『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#073[世界」33先生とA(23)「鷹揚」

//「女の影」
 静ママの家の道具類の描写に続いて、「こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠めて通るでしょう」(65)と記される。「若い女の影」は、あたかも家具の一部であるかのようだ。Sは、静に会う前から、「若い女の影」に、「好奇心」(65)や「邪気」(65)を持つ。Sが恋しているのは静ママの家かと思えるほどだ。「影」とは、若かりし日の静ママの面影なのかもしれない。
 Kは、「奥さんと御嬢さんと私の関係がこうなっているところへ」(72)「入り込まなければならない」(72)「もう一人」(72)だとされる。また、Sは、「私はただでさえKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余り好い心持ではなかった」(81)と書く。さらには、婚約の成立について、「私とこの家族との間に成り立った新しい関係」(101)とも書く。
 [P文書]における、Sと静の関係は、夫婦というよりは、母子を思わせる。静は、いつか、静ママのようになった。どのようにしてなったかと考えれば、Pから、「奥さん」と呼ばれるようになったからだろう。一方、静ママは、母性的と冠されるような力を静に譲渡したためか、萎縮したようになって死んでしまう。Sと静が「元の通り仲好く暮し」(108)ていたのは、Sが「妻の母の看護」(108)をしているときだ。語り手Sは、「自分で自分を殺す」(108)とか、「死んだ気で生きて行こう」(108)とか、下手をすると献身や自己犠牲などと誤解されかねないような、実は、自暴自棄、自虐に支配され、「知らない路傍の人から鞭たれたいとまで思った」(108)と記す。思っただけで、実行はしない。『こころ』というのは、ほとんど、「思った」だけの話で、できている。実行できたのは、ただ、「妻の母の看護」だけで、「妻に優しくして遣れと私に命じ」(108)る声もしたらしいのに、「妻に優しく」したという話の中身はなくて、ただの寄り道らしく、すぐに、「鞭たれたい」という話に戻る。「妻の母の看護」は、作者の物語では、母性に対する隠微な復讐だろう。健康な人間を病気にして自由を奪う。
 [静ママの死の物語]は、Sの両親の死がSの誕生に先立って語られる(57)理由と符合するようだ。[静ママの死の物語]が、その死後に語り始められるので、あまり、目立たないが、Sは、[「看護」の物語]において、静ママの死を、予想していたことのように語る。寿命が知れていたという話はないのだから、予想は期待と区別できない。記憶の偽造の可能性もあるが、それを認めても、なお、[服喪の物語]の消失という事態を無視することはできない。
 「何時でも妻に心を惹かされ」(109)ていたはずのSが心置きなく死ねるのは、静ママが、「妻の」(108)ではなく、ただの「母」(108)と記述され、そして、死ぬからだ。勿論、作者は、Sに、そのように語らせてはいない。「母」の死亡時刻と、Sの「遺書」執筆開始時刻との間に、無理に[乃木殉死事件]を挿入し、韜晦する。だが、その程度の寄り道では、[静ママは、Sの「母」となる。だから、静ママは死ぬ。だから、Sも死ぬ]という、不合理な物語を隠蔽するのに、十分ではない。
 Sの望みは、静の夫になること、そのものにはない。静に対してなら、気の済むまで「信仰」(68)を捧げてりゃ、ハッピーだろう。静ママの家全体が、母性的な空間として、Sを包む。初め、望みは叶うかに見える。しかし、作者は、あえて、ハードルを高くする。Sは、ここに、Kを連れ込む。Sは、Kと共に、双生児のように生まれ直そうとする。あるいは、Kには、理想的な父親の役が期待されていたのかもしれない。この疑似的な父が静ママと結婚する必要はない。あくまで、空想の家族だ。Kは、また、Sと静の結婚を祝福する司祭の役割を与えられる予定だったようだ。Sと静の和合を言祝ぐことは、KがSの人生観を承認することになるはずだ。「最も幸福に生まれた人間の一対であるべき筈」(10)というのは、条件に過ぎない。この祝福の劇は、Kにとって、自覚的である必要はない。祝福は、ヤコブがしたように(「創世記」27)騙し取るので、十分だ。例えば、「女はそう軽蔑すべきものでない」(79)という、Kの言葉を、祝辞と曲解する。
 Kは、Sの兄と見做される。Sは、密かに、兄の権威を失墜させる。Sだけの母である静ママは、Sを唆し、Sの父でもあるKから、祝福を騙し取る。
//「鷹揚」
  若い女性はぼんやりとしか悟りえないが、若いだけに嫌悪の熱は強烈
 だから、知覚力に秀でた年上の女のようにエゴイストをゆるすことがで
 きない。
              (メレディス『エゴイスト』23、朱牟田夏雄訳)
 性的な面でも「優勢」(83)に見えたKよりも、Sが選ばれた理由は、読者には明らかにされない。その理由を、Sが知っているのかどうかさえ、知らされない。静ママは「大丈夫です」(99)と請け合った。そのことだけが、ぽつんと記述される。Sが静ママに気に入られるのは、Sが「鷹揚」だかららしい。ところが、この[「鷹揚」の物語]について、わざわざ、Sは疑問を呈している。
  奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風に取り扱って
 くれたものとも思われますし、又自分で公言する如く、実際私を鷹揚だと
 観察していたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それ
 程外へ出なかったようにも考えられますから、或は奧さんの方で胡魔化
 されていたのかも解りません。
                               (67)
 ここで、Sは、二つの場合を想定しているようだ。Sの「こせつき」が明らかだった場合、静ママは「わざと」見て見ぬふりをしたのだろう。Sの「こせつき」が明らかではなかった場合、静ママは「胡魔化されていた」のだろう。
 前者の場合、[Sは、自分で思っていたほど、「厭世的」(66)だったわけではない]と作文したくなるが、この種の作文は、やってはいけないのかもしれない。後者の場合、静ママが「胡魔化されていた」と、語り手Sが考えるのなら、作者には反省が生じなければならない。道徳的反省のことではない。静は、Sが「おれはこういう性質になったんだ」(18)と語ったというが、この発言についての反省だ。作者は、Sに、[「おれは」もともと「こういう性質」だったんだ]と言わせなけれならない。もし、Sの「性質」が変化したのだとすれば、[Sは、自分で思っていたほど、「厭世的」(66)だったわけではない]という作文が復活しそうになる。この文の復活を回避するには、[「頭の中の現象」は、S語では、「性質」とは別物だ]と考えなければならない。あるいは、[S(静ママ(S/S)S)P]におけるSの「頭の中の現象」と[P(静(S/S)P)X]におけるSの「性質」とは物語が違うから、両者を関連づけるのは無意味だと考えねばなるまい。
 本当は、『こころ』に描かれた出来事のすべてが、作者の「頭の中の現象」であって、「それ程外へ出なかった」もののように、私は思う。「心得のある」読者が、『こころ』を読解可能なものとして、「取り扱って」いるのか、あるいは、本当に読解可能だと思っているのか、「胡魔化されて」いるだけなのか、私には分からない。Sにとっての静ママのような人物を、作者は、自分の読者の理想像として期待しているのかもしれない。
 [Sは、自分が「鷹揚」であることに「自分で気が付かない」(66)]と、静ママは「真面目に説明」(66)する。しかし、Sの考えでは、「私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。然し、それは気性の問題ではありません」(67)ということになる。そして、「奥さんはまた女だけにそれを私の全体に推し広げて、同じ言葉を応用しようと力める」(66)という。では、静ママは「胡魔化されていた」ことになりそうだ。すると、静の気持ちを請け合う(99)だけの力が、静ママにあるかどうか、怪しくなりはしないか。
 ところで、Sは、ほんの少し前、「叔父」一家の事件に引っかけて、「鷹揚に育った私」(61)と自己紹介している。おかしい。このことは、[「気性の問題」ではない]と読まなければならないのだろうか。次の段落で、「私は性分として考えずにはいられなくなりました」(61)とあるが、この文は、どう取ればいいのか。「性分」という言葉は、「倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来益他の徳義心を疑うようになった」(57)とされることを踏まえているのだろう。一方、「鷹揚」については、次のように語られている。
  宅には相当の財産があったので、寧ろ鷹揚に育てられました。私は自分
 の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも父か
 母か何方か、片方で好いから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分
 を今まで持ち続ける事が出来たろうにと思います。
                               (57)
 「性分」と「気分」とは、別種の言葉だと考えなければならないのか。つまり、「気分」は先天的で、「性分」は後天的というように。よく分からないけど。
 作者は、Sに、何を語らせたつもりでいるのか。あるいは、何かを語らせたつもりでもないのか。とにかく、作者は、何かを語っている。静ママは、「叔父」一家の事件によって「厭世的」になる前の[Sの物語]とは別の物語を読んでいたと思われる。それは、[両親とSの物語]だろう。 「叔父」一家の事件に際して、「鷹揚に育てられた私」と記すとき、Sは、暗黙のうちに、両親と「叔父」一家とを比較している。だから、次に、「突然死んだ父や母」(61)の霊が空想されることになる。「突然」と、作者は記す。「突然」かもしれないが、必然でなくもない展開だ。しかし、作者は、この必然性を隠蔽する。そして、「迷信」(61)という言葉を梃子にして、Sを「父母の墓の前」(61)に移動させる。ところが、この移動は、「鷹揚」なSが[両親とSの物語]に属してはいるが、[「叔父」一家の物語]には属していないことを隠蔽するための偽装工作だ。だから、墓参り後、話題がなくなり、「色気」(61)の話へと上滑りするようだ。
 二つの[「鷹揚」の物語]は、「私は倫理的に生れた男です」(56)という自己紹介の文を、やや裏切るかのようだが、[「倫理的に暗い」(56)とされるところの「暗い人世の影」(56)の物語]とは別に、[「私は倫理的に育てられた男です」(56)/「寧ろ鷹揚に育てられました」]と語り得るような物語が、反実仮想として語り続けられていることを示唆するのかもしれない。もし、この二つの物語を表面的に合成しようとすれば、[Sは、自分が「鷹揚」だと錯覚していて、しかも、そのことを自覚しなかったが、静ママは、Sの錯覚を知覚した]と作文することになり、支離滅裂になる。
 [「鷹揚」の物語]は、「私は二人の間に出来たたった一人の男の子でした」(57)と語り始められるのではない。「二人の間」や「たった一人」といった、一見、どうでもいいような言葉を記述せねばいられない作者の夢想の表出らしい文の、その前に、別の物語がある。それは、「私が両親を亡くしたのは」(57)と始められる物語だ。
 作者は、Sの誕生に先立ち、その両親の死を、語り手Sに語らせなければならなかった。Sの両親は、Sを登場させるためだけに存在し、そして、死ぬ。[Sの両親の死の物語]が[Sの誕生の物語]に先行するので、Sは、あたかも、死体から這い出したかのように見える。木の股から生まれたような顔をしたい気分と、理想的な両親を夢想する気分とを、どうにかこうにか、折り合わせようとすれば、こんな話にもなろうか。
 [Sの両親の死の物語]は、Sが「義務は別として私の過去を書きたい」(56)というときの「過去」の物語の枕だ。「過去」以前。ということは、「遺書」全体が、この反実仮想の物語を奥深く秘めながら進行していることを示唆する。価値もなく、結末もない[Sの/仮想の物語]は、これまた、「遺書」内部の時間では完結し得ないはずの[Sの死/の物語]と背中合わせになって、合流する。
//「御母さん」
  「心配しないでも好いよ。御母さんがいくらでも御金を出して上げるか
 ら」
                         (『硝子戸の中』38)
 金銭と愛情が分離しない、架空の領域で、Nの幼心は保護される。「金銭にかけて、鷹揚」(66)であるのを、「女だけにそれを私の全体に推し広げて、同じ言葉を応用しようと力める」(66)とき、静ママは、Nの「御母さん」に似ている。
 Sの心は、静ママによって、「段々静まりました」(67)とある。静によって、静まったのではない。静に対しては、逆に、「そわそわし出す」(67)ことになる。とは言え、「その頃の私達は大抵そんなものだった」(68)ということで、お茶を濁す気なら、[Sと静の「恋愛」の物語]において、Sが「好く」(66)段階から「殆んど信仰に近い愛」(66)へと、奇跡的に飛躍するための契機としては、[「鷹揚」の物語]だけが残ることになる。
 静ママがSの[母]なら、静はSの[妹]ということになる。藤尾は、甲野の義理の妹だった。安井は、妻の御米を「妹」(『門』14)として紹介する。三千代は、代助や平岡の友人の「妹」(『それから』7)であり、その友人の死によって空席となった兄の地位を占めたためか、代助は、三千代を「周旋」(同16)するはめになる。須永は、従妹を薦められる(『彼岸過迄』)が、拒む。しかし、拒む理由を自覚できない。Sも、従妹を薦められ、拒む理由として、「叔父に欺むかれた」(106)ことを挙げているようだが、こんな理由は不必要だ。従妹が好きでも、「叔父」と絶縁することは、可能だからだ。三四郎は、「国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問にゆだねる」(『三四郎』4)自分の姿を空想すると、「母」に代表される「第一の世界」(同4)に取り込まれるようで、その結果、「自己の発達を不完全にする」(同4)ことを恐れる。作者は、「恋に上る階段」(13)の前で、家族の「階段」に降りてしまう。「殆んど信仰に近い愛」(68)とは、こうした矛盾に落ち込まないために、片足を揚げているような状態だろう。上ろうとして軸足に力をかければ、家族の「階段」が崩れる。
 Sは、静との結婚によって、自分の家族を獲得した。静ママが死に、家族は壊れた。だから、静との関係の価値は小さくなる。裏側から見れば、作者の物語では、静ママは[Sの「鷹揚」(66)の物語]の聞き手だったが、語り手Sは聞き手Pを確保し、作者は読者を確保できそうな見通しがついたので、静ママは要らなくなった。また、語り手Sは、作者が読者を確保するためのダミーだから、語り手Sも、やがて、要らなくなる。『こころ』そのものが、作者にとって、擱筆と同時に、要らなくなったはずだ。自分が書いたのではなく、SやPが書いたもののように思えたことだろう。作者は、読むように書いた。書き終えて、いや、読み終えて、感動して、他人の作品を紹介するような気分で、何の衒いも気負いもなく、読者代表として、「『心』広告文」を書いてしまった。
//「母の頭」
  その上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明か
 なものにせよ、一向記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしば
 しばあったのです。だから……然しそんな事は問題ではありません。ただ
 こういう風に物を解きほどいて見たり、又ぐるぐる廻して眺めたりする
 癖は、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。それは貴
 方にも始めから御断りして置かなければならないと思いますが、その実
 例としては当面の問題に大した関係のないこんな記述が、却って役に立
 ちはしないかと考えます。
                               (57)
 「そんな事」という言葉が、「影さえ残していない事」を指すとすれば、[「影さえ残していない」と言えばつまらないことのようだが、「然しそんな事」でも、「問題」にはなる]と続かなければ、おかしいような気がする。そして、[「こういう風に物を解きほどいて見たり、又ぐるぐる廻して眺めたりする癖は」「その時分」に、私に「備わって」しまったのです]と続くはずだ。
 この部分は、次のようなことが語られているのかもしれない。[高熱のとき、Sママは、「筋道の通った明かな」言い方で、Sにとって、重要なことを語った。熱が下がったときに、そのことの真偽などを確かめようとすると、Sママは、発言の内容はおろか、その事実さえ記憶にないかのように振る舞った。[高熱のせいで語った言葉なら、「筋道」は通らないはずだ]と、Sは思う。「不思議な言葉」(『道草』78)であるはずだ。「だから」、Sママは、高熱のとき、一旦は、死を覚悟し、秘密を吐露したのだろう。しかし、熱が下がると、再び、秘密にすることにした。そんな疑いを、Sは抱く。ただし、別様にも考えられる。高熱でも、「筋道」が通らないとは言えない。だから、「筋道の通った」言葉だったというだけでは、疑いを持続するには、十分ではない。「然しそんな事は問題ではありません」]
 もし、こういった次第だとすると、「そんな」は、「……」の部分で語られようとしたことを指していると思われる。つまり、点線部分には、[Sは、「母の言葉」を信じなかった]という意味の文が入るはずだ。そう考えて、やっと、次の文が有効に見える。
  この性分が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来益他
 の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。それが私の煩悶や
 苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは慥ですから覚えてい
 て下さい。
                               (57)
 Sは、自分の母親に対する疑惑を隠蔽した。しかし、そのようなSの姿を、作者は提出したくなかった。作者は、語り手Sと一体化し、いや、語られるSとさえ重なり、「母の言葉」の内容を消去することにした。あるいは、「母の言葉」を、語り手Sは再生したかったのに、語られるSが拒否したかのようだ。この話題は、「当面の問題に大した関係のない」ものとされる。この話は「本筋」(57)ではないらしく、「またあとへ引き返しましょう」(57)と記されるので、「本筋」って何かなと思って読むと、次の段落は「本筋」ではないらしく、だらだらと埋め草のように執筆時の気分が記され、[語り手Sは「頭が悩乱して」(57)はいないぞ]という宣言で締め括られる。
 私には、「悩乱」とまでは言えなくても、Sが、かなり、慌てて、気を静めるために「筆」で遊んでいるように思える。取って付けたような感じ。
 臨終のSママは、Sに、何を告げたのか。Sは覚えているはずだ。しかし、作者には、分かっているのだろうか。作者は、一度、Sママの言葉を記してから反故にしたのだろうか。あるいは、作者自身にも自覚できないような、もやっとした気分でしかなかったのではないか。どちらにせよ、[作者は、母性に対する疑惑を塗り込めている]と疑われても、仕方あるまい。
 須永の義母は、「御父さんが御亡くなりになっても、御母さんが今まで通り可愛がって上るから安心なさいよ」(『彼岸過迄』「須永の話」3)と語って、須永に「厚い疑惑の裏打ち」(同3)をさせ、逆効果となるが、Sママも、同様のことを告げたと仮定できる。須永が義母に対して抱いた疑いは、須永の「叔父」が封じる。「叔父は親切な人で又世慣れた人」(同8)のままだが、Sの「叔父」は馬脚を現す。Sママへの疑惑が完全に封じられたので、Sの「叔父」に役目はなくなったらしい。同時に、須永の「従妹」は、Sの「従妹」と静の二人に分裂する。あるいは、「色気」(61)の対象も含めれば、3人か。
