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#075[世界]35先生とA(25)「美くしい恋愛」 //「罪悪」 Sに、「とにかく恋は罪悪ですよ。よござんすか。そうして神聖なものですよ」(13)と言われて、Pは、「先生の話が益解らなくなった」(13)と記す。そして、愉快なことに、「先生はそれぎり恋を口にしなかった」だけでなく、Pも、Sに対して「恋を口にしなかった」らしい。 Pが「益」と記すのは、「恋は罪悪」という考えに反対だからだろう。ということは、[「恋」は「神聖」]という考えには賛成するのだろう。参ったね。[「恋」は「神聖」]という考えの方が、理解しがたいはずだ。[「恋」が「神聖」]なら、[結婚が「罪悪」]とでもなるか。[「恋」は「罪悪」だが、結婚を予定していれば、「神聖」だ]となるのか。本質的に「神聖」なのは、古今東西、結婚であって、「恋」ではない。Sは、回り道をしてはいるが、一般的な考えを口にしているだけだ。だから、Pが、この「話が益解らなくなった」と記すのは、おかしい。作者は、ここで、Pを道化者にして、「恋は罪悪」という考えが、あたかも一般的なものであるかのように、暗示しているところなのかもしれない。 Sは、「恋は罪悪」という考えを語るとき、本気で、「真実を話している気でいた」(13)のか。そのつもりなら、理解できないPに、Sは、びっくり仰天すべきだろう。Sは驚かないのだから、作者は、逆説好きが高じて、言葉の裏表を逆転させていることに気づかないのではないか。もしも、そうならば、Nの言葉は、いちいち、引っ繰り返して、点検して見なければならないことになる。、そして、その可能性は、小さくない。 歌にきけな誰れ野の花に紅き否むおもむきあるかな春罪もつ子 (与謝野晶子『みだれ髪』2) 然れども恋愛は一見して卑陋暗黒なるが如くに其実性の卑陋暗黒なる 者にあらず。 (北村透谷『厭世詩家と女性』) 「恋愛は一見して卑陋暗黒なる」ものだ。この程度のことで実例を挙げていたら、切りがない。 あるいは、「恋は罪悪」という表現は、逆説ではなく、舌足らずなのかもしれない。例えば、[「恋」が原因で、人は「罪悪」をなすことがある]というようなことを言ったつもりなのかもしれない。しかし、この場合も、おかしい。もし、この論法が通用するのなら、空腹のために盗みをすれば、[空腹は「罪悪」]と言わねばならない。いや、Sなら、言いかねない。Nの作った人物が何を言うか、予想はできない。 人間の作った夫婦という関係よりも、自然が醸した恋愛の方が、実際神 聖だから、それで時を経るに従がって、狭い社会の作った窮屈な道徳を脱 ぎ棄てて、大きな自然の法則を嘆美する声だけが、我々の耳を刺戟するよ うに残るのではなかろうか。尤もその当時はみんな道徳に加勢する。二人 のような関係を不義だと云って咎める。然しそれはその事情の起った瞬 間を治める為の道義に駆られた云わば通り雨のようなもので、あとへ残 るのはどうしても青天と白日、即ちパオロとフランチェスカさ。 (『行人』「帰ってから」27) 「人間の作った夫婦という関係」/「自然が醸した恋愛」/「実際神聖」/「時を経るに従がって」/「狭い社会」/「窮屈な道徳を脱ぎ捨てて」/「大きな自然の法則を嘆美する声」/「我々の耳を刺戟する」/「道徳に加勢する」/「瞬間を治める為の道義」 下宿でお湯掛けて3分のリポートを読まされているような感じだよ。本気で聞くけど、この引用文を笑わずに読めますか? [結婚よりも、「恋愛」の方が「神聖」だ]というのは、[亀が兎に勝った]という話を聞いて、[亀は、兎よりも足の速い動物だ]と主張しているようなものだ。 でも、ここは、無理に同情して読むことにすれば、[この語り手は、「恋」は「神聖」という逆説を主張しようとしながら、それを逆説だと認めたくないものだから、話がこんがらがって、自分でも何を言ってるのか、分からなくて、苛々して、聞き手に八つ当たりをしているところなのだろう]と推測される。言うまでもないことだが、「自然」にくっついた二人には、やがて、「自然」に別れる可能性がある。その可能性を実現させないようにするのが、「人間の作った」ものか、神の作ったものか、私は知らないが、「夫婦」という制度だ。 Sの静に対する思いは、「殆んど信仰に近い愛」(68)であり、それは「神聖な感じ」(68)の「極点を捕まえたもの」(68)だったのだから、[Sの「恋」は「神聖」だった]と考えても良かろう。そして、[「神聖」だった「恋」が、Kという犠牲を出してしまったので、「罪悪」に変化した]とでも、仄めかすか。 