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#074[世界」34先生とA(24)「絶体絶命」 //「絶体絶命」 利害問題から考えて見て、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って 決して損ではなかったのです。 私は又警戒を加えました。けれども娘に対して前云った位の強い愛を もっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょ う。私は一人で自分を嘲笑しました。馬鹿だなといって、自分を罵った事 もあります。然しそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も 感ぜずに済んだのです。私の煩悶は、奥さんと同じように御嬢さんも策略 家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背 後で打ち合わせをした上、万事を遣っているのだろうと思うと、私は急に 苦しくって堪らなくなるのです。不愉快なのではありません。絶体絶命の ような行き詰った心持になるのです。それでいて私は、一方に御嬢さん を固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立っ て、少しも動く事が出来なくなってしまいました。私には何方も想像であ り、また何方も真実であったのです。 (69) 「信念と迷いの途中」にあるものは何かと考えると、[普通]なんじゃなかろうかと思うが、違うらしい。不安か。しかし、「不安」(67)なら、前からあった。 「何方も想像であり、また何方も真実であった」というのは、「矛盾」というよりは、無意味だ。[「何方も想像」か、「何方」かが「真実」か]というのでなければ、おかしい。あるいは、そもそも、「矛盾」など、ないのだろう。 [語られるSは、「馬鹿」か/「馬鹿」じゃないか]という問題に取り組む前に、語り手Sの論理の整合性を検討しなければならない。「遺書」の内容は、語られるSにとってではなく、語り手Sにとって、「想像」ではないのか。Sは、静に対して、最期まで、「信念と迷いの途中」にあったのではないか。 [静に対して「強い愛をもっている」Sが、静ママに対して「警戒を加えたって何になる」か]という疑問は、意味が取れない。[静に対して「愛」をもっていないSなら、静ママに対して「警戒を加え」ることが、何かにはなる]という前提でもあるのか。では、静への「愛」がなくても、Sは、静ママと「特殊の関係」をつける気なのか。静への「愛」があるからこそ、[静ママ「策略家」疑惑]は、「煩悶」にまで拡大するのだろう。しかし、静への「愛」は、静ママへの疑惑をものともしないほど「強い」から、「苦痛を感ぜず」にいるといった事態ではないのか。違うらしい。「煩悶」は、その後から始まるようだ。 静ママ同様に、静も「策略家ではなかろうかという疑問に会って」いながら、静を「固く信じて疑わなかった」という話は、無意味だ。[「動く事」ができる/できない]といった問題以前の話だ。しかし、作者は、どうしても、「矛盾」を提示したいらしい。「矛盾」がお気に入りらしい。 自分に対して、「馬鹿」などという言葉を、繰り返し、投げかけながら、語られるSも、語り手Sも、何を騒いでいるのか。「それだけの矛盾」の「それ」は、何を指すのか。どこに「矛盾」があるのか。静母子の目的の一つがSの金銭にあったとしても、[静は、Sを好く]という文に変化はない。[Sと静の「愛」の物語]は、大筋としては、うまく行っている。そこに、[金に汚い姑]という、古臭い[世界]が趣向されただけではないのか。しかも、姑が婿の「経済状態」を考慮するのは、義務と言ってもいいようなことだ。静母子に「取って決して損ではなかった」という状況は、小金持ちのSにとっても「決して損ではなかった」はずだ。また、Sの財産を当てにしていたのが、静ママだけではなく、静もそうだとしたところで、そのせいで静への「強い愛」が弱くなるのでもなく、「御嬢さんを固く信じて疑わなかった」というのだから、どこに問題があろう。 多すぎる金銭が障害なら、Sは、全財産を、「殆んど信仰に近い愛」(68)を捧げる静に寄進すれば良かった。しかし、語られるSは、そんなことを想像するどころか、守りに入るのだし、そのことを語り手Sは当然のように回顧するのだから、語り手Sの用いる「信仰」や「愛」という言葉のニュアンスがどの程度のものか、察するに余りあると言えよう。 まるで、Sには、[静母子は、より富裕な男が出現すれば、その男を選ぶ]という妄想でもあるかのようだ。だから、[今でさえ、不安なのだから、もっと貧乏にはなれない]と思っていたのだろう。富裕という点では、Sの属性は、Kの属性に比べれば、『浮雲』(二葉亭四迷)や『金色夜叉』(尾崎紅葉)などの敵役に近いと言える。だから、読者は、SよりもKに同情しそうなものだが、SがKに同情するという設定なので、読者には同情する対象がない。 語られるS、あるいは、語り手Sは、静と静ママの意向が同一であることを期待する。その場合、静ママの意向が金銭目当てだったとすると、[静も、金銭目当てだ]という結論になる。そんな、おかしな論理が展開されているところか。そうだとして、だから、何なのだろう。静が「策略家」だったとしても、[静は、結婚詐欺を働く]という意味ではなかろう。もし、[静は、静ママに唆されて、我が身を餌に、男を誘う]というのなら、静は、加害者である前に、被害者だろうから、[静救出劇]が始まるべきだ。そのとき、Sの個人的感情は、棚上げだ。 Sは、K導入以前では、[静ママは、Sを好く]という文を手に入れることができないらしい。一方、[静は、Sを好く]という文は手に入ったと信じている。だから、[静母子は、Sを好く]という文は、まだ、手に入らない。[静母子は、Sを好く]という文が否定されると、[静は、Sを好く]という文も怪しくなる。そんなことが語られているのだろうか。もし、そうであれば、言うまでもなく、語り手Sは、不合理な主張をしているわけだ。[静母子は、Sを好く]という文の否定は、[静も、静ママも、Sを好かない]という文ではない。[静か、静ママか、その両者かが、Sを好かない]という文だ。 ここには、[Sは、静と静ママを識別できない]という事態が隠蔽されているのではないか。その隠された心理が、「二人が私の背後で打ち合わせをした」という妄想となって、表出されるのだろう。勿論、静と静ママがSのいないところで打ち合わせをしていたとしても、母子なのだから、ありふれたことだ。打ち合わせをしなかったと考える方が、どうかしている。 Sは、なぜ、静と静ママを識別できないのか。Sが、静、あるいは、静ママに対して、受け身の立場でしか生きられないからだろう。自分が誰の意を酌むべきなのか、分からないのだろう。 静と静ママを識別するためには、何らかの「方面」(68)から、Sが静に「近づく」(68)必要がありそうだ。近付けば、その近づき方によって、自分の気持ちが確認できる。しかし、そうすることはできない。Sは、受け身の対応しかできない体になっているからだ。受け身のSが捨て身で動き出すのは、追い詰められたときだ。「男の声」(70)やKに脅かされて、やっと、Sは自分から動き始める。言うまでもなく、「男の声」やKが、実際に、Sに向かって、具体的に何かを仕掛けたとは言えない。すべて、Sの思い込みで、十分だ。正体不明の「男」やKが静と結婚したがったとしても、だから、Sが動くのではない。そんな理由で結婚を望むのは、おかしい。Sは結婚を望んでいたが、その希望は夢のようなものだった。「なるべく緩くらな方が可い」(72)というのは、S自身についての気持ちの表出であり、婉曲的表現とさえ言える。静ママは、そのように、Sの気持ちを読んでいた。だから、後に、静ママは、Sの気持ちを知っていた。だから、Sの申し出に、「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか」(99)と応じる。静ママが問題にしているのは、時期であり、申し込みそのものの可否ではない。 整理しよう。第一に、[Sの「煩悶」は、静が「策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起る」]という。次に、[静母子「二人が私の背後で打ち合わせをした上、万事を遣っているのだろうと思うと」「絶体絶命のような行き詰った心持になる」]という。最後に、[「信念と迷いの途中に立って、少しも動く事が出来なくなって」しまう]という。 [静は、静ママと「打ち合わせ」をしたにせよ、しなかったにせよ、「策略家」であってほしくない]と、Sは思うのだろう。思うのなら、[「二人が」「打ち合わせをした上で」]という仮定を引き込む必要はない。この仮定を引き込むからには、[静は、単独では、「計略家」ではあり得ない]という前提があることになる。この前提の文は、「信念」によって裏打ちされているのだろう。最後に用いられる「迷い」という言葉は、「疑問」と同値だろうか。同値だとすると、その内容は、[静は、静ママに操られた「計略家」か]という文になるはずだ。すると、「信念と迷いの途中」という言葉が指し示しているのは、[静は、静ママに操られているのか/いないのか]という二者択一の疑問だったことになる。 静が誰に操られていようと、Sが静に「強い愛をもっている」のだから、静を疑うのは無効だ。となると、この疑問は、静に向けられたものではなく、[静ママは、静を操っているのか/いないのか]という疑問の偽装されたものだったことになりそうだ。つまり、この段落は、[Sは、静ママに「警戒を加える」]という話題で一貫していたわけだ。 静ママへの疑いは、Sが静ママをもっと信頼するための疑いとして解釈することができる。もともと、Sの人間不信は、「叔父」一家の事件にのみ起因するのではなかった。Sママの臨終の場面(57)から始まっている。Sは、静ママに心を許し始め、武装解除をしようとして、その反動として、恐れを抱いたのだろう。鈍感になっていた情緒が活性化し始める。好転反応。患者が、医者と過去の加害者を同一視し、劇的な攻撃を始めるようなものだ。静ママはダミーなのだが、誰のダミーなのか、不明だ。本体は、『こころ』の中にいない。語り手Sが嘘をついているのでなければ、作者の表出だろう。 作者は、静ママを疑っている。傷ついたSにとって、静ママを疑うことは好ましいことだ。語られるSは、このとき、自分の抱いた疑いを静ママにぶつければ、良かった。しかし、語られるSは、おとなぶって、「自分を嘲笑」したり、「自分を罵った」りする。その方が、楽だからだ。後に、Sは、Kにも疑いをぶつけられない。語り手Sは、語られるSが選んだ、楽な道を支持する。語り手の欺瞞と、作者の勘違いの間で、語られるSは「少しも動く事が出来なくな」る。 語り手Sは、語られるSと一体化して、本気で、[静母子「策略家」疑惑の物語]を、せっせと記述する。語り手Sには、反省能力がない。[静母子「策略家」疑惑の物語]は、語り手Sの時間においても、持続しているかのようだ。そんなはずはない。しかし、簡単には却下できない。作者は、ここで、Sの苦悩が深化したかのように語りたくてならないらしい。語られるSの人間不信のターゲットは、語られるSの妄想としてではなく、作者の偽装として、静ママであり、そして、そのことを隠蔽するために、静が巻き込まれたらしい。 「叔父」一家の事件でも「従妹」が連座させられた。しかし、静は連座させられない。『彼岸過迄』では、須永は、義母を疑わず、三千子だけを疑った。[須永の義母に対する/作者には根拠のある/須永には隠された/疑い]が、[静ママに対する/作者には根拠のない/Sには隠されない/疑い]として、再話されているらしい。その中間で、「叔父」一家の事件が濾過器のように機能するのか。 静ママへの根拠のない疑いと、須永の義母への隠蔽された疑いとが、どこかで重なるとしたら、その重なった部分に、母性への根本的な疑いが潜んでいるのだろう。単純な疑いではない。疑いという言葉では括れないような感情だろう。裏切られたような思いか。裏切り者を告発する前には被害の感情を思い出さなければならないが、思い出すこと自体が激しい苦痛を伴うので、思い出せない。あるいは、苦痛すらないような、空白の感情。「寂寞」(106)か。「自分の胸の底に生まれた時から潜んでいるもの」(107)か。それを明示しようとすると、「自分の頭がどうかしたのではなかろうか」(107)と勘違いするほどの苦痛、恐れ、破滅的な感情。 作者は、静ママが人間不信の象徴としてあることを明示できない。暗示すらできない。ただ、ぼろぼろと表出してしまう。[母性に対する不信]は、裏面では作者の物語に属し、表面ではSの好転反応としての空想でしかない。裏では、重過ぎる。表では、軽過ぎる。こうした事態を明示しないままでは、「三人の関係」(68)を、[Sと静ママの物語]と[Sと静の物語]に分けて叙述することは難しい。勿論、この叙述法を取れば、語り手Sは、「叔父」一家の事件を再検討しなければならなくなる。すると、物語を、どんどん、遡り、両親の死の場面から語り直すことになる。すると、「遺書」は全面改稿。「遺書」のための[P文書]も、再検討。よって、『こころ』は、ボツ。構想だけの「長い自叙伝」(110)に戻る。 もともと、語られるSが「行き詰った」としても、読者に心配はない。語られるSが静と結婚することを知っているからだ。いや、常識として、語られるSの物語は、語り手Sの語り始めの現時点まで続くに決まっている。ところが、語り手Sは、あたかも、作者であるかのように、語られるSの物語の先行きが見えないらしい。語られるSが「行き詰まった」時点で、語り手Sも「行き詰まった」らしい。本当は、作者が「行き詰まった」のだろう。 作者は、[「信念」の物語]と[「迷い」の物語]のどちらを描くべきか、決定できず、「絶体絶命のような行き詰った心持に」なっている。「少しも動く事が出来なくなってしま」った。二つの物語のどちらの物語を選択しても、[「信念」と「迷い」の、どちらか、一方が「真実」であり、もう一方はSの「想像」でしかなかった]というふうな語り方をしなければならない。しかし、作者にとっては、「何方も想像」でしかない。その「想像」の「何方」の物語の中でも、それぞれのSにとって、「真実」として、語らねばならないが、「何方」にも「真実」はない。いや、物語がないのだろう。 この二者択一は、いわば袋小路だ。だから、先へ進みたければ、その前の話題、つまり、静ママへの疑いに引き返すべきだ。しかし、作者は引き返さない。 物語の停滞が語られるSだけの問題なら、「行き詰った」り、「動く事が出来なくなっ」たりしても、読者は困らない。語られるSでさえ、静に「肉の方面から近づく念の萠さなかった」(68)のだから、ここで時間が永遠に止まったとしても、ハッピーだったはずだ。ところが、突然、「思い切って奥さんに御嬢さんを貰い受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくありました」(70)という話が飛び出す。 へえ、「何度となく」ねえ。それを先に言ってよ。婚前性交渉の禁忌を仄めかすのが目的だったのなら、えらく手間取ったみたいだねえ。 「話をして見ようかという決心」という言い回しは、まどろっこしい。[話をする決心]では、いけないのかな。「何度となく」あったことが、「決心した事」でしかなく、[「話」をしたこと]ではないのだから、こんな証言には何の価値もない。結婚の申し込みをする前に、「何度」か、迷わない方が、おかしい。[「何度」か]と「何度となく」が、具体的に「何度」の違いなのか、私には想像できない。そもそも、「決心」だろうが、夢想だろうか、実行しなかったことの回数など、問題にしても始まらない。「決心」なら、一度すれば十分だろう。その後は、「打ち明ける機会」(88)を狙うだけだ。「何度となく」「決心した」という事実は、それと同じ回数だけ、「何度となく」決意を翻した事実を含む。[Sと静の物語]の主題は、[結婚したがる物語]なのか。それとも、[結婚したがらない物語]なのか。 『こころ』読者は、[Sは、静を「貰い受ける話を」「何度となく」した]という物語を思い描き、そして、それが実現しなかった不幸のようなものを感受するのだろうか。現実には、[Sは、静を「貰い受ける話を」一度もしなかった]ということを忘れてはいないか。[「何度となく」やってみて、失敗しても、諦めなかった]という、忍耐の物語ではない。[「何度となく」「決心した」が、その気持ちを翻したという、優柔不断の物語が語られている。いや、もしかしたら、優柔不断ですらなく、結婚への恐怖、忌避などが隠蔽されているのではないか。 Sは、いつ、どのようにして、静との結婚を思い立つのだろう。「男の声」(70)がしてからだ。「行き詰った」作者は、語り手Sに、「ただ思い出した序に書いただけで、実はどうでも構わない点」(70)とやらを通過させてから、「どうでも可くない事が一つあった」(70)ことを思い出す。それが「男の声」だ。語られるSは、語り手Sが「男の声」について記す前から結婚を考えていたようには、見えない。語られるSは、語り手Sが「男の声」について記述した後に、静との結婚を思い立つ。不合理だが、そのように読める。作者は、「男の声」によって、静ママへの疑いを塗り潰した。 静への二股道は、この段階では、[世界]としては、どちらも選ばれない。「私は、これから先どんな事があっても、人には欺されまい」(70)という宣言のような何かによって、[「迷い」の物語]は後退するが、「迷い」が消えるわけではない。「狐疑というさっぱりしない塊がこびり付いて」(72)いる。物語は、語られるSと静とがかまととこいてる間に、[お披露目](71)から[婚約内定](72)へと転がって行く。この展開を仕組んだのは静ママのようだが、そのことに語られるSが思い当たらなかったためか、驚くべきことに、語り手Sも思い当たらない。静ママへの疑いは、ただ、脇へと遣られただけなのに、もう、意味がない。静ママへの疑いは消えはしないが、[静ママへの疑いは、消えた/消えない]という物語もない。静への疑いの深刻さに偽装されて、静ママへの疑いは見えなくなる。とはいえ、[婚約内定]によって、静への疑いが消えたり減ったりするわけでもない。勿論、増えもしない。[静母子は「策略家」(69)か]という話題は忘れましょうよということなのかもしれない。そういうことでさえ、ないのかもしれない。作者が忘れたいだけなのかもしれない。 さらに、静への疑いは、Kへの疑いと混同される。Sの静への思いが固まっていないらしい時点でKを導入するのは、作者にとって危険だったはずだ。SとKの、どちらが間男だか、読者には分からない。作者にも、分かるまい。ところが、静ママが仕組んだとしか思えないような[お披露目]から[婚約内定]へという展開があるために、静に対してSに優先権があるかのように、読者は思い込む。この展開を、もし、語り手Sが、[静は、一度も、Kに心を寄せたことがない]という認識を土台にして回想しているのだとすれば、語られるSは道化者でしかない。しかし、語り手Sは、語られるSをそのようには描かないし、作者さえ、そのようには描かない。[Sは、静を疑う/と同時に/Sは、静を信じる]というナンセンスは、次の[世界定め](88)まで、棚上げにされる。 「絶体絶命のような行き詰った心持になるのです」(69)という文は、「こんな訳で私はどちらの方面へ向っても進む事が出来ずに立ち竦んでいました」(89)という文に繋がるはずだ。あれれ、まだ、やってるって感じだ。つまり、その間に語られた[SとKの物語]に、大した意味はなかったわけだ。[SとKの物語]は、静への疑いを混乱させるためにあり、静への疑いは、静ママへの疑いを隠蔽するためにあった。 「奥さんと御嬢さんと私の関係がこうなっているところへ、もう一人男が入り込まなければならない事になりました」(72)というときの「なければならない」という言い回しは、作者の表出だろう。静ママへの根本的な疑惑を浮上させずに、[Sと静の「愛」の物語]を発展させるためには、「男」Kが必要だった。しかも、Kは、作者にとってではなく、語られるSにとって、必要だったらしいから、「遺書」は、いよいよ、怪しげなものになって行く。 作者は、「信念と迷いの途中」と、K登場の間に、二つの挿話を必要とした。一つは、Sと静の[婚約内定]であり、もう一つは、「男の声」(70)だ。「男の声」がKの肉体を獲得するには[婚約内定]が必要で、[婚約内定]のためには「男の声」が聞こえなければならない。 また、[SとKの友情の物語]は、[SがKに「嫉妬」(81)する物語]にとって、必要条件ではない。[「嫉妬」の物語]のためには、「もう一人男」が、高木(『悲願過迄』)のように、ふらりと出現するので、十分だ。では、なぜ、Kなのか。Kになら、勝てそうだからだろう。誰が? たしかに、ほれた他人の女房をひとりじめにしたいという気持ちは、あ の犯罪を思いついたとき、かなりの比重を占めていた。しかし、とうとう 人殺しをしてしまったのは、たぶんそれ以上に、カミーユにとって代わ り、カミーユのように世話をやいてもらいたい、四六時中いい思いをして いたいという希望からだった。情熱にかられただけだったら、あんなに臆 病な、あんなに用心深い態度はとらなかっただろう。 (ゾラ『テレーズ・ラカン』18、篠田浩一郎訳) //「罪滅し」 静ママは、SがKを導入するに当たって、「止せ」(72)と言う。この台詞は、語り手Sの含みとしては、[静ママがSとKの暗闘を危惧したもの]ということになるのだろう。作者は、[SとKの物語]が静母子の「策略」(69)によるものではないことを示唆したかったのかもしれない。須永(『悲願過迄』)の義母が須永と高木の暗闘を望まなかったらしいのと同じように、静ママもSとKの暗闘を望まないかのように描かれる。勿論、女達は男達の暗闘を望んではいないが、作者は、それが女達によって望まれたものであるかのように空想し、そして、そっと否定する。 語られるSは、[「信仰」(68)の物語]や[「迷い」(69)の物語]が静を「専有」(86)するための障害になっているので、わざわざ、Kを導入した。[SとKの物語]は、静母子への疑いを迂回して、静に接近するための欺瞞の物語だ。静と接近が果たされれば、Kは使用済み燃料として、遺棄される。もし、Sが静ママを疑わなければ、静を疑うこともなく、Kを導入する必要もなかった。したがって、Kが死ぬこともなかった。『こころ』の悲劇の根本は、Sが静ママを信じ切れなかったことにある。 作者の母性への疑いは、Sの静ママへの疑いとして表出されると、恐れ戦くかのように、Sが「人間の罪」(108)を自覚する。そして、Sの精神は、贖罪を求め、ふらふらと舞い上がる。 静ママを看取ったSは、次のように記す。 世間と切り離された私が、始めて自分から手を出して、幾分でも善い事 をしたという自覚を得たのはこの時でした。私は罪滅しとでも名づけな ければならない、一種の気分に支配されていたのです。 (108) 語り手Sは、語られるSが「世間と切り離された」きっかけを、「叔父」一家やKの事件に求めた。その物語が妥当だとしても、その後、Sを「世間と切り離された」ままにしていたのは、Kをすら拒否した静ママではなかったのか。「始めて自分から手を出して」という言い回しを文字通りに取れば、Sは、静ママの死を前にして、ようやく、自発的に行動したことになる。 「罪滅し」の「罪」とは、何か。Kを死なせたことに限定すべきではない。「罪」とは、「もっと大きな意味からいうと、ついに人間の為」(108)にならないような種類のことであるはずだから。「罪」とは、静ママを疑ったことだ。いや、「もっと大きな意味からいうと」母性愛を疑ったことだ。その罪のために、Sは死ななければならない。Sは、母性への「狐疑」(72)の「罪」を、死によって贖う。 作者にとっては、母性を疑うことが「罪」なのではない。母性を疑うことそのものが、疑う作者を死に接近させるのだろう。疑うSの死を描くことによって、作者は、自分の疑いをSに預け、自分の死を「繰り延べた」(110)か。 死ぬんじゃない、また会えるんです。あなたのお母さまに会えるんで す。ぼくは会います。見つけ出すでしょう。そうしてお母さまにぼくの心 のありったけをぶちまけます。 (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳) |