『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#069[世界]29先生とA(19)「矛盾」

//「コントラジクション、イン、タームス」
  「だって御前は今兄さんの秘密だと明言したじゃないか」
  「ええ秘密よ」
  「秘密なら話して可くないに極ってるじゃないか」
  「それを話すから面白いのよ」
  自分はお重の無鉄砲が、何を云出すか分からないと思って腹の中では
 辟易した。
  「お重御前は論理学でいうコントラジクション、イン、タームス、という事
 を知らないだろう」
                         (『行人』「塵労」26)
 この「自分」は、何を考えているつもりなのだろう。作者は、「自分」に何を言わせているつもりなのだろう。「兄さんの秘密」がお重の「秘密」であるとは限らないのだし、また、そうであったとしても、お重がそれを「話す」ことは可能だ。また、「話して可くない」かどうかといったことは、論理の問題にはならない。要するに、お重は、からかわれている。私まで、からかわれているようで、「辟易」する。[一家の一員の「秘密」は、一家全員の「秘密」と見做されるべきだ]という文を想像することはできる。しかし、この文は、一家の外側に対して言われているのであって、一家の内部においては通用しない。一家の内部についても、この文が機能するとしたら、この一家は丸ごと病んでいるはずだ。しかじ、お重は病んでいるようには見えない。すると、「自分」が病んでいるのだろう。そして、そのために、「自分」は「兄」の病気を、軽く見過ぎているのだろう。
 ともあれ、ここで、[「自分」は、「論理学」を凶器として悪用した]という自覚が作者にないのだとしたら、作者の「論理」を追うことは、私には不可能だ。
 作者は、[家族の「秘密」]という話題を自ら提出しておきながら、言語が自走して、話が核心に近づくと、慌てて、作中人物を犠牲にし、逃げを打つ。
//「整った頭」
  私は兄さんの頭が、私より判然と整っている事に就て、今でも少しの疑
 いを挟さむ余地はないと思います。然し人間としての今の兄さんは、故に
 較べると、何処か乱れているようです。そうしてその乱れる原因を考えて
 見ると、判然と整った彼の頭の働きその物から来ているのです。私から云
 えば、整った頭には敬意を表したいし、又乱れた心には疑いを置きたいの
 ですが、兄さんから見れば、整った頭、取も直さず乱れた心なのです。私は
 それで迷います。頭は確である。然し気はことによると少し変かも知れな
 い。信用は出来る、然し信用は出来ない。こう云ったら貴方はそれを満足
 な報道として受け取られるでしょうか。それより外に云いようのない私
 は、自分自身で既に困ってしまったのです。
                         (『行人』「塵労」42)
 この文において、「兄さん」と呼ばれている一郎の、ではなく、語り手Hの「心」について、「疑いを挟さむ余地はない」と思われる。なぜなら、彼は「困って」いる自分を自覚できているからだ。しかし、Hの「頭」は、どうだろう。一郎の「頭は確である。然し気はことによると少し変かも知れない」という総括は、正しいのか。一郎の「気」は、さておき、「頭は確である」と言えるのだろうか。私は、言えないと思う。Hの「頭は確で」ないから、一郎の「頭は確である」ように見えるのだろう。Hは、わざわざ、「信用は出来る、然し信用は出来ない」などといった、無用な矛盾を作り出すようだ。Hが、この文を、本気で書いているとしたら、Hの「頭」について、「信用は出来ない」し、本気で書いていないとしたら、Hの「気」や「心」についても、「信用は出来ない」ことになる。このときの「気」や「心」は、Hの含みとは違って、邪気、邪心ということだ。しかし、その疑いは、作者に向けるべきだろう。
 Hは、一郎の「言葉に一毫も虚偽の分子の交っていない事を保証します」(同)と記すが、Hの「言葉に一毫も虚偽の分子の交っていない事」は、誰が「保証」するのだろう。作者は、「保証」しているのだろうか。一郎は病気かもしれない。しかし、そもそも、一郎の異変について語るHが、嘘つきなのかもしれない。その可能性を検討しない作者は、おかしい。
 手品の種は、「兄さんの頭が、私より判然と整っている事に就て、今でも少しの疑いを挟さむ余地はない」という文に仕掛けられている。二者の「頭」の程度を比較しても、一郎の知能程度の絶対値は得られない。また、Hの手紙を読んでいる二郎にとっても、『行人』読者にとっても、ほとんど、未知に等しいHの証言など、眉唾も眉唾で、一郎によって、Hの「手紙は一言の返事さえ受けずに葬られてしまった」(75)と考えるのが妥当なほどだ。だから、『行人』は、Hの手紙で途切れてしまうのだろう。作者が、どれほど、Hに肩入れしようと、この先の展開は難しい。『彼岸過迄』では形だけはあった「結末」さえ、作れない。語り手達は、次々に破綻して行く。その破綻を、作者が認めないだけだ。
 作者が、語り手を次々に取り替えても、物語が濃密になるわけではない。『薮の中』のように、取り留めがなくなることの方が自然だろう。物語に決まった終わりがないからこそ、一度は終わった物語が、[世界]として、繰り返し、呼び出されることになる。
 一郎と二郎の関係がぎくしゃくするからと言って、Hがしゃしゃり出て来ても、語り手Hが[一郎の物語]と[二郎の物語]とを結合できないのなら、何にもならない。語られる人物が約1名、無用に増えただけのことだ。しかも、語り手Hの語る物語の中で、一郎が語り始めることになるとしたら、お笑いだ。Hは、実質的には、何の役にも立っていない。だから、Hは、一郎の聞き手として、作者が必要とした機能体の人格化したものでしかないのだろう。別の言い方をすれば、[Hは実在せず、一郎自身がHの名で手紙を書く]という設定でも、大差はない。Hの手紙以前の『行人』の語り手だった二郎を作者が見限ったのは、その語り手としての利用価値がなくなったから、というよりは、一郎の聞き手として使い物にならなくなったからではないのか。
 一郎は、Hに、[一郎と近代文明の物語]を語る。これは、一郎が二郎には語らなかった物語だ。なぜ、語らなかったのか。「人間の不安は科学の発展から来る」(『行人』「塵労」32)なんて、身内の者には、何の説得力もないからだ。「徒歩から俥、俥から馬車、(中略)それから飛行機と、何処まで行っても休ませて呉れない。(中略)実に恐ろしい」(同)なんて、運送業者の嘆きかね。歩くよりは、乗り物に乗った方が、「休ませて」もらえる。この「恐ろしさを自分の舌で甞めて見る事はとても出来ません」(同)って、恐怖は味覚の一部ですかね。語り手Hが嘘をついているのではないとすれば、一郎のおかしさは、Hが考える以上のものであるはずだ。
 一郎は、なぜ、Hに語ったようなことを、二郎に言えなかったのか。[一郎と近代文明の物語]なんて話は、路上で通行人に向かって歌っても構わない。聞き手を選ぶ話ではない。しかし、作者は、一郎のための聞き手を選んだ。
 一郎は、Hに、「お貞さんは君を女したようなものだ」(『行人』「塵労」49)という。また、「自分もああなりたい」(同49)と言う。ここらが、臭い。
  「僕はお貞さんが幸福に生れた人だと云った。けれども僕がお貞さんの
 ために幸福になれるとは云やしない」
  兄さんの言葉は如何にも論理的に終始を貫いて真直に見えます。けれ
 ども暗い奥には矛盾が既に漂よっています。兄さんは何にも拘泥してい
 ない自然の顔をみると感謝したくなる程嬉しいと私に明言した事がある
 のです。それは自分が幸福に生れた以上、他を幸福にする事も出来ると云
 うのと同じ意味ではありませんか。
                         (『行人』「塵労」51)
 一郎の「言葉」のどこが「論理的に終始を貫いて真直に見え」るのだろう。むしろ、Hの反論を先取りし、「矛盾」という「言葉」を呼び寄せるための「言葉」であるかのようだ。一郎の「言葉」がHにとって「論理的」に見えるのは、未来のHの文脈において、「論理的」に見えるのに過ぎない。未来のHの文脈を欠けば、「論理的」だとか、「論理的」ではないとか、そういう問題の発言ではなくなる。しかも、「論理的」に見て、一郎の「言葉」は「矛盾」を来すのだから、「論理的」であっても、空しい。
 作者は、何をしているのか。「暗い奥には矛盾が既に漂よって」いるという「言葉」をHに認めさせること、ただそのこと自体が、作者にとって、価値のあることなのだろう。だから、この「言葉」を呼び水にして、「どんな人の所へ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ」(同51)といった、「論理的」でもなければ、感情的でもない、皮肉な台詞を言い放つと、一郎の仕事は終わったようで、眠り(同52)始めることになる。
  この上なく忠実な婦人でも、結婚して夫を持つと、はげしい熱情もその
 移ろいやすい胸の中で煙のように消えてしまう、という例は珍しくない。
 動物性が霊性に打ち勝つのはとくに婦人に多い。
              (メレディス『エゴイスト』10、朱牟田夏雄訳)
 言うまでもなく、こんな「例」が多いか、少ないか、誰にも分からない。分かったように言いたがる独善家は「珍しくない」が。
 要するに、一郎の、長たらしいだけの[反文明論]は、[反結婚論]の序論に過ぎなかったようだ。そして、[反結婚論]なら、家族の前で披瀝することは、あるいは、難しかったのかもしれない。しかし、その事情を、一郎やHはともかく、作者も自覚できていないのではないか。自覚してたら、序論に比べ、本論の異様なまでの短さに気づいたはずだ。
 作者は、語り手一郎に聞き手Hを贈ることで、精一杯だったようだ。聞き手Hは、語り手の「言葉」の「奥」を感知することができる。この能力を備えた聞き手を、作者は募集し、そして、採用できた。Hは、本論であるべき[反結婚論]の内容なり、価値を、察知しているらしい。こうした特殊な能力は、「拘泥していない自然」の力によって、獲得されるらしい。語り手の語りを、まるで、自分の夢を見るように受容することが、聞き手には期待されているらしい。過剰なまでの受容性。過激なまでの聞き取り能力。この能力は、私達にも要求されているはずだ。つらいなあ。
//「残酷な復讐」
 読者は、語られるSが、しばしば、嘘をついたり、真実を述べなかったという事実を、語り手Sによって知らされている。そして、そのことを、Sが深く反省し、改める様子は見えない。だから、語られるSと同一人物である、語り手Sも、Pに対して嘘をついたり真実を隠蔽したりしている可能性があると考えるべきだろう。「遺書」の物語は、Sの「自叙伝の一節」というよりは、[一説]なのではないか。つまり、異本の一つなのではないか。Kは、「道のためなら」(73)「欺むく」(73)ことを正当化する。そして、Sは「Kの説に賛成」(73)した。また、SはKの「前に跪まずく事を敢てした」(76)と自慢しているらしい。だから、語り手Sが、老婆心から、聞き手Pの「生きた教訓」(56)になるように、物語を改編したという可能性は否定できまい。
 だが、こうした疑いは、S本人よりも、作者に向けられるべきなのかもしれない。すると、話が微妙になる。作者は、実は、『こころ』に記したのとは別の物語を念頭に置きながら、『こころ』を記しているという疑いが浮上する。
 例えば、Sは、自分を殺人者だと思い込んでいる。私は、勿論、Sを殺人者だとは思わない。Kという奇妙な人物に、貴重な青春時代を引っ掻き回された、哀れな犠牲者だと思う。しかし、こうした評価を、Sは受け入れないはずだ。ところが、S、もしくは、作者は、嘘つきなのだから、Sを殺人者だとは、本当には思っていないのかもしれない。Sは、本当は、自分を何者だと思っているのだろう。作者は、本当は、Sを何者だと思っているのだろう。加害者か、被害者か。その両方か。両方だとすれば、Sは、いつ、被害者になり、いつ、加害者になったのか。しかし、こうした疑問のすべてが、語り手S、もしくは、作者にとって、技術的な問題でしかないのかもしれない。重要なのは、物語の「背景」(56)を、P、もしくは、『こころ』読者が感得することなのかもしれない