しかし、問題の根は、もっと深いようだ。[Kという犠牲は、不可避だったのか]と問うてみよう。答えは、[不可避だった]というものだ。Sは、「恋愛」を「猛烈」(88)にするために、「嫉妬」(88)を必要としたからだ。「恋愛」を成就させるためには、犠牲が不可欠だ]というのが、前提にあるらしい。そのことを、作者は、明示せずに伝えようとしている。[「恋愛」は、「罪悪」としてのみ、実現する]と、Sは仄めかすか。さらに、[「罪悪」に帰結したからこそ、本物の「恋愛」だ]というところまで、暗示したいのかもしれない。 ダンテはあることを知りたがっている。Amor condusse noi ad una morte.(恋は我らをひとつの死に導いた)。パオロとフランチェスカは一 緒に殺されました。ダンテは姦通に興味を惹かれません。二人がどのよう にして見つかり、処刑されたのかということにも興味を惹かれない。彼が 興味を抱くのはもっとプライベートな事柄で、二人は自分たちが愛し合っ ていることをどのようにして知ったのか、いかにして二人は愛し合うよ うになったのか、甘いため息を吐く時どんな風にして訪れたのかを知ろ うとする。(中略) すると彼女は、ある日二人で気晴らしにランスロットの物語を読むと そこに彼が恋に苦しむ様が書かれていた、と語ります。そのとき彼らは二 人きりでしたが、まったく疑いはしなかった。何を疑わなかったのでしょ うか? 自分たちが愛し合っているかもしれないということです。彼らが 読んでいた本は「ブルターニュもの」の中の物語で、サクソン人の侵入の 後にフランスのブルトン人の想像力から生れたもののひとつです。この 手の本がアロンソ・キハーノの狂気の糧となり、そしてパオロとフラン チェスカに罪ある恋を教えたのです。 (ホルヘ・ルイス・ボルヘス『七つの夜』1、野谷文昭訳) //「美くしい恋愛」 Pによれば、[Sと静の「花やかなロマンス」(12)は、その「美くしい恋愛の裏に」(12)ある「恐ろしい悲劇」(12)のために「寧ろ生れ出たともいえる」(12)]ということだ。はなっから、語るに落ちてる。 『テレーズ・ラカン』(ゾラ)は、ラカン夫人の「エゴイズム」(同)のせいで強いられた[罪もなく、愛もない結婚]が[罪も愛もある結婚]に堕落し、破綻する過程を描く。この作品は、初め、『ある恋愛結婚』と題されたというが、恋愛結婚の孕む矛盾の寓話として、成功している。 ラカン夫人の体現する「エゴイズム」は、権威を喪失した権力の濫用を意味する。彼女は、一族の長ではなく、母親に過ぎない。彼女に、人と人を結び付ける力は、ない。一族の権威から自由になった個人の結び付きを特権化するためには、[愛の伝説]が必要となる。[愛の伝説]は、犯罪という共同作業をその要素とする。共犯者は、関係から離脱する自由を失うからだ。犯罪が、彼らを縛り付ける。男女は、共犯者となって社会に敵対することによって、自らを閉ざすことに成功する。しかし、その成功は、自滅の始まりでもある。 以上の梗概を見取り図として見ると、[Sと静の物語]は、近代の寓話として、存在意義がない。Sと静は、共犯者として結び付いていないからだ。「ロマンス」は、Pによって、あるいは、好意的な読者によって、夢見られるだけの物語に過ぎない。したがって、[Sの破滅の物語]も、寓話としては、不必要のものだ。Sが、K殺しの罪で、誰かに破滅させられようと、その前に潔く自決して見せようと、大差はない。前者なら、近代的な探偵小説に落ち着く。後者なら、古臭い腹切り物語の焼き直しだ。 Sと静は、互いに闘うことも、許すことも、裏切ることもしない。また、外部に対して、個々に敵対的でもないし、また、融和的でもない。要するに、二人は、夫婦であろうとなかろうと、どのような過去を記憶していようと、どうでもいいような関係を結んでいる。[Sと静の物語]は、[まだ/ついに]ないと言っても、言い過ぎではない。 //「刺戟」 殊に子供の時から一所に遊んだり喧嘩をしたり、殆んど同じ家に生長 したと違わない親しみのある少女は、余りに自分に近過ぎるためか甚だ 平凡に見えて、異性に対する普通の刺戟を与えるに足りなかった。 (『彼岸過迄』「須永の話」6) あなたも御承知でしょう、兄妹の間に恋の成立した例のないのを。私は この公認された事実を勝手に布衍しているかも知れないが、始終接触し て親しくなり過ぎた男女の間には、恋に必要な刺戟の起る清新な感じが 失なわれてしまうように考えています。 (60) 妹背と呼び合い、「筒井筒」を文学的財産とする日本人にとって、ここに主張されているようなことは、「公認された事実」ではないはずだ。 