『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#072[世界]32先生とA(22)「秘密」

//「疑惑」
  然し人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょ
 うか。私はそれが知りたくって堪まらないんです。
                               (19)
 「遺書」によれば、静は、「Kさんが生きていたら、貴方もそんなにはならなかったでしょう」(107)と、Sに言ったらしいが、そう思うのなら、この質問は不要だろう。この質問は[夜話]の後のものか。あるいは、鎌を掛けただけか。
 [夜話]で、静は、何を知りたがっているのだろう。「それが知りたくって堪まらない」の「それ」が指すのは、[「変化できるものでしょうか」という問題の解答]だろうが、そんなものを、静は、なぜ、「知りたくって堪まらない」のだろう。Pは、「私の判断は寧ろ否定の方に傾いていた」(19)と、記す。「否定の方」とは、[「変化できるもの」ではない]という意味だろう。私は、[親友が「変死」(19)すれば、性格的に大きな変化が生じることは、大いにあり得る]と思うので、私の「判断」は、肯定の方に傾く。ただし、静は、「そんなに変化」と言っているのだから、「そんなに」の程度が、「変化」以前のSを知らないPに分かるはずはないから、返答はできまい。だから、こんな問いを発した静が、おかしい。
 「変化できるものでしょうか」という質問は、その解答の一つである、「変化できる」という文を含んでいるのだろうか。そして、この質問は、実は、その先にあるはずの[どのようにして、なぜ、変化できるのか]といった質問を含んでいるのだろうか。その質問には、[肯定/否定]では答えられない。
  けれども私はもともと事の大根を攫んでいなかった。奥さんの不安も
 実は其所に漂よう薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。事件の真相にな
 ると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。知れているところでも
 すっかりは私に話す事が出来なかった。従って慰さめる私も、慰さめられ
 る奥さんも、共に波に浮いて、ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さ
 んは何処までも手を出して、覚束ない私の判断に縋り付こうとした。
                               (20)
 Pの語る「疑惑」とは、何か。いつ、どこで、誰に、「疑惑」など、生じたのか。静の疑問ならば、出された。しかし、その疑問は、意図不明だ。このような疑問の解答を欲しがる人物など、いるはずはない。いるとしたら、作者と読者だけだ。「漂よう薄い雲に似た疑惑」という表現は、[薄いような、濃い疑問]というようなものだ。「事件の真相」などと記すのは、「遺書」読了後のPの特権だろうが、「遺書」に「事件」は描かれているとしても、「事件の真相」など、どこかに記されているのだろうか。また、「事件の真相」について、静には「知れているところ」があると、語り手Pは記すが、Pはどのようにして、そのことを知ったのだろう。また、[静の持っている情報は、「遺書」に漏られた情報の肝心な部分を含まない]と、どうして、Pに思えるのだろう。
 『薮の中』形式を応用すれば、「遺書」の後に、[静の懴悔]があって、「Kの亡霊の告白]と続かなければならない。しかも、そうやっても、「事件の真相」が明らかになるという保証はない。
 もし、「妻の前に懴悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違ない」(106)というSの空想が、もし、現実になっていたとしても、静は、こう尋ねるのかもしれないではないか。
 [「然し、人間は、親友を一人」殺した「だけで」「そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくって堪まらないんです」]
  この頃ロッテの心持がどんなふうであったか、自分の夫、自分の不幸な
 友人にたいしてどんなふうに考えていたかについて、われわれはあえて
 言葉でこれを現わす勇気を持たない。むろんわれわれの知っているロッ
 テの人柄から推して穏やかにこれを察することはできるし、やさしい魂
 を持つ女性ならばロッテの身になって、ロッテと一緒に感じてみること
 はできる。
             (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳)
//「秘密」
  あらいたはしや石童丸は、卒塔婆を持ちて下り、母上様に拝ませ申さん
 と、やがてかたげて御下りある。父道心はきこしめし、さても賢きあの子
 にて、卒塔婆をふもとの宿に下すならば、御台所が見るよりも、これは道
 心とはなくて、逆修の卒塔婆とあるならば、今まで包みしことが無になる
 とおぼしめし、「なう、いかに幼いよ。その卒塔婆を、ふもとの宿へ下すな
 れば、無間の業へ引き落すが如くなり。この世に立てたる卒塔婆は、同じ
 台座に直つたるが如くなり。まつこと卒塔婆が欲しくは、それをばそこに
 立て置け。書きて取らせん幼いよ」とて、蓮華坊へござありて、道心のいろ
 いろ次第をお書きあり、石童丸に参らする。
                           (『かるかや』)
 「私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中にしまって置いてください」(110)と、Sは記す。したがって、『こころ』は、静の生前には発表されていないか、不当な方法で発表されたかのようだ。
 「奥さんは今でもそれを知らずにいる」(12)と、Pは書いているので、執筆時、静は生きているようだが、作者は、「その時私はまだ生きていた」(56)という文を、「死ぬのが厭であった」(56)という文と同値として、Sに書かせるのだから、「奥さんは今でもそれを知らずにいる」という文が、[「奥さんは今でも」、「みんな」(19)を知りたがらない]という文と同値ではないとは言い切れない。
 Pは、Sの遺言を無視したか、あるいは、部分的に無視せざるを得ないような状況にあったか。例えば、Sの失踪、あるいは、変死に関し、当局に報告書を提出させられた。これなら、当局が発表しない限り、静の目には触れない。
 文字通りに読めば、執筆時に静が知らないのは、少しも不合理ではない。執筆以前には、読めっこないから。勿論、発表後には、知ることになる。[Pは、「秘密」を守る]とは、どこにも書いていない。
 [Pは、Sの死後、記憶が薄れないうちに執筆を始めたが、発表は静の死後と決めていた]と考えるのが、最も穏当な解釈だろう。
 静は、「朝日新聞」を取っていない。あるいは、小説を読まない。だから、『こころ』も読まない。こういうのは、危なっかしいね。
 『こころ』の中に、「朝日新聞」は存在しない。Nも存在しない。実証が必要だろうか。
 『猫』で、登場人物達は、「吾輩がこれ程有名になったのを未だ気が着かずにいると見える」(同2)と記される。苦沙弥は「気が付いた様に」(同2)見えるというが、どういうことか、私には分からない。猫に字が書けると「気が付いた様」には見えない。ましてや、私生活が暴露されているとは思ってもいないようだ。「吾輩」と『猫』の登場人物達の関係に似た何かが、Pとその他の人物の間にもあるのだろうか。だから、静が知らないだけでなく、Pの兄も、自分の悪口が書かれていることを知らない。