  「とにかくあまり私を信用しては不可ませんよ。今に後悔するから。そう
 して自分が欺むかれた返報に、残酷な復讐をするようになるものだから」
                               (14)
 [Pは、Sを「信用」してはならない。PがSを「信用」すれば、Pは「後悔」することになる。そして、PはSに「欺むかれた返報に、残酷な復讐をする」ことになる]と語られているらしい。
 このSの発言が[SとKの物語]を前提にしているとしたら、微妙に食い違う。「欺かれた」のはKで、「復讐」をしたのはSだから。いや、[Kは、恋をしない]と思っていたSは、Kに「欺かれた」ようなものだと取るべきなのだろうか。だが、「然し決して復讐ではありません」(95)と、Sは書いているから、「復讐」という言葉は、宙に浮く。
 このSの発言が、「叔父」一家の事件を踏まえているとしても、Sは「叔父」を「信用」していて「欺かれた」と思ったのだろう。しかし、「私はまだ復讐をしずにいる」(30)と語っている。「私は個人に対する復讐以上の事を既に遣っているんだ。(中略)彼等が代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。それで沢山だと思う」(30)としても、「復讐」はやっていない。
 [誰かが誰かに「欺むかれた返報に、残酷な復讐をする」]という物語は、どこにあるのか。
 「復讐」は、Sの空想の物語で、その実行は放棄されたのだろう。
  私は彼等から受けた屈辱と損害を小供の時から今日まで背負わされて
 いる。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れ
 る事が出来ないんだから。
                               (30)
 「小供の時から」というのは、おかしい。勿論、S語で「小供」が何歳までを指すか、私には分からない。あるいは、[「屈辱と損害」を自覚する前から、それを受けていたことに、後で気づいた]という意味か。そして、「復讐」しないのは、「屈辱と損害」は「継続中」(『硝子戸の中』30)なので、「復讐」するには早すぎるからだろうか。
  所詮我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思い思いに抱きながら、
 一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろう
 か。唯どんなものを抱いているのか、他も知らず自分も知らないので、仕
 合せなんだろう。
                         (『硝子戸の中』30)
 Sは、「継続中」の物語を表出したのかもしれない。本当は、何を「背負わされて」いて、誰を「憎む事を覚えた」のか、「自分も知らない」のかもしれない。
//「潜伏期」
  要スルニカヽル人ヲ書カウトキメテ掛ツテハ死ニヤスイ。たゞ斯ク云
 フタ斯ク行ツタ、斯ク考ヘタト云フ図ヲツヾケテ行ツテ其図ガ一枚々々
 ニ生キテゐれば前後ハ矛盾シテモ活タ人間ガ出来ルナリ。如何トナレバ
 実際ノ人間ハいくらでも矛盾シテゐるからである。
                       (N/明治43年、断片52)
  何分にも、あまりに長すぎて一気に読みおえることができない代物で
 あるため、次から次へとつづく各部分から、それぞれ何らかの印象を受
 け取ることは受け取っても、その折角の印象も、パノラマの場合と同様、
 次々にかき消されて行ってしまう。小説にあっては、単一の効果、つまり、
 一つにまとまった効果というものを期待することは不可能である。心に
 残るものと言っては、いま読み終えた数ページを別にすれば、それ以前の
 部分の単なる筋だけにすぎないからである。
      (アンブローズ・ビアス『新編悪魔の辞典』「小説」西川正身編訳)
 物語の中の「矛盾」は、「実際ノ人間ハいくらでも矛盾シテゐる」ことの反映なのだろうか。もし、そうなら、「矛盾」が多いほど、リアルな物語だと言えそうだ。しかし、実際には、「矛盾」が多すぎれば、物語は破綻するはずだ。
  病気に潜伏期があるごとく、吾々の思想や、感情にも潜伏期がある。こ
 の潜伏期のあいだには自分でその思想を有ちながら、その感情に制せら
 れながら、ちっとも自覚しない。またこの思想や感情が外界の因縁で意識
 の表面へ出てくる機会がないと、生涯その思想や感情の支配を受けなが
 ら、自分は決してそんな影響を蒙った覚えがないと主張する。その証拠は
 これこのとおりと、どしどし反対の行為言動をしてみせる。がその行為言
 動が、傍から見ると矛盾になっている。自分でもはてなと思うことがある。
                            (N『坑夫』)
 どうやら、作者は、「矛盾」という言葉によって、「潜伏期」を暗示しているつもりらしい。しかし、[「潜伏期」には、「思想や感情」と「行為言動」との間に「矛盾」が生じる]という主張が正しいとしても、「傍から」どうやって、「潜伏期」にある「思想や感情」を観察できるのだろう。「はてな」ぐらいは思っても、「思想や感情」が「行為言動」とともに、「表面へ出てくる機会がないと」、「証拠」は見つからないのではないか。
 『こころ』の中で、[「復讐」の物語]が未完であり、「継続中」(『硝子戸の中』30)であり、「潜伏中」だとすると、Sの死に、何の意義があるのだろう。「復讐以上」(30、95)のことを2度もやったから、「それで沢山だ」(30)というのは、Sの嘘でもなく、作者の嘘でもないとすれば、作者自身が「潜伏期」にあることを、『こころ』によって表出しているのかもしれない。そして、「はてな」とは、思いつつも、強引に突っ走りたかったのかもしれない。作者の表出するもの、作者も気づかない「潜伏中」の「思想や感情」を読み取る読者の可能性に期待しつつ。
