『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#068[世界]28先生とA(18)「背景」

//「Kと同じように」
 語られるPは、語り手としての要件を欠いていた。語り手としての要件とは、聞き手を切実に欲するということらしい。その状態を式にすると、[P-φ]となる。この式をS語に翻訳すれば、「淋しい」(7)となろう。Pは、Sの指摘が正しければ、「淋しい人間」(7)だが、Pは否認する。語られるPには、語り手としての自覚が足りなかった。語り手Pには、[語られるPは、「淋しい人間」だ]という反省が生じているのだろう。語り手Pは、語られるPがSに抱いた「懐かしみ」(4)の重要性に気づいている。「懐かしみ」を抱く人の心には、「淋しさ」が蟠っているはずだ。しかし、Pは、[P版「淋しい人間」の物語]の語り手としては、十分に条件を満たしていない。足りない条件とは、「背景」(56)と「過去」(56)であるらしい。
 Pは「背景」と「過去」を持たないので、「意見」(56)を表明しても、Sに「尊敬」(56)されなかった。「過去」を物語の素材と翻訳すれば、「背景」は物語の[世界]か。[「淋しい人間」の物語」の原典が、どこかにあるのかもしれない。
  私は仕舞にKが私のようにたった一人で淋しくて仕方がなくなった結
 果、急に所決したのではなかろうかと疑がい出しました。そうして又慄と
 したのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという
 予覚が、折折風のように私の胸を横過り始めたからです。
                               (107)
 [S版「淋しい人間」の物語]と[K版「淋しい人間」の物語]の原典が、どこかにあるらしい。「予覚」という言葉が、怪しい。原典は、[まだ/ついに]現れないのかもしれない。
 『こころ』の原典を、『こころ』の先行作品のどれかと見做すことは、できなくはない。『こころ』に、自己模倣は、随所に見られる。しかし、どれと確定できそうにはない。
 Nの伝記が明らかにされてからは、読者は、Nの「過去」を[世界]として、Nの作品を読むことができる。しかし、発表当時は、できなかったはずだ。にもかかわらず、Nの作品が理解可能な言語の集積と見做されていたとすれば、当時、[「淋しい人間」の物語]が[世界]として公認されていたと考えられそうだ。例えば、『寂しき人間』(ハウプトマン)か。
 [Sの物語]が[Kの物語]の異本なら、「もっと詳しい話をしたい」(92)という、Sの台詞に対応する台詞を[P文書]で語るのは、Pだ。Pは、「はっきり云ってくれないのは困ります」(31)という。
 Kは語り終え、Sの賛同を得られずに死ぬ。Sは語り終え、Pの賛同を得られたか。Kの死について、Sは、確かな原因を語ることができない。Pも、Sの死の原因を語っていない。語れないPは、「遺書」の前文作者の地位に甘んじている。語り手Sは、聞き手Pに対して、[Kの物語]の前文作者だ。語り手Kは、聞き手Sに対して、「昔の高僧だとか聖徒だとかの伝」(77)の前文作者だった。あるいは、Kは、前文作者になり損ねたか。
 誰も彼もが、前文作者か、その予備軍か。『こころ』作者も、そうか。[まだ/ついに]、誰も、[自分の物語]を語れない。その思いが、「折々風のように私の胸を横過り始めた」(117)か。ところで、この感慨は、「遺書」完成間近のSのものとしては、おかしい。[「長い自叙伝」(110)の全体を記述できない]という、Sの気分の表出でないとすれば、この感慨は、作者のものだろう。
 [自分の物語]は、「背景」として暗示することしかできないが、しかし、必ず、示さなければならないという前提が、作者にはあるのだろうか。この前提は、二重拘束に近い。
//「背景」
 [P文書]で語られるSは、「私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか」(31)と問う。「ごちゃごちゃに考えて」は、いけないらしい。
  私はあなたの意見を軽蔑までしなかったけれども、決して尊敬を払い
 得る程度にはなれなかった。あなたの考えには何等の背景もなかったし、
 あなたは自分の過去を有つには余りに若過ぎたからです。
                               (56)
 私達は、[ある人の言動の一部だけを見て非難するのは、軽率だ]と教えられているのかもしれない。しかし、[ある人の言動の一部だけを見て称賛するのは、軽率だ]とは、教えられていないと思う。善行の「背景」を疑うのは、意地悪と言えよう。
 さて、Sは、Pに対して、意地悪なのか。違う。では、PがSに示した考えは、単に悪いだけでなく、「背景」という条件を考慮してやってさえ、落第するような、箸にも棒にもかからない考えだったというのか。違う。
 「遺書」の語り手Sは、「意見」と「背景」や「過去」を「ごちゃごちゃに考えて」いるのではなかろうか。あるいは、「ごちゃごちゃに考えて」いるのではなく、きちんと整理して「考えて」いるのに、私には、そのようには見えないだけか。どこかに、整理した文があるのに、私は、それを見落としているのだろうか。あるいは、「考え」と「思想とか意見とか」を「ごちゃごちゃに考えて」は、いけないのだろうか。あるいは、[P文書]のSやPと「遺書」のSやPを「ごちゃごちゃにして」は、いけないのだろうか。二つの文書は、無関係なのだろうか。
 Pは、[Pの物語]の語り手として、十分ではないと、Sが語ったとすれば、[P文書]の一部としてある[Sの物語]の語り手としても不十分であるはずだ。事実、自分の家族に対しても、空想上の語り手Xに対しても、語り手として、有効に働いていない。勿論、このことによって、「遺書」の存在意義は高まるわけだが、そのとき、誰にとって意義が高まるのかと言えば、言うまでもなく、Xだ。あるいは、「世間」(1)であり、『こころ』読者だ。Pは、「遺書」未読の段階での[Pの語る/Sの物語]を、「遺書」によって補完することはできない。もし、[P文書]の不備を、Pが「遺書」によって補完できると考えるとしたら、Xや「世間」や『こころ』読者は、「直感が後になって事実の上に証拠立てられた」(6)という、不気味な文脈を、自分達にとっても自明の前提として承認したことになる。
 Pは、[Pの語る/Sの物語]の語り手として、落第する。しかし、[Sの語る/Sの物語]の聞き手としては、合格する。そして、[「遺書」の物語]が始まる。この流れは、強引だが、不合理ではない。しかし、ここで、語り手Sが、[Pの「考え」には「何等の背景」もないし、Pの「過去」には特筆すべき何ものもない]と決めつけるのは、不必要な挿話だ。なぜなら、Pは、[Pの語る/Sの物語]の語り手試験に落第するだけで十分だからだ。それなのに、Pは、[Pの語る/Pの物語]の語り手の試験にまで、落第させられている。