 Pによって語られる人々が生きている空間と、語り手Pとその聞き手Xが住む空間と、そして、実在の読者が生活している空間は、三つとも違うものだと考えられる。そうでなければ、「先生の学問や思想に就いて(中略)私より外に敬意を払うもの」(11)がいないのを「常に惜い事だと云った」(11)り、「世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だった」(11)りしたはずのPが、「先生の学問や思想」を読者に紹介しないでいるのは、おかしいことになる。だから、Pは、虚構の空間において、[S言行録]のようなものを、『こころ』に先立って公表していると考えるべきだろう。[P文書]執筆時は[S言行録]流布後という、暗黙の設定があるからこそ、Pは、Sを「その人」(1)として、語り始めることができた。Sは、Xが生存する空間では、すでに有名人だ。しかし、おかしなことに、その空間に静は生存していない。勿論、その空間に、実在の読者がいるわけではない。さらに言えば、「外の人」(110)の住む空間も、別にある。だたし、この空間は、隠微に、実在の読者の住む空間と重なるようだ。
 Pは、Sの遺言を無視するどころか、反対に、固く守り続けていると思っている。Pの沈黙を証明するのが[P文書]だ。この解釈は、一見、不合理のようだが、[P文書]だけの公表なら、「秘密」は守られている。Pは、自分の沈黙を、誰かに褒めてもらいたくて、[Pは、沈黙を守っている]という事実を、[P文書]の語り手Pに、雄弁に語らせているところだ。その場合、[P文書]の後に、「遺書」は続かない。その場所に「遺書」を置いたのは、Pではない。編者Nだ。
 Pは沈黙している。「遺書」は、まだ、Pの「腹の中」(110)にある。
 [静は、知らずに(死んで)いる]"she is dead"
 「奥さんは今でもそれを知らずにいる」という文を、[静は、(死んだ)今でも、それを知らずに(霊界に)いる]と読めば、Pは、霊界と通信ができることになる。だったら、故Sとも通信可能だろう。「私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云いたくなる」(1)というときの「記憶」は、[御霊]と言い換えられる。しかし、そうなると、Sと静は霊界で出会っていてもよさそうなものだが、出会わない理由など、いくらでもありそうだ。
 静は、「遺書」を読んでも、それをSの「遺書」だとは思わない。「遺書」はSの創作か、あるいは、妄想だから。
 静は、『こころ』を通読したとしても、そこに登場する静を自分だとは思わない。あるいは、自分だと思っても、「理解し得ないために起るぼんやりした希薄な点が何処かに含まれている」(108)ことだろう。つまり、「知らない」というよりは、永遠に知り得ない。
 静が「秘密」を「みんな」知っていたとしても、Pは、「秘密」を守らなければならない。「秘密」を守るのが、Pの試練だ。[静は、知らない]という、Sの認識をPが受け継ぐことは、重要だが、[静は、知らない]という文が事実であるかどうかといことは、問題ではない。
 「秘密」は、「大きな真理」(23)とセット販売されている。[「大きな真理」の物語]では、[Sは、Pの「父」だ]と語られている。[「秘密」の物語]では、[なぜ、Sは、Pの「父」なのか]という謎が説き明かされている。[「秘密」の物語]が「秘密」であり続ける間だけ、Pは、[「大きな真理」の物語]に「大きな真理」を「発見」(23)し続ける。静に対してのみ、「事件の真相」が「秘密」にされているのではない。[「遺書」は、静を含む「世間」(1)にとって、無意味で、無価値だ]という事実が「世間」に対して「秘密」にされていて、この隠蔽工作、つまり、[「秘密」ごっこ]がSからPへと伝えられ、そして、PとXも、この遊びを遊ぶ。「秘密」ごっこを遊ぶ人にとって、「遺書」は、無意味ではなく、無価値でもなくなる。
 お隠れになったSを探すための地図が「遺書」だ。この探索は、探索のための探索、つまり、お遊びなのだが、そのことは、PとXの間でさえ、「秘密」にしておかなければならない。「真面目」(31)に「訐」(31)く「気にならない」(1)と、ちっとも面白くないから。
//「物足りなさ」
 「妻の前に懴悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違ない」(106)という、空想の物語は、[Sが静の前に「懴悔の言葉を並べ」ても、静は「嬉し涙をこぼ」さず、Sの「罪を許してくれ」ない]という、反対の可能性を、読者に検討させないためにある。「嬉し涙」の空想は、不必要だ。あるいは、[Sは、自分を「許してくれ」ない静なら、愛せない]という気持ちの表出か。
 「理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せない」(107)というのも、滑稽だ。[「勇気が出せ」るような「手段」は、ないのか]という問題を棚上げしたいのだろう。[Sの「勇気」の欠如の物語]は、[Sの「手段」の欠如の物語]を隠蔽している。K登場以前に、「断られるのが恐ろしいからではありません」(70)などと、不必要ないいわけをして、「勇気は出せば出せた」(70)と書いている。ここは、その焼き直しだろう。とにかく、Sは、無理にでも口実を見つけては、本音を言わずに済まそうとしている。そのためには、自分を貶めても平気だ。勿論、平気さ。嘘なんだから。
 作者は、Sに「勇気」を出させることに成功したとしても、Sに「懴悔の言葉を並べ」させることはできないはずだ。「懴悔」の文体を獲得していない。
 また、ここで、[静の「義理」知らずの物語](108)が起動すれば、「嬉し涙」も「理解」も、その可能性は、さらに小さくなる。そして、[静は、「義理」知らずだから、Sを「理解」し、免罪する]という、欺瞞の物語が始まるはずだ。それどころか、[Kと静の密会疑惑]さえ、再燃しそうではないか。
 Sに対する、静の決定的な共感性の欠如は、「奥さんは今でもそれを知らずにいる」(12)という、根拠のない断言として、表出されている。静への不信感を土台にして、作者は、不合理にもPが代表することになる『こころ』読者に向かって、[「大きな人道の立場から来る愛情」において、読者は、読者自身と静とを区別せよ]と、迫る。観客を巻き込んで、場外乱闘だ。
 [Sが、Pに強いる、静への沈黙]は、[Pが、Xに強いる、「世間」(1)との離反]と同根のものだ。作者は、『こころ』が、作者の幻想に巻き込まれそうもない「世間」や、理屈の迷路に初めから入り込もうとしない[女子供]の目に触れることを恐れている。[作者に対する同情がなければ、『こころ』の嘘っぽさは明らかになる]ということを、作者自身も、痛切に感じているからだ。
//「みんなは云えない」
 謎めいた静の台詞、「みんなは云えないのよ」(19)の「みんな」が、「遺書」に記されたようなことの「みんな」を含むとしたら、事態はとんでもないことになる。静がPを侮辱しているばかりか、作者が読者を翻弄していることになる。
 静の言う「みんな」がSの「遺書」に含まれた情報とは別の重要な何かを含んでいて、Sは、そのことを知らなかったとしたら、『こころ』は不完全なテキストだということになる。だが、[『こころ』には、重要な物語が欠落している]と言うための積極的な根拠はない。
 Sと静の会話において用いられたと思われるところの「みんな」という言葉は、[Sと静の持つ情報の共有部分]のみを指すのでなければならない。もともと、Sは知っていて静が知らない情報を、静が指すことはできない。また、静が知っていてSの知らない情報に、価値があるとしたら、大変だ。
 静は、[Sと静の持つ情報の共有部分]に含まれる情報のどれを漏らしてはいけないと思い込んでいるのか。わざわざ、付け加える必要もあるまいが、[Pに知らせてはならない]とされる情報が何かについて、Sと静の考えは一致していると見做さねばならない。少なくとも、一致していると信じている。
 だが、うんうん、腕組みして考えてみても、静のいう「みんな」など、想像できない。この言葉が、Sと静の会話において用いられたという仮説も、怪しい。
 Sと静は、Pに、何を隠したいのか。そんなものは、ない。静は、「みんな」を、Pに語ってはならないのではない。作者が、読者の気を引いているだけだ。平板な解釈をすれば、[夫は、妻のおしゃべりを窘める]といった程度の話だろう。しかし、少し、突っ込んで考えると、作者は、[家族には、外部に漏らすことのできない「秘密」(110)がある]という物語を、当たり前のものと考えていると推測される。[「秘密」があっても、仲がいい]なんて、その「秘密」ってのが、[実は、仲が悪い]というものなのだろう。
 [静は、Kを愛していた。しかし、Kは、静に愛されていることを知らなかった。静は、Sを婚約者として推薦する静ママの眼識を信じ、Kへの愛を諦める。ところが、Kの死によって、静は、静に対するKの恋慕を実感する。ないしは、夢想する。そして、Kの死因について、詳細に聞き出そうとして、Sを苛み続ける。Kを死なせたと信じているSは、静の執拗な追及に疲弊し、心労のため、自殺を願う。Sからは聞き出せない物語を、静はPに語らせようとするが、Pは、PをKと重ね合わせようとする静の淫らな欲求を夢想し、沈黙を守る。しかし、静にとって、Kへの恋慕は、あるいは、Kからの恋慕は、既に過去のものだ。Pを誘うようなのも、語らせるための無意識の技巧でしかない。アイデンティティーの確立のために自分の過去に起きた事件について明確に知りたいと願う静の欲求を軽視することは、残酷だろう。静は、Kを、Sの親友として愛していた。あるいは、今、静は、そのような物語を構想する。その物語の中で、静は、喪の季節を、Sとともに生きるべき立場にあると信じている。喪の季節をともに生きることによって、静は、自分とKとの不可解で不幸な関係を浄化し、葬りたかった。だから、KについてのSの沈黙は、静を当惑させ、静から悲しみの快楽を奪い、静に対するSの愛情をも疑わせるに足るもので]云々。
//「静子の直接の懴悔」
  みんな 聞いて 実際に起きたことは こうよ 
            (ジャミー・ブランクス監督『ルール』岡田壮平訳)
  心はさまざまのおそろしい事件の予言をする。いっそ夫の足下に身を
 投げて、昨夜のいきさつ、自分の罪、自分の予感をあらいざらい打ち明け
 ようかと考えたが、そういうことをしてもむだであろうと考え直した。と
 りわけ夫にウェルテルのところまで出向いて話をしてきてもらうという
 のは、望みがたいことである。
             (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳)
 誰であれ、神ならぬ存在が「みんな」(19)を知ることなど、あり得ない。しかし、もし、静が、Sの知らない重要な何かを知っていたとすれば、どうか。あるいは、そのような疑惑を、Sの死後、Pが抱いたとしたら、どうか。
  私はひとことさえも、静子の直接の懴悔を聞いたわけではなかった。さ
 まざまの証拠が揃っていたとはいえ、その証拠の解釈はすべて私の空想
 であった。二に二を加えて四になるというような、厳正不動のものではあ
 り得なかった。
                       (江戸川乱歩『陰獣』12)
 「遺書」の内容の「みんな」なら、静にも知ることは可能だ。Sは、『鍵』(谷崎潤一郎)の夫のように、静に「遺書」を盗み読むように仕向けた。あるいは、Sが、Pに、「私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう」(31)と約束したことを知った静は、その「過去」の物語の中で自分の果たした役割を、Pに知られることを恐れて、Sを、自殺に見せかけて殺し、「遺書」を捏造し、Pに送り付けた。あるいは、Pが、真犯人の静を庇うために、「遺書」を捏造した。
 統計学的文体論によって、[『こころ』の「みんな」を書いたのは、同一人物である]ことが実証できるはずだ。[P≒S]は、確実。また、Pの文書における[S≒静]は、傍証として、重要。その他、諸条件を勘案し、[Pは、Sであり、静であり、Kである]という可能性が濃厚になる。
  彼女はなぜ長年連れ添った夫を殺す気になったのであろう。自由か、財
 産か、そんなものが、一人の女を殺人罪におとしいれるほどの力を持って
 いるのだろうか、それは恋ではなかったか。そして、その恋人というのは、
 ほかならぬ私ではなかったか。
                              (同12)
  私は臆病だ。助けを求めてさけぶのが何よりの証拠。一本の指で招いて
 くれるだけで私はかわると思う。相棒さえあれば、血を流しながらでもあ
 ざ笑われながらでも私はその人のところに飛んでゆける。ああ、相棒! 恋
 人がほしいというのではない。結局はその男もエゴイストかも知れない
 が、ウィロビーほどひどくはあるまい。息だけはつかせてくれそうなもの
 だ。
              (メレディス『エゴイスト』10、朱牟田夏雄訳)
 Kの場合も、自殺ではなく、静による殺人だったとしたら、どうか。Sは、そうした疑いを、ずっと、抱きつつ、問い匡す勇気のないまま、ノイローゼで死ぬ。Kに凌辱されたことのある静は、Sの求婚を承諾するが、そのことを知って、しつこく絡むKを、誤って刺殺する。あるいは、Kは、静に捨てられ、自尊心を傷つけられて、死を選ぶ。[SがKを排除してくれないから、仕方がなかったのね]と、静は、心の中で言いわけする。Sは、[Kを排除したのは、Sだ]というマッチョ的な物語を捏造し、信じ込む。Sは、真実を知っていながら、真実に向き合う勇気がないので、虚構の中で苦しむことを選んだ。静は、「遺書」を読み、泣くほど、大笑いする。この予想が[「嬉し涙」(106)の物語]の素材。
 あるいは、[Kを死に追いやったのは、あなたではないか]という疑問が、夫と妻の口から、常に、同時に発せられそうになっては、止む。息を殺して見詰め合う二人を、Pは、「仲の好い夫婦」(9)として眺める。
   それなのに、逆上の発作におそわれると、ふたりとも相手の怒りの底に
 なにがひそんでいるのかはっきりと読みとり、猛り狂うふるまいがほん
 とうは相手のエゴイズムから由来しており、このエゴイズムこそ欲望を
 満たさせるために自分たちをかりたてて殺人を犯させたものなのを見抜
 き、このエゴイズムのために、まんまと暗殺はしたものの、荒涼とした、耐
 えがたい毎日の生活しかできないのがわかるのだった。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』28、篠田浩一郎訳)
 こうした血腥い物語は、汚い虫のように、ぞろぞろと、いくらでも這い出す。『こころ』の設定に矛盾しない物語は、いくらでも、想像できる。なぜなら、『こころ』そのものが矛盾を含んでいるからだ。そして、想像される物語のどれもが血腥いようなのは、Sの死が、作者による、創作上の殺人だからだ。苦沙弥を原型とするS系の人物を始末しなければならない理由が、作者にはあった。
 『こころ』で始末されたSは、主役の座を降りて、「批評家」(『明暗』75)の脇役を与えられる。この道化が、寒月を羨む苦沙弥のように、あるいは、赤シャツとマドンナの仲を邪魔する暴力教師達のように、また、小野と藤尾の間を裂く甲野のように、津田と清子の間に割って入らないとは、言えない。彼は、「ただ舶来のパイプを銜えて世の中を傍観している男でないと発見」(『彼岸過迄』「結末」)されるのかもしれない。だが、もし、そうだとしたら、そのような事態を遅延させようとして、Sと静の「仮定」(12)でしかない「ロマンス」(12)の実演を求め、作者は、『明暗』に向かう。
//「講義」
  「では、すこしばかり講議をいたしましょう。まず第一に、あの晩起きた
 事件の、はっきりとした経過を知ることです─しかも、それを話してく
 れる人が、嘘をついているかもしれないということを常に忘れてはなり
 ません」
          (アガサ・クリスティー『アクロイド殺し』田村隆一訳)
 Sが実際に手を下してKを死なせた可能性は、否定できない。そう考えた方が、罪悪感というにはあまりにも強烈な、Sの恐怖を説明するのには、都合がいい。時効の完成が迫っていた。Pは学生探偵で、Sの旧悪を暴こうと、接近した。そのことを察知したSは、軽微な罪だけを認め、ぎりぎりのところまでは自白するが、後は韜晦し、失踪する。「早く御前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです」(105)などと幻聴めかし、殺人ではなかったかのように記すのは、逮捕されたとき、心神耗弱を装うための布石。Sに同情したPは、Sの失踪を自殺に見せかけるため、当局に、「遺書」に添えて、欺瞞的な[P文書]を提出する。犯人隠避。
//「拷問」
 静は実在しなかった。彼女は、静ママの若き日の面影だ。Sは、その面影に恋する。しかし、それは叶わぬ恋だ。叶わぬ理由を、Sは、非現実の場所に探し、恋路を邪魔する人物を捏造する。Kだ。
 Sには、一人の親友がいた。彼は、寺で自活している。Sは、その親友の面影から、Kを造る。また、Kは、昔からSのベッドの下にいる小鬼でもあった。
 静との間に、子は、できない。Sと静の結婚生活は、Sの頭の中で営まれているだけだ。しかし、Sの空想する静は、子供を欲しがる。Sは、その欲求が実現不能であることを知っているので、養子を求める。Sは、旅先で出会った、ある青年のことを思い出し、Pを造る。
 Pは実在しない。なぜなら、Sは、一人旅をしない。西洋人と交際したこともない。したとしたら、「不思議」(3)だ。
 Sは、若い頃、自分の父親にしたいような人物と、旅先で出会った。その人は大学教授だったので、「先生」と呼ばれていた。Sは、若い自分を、Pに重ねる。
 Pは、最初、Sに会えない。Sは、「先生」と呼ばれるべき人物に変装するのに、手間取っていた。同時に、Pが新しいキャラクタとして機能するかどうか、確認する時間も必要だった。
 Pは、静ママを静だと思う。Sは、その様子を見て、[Pは、使えるキャラクタだ]と判断する。静ママである静が、Sの行く先を、Pに告げる。
 Pは、Sを探す。Sは、Pに見つけられる。見つけられるための隠れん坊。Sは、Pを見て、自分を追跡するKの亡霊かと疑い、隠れる。Pは、SがKの墓石を盾にして隠れていることを知る。
 静ママが死ぬ。
 静ママがいなければ、静は存在できない。静がいなければ、Sは生きられない。Sが遺書を記す間、静は眠っているのではない。外出しているのでもない。静は、Sの心の中の、どこかに行っている。静ママを失ったSは、心の中で、自殺する。その瞬間、Sの心の中にいた人々が消滅する。まず、Pが消える。すると、Pの知っている静が消える。静が呼び寄せていたKの亡霊も消える。同時に、Kだった小鬼も消える。
 そして、誰かが目覚める。その人は、「夢を、大きな眼を開きながら見て、驚ろいて立ち上った」(『彼岸過迄』「須永の話」28)
 その人は、誰かを殺したいと思っていた。殺人を「出来した後は定めし堪えがたい良心の拷問に逢うだろうと思った」(同28)が、なるほど、そんな苦しい夢を見てしまったなと思う。
 その人は、誰を殺したいと思ったのだろう。思い出せない。誰彼の区別なく、殺したいような気がしていた。
//「情愛の糸」
  一口でいうと、彼等は本当の母子ではないのである。猶誤解のないよう
 に一言付け加えると、本当の母子よりも遥かに仲の好い継母と継子なの
 である。彼等は血を分けて始めて成立する通俗な親子関係を軽蔑しても
 差支ない位、情愛の糸で離れられないように、自然から確かり括り付けら
 れている。どんな魔の振る斧の刃でもこの糸を絶ち切る訳に行かないの
 だから、どんな秘密を打ち明けても怖がる必要は更にないのである。それ
 だのに姉は非常に恐れていた。市蔵も非常に恐れていた。姉は秘密を手
 に握ったまま、市蔵は秘密を手に握らせられるだろうと待ち受けたまま、
 二人して非常に恐れていた。
                          (同「松本の話」5)
 「秘密を手に握らせられるだろうと待ち受けた」というからには、「秘密」は、すでに共有されている。そして、そのことこそが、二人が「本当の母子よりも遥かに仲の好い継母と継子」という劇を継続する、唯一の理由だ。「本当の母子」であれ、「継母と継子」であれ、「通俗な親子関係」では、「二人して非常に恐れ」たりはしない。「親子の間は平凡なもの」(同「結末」)だ。
 須永の「継母」は、彼女の身代わりともいえる千代子を、須永に差し出す。[継母-継子-孫]というラインを、[正妻-姪-孫]のラインで補完するつもりだ。しかし、その目論みが成功した暁には、[継母ライン]よりは[正妻ライン]が主流となり、須永は横っちょにぶら下がった感じになる。そんな未来を、須永は恐れる。しかし、だからといって、須永が[正妻ライン]を拒めば、彼を禁治産者として蟄居させ、高木のような人物を養子にするという算段も出て来よう。勿論、[正妻ライン]を強引に進めれば、『虞美人草』のように、「母」は悪者になりかねない。須永だって、「母」を悪者にしたくはない。悪いのは、「母」ではない。「継母と継子」を結ぶ「糸」だ。「どんな魔の振る斧の刃でもこの糸を絶ち切る訳に行かない」という、その「糸」だ。悪い「糸」が、切れない。では、「糸」の先にいる「母」を抹殺するしか、手はなさそうだ。
 ところで、殺意は、もともと、「母」の側にあった。「母」は、須永の実母の存在を隠すと決めたとき、同時に、彼を親族から排除したいという思いをも隠蔽した。親族内における政治力を確保するには、「継子」でも、ないよりはましだった。現実の必要性の裏側で、隠蔽された違和感が増殖する。生きたまま排除できないとしたら、抹殺するしかない。そんな悪夢を隠蔽するために、「母」は「慈母」(『彼岸過迄』「須永の話」4)を演じる。「子」は、「慈母」から殺意を学ぶ。「母」は「子」の殺意から身を守るために、殺意を「情愛」にパックする方法を教えた。こんなにも洗練された二人なのだから、彼等は「血を分けて始めて成立する通俗な親子関係を軽蔑しても差支ない」わけだ。二人は、「離れられないように、自然から確かり括り付けられている」犯人と刑事のようだ。
 語り手は、騙りだ。松本が自分の「姉」を善人として語るのは、当然のことで、そのために、「仲の好い継母と継子」という物語が用意される。この物語の制作には、田口も一枚咬んでいる。田口が、須永を敬太郎に探偵させたのは、須永が、この物語に、おとなしく閉じ込められているかどうか、敬太郎に確かめさせるためだ。勿論、田口と松本が共謀しているわけではない。親族内政治において、二人の目的が、たまたま、一致した。要するに、大雑把に見て、松本の言う「誤解」は、正解だ。
  僕はとうとう彼の恐れるものの正体を取り出して、彼の前に他意なく
 並べて遣ったのである。
                          (同「松本の話」5)
//「策略家」
 なぜ、静ママは死ぬのか。静が死ぬのだったら、話の展開として、理解できる。[静がいなければ、Sも「生きていられない」(17)]という、静の予言が成就するのだから。
 静ママの死は、『こころ』において、どんな機能を果たすのか。静ママの死は、「策略家」(69)に与えられた罰だ。勿論、Sと静の関係は、静ママの策略でできあがったものではない。しかし、[静ママが怪しいことを仕掛けた]という疑いは、晴れない。静ママの死は、藤尾が身代わりになった藤尾ママの罪に対して与えられるべき、遅過ぎた罰なのかもしれない。
 [母]の死によって、[女]は生きる。富子が生き返る。マドンナも生き返る。藤尾は、死んだふりをやめる。美那子は、動き出す。美禰子の「罪」(『三四郎』12)は雪がれた。いくつもの名前を持つ一人の女は、静となって「純白」(110)の衣装を纏い、やがて、清子という名を得る。
 清子は、延子の変装かもしれない。、雪(ラフカディオ・ハーン『雪女』)が、自分よりも美しい女の話を聞かされた途端、自分がその女だったことを思い出して、変身したように。
 延子は、津田の女性的半身なのかもしれない。そして…… 
 はて、私は何をしているのだろう。ちっとばかし、やばいんでないかい。
  「が、君は世界中でただ一人このぼくを知っている女性だよ、リチシア」
  「知られることがあなたのしあわせとお考えになれますか」
              (メレディス『エゴイスト』49、朱牟田夏雄訳)


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