//「はかない」
  私は実際心に浮かぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書い
 た時とは違っていた。
  私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分
 に気の変わりやすい軽薄もののように思われて来た。私は不愉快になっ
 た。(中略)私は人間をはかないものに観じた。人間のどうする事も出来な
 い持って生れた軽薄を、はかないものに観じた。
                               (36)
 行為の最中と行為後で「気分」に変化がないとしても、そのことに、「人間」は気が付かないはずだ。気が付くときは、変化している。そういう意味では、[「人間」は、「自分」を「気の変わりやすい軽薄もの」として発見する]と言える。
 このとき、Pは「感傷的な文句さえ使った」(36)と記している。そして、その「文句」は「実際心に浮かぶままに書いた」ものだという。「実際心に浮かぶままに書いた」ものは、多くの場合、言語が自走した結果だ。人間は、一人でものを考えたり、文字を書いたりしているときは、大抵、下らないことしか、考えていない。そういう意味では、[一人の「人間」は、「はかない」]と言える。
 Pは、ここで、「矛盾」などという言葉を遣う必要はないような、単なる変化について、この「文句」を遣っている。このとき、Pには、「感傷的」な「気分」が続いていて、そのことを、Pか作者が、暗示しているところか。
 ある考えが別の考えに変化することと、ある考えが自己矛盾することとを、作者は、混同したいらしい。そのことによって、自然な変化と裏切りの違いを、可能な限り、小さく見積もりたいと思っているのかもしれない。この心理は、「已を得ないで犯す罪と、遣らんでも済むのにわざと遂行する過失との間に、大変な区別を立てている」(『道草』77)という、逆説的な心理と繋がっているのかもしれない。「大変な区別」が必要になるのは、「罪」と「過失」を混同しているからだろう。
//「平気で両立」
  時々は彼等に対して気の毒だと思う程、私は油断のない注意を彼等の
 上に注いでいたのです。おれは物を偸まない巾着切みたようなものだ。私
 はこう考えて、自分が厭になる事さえあったのです。
                               (66)
 この記述が本当なら、Sは、静母子の家を出るべきだった。語られるSは、自分が「彼等」から何かを盗むのではなく、自分が「彼等」に何かを盗まれるような気がしていたのではないのか。あるいは、「物を偸まない」が、[彼女のハートを盗む]つもりだったという暗示か。
  貴方は定めて変に思うでしょう。その私が其所の御嬢さんをどうして
 好く余裕を有っているか。(中略)そう質問された時、私はただ両方とも事
 実であったのだから、事実として貴方に教えて上げるというより外に仕
 方がないのです。解釈は頭のある貴方に任せるとして、私はだた一言付け
 足して置きましょう。私は金に対して人類を疑ぐったけれども、愛に対し
 ては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他から見ると変なもので
 も、また自分で考えて見て、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で
 両立していたのです。
                               (66)
 どういう冗談なのか、いくら、考えても、分からない。語り手Sの想像では、Pは「変に思う」らしい。では、語り手Sは、「変に思う」のだろうか。語られるSは、「矛盾」に気づきつつ、「平気」だったらしいから、「変に思う」ことはなかったはずだ。[「金」と「愛」は、別だ]と思うのなら、語り手Sも、「変に思う」ことはなかろう。なのに、なぜ、想像上のPだけが、「変に思う」のだろう。
 入居した当初、「彼等」を疑うのは、自然なことだ。また、疑いとは別に「好く余裕」があるのも、何の不思議もない。こんな当たり前のことさえ、[S-P]の間では、コンセンサスが得られていないのか。
 語り手Sは、[語られるSは、「人類」を嫌いつつ、女を好きになってるぞ。おかしいな]と、首を捻るPの姿を想像しているらしい。しかし、「人類」の中に「御嬢さん」が含まれないだけのことだろう。こういう「解釈」を、Pは任されているのか。この程度の「解釈」なら、人に任せることもあるまい。では、Pは、作者によって、どんな「解釈」を任されたのだろう。語り手Sは、[「金」と「愛」は、違う]という、妙な理屈を捏ねるが、これは「解釈」ではないはずだ。しかし、「解釈」の手助けになるような情報だと、語り手Sは思っているのだろう。また、作者もそう思っているのだろう。しかし、この方向で進んで、どのような「解釈」が生まれるのだろう。
 「金に対して人類を疑ぐった」というのは、[他人に、「金」を奪われると疑った]という意味だろう。では、「愛に対しては、まだ人類を疑わなかった」とは、[他人に、「愛」を奪われるとは疑わなかった]という文になりそうだ。[「愛」が「金」のように奪われる]というのは、語られるSが、静母子に、性愛的に弄ばれるという事態らしい。
 さて、「金」が奪われるのは、「金」があるからだろう。では、「愛」もあるから奪われるのだろう。だとすれば、「好く余裕」が先にあったから、不自然な「緊張」(66)が続いたのだろう。こういう「解釈」を、Pは任されているのだろうか。
 「好く余裕」の根拠を、もぞもぞ、並べることによって、作者は、読者に、[Sが静を「好く余裕」]と[Sが静を「好く」理由]を混同させようとしているらしい。[Sが静を「好く」理由]が語れないので、語られるSは、あたかも、静母子に翻弄されているかのように見える。
 [Sが静を「好く」理由の物語]は、[P文書]で、「二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンス」(12)として、「仮定」(12)されたものだ。そして、この「ロマンス」の後日談として、「この二人の男女は、幸福な一対として世の中に存在している」(20)と締め括られる。[「好く余裕」の物語]は、それが不能であるような物語、つまり、「叔父」一家の事件の後日談、つまり、[回復の物語]ではあっても、「ロマンス」の序幕ではない。「ロマンス」の序幕は、[「好く」理由の物語]だ。『こころ』では、この「ロマンス」は、詳しく描かれないのではなく、格納場所がない。「ロマンス」は、「仮定」されただけで、実は、幕は上がらず、後日談が前説で「仮定」として語られているだけだ。こうした不備を覆い隠すために、[「好く余裕」の物語]が、勿体振って語られる。「矛盾」とは、ないはずの「ロマンス」をあるかのように語るS、あるいは、作者の「矛盾」だろう。[「好く余裕」の物語]が一段落付くと、Kが登場するのだから、「花やかな」と形容されるような「ロマンス」に限って言えば、そのようなものは、ない。
 [人間不信の物語]にしてから、不必要なものだ。そもそも、「叔父」を嫌っているからと言って、「叔父」の属する「人類」を敵に回す必要はない。自分だって「人類」だろう。語られるSは、従妹の「愛」を疑うべきだったのではないか。須永(『彼岸過迄』)の疑いを、作者は、あっさりと素通りして見せたが、「愛」に対する疑いは、引きずっていて、そして、隠しているのではないか。隠しながら、隠したものを裏返して小出しにする作者の工程を、「愛」が醸成される過程に見せかけようとしているのではないか。なくてもいいような「矛盾」を、わざわざ、Pに「変に思う」ように仕向け、「解釈」に「頭」を使わせ、作者が種を仕込む手から、目を逸らさせようとするのだろう。
 そもそも、[「油断」しなければ、「好く余裕」はない]という前提そのものがおかしい。人を信用するのには、調査とか試験などが必要だが、好意は、突然、何の努力もなしに生まれる。この程度のことも、[S-P]では、コンセンサスを得られていないと読むべきか。
 ついでに言えば、語られるSは、「人類」の一員であるKを疑ってはいないはずだ。Kは、普通の「人類」に含まれないのか。あるいは、この時点では、作者の頭の中にKはいなかったか。そうだとしても、後に、Kを導入する際には、語り手Sも、作者も、「親友」(78)という文字を記すのは、控えるべきだろう。
 あるいは、この「矛盾」は、Sの言葉の「暗い奥に(中略)漂よって」(『行人』「塵労」51)いる状態にあるものと考えるべきか。「矛盾」は、想像上のPが「変に思う」という、その思いの先っぽにあるもので、[Sにとっても、作者にとっても、誰にとっても、まだ、「矛盾」はない]と読まなければならないのだろうか。[Pは「矛盾」を察知したから「変に思う」のだろうと、Sは想像する]と想像すると、Sの想像するPではなく、『こころ』読者の想像するPの「胸に新らしい命が宿る」(56)様子を、『こころ』読者が想像したことになるのだろうか。
 [「好く余裕」の物語]は、外部要因に属する。[「好く」理由の物語]は、内部要因に属する。外部の障害がすべて取り除かれたとしても、[「好く」理由の物語]が起動するわけではない。「ロマンス」というのは、むしろ、逆で、外部の障害が大きいほど、内部要因がプラスに機能するお約束になっている。そのことを、Sは、[「嫉妬」(86)が「愛情」(86)を「猛烈」(86)にする]というように公式化している。だから、語られるSは、[[好く」理由]がないために、Kを導入したことになる。わざわざ、恋敵を引き入れるのは、一見、「矛盾」した行動のようだが、自覚できない「反対の行為言動」(『坑夫』)なのかもしれない。だが、そのことを、語り手Sは、自覚してはいないはずだ。では、作者は、どうか。作者は、こうした経緯を、暗示的に表現したつもりなのだろうか。つまり、[「好く」理由]の不足を自覚していながら、作者は、聞き手Pや『こころ』読者が、[「好く」理由]の不足に気づくことを期待しているのだろうか。そして、聞き手Pは、語り手Sよりも、心理的に優位に立ちつつ、[なるほど、明治の恋愛は、どっちかって言うと、「外発的」(『近代日本の開化』)だったんだなあ]といったような「解釈」を施していると、作者は想像しているのだろうか。
//「肝癪」
 健三は、「離れればいくら親しくってもそれぎりになる代りに、一所にいさえすれば、たとい敵同志でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう」(『道草』65)と考える。また、『道草』の語り手は、健三について、「彼の神経はこの肝癪を乗り超えた人に向って鋭どい懐しみを感じた」(『道草』78)と語る。健三は、[自分は、人間関係については、極端に投げやりだ]と勘違いしているが、[本当は、甘えられる相手を必死で探している]ことを自覚できないという皮肉が表現されているのだろうか。健三の考えと語り手の健三像は、同じではなさそうだから、どちらかが、真実ではないのだろう。あるいは、健三の考えは、健三が自分自身に語っているギャグのようなものと読むべきか。あるいは、語り手の健三像を健三自身も自覚しているとすれば、健三は、ひどく投げやりになったかと思うと、私には理解できないような切実な欲望に責め苛まれたりと、極端から極端へ、躁鬱状態を往復しているということか。そして、この躁鬱状態を指して、N語では、[矛盾]というのだろうか。
 もともと、「自己本位」という概念が平均的人間の「自己」に比べて不足しがちな「自己」を補填するものでしかなかったとしたら、物言いが極端なだけで、内実は穏当なものなのだろうし、「則天去私」といっても、作者としての超越的な態度を言うのなら、これも極端どころか、必須の条件でしかない。こんな話に首を突っ込んでも、私には無駄だと思われる。