 Sが「……」の部分を明示しないために、作者は、さまざまな手段を講じた。ここで、安直な復元を試みれば、[Sの本当の両親は、よそにいる]という告白がなされたと想像される。こうした想像は、ドラマの表現としては、現在では、コントの部類だろうが、実話としては続いているらしい。このコントは、孤児の境遇を拒否したいと願う子供の夢想の物語の一部のようでもある。『家なき子』(マロ)の主人公は、この夢想の物語に唆されたかのように、[本当のお母さん]を探しに旅立ち、そして、本当に出会ってしまう。こんなドラマが『こころ』の底流をなしていると考えられる。Sの[本当のお母さん]は、静ママだ。いや、Pの「本当の父」(23)ではない「父」がSだとすれば、静ママは、Sの「本当の」母ではない[母]なのだろう。
//「看護」
 静ママは、「本当の」母ではない[母]であるためには、死んでいなければならない。なぜなら、生きている静ママは、静の母ではあっても、Sの[母]ではないからだ。[「看護」(54)の物語]は、「その内妻の母が病気になりました」(54)というように、「妻の母」として語られ始めるが、「母は死にました」(54)というように、その死によって、「妻の」という言葉が脱落する。そして、「母の亡くなった後、わたしは出来るだけ妻を親切に取り扱って遣りました」(54)という後日談に繋がる。しかし、[「看護」の物語]が回想されると、「妻の」という言葉が復帰して、「丁度妻の母を看護したと同じ意味で、私の心は動いたらしいのです」(54)と語られる。
 このやり繰りは、「先生」という呼称が、Sの死後に複雑な陰影をもち始めたらしいことと符合する。PはSという[父]を得、Sは静ママという[母]を得る。その後、死者としての乃木夫妻が出現し、PとSの複合体のような誰かが、死さえも引き裂けない[父母]を獲得する。[Sの物語]の枕が[Sの両親の死の物語]であったように、死んだ乃木夫妻に「新らしい命が宿る」(56)手筈だ。
 だが、作者が確保したと言えそうなのは、[母」だけだろう。『こころ』作者が[妻の母]に[母]を期待したように、『道草』作者は[妻の父]に[父]を期待するが、成功の見込はない。『こころ』では[母]への疑惑の隠蔽に成功するが、『道草』では[父]への疑惑の隠蔽に成功しない。しかし、とりあえず、足場は固まったと感じたか、『明暗』作者は、津田を清子との「恋に上る階段」(13)に向かわせる。
//「他の頼みにならない事」
  叔父に欺むかれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづく感じ
 たには相違ありませんが、他を悪く取るだけであって、自分はまだ確な気
 がしていました。世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信
 念が何処かにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまっ
 て、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしまし
 た。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったの
 です。
                               (106)
 Sは「叔父に欺むかれた」のだから、「頼みにならない」のは、「叔父」その人だけだろう。「他」という言葉を持ち出すのなら、その中に両親も入るはずだ。入らないとしたら、なぜか。「叔父」は、Sの「父から信用されたり、褒められたりしていた」(58)というのなら、まず、「頼みにならない」と言えるのは、「父」だろう。ところが、Sは、「父から信用された」といった事実を、自分が「叔父」を疑わなかった理由として利用している。すると、この場合、「頼みにならない」のは、自分自身となるはずだ。
 「死んだ父や母」(61)については、「急に世の中を判然見えるようにしてくれたのではないかと疑い」(61)、Sは、「父母の墓の前に」(61)「感謝の心持で跪いた」(61)と語られる。Sが、なぜ、そのような「疑い」を抱いたのか、私には分からない。「急に」信じてしまったというのなら仕方がないが、疑っただけで「感謝の心持で跪いた」りするのは、臭い一人芝居にしか見えない。
 「父や母」が正しければ、「叔父」も正しいのかもしれず、だから、「急に世の中が判然見えるように」なったというのは、Sの思い違いなのかもしれない。しかし、この仮定は検討されない。この仮定を否定するのなら、逆に、[「叔父」が「妙」なら、「父や母」だって、「妙」だったのではないか]という疑いが浮かぶはずだ。前者を追求すれば、Sに反省が生じる。後者を追求すれば、自信が生まれる。父母の霊とは無関係に、Sは自力で洞察力を得たことになるのだから。ところが、この両者を混ぜ合わせて、[「父や母」は正しくて、Sも正しくて、「叔父だの叔母だの、その他の親戚だの」(66)が悪い]という話を作り、Sは袋小路に入り、「厭世的になって」(66)しまう。「他は頼りにならないものだという観念」(66)に取り付かれる。こんな、ぼやっとした「観念」が「骨の中まで染み込んでしまった」(66)人の告白など、「頼りにならない」ものだ。
 もし、[「父や母」は正しくて、Sも正しくて、「叔父だの叔母だの、その他の親戚だの」(66)が悪い]という話を作るのではなく、「急に」信じたのであれば、話は違ってくる。Sは、「死んだ父や母」と、幻想的に繋がることができる。『こころ』は、この幻想的な絆の欠如を隠蔽している。
 「叔父に欺むかれた」という話が、突然、「他の頼みにならない事」というふうに一般化されたかと思うと、「世間」批判に飛躍し、「信念」などという、どこで仕入れて来たのか分からない概念と突き合わされ、突然、それが「破壊」され、「世間」や「他」を通過しないまま、「あの叔父」に不時着する。
 Sが「叔父」の悪を追求すると、[「叔父」は、作者の父のダミーだ]ということが、明らかになるからではないか。「叔父」とともに疑われている「叔母」については、「叔母も妙なのです」(61)とあるから、どんなふうに「妙」なのだろうと思うが、特に話はない。「従妹」も「叔父の男の子」(61)も「妙」だと記されているが、やはり、話はない。作者は、「叔母」について、詳述することができないらしい。「叔父」が作者の[父]のダミーなら、「叔母」は[母]のダミーで、[母]のダミーは静ママが演じる予定だから、「叔母」の出番はないのだろうか。
//「典故」
 『こころ』と[親を捜す子の物語]との関係は、潜在的なものだ。[潜在的]ということを説明するために、違う例を挙げよう。『ここに幸あり』(高橋掬太郎+飯田三郎、1956)は、『海行かば』(大伴家持+信時潔、1937)に、潜在的な影響を受けていると、私は思う。旋律に似たところがあるし、文芸的なテーマや論理の運び、盛り上がり具合も似ている。「海行かば」の「ば」が、『ここに幸あり』にも用いられている。
 [前者の「大君」は、後者の「君」とは、別だ]とは言い切れない。いくら民主化したからと言って、女が男を「君」と呼ぶのは、おかしい。この「君」は、古語であるはずだ。古語の「君」は、女性の言葉と取ることも可能だが、また、主君に向けられたものと取ることも可能だ。[主人]という言葉の含みも勘案すれば、政治と恋愛は、文脈を、そっくり、交換できる。『ここに幸あり』に謳われた「君」は、昭和天皇を暗示する。象徴天皇に対する象徴主権者である大衆は、自己像を、忍耐によって幸福を得る乙女として、思い描いた。
 こうした曖昧な影響関係は、『ここに幸あり』の作者側が意図的に作り出したものとは言えない。しかし、[第二次大戦後の日本人は、『海行かば』の否定的継承として、『ここに幸あり』を熱狂的に受け入れた]という推測はできる。想起に先立つ封印とでもいった、不合理な感覚は、熱狂に移行しやすい。
 『海行かば』は勇壮な出陣の歌として作られたはずだが、大衆は戦死者に対する悲しみの表現として受け取ったようだ。一方、『ここに幸あり』はラヴ・ソングだが、大衆は、生活苦からの脱出の夢を、この歌に託したことだろう。二つの楽曲は、裏表で、複雑に互いを支え合う。こうした読み替えは、消極的な意味で創作と言える。そして、この種の読み替え作業を、制作者の側は予定に入れていないとは言えないから、事情は複雑だ。受発信の構図は、鮮明ではない。
 なお、『海行かば』から『ここに幸あり』への媒介として、『異国の丘』(増田幸治+吉田正、1948)を想定することもできそうだ。
  以上を総合すると、典故の使い方は、およそ三つに分けることができる。
 すなわち第一は、典故を知らないとその部分の意味が全くわからないか、
 少なくとも著しく不完全となるもの、第二は典故を知らなくてもいちお
 うの理解はつくが、知っていればいっそう深く、完全に理解できるもの、
 第三は作者自身は必ずしも典故を使うという意識はなく、また典故を知
 らずとも解釈がつくように書かれてあるのだが、読者の一人がここに典
 故があると言いだし、注などをつけ加えることによって、つまり他人から
 指摘されて典故を使ったことになってしまった場合である。これは作者
 自身の意図と無関係のように見えるが、たとえば作者がある書物を読ん
 で、強い感銘を受けたときなどには、自分の書くものの中に無意識のうち
 にその書物の言葉や内容が影響してくるものであり、他人から指摘され
 て作者本人も初めてそれに気づく、といったことがある。この場合の典故
 は、一・二のケースとは多少意味が違うのだが、中国の伝統的な注釈では、
 とくに区別を設けないのが通常である。
                     (前野直彬『中国文学序説』)
 Nの言葉には、膨大な「典故」があると想像される。それらを逐一発見し、そして、捻り具合をも考慮しなければ、Nの言葉は、日本語として理解可能な領域に入らないと、私は思う。この作業で厄介なのは、「典故」の「第三」に分類されるような表出を、作家の「無意識」と混同する危険があることだ。勿論、[「典故」の発見されていない文の由来を、取り敢えず、「無意識」と名付けてしまえ]というルールを作っておけば、話は別だ。あるいは、[「無意識」とは、まだ、発見されていない「典故」のことだ]というのが心理学の定説なら、別だ。
 『こころ』が[親を捜す子の物語]を[世界]にしていたとしても、その趣向は、否定的な趣向だ。あるいは、疑問符付きだ。[親を捜す子の物語]の見せ消ちとして、『こころ』は表出されていると言うべきか。
//「三人の関係」
  私は母に対して反感を抱くと共に、子に対して恋愛の度を増して行っ
 たのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ま
 した。
                               (68)
 静に対するSの気持ちが「殆んど信仰に近い愛」(68)として固まっているのなら、静ママが何をどうしようと、Sが痛痒を感じるはずはないような気がする。静ママへの「反感」は、財産目当ての「策略家」(69)という「疑問」(69)の前提になるから重要なようだが、財産は自分がきちんと管理していればいいのであって、「三人の関係」が問題になるのは、静も「策略家ではなかろうか」(69)という方向にカーブしたときのはずだ。
 ここは、[静に対する恋愛の度を増すほどに、静ママに対する反感の度も増した]の誤記ではないらしい。誤記だとしても、十分に「複雑」だ。平凡に考えれば、[静に対する恋愛の度を増すほどに、静ママに対する反感が減った]となるはずだから。
 普通なら、[x軸に静への好感度を取り、y軸に静ママへの好感度を取ると、xにyが負の正比例をする]と記述するところだろう。あるいは、[愛情の量が一定なので、xが減れば、yが増える。x+y=k(一定)]とでも記述するか。
 ところが、ここでは、[x軸に静ママへの「反感」を取り、y軸に静への「恋愛」を取ると、xにyが正の正比例をする]と記述されているらしい。
 この現象を単純に記述しようとすること自体が、間違いなのかもしれない。ここには、現象をわざと「複雑」にしたがるSの傾向が、語り手Sの記述法として表出されているのかもしれない。
 もしかしたら、この文の前提に、[Sは、静ママに対して好感を「抱くと共に」、静に対して「恋愛の度を増して行ったので」、「三人の関係は下宿した始め」には「複雑」ではなかった]という文があるのだろうか。この文は、私には「複雑」だが、作者には「複雑」ではないと考えられていて、省略されたのだろうか。あるいは、この前提の文が語っている「三人の関係」こそ、本当は「複雑」なのであり、それが、作者にとって、あまりにも「複雑」なために、隠蔽されたのかもしれない。だから、明示された文が語る「三人の関係」が「複雑」だと言うよりは、明示された文自体が「複雑」になったのかもしれない。
//「直覚」
  私は奥さんの態度を色々綜合して見て、私が此所の家で充分信用され
 ている事を確めました。しかもその信用は初対面の時からあったのだと
 いう証拠さえ発見しました。他を疑ぐり始めた私の胸には、この発見が少
 し奇異な位に響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に
 富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、欺まされる
 のも此所にあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう観察する
 私が、御嬢さんに対して同じような直覚を強く働らかせていたのだから、
 今考えると可笑しいのです。私は他を信じないと心に誓いながら、絶対に
 御嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを
 奇異に思ったのですから。
                               (69)
 Sは、静ママに「信用」されていた。勿論、そうだろう。そうでなければ、下宿させては貰えまい。ところが、Sの語る「信用」というのは、そんな平凡なものではないらしい。「信用は初対面の時からあった」という言い回しは、「先生は始めから私を嫌っていたのではなかった」(4)という言い回しを思い出させる。SがPをどう思っていたか、明らかでないように、静ママがSをどう思っていたか、作者は明らかにしたくないのかもしれない。
 次に、[Sは「他を疑ぐり始め」ていたので、静ママが、彼女にとっての「他」であるところのSを「信用」するのは、おかしいと感じた]と書いてあるらしい。しかし、この文は、おかしい。語られるSには、「この己は立派な人間だという信念が何処かにあった」(106)はずだ。「立派な人間」が「信用」されるのは、当然だろう。だから、「直覚」という話題に繋がるはずだ。ところが、[「直覚」のせいで、「女が男のために、欺まされる」]という話になる。分からない。
 「女」の「直覚」には疑問符が付くので、[静ママは、Sを信じる]という文の価値が下がる。ここまでは、いいとしよう。しかし、「女」の「直覚」を疑ったからには、「男」の「直覚」については、暗に支持されるはずだ。だから、[Sは、「直覚」によって、静を信じる]という文は妥当だ。どこが「可笑しい」のか。男女を問わず、「直覚」そのものの有効性を疑うのなら、「男」だの「女」だのと、うるさいことを並べるのは、おかしい。
