『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

文字を大きくする 文字を小さくする
#071[世界]31先生とA(21)「幸福」

//「人間の一対」
  一つ、あなたが大丈夫あてにしてよいのは、あの人はあなたを自慢の種
 にするということ。あの人の奥さんは、自分を世界一のしあわせ者と思え
 ないようならそれでもう失格です。
              (メレディス『エゴイスト』35、朱牟田夏雄訳)
  「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女は
 殆んど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人し
 かない男と思ってくれています。そういう意味から云って、私達は最も幸
 福に生れた人間の一対であるべき筈です」
                               (10)
 このSの発言の価値は低い。「一人しか知らない」という条件から、直ちに、[Sにとって、静は大きな価値がある]という結論は引き出せない。一人だけの「女」を粗末に扱う「男」は、いくらでもいる。逆に、「女」が何人いても、それぞれに大きな価値があると思っている「男」もいる。だから、このSの発言から、Sと静の「幸福」(108)の度合いを計量することは、できない。[童貞と処女で結婚し、互いに貞操を守ることは、「最も幸福」(10)な夫婦であることの必要条件だ]と信じるのはSの自由だが、その条件が十分条件になるわけではない。「殆んど」という言葉も、怪しい。浮気心が「殆んど」起きないというようなことは、猟色家でもない限り、誰にでも当て嵌まる。ここでは、売春のことが仄めかされているのかもしれないが、[悪所は、「世の中」に属さない]と考えれば、これもまた、何とでも言える。さらに、[P文書]の時点では作者の予定になかったことかもしれないが、Sは、静に出会う前に、「世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事」(61)をしているのだから、「生れた」という表現は不適当だ。
 そもそも、平凡な夫達が浮気をしない理由は、「妻以外の女」に興味を持たないからではなく、「妻」によって、「女」に失望させられた結果、「妻以外の女」までが「殆んど女として」自分に「訴えない」ようになるからだ。一方、平凡な妻達が、夫のせいで、夫以外の「男」に対する希望を失うことはないとしても、だからといって、[「妻」が、夫を「天下にただ一人しかない男と思って」いない]としたら、不穏な状況だと言える。
 「そういう意味から云って」、S夫妻は、どちらかと言えば、かなり平凡な「人間の一対」と言うべきだろう。「私達は最も幸福に生れた人間の一対である」と言いたい気持ちが先走ったが、これといって根拠が見当たらないので、「べき」がくっついたようだ。
 『こころ』は、[S夫妻は「最も幸福に生れた人間の一対であるべき」なのに、そうではない。だから、その理由を探す]という物語に見せかけられた[夫婦の危機の物語]だ。だから、夫婦の外側に危機の理由を探しても、見つかるはずがない。そもそも、[特別の理由さえなければ、S夫妻は「最も幸福に生れた人間の一対であるべき筈です」]という物語はない。
 もし、作者に、「最も幸福に生れた人間の一対」というものを空想することができていたのなら、『こころ』は書かれなかったろう。「最も幸福に生れた人間の一対」というのは、口先だけの言葉だ。『こころ』とは、[「最も幸福に生れた人間の一対」を、作者が空想できない、その理由を隠す/物語]だと言えよう。
//「黒い長い髪」
  「然し気を付けないと不可ない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が
 得られない代りに危険もないが、─君、黒い長い髪で縛られた時の心持
 を知っていますか」
  私は想像で知っていた。然し事実としては知らなかった。
                               (13)
 何という怪しげな挿話だろう。こんな思わせ振りを言うSは、怪しい。Sの真意が問題なのではない。思わせ振りな物言い、それ自体によって、[Sは、基本的に信頼できない人物である]と推断される。勿論、[このSの発言は、Pによって正確に記録された]という前提での話だ。この前提を崩せば、今度は、Pは、Sを怪しげな人物に仕立てた上で信頼するという喜劇を演じていることになる。[Sも、Pも、怪しい]のではないとすれば、作者が怪しいことになる。
 この発言において、[Sは、実際に、「髪で縛られた」ことがある]という事実が示されているはずはない。だから、ここは比喩だろう。Sは比喩で語り、Pは「想像で知っていた」わけだ。比喩だから、「事実」ではない。「事実としては知らなかった」と記されると、まるで、[Sの方は、「事実として」知っていた]みたいだが、[Sは、事実として知っていた]とは明記されていない。また、語り手Pは、その種の「事実」を、執筆時には体験済みであるかのような口ぶりだが、そんな話もない。体験済みだからといって、別にどうということもあるまい。あるいは、体験済みでないからこそ、Pは、Sの発言を、記録する価値のあるものと勘違いするのだろう。そして、この勘違いを、作者も共有しているはずだ。
 語られるSは、その種のことを「事実」として体験済みか。では、「黒い長い髪」の持ち主とは、誰か。いつ、どこで、どんな人物が、Sの行動を制限したのか。静か、静ママか、「従妹」か。彼らが、Sに自殺以外の何を制限するのか。何も制限しないはずだ。では、Sは、何をPに託つのだろう。あるいは、「黒い長い髪に縛られ」るという事態は、静が「Kと私を何処までも結び付けて離さないようにする」(106)ことを指すのか。不気味だ。
 静に会う前のSには、人並みの希望があったろう。それを制限した「髪」の持ち主がいたか。いるとは思えない。静に会ってから、Kが死ぬまでの間に、静に「縛られた」か。だったら、その「心持」とは、「自分が美くしくなるような心持」(68)だということになりそうだ。
 Sを束縛する者を無理に捜せば、「女から気を引いて見られる」(72)と記されるときの「女」、つまり、静ママに容疑がかかる。だが、静や静ママに「縛られ」るという考えそのものが、曖昧だ。「信念と迷いの途中」(69)にあることが「縛られる」という状態を指すのだとしても、その状態は、Sが勝手に浸っている気分でしかない。Sは、[比喩としてさえ、「縛られた」経験など、ない]と思っていながら、わざわざ、「縛られた」と表現するような、奇妙な言語感覚の持ち主なのか。違うと言いたいところだが、当たっている感じもするから、困る。
 ここで、[Sは、自分の体験を語っている]と断言すべき根拠はない。Sは、「知っていますか」と質問しているだけで、「知っています」と断言しているのではない。「危険もないが、─君」の「─」で、Sはどこかに行っちゃってるね。ピッピー。宇宙人と交信中? この間、Sは、作者を経由し、小野(『虞美人草』)の記憶をロードしているのかもしれない。
//「満足」
