『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

文字を大きくする 文字を小さくする
#070[世界]30先生とA(20)「純白」

//「捧げたね」
  気分の変るままに、エンマは、代る代る、神秘的になったり、陽気になっ
 たり、口数が多くなったり、黙りがちになったり、興奮したり、投げやりに
 なったり、レオンのうちに無数の欲望を呼びさまし、本能を呼び、また記
 憶を喚起した。エンマはあらゆる小説に出て来る恋する女だった。あらゆ
 る劇の女主人公であり、あらゆる詩集の漠たる「女性」だった。
               (フロベール『ボヴァリー夫人』杉捷夫訳)
  主人は一寸神秘的な顔をして暫らく一頁を無言のまま眺めているので、
 迷亭は横合から「何だい新体詩かね」と云いながら覗き込んで「やあ、捧げ
 たね。東風君、思い切って富子嬢に捧げたのはえらい」としきりに賞める。
 主人は猶不思議そうに「東風さん、この富子と云うのは、本当に存在して
 いる婦人なのですか」と聞く。
                              (『猫』6)
  ドゥルシネーアがこの世に居りますか居りませぬか、空想であります
 かありませぬか、神はもとよりご承知です。たゞし、詮索を徹底させるべ
 きことがらではないとぞんじます。てまえは姫を宿らせも生みおとしも
 いたしませぬが、世界じゅうの婦人のその中で隠れもない婦人にしそう
 な性質を残らず具えた、あたかもよき思い姫として、眺めとるのでござり
 ます。
            (セルバンテス『ドン・キホーテ続編』永田寛定訳)
  小説的かも知れんけれど、八犬伝の浜路だ、信乃が明朝は立つて了ふと
 云ふので、親の目を忍んで夜更に逢ひに来る、あの情合でなければならな
 い。いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似てゐる。幼少から親に別れてこ
 の鴫沢の世話になつていゐて、其処の娘と許婚……似てゐる、似てゐる。
  然し、内の浜路は困る、信乃にばかり気を揉して、余り憎いな、そでない
 為方だ。
                     (尾崎紅葉『金色夜叉』前編6)
//「二人の間」
  木曜日の晩、招待のお客たちがきているときには、人殺したちは嘆願す
 るような視線を向けあい、おどおどしながら相手の言葉に耳を傾け、それ
 ぞれ心のうちでは、いまにも共犯者がなにか告白をするのではないかと
 びくびくしながら、いいかけた相手の文句に、わが身をおびやかす意味を
 あてはめてみる。
  このような戦争状態がもうこれ以上つづくことはありえなかった。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』31、篠田浩一郎訳)
  「いや考えたんじゃない。遣ったんです。遣った後で驚ろいたんです。そ
 うして非常に怖くなったんです」
  私はもう少し先まで同じ道を辿って行きたかった。すると襖の陰で「あ
 なた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だ
 い」といった。奥さんは「一寸」と先生を次の間へ呼んだ。二人の間にどん
 な用事が起ったのか、私には解らなかった。それを想像する余裕を与えな
 い程早く先生は又座敷に帰って来た。
                               (14)
 静は、男達の会話を盗み聞きしていて、会話を中断させるために、Sを呼び寄せた。当時のPに、静がSを呼ぶ理由が「解らなかった」としても、語り手Pには、いくらでも「想像する余裕」がある。しかし、その「余裕を与えない程早く」Sは「帰って来た」というわけだ。
 [Sが「非常に怖くなった」ときの話をすると、その後、沈んだり荒れたりするので、静は、Sに話を中断させた]と「想像」することは極めて容易なことだ。だが、語り手Pには容易ではないらしい。また、作者は、読者にも容易ではあるまいと考えているらしい。あるいは、[立ち聞きしてもいない静が、なぜともなく、Sの不安を察知して、会話を中断させ、しかも、その流れの方向を変えるのに成功した]というようなことを、作者は考えているのか。作者には、[女という生き物は、良かれ悪しかれ、不思議な感応によって行動するものだ]といった信仰があって、そして、それが表出されたと考えるべきか。
 この段落は、何のために存在するのか。作者が気分を変えるために、筆の先で遊んだというようなことか。作者が、もやもやした気分になると、そのとき、いいようにパシリをやらされるのは、静だ。
 静に呼ばれてSが引っ込むのは、語られるPを「焦慮せる」(13)ためか。だが、誰がそんな粋なことを仕掛けるのだろう。Sではない。静でもない。誰でもない。そういう無理な設定だ。まるで、語り手Pが語られるPを「焦慮せる」かのようだが、穿ち過ぎ。作者の仕業だろう。しかし、いくら、Pが「焦慮」されても、読者が苛つかねばならないような設定はない。作者は、読者がPに感情移入していれば、Pと一緒になって苛つくと勘違いしているのではないか。読者は、語られるPには感情移入しにくい。読者が感情移入するとしても、その対象は、語り手Pだろう。何にせよ、迂遠な仕掛けだ。
//「妻の笑談」
 夫に、「殉死でもしたら可かろうと調戯」(109)う静について、「何を思ったものか、突然」(109)と、Sが記す。作者には、静が「何を思ったものか」分かっているのだろうか。読者は、静の態度を、どのように思い描けばいいのか。おちゃめか、意地悪か、間抜けか、諦め切っているのか。所詮は女のやることだから、誰にも、当の静にさえ、分からないのか。
 「殉死」という言葉を「突然」持ち出しても、それを「妻の笑談」(110)ということにすれば、何とか、その場は乗り切れると、作者は踏んだのだろう。静は、無性格というよりは、可塑性に富んだ、都合のいい女だ。誰にとって都合がいいかというと、Sにとってではなく、作者にとってだろう。そして、静というキャラクタに対する、作者の信頼感が、Sに投影されて、Sのものになったか。
//「純白」
  それにテレーズとは血まみれの、おぞましい因縁で結ばれた仲ではな
 いのか? と思うと、体のなかでテレーズが叫び声をあげ、のたうちまわっ
 ているのがかすかに感じられる、このとおりおれはあの女からはなれら
 れないのだ。ローランはこの共犯者がこわかった。たぶん、夫婦になって
 やらなければ、あの女は復讐と嫉妬から、司法当局に訴え出て、なにもか
 もしゃべってしまうだろう。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』16、篠田浩一郎訳)
  なぜ、自分は潔白だなどといって、おれの負担を重いものにしようとす
 るのだ? おまえが潔白だったら、おれと夫婦になるのを承諾するはずが
 ないじゃないか。
                              (同28)
  女性の中でも広やかな強い魂を持つ人なら、無限の純潔を求め一点の
 しみもないつぼみを期待する男の要求に、結局は無限のみだらさがある
 ことを見いだすだろう。おそかれ早かれ彼女らが悟るであろうことは、自
 分たちが幾代にもわたって奇妙なエゴストの犠牲となり、無邪気とよば
 れたいばかりに無知の仮面をつけ、男の歓心を買うためにわが身を市場
 の商品と化し、しかも商品を求める男の欲情にこたえようとして実はか
 えってその商品を捨て去り、幾代もの昔に引きもどされるままに、幸いに
 も偶然がもたらした肉の清浄を売り物にして嫉妬深い男の独占慾に奉仕
 して来たという自分たちの過去である。
              (メレディス『エゴイスト』11、朱牟田夏雄訳)
 静の「記憶」(110)について言われる「純白」(110)は、[白紙]と読み換えたい。「印気」(106)と語呂が合うから。
 「純白」は、Sに静の心が読めない(72)ことや、「相手に気兼なく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しい」(88)こととも符合する。[静の物語]は、無に等しい。隠されているのではない。当時の女性の人生が従属的であったことの比喩でさえない。
//「空の盃」
 もし、『こころ』を、静の視点で、つまり、「よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空の盃でよくああ飽きずに献酬が出来ると思いますわ」(16)という視点で語り直せば、間違いなく、破綻する。SとPの奇跡的な関係だって、PがSに「かぶれ」(33)ているだけのことだ。だから、作者は、静にこんなことを言わせなければいいのに、なぜ、言わせてしまうのだろう。静の超人的な献身と、Sの超人的な苦悩という、両立し難い物語を、一つの作品に押し込める理由は、どこにあるのか。そんな理由は、作品の内部には、ないはずだ。本当は、二人は、「戦争」(『彼岸過迄』「須永の話」31)を続けているのではなかろうか。