 もともと、勝手なことを言いたがる人は、どこにでもいる。もっと凄まじいことを言う人も、いる。そして、いくらでも、いる。創作という作業を神秘化するのが、執筆前の儀式であり、トランス状態に入るための呪文なのだろう。役者が舞台に出る前に、掌に[人]と書いて飲むのと、機能において、大差はない。そして、そうした行為自体は、もう一つの虚構、ステレオタイプの物語だ。役者は、役になる前に、役者になる。役者であること、それ自体が、『ガラスの仮面』(美内すずえ)だ。役者は、自分の役者としてのキャラクタに、役を演じさせる。本人が役を演じているのではない。例えば、ある人が団十郎を襲名し、その団十郎がある役を演じる。夏目金之助が漱石になり、漱石が小説を書く。金之助は、漱石にならなければ、あるいは、彼の信じる[文学者]なるものに変身できなければ、小説は書けなかったはずだ。もし、Nが、「私の心は記憶があるばかりで、実はばらばらなんです」(『坑夫』)と主張するのなら、せめて、作品毎に筆名を変えるべきだ。しかし、彼は、そうしなかった。夏目漱石という「文学者」(『野分』1)の看板が必要不可欠だったからだ。つまり、[文学者、漱石は、小説を書く]という文自体が虚構だと言える。
 さて、Nの場合、極端から極端への移動ではなく、極端と極端の一致でもなく、[どちらかが本当で、どちらかが嘘だ]というのでもないとしたら、[どちらも、嘘]だろう。自分の気持ちを表現しようとすると、どうしても嘘っぽい言葉しか思い浮かばないので、健三は「肝癪」を起こすのではないか。もし、そうだとして、しかも、語り手が健三の気持ちから離れられないとしたら、『道草』という作品には、何一つ、本当のことは語られていないことになる。そして、そのことに作者が気づかないとしたら、この作品は、作者以外の人間にとって、無意味な言語の集積に過ぎないのではなかろうか。
 『道草』の言葉は、矛盾を含んでいるのではなく、まず、意味が成り立たないのではないか。[複雑な心理を描こうとしたから、難解になった]と、作者は弁明するのかもしれないが、作者は、単純な心理というものを想定したくないのではないか。ちょっとしたことでも、わざと複雑に考え、自分で自分の話を混乱させ、結局は「肝癪」を起こすしかないような方向に話を進めてしまうのではないか。理屈っぽく語るが、段取りはない。解決する気がないのなら、理屈は要らない。感傷的言辞を並べて、読者に甘えればいい。逆に言えば、屁理屈を並べるような、屈折した甘え方しか、作者には、できないのかもしれない。[甘えたければ、甘えてもいいんだよ。ただ、ちょっと、笑われるけどね]といったことが、全然、分かっていないのだろう。
 極端と極端が同居しているらしく、その両方が空想的なようで、しかも、そのどちらについても実地に試された気配がないとしたら、物語を根本から嘘っぽく感じるのが、普通の感覚ではなかろうか。
 本音を隠した[リポート]とか、自己弁護だけを意図した[反省文]とか、形だけの[始末書]を読んだり、書いたりした経験のある人なら、Nの回りくどい書き方に出会えば、疑いたくなるはずだ。[虚偽/虚構]を区別する標識を、私は、確かな形では、持たない。[Nの言葉の語り手(達)は、騙りのようだ]という印象は拭えない。語り手が自分を茶化してるのかもしれない。あるいは、作者が語り手を批評しているのかもしれない。作者が読者を担いでいるのかもしれない。あるいは、常に何かを隠しているような雰囲気を醸し出すと、精神的な深みなどと混同してもらえると思っているのかもしれない。そして、そのような混同を好む[作者/読者]の誕生の物語を明示しないまま、[世界]化しようとしているのかもしれない。まず、曖昧な気分を読者と共有したいのだろう。あるいは、[嘘をつきたいときに嘘をつくのは、自分に対して正直だ]とか、何とか、そんな嘘を思いついたのかもしれない。
//「ただなんだか矛盾」
  三四郎はぼんやりしていた。やがて、小さな声で「矛盾だ」と言った。大
 学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの目つきが矛盾なのだ
 か、あの女を見て汽車の女を思い出したのが矛盾なのだか、それとも未来
 に対する自分の方針が二道に矛盾しているのか、または非常にうれしい
 ものに対して恐れをいだくところが矛盾しているのか、─このいなか
 出の青年には、すべてわからなかった。ただなんだか矛盾であった。
                            (『三四郎』3)
 「このいなか出の青年」という言葉を、三四郎が自分自身に向けたとは考えにくいから、「すべてわからなかった」という言葉は、作者のものだろう。すると、「大学」以下の文は、作者の言葉だということになり、三四郎は、このとき、「すべてがわからなかった」のではなくて、[「大学」以下云々のことは、全然、考えなかった]ことになるのではないのか。そうではなくで、「─」以前は、やはり、三四郎の思考で、途中から作者が引き取ったと読むべきか。そうだとすると、三四郎が考えても分からないのは、当然だろう。ここに「矛盾」は語られていないのだから。「矛盾」のように見えるのは、せいぜい、「うれしいものに対して恐れをいだくところ」ぐらいで、しかも、そんな心理も、ちょっと考えれば矛盾でも何でもないと言える。ということは、[三四郎は、「矛盾」という言葉が、どういう事態を指すのか、よく分からないくせに、「矛盾だ」と言ってみたくなったので、ちょっと、言ってみた]ということが書いてあるのだろうか。違う。ちょっと考えれば、「矛盾」でも何でもないことが分かるのに、「このいなか出の青年」はそんなふうに考えることができないと記されているのか。あるいは、もし、ここに語られていることが、作者にとっても、「矛盾」と見做されているのなら、「このいなか出の青年」にだけではなく、作者にも分からないのではないか。
 作者にとって、「矛盾」のようなこととして記された事態のどれが、本当に「矛盾」だと思われているのか。あるいは、どれも「矛盾」ではないのか。ともあれ、なぜ、この段落はあるのか。そして、また、どうして、ここで、三四郎は、作者に、からかわれなければならないのか。
   とすれば、ここにあるのは、憎々しい愛情だ! 愛情豊かな憎悪だ! 