  ヨハンネス 一體お前どうしたと云ふんだね。
  ケエテ あたし、どうもしやしませんよ、ほんとに。
  ヨハンネス 僕がもう嫌ひになつたのかえ。
  ケエテ [俯向いて否定するやうに首を振る]
  ヨハンネス [片手でケエテを抱いて]ねえ、お前もう忘れたのかえ、お
 互いの間には何の祕密も無いやうにしようつて、始めつから約束したぢ
 やないか。どんな小さい事でも包まず打ち明けようつて。─[愈々劇し
 く抱く]さあ、何とか云つてくれ。─もう僕が厭になつたのか。
  ケエテ まあ、そんな事、分かつてらつしやるくせに。
  ヨハンネス けれども、お前どう思つてるんだ。
  ケエテ 云はなくつたつて、知つてらつしやるぢやありませんか。
  ヨハンネス 何をさ。僕はまるつきり知らないんだ。想像もつかないん
 だよ。
  ケエテ どうかしてお役に立ちたいと思つてゐるんです。
  ヨハンネス 澤山役に立つてるぢやないか。
  ケエテ いゝえ、いゝえ、さうぢやありません。
  ヨハンネス そりやお前、どうしてさ……
  ケエテ あなたにやどう仕樣もない事ですけれど、あたしぢや御不足な
 んです。
  ヨハンネス いや、僕はお前に、滿足してゐるんだよ。全く滿足してゐる
 んだ。
  ケエテ 今はさう仰しやるけれども。
  ヨハンネス いや、神に誓つて僕はさう確信してゐるんだ。
  ケエテ 今だけはね。
  ヨハンネス どういふわけでお前はさう思ふのだ。
  ケエテ でも分かるんですもの。
  ヨハンネス お前にさう思はせるやうな事を僕がしたとでも云ふのか。
  ケエテ いゝえ、決して。
  ヨハンネス それ御覧な。[一層強く抱く]みんな妄想だよ。そんな悪い
 妄想は追拂がなければいけないよ。さあ、さあ。[情を籠めて接吻する]
  ケエテ ほんとに唯の妄想だといゝんですけれども。
  ヨハンネス 安心しておいで。
  ケエテ そして─あたしもあなたを─どのくらゐ愛してゐるか─
 とても、口には云へませんわ。坊やでもあなたに代へられないと思ふ位ゐ
 ですの。
              (ハウプトマン『寂しき人々』2、成瀬無極訳)
 「奥さんの様子は満足とも不満足とも極めようがなかった」(15)と、Pは記す。静は、「元」(18)のSについて、「あなたの希望なさるような、又私の希望するような頼もしい人だったんですよ」(18)と語るのだから、今のSの態度は、静の「希望」とは違うことが分かる。「希望」とは違っても、「満足」は得られるのか。この疑問は、S夫妻が「幸福な一対として世の中に存在している」(20)という、Pの「自覚」(20)によって、塗り潰される。
 「奥さんは先生をどの位愛していらっしゃるんですか」(17)という、Pの質問を、静は、はぐらかす。「分り切ってると仰ゃるんですか」と、Pが畳み掛ける。この質問を、静が「まあそうよ」(17)と受けると、Pは、「その位先生に忠実なあなたが急に居なくなったら、先生はどうなるんでしょう」(17)と、あさっての方から話を始める。
 「その位」とは、どの「位」か。最高度らしい。静の「愛」の程度について、暗示的にさえ、情報交換は行われていないのに、結論は最高度ということになったらしい。そして、話題は、「愛」の程度問題から「忠実」にすり替わり、さらに、静の不在がSに及ぼす影響へと飛躍する。静が「居なく」なるとは、どういう事態か。静の死か、あるいは、離婚か。どちらにせよ、そのような不吉な話題を、Pは、どこから仕入れて来たのか。また、そのような話題に、静は、どのような思惑から、すんなりと乗っちゃうのか。さらに、この出所不明の話題は、「先生は幸福になるでしょうか」(17)という質問の呼び水となる。
 この展開は、異様だ。普通なら、[Sは、人間不信に陥っていながら、静だけは別格として愛している]というプロローグがある。愛されている静は、当然、「幸福」だろう。だから、[その別格の待遇を、Pも受けて、「幸福」になる]というのが、前編の本題になる。後編では、この「幸福」な集いにおいて、[SとKの不幸な物語]が回想され、[真実を知った静とPは、感涙に咽ぶ]という結末になるはずだ。
 しかし、『こころ』には、真実を知って感涙に咽ぶ人は登場しない。Pは作品の外側で泣いているのかも知れないが、そのPは、感涙に咽ぶ過激な読者の空想が生み出したPに過ぎない。『こころ』は、なぜ、このような不備を残すのか。[Sは、人間不信に陥っていながら、静だけは別格として愛している]という物語がないからだ。Pは、この物語が始まることを期待し続けるが、[まだ/ついに]語られない。
 「奥さんは先生をどの位愛していらっしゃるんですか」(17)という質問は、手品だ。作者は、Pが[「奥さんは先生を」本当に「愛していらっしゃるんですか」]と問うことを、死のごとく恐れた。この質問に対して、並の人が照れて、「分かり切ってる」と答えるというのなら、話の流れとして、分かる。しかし、「その位」が最高度の愛情だとすれば、「分かり切ってる」なんて、最高度が事実だとしても、おかしな返事だ。このおかしな会話の流れによって、作者は、[Sと静の夫婦愛の物語]が存在しないことを隠蔽できると高を括ったらしい。
 存在しない物語を存在するかのように見せかけるために、「二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定」(12)するという、説得力のない話がある。[「ロマンス」は、「幸福」な結婚の前提だ]と言いたいのだろうが、そのように明言できないところが、語り手Pの哀れなところだ。「結婚の奥」というのが、また、お笑いで、言うならば、[「結婚」の前]だろうに、作者は、[「結婚」の物語]の先に「ロマンスを仮定」ではなく、予定していたために、「奥」という言葉になったらしい。あるいは、表面的には「花やか」ではないが、よくよく、目を凝らして探し回ると、「奥」の方に、ぽっと「ロマンス」が発見されるという事態なのだろうか。
 [Sは、静を愛していない。なぜか。静がSを愛していないからだ。いや、静から愛されているという実感を、Sが得られないからだ。Sが静を愛するためには、静に愛されている実感が不可欠だ。しかし、このような要求は不当だから、Sは、この要求を控える。だからといって、静に対する「不満足」が軽減するわけではない。でも、Sは、「淋しい今の私を我慢したい」(14)と思っていた。偉いぞ。子供じゃないんだ。Sには、「我慢」すべき理由があった。それは、「話すことの出来ない理由」(6)でもあった。その「理由」とは、静がSを淋しがらせるから、「その犠牲として」、Sと同じ「この淋しみを味わわなくてはならない」(14)という「理由」だ。そして、この「理由」を隠蔽するために、友人殺しの物語が空想される]
 作者は、こうした文脈を浮上させまいと腐心する。静は、Sを愛しているかのように描かれている。しかし、Pが「真面目」(17)だと強調する質問に対して、女らしい恥じらいを捨ててまで確答を与えてやる「位」に「愛して」いるのではない。[おお、愛してるわ]と大声を上げて連呼するほどではないのは、明らかだ。感謝の気持ちを触れ回るほどの「満足」は、静に与えられていない。「忠実」だなんて、何のことやら。ハチ公みたいに、ご主人様の送り迎えを欠かさないことか? 