 静は、「よく男の方は議論だけなさるのね」と言うが、彼女は、いつか、男達の「議論」に立ち会ったことがあるのだろうか。SとPが議論をしたのか。静が知ったかぶりをしているのではないとすれば、夫のいない静ママの家で、男達が「議論」したとすれば、それはSとKしか考えられない。そのとき、男達がやりとりした「盃」とは、静のことだ。そして、それが「空」だというのは、[静の物語]が「空」だという事実の表出だろう。
 「御嬢さんを考える私の心は、全く肉の匂いを帯びていません」(68)とか、「御嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の萌さなかった」(68)という記述によって、読者も、また、静の「肉の方面」についての情報不足を、静の属性と取り違えるように仕向けられる。[静の体には、お肉が付いていない]とか、[静には、体臭がない]といった情報が流されているようではない。
 『こころ』の中の物語のどれもが情報不足なのだが、[静の物語]は、中でも極端だ。静の無知や沈黙は、手品のシルクハット。そこから何でも出て来て、そして、そこに消える。Sが静に対し、[SとKの物語]を隠すと見せかけ、作者が読者に多くの情報を隠す。あるいは、情報不足という事実を隠す。『こころ』は空洞だ。そして、その空洞は、Pの「腹の中」(110)という空洞で終わる。
 「遺書」提示後のPの、決定的な沈黙は、静の「純白」(110)とは無関係であるのに、何やら、関係があるかのように仕組まれる。[空洞である/Kの物語]は、[Sの心の空洞/の物語]として、語られたかに思われるが、その直後、まるで読者を崖から突き落とすかのような、惨いやり方で、作者が沈黙する。その理由は、Sが静の「純白」を維持するためだと、読者は錯覚する。
  あなたには信じられないわ、と言葉をつづけた、あのふたりがどれほど
 わたしを悪い女にしてしまったか。ふたりのために、わたしは猫っかぶり
 で嘘つきの女になってしまった……甘ったるいブルジョワ生活のなかで、
 あのふたりはわたしの息の根をとめてしまったの、わたしの血管のなか
 にどうしてまだ血が残っているのか、自分でもわからないほどだわ……
 わたしはいつも目を伏せ、あのひとたちのように、陰気で間抜けな顔を
 し、あのひとたちと同じ、死人のような生き方をするようになった。
               (ゾラ『テレーズ・ラカン』7、篠田浩一郎訳)
//「すやすや」
 「遺書」執筆開始の時点で、「何も知らない妻は次の室で無邪気にすやすや寐入っています」(57)とされる、その静の眠りが、Sの「落ち付いた気分」(57)を保つのには必要だった。また、擱筆間近には、Sが「死のうと決心してから、もう十日以上」(110)というとき、「妻は十日ばかり前から市ケ谷の叔母の所へ(中略)私が勧めて遣ったのです。私は妻の留守の間に、この長いものの大部分を書きました」(110)とあって、やはり、静の不介入は、Sが「自分を判然描き出す」(110)ために必要だったとされる。だが、実は、Pの不介入こそが重要であったことを、作者は隠している。何やら認めているSを背後から覗き込むのは、静ではなく、Pである可能性の方が大きい。作者は、静を遠ざけるふりをして、Pを遠ざけている。
 [静は、「遺書」を読ませて貰えない]という設定は、[「遺書」は、Pや「外の人」(110)には解読可能だ]という含みを作り出す。そして、この含みは、暗示的な脅迫となって作品の外側に漏れ出し、『こころ』全体を防御する。
//「先生は何時も静だった」
  ラカン家で木曜の晩を過ごすようになってからかれこれ四年にもなる
 というのに、この単調な夜の集いがいらだたしいほど規則正しく反復さ
 れるというのに、ミショー親子とグリュヴェは、ただの一度も退屈すると
 いうことがなかった。はいってくると、いつでも、こんなに平和で、こんな
 に静かなこの家のなかで、なにかの惨劇が演じられているなどと、一瞬も
 疑ってみたことがなかった。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』32、篠田浩一郎訳)
 Sの留守中、[夜話](15〜20)の場で、静は、女装したSのようだ。あるいは、『女暫』のような、Sの女性版。
 「あなた判断して下すって」(19)/「みんなは云えない」(19)/「貴方に判断して頂きたいと思うの」(19)という台詞に対応するような、Sの言葉が後に頻出する。Sは、語る。「私の過去を悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それは又別問題になります」(31)/「今は話せないんだから」(31)/「解釈は頭のある貴方に任せる」(66)/「判断はあなたの理解に任せて置きます」(83)/「切ない恋を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい」(90)/「私を理解してくれる貴方の事だから」(106)/「私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい」(106)
 あるいは、「先生は何時も静であった」(6)という文字を、[Sは、シズ]と誤読したときの印象なり音の響きなりが、頭から離れないせいか。
 [夜話]によって、作者は、[Sは、静とPの関係を疑っていない]ことを、わざわざ、証明してくれる。[Sが疑いさえしなければ、疑いに相当する事実もない]と、作者は考えているかのようだ。[夜話]は、二郎と直の同宿(『行人』「兄」29〜38)の再現だが、そこで何も起こらなかったという記憶が、作者を安心させている。作者は、『行人』のときに比べて、精神的に成長した自分の姿を、見せびらかしている。[語られるSは、静の不貞を疑わない]という物語を、作者は極めて控えめに記したつもりだ。静が偉いのではない。Sが偉いのでもない。[作者は成長した]ということが表出されている。
 作者が静を「純白」(110)にして置こうとするのは、[SとKの物語]を聞かされた静が、千代子のように、「何故嫉妬なさるんです」(『彼岸過迄』「須永の話」35)と、Sに詰問することを避けるためだ。ただし、「貴方は高木さんを容れる事が決して出来ない。卑怯だからです」(同35)という種類の台詞を、作者が恐れているわけではない。Sは、「妻は嬉し涙をこぼしても、私の罪を許してくれたに違いない」(106)と思っているから、その点は、別だ。
//「女」
 Sに「殉死でもしたら可かろう」(109)と言う静と、Sを「私程先生を幸福にできるものはない」(17)と語った静を同一人物だとすれば、[静は、Sを「幸福」にするために、「殉死」を勧めた]ということになる。
 だが、断定はできない。「殉死」という言葉は、静の牽制球として読まねばならないらしい。私には、牽制球に見せかけた悪意に思えるが。Pの語る静と、Sの語る静は、異なる文書の中の静なのだから、それが別人のように見えたとしても、とやかく、言うべきではないのかもしれない。
 だから、逆に、二つの文書の中の静が矛盾なく存在できる輪郭のようなものが想定されるとしても、その輪郭を静の本当の輪郭と見做さなければならない理由もないのかもしれない。
 『こころ』の中の挿話は、ぶつぶつに切れている。作者は、その事実を隠蔽するために、静を使う。利用価値が高い彼女を、作者は守ろうとする。物語の進行に支障が出そうになると、その原因は静に求められる。とは言え、しばしば、静は女性代表として、罪を被る。静の不備は、「人間」(17)や「若い女」(80)や「女」(108)に共通のものとして語られ、話は、都合良く、どこかに消えてしまう。「女」の欠点は、静の「気高い気分」(68)を損なわない。
 Sの「級友」(71)によれば、静は、化粧をすると、「非常に美人」(71)に見えたらしいが、そのことが、SやKやPにとって、どんな作用を及ぼしたか、語られない。
 ここで、[発信者(話題/登場人物)受信者]という式を作ると、「遺書」の中の静は[S(静(S/S,静)S)P]に属し、Pの語る静は[P(静/S,静)X]に属するというように書ける。
 [静は、「非常に美人だ」]という文は、[S(S(級友(静/S,静)S)静母子)P](71)において出現する。ところが、その前に、[S(静/S,静,静ママ)P](71)において、静が「白粉を豊富に塗った」(71)という情報を与えられているので、[静は、「非常に美人だ」]という文が、[S(S(級友(静/S,静)S)静母子)P]において、何を意味するのか、決定できなくなる。しかも、こうした事態が、Sにとって、あるいは、作者にとって、都合が良いのやら悪いのやら、私には判断できない。