そもそも、これらの場面で問題になっているのは、「恋」ではない。須永も、Sも、「恋」を強制されているわけではない。「結婚」(59)を勧められているところだ。作者は、自分の趣味か信念かを、「公認された事実」であるかのように、読者に信じ込ませようとしている。 カミーユは病気のために貧血しがちだったので、思春期の鋭い欲望を 知らないままでいた。 (ゾラ『テレーズ・ラカン』2、篠田浩一郎訳) 須永の義母が自分の姪と義理の息子を結婚させたがるのは、親族内での自分の地位を安定させるためだ。Sの「叔父」の場合は、財産目当て(62)という話だ。須永やSは、初め、こうした策略に気づいてはいないのだが、あたかも気づいているかのように、「従妹」(達)を拒む。「恋」は、須永やSが親族内の政治から自由でいるために、無自覚に引き寄せた、事実無根の物語だ。須永が「恋」を未体験らしいのと同様に、語られるSも、静と会う以前には、「恋」を未体験らしいから、こうした[「恋」に拘る男の物語]など、空疎だ。男達は、[「恋」がしたい]などといった詰まらない言葉で、親族内政治に対する、自分の恐怖を隠蔽しているらしい。[私は親族の一員と婚約していたが、親族内政治の実態を知り、婚約を解消した]といった、単純な物語が起動せず、その代わりに、有名無実の「恋」の不能などが語られるのは、親族の物語に作者の病根が隠されているからだと疑われる。 Sは「叔父」一家を憎み続けるが、この憎しみは近親者に対する恐怖の反動だろう。Sのような、不安定な人物について、親戚一同が[どうにかしてやろう]と考えるのは、自然なことだから、気位の高いSがそのことに気づき、愉快でなくなるのは当然だ。ところが、Sは、自分の立場の弱さが自分に原因があるという事実を認めたくないので、苦痛や恐怖を自分に対しても隠蔽し、近親憎悪の遊びを続ける。こうした経緯は、中学生にもなれば、理解できるようなことだ。ところが、語られるSも、語り手Sも、そして、作者さえも、そうした想像を検討しないらしいので、私は驚く。『坊ちゃん』の主人公からSに至る社会的無用者の宿命は、自明だろう。無用者は、いつ、乱暴者に成り下がるか、知れない。「世間」(1)は、彼らを冷たい目で見る。無用者達は、事実を認めたくないものだから、「世間」を敵視したり軽蔑したりして、遊ぶ。「恋」も、強いられた結婚に対して、ハードルを上げ、駄々を捏ねているだけの話だ。「叔父」は、未来の[Sと静の物語]を否定しているわけではない。作者は、[我らが主人公は、未知の恋人との仲を裂かれようとした]と書いているつもりだろうか。 「少し胡麻化していらっしゃる様よ」(『それから』6)という、三千代の台詞は、作者が常識的見解に足場を置いていることの表出なのだが、[「ごまかし」の物語]は、いつしか、[「恋」を「ごまかし」て、ごめんなさい]みたいな話にすり替わる。「世間」から見たら、見え透いた嘘、「ごまかし」だと分かり切っていることを、作者は、くねくねと弄り回す。読者サーヴィスのつもりだろうか。 Nの主人公達は、親族関係を改革するほどの政治力を持たず、かといって、新しい家族の始祖となるための理想も熱意も持たないので、ふらりと離脱しようとする。その離脱の口実が、[「恋」という「刺戟」]らしい。Kの場合、離脱の口実は、「道」(73)だった。だから、SとKの葛藤は、口実と口実の代理戦争だ。 //「色気」 [「叔父」の裏切り](58~63)によって、「私の世界は掌を翻えすように変わりました。尤もこれは私に取って始めての経験ではなかったのです」(61)として、やおら、語り出されるのは、[「色気」(61)の物語]だ。「叔父」の裏切りに匹敵するほどの衝撃を、既に「女」(61)から受けていたという、雲を掴むような話で、しかも、ここだけの話。 色と恋を切り離して生きる人物だと見做せば、この問題は簡単に解けるが、そんなに簡単に解いて、どうなるものか。 二つの[Sの開眼の物語]が、[SのKへの裏切りの物語]と[Sと静の「恋愛」(15)の物語]という、二つの物語に語り直されることになるのか。しかし、実際には、SはKを裏切ったわけではないし、Sと静は相思相愛で、いちゃついていたのでもない。SはKの面子を潰しただけだし、Sは静を一方的に思っていただけだ。この二つの物語は、もともと、原典不明の2個の物語なのかもしれない。それらの物語では、「死んだ父や母」(61)とか、「美くしいものの代表」(61)としての「女」といった、超常的な存在が、怪しげに動き回っているのだろう。 //「気高い気分」 彼女の前にいると、ぼくの心が自然をつかむときの、あの霊妙な心持に なれたんだ。