 Sへの愛情表現を明示しない静の態度は、静の「不満足」の表出ですらない。明言を避けているのは、作者自身だ。Sが、静に「満足]を与えられないのではない。Sとの生活に「満足」を得ている静を、作者が想像できないのだろう。
//「幸福」
  人の前では、ふたりの顔は、たったいま水いらずでいるときどんな苦痛
 に胸をかきむしられたか、さとらせはしなかった。いかにも落ち着いて幸
 福そうな顔をしていたし、本能の命じるまま自分たちの病苦を隠してい
 た。
  これほどまで落ち着きはらっている姿を見ては、夜ごとふたりが幻覚
 にせめさいなまれているのではないかなどと、だれひとり思うはずもな
 かった。天の祝福をうけた、幸福そのものの夫婦ととるのが当然だった。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』24)、篠田浩一郎訳)
 Sは、静との関係について、「私達は最も幸福に生れた人間の一対であるべき筈です」(10)と語る。「べき筈」というのは、凄いよ。[絶対、「幸福」じゃない]と言ってるようなものだ。一方、静は、「私程先生を幸福にできるものはない」(17)と胸を張って見せる。でも、それって、自分の能力を誇っただけだよね。Sの気持ちは、無視。この種の語るに落ちる発言の数々は、彼らの関係が破綻の一歩手前にありながら、しかも、それぞれがその実態を直視する気力もないほどに疲弊していることを伺わせる。
  「(前略)先生は私を離れれば不幸になるだけです。或は生きていられな
 いかもしれませんよ。そういうと、己惚れになるようですが、私は今先生
 を人間として出来るだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな
 人があっても私程先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいま
 すわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」
  「その信念が先生の心に好く映る筈だと私は思いますが」
  「それは別問題ですわ」
                               (17)
 「私は今先生を人間として出来るだけ幸福にしているんだと信じていますわ」という文は、何を語っているのだろう。何げなく読むと、[静は、今まで、Sを幸福にしようと努力して来て、ついに、Sの幸福は、人間が到達し得る最高の段階に達した]と宣言しているかのような気がする。しかし、そういう意味ではあるまい。
 「今」という単語は、「出来るだけ」、「幸福にしているんだ」、「信じていますわ」のどれに係るのか、私には判断できない。棚上げにする。「信じていますわ」も、棚上げ。そして、[静は、Sを幸福にしている]という筋だけを取り出して眺めていると、「人間として」と、「出来るだけ」が、もやもやとして来る。
 「私は今先生を人間として出来るだけ幸福にしているんだと信じていますわ」という文と、この後に続く文、「どんな人があっても私程先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ」とを、形式的に対照させると、「人間」とは静を指し、「出来る」の主語は静であるかのようだ。もし、そうだとすると、[静は、人間として最高の努力をして、Sを幸福にしている]という、自己満足を表明していることになる。勿論、自己満足は「己惚れ」ではないから、「そういうと、己惚れになるようですが」という文は、謙遜として有効だ。しかし、そうなると、次の話題、「私程先生を幸福にできるものはない」という話題、つまり、[Sは、現在、Sが到達し得る最高度の「幸福」の状態にある]という話題は、唐突に出現したことになる。[静が、静以外の誰よりも、Sを幸福にするための努力をする]としても、そのことは、[静が、静以外の誰よりも、Sを幸福にすることに成功した]ということと等しくはない。だから、静が「落ち付いていられる」としても、その心理状態は、自己満足に基づいて、何かを「思い込んで」いるだけのことで、つまり、「己惚れ」だということになる。
 ここでは、二つの文が絡み合っているようだ。[静は、今以上に、努力できない]ということと、[Sは、今以上に、「幸福」には成れない]ということが、混乱したまま、表出されている。そのため、静は、Sへの思いの大きさをPに認識させようとすればするほど、[静がいくら努力しても、Sはさほど「幸福」にはなれない]という認識を表明しなければならなくなる。にもかかわらず、静が「落ち付いていられる」のは、おかしな話だ。Sが最高に「幸福」であったとしても、その「幸福」の絶対値は、希死念慮の水準を越えられないらしいからだ。しかし、Sの苦しみを静が作っているわけではないから、静に責任はなく、だから、「落ち付いていられる」らしい。静は精一杯努力したのだから、Sが「幸福」を実感できずに自殺してしまったとしても、その原因はSにのみあって、静にはないはずだから、静は「落ち付いていられる」という。ここ、笑うとこだよね? 