 要するに、静は、いわゆる登場人物とは言えない。静は、その時々の物語の「洗い張や仕立方など」(20)をやらされているだけだ。家事に勤しむ姿によって、作者は、ここで、静が「徒らな女性」(20)ではないことを示唆しているらしい。静の位置は、作品の中で、妙に浮いている。例えば、「地の好い着物」(20)という表現で、Pの人柄が比喩されているようだが、本当に、この文句は、Pに対する静の表現と言えるのか。もし、表現だったら、なぜ、語り手Pは、注釈を施さないのか。あるいは、静の表出を、Pが謙遜しながら、Xに対して、[分かる人だけ、分かってくれたら、嬉しい]という構えで披露したのか。あるいは、静の表出であることに、Pは気づかずに記録し、そして、Pの記録の動機については不問のまま、作者にとっての表現となっているのか。あるいは、作者にとってさえ表現ではなく、静を利用した、作者の表出でしかないのか。
 いろんなものが、静の近所で、現れたり、消えたりする。
//「変な反撥力」
 Pの目に、静は「非常に美人」(71)には映らなかったようだ。Pの前で、静は化粧をしていなかったからか。あるいは静の容色が衰えていたからか。あるいは、Pが変人なのか。多分、そのどれでもない。Pにとっての静は、つまり、[P(静/P,静)X]の静は、「女」ではないからだろう。
  私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、その場に
 臨んで却って変な反撥力を感じた。奥さんに対した私にはそんな気がま
 るで出なかった。普通男女の間に横わる思想の不平均という考も殆んど
 起らなかった。私は奥さんの女であるという事を忘れた。
                               (18)
 「女というものに深い交際をした経験のない」(18)というPが、どうやって、[「普通男女の間に横わる思想」の平均値を知ったか]という疑問は追求しないことにしよう。[Pは、平均値を知っている]とは言っていないのだから。「考も殆んど起らなかった」と言っているだけだ。起こらなかったことについて、なぜ、Pは語るのか。おかしな人物だ。言いたいことは想像できなくもないが、その想像が当たっていたとして、私の想像では、静について、重要な情報が与えられたことにはならない。ここに語られているのは、静ではなく、静に対するPの印象に過ぎない。つまり、静の実像、少なくとも作者にとっての実像ではない。
 「変な反撥力を感じさせない」という言葉は、どう受け取るべきか。[普通の「反撥力を感じさせない」]というのなら、私は、明治時代の青年の[普通の「反撥力」]について、調べたり考えたりして、その力が起きそうな状態を知り、そのような力が起きない状態を想像して、そして、そのことが静という人物にとって何を意味するのか、考えることができるかもしれない。だが、[Pが自分でも「変」だと思っているようなことが起きない状態]を、どう想像すればいいのだろう。「変な」ものを感じる人が「変な」ものを感じないですむ状態ってのを、誰か、分かる人、いますか。
 あるいは、「変な反撥力」というのは、多くの人が、普通に感じる「変な」ものをいうのだろうか。普通が「変」なのだろうか。Pは、どういう場合に、それを感じ、そして、感じると、どうなるのか。「女というものに深い交際をした経験のない迂闊な青年」(18)だから、「変」になるのか。「変」だから、「経験」がないのか。「そんな気がまるで出な」いとは、[静に引き付けられて、「変な反撥力」も感じないで、そのまま、ずぶずぶと行っちゃう]と言うんだろうか。あるいは、「そんな気」とは、「引き付けられる」ことを含むのか。つまり、Pは、静に、引き付けられもせず、女らしさも感じなかった。しかし、女らしさを感じないのなら、当然、「変な反撥力」は、いや、それどころか、[普通の「反撥力」]すら、感じるはずはないのだから、どんな「反撥力」についても、それを否定する必要はないはずだ。また、女らしさを感じさせることが「思想」の低さを意味するとしても、女らしさを感じさせないことが「思想」の高さを意味することにはなるまい。
 [静は「旧式」(18)でも、「新らしい」(18)わけでもない]と、Pは記し、褒めているつもりらしいが、[頑迷でもなく、軽薄でもない]という含みか。そういうのを、普通、[普通]というと思うが、[静が普通だから、Pが「変」になる理由がなくて、「変」にならないで助かったよ]というような報告を受けて、私はどう挨拶したものだろう。ここも、例の「嫌っていたのではなかった」(4)という語法に似て、[普通というのは、自然ということで、自然ということは、実際には、有り難い事態だ]とでも読むべきか。
 どうやら、[静は、Pにとって、何らかの対象ではあるが、「恋愛」(12)の対象ではない]ということが暗示されているらしい。誰が誰に暗示するのか、よく分からないが、静がPにとって、何らかの対象であるとすれば、それは、少年にとっての母親か姉のような対象だろう。
 静が静であるための唯一の立脚点であるところの「静」という名前は、「貰ッ子」(8)という言葉が発せられて、ようやく、しかも、まるで別の物語から引き抜いて来たように、括弧に入れて(9)明かされる。だから、「貰ッ子」に対応して、養母という含みかもしれない。
 Pは、くねくねした口調で静の印象を記しながら、実は、何を告白したつもりになりたかったのか。Pが女性の人格を計量するときに物差しにできる女性は、一人しかいない。それは、Pの母親だ。だから、Pは、[静は、Pの母より優れている]と書いたつもりになりたかったのかもしれない。もし、そうだとしても、そのことに何の意味があるのか。このことは、Pの、あるいは、作者の問題だろう。[静は、Pの母より優れている]と明示できない理由とか意味とかは、作品の内側には、なかろう。
 Pの真の欲求は、というか、潜在的な欲求、いや、作者が仮託した欲求は、Pが静の「貰ッ子」になることだろう。Sは、Pを、静に相応しい息子に調教するために、「遺書」を記す。
//「叱られる」
 [夜話](15-20)によって、付加される情報は、Kらしき人物の「変死」(19)ぐらいだ。それ以上、話は展開しない。「みんなは云えないのよ。云うと叱られるから、叱られないところだけよ」(19)と、静は言う。Sは、なぜ、静を叱るのか。静は、なぜ、Sに「叱られる」と思うのか。叱られる「ところ」とは、どこか。静は、そこがどこだか、知っているのだろう。でも、なぜ、知っているのだろう。
 静の持っている情報を「みんな」得るとき、聞き手はどのような物語を作り上げると、Sは思うのか。また、その物語は、なぜ、静には作り出せないのか。「普通男女の間に横わる思想の不平均という考も殆んど起らなかった」(18)のなら、静にできないことが、Pにできるとは思えない。静がPを買いかぶるのは仕方がないとしても、語り手Pが語られるPを買いかぶるのは、変だ。
 Pは、「奥さんは今でもそれを知らずにいる」(12)と記すが、一般論として、[ある人が、あることを知らない]ということを、[あること]の内容を告げずに確かめる方法はない。だから、Pが[静は知らない]と記しても、[語り手Pは、嘘つきか、思い込みの強い人物だ]という意味にしか取れない。
 静が「人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか」(19)と問うとき、その質問は否定的な見解を秘めた人でなければ口にしないはずのものだ。「だから、其所を一つ貴方に判断して頂きたいと思うの」(19)とは、ほとんど誘導尋問であって、静は、自分の頭の中にある物語をPに語らせようとしているという疑いが、読者には起こるはずだ。だったら、[静は知らない]という設定に反するようで、逆効果だろう。
 [静(S/S,K,静)φ]という物語が、どこかにある。しかし、静は、その物語の語り手には、なれない。「叱られるから」(19)という。本当は、聞き手が不定だからだ。静は、Sと同様に、人類一般を聞き手にできない。聞き手の思惑が計量できないと、情報公開できない。そんなふうに見える。だから、聞き手として、Sに買われているらしいPが据えられる。静が「みんな」を語れない理由は、単純なものだ。[妻一般は、何についてであろうと、その「みんな」を語ることを、夫一般によって禁じられている]からだ。語ることを禁じられた静は、[P(静(S/S,K,静)φ)静]という、不気味に円環する物語の聞き手になろうとする。「女」とは、そのようなものだと、作者は達観しているのか。
 ペネロペのように、夫の帰宅を待って、物語の織物を織っては解く。このとき、[聞き手は、Pではなく、なぜ、Sであってはならないのか]という疑問が塗り込められる。言い換えれば、[静(S/S,K,静)S]において、「みんな」は語り得るのかという疑問が、見えなくなる。実際に、Sと静の間で、「みんな」の内容が共有されているとして、では、そのときの「みんな」とは、何なのかと問われたら、作者にも想像できないのではないか。作者は、人類一般を聞き手にして「みんな」を語る語り手を想像できない自分を隠す。
 もしかしたら、P以外の「多くの人」(6)は、[SとKの物語]を知っていたのかもしれない。だから、「多くの人」は、Sを避けていた。そして、Sは、[自分が人から避けられている]という事実を、[「話す事実の出来ないある理由があって」(6)自分から人を避ける]という物語に偽装し、Pに語った。語り手Sは、[醜聞を「教訓」(56)に偽造するための物語]の聞き手を、「たった一人で好いから」(31)持ちたかった。その気持ちに同情した静は、Sの共犯者となって、Pを欺瞞する。静だって、「みんな」(19)知っていた。[夜話]は、[SとKの物語]を、醜聞として、Pがすでに誰かから知らされていないか、確かめるために、Sが静に探りを入れさせる場面だ。
 あるいは、静が詳しく知りたがっているのは、「多くの人」が知っている醜聞であり、「遺書」に描かれた[SとKの葛藤の物語]ではない。
 あるいは、[「遺書」の中身は、作り話だ]ということを、静が語らないように、Pは、静に対して、「秘密」(110)を守らされる。Pは、偽の「秘密」を掴まされた。本当は、Pだけが、本当の「秘密」を知らない。[Pだけが「秘密」を知っている]と、Pは思わされているだけだ。だいたい、[これは、ここ「だけ」の話ですが]という台詞の心が[これは、あなた「だけ」を騙すための作り話です]だってのは、もう、常識でしょう。
 静にとって未知の情報が「遺書」に含まれていると、SとPは信じているらしいが、「遺書」に偽りがないとしても、「遺書」に、静の知りたがっていた情報が含まれているものかどうか、静に聞いて見なければ分からない。このことは、実は、[Pは、「遺書」によって、Pが求めていた情報を得た]という判断を、読者に下せないことと繋がっているようだ。そして、さらに、このことは、[読者自身が何となく求めていたはずの情報は、本当に得られたのか]という問題にも繋がるようだ。
 [「遺書」によって、静は、自分の求めていた情報を知り得る]という可能性を、Pが信じれば、Pは、[「遺書」によって、Pは、自分の知りたかったことを知った]と勘違いする。そのようなPを、『こころ』読者が思い描けば、[「遺書」によって、『こころ』読者は、自分の知りたいことを知り得る]と勘違いする。その流れに棹差せば、『こころ』読者は、[『こころ』によって、『こころ』読者は、自分の知りたいことを知り得る]と勘違いするのかもしれない。すると、ここに目出度く、「自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得た此作物を奨む」(『心』広告文)という広告の正当性が天下に認められる。[『こころ』は、「人間の心を捕へ得た」]と言えるのだろうか。いや、そもそも、「人間の心を捕へ」るというのが、どういうことをすることなのか、私には見当もつかない。
 作者は、読者に、想像力において、静に優越する快感を与えてくれているのだろうか。[静は、『こころ』読者より、知的劣等者であり続ける]という、損な役目を引き受けているのだろうか。
 静の無知は、[静の沈黙]の隠蔽だろう。S、P、そして、読者達は、それぞの空想の中で、[φ-静]を作ったつもりでいるが、本当は、[静-φ]を読んでいることに気づかないのかもしれない。こうした事態は、『明暗』で決定的になる。津田は、[津田の語る/津田と清子の物語]について沈黙を守り続けるふうを装う。だが、作者とともに津田が恐れているのは、[清子の語る/津田と清子の物語]の起動だ。いや、恐らくは、無=起動だ。つまり、そんな物語は、ない。
 静は何も知らないし、知ることもできない。なぜか。静にとって、「遺書」のような出来事は、なかったからだ。作者は、静の語る物語を構想できない。
 さて、[夜話]で、Pは、不思議なことに、[P(静(S/S,K,静)P)静]という異本制作に失敗する。すると、[Pの失敗は、静の無知に等しい]とされ、[S,K,静の三角関係の物語]は起動しないことになる。しかし、私達は、静の提示する貧弱な情報と私達自身の貧弱な想像力によって、いや、その貧弱さゆえに、三角関係を想像するはずだ。この軽々しい想像が、なぜ、静やPには、できないのか。彼らは軽々しい人物ではないからか。
  その当座は頭がただ恋の一字で支配されていた所為でもありましょう
 が、私の観察は寧ろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために
 死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、
 同じ現象に向って見ると、そう容易くは解決が着かないように思われて
 来ました。
                               (107)
 なぜ、Pも静も、「簡単でしかも直線的」に思考しないのか。そうすれば、「叱られる」からだ。叱るのは、Sではない。叱るのは、作者だ。[SとKの物語]が明らかにされる「時機」(31)は、まだ、先だからだ。
//「丈夫ですとも」
 Sは、Pに、「私は世間に向って働らきかける資格のない男だ」(11)と自己紹介する。しかし、「人は自分の有っている才能を出来るだけ働らかせなくっちゃ嘘だ」(51)という方が正論だろう。受刑者が、「私は世間に向って働きかける資格のない男だ」という理由で、懲役を拒否できるはずがない。労働は義務だ。「資格」を持っていると、単価が上がる。そういう仕組みはある。こんなことをいくら書いても無駄だから、「嘘」を現実味のある話に変えよう。すると、[Sは、「世間に向って働らきかける」ための「才能」を持っていない]という話になる。[Sは、労働の義務を免除してやらなければならないような病者だ]というわけだ。しかし、静は、「丈夫ですとも」(11)と請け合う。
 Sによれば、Kは「神経衰弱」(76)だった。私には、Sも何かの病気に見える。もし、そう見えないとしたら、静が「丈夫ですとも」と請け合ったからだ。もし、静が、反対のことを言えば、Sは、一郎(『行人』)に戻るのだろう。
//「批評的に見る」
  今までの奥さんの訴えは感傷を玩ぶためにとくに私を相手に拵えた、
 徒らな女性の遊戯と取れない事もなかった。尤もその時の私には奥さん
 をそれ程批評的に見る気は起らなかった。
                               (20)
 後のPには、静を「批評的に見る気」が起きたかのような書き方だが、そのような含みはない。「女性の遊戯」という「批評」をしているのは、執筆時のPだが、その「批評」は当時も「起らなかった」し、現在も起きない。あるいは、「批評的に見る気」が起きるや否や、否定するのかもしれない。
 ここで、作者は、「批評的に見る」とか見ないとかいう言葉の裏側で、静が「徒らな女性」である可能性を保留にしている。いわば、[美しい謎]として、提出している。この時点で、[静は、生まれながらの貞女だ]と、読者が思い込んでしまっては、[Kと静の物語]は起動しないと、作者には思われたのだろうか。
 [夜話]の後、Sが、「泥棒は来ませんでしたか」(20)と、Pに聞くのは、[Pは、静を盗まなかった]という事実の確認を、作者が自分自身に対してしているところだ。Pは、静に、「折角来たのに泥棒が這入らなくって気の毒だ」(20)と言われたような気がする。こうも、しつこく、「泥棒」の話題から抜けられないのは、『猫』の泥棒が寒月に似ていた程度には、Pも泥棒に似てしまう惧れがあったからだろう。『猫』の泥棒は、山の芋を持ち帰るが、Pはカステラを持たされる。Pが泥棒ではないことの確認が続く。逆に言えば、容疑は晴れない。「この菓子を私にくれた二人の男女は、幸福な一対として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった」(20)という記述で、ようやく、一段落。カステラは、Pが隠れ養子になったお祝いらしい。
 [夜話]の後、帰宅した「先生は寧ろ機嫌がよかった」(20)という。なぜか。Pと静の話を知っていたから。いや、知っていたのは作者で、その作者の機嫌がSに乗り移っている。「寧ろ」というのは、表面的には無意味。Pが静とSの機嫌と比較したところらしいが、Sと静は同席してないのだから、比較は無意味。この様子では、まるで静の台詞をSが用意して、Pに向かってしゃべらせたかのようではないか。しかも、Pは、そのことを知っているかのようだ。
  もっとも、お客のだれひとり、これがローランの拳のあとなどと気づく
 はずもなかった。自分たちを招いてくれるこの夫婦が、やさしさと愛情の
 典型のような、模範的な夫婦だと、だれもが思いこんでいたからだ。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』32、篠田浩一郎訳)


[前頁へ] [『いろはきいろ』の目次に戻る] [次頁へ]


© 2002 Taro Shimura. All rights reserved.
このページに記載されている内容の無断転載を禁じます。