「経験」は、記録する価値がある]という話題に捕らわれているらしいが、こんな話題は、作者のものだ。『こころ』作者は、自分と登場人物の区別が付かなくなってしまったらしい。あるいは、[Sは、生活の現場を舞台と勘違いして生きていた]という設定か。
 先の引用文の二番煎じが、「遺書」擱筆寸前に記される。そのとき、「遺書」執筆当初の切迫した雰囲気は消え、奇妙な自信が生まれている。そして、その分だけ、野放図になり、文脈が乱れる。
  私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語
 り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力
 は、人間を知る上に於て、貴方にとっても、外の人にとっても、徒労ではな
 かろうと思います。
                               (110)
 [Sの「過去」がSを「生んだ」]ということは、あり得ない。ここは、[Sの精神か心境か何かが現在のようなものになる原因は、「過去」の「経験」にある]ということを言っているのだろう。先天的なものではなく、後天的なものだとでも言いたいのか。意味不明。
 「ですから」までの、前段の主意は、[Sの「過去」の「経験」を、Sは、まだ、誰にも語っていないので、今のところ、Sより「外に誰も語り得るものはない」]というものでなければ、おかしい。すると、ここには、「人間の経験の一部分として」という文節は要らない。「それを」以下の、後段の主意は、[Sの「過去」の「経験」を書くSの「努力」は、徒労ではなかろう]というものだ。ここに、「人間を知る上に於て、貴方にとっても、外の人にとっても」という、どこにも繋がらない文節が挿入される。前段と後段を、その主意によって結ぶと、[Sの「過去」の「経験」を、Sは、まだ、誰にも語っていないので、Sより「外には誰も語り得るものでない」から、Sの「過去」の「経験」を書くSの「努力」は、徒労ではなかろう]となる。ところで、ある「経験」を語ることが「徒労」かどうかは、「外に誰も語り得るものはない」という条件によって決定するようなことではない。だから、[Sの「過去」を、「偽り」としてではなく、「人間の経験の一部分として」書いた作品を読むことは、「人間を知る上に於て、貴方にとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います」]とでもいった文が、潜在的に機能することになる。「徒労ではなかろう」という述部は、[Sが「遺書」を書くこと]と、[読者が「遺書」を読むこと]の両方を受けている。この奇怪な文によって、[Sの「経験」の特殊性]という話題は、[Sの「遺書」の価値]という話題に、こっそりと、すり替えられる。Sの苦悩を軽んじることをためらう、気の弱い読者は、「遺書」の価値をも認めてしまう。すくい上げられたのは、[Sの「経験」]という物語の中身ではなく、[「遺書」の価値]という値札でしかないのに。
 [「遺書」の価値]を論じる「遺書」作者という、お恥ずかしい存在は、「遺書」の形式的読者Pを飛び越えて、「『心』広告文」作者と、ほぼ同じ位置に立ち、『こころ』読者と向き合う形になる。
 [P文書]は「遺書」の前文として不可欠だと、語り手Pは考えたはずだ。しかし、[P文書]の存在を知るはずのないSが「外の人」を想定すれば、[「外の人」は、「遺書」のみによって、Sの「経験」を「受け入れる事」(56)ができる]と、Sが考えたことになる。すると、Pにとって、[P文書]執筆の動機は生まれないことになる。生まれるとすれば、売名行為だろう。売名行為なら、Pは、本当に、Sの「経験」を「受け入れる事」ができたのかどうか、怪しいことになる。こうした可能性を否定すれば、語り手Sは、この段階で、[P文書]を含む『こころ』全体の作者と、区別できないどころか、編者Nとも区別できないことになる。
//「あなたの頭」
 Sは、Pに対面して[SとKの物語]を語ろうとせず、かといって、豊富な余暇を利用して「長い自叙伝」(110)の全編を記すのでもない。この設定は、綱渡りのようなものだ。Sは、[「長い自叙伝の一節」(110)以外の「私の経験を私の生命と共に葬った」(56)という事実を、Pや「外の人」(110)に対して、明白にすべきだ。
 上京後のPとの対面は、避けられる。この条件が必要だった理由は、Sにはない。作者が必要とした条件だ。そして、この条件によって、作者は、Pを「遺書」の聞き手として「遺書」に従属させる。語り手Sは、自分の勝手な都合で、適宜、幻想としてのPを呼び出したり、引っ込めたりしながら物語る自在性を獲得する。Pに、Sの語りの邪魔をさせず、しかし、語りの不備は負担させるという仕掛けを作り上げる。
  こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠めて通
 るでしょう。
                               (65)
 Pの利用価値は、一目瞭然だ。一般の読者が、Sの語りに、うまく乗れなくても、Pは乗ってるという錯覚を『こころ』読者に与えることができる。いわゆる、[桜]だ。Pに下心がなければ、[友釣り]ということになる。
  いわばテレーズのために教会の跪台の代わりに使われ、その前ではな
 んの不安もなく自分の落ち度を告白し、ゆるしを乞うことのできる家具
 のようなものになってしまったのだ。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』29、篠田浩一郎訳)