 とにかく、[静ママの「直覚」は正しくない/しかし/Sの「直覚」は正しい]というのは「可笑しい」と、Sは語っているらしいから、[「直覚」というものは、誰のものでも、正しいか、正しくないか、どちらかだ]という前提があるのだと考えよう。すると、ここには、「Sの「直覚」は、静に対して正しいから、静ママの直覚」も正しい]という文が仄めかされているのだろうか。そして、その仄めかしを梃子にして、話題は、「信用」へと戻って行くのだろう。
 どうにも、捕らえがたい話だ。静ママの「直覚」は、Sが想像したものでしかない。一方、Sの「直覚」は、Sの想像ではないはずだ。だから、「同じような直覚」という記述は、危ない。想像と心理的事実とを並べても、答えが出るはずはない。もし、答えを出してしまったとしたら、その方が、ずっと、おかしなことになる。だから、ここで、語られるSが答えを出してしまわなかったことは、おかしくはない。だが、語り手Sは、答えを仄めかしているつもりらしい。
 次に、[Sは、他人を信じない/Sは、静を信じる]という文は、おかしいと言えば、おかしいが、もともと、[Sは、他人を信じない]という文が疑わしいのであって、[Sは、他人を、あまり、信じない]と訂正することは、容易だ。むしろ、訂正後の文の方が常識的なものだろう。ここは、[Sが静を好きになる理由は、「直覚」以外には、ない]と書いてしまった方が、すっきりとしそうだ。
 [Sは、他人を「信用」しない]という文が不動のものであったとしても、この文は、[静ママは、他人を「信用」する/しない]という文とは、関係がない。この二つの文を繋ぐためには、[人間は、他人を「信用」しない]という文が必要になる。しかし、そのような文を含む物語は、『こころ』には、ないはずだ。奇妙な「覚悟」(14)宣言なら、ある。ただし、それは、この時点より、ずっと未来であり、その時点でも、[「覚悟」の由来の物語]は、ない。「他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなった」(106)という感想は、[Sは、他人も、自分も、「信用」しない]という文を導きはするが、[人間は、他人を「信用」しない]という文を導きはしない。[Sは、他人も、自分も、「信用」しない]という文は、[人間は、他人を「信用」しない]という文の補強にすらならない。だから、もし、この文を強調したくて、[SとKの物語]を設定したとしたら、作者は無駄な努力をしたことになる。
 [人間は、他人を「信用」(69)しない]という文の前提には、[他人は、私を「信用」しない]という文があるのだろう。この前提の文の[他人]の部分に、[私]にとっての[他人]である[人間]を代入し、その[人間]にとっての[他人]の一人である[私]の部分に[他人]を代入すると、[人間は、他人を「信用」しない]という文ができる。つまり、[人間は、他人を「信用」しない]という文は、[Sは、他人を「信用」しない]という文からだけできているのではない。[Sは、他人に「信用」されない]という文が混入している。
 [私は、他人に「信用」されない]という文の由来は、定かではない。「叔父は何処までも私を子供扱いにしようとします」(62)というのが、由来の物語なのかもしれない。もし、そうだとしたら、Sが「叔父」と絶縁した理由は、部分的に隠蔽されているのかもしれない。「叔父は私の財産を胡魔化した」(63)という言い回しに、「胡魔化し」はないか。「訴訟にすると落着までに長い時間がかかる事も恐れました」(63)という言い回しに、「胡魔化し」はないか。Sは、「叔父の顔を見まいと心のうちで誓った」(63)というが、「叔父」の方では、[再び、Sの顔を見たい]と願ったろうか。Sは、「叔父]を捨てたのではなく、僅かな金を与えられ、放逐されたのではないか。いや、事実はどうであれ、語られるSは、無用者扱いされたことで、自尊心を傷つけられたのではないか。Sは、「叔父」という「個人に対する復讐以上の事を現に遣っているんだ」(30)と言って、「人間というものを、一般に憎む」(30)と呟くわけだが、そんな指しゃぶりみたいな心理遊戯など、「復讐」以下と言うべきだ。本当は、「復讐」する力がないのだろう。Sは「叔父」によって、徹底的に痛め付けられ、「復讐」心さえ持てないほど、腑抜けになってしまったのだろう。「世間に向って働き掛ける資格」(11)ではなく、気力を、根こそぎ、引き抜かれてしまったのだろう。だが、この物語は隠蔽されている。決して明るみに出せない、強烈な恥なのではないか。
 語り手Sは、静ママが他人を「信用」することに驚いて見せるが、語られるSが驚いたのは、自分が「充分信用されている事」だったはずだ。「他を疑ぐり始めた私の胸には、この発見が少し奇異な位に響いた」というときの「疑り」とは、[他人は、Sを「信用」するのか]というものだったのではないか。だからこそ、静ママの「信用」によって、Sは勇気付けられ、静を「愛」(68)の対象とするまでに回復した。「色気」(61)だけなら、前から、あった。
 要するに、Sが驚いたは、[自分は、他人にとって、価値ある存在だ]と「発見」したためだろう。しかし、Sは、このような「発見」に驚くような育ち方をしてはいない。この矛盾を作者が隠蔽するので、「遺書」は意味不明になる。


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