 静は、[静の努力の物語]を[Sの「幸福」の物語]にすり替えるために、同義反復に見せかけた文を並べ、二つの物語の間に横たわる溝を飛び越える。だから、「落ち付いていられる」わけだが、この溝を、慌てて飛び越えるのではなく、「落ち付いて」渡ろうとしたら、渡れるのだろうか。
 静は、何についてであれ、責めを負うべき人物としては、設定されていない。静の「己惚れ」話は、まるで、PかSが静を弁護するために捏造した屁理屈のようだ。あるいは、作者が静を弁護するための作り話だろう。[夜話]では、静の弁護を、静自身がさせられている。静は、誰にも咎められていないのに、咎めるとしたら、作者が咎めるのだろうに、その作者が、Sに静を弁護させるだけでは不足だと感じたか、静をS側の証人として喚問するらしい。静は、被告であると同時に、被告の静を弁護するSのために証言台に立つ。かなり忙しい。
 さて、静の「信念」を聞かされたPは、その「信念」がSに「好く映る」はずだと考える。その考えは、常識的で、妥当なものであるはずだ。少なくとも、[静が努力すれば、Sは「幸福」になる]という「信念」よりは、はるかに妥当な考えだと言える。静の努力が、Sにとって煩わしいものでしかなかったとしても、静に対する好感度は増すはずだ。その状態が、絶対評価としては、「嫌われてるとは思いません」(17)という程度だとしても、好感度がアップすることに間違いはないと思われる。つまり、「好く映る」はずだ。静が、もし、そう考えないとすれば、静は、静の「信念」に基づく物語において、[Sは、静の努力によって、「幸福」になれたのに、静に対する、Sの好感度は上昇しない]ということを、静が認めたことになる。Sは、好感を持てない静によって、「幸福」にしてもらいながら、好感度がアップしないのか。そんなはずはない。「幸福」の押し売りが迷惑なのだろうか。しかし、そうだと言い切ってしまえば、Sは「幸福」ではなさそうで、静の「信念」が跡形もなく、吹き飛ぶ。「己惚れ」さえ、不能。
 静の尺度では、Sの「幸福」度が0%で、自殺してしまっても、不幸とは言わないのかもしれない。[不幸]という概念はないのかもしれない。「幸福」でも不幸でもない、普通の状態を「幸福」度50%として、それ以下であっても、例えば、「幸福」度が、10%から20%にでもアップすれば、[静は、Sを「幸福」にする]と、記述できるのだろう。しかし、ここで、もし、「嫌われてるとは思いません」という語法を、「幸福」についても用いるとすれば、[静は、Sを、「幸福にしている」]と言うよりは、[静の努力は、Sを不幸にしてはいない]と言うべきところだ。
 要するに、静が「己惚れ」て現実逃避しているのか、作者が無自覚なのか、どちらかだ。静に、「落ち付いていられる」と語らせるとき、作者は、[静の努力の限界の物語]と[Sの「幸福」の限界の物語]が[Sと静の交歓の物語]に合成できたと錯覚し、「落ち付い」たのではないか。Sを死なせてしまう静に、「落ち付いて」いられては、作者は困るはずだし、また、実際に、[夜話]では、静は語れば語るほど、「これでも私は先生のために出来るだけの事はしている積りなんです」(18)というふうに、落ち込んで行く。
 作者は、Sが静によって愛されている様子を記したつもりらしいが、却って、女性不信を表出している。落語の『だくだく』じゃないんだから、「積り」の話を、いくら、読まされたって、事態は、明瞭になるどころか、却って複雑になる。
 落ち込んで危なくなった静は、Sの帰宅(20)によって救われる。このときの静の変化に対して、Pは「徒らな女性の遊戯」(20)という疑いを抱くかのようだが、しかし、その疑いは、どのような解決にも至らない。なぜか。そもそも、解決されなければならないような疑いはないからだ。Pは、静を、「それ程批評的に見る気は起らなかった」(20)からだ。疑いは、Pの聞き手Xのもので、そして、[疑いは、「批評的」なもので、好ましくないから、否定すべきだ]と示唆されているらしい。
 [夜話]では、特筆すべき何事も起きない。「徒らな」作者の「遊戯」だ。Xが抱くであろうところの、さまざまな疑いが、作者によって、退けられる場面。読者の疑いの芽を摘むために、物語が、わざと停滞させられる。[夜話]は、出来事が語られる場面ではない。ここで、作者には、やっておきたいことが、二つあった。一つは、[Pと静の「恋愛」の物語]は発動しないという確認だ。もう一つは、[静の努力の限界の物語]と[Sの「幸福」の限界の物語]を重ねて[Sと静の交歓の物語]として描く際に生じる捩れや破れのようなものを、静が体を張って隠すことだ。
 静の台詞は、Sの台詞を静モードに替えたもののようだ。
 [妻は、私を離れれば不幸になるだけです。あるいは、生きていられないかもしれませんよ。そう言うと自惚れのようですが、私は、今、妻を、人間として、できるだけ幸福にしていると信じています。どんな人でも、私ほど妻を幸福にできるものはないとまで思い込んでいます。だから、こうして落ち着いていられるんです]
 あるいは、[Sが、静に言われてみたい]と思っていると、静が思っている言葉を、静が自分の物語として語っているのかもしれない。
 [私は、Sを離れれば不幸になるだけです。あるいは、生きていられないかもしれませんよ。そう言うと、Sは自惚れるかもしれませんが、Sは、今、私を、人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人でも、Sほど私を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。だから、こうして落ち着いていられるんです]
 あるいは、この二つの作文を合成して、原文ができたようでもある。静は、彼女一人で、雌雄同体の生物のように夫婦生活を営んでいるのかもしれない。文字通り、「己惚れ」だね。雌雄同体だから、男でも女でもなくて、「人間」という、座りの悪い言葉が用いられることになる。
//「想像的な悲哀」
  「もしぼくに死なれたら、クレアラ!」
  「でもウィロビーさま、あなたはお丈夫ですもの」
  「あすにも玉の緒をたたれるかもしれない」
  「そんなおっしゃりようはやめて下さい」
  「でもそういう場合を考えてみるのもいいことだよ」
  「それが何の役に立つのやら私にはわかりませんわ」
  「万一にもぼくに死なれたら!」
  「何をおっしゃるのです!」
  「ああ、あなたを残して死ぬ苦しさ!」
  「ウィロビーさま、あなたは悲しみに打ちひしがれていらっしゃる。お母
 さまは回復されるかもしれません。回復なさると期待しましょう。ご看護
 のお手伝いはいたします。さあ、これでお申し出はいたしました。お待ち
 しております。ぜひと願っております。これでも看護は上手なつもりです
 わ」
              (メレディス『エゴイスト』6、朱牟田夏雄訳)
 静の「厭がる事」(35)を言って甘えるSに、静は、「あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」(35)と、突っぱねる。駄々っ子を宥める母親の台詞だ。静のこの言葉は、冗談ではあっても、嘘ではない。こういう甘え方をされたら、頻度にもよるが、大抵の人間は参ってしまう。だから、静の対応を、特に冷たいものとは言えない。しかし、その前提にある、[静より、先に、Sは死ぬ]という話題を回避するようでは、「私は今先生を人間として出来るだけ幸福にしている」(17)などと、胸を張って見せたのが、嘘に見える。
 静は、「先生の死に対する想像的な悲哀」(34)に耐えられない。耐えられる人はいないと、Pも、Sも、作者も、思っているのだろう。静の忍耐の不足は、Sへの愛情の深さを意味すると読まねばならないのだろうか。あるいは、精神的依存度の高さを意味するのか。単なる臆病を意味するのではなかろうか。
 Sは、遺産の話(35)を続け、静を困らせる。Sは、静に、[私より先に死んじゃ、いやよ]か何か言って、縋られたがっているようなのだが、そういう話にはならない。
  「ぼくが死んでも、生きていたときにかわらずぼくへの忠誠を守ると! 