 Sは、あるいは、作者は、徹底的に、Pから語り手の資格を剥奪しようとしている。ところが、Pは「遺書」の前文作者だ。だから、語り手Pは、「遺書」読了後には、語り手の資格を取り返したことになる。作者は、Pが、どのようにして、語り手の資格を取り返すことができたと考えているのか。答えは、二つ、考えられる。一つは、「遺書」を読んだからだ。「遺書」が、私には不明の作用を起こして、Pの「背景」を与えたのだろう。もう一つの可能性は、作者の時間で言えば、[Pは、永遠に、語り手の資格を剥奪されたままだ]というものだ。さて、どちらが当たっているのだろう。答えは、どちらか、一方ではなく、両方を「ごちゃごちゃ」にしたものであるように、私には思える。
 Sにとっての「背景」の、重要なものが[Kの死の物語]だったとすれば、Pにとっても、[Sの死の物語]は、「背景」として機能すると考えられる。もし、そうだとすれば、もう一つの可能性について、Pで言えたことが、Sでも言えるのではないか。つまり、[Sは、Pと同様に、永遠に、語り手の資格を剥奪されたままだ]と言えるのではないか。その資格とは、[Sの語る/Kの物語]の語り手としての資格だ。
 本当の物語は、[Kの物語]だ。そして、本当の物語は、「背景」として暗示することしかできない。そのことを、作者は、異様な熱気を込めて、読者に信じさせようとしているのではなかろうか。
 Sは、Pの考えに「背景」のないことを、どのようにして知ったのだろう。知ることはできない。作者の設定に過ぎない。Sは、作者の設定を察知し、Pをやり込める。そして、PもSが作者の設定を察知したことを察知したのだろう。そのように考えなければ、筋が見えない。人は、どのようにすれば、[他人の「考え」に「何等の背景」もない]ことを知り得るのだろう。いや、そもそも、どのようにすれば、「過去」のない人間を想像できるのだろう。できない。読者無視の設定でしかない。
 さて、先の引用文に戻ろう。この2文の第1文の話題は、[「軽蔑」でもなく、「尊敬」でもない何か]らしい。[普通]だろうか。第2文は、「から」という言葉があるので、第1文の理由を語っているはずだ。そして、これは「し」という助詞で繋がっているから、理由が二つあることを示すはずだ。ところが、第1文についての理由は「背景」だけで、「過去」は「背景」の理由になるらしい。ということは、「から」という言葉は、二股を掛けていることになる。日本語では、こういう曲芸は、できないはずだ。
 もしかしたら、この「し」は、理由を表すのかもしれない。[と言うのも、「あなたの考えには何等の背景もなかった」からだ。とは言え、あなたに背景がないのも仕方がない。なぜなら、背景を持つには過去が必要だが、「あなたは自分の過去を有つには余りに若過ぎたからです]という意味か。
 私には、何も確定できない。私は、だんだん、頭が悪くなって行くようだ。
 「私はあなたの意見を軽蔑までしなかったけれども、決して尊敬を払い得る程度にはなれなかった」という文を見よう。「私はあなたの意見を軽蔑までしなかった」という文と、「決して尊敬を払い得る程度にはなれなかった」という文が、「けれども」で結ばれている。後段の文に客語を補うと、[「私はあなたの意見を」「決して尊敬を払い得る程度にはなれなかった」]となり、捩れるので、[「私はあなたの意見」に対して、「決して尊敬を払い得る程度」の気分「にはなれなかった」]と書き直して、眺めてみる。この文は、[Sは、Pの「意見」についての評価点をマイナスとも、プラスとも、付けなかった。すなわち、無に等しいと評価した]と語っているらしい。[Pの「意見」は、「意見」の内に入らない]という意味だろうか。その理由が第2文に記されているようだ。[Pの「意見」は、「背景」やPの「過去」と無縁だからだ]という。
 「背景」や自分の「過去」と無縁の「意見」を、Pは、どこから持って来たのだろう。書物か、他人のおしゃべりか、夢の中か。夢はさておき、「背景」や「過去」と無縁の「意見」は、「あなたの意見」とは言えないらしい。となると、[Pが自分の「意見」と称するところの、出所不明の「意見」は、Pの「意見」とは言えないから、Sは敬意を払わない]と、Sは記していることになるらしい。つまり、原典明記のルール違反で問われるのなら、まだしも、「意見」の内容を検討する前に、「背景」や「過去」が問われてしまうわけだ。
  その倫理上の考えは、今の若い人と大分違ったところがあるかも知れ
 ません。然しどう間違っても、私自身のものです。間に合わせに借りた損
 料着ではありません。だからこれから発達しようという貴方には幾分か
 参考になるだろうと思うのです。
                               (56)
 何が「間違っても」なのだろう。「考え」の出所よりは、「間違って」いないことの方が重要だと、私は思う。間違わないでほしい。いや、「間違って」いるのは、私か。「間違っても」というのは、[「考えが」「どう間違っても」]という仮定を語っているのではなくて、[「どう間違っても」「損料着ではありません」]と続くものらしい。あるいは、「違ったところがある」の「違った」という語感を引きずっているのかもしれない。つまり、[「今の若い人と大分違ったところがある」としても「私自身のもの」だから、ふにゃふにゃ]と消えて行くのか。
 [「損料着」でない「考え」が「参考」になるのは、「発達」途上人間に対してだとすると、「損料着」の「考え」は、誰の「参考」になるのか。「発達」準備中の人間だろうか。だから、「損料着」らしい、Pの「考え」を「軽蔑まではしない」という、穏やかな評価が与えられるのだろう。しかし、「損料着」の「考え」は、厳密に言うと、Pの「考え」ではない。となると、「私はあなたの意見を軽蔑まで」云々の文は、[「あなたの意見」は「損料着」だ]と要約されるから、[「あなたの意見」は、「あなた」自身の「意見」ではない]という、無意味な文に変わる。しかも、その断定の根拠は、不明だ。私には、不明だ。
 誰でも、自分の考えを切り詰めて行けば、いつか、独特の思想にたどり着くのかもしれない。しかし、切り詰められた考えは、溜め息のように、ささやかなものだろう。そもそも、独自性を求めて切り詰めて、何になるのか、私には分からない。自己満足か。安心するためか。「知らんと云ったことのない先生」(『猫』1)のような醜態を晒したくないからか。「背景」のない「考え」は、知ったかぶりと同義なのだろうか。
 「あなたの考えには何等の背景も」云々の文は、その第1文の「軽蔑」や「尊敬」という話題とは、関係がないのかもしれない。第2文は、第1文の話題、[ある「意見」や「考え」が「損料着」的でない状態]について、裏側から説明した文らしい。すると、この文を元に戻せば、[「損料着」的でない「意見」や「考え」には、「背景」や「過去」がある]という、いわば、定義のようなものになるか。
 「あなたの考えには何等の背景もなかったし、あなたは自分の過去を有つには余りに若過ぎたからです」という文は、また、捩れているので、分割する。[Pの「考えには何等の背景もなかった」]という言明の文と、[Pは「自分の過去を有つには余りに若過ぎたからです」]という理由の文が、「し」で繋がっている。ここは、後の「過去」が、前の「背景」の理由として、記されているらしい。
 [Pの「考えには何等の背景もなかった」]というときの「背景」は、[「考え」の「背景」]のことだろう。そして、「考え」の「背景」が、「過去」なのだろう。
 [Pは「自分の過去を有つには余りに若過ぎたからです」]という文が、何の理由を語っているのかというと、[「考え」の「背景」がないこと]の理由についてであるようだ。ということは、[ある「過去」は、ある「考え」の「背景」になる]ということか。ここで、「私の過去を書きたい」(56)とか、「私の過去は私だけの経験だから」(56)とか、「私の過去は(中略)他人の知識にはならない」(56)といった言い回しを見ると、「過去」とは、書くことができて、「経験」によって得られた「知識」であるようだ。「過去」という言葉は、[「過去」に「経験」した出来事]というような意味で遣われているらしい。これを代入すると、[「過去」に「経験」した出来事は、「考え」の「背景」になる]となるか、ならないか。
 ここで纏めると、[ある「考え」や「意見」は、その「背景」に、「過去」の「経験」がなければ、「損料着」的だ]となるか。これに最後の理由の文を付加すると、[Pは、自分なりの「考え」を持つための「背景」を形成するような「過去」の「経験」を持つには「若過ぎた」]となるのだろう。Pは、慰められているらしい。
 ところで、Sの自負の根拠となっているらしい「過去」が[SとKの物語]を指すとすれば、この物語は、Sの学生時代に起きていた。一方、Pは卒業しているのだから、Pが「若過ぎた」と言われる時期は確定できないが、「遺書」で語られるSより「若い」とは断言できないし、「若過ぎ」とは、まず、言えまい。では、「若い」とは、実際の年齢のことではないのか。精神年齢のことか。精神年齢が「若過ぎた」から、「無遠慮」(56)になれるのかもしれない。また、「発達」途上とも見做されるのだろう。Pが「若過ぎた」と見做されるのは、何が欠けているからか。「過去」だとされるが、この「過去」は年齢とは関係がない。すると、Sは、独自の「考え」を持つためには、独特の「経験」を「過去」に持たなければならないと考えるらしい。
 人は、なぜ、独自の「考え」を持たねばならないのだろう。「発達」するためか。「発達」して、どうなるのか。独自の「考え」で「発達」したら、自殺したくなるのではあるまいか。独自の「考え」を持てば、「世間」(1)は許容しまい。すると、孤立し、「淋しい人間」(7)になり、自殺したくなるのではないか。だったら、独自の「考え」なんか、持たない方が良さそうだ。また、そのために独特の「経験」をする必要もないどころか、そんな「経験」は、努めて回避すべきだろう。もし、「遺書」の主題が[自殺のすすめ]でないとすれば、そういう結論になりそうだ。「発達」するにしても、「損料着」の「考え」でも「発達」できなくはないのなら、「幾分か参考になる」といった程度のお「考え」は脇に置いて、まずは、遠回りでも安全で確実らしい「損料着」の方から、ご存じなら、お教え願いたいものだ。
 先の2文を纏めよう。
 [Pが独自の「意見」だと思っている「考え」は、P自身の本当の「考え」とは言えない。Pは、まだ、独自の「考え」を持てない。独自の「考え」を持つには「背景」が必要だが、その「背景」となるべき独特の「経験」を「過去」に「経験」していないからだ。なぜ、Pは、「経験」できないのか。Pは「若過ぎた」からだ。「若過ぎ」るというのは、「若い」(4)という意味ではなくて、「若々しい」(6)と言うか、要するに、「馬鹿げている」(6)からだ。「軽薄」(36)だからだ]
 この結論は、「貧弱な思想家」(31)が好みそうな[反「損料着」的「考え」]、つまり、手前味噌を、作者が皮肉って見せたものだろうか。[「損料着」は、偉くないんだぞお]という考えが前提にあるらしいが、[「損料着」は、偉くないんだぞお]という考えは「損料着」じゃないんだぞおという証明は、してくれないね、きっと。[他人から見たら「損料着」なのに、本人がそのことに気づかないだけだ]という可能性も、検討しないんだろうね。
 この結論の最大の弱点は、[「過去」のない人間]を空想しているところだろう。Sは、年下のPに向かって、[Pは、若いから、何を言っても、Sには勝てないよ]と、頭ごなしに決めつけたことになる。こんなんじゃ、Pの立場がない。Sは、[Pは、なるべくなら、Pの経験したことを元にして考えたことを述べよ]と助言すべきところだろう。勿論、[この助言は、素敵な助言だ]と、私は主張しているのではない。
 作者は、[Sに会う前のPに、「過去」はない]と思っていたのかもしれないが、「過去」は、ちゃんと、ある。[P文書]の冒頭で、「友達」(1)との一件が記されている。この「過去」の「経験」を「背景」にすれば、[SとKの物語]を作り出すことができる。作者は、そうしたのだろう。だったら、Pに不足しているのは、「過去」ではなく、創作能力だろう。
 結局、Sは、Pを「時々笑った」(56)ので、Pは、Sの「過去」を「展開してくれと逼った」(56)という展開だ。迫られるように仕向けているとしか見えないし、勿論、作者は、そうしているはずだが、SもPも気づかないという設定だ。作者は、読者も気づかないと思っているのか。
 Sは「時々笑った」って言うけど、「世間」(11)に知られたら、「時々」どころか、頻繁に、Sは笑われていたはずだ。自分の「意見」というのは、他人の「意見」と、相対的にあるもので、[絶対に、自分の「意見]だ]と主張できるような「意見」など、あるはずがない。あると思い込んだら、「発達」の可能性はない。Sは、もう、「発達」するつもりはないらしいから平気だろうが、「発達」途上人間に対して「意見」の独自性を求めるのは、結果的に「発達」停止を求めることになる。[「意見」に独自性がないから、いつまでも、「発達」途上なんだ]という批判なら、同義反復だろう。[自分の「経験」と自分の「意見」が「背景」によって繋がったときは、自殺するときなんだな]とでも解釈しておこうか。