二人の交際はすごく微妙な感覚と最も鋭い理知とが織りな す永遠の織物だった。この織物の変化のどの一つだって、極端なものさえ 例外なしに天才の刻印を打たれてはいなかったろうか。 (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳) ロッテはぼくにとって神聖だ。ロッテの前ではいっさいの欲望が沈黙 する。ロッテのそばにいると、いったい自分がどうなっているのか、とん とわからない。まるで魂の神経という神経がさかさになってしまうよう な気がするんだ。 (同) 「御嬢さんの事を考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました」(68)という、Sの一方的な思い込みが、「美くしい恋愛」(12)の、ほぼ全てだろう。「御嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼には能くそれが解っていました。能く解るように振舞って見せる痕迹さえ明らかでした」(67)という記述も、思い込みの域を出ない。その思い込みさえ、静の対象がSに限定されているという話はないから、「御嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問」(69)が生じたときには、有効に働かない。Sと静が「美くしい恋愛」をする時間は、ない。片思いのことを「恋愛」というのなら、それをする時間がなかったわけではないが、Sは、すぐに、「不安」(67)に苦しめられ、「狐疑」(72)に捕らわれる。そんな状態がKの死の「二日余り」(102)前まで続く。この状態を「美くしい」とは言えまい。言うのかなあ。 「美くしい」というのを[清純]という意味に取ればいいのかもしれないが、「花やかなロマンス」(12)の「花やか」の方は、どのようにご料理いたしましょうか。「臆面なく色々の花が」(65)とあるから、[花屋かな]の変換ミスかな。 静は、「気高い」人なのか。静から「気高い気分」が「乗り移って来るように」感じられるとしても、Sが[静は、「気高い」人物だ]と見做していることにはならない。「見縊る事が出来なかった」(68)とは書いてある。だが、Sは、誰なら「見縊る事」ができるのか。ここも、例の「嫌っていたのではなかった」(4)方式で、相当高い評価を与えたつもりなのかもしれない。 「気高い気分」だなんて、「気」の字が2個もあって、わけが分からない。「気高い気分」を与えてくれる人が「気高い」のなら、旨そうな食べ物の写真を、くちゃくちゃ、噛んでると、おいしいお味がお口いっぱいに広がるんでしょうかね。 Sは、自分を「気高い気分」にしてくれた静について語っているのではない。「刺戟」(60)がありさえすれば「気高い気分」になれた、若い自分について、うっとりと回想しているところだろう。 //「肉の方面」 「肉の方面から近づく念の萌さなかった」(68)と書かれているから、ふと、「肉」以外の「方面」]からなら接近したかのように思う。だが、Sが、どの方面からにせよ、静に接近したという話はない。この文は「肉」を否定し、「肉」以外を肯定した文に見せかけられているが、実は、あらゆる「方面」からの接近が不能だった事実を隠蔽しているのだろう。 「殆んど信仰に近い愛」(68)とは、自ら対象に接近する「愛」ではなく、対象から接近されることを信じる「愛」、つまり、愛される「愛」のことなのだろう。「私は他を信じないと心に誓いながら、絶対に御嬢さんを信じていた」(69)という言い回しを、「他は頼りにならない」(66)という言い回しと合成すれば、[Sは、静を、「絶対に」頼りにしていた]という文ができあがる。 「私は何故先生に対してだけこんな心持が起るのか解らなかった」(4)という文があった。この文は、[作者は、人が、どのようにして他人に接近するのか、その経緯を詳らかにしない]という文の偽装されたものだと思われる。この隠された文は、[Sと静の物語]においても、隠されている。作者には、[Sは、静を愛する]という物語を語ることができないのだろう。 「御嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼には能くそれが解っていました。能く解るように振舞って見せる痕迹さえ明らかでした」(67)という、妄想のような回想が、回想でしかないのは、作者が、この先を続けられなかったためだろう。続けられないどころか、[妄想ではなかったか]とさえ、語れない。