 小さな声でいいからいって下さい」
  「私は祭壇での誓いは守るつもりです」
  「ぼくへの忠誠を! このぼくへの!」
              (メレディス『エゴイスト』6、朱牟田夏雄訳)
 Sの死について、静は、[最後の晩餐](32-35)の場で、「笑談」(34)にし、Sの「遺書」では、一旦は、「笑って取り合」(109)わないが、「殉死でもしたら可かろうと調戯」(109)う。Sは、静に、いたぶられている。勿論、Sが静を困らせているのだから、静がSの死の話を下手な口説き文句のように聞き流していいと決めるのも無理からぬ話だ。しかし、静は、その程度の平凡な女性として設定されているのではないはずだ。
//「欠点」
  「私は辛抱し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪いところがある
 なら遠慮なく云って下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると
 先生は、御前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだと
 云うんです。そう云われると、私悲しくなって仕様がないんです。涙が出
 て猶の事自分の悪いところが聞きたくなるんです」
                               (18)
 こういう迫り方をされれば、誰だって、辟易するよ。ほとんど、脅迫なんだからね。静は、自分の「悪いところ」だけ、教えろと言うわけだ。「改められる欠点なら改める」が、[改められない「欠点」は、大目に見ろ]と仄めかすわけだ。そのくせ、「御前に欠点なんかありゃしない」と、大目に見られると、今度は、相手の言葉を真に受けない。静の「悪いところ」は、そういうところだ。自分達の不幸について、自分には「責任」がないと、誰かに信じさせてもらいたがっている。こんな理不尽な欲求は、「責任」の一端が自分にあることを自覚しようとしさえすればできる人物の持つ、欺瞞的な欲求だ。静の言動は、どれをとっても、責任回避に見える。作者が、静に免責特権を与えたことが、裏目に出た。
 作者には、静を問責したい気分がないわけではなく、実は、その気分は濃厚にあるのだが、敢えて、その気分を隠して書いている。
  「先生は何と仰しゃるんですか」
  「何にも云う事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質に
 なったんだからと云うだけで、取り合ってくれないんです」
  私は黙っていた。奥さんも言葉を途切らした。下女部屋にいる下女はこ
 とりとも音をさせなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
  「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが
 聞いた。
  「いいえ」と私が答えた。
                               (18)
 語られるPは、Sの気持ちになろうとする。静も、PにSの生き霊が乗り移るのを待って、黙る。「下女」は、眠ったか。あるいは、聞き耳を立てているのか。「泥棒の事を忘れ」たというのは、[Pは、静を「泥棒」しない]という、作者の思い入れか。
 静は、自分の前に、もう一人のSがいるかのように、「あなたは私に責任が」と問いかける。だから、その問いは、Pにとって、「突然」に発されたと感じられる。静の問いは、Pと静の会話の文脈に沿ったものではない。「何にも云う事はない」と語っていたSとの会話の流れを、静は、ここに延長してしまった。その前から、「先生は何と」という、Pの問いに応じ、半ば、Sに取り憑かれたようになっていて、「何にも云う事はない」というふうに、会話を再現していたところだ。静が一人二役を演じているとき、S役をPが引き取り、「いいえ」と答えてしまうことになる。静が呼び寄せた暗黙の文脈に、Pが取り込まれる。このとき、答えた「私」は、完全には、語られるPではない。作者だろう。あるいは、プレ=語り手Sと語り手Pが一緒くたになって、語られるPに取り憑いたか。
//「女というもの」
 作者は、自分の持っている、否定的な女性像を解体して、裏返し、Sが「世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間」(107)をリフォームしたつもりでいる。アイドル・コラージュ。Sも、先行作品の中のS系の人物から、性格的な欠点を、スパイス程度には残しながら、ばっさりと除去してリフォームされた人物らしい。フランケンシュタインの怪物の花嫁。だから、細部を点検すれば、「悪いところ」(18)ばかり、発見される。しかし、静は、作者の思い入れでは、やはり、最高の女性として、読者の前に、恥ずかしくない出来として陳列されている。読者は、SやPの静に対する[痘痕も靨]的思い入れを引き受けなければならない。厚塗りの女形を本物の女として眺める観客の気分。
 静は、孤独な主人公への、作者からのプレゼントだ。
  「なんとしたこと、おれをおもちゃにするのはやめてもらおう、答えを要
 求しているのだぞ。絆も愛情も持てなけりゃ、憎悪と悪徳がおれのとり
 分、愛してくれる者がいれば、罪の理由はなくなって、自分は誰にも存在
 を知られないものになるんだ。嫌でたまらぬ孤独を無理強いされるから
 おれの悪徳は生まれたのだ。同等の者と一緒に暮らすことができれば、
 きっと美徳が育つだろう。感じやすい生き物らしい情愛をもって、今は閉
 めだされているが、存在と事件の鎖につらなることができるのだ」
         (メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』森下弓子訳)
  ピュグマリオンは、供物をささげおわると、祭壇のまえに立って、はに
 かみながら、『もしあなたがた神々がどんなことでもかなえてくださるこ
 とができるならば、どうぞあの象牙の乙女に似た女を(さすがに、あの象
 牙の乙女を、とはいえなかった)妻としてあたえてください』と祈った。
         (オウィディウス『転身物語』10、田中秀央+前田敬作訳)
  そして、神の手でつくられたこの女性は、当然自分と完全に調和すべき
 だ。それは、彼という個体の深遠な中心から、それを中心にして円形に投
 射されている彼のさまざまな変型までを含んで、彼のすべての相との調
 和でなければならない。中心がわかれば円もわかり、さまざまな変型がと
 りもなおさず彼のもろもろの特徴であることにも気づく。また円の周囲
 から中心に達するには、放射の線を逆にたどってゆけばよい。そう考える
 からサー・ウィロビーは時に応じてクレアラを、中心にむかう線のあれに