 「どう間違っても、私自身のもの」などと、力瘤を作って見せる人とは、ものの5分だって議論はできない。Sがある「意見」を持つに至った由来など、あろうが、なかろうが、徹頭徹尾、それは、Sの問題であって、Pの知ったことではない。Pの「意見」の由来についても、Sには、とやかく、言う資格はない。資格がないことぐらい、分かっているから、「笑った」だけで済ませたのだろう。
 こんなとき、Pは、[私にも、「過去」は、ありますよォだ]と応じるべきだった。すると、逆に、[Sは、Pの「過去」を「展開してくれと逼った」]という展開になるのかな。なっても、ダイジョーV! [「展開」なんか、するもんか]って言っちゃえば? 「展開」ごっこじゃないんだろ。「展開」したがってるのはSなんだし、「展開」なんかしたって、Pの得にはならない。
//「背後」
  しかしこういう風にインデペンデントの人というものは、恕すべく或
 時は貴むべきものであるかも知れないけれども、その代りインデペンデ
 ントの精神というものは非常に強烈でなければならぬ。のみならずその
 強烈な上に持って来て、その背後には大変深い背景を背負った思想なり
 感情なりがなければならぬ。如何となれば、もし薄弱なる背景があるだけ
 ならば、徒にインデペンデントを悪用して、唯世の中に弊害を与えるだけ
 で、成功はとても出来ないからである。
                         (N『模倣と独立』)
 [「インデペンデントの精神」の「背後」には、それなりの「背景を背負った思想なり感情なり」が必要だ]ということが述べられているらしい。Nは、この後、「強い背景というものは何だというと、それは別なものではありません」(同)と言うだけで、説明はしてくれないようだ。「根柢」(同)と同義かもしれない。「運命」(同)のことかもしれない。私には、分からない。
 「背後」やら「背景」やら「背負った」やら、やたらと、「背」の字ばかり、並ぶ。正面に回ってその顔を拝むと、前の方に「不道徳な事を書いても、不道徳な風儀を犯しても」(同)とあるから、反社会的な顔付きをしたやつが佇んでいるのだろう。
 ある言動を選択するのは、「精神」だろう。「精神」の「背後」に、それなりの「背景を背負った思想なり感情」があるらしい。「精神」の「背後」にあるのは、「思想なり感情」だろう。そして、「思想なり感情」に「背景」があるらしい。
 ここで、「あなたの考えには何等の背景もなかったし、あなたは自分の過去を有つには余りに若過ぎたからです」(56)とか、「私の過去は私だけの経験だ」(56)という文を呼び出し、纏める。
 まず、「過去」にある出来事が起きる。その出来事を、私が「経験」する。その「経験」が「背景」となって、私の「思想なり感情」を形成する。私の「思想なり感情」が、私の「精神」を形成する。そして、私の「精神」に従って、私が行動する。
 この順番でいいとして、さて、私は何を表現するのだろう。「経験」は「背景」を支えている。「背景」は、じっとしている。「思想や感情」は、「精神」の形成に使ってしまった。「精神」は、私を従わせた。後に、何が残っているのか。私には、残っていない。
 [ある「経験」が、「インデペンデント」か、どうか]ということが問題なら、「過去を有つ」(56)という言い回しは、「経験」のことを指しているらしい。すると、[Pは、「自分の過去を有つには余りに若過ぎた」](56)という話は、[Pは、自分の過去の出来事を、独自の方法で「経験」するには、「余りに若過ぎた」]ということになる。ここで、「余りに若過ぎた」という言葉は、慰めを装った虚偽のようだから、この趣旨は、[Pは、独自の方法で「経験」しなければならないような、独特の出来事に、まだ、ぶつかっていない]とでもなるか。だが、これでも、まだ、おかしい。[独自の方法で「経験」する」というのは、まずい日本語だ。
 [「インデペンデント」の「経験」]のための「過去」の出来事が、「インデペンデント」なのだろうか。出来事は、個人ではどうにもならないから、話題にしても仕方がないと思うが、とりあえず、代入してみると、[Pは、特殊な出来事を「経験」していない]となるか。この文なら、分かるような気がする。
 かなり、無理をして、ここまで来た。この無理が道理であったとしても、まだ、『こころ』には届かない。
 「その上私は書きたいのです」(56)から、「命が宿る事が出来るなら満足です」(56)までに盛られたアイデアは、本当なら、Sに固有の話題としてではなく、一般論として提出すべきものだろう。そして、実際に、一般論を出ていない。文を捩り、異様な盛り上がりを見せることで、物語らしく見せかけただけだ。一方通行の講演を架空対談に作り替えたものだ。
//「到底通じっこない」
  僕は変に考えさせられるのです。全く形を成さないこの家の奇怪な生
 活と、変幻窮りなきこの妙な家庭の内情が、朝から晩まで恐ろしい夢でも
 見ているような気分になって、僕の頭に祟ってくるんです。それを他に話
 したって、到底通じっこないと思うと、世界のうちで自分だけが魔に取り
 巻かれているとしか考えられないので、猶心細くなるのです。
                            (『明暗』164)
 これは、小林が作品の中から消える前に、津田に読ませる「手紙」(同164)の一部だ。ただし、本物の手紙かどうか、怪しい。「十行二十字詰の罫紙」(同164)に記されているから。
 ここでは、[「僕」-φ]が起きているので、[「僕」は「心細くなる」]と語られている。「心細くなる」という言葉は、「寂寞」(107)という言葉と、「恐ろしい影」(108)という言葉を繋いでくれそうだ。また、「僕」が語ろうとして語れないでいる話題は、「恐ろしい夢」のようなものだというから、それは「恐ろしい影」の実像ではないにしても、「影」よりは確からしいと言えそうだ。
 この[「手紙」の物語]の「背景」(56)は、Nの全作品の「背景」でもあるようだ。そして、ここでは、『明暗』の「背景」というよりは、普遍的な何かであるかのように仄めかされている。かなり、怪しい「背景」利用法だが、その怪しさを作者が引き受けたためか、かなり、明白な表現になっている。
 津田にとって、この「手紙」の「中に述べ立ててある事柄に至ると、まるで別世界の出来事としか受け取れない位、彼の位置及び境遇とは懸け離れたものであった」(同165)のに、なぜか、「極めて縁の遠いものは却って縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた」(同165)と記される。「事実」だと? 「事実」って、どういう意味だろう。不気味だ。私には、「到底通じっこないと思う」ことが、次々に記される。私にとっては、「手紙」の外側の空間、つまり、津田や小林のいる空間こそ、「別世界」に見える。[「手紙」の物語]より、[津田の物語]の方が、はるかに手触りが薄い。だからこそ、津田にも、「手紙の意味が彼に通じた」(同165)らしい。「もっと明瞭にいうと、自分は自分なりにその手紙を解釈する事が出来たという自覚」(同165)を得たらしい。しかし、その理由は、私の感じる理由とは違う。私の理由は、単純に、文が比較的明瞭だからだ。そのことによって、物語の内容が「眼前に現われた」かのようだからだ。勿論、あくまで比較の問題だ。ところが、作者は、ここに途方もない観念か何かを潜ませたつもりらしく、そして、その観念か何かのせいで、津田の心にも何かが起きたと示唆したつもりでいるらしい。私は、気分が悪くなる。何か、ひどいペテンが行われているという感じがする。
 作者が潜ませた観念か何かについて、小林が、妙な謎解きをしてくれる。しかも、その謎解き自体が謎めいていて、気味が悪い。
  「だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。然し君の道徳観を
 もう少し大きくして眺めたらどうだい」
                            (『明暗』165)
 「この気味の悪い手紙」(同165)は、津田の「道徳観」に、ささやかな影響を及ぼすらしい。そして、その影響が、徐々に自己増殖する。作者としては、そういう手筈だったろう。しかし、この手筈が企画どおりに進行したとは、私には思えない。作者は、手詰まりになっている。津田に対して、小林は、この「狂言」(同166)を打って、手詰まりになったので、消える。が、同時に、作者も手詰まりになったはずだ。
 「道徳観をもう少し大きく」する前に、何か、別にすることがあろう。しかし、その何かを回避するから、津田も、小林も、そして、作者も、手詰まりになるのだろう。ここで、私達は、何をすべきか。
 [「僕」は、「通じっこない」と思っているが、「境遇」の異なる津田にも「通じた」らしい。だから、「僕」は間違っている]
 誰かが、「僕」に、そう、知らせてやるべきだ。
 しかし、無理らしい。「僕」は、「別世界」のような空間にいるからだ。いや、空間ではなくて、時間だろう。「僕」は、作者の「過去」(31)にいて、[まだ/ついに]、[「僕」の物語]を「訐いて」(31)もらえない。
 作者の「道徳観」から言えば、[津田に、十分に「通じた」]とは言えないはずだ。しかし、私の言語観から言えば、「通じた」と言える。この落差を、作者は、埋められない。ただし、このことは、[私には、「手紙」の言葉が「通じた」]ということを前提にして言うのではない。あくまで、作者の企画の内部において、津田に「通じた」という設定だ。ところが、この企画は、企画倒れだ。作者は、「通じた」とは信じていないからだ。作者は、自分が信じていない状態を描いている。だから、この作業は、企画というよりは、夢想とか、希望に近いようだ。
 作者は、[「手紙」の物語]に向かって書き進めることができたはずだ。「手紙」の文体は、その外側の『明暗』の内側の文体よりは、はるかに平明にできている。言語的な、また、物語的な困難は、作者にはないはずだ。しかし、作者は、[「僕」の物語]へ進もうとしない。そのわけは、単純なものではないはずだ。
 物語が滞りがちになると、手紙や日記や独白や演説に逃げ込む技法というか、癖は、Nの読者には、お馴染みのものだろう。作者は、独白の内容によってではなく、その形式、つまり、対話の拒否という形式によって、作者にとっての危機を回避して来た。そして、その代償として、作品は破綻した。『明暗』における「手紙」は、独白の一形式でありながら、同時に、作者の危機の表出でもあるという、二面性によって、取り上げられると同時に捨てられる。この「手紙」は、津田にとってというよりも、作者にとって、「気味の悪い」ものなのだろう。
 作者にとっては逃げ道だったはずの「手紙」が、作者を危機に引き込もうとしている。この危機を、作者は、[津田の「道徳観」は、小さい]という条件によって、回避する。しかし、こんな条件だけでは、回避できないはずだ。津田が、怖いもの見たさ、面白半分だけで、[「僕」の物語]の『それから』を知りたがらない理由はない。知りたがらないのは、むしろ、津田にとって、「別世界の出来事」だとは思い切れないからだ。しかし、その思い切れない理由は、小林が言うように、「手紙」が「道徳観」に関係しているからではない。ただ、単に、作者の個人的な危機に関係しているからだ。
 作者は、[「手紙」が津田に「通じた」のは、津田に「道徳観」のかけらがあるからだ]と暗示したつもりでいるらしい。そして、[このとき、読者も、同時に、「道徳観」に影響を受けつつある]と、作者は夢想したかったのだろう。しかし、私は、この影響を受けない。私には、小林の言う「道徳観」のかけらもないからかもしれないが、そのことは別問題だ。もっと確かな理由がある。[津田に「僕」の何かが「通じた」という「事実」は、ない]と、私は思うからだ。[「極めて縁の遠いものは却って縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた」というのは、語り手の嘘だ]と思うからだ。
 作者が、もし、嘘ではなく、このことを本気で信じていたとしたら、『明暗』は、ここで終わっても構わないようなものだ。あるいは、津田は、「僕」に倣って、清子に手紙を認めれば、十分だろう。津田と清子がどんな関係にあるとしても、津田の気持ちは清子に「通じた」はずだ。
 さて、ここで、津田が清子に送る手紙の内容を想像して見よう。できない。しかし、津田の手紙を読んだ清子の返信なら、想像できる。それには、[世界]があるからだ。それは、『金色夜叉』シリーズの末尾の、曖昧な、お宮の手紙だ。この曖昧さは、彼女自身の日本語能力が低いから生まれたものではない。彼女の認識の能力が低いからでもない。彼女の記憶が部分的に失われているからでもない。あるいは、彼女が重要な何かを隠しているからでもない。そうなってしまう本当の理由は、作者の側にある。捨てられた男は、女を、何の罪で責めているのか。その問題が明瞭ではないからだ。津田の手紙の内容を想像できないのも、同じ理由だ。
 作者が、読者に対して、津田と「僕」との通底を暗示したとしても、物語の底が抜けているから、効果がない。暗示の目的や手順を知ったからといって、受信者は感動しない。むしろ、種を知ってしまった手品を見るようで、退屈する。勿論、私は、種を見破った気でいるだけなのかもしれない。
 作者は、この「手紙」の有効性を信じようとしている。あるいは、信じられそうな程度にしか、利用できないでいる。[「僕」の物語]によって、作者が回避しつつ表出した[世界]は、[不幸な養子の物語]だろう。この[世界]が日本人にとっての[世界]になってはいないことを、作者は知っている。知っていながら、はかない望みを捨て切れないで、利用し続ける。こうした事情を知っているのは、作者だけだ。いや、作者さえ知らない。知っているのは、Aだけだ。と、Aは思った。このとき、NとAは通底したことになる。と、Aは思う。