   無から創り出された有だ! 
   重々しい軽快さだ! 真摯な浮かれ心だ! 
   見た目には恰好いいが、その実は無残な混沌だ! 
   鉛の羽毛、輝く黒煙、凍る火、病める健康だ! 
   絶えず醒めている眠りだ、自分であり自分でないものなのだ! 
   僕の恋はそんな恋なのだ、恋して恋されぬ恋なのだ。
   おい、君、君は笑わないのか。
      (シェイクスピア『ロミオとジューリエット』1-1、平井正穗訳)
//「偶然」
 「所謂偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎて一寸見当が付かない時に云う」(『明暗』2)という「知識」(同2)を得た津田は、「自分の行動に就いて他から牽制を受けた覚がなかった」(同2)としながら、次のように考える。
  そうしてこの己は又どうしてあの女と結婚したのだろう。それも己が
 貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。然し己は未だ曾てあ
 の女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーの所謂複
 雑の極致? 
                             (『明暗』2)
 津田は、重度の健忘症にでも罹ったのだろうか。
 [津田は、延子と結婚しようと思った]という物語がどこかにあるはずだと、津田は考える。一方、[津田は、延子と結婚しようと思わなかった]という物語の中の人物だと、津田は自分について考える。だから、何? どこが「複雑」? 逆だろう。あまりにも単純。いや、単純以前。物語がない。
 [津田は、どうして、延子と結婚したことにしようか]と、作者は考える。[津田が延子を貰おうと思ったからこそ、結婚が成立した]ことにしたい。しかし、作者は、まだ、[延子を貰おうと思う津田の物語]を構想していない。すでに語り始めてしまった[津田の物語]の先行きを、どう続けよう。「偶然」という言葉で読者をごまかそうか。しかし、読者が「偶然」なんてものに重きを置かないとすると、無効だろう。
 こんなような作者の思惑が、作中人物の述懐として表出されたか。そうでないとすれば、津田は、あたかも、自分自身の物語の作者であるかのように、演技的に人生を送っていることになる。どちらの場合も、物語として、語り得る。しかし、どちらでもない物語、あるいは、どちらでも有り得るような物語を読むことは、難行苦行だ。
//「割れた世界」
  自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自に働き出すと苦しい矛
 盾が起る。多くの小説はこの矛盾を得意に描く。小夜子の世界は新橋の停
 車場へ打突った時、劈痕が入った。あとは割れるばかりである。小説はこ
 れから始まる。これから小説を始める人の生活程気の毒なものはない。
                           (『虞美人草』9)
 「小説を始める人」とは、作者ではない。小夜子だ。作者が小夜子をいかに可憐に描いたつもりでも、こんな紹介をされては、彼女も藤尾同様のすれっからしに見えてしまう。小野にとって、藤尾と小夜子の違いは、彼女達が、どれだけ、自分の気持ちを上手に隠せるか、その点にだけあるかのようだ。
  紫の匂は強く、近付いて来る過去の幽霊もこれならばと度胸を据えか
 ける途端に小夜子は新橋に着いた。小野さんの世界にも劈痕が入る。作者
 は小夜子を気の毒に思う如くに、小野さんをも気の毒に思う。
                               (同9)
 「作者」という単語は、[読者]と置き換えた方がいいほどだ。本当の作者は、作中人物であり、彼らは自己自身の物語を造りつつ生きるらしい。しかも、その物語の[世界]を決定できないような、未熟な作者だ。登場人物達のご苦労は、作者一般のご苦労と区別できない。登場人物の物語造りがうまく行きそうにないと、「作者」さんは、彼らを「気の毒に思う」らしいが、お助けはしてくれないようだ。「作者」が[真実の作者]を探し始めるという話もない。
 『虞美人草』は、「小説」ではないのかもしれない。世間のちゃらちゃらした「小説」以上の何かのつもりなのかもしれない。「小説」は、個々の登場人物達の心の中にあって、割れたり、くっついたり、さらに割れたりしているのだろう。作者は、「小説」群の上位に立ち、登場人物の「動き」ではなく、個々の「小説」の「動き」を写生しているらしい。
//「ばらばら」
 Sは、「矛盾な人間」(55)を自称する。[すべてのクレタ人は嘘つきだ]と語る、あるクレタ人は、例外的なクレタ人だろうが、[Sの矛盾とは、語られるSの矛盾のみであり、語り手Sの矛盾ではありえない]とは言い切れない。あなたは、「黒い光が(中略)全生涯を物凄く照らしました」(102)などと語る語り手を信じることができるか。
  人間のうちで纏ったものは身体だけである。身体が纏ってるもんだか
 ら、心も同様に片付いたものだと思って、昨日と今日とまるで反対のこと
 をしながらも、やはり故のとおりの自分だと平気で済ましているものが
 だいぶある。のみならずいったん責任問題が持ち上がって、自分の反復を
 詰られた時ですら、いや私の心は記憶があるばかりで、実はばらばらなん
 ですからと答えるものがないのはなぜだろう。こういう矛盾をしばしば
 経験した自分ですら、無理と思いながらも、いささか責任を感ずるよう
 だ。してみると人間はなかなか重宝に社会の犠牲になるようにでき上っ
 たものだ。
                             (『坑夫』)
 この語り手を、どれほど、作者が本気で支持しているのか、私には計量できない。ほとんど、冗談なのではないか。しかし、真に受けて考えれば、「私の心は記憶があるばかりで、実はばらばらなんですからと答えるものがない」のは当然だと言うしかない。「私の心は記憶があるばかりで、実はばらばらなんですからと答えるもの」自身が、自身を指して、「実はばらばらなんです」と言うことはできないからだ。「実はばらばらなんです」と主張する人物は、今のところ、「ばらばら」ではないはずだから、「ばらばら」になる前に、「責任問題」を解決してもらうことになる。反対に、語り手が「ばらばら」だとすれば、その主張自体に「責任」がないことになる。
 多重人格の場合でも、個々の人格が、[自分は、「ばらばら」だ]とは主張することはないはずだ。大木こだまは、大木ひびきから、「ばらばらやな」と評されるが、こだまは我が儘をやっているのであって、人格が「ばらばら」になっているのではない。
 『坑夫』の語り手は、[他人から見たら、私の言動は一貫性を欠くように思われることもあるのかもしれないが、自分では一貫しているつもりだ]ということと、[他人は、私に一貫性を要求するが、他人の要求に従えば、自分としては、一貫性を欠くことになる]ということとを、なぜか、混同したいらしい。
   口碑伝承は当然その推移において作為あるいは不作為の潤色を伴う。
 そして非連続の各材料を巧拙の差はもちろんあるが、連続させようとす
 る。グンケル(H.Gunkel)はヤコブ物語において、積みかさなった地層をた
 んねんにはがすようにして、その核心に至ろうとした。すなわち本来的で
 ない連続の鎖を断ち切ろうとした。批評的分析とは常にこのような作業
 だが、神学的には、実はこの鎖にこそ重要な意義があり、それをきわめな
 ければならない。
                  (馬場嘉市他「新聖書大辞典」ヤコブ)
 [Sの物語]を「研究」(7)したりせずに、「連続させようとする」ことは、「遺書」を聖典とし、Pの前文を注釈とする聖人伝として、『こころ』を読むことになる。勿論、あなたには、そうする自由がある。N自身さえ、自分を、Sの伝記作者として空想する時間がなかったとは言い切れない。その空想的気分が、Nに「広告文」を書かせたのだろう。乃木希典が神になったように、Sが神になっても、別段、おかしいことはない。津田青楓の『漱石と十一大弟子』では、Nは「大明神」になっている。また、Nが自分を「仙人に近い人間」(N『文芸と道徳』)として現すのも、自由だ。
 Sは「今の尊敬を斥ぞけたい」(14)と言いながら、Pに「先生」と呼ばせたままにしているといった「矛盾」は、どのように考えれば、「連続」させられるのか。Sは、その呼称を、Pの「口癖」(3)に過ぎないと信じ、甘受していたが、内心では、むかついていたか。相手が「口癖」だと言いさえすれば、どんな呼称でも、使わせたか。では、[東京のおやじ]というのは、どうか。なかなか、可愛いと思うが。すると、静は、[東京のおふくろ]だろうな。
 「他にそれだけの自由を与えている」(『私の個人主義』)ので、「先生」と呼ばれて「いくら私が汚辱を感ずるような事があっても」(同)「抑圧を加えるような事は、他に重大な理由のない限り、決して遣った事がない」(同)というわけか。[そんな「口癖」はみっともないから、やめるべきだ]と「家に出入りをする若い人たちに助言」(同)すべきだと思わないのか。「出入り」という言葉で、別のあることを仄めかすのでないのだとすれば。
//「別の伝え方」
  釈迦牟尼世尊が、昔、霊鷲山で説法された時、一本の花を持ち上げ、聴衆
 の前に示された。すると、大衆は皆黙っているだけであったが、唯だ迦葉
 尊者だけは顔を崩してにっこりと微笑んだ。そこで世尊は言われた。「私
 には深く秘められた正しい真理を見る眼、説くことのできぬ覚りの心、そ
 のすがたが無相であるゆえに、肉眼では見ることのできないような不可
 思議な真実というものがある。それを言葉や文字にせず、教えとしてでは
 なく、別の伝え方で摩訶迦葉にゆだねよう」。
   無門は言う、「金色のお釈迦様もなんと独りよがりなものだ。善良な
  人間を連れ出して奴隷にするかと思えば、羊の肉だなどと偽って狗(犬)
  の肉を売りつけなさる。とても並の人間に出来る芸とは言えぬ。だがし
  かし、もしもあの時その場の大衆が皆な一斉に微笑んだとしたら、正法
  眼蔵とやらいう結構なものをどのように伝えたであろうか。また逆に、
  迦葉尊者を微笑ませ得なかったとしたら、それをどのようにして伝え
  たであろうか。そもそも正法眼蔵というようなものが伝達できるとす
  れば、お釈迦さまは一般大衆を誑かしたことになる。また伝達出来るも
  のでないとすれば、どうして迦葉尊者だけに伝授されたのであろうか」。
                    (慧開『無門関』6、西村恵信訳)
 [「釈迦」/「先生」]は、[「聴衆」/「世間」(1)]に、[「正法眼蔵」/「人間」(110)]を、[「伝える」/「解らせる」(11)]ことはできないが、[「迦葉」/P]に対してならできるという物語は、[「釈迦」/S]が[「迦葉」/P]を「誑かした」のではないとすると、物語の外側にいる[伝記作者/N]が、物語の外側にいる[「一般大衆」/『こころ』読者]のために偽造したものと疑われる。


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