作者の努力は、[客体としての人物が、そのことに気づかないまま、主体としての物語を生きる]という不合理な物語を実現可能であるかのように見せかけることに注がれているのかもしれない。 『こころ』に語られているのは、心の「痕跡」ばかりだろう。登場人物の「頭の中の現象」(67)と言っても、同じようなものだ。[「痕跡」の物語]が[物語は「痕跡」だ]という前提を欠けば、読者には、自分の読んでいるものが、[心理小説]なのか、[自分の心理の内容を事実だと信じる人物の物語]なのか、区別できない。 //「殆んど信仰に近い愛」 ぼくにとっては、クレアラ、固い約束は、愛し合う二人のあいだの誓約 は、宗教と同じだ。ぼくはそれを結婚と同じ神聖さのものと考える。いや、 結婚以上に神聖だと思う。 (メレディス『エゴイスト』15、朱牟田夏雄訳) 男がこうも盲滅法に彼女に明言をせまって来るのを聞くうちに、彼女 の心中には皮肉な冷やかさがムラムラとおこって、そういうロマンスが あなたの宗教かしらと、よっぽど聞いてやりたい気持ちだった。 (同15) 「殆んど信仰に近い愛」(68)とは、作者にとって、何を指し示していたのか。作者がその言葉によって指し示す物語の原典は、どこかにあるのだろうか。どこにもなくて、古今東西、語られるSにだけ、起きた現象なのだろうか。「殆んど信仰に近い愛」がいかなるものか、『こころ』作者が明瞭に構想していなくても、語り手Sにとって、「殆んど信仰に近い愛」という言葉が明瞭なものならば、読者はそれを鵜呑みにすればいい。魔法のようなものでも、構わない。しかし、この言葉は、「直感」(6)など同様に、宙に浮いている。[語られるSにとっては、明瞭だった]と見做すことは可能だが、語り手Sは、この言葉を持て余している。語り手Sは、この言葉を獲得したときの自分の気持ちを、思い出せないでいるかのようだ。そして、そのことを、語り手Sは明示しない。だから、語り手Sは嘘つきに見える。もし、語り手Sだけが嘘つきではないとしたら、語られるSも嘘つきなのだろう。どちらも嘘つきでないとしら、作者が勘違いをしているのか、そうでなければ、作者と私の間に、どうしても繋ぐことのできない言語的な疎隔があるのだろう。 私はその人に対して、殆んど信仰に近い愛を有っていたのです。私が宗 教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、貴方は変に思う かも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教と そう違ったものではないという事を信じているのです。 (68) 語り手Sは、自分の発言に自信がなくなると、「貴方」を呼び出し、自分が抱いた疑いを、空想上のPの疑いに偽装し、反論を始める。いつものパターンだ。「私は今でも固く信じているのです」という挿入句は、[静を「私は今でも固く信じているのです」]という断定の文であるかのようでいて、そうではなく、「本当の愛は宗教とそう違ったものではないという事を信じているのです」という文を呼び出しているのに過ぎない。しかも、その際、「固く」という形容詞が剥落する。語られるSが、「そう違ったものではない」というような、あやふやなものを、「固く信じ」ることができるとすれば、「愛という」(68)ものが「不可思議なもの」(68)だからだろうか。あるいは、語られるSが、この時点から、「不可思議な私というもの」(110)だったからだろうか。しかし、そんな疑問を検討する暇もなく、「愛という不可思議なもの」(68)の「その高い端には神聖な感じ」(68)があることになり、語られるSは「その高い極点を捕まえた」(68)ことになる。「捕まえた」のなら、それは、「殆んど信仰に近い愛」ではなく、[「信仰」そのものである「愛」]なのではないか。やがて、「絶対に御嬢さんを信じていた」(70)という言い回しが登場する。読者の知らない間に、[「殆ど」何かに「近い」何か]が[「絶対」の何か]へと飛躍してしまう。語られるSの飛躍は、静母子への疑いの反作用によるものでないとすれば、語り手Sに励まされることによってのみ、起きたことになる。[Sと静の物語]は、語られるSの妄想か、語り手Sの[「殆ど」虚偽に「近い」修辞]に過ぎないようだ。あるいは、作者の知ったかぶりか。 「御嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭を帯びていません」(68)という否定の文によって、語り手Sは、「殆んど信仰に近い愛」の性質を明らかにしたつもりらしいが、内実を示しているわけではないから、贅言に見える。程度の問題を抜きにすれば、私達は、美しいものと出会うたびに、「自分が美くしくなるような心持」(68)になるのではないか。 「絶対に御嬢さんを信じていた」という文は、[「絶対に」/静に愛されていることを「信じていた」]の誤記ではないのか。「御嬢さん」という言葉は、[静は、Sを好く]という文の題名ではないのか。 //「後姿」 「後姿だけで人間の心が読める筈はありません」(72)と、Sは記す。語り手Sは、語られるSには読めなかったことを、なぜ、記すのか。語り手Sには、読めるからか。では、いつ、読めるようになったのか。 [Sと静の「恋愛」の物語]は、次のような文によって構成されている。 「臆面なく色々の花が私の床を飾ってくれました」(65)/「御嬢さんは決して子供ではなかったのです」(67)/「御嬢さんは泣きました」(69)/「御嬢さんは大層着飾っていました」(71)/「御嬢さんは何か引き出して膝の上へ置いて眺めているらしかったのです」(72)/「御嬢さんが凡て私の方を先にして、Kを後廻しにするように見えたのです」(86)/「眼に立つようにKの加勢をし出しました」(89)/「その時御嬢さんは何時ものようにみんなと同じ食卓に並びませんでした」(100)/「もう御嬢さんではありません」(105) この物語の全体は「読める筈」のないものだ。もし、Sが、この物語を「臆面なく」語ろうとすれば、[SとKの葛藤は、無用だった]という反省が、語り手Sに起こらなければならない。 語り手Sが「後姿」の意味を知りたければ、「次の室で無邪気にすやすや寐入って」(57)いる静を起こして尋ねたら、どうか。この挿話はK登場以前のことだから、尋ねても危険はない。だが、Sが、そんなことを思う様子はない。 静は、自分の母親の目の届く所にいながら、若い男のSに「後姿」を見られてしまう。静ママは、そんな静を窘めない。では、静ママは、静に、わざとそんなふしだらな格好をさせたままにしていたのか。そういう話には発展しない。 語られるSは、[静は、自分の「後姿」を意味として、提出している]と思いながらも、その意味が分からないと、語り手Sは記しているのか。では、語り手Sには、その意味が「読める」のか。「読める」としたら、何が「読める」と仄めかしているのか。あるいは、語られるSは、[静は、自分の「後姿」を、意味として表現している]と思ったのだが、その思いは誤認だったと、語り手Sは記すのか。つまり、[静に他意はなかった]と。[語られるSは、考え過ぎだったよ]というのか。しかし、語られるSは、読み過ぎたのではなく、結局、読もうともしなかったのだから、考え過ぎというのは言い過ぎだろう。語られるSにも、語り手Sにも読めない「後姿」を、作者が、語り手Sを飛び越し、語られるSの目を通して見た気分になり、そして、[読めないなあ]と嘆息しているところか。だから、読者も、同じように嘆息すれば、読者は合格か。 [Sは、「後姿」でさえなければ、「人間の心が読める」能力の持ち主だ]という設定なのだろうか。Sは、いつ、確信を持って、「人間の心」を読んだと主張できるのか。作者は、「人間の心」を読むということが、どのようなことか、知っていて書いているつもりなのか。 作者は、[「人間の心」について書かれたものを読んだ体験]と、[「人間の心」を読んだ体験]とを、混同しているのではないか。私達の前には、『こころ』という「人間の心」について書かれたかのような文書がある。私達は、これを「読める筈」だ。しかし、私には、語られるSにとっての静の「後姿」のように、『こころ』の言葉が文字として見えてはいるが、胸を張って「読める」とは言えない。『こころ』は、作者の「後姿」なのかもしれない。 Nは、「人間の心」について書かれたものを読み、そして、自分にも「人間の心」について何か書けそうだと思って、『こころ』を書いてきて、そして、静の「後姿」の描写に差しかかった。本当は、ここは、[「後姿だけで人間の心が」書ける「筈はありません」]という文の誤記ではないのか。 まあ、いいや。何であれ、臭い場面だ。静が臭いのか、Sが臭いのか、作者が臭いのか。当時の読者が臭いのか。Sが、静のことを臭いと思っているのか。作者が、Sと静のことを臭いと思っているのか。作者が、[読者は、臭いのを好む]と見縊っているのか。あるいは、私の買った本が腐ってんのか。 ストリンドベルグは云う。― ―私の若い時分、人はハイベルク夫人の、多分巴里から出たものらし い、手巾のことを話した。それは、顔は微笑していながら、手は手巾を二つ に裂くと云う、二重の演技であった。それを我等は今、臭味(メッツヘン)と名づ ける。 (A『手巾』) Sは、「人間の心」と記している。