 乗せたりこれに乗せたりする。いや、クレアラだけではない。われわれを
 も彼は時に深いところに引きずりこむ。
              (メレディス『エゴイスト』11、朱牟田夏雄訳)
 静を尊敬すべき女性として受け取ると、『こころ』は、辻褄が合わなくなる。Sは、静のような、立派な女性に守られているのに、死んでしまうのだから。勿論、作者に言いわけさせれば、[静にも救えないほど、Sの苦悩は深いものだ]ということにでもなるのだろう。だが、こんなことは、トリックとも言えない、子供騙しだ。[右手に握ったコインを左手に瞬間移動させ、すぐに右手に戻した]と言い張るようなもの。手品師が左手を開いて見せられないように、作者も、[静に「懴悔」(106)するSの姿]を見せられない。
 [静がSを救えないのは、静がKの自殺に関係しているからだ]と、どうしても、理解しなければならないらしい。実際は、静にも救えない苦悩を作り出すために、作者がKの自殺を設定したはずだ。
 この種の問題は、いくらでもある。作者が忘れっぽいのだと言えば、話は簡単だが、同程度に読者も健忘症に罹らなければ、頭がくらくらする。例えば、Pは、夫婦の「言逆い」(9)らしいものを「たった一つ」(同)しか知らないと記すので、[最後の晩餐]で、Sが「奥さんの厭がる事」(35)を言うような事態は、「言逆い」の勘定に入れないものと考えなければならない。Sの「父から信用されたり、褒められたりしていた叔父を、私はどうして疑がう事が出来るでしょう」(58)と書きながら、Sは、その「叔父」の「態度」(61)のことでは、「死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗って、急に世の中が判然見えるようにしてくれたのではないかと疑いました」(61)と書く。Sの「父母」は、Sの「眼を洗って」やる前に、霊界で自分達の「眼」を洗ったらしいが、そうした話はない。読者は、[亡霊になると、生前は見えなかったものが見えるようになる]とでも作文しなければならないのだろうか。[P文書]で、Sは、Kの墓参りに「自分の妻さえまだ伴れて行った事がない」(6)と語るが、「遺書」では、「妻はKの墓を撫でて」(105)いる。この間に、作者に心境の変化が起きたらしいが、編集者は教えてやらなかったのか。案外、冷たいのね。
  私と妻とは決して不幸ではありません。幸福でした。然し私の有ってい
 る一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたら
 しいのです。それを思うと、私は妻に対して非常に気の毒な気がします。
                               (108)
 [「不幸」ではないから、「幸福」だ]なんて屁理屈に騙されるのは、朝三暮四に引っ掛かった猿ぐらいだろう。夫にとって「容易ならんこの一点」が妻に「暗黒に見え」るのは、当然だ。死ぬほどのこともない「一点」が「暗黒」に見えたのなら、静は「気の毒」だろうが、その「一点」だけが理由でSは死ぬのだから、「暗黒」に見えない方がどうかしている。「常に暗黒」を見せたり見せられたりしている夫婦が「幸福」であるという話を、どうして理解できよう。そして、Sの死によって、「暗黒」は、「一点」どころか、静の将来まで覆うのだから、「気の毒」といった程度の挨拶では済むまい。
 [Sの物語]では「容易ならんこの一点」が、[静の物語]では「暗黒」で、そして、[Sと静の物語]は概ね「幸福」でありましたとさ。[どうせ、嘘をつくのなら、もっと、うまくつけ]と言いたいところだが、少し違う。[複数の物語は、相互に作用し合わない]と、作者は決めたらしい。そして、これは、多分、『こころ』のルールだろう。
 語り手Sにとって、あるいは、作者にとって、Sの死は、最終的には、「一点」でしかなくなっているのだろう。Sは、全体性としては、死なないからだ。死ぬのは、「倫理的に暗い」(56)Sだ。そして、「倫理的に」明るいSというようなものがどこかにいて、そのSは延命する。このSは[「鷹揚」なSの物語]に属するが、その物語は『こころ』の「本筋」(57)ではない。「遺書」と、「遺書」によって補完される[Pの物語]とは別に、「長い自叙伝」(110)があって、そこに、読者には知り得ない[Sの物語]が埋蔵されている。
 Sは、「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない」(10)と告白しているのだから、「最も信愛している」(107)相手が、[最も憎んでいる女]だったとしても、矛盾はない。
  目に見るのはクレアラばかり、憎むのも愛するのも、このたえがたい女
 性以外にはない。彼の脳中の論理は、この女以外に自分にかくまでの苦悩
 をなめさせたものはないという事情を基に、この女をもっとも特異な人
 物と断定した。
               (メレディス『エゴイスト』23、牟田夏雄訳)
 作者の事情を裏返せば、[「おれ」は、マドンナに恋うていた。甲野は、藤尾に恋うていた。冷静な好意の限度を超えて、憎いほど、恋うていた]という空想も無意味ではない。そして、静と藤尾の中間地点で、美禰子が不気味な微笑を湛えて、絵になる。
//「奥さん」
 静は、男達を恐れさせないためか、自分の物語を語らない。「後姿」(72)で何かを表現するらしく見えることはあっても、「後姿だけで人間の心が読める筈はありません」(72)と一蹴されるのだし、「御嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然した時、私はなるべく緩くらな方が可いだろうと答え」(72)た、そのSの声を聞いているはずの静の反応に至っては、「後姿」としてさえ、記されない。一方、「下らない事に能く笑いたがる」(80)のが理由で疎まれることはないと高を括れば、女は笑いを武器にしてもみることだろうし、また、それを咎められれば、「相手に気兼なく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しい」(88)お姫様役に逃げ込むこともできる。
 静は、[S(静/S,K,静母子)P]では「御嬢さん」で、[S(静ママ(静/S,静母子)S)P]では「あの子」(99)で、[S(静/S,静)P]や[P(S(静/S,静)P)X]では「妻」で、括弧の中の[P(S(静/S,静)静)X]では「静」(9)で、[P(静/S,静)X]では「奥さん」だ。呼び名が違えば、物語が違う。
 静ママも、「未亡人」(64)から、「奥さん」(66)に変わり、「妻の母」(107)や「母」(108)となるが、そのたびに性格が変わったように見える。「未亡人」は、[武人の寡婦は、気丈に、一人娘を育て上げる]という物語に属するようだ。「妻の母」は、Sについて「時々気拙いことを妻に云う」(107)平凡な姑だ。そして、Sに「母」(108)と呼ばれるとき、死んでいる。[良い姑は、死んだ姑]だからか。
 Sの「叔父」については、[叔父は、主家の乗っ取りを企む]という[世界]があり、Pの「兄」については、[兄は、弟に比べて実利的だ]と、『坊ちゃん』以来、決まっているらしい。Kの「姉」(76)については、[姉は、弟に優しい]という[世界]があるようだ。Sは、[賢者は、隠者だ]ということで、三顧の礼(4)を尽くされる。その後は、「行くたびに先生は在宅であった」(6)という。普通に考えれば、こんな文の必要はない。SとKの鞘当ても、[騎士達は、淑女に愛を捧げる権利を奪い合う]という[世界]があるとすれば、分かったような気がする。
 『こころ』は、多数の[世界]が複雑に絡み合って進行する。[世界]は、一つの文の中でさえ、切り替わる。いくつもの切り替えの痕跡を、静が「純白」(110)の修正液で塗り潰す。
//「嬉し涙」
  しばらくすると、この芝居がほんとうのことだと思いこんでしまい、ラ
 カン夫人のゆるしがかなったような気になり、お慈悲をうけて自分がど
 れほど幸福に思っているか、そのことばかりしゃべりたてた。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』29、篠田浩一郎訳)
 [静は、Sの「懴悔」(106)を聞けば、「嬉し涙をこぼし」(106)たろう]と、なぜ、Sは思うのか。[Sは、静を「専有したいという強烈な一念」(86)に動かされ、「親友」(78)を辱めた]という事実を知ると、静は、その話を、「自分だけに集注される親切」(108)の証拠として「嬉しがる」(108)と、Sは信じていると、読者は理解しなければならないのだろうか。
 ところで、 「自分だけに集注される」(108)という事態は、「専有」(86)されるということを意味しない。「集注」と「専有」は、全く別のことだ。一人の人間は、何人もの他人を「専有」することができるし、一人の人間は何人もの他人から「集注」されることができる。だから、[Sは、静を「専有」したいと思った]という事実を知ったからと言って、静が単純に喜ぶのだとしたら、静は被虐趣味に見える。
 [女は、男に「専有」されたがる]という、奇妙な物語が前提になっているのか。あるいは、この物語は、[女は、男(達)が自分を「専有」したがる様子を眺めて「嬉し涙」を流す]という、皮肉な物語の見せ消ちとしてあるのか。
 Sは、静母子が、Sに、静を「専有」したがるようにしむけているという想像に苦しむ。この想像は、『彼岸過迄』の須永が抱いていたものと同質だ。
  「あなたの一番悪いところも私に見せて下さるというのは、私に対して
 正当なご処置でしょうか?」
  「ぼくの全部を見せてわるいだろうか?」
  男が機嫌をとるように頭をうなだれ、打ちとけたような微笑を浮かべ
 ているのを見ると、彼女の側のありあまる愛情をめでたくも頭から信じ
 きっているようで、そうなるとこの「ぼくの全部を」という言葉も彼女に
 はひどく情をこめた意味深長なものになって来て、この男がどういう人
 間であれ、内容など深く吟味せずに、ただこの男を自分があがめ持ち上げ
 ることのみが期待されているのだと、彼女にもやっとわかって来た。
              (メレディス『エゴイスト』11、朱牟田夏雄訳)
//「懴悔」
 Sは、「もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻の前に懴悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いない」(106)が、「妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかった」(106)と記す。ところで、静が、Sの「懴悔」に対する免罪の権利を与えられていたとしても、同時に、Sの「懴悔」を不可能にするのなら、その権利は無効だ。この無効の権利を与えられた静は、その権利の無効性を隠蔽するために、作者によって、どこまでも地位を高められることになる。
 ところで、なぜ、静は、Sを免罪できるのか。静は、Sの被害者か。あるいは、SとKの超越者か。答えは、なさそうだ。
//「凡てを打ち明ける」
 Sが静に「凡てを打ち明ける事の出来ない」(109)理由は、打ち明けても無駄だからだろう。よしんば、静に理解できたところで、静には死ぬ理由はないから、静を「一所に連れて行く」(109)というのは、無理心中を指すことになる。Sは、自殺の前に、静を殺害する。この行為は、「痛ましい極端」(109)を越えて、犯罪と呼ぶべきだ。そうした流れを、作者は想像しないらしい。
//「満足」
  母の亡くなった後、私は出来るだけ妻を親切に取り扱かって遣りまし
 た。ただ当人を愛していたからばかりではありません。私の親切には箇人
 を離れてもっと広い背景があったようです。丁度妻の母の看護をしたと
 同じ意味で、私の心は動いたらしいのです。妻は満足らしく見えました。
 けれどもその満足のうちには、私を理解し得ないために起こるぼんやり
 した稀薄な点が何処かに含まれているようでした。然し妻が私を理解し
 得たにしたところで、この物足りなさは増すとも減る気遣いはなかった
 のです。女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれ
 ても自分だけに集注する親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思
 われますから。
                               (108)
 [「満足」の中に、「物足りなさ」が含まれる]というのは、おかしい。[全体としては「物足りな」いが、部分的には「満足」な部分がある]というのね。だったら、この世に、「満足」してない人なんか、一人もいないよ。
 語り手Sは、[妻は、概ね、「満足」している]という物語を手放せないので、こういう無意味な言い回しをする。Sと静は、共謀したわけでもなかろうに、[夫婦愛の物語]について、それぞれ、同種の欺瞞を語っている。静の台詞は、女装したSのもののようだ。
//「ぴたりと一つに」
 静が死なないことによって、作品の外側で、誰かが孤立を免れる。その人物は、Pのようだが、違う。作者自身だ。『こころ』における孤立感は、[複数の物語は、上位の物語に統合されたり、互いに融合して、より大きな物語を形成する]ということのない状態の隠喩だから、この隠喩を実現しないために、静は生き延びて、作者の孤立感を癒す。
 Sが、静に、「欠点なんかありゃしない」(18)と言ったという、静の証言が真実であるなら、作者にとっては、静は完全無欠の女性なのだろう。だから、静がSを「幸福にしている」(17)のに、S夫妻が「幸福に生れた人間の一対であるべき」(10)だとしかSが感じないのは、自分が「幸福」であることに気づくことができないという、Sの驚くべき「欠点」(18)でしかないことになる。まるで、自分が幸福であることを知らない子供のように。
 静は、Sに対する自分の「信念」(17)と、Sの精神状態とは、「別問題」(17)だと言い切る。静はSを守るために、嘘をついているのか。いや、[静は、完全無欠だ]という文が、[静の語る/静の物語]から[Sの語る/静の物語]へと、移植されたのだろう。
  妻はある時、男の心と女の心はどうしてもぴたりと一つになれないも
 のだろうかと云いました。私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧な返
 事をして置きました。妻は自分の過去を振り返って眺めているようでし
 たが、やがて微かな溜息を洩らしました。
                               (108)
 Sの「曖昧な返事」は、静にとってだけでなく、読者にとっても曖昧なものだ。まずは、[男と女の心は、一つになるべきだ]という思想が、一般論としてか、この夫婦間の特殊な[世界]としてか、あるいは、この夫婦間で信じられている一般論としてか、とにかく、了解されているという前提を、読者は認めなければならないのだろうか。そして、同時に、静には、「ぴたりと一つになれ」ていたのかもしれない「若い時」を思い出せないらしいということも推測しなければならないらしい。さて、もし、思い出せるとして、つまり、「ぴたりと一つになれ」ていたという事実があったとして、どのような事情で、そうした状態が失われ、しかも、思い出せないほど遠い記憶になっているのか、そのことについても、読者は想像しなければならないのか。
 [Sと静の心は、「ぴたりと一つに」なったことがあるか]という問いは、不毛なのだろう。[「ぴたりと一つに」なる可能性はあったのだが、ある理由によって、失われた]と読まねばならないのだろう。こんな回り道を、なぜ、作者は、読者に強いるのか。作者は、[可能性でしかなかった「恋愛」の物語]と[「恋愛」の可能性が信じられていた青春の物語]とを混同しているのではないか。[Sと静が「ぴたりと一つに」なる可能性は、失われたのであって、もともと、なかったわけではない]という暗示によって、読者は、何をどう思えばいいのか。
 「ぴたりと一つに」なるという現象がSと静の間で起きたとすると、その時期は、いつか。Kの死後であるはずはない。Sが「最後の決断」(98)をするまで、Sは、静の自分に対する気持ちを計り兼ねていた。すると、[婚約成立](100)からKの自殺までの数日間に、「ぴたりと一つに」なるという現象が生じたのか。あるいは、K登場以前に、Sと静は自覚しないまま、「ぴたりと一つに」なるという体験をしていたのに、Sは、その事実を、静に、「曖昧」にしか示してやらず、そして、仄めかされても、静には思い出せないのか。
 「御嬢さんの(中略)気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました」(68)という体験は、Sのものだ。静の「気分」がSに乗り移ったわけではなかろう。いや、あるいは、Sは、Sが静に乗り移られたように思いさえすれば、静の方でも、[自ら、Sに乗り移った]と感じていると見做すのか。そう見做されると、静も、また、そのような体験をしたのかもしれないと思って、そのときのことを思い出し、生温かい「溜息」を漏らすのか。
 静は、「どうしても」と問うのだから、相手が誰であれ、静には「ぴたりと一つに」なった体験がないのだろう。すると、[静の物語]の中に[Sと静の「恋愛」の物語]は含まれないことになるはずだ。あるいは、「ぴたりと一つに」なることと、「恋愛」との間に、一義的な関係はないのかもしれない。また、[「ぴたりと一つに」なれなくても、「恋愛」は成り立つ]と、読者は考えるべきなのか。
 どのように考えようと、どのように言葉を弄ぼうと、静が男女関係において不満を抱いていることは、確かだから、[静は、「幸福」だ]と断言することはできない。
 [静は、「幸福」ではない。Sは、「幸福」ではない。しかし、Sと静は、「幸福」(108)だ]という文を、読者は受け入れなければならないのか。あたかも、Sと静が相手とは無関係の病気で苦しんでいるかのように。
 Sと静は、それぞれ、自分の物語の内部に、[Sの語る/Sと静の物語]と[静の語る/Sと静の物語]を秘めていて、そして、その二つの物語において、[夫婦は、それぞれ、「幸福」だった]と、Sは主張しているらしい。
 [Sと静の「恋愛」の物語]は、Sの空想であり、静の空想であり、また、Pの空想であり、ついに、読者の空想でしかない。空想が何層になろうと、事実にはならない。[Sと静の「恋愛」の物語]は、Kがいなけれ可能性だけで終わったはずであり、Kがいたからこそ「猛烈」(88)になり、PとSによって、事実だったかのように錯覚されている物語に過ぎない。しかし、静だけは、その経緯を知らないので、錯覚できない。あるいは、錯覚する静を、作者が想像できなくて、作者が苦しんでいて、その苦しみが、静に投影されている。しかし、錯覚もせずに「恋愛」をした静の物語を、作者は、読者に信じさせようとする。静の「溜息」は、「恋愛」未経験の表出だろう。
 「ぴたりと一つに」なる可能性が、ある時点で失われたのだとすれば、その決定的瞬間は、作者がSに「人間の罪というものを深く感じた」(108)と書かせたときだろう。その経緯について、静は、「女」(108)だから、罪の贖いとしての「大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強い」(108)ので、自力で思い当たるはずがない。そういう話だろうか。
 語り手Sは、静を責めていない。あるいは、責めないことを誇りにしている。そして、そのことを、作者も誇りにしている。
 静は、「男の心と女の心」と言っている。[私とあなた]とは言っていない。静が「男の心と女の心」という言葉で何を想像しているのか、誰にも分かるまい。静は、独りよがりでさえない。静は、一個の人格ではない。だから、「男の心」と「ぴたりと一つに」なることを望むのだろう。半分だけの人物。ベターか、ベストか、知らないが、とにかく、ハーフ。


[前頁へ] [『いろはきいろ』の目次に戻る] [次頁へ]


© 2002 Taro Shimura. All rights reserved.
このページに記載されている内容の無断転載を禁じます。