//「義務は別として」
 「義務は別として私の過去を書きたいのです」(56)という文は、[作者は、書くSしか、設定できない。語り合うSとPを、設定できない]という事情を隠蔽している。[Sの物語]は、『こころ』の冒頭から破綻している。その事実が[表現されない/Sの死]として表出されている。読者は、[Sの死]という話題に引きずられて読むが、結局、[Sの死の物語]は出現しない。死ぬと言われているSが死なないのは、[初めから、Sは、ない]というのと同じことだ。
 Pによって語られるSと、「遺書」の語り手Sや、「遺書」の中で語られるSが同一人物であるという根拠は、どこにもない。もっと細かく見れば、語り手Sと語られるSも、自然には繋がらない。だから、少なくとも、3人のSがいると言える。[P文書]で、語られるPがSを見ていたように、また、「遺書」の中の物語で、語られるSがKを見ていたように、「遺書」そのものも、[語り手Sが、別人である語られるSを見ていて、そして、その結果を、Pに報告する]という構成をとっても良かったはずだ。その場合でも、語り手Sの作業は「徒労ではなかろう」(110)と言えるはずだ。勿論、このとき、「遺書」という言葉は相応しくない。
 作者は、死という決定的な出来事を扱いかねているようだ。[人間、死んだらおしまいだ]という観点と、[死んだ人の物語が人々の記憶の中に生きる]という観点とが、複合しているようだ。この間を短絡的に繋ぐには、超常的な観念が必要になるわけで、そのようなものは、密かに出現している。「直感」(6)や「迷信」(61)といった言葉は、物語が進まなくなると、持ち出される。
 語り手Sは、作者の感触では、霊魂として語っているのだろう。Sには、死に対する恐れがない。語り手Sの気分は、死ぬ気のない人物か、そうでなければ、死者のものだ。
 だから、こう考えられる。[Pの語る/過去のSの死]は、[過去のS/の死]が[過去の/Sの死]に区切り直されたものだ。[Sの語る/未来のSの死]は、[未来の/Sの死]が[未来のS/の死]に区切り直されたものだ。[古いSが死んで、新しいSが生まれ、そして、新しいSが死ぬのは、現在ではなく、ずっと後の未来だ]という、屈折した希望が表出されている。
 このトリックを隠すために、語り手が交替する。Pは、Sと交替するためにいるのであって、Sと語り合うところを見せるために、私達の前に出て来たのではない。PからSへと禅譲が行われる。[やらせ]と言ってもいい。PがSに席を譲ることによって、あるいは、SがPに「宿る事」(56)によって、作者の死が「繰り延べ」(110)になる。
 語り手Pは、初めから、死んだSの「記憶」(1)を持っている。語られるPは、[Sの死]に至る物語を、「直感」(4)によって、知っている。この二つの状態は、言わば背中合わせだ。語り手Pが語り手Sに座を譲るとき、語り手Pの[Sの死/の「記憶」]は、語られるPの[Sの何か/の「直感」]に偽造される。
 この経緯を逆転することによって、『こころ』の幕が上がる。「遺書」読了の時刻は、[P文書]執筆開始の時刻に繋がる。あるいは、重なっている。「遺書」読書体験は、その最中に、[P文書]構想を促す。そうしなければ、読めないような文だからだ。[Sの物語]の、もう一つの異本を書くように読まなければ、とても読み進むことはできない。不備な文書だからだ。
 こうした仮定を受け入れたくなければ、常識的にはナンセンスだが、一つの仮説を受け入れることになる。それは、[P文書]擱筆の時刻よりも、「遺書」読了の時刻は遅く、しかも、「遺書」読了後の時間は存在しないというものだ。だが、この仮説は、[作者/読者]の時間そのものの比喩として見れば、あまりにも自然なものであるはずだ。
 正体不明の「直感」は、[Kの死/の「記憶」]を経由し、[Sの死/の「予覚」(107)]に変化する。このとき、誰が語るかを忘れてしまえば、矛盾はなくなる。本当は、「私」という作者が語っていると思えば、矛盾は消える。簡単な話だ。しかし、この簡単な話を、作者は拒否した。だから、ややこしい。
 Sの死という出来事から、私達は、夢も希望も得られない。しかし、語り手Pから語り手Sへの引き継ぎそのものが、作者にとっての夢であり、希望なのだと考えれば、話は簡単だ。作者に、「義務は別として」、Sの「過去を書きたい」という夢や希望があるのは、当然だろう。
 Pには語れないことを、Sが語る。しかし、Sにも語れないことがある。それを語るのは、誰か。読者だ。Sには語らなかったことがあるらしい。それは、何かと考え始めたとき、読者は語り始めている。そして、その語りに、SとPが耳を傾ける。
  さる程にお山の人々、「あの道心と道念と、師弟子ながら、仲のよいこと
 はあるまじ」と、風聞こそはなされける。道心この由きこしめし、人の心の
 さがないもの、真実の親子と悟られては大事とて、「なうなう、いかに道念
 坊。さてそれがしは、北国修行に出づるなり。老少不定の習ひにて、北に紫
 雲の雲立たば、道心坊が死したると思はいの。西に紫雲の立つならば、道
 念坊の死したると思ふべし」
                           (『かるかや』)
 「記憶」と「予覚」の見えない谷間、つまり、現在で、「死期」(110)の「繰り延べ」(110)が行われる。何かが「継続中」(『硝子戸の中』30)なのだが、何が「継続中」なのか、作者は明示しない。明示しないことによってのみ、何かが「継続中」となると信じられるかのようだ。
 [Pの語る/Sの物語]の中の[Sの死/の「記憶」]は、[Sの語る/Sの物語]の中の[Sの死の「予覚」]を、もっともらしく見せかけるが、[Sの死の/「記憶」]がなければ、「予覚」は、気の迷いとして、読者に一蹴されることだろう。[P文書]の中の過去と、「遺書」の中の未来は、凭れ合っている。この凭れ合いによって、現在の語られるSは、「車屋の少しさきで思いがけない人にはたりと出会った」(『道草』1)り、「世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響き」(57)とともに、居眠り運転の電車にぶつかられたりする危険を、しばし、忘れていられる。ここで、ぎりぎり、頑張って、「もう何もする事はありません」(110)と書いてみたところで、静に盗み読みされてしまい、[あら、「殉死」(110)は止したの?]と、「笑談」(110)を言い掛けられるのかもしれない。[「私は妻には何にも知らせたくないのです」(110)だってさ。へへんだ。もう、読んじゃったも〜ん]
//「イゴイスト」
 「イゴイストという言葉の意味が能く解るか」(51)と、Pでなくてもいいから、私は誰かに聞いてみたい。少しは分かるが、「能く解るか」という質問には、話題が何であれ、答えるのに躊躇する。この単語が『私の個人主義』(N)と関連があるのかどうかさえ、私には判断できない。関連があるとしても、英文学者のNが[egoist]を[individualist]と同義で用いるとは思えない。
 Pは、「イゴイストという言葉の意味が能く解る」らしいが、だったら、なぜ、「兄」に教えてやらないのか。不親切だな。もしかしたら、[Pにも「能く解る」ような単語ではないので、「兄」に尋ねてみたかったが、自分の無知を「兄」に悟られるのが恥ずかしくて、黙っていた]という話だろうか。あるいは、[Pにも分からないんだから、「兄」にだって、分かるもんか]という含みだろうか。となると、[Pと「兄」の関係は、見かけよりも、ずっと悪い]ということを、語り手Pが隠していると想像することになる。
 この場面は、英語の試験場ではないのだから、話題はSの人格についてなのだから、「兄」は、「イゴイストという言葉の意味が能く解るか」らといって、Sに対する批判を中止するはずはない。批判を止めさせたければ、Sについて、有利な情報を与えれば良い。しかし、できないのだろう。単語の定義をいくら弄っても、「兄」は、「私は言葉に重きを置いていやしません。事実を問題にしているのです」(『明暗』102)などと、反撃する可能性があるからだ。
 さて、Pの定義では、Sは「イゴイスト」か、そうではないのか。Pの定義とは、どのようなものか。ある事物について、それが何であれ、ある言葉の定義が不明なのに、その言葉がある事物を示すか、示さないか、示すとしても、それはどのような価値を示すのか、何も分からないはずだ。
 分かっていることは、[「イゴイストという言葉の意味」について、Pの定義と「兄」の定義は異なるらしい]ということだけだ。「兄」の定義では、「イゴイスト」は「横着な了簡」(51)の持ち主らしい。だから、これと異なる定義は、「横着」以上か、「横着」以下ということになる。「横着」以上だとすると、例えば、「いくら自分の勝手な真似をしても構わない」(『私の個人主義』)と思って行動するような人間のことだと仮定しよう。一方、「横着」以下の場合、「他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬する」(同)ような人間と仮定しよう。このとき、前者は「悪人」(28)、後者は「善人」(28)と言える。
 ここで、4個の場合が考えられる。
 *)Sは「イゴイスト」だ。「イゴイスト」は「善人」だ。よって、Sは「善人」だ。
 *)Sは「イゴイスト」ではない。「イゴイスト」は「善人」だ。よって、Sは「悪人」かもしれない。
 *)Sは「イゴイスト」ではない。「イゴイスト」は「悪人」だ。よって、Sは「善人」かもしれない。
 *)Sは「イゴイスト」だ。「イゴイスト」は「悪人」だ。よって、Sは「悪人」だ。  *)の場合なら、Pは、堂々と自説を主張できたはずだ。だから、語り手Pは、この場合を想定して語っているのではなさそうだ。*)の場合は、ありそうにない。*)なら、ありそうだ。*)の場合は、「兄」の意見に近いようだから、Pの考えではなさそうだ。
 どうも、語り手Pは、[Sは「イゴイスト」ではない。「イゴイスト」は「悪人」だ。よって、Sは「善人」かもしれない]という主張を展開できずに、悔しがっているらしい。なぜ、展開できないのか。証拠がないからだ。この時点で、Pは、利己的Sも、利他的Sも、知らない。Pは、私には意味不明の「直感」(6)しか、持っていない。「この直感が後になって事実の上に証拠立てられた」(6)というわけだが、その「証拠」とは、「遺書」のこととしか、取れない。「遺書」未読の状態では、Pは、Sについて、何も確言できない。ところで、「遺書」に語られるSは、「悪人」であるはずだ。「自分もあの叔父と同じ人間だと意識した」(106)のだから。Pは、Sの「意識」を否定するのではないとすれば、「遺書」読了後の語り手Pは、 *)の場合、つまり、[Sは「イゴイスト」ではない。「イゴイスト」は「善人」だ。よって、Sは「悪人」かもしれない]という文脈で語るのでなければ、おかしいことになる。しかし、もし、そうなら、Pが「兄」に苛つくのは筋違いだ。となると、Sの「意識」とは別の何かの部分で、[*)Sは「イゴイスト」ではない。「イゴイスト」は「悪人」だ。よって、Sは「善人」かもしれない]という物語を成立させなければならないことになる。この物語は、どこで成立するか。
  ありのままをありのままに書き得る人があれば、その人は如何なる意
 味から見ても悪いということを行ったにせよ、ありのままをありのまま
 に隠しもせず漏らしもせず描き得たならば、その人は描いた功徳に依っ
 て正に成仏することが出来る。
                         (N『模倣と独立』)
 勿論、厳密に言えば、書き「漏らし」たことがある。また、意図的にではないかもしれないが、「隠し」ていることもありそうだ。しかし、とにかく、[Sは、「成仏」した]と言えるような観点は、ここに用意されているらしい。
 ところで、[Sは、「悪人」ではない]というときのSは、語られるSではない。語り手Sだ。語り手Sの存在を、語られるPは知らない。だから、語られるSは「直感」を除けば、[Sは、「悪人」ではない]と主張する根拠を持たない。では、語られるPは、何を「直感」していたことになるのか。[Sは、やがて、見事な語り手Sとなる]ということだ。
 ここで、[「遺書」読了後のPの気分が、語られるPに混入した]と考えるのでなければ、語られるPは、自分の思い入れだけではなく、「兄」に対する面子としても、[Sは、「善人」だ]ということを、Sに証明してもらわねばならないところに追い込まれている。この切迫した気分は、Pの勝手な気分なのだから、Sには関係がないし、また、読者が同情するようなものでもないはずだ。ところが、S、P、読者の三者の気分が混交したものか、作者は、ここで、切迫した表現を達成したかのように勘違いしているらしい。
 Sについての「兄」の見解を打ち消す必要は、Sにはない。だから、この挿話が「遺書」の前に記される必要は、ない。この挿話は、「遺書」読了後のものでも構わないし、また、その方が、語られるPにとっても、都合が良い。ところが、作者は、この挿話を必要とした。その意図は、「遺書」のようなものを読みたいという、Pの気分を、「義務は別として私の過去を書きたい」(56)という、Sの気分に変換することにある。この変換は、語りの場では自然なものだ。しかし、読み書きの場面では、不自然だ。作者は、この不自然な変換に頼らなければ、「遺書」の入り口にたどり着くことができなかったらしい。
 「イゴイストという言葉の意味が能く解るか」という問題は、あるいは、[人が「イゴイスト」にならざるを得ない「背景」(56)を知っているか]という問題を省略したものかもしれない。その場合、語られるSは「イゴイスト」だが、Pは、「直感」によって、[Sは、許されるべき「イゴイスト」だ]と知っていたことになるのだろう。そして、この「直感」を持たない「兄」を軽蔑しているのだろう。
 「兄」は、なぜ、「直感」を得られないのか。「世間」(1)の見方に惑わされているからだ。と、言ってやりたかったのだとしたら、Pは、お山の大将。
  先生々々と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはなら
 ないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授位だろうと推察して
 いた。名もない人、何もしていない人、それが何処に価値を有っているだ
 ろう。兄の腹はこの点に於て、父と全く同じものであった。
                               (51)
 「私が尊敬する以上」ということは、[Pは、「必ず著名の士」を「尊敬する」]と「兄」は思っていたという意味か。もし、そうでなければ、「私が尊敬する以上」と書くのではなく、[人が「尊敬する以上」]と書くべきだ。だから、ここでは、Pに価値観の変化が起きたことが示唆されていることになる。しかし、もし、そうであれば、「兄」との間で、うまく会話ができないのは、「兄」のせいではなくて、Pのせいだ。だから、Pが苛つくのは身勝手だということになる。しかし、ここは、そういう話ではない。ここは、もしかしたら、[Pの家族とPとでは、尊敬する対象が、もともと、違っているのに、そのことに家族は気づかないでいて、そして、Pの方でも、そのことに気づかれないでいることを知っていながら、自分と家族との違いを問題にしたくないという心理が働いている]という気分が表出されているのかもしれない。勿論、この場合でも、Pに責任がないわけではない。だが、Pは、Sとは無関係であるはずの、自分と家族の不和を明示したくなかった。そのことを明示すると、[Pの一家は、Pを疎んじている]という事実が明瞭になり、その事実はPの恥であるように思われるからだ。
 [「先生々々と私が尊敬する」ようなことを言うので、誰であれ、人が「尊敬する」と言う「以上、その人は必ず著名の士でなくてはならない]云々というようなことを、Pは書いたつもりでいるのだろう。しかし、その場合、家族がおかしいことになる。[「先生」と呼ばれる人は、「著名の士でなくてはならない」と、「兄」が考えていた]と、なぜ、Pは考えるのだろうか。また、「大学の教授」が「著名の士」に当たるのかどうか、明治時代の風習を知らない私には、判断できないが、「先生」と呼ばれるためには、小学校教諭でもいいはずだし、家庭教師でも、ダンス教師でも正解だろう。この場合、[Pの家族は、差別的、Pはそうではない]ということになる。差別的なのが、良いか、悪いか、別として、Pと家族の考えの違いがSのせいなら、そのように説明する責任が、Pには、ある。また、そうでなければ、[Pが不満を託つのは、身勝手だ]ということになる。どちらにせよ、Pは、分が悪い。
 要するに、語り手Pが、あるいは、作者が、[家族とその成員との間には、もともと、齟齬がある]という物語を、何の根拠もなく、前提として語るので、奇妙な一家かできあがってしまったのだろう。
 こういう話題に深入りしたくないからか、Pは、「名もない人、何もしていない人、それが何処に価値を有っているだろう」と、唐突な物言いに逃げる。さて、いつ、話題は、人間の「価値」に変わったのだろう。いや、変わってはいないのか。「尊敬」という語の雰囲気が、ずっと続いていたものらしい。
 この過程で、Pは、Xに何かをして見せているようだ。『こころ』の冒頭の意味不明の文句と同じトリックだろう。[Sは、自分にとって、人生の師だ]と宣言できず、また、宣言できない理由も説明できなくて、もたついている。[S-P]の関係そのものを、作者自身が明確に設定できていない。だから、無用に「兄」や「父」を論るPを見せ、作者は読者を煙に巻いている。
 要するに、Pは、Xに向かって、[Sについて、今、考えるのは、徒労だ。何となく、尊敬できそうな人だと思っておけ。そうすれば、いろいろと考えなくて済むよ]といった感覚を抱かせようとしているらしい。あるいは、[Pの「兄」や「父」などといった「世間」(1)の連中って、センスないんだよな]と、目配せしながら、くすくす笑いを交わすような雰囲気を醸し出しているところか。
 くすくす。
//「世間に向かって働き掛ける資格」
 Pは、いや、作者は、[Sに「世間に向って働き掛ける資格」(11)さえあれば、SがKに、そして、PがSに払ったような敬意を、「世間」(11)が払う]という、何の根拠もない情報を、潜在的に発信している。根拠はないが、潜在的に受け取った情報は、自覚的には否定できないから、肯定したのと変わらないような気分になる。こうして、読者は、[K→S→P→X]の鎖に加えられるリングの1個になる。この鎖が、ある程度、長くなった頃合いを見計らって、主催者Sは、偽装倒産をして姿をくらます。よくある手口だ。
 作品の外に残された読者は、負債を抱えたまま、つまり、読めない作品を抱えたまま、事態すら飲み込めず、狐に摘ままれたような顔をして、『道草』や『明暗』の中に、「傷ましい先生」(4)の影を捜す。マイクロフォンを向けられると、いい人でしたよ、弱い者の味方ですよ、かなんか、答えてたりする。
  この効果を一言で言えば、「ブレインウォッシング」ということになり
 ます。この言葉は直訳すると「洗脳」になり、誤解を招きやすいのですが、
 人をある閉鎖された場所に置いて刺激を加え、ある価値観だけを与えて、
 その理由は言わない、という方法によって、人は簡単に「変わ」ります。自
 分が今まで頼ってきた意味を否定されると、別の意味にすがろうとする
 わけです。「理由は言わない」というのが重要なポイントで、セミナーでも
 「わかち合い」という形での"発表"は許されても、"質問"は許されません。
 また、トレーナーは「人生に正解はない」と言いますが、参加者からすれ
 ば、滅多なことを言うとフィードバックされるから、だんだん、トレーナ
 ーに認められることだけを言うようになってくるわけです。また、これ以
 上のネガティブ・フィードバックを避けるために、参加者が無意識的に、
 自分を守るためにトレーナーの価値観に自分を合わせていく、というこ
 ともあります。こうして、参加者自身も自分が変わったかのように錯覚し
 てしまうのです。
                  (二澤雅喜+島田裕巳『洗脳体験』)


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