[静の「心」]ではない。ということは、[静の「心」なら、「読める」]という含みか。静は、当時の女性の嗜みとして、口で言うのは憚られるようなこと、つまり、[婚約内定]の確認を、「後姿」で表現していた。だが、語られるSが読みたいと願っているのは、そのことではなかった。その意図だ。つまり、金目当てか、愛か。その違いが読めないということか。 もし、そうだとしても、その違いが、静や静ママにとって、この時点で、重要なことだと思われたろうか。下宿する時点で、Sは、高学歴、高収入の条件を通過している。残る条件は「信用」(69)だが、これも「初対面の時からあった」(69)という。静に愛されているという思い込みもある。では、何が足りないのか。Sが静を「好く余裕」(66)ではなく、その「解釈」(66)では、当然、なく、単に、Sが静を「好く」理由、「好く」過程、盛り上がり、「ロマンス」(12)の中身それ自体が欠落している。この状態は、「従妹」との親しみと区別できないはずだ。「刺戟」(60)が足りない。静を「専有したいという強烈な一念」(86)の表出がない。 だから、Kが導入されるらしい。しかし、この展開は、本当は、意味がない。Kのような人物は、婿には不適だからだ。ところが、Sは、そうでもないようなこと(83)を記す。その見方は、静母子のものとは言えない。Kは貧乏だから、婿の条件をクリアしそうにない。もし、Sが、静母子を、金銭的なことで疑うのなら、Kが静母子に婿として選ばれないことに思い当たるはずだ。静母子への疑いが続いているのなら、Kは貧乏だから、敵にならない。静母子への疑いが終わっていれば、Kは無害だ。つまり、[SとKの物語]と[Sと静の物語]は、直接的な関係にないはずだ。しかも、語り手Sは静と結婚できたのだから、くよくよしていたSとか、Kを恐れていたSなどを、臨場感をもって描くのには、無理がある。おかしな語り手Sがいるという話を作者が作るのは自由だが、そんな語り手Sを、おかしい人物として、作者は提出しているようには見えない。 作者は、語り手Sに、語られるSの静への「殆んど信仰に近い愛」(68)と[婚約内定]について語らせてしまった。これ以上、語ることはない。それでも、静の「後姿」を描くとすれば、[男女の愛というものは、どのようにして醸成されるか]といった問題に首を突っ込むしかあるまい。遺憾ながら、その問題の解決編を、読者は「読める筈はありません」という謝罪文かしら。 Kは、Sと静の仲を裂こうとする敵役として導入されるのではない。[Sと静の物語]は、読者の側では過去の事実だ。一方、語られるSにとっては不安材料だ。このイロニーを際立たせるために、Kは道化役を演じさせられるらしい。そこまでは、いいとしよう。しかし、このイロニーを仕組むのが語り手Sであっては、無意味だろう。仕組むのは、あくまで、作者でなければならない。そうでなければ、仕組んだのは語られるSで、そして、「遺書」全体が虚偽になる。[Sと静と静ママとで、お堅いKをいたぶるために、下宿に引き入れた]と書かなければならない。作者が「遺書」の語り手とは別の空間にいるからこそ、イロニーは成立する。もし、語り手Sが自分の現在に直結している[「遺書」の物語]をイロニーとして語るのなら、未来のSの自殺も、嘘か、イロニーだということになる。そのとき、Sは、Pを避け、こそこそ、生き延びるか、でなけりゃ、にたにた、笑いながら死んで行くことになる。作者が笑おうが、個体としてのNが笑おうが、そんなことは、読者にとって、どうでもいいことだが、Sに笑われてはPの立つ瀬がない。Sに逃げられたのでは、[P文書]が虚偽になる。 //「着物」 それで奥さんに書物は要るが着物は要らないと云いました。奥さんは 私の買う書物の分量を知っていました。買った本をみんな読むのかと聞 くのです。私の買うものの中には字引もありますが、当然目を通すべき筈 でありながら、頁さえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に 窮しました。私はどうせ要らないものを買うなら、書物でも衣服でも同じ だという事に気が付きました。 (71) こういう会話を読めば、静ママが「策略家」(69)であるばかりか、語られるSも「策略家」だと断言してよいはずだ。もし、そうでなければ、語り手Sか、作者が「策略家」なのだろう。 なぜ、Sは「返事に窮」するのか。「みんな読むのか」と問われたら、[「みんな」は読まない]と答えれば、十分だ。あるいは、[今のところ、「頁さえ切ってないのも多少あった」としても、そのうち、読破する]と言えばいい。[積んどくのも、読書ですよ]というのも、ありかな。 Sが着物を買わない理由は、着物が不要だからではない。見た目に拘るのを「耻かしがって」(71)いるからだ。相手の意図に意図で応じる会話の結果、奇妙なことに、「当然目を通すべき筈」のものが「要らないもの」に代わってしまうことにSは「気が付きました」か。語られるSは、ともかく、語り手Sさえ、気が付かないらしい。Sが気が付いたと思っていることは、静ママの誘導によって生まれたものでしかない。作者は、このことに気が付かないのだろうか。 意図に意図で応ずるSの性癖そのものを、作者は自然だと思い込んでいるのだろう。静の「気分」(68)が「乗り移って来る」(68)とか、Kの「説」(76)に「釣り込まれて来る」(76)といった性癖が、静ママを相手にしたときも出たか。また、こんな性癖を持っていればこそ、「他の手に乗るのは何よりも業腹」(70)といったように、反動も極端なものになるのだろう。 //「気を引いて」 しかしカミーユは嫌がる妻に自分の意志を押しつけた。自分の妻を他 人にみせびらかすのが好きだったからだ。たまたま同僚のひとりに、とり わけ上役のひとりに出会おうものなら、奥さんを横に、相手と握手を交わ すのがひどく誇らしげだった。それ以外のときは、この男はただ歩くため に歩いており、ほとんど口もきかず、日曜日の晴れ道を不格好に着てしゃ ちほこばり、足をひきずって歩き、人の気持ちはわからないくせに、人に どうみられるかときょろきょろしている。 (ゾラ『テレーズ・ラカン』11、篠田浩一郎訳) [お披露目](71)は、「級友」(71)に知れる。「おれ」(『坊ちゃん』)が生徒に探偵されるような話で、読んでいて、もぞもぞする。静ママが人に知らせようとして企んだことではあろう。だが、語り手SがPに知らせたがっているようでもあり、不気味だ。 私は宅に帰って奥さんと御嬢さんにその話をしました。奥さんは笑い ました。然し定めて迷惑だろうと言って私の顔を見ました。私はその時 腹のなかで、男はこんな風にして、女から気を引いて見られるのかと思い ました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味を有っていたの です。私はその時自分の考えている通りを直截に打ち明けてしまえば好 かったかも知れません。然し私にはもう狐疑というさっぱりしない塊が こびり付いていました。私は打ち明けようとして、ひょいと留まりました。 そうして話の角度を故意に少し外らしました。 私は肝心の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。 そうして御嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。 (72) Sは、何のつもりで、「その話」を静母子にしたのだろう。自ら「他の手に乗る」(70)ようなものではないか。静ママが「迷惑だろう」と受けるのは、無理もない。Sの意図が不明だからだ。顔を見もしよう。「男はこんな風にして、女から気を引いて見られるのか」という台詞は、むしろ、男女を入れ替えて、静ママのものにしたいくらいだ。 「自分の考えている通り」という言葉は、形式的には、「男はこんな風にして、女から気を引いて見られるのか」を指すようだが、そうではない。ずっと溯って、「御嬢さんを貰い受ける話」(70)を受ける。そして、「他の手に乗るのは何よりも業腹でした」(70)という文が、「狐疑」として再現される。 Sは、「そうして話の角度を故意に少し外らしました」と記す。「その時自分の考えている通りを直截に打ち明け」ることが、「話の角度」を「外ら」すことにはならないと思っているらしい。 「話の角度」を維持するとすれば、Sは、[「迷惑」だ/「迷惑」ではない]と答えることになる。[「迷惑」ではない]という答えは、必ずしも、[Sは、静を「貰い受ける」のに吝かでない]ということを意味しない。しかし、Sは、そのように考えないらしい。「腹のなか」は、「御嬢さんを貰い受ける話」に傾いている。つまり、この「話」に向かわないように、「故意に少し外らし」たというわけだ。ここは話を変えたのではなくて、言おうと思っていたことを言わなかっただけだ。また、こうした事態は、聞き手の静ママにとって、特別の意味はない。 「私は肝心の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました」というが、Sの「問題」が残っているのは、Sが[「迷惑」だ/「迷惑」ではない]と答えていないからだ