//「血潮」
  あなたの生活の平静と歓喜が再び帰ってくるというのならぼくはよろ
 こび勇んで死んで行くのですが。しかし、身近かな人たちのためにその血
 を流して、その死によって友だちに新しい百倍の生命をかき立てるとい
 うのは、ただ少数の高貴な人々にしか許されなかったことです。
             (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳)
  私はその時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の
 腹の中から、或生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私
 の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。(中略)
 私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけよ
 うとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新らしい命が宿
 る事が出来るなら満足です。
                               (56)
 情報伝達の比喩としての出血が、死の比喩になり、自殺を実現させる。紙で作った鳩が本物に変わって飛び去るようだ。
 「腹の中から、或生きたものを捕まえよう」というのは、間違いなく比喩だ。「心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろう」というのも、「自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけよう」というのも、比喩だろう。ここで、Sの記していることは、全部、比喩だ。では、「殉死」(110)も比喩なのではないか。「明治の精神に殉死する」(110)というのは、[「精神」的な「殉死」]の比喩ではないのか。そもそも、Sは、「殉死するならば」(110)と言ったのだし、また、その発言は「無論笑談に過ぎなかった」(110)と書かれている。また、Pは、[Sは自殺した]とは、書いてない。「遺書」とSの死の間には、空白がある。Pによって語られるSの死は、Pにとって、過去の出来事だ。Sによって語られるSの死は、未来の出来事だ。過去と未来を結ぶはずの現在の死は、描かれない。「私は妻に血の色を見せないで死ぬ積りです」(110)というのは、実際に出血しないことの表出のようだ。「頓死したと思われたい」(110)という言い回しは、[死んだと「思われたい」]という気分の表出のようだ。「この世から居なくなるように」(110)という言い回しも、「ように」という言葉が遣われていて、比喩ではないが、比喩っぽい。
 Sは、実際には死ななかったのではないか。少なくとも、「遺書」とSの死とを直接に結び付けるための決定的な理由はない。
 「殉死」は、表現的な行為だ。抗議のための自殺などは、明らかに表現だ。言葉の代用行為だ。行動の側から選ばれる表現としての現実の[死]と、表現の側から選ばれる「死」という比喩が、すれ違いざまに入れ替わっているのではないか。だとしたら、『こころ』において、[実際に、Sは死んだ]とは言えまい。繰り返すが、『こころ』という作品の外側で[Sの死]が文学でしかないのと同じ質感で、『こころ』の内部でも、[Sの死]は文学でしかないと言える。Pは、あたかも、『こころ』読者のように、[Sの死]に感動しているはずだ。さもなければ、Pは、Sが[Kの死]について感じたのと同質の罪悪感に苛まれるべきだ。
 聞き手Pは、Sのいる空間から、少し、ずれた場所にいる。その場所は、「世間」に近い。そこには、例えば、「兄」がいる。「兄」にとって、Sは「つまらん人間」(51)だ。そして、その観点を、Pは打破できなかった。Pは、「なにも無理に先生を兄に理解して貰う必要はなかった」(51)と息巻くが、Pには、「兄」であれ、誰であれ、「理解」させる力がないのだろう。Sに対する「直感」(6)だけが頼りでは、Pは、自分の「友達」(1)にさえ、Sを紹介できまい。情けない弟子だ。そこで、Sは、Pに、「兄」攻略法を教える。「兄」攻略は、負け惜しみでないとすれば、Pにとって、重要な課題ではないはずだ。しかし、Sにとっては、名誉の問題だ。Sは、Pを鉄砲玉に使って、「世間」を撃つ。だが、この計略は、SやPのものであるはずがない。作者のものだ。
 この計略を実行するために、作者は、語り手を替える。[P文書]における[Pの語る/Sの物語]は、「遺書」に丸投げされ、結果的には、「外の人」(110)を仲介に、『こころ』読者に丸投げされて終わる。
 [Kの物語]についても、同じことが言える。[Kの語る/Kの物語]は、無に等しい。Kは、まるで「手紙」(102)を封印するように、「血潮」(102)を残す。Kの自殺は、本当に「覚悟」(96)の自殺だったのか。Sに対する抗議、敗北などの表現を意図した、狂言自殺のつもりで、間違って、本当に死んでしまったのではないのか。そう思えるのは、「この友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じた」(103)など、自殺を表現のように受け取るからだ。作者は、自殺を、表現的であることによって、評価しようとしていると思われる。
¨ 比喩として、語り手Sは、Pに対して、[血の呪法]を行う予定だ。そのとき、生け贄として、語られるSの「血」が用いられる。比喩としての[血の呪法]によれば、「世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら」(107)理解できないような「寂寞」(107)を伝えることができるらしい。
  私に云わせると、彼の心臓の周囲は黒い漆で重く塗り固められたのも
 同然でした。私の注ぎ懸ようとする血潮は、一滴もその心臓の中へは入ら
 ないで、悉く弾き返されてしまうのです。
                               (83)
 これは、Sの偽造された記憶か。[血の呪法]は、Kの「血潮」(102)の印象から発想されたに違いないから、それをK自身に試すのは、時間的には、おかしい。このあたりは、もやもやしている。Sの詰問に対して、Kの出した答えが、自殺だった。自殺は、Kの表現だったのかも知れないが、その「血潮」は、表現ではないはずだ。ただの出血。血液でアートしたのではなかろう。
 もし、語られるSが、Kの生前から[血の呪法]を企画していて、Kの「血潮」を表現として「感じた」のであれば、先を越されたという思いを抱いたとしてもおかしくはないということか。
//「親子のごとく」
 「遺書」が始まると、Pは、『こころ』読者と同席するかのように、身を引く。夢幻能のワキのように、舞台の端に控える。そして、死者として語る、後ジテのSを仰ぎ見る。前段で仄めかされたシテの「過去」が、超常的な存在として登場した本人の口から、回想として語られ、そして、語り終えられると、同時に、終演。Pが感想を漏らす時間枠は、設けられない。「両親と私」は、間狂言か。散文的。
 ワキは、しばしば、登場の時点から、シテの物語の[世界]に浸っていて、化身のシテに故知れぬ懐かしさを覚え、告白を迫る。シテとワキの邂逅は、演劇的なもので、日常の感覚としては、不合理。シテは、しばしば、修羅道に堕ちていて、懴悔し、滅罪を願う。
  さながら、親子のごとくに、御歎きあれば弔ひも、まことに深き志、請け
 喜び申すなり。                                                      (謡曲『朝長』)
//「眠くなった」
 「誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない」(『或旧友へ送る手記』)というのが、もし、『こころ』批判だとしたら、その批判は当たっていない。『こころ』は、自殺者の心理を「偽りなくを書き残し」(110)たものではないからだ。Sが自殺を決意してからの、作者の筆遣いは、『明暗』で清子に会うために急ぐ津田の描写にも匹敵するような解放感がある。津田は死にに行くのではなく、冒険しに行くのだが、Sも、また、冒険に向かうかのようだ。いや、冒険を求めているのは、作者(達)だ。『こころ』作者の冒険がある。それは、比喩としての死を経過した復活、つまり、『道草』作者への変身だ。
 Kの死については記されていた悲惨、悲嘆、墓所などの不愉快な事項は、Sの自殺については見られない。そのわけは、Pにとってだけではなく、作者にとっても、Sの死が、具体的な死とは別の何かだと思われるからだろう。
 Nの作品の作者(達)には、[ある事実が明らかになれば、ただでは済まない]という強迫観念があるかのようだ。老梅は、迷亭によって初恋の話が明かされると、その場にいたわけでもないのに、「巣鴨へ収容」(『猫』9)され、改名してしまう。森本は、何事かを語ろうとしたかと思うと、眠り込んで(『彼岸過迄』「風呂の後」8)しまう。作者が森本を眠らせた、積極的な理由は不明のまま、目覚めた森本は、どうでもいいような話をして、その後、あたかも罪の告白でもしたかのように失踪する。一郎は、語れども語れども不得要領で、ついには眠り込み、「この眠から永久覚めなかったらさぞ幸福だろう」(『行人』「塵労」52)と記される。哀れなものだ。Sは、語り終えて、死ぬ。作者は、作者にとっての真実ではないが、登場人物達にとっては真実であることを彼らに語らせることで、憂さ晴らしか、予行演習でもしているらしい。
 『道草』の健三は、死なないし、死のうともしない。Sよりも生き難い感じなのだが。『明暗』の津田は、死ぬのかもしれないが、こっちは簡単に死にそうにない。しかし、健三が動けないように、津田も動けまい。動くためには、[養子の物語]を顕在化させなければならないはずだ。「自己本位」から「則天去私」へと、極端から極端へと、しかも、意味不明の考えから、別の意味不明の考えへと、飛び移ろうとする、その心の動きそのものが、何かの欲求の表出だろう。
 『明暗』作者は、[明らかにすればただでは済まないような事実]の上に蓋をするように清子を座らせ、その周辺で主人公に迷わせるという遊びに熱中し始める。物語は、デッドロックに入り、津田は、やがて、言葉に詰まり、眠りに入ることだろう。津田が眠れば、清子にも語る言葉はないから、清子も眠る。そして、そのとき、二人の間に入り、川の字になって、作品の中にはいないはずの、もう一人の男も眠る。その男が作者か。
  三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? 人生を書いたので
 小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? 三人
 とも一時に眠くなったからである。
                            (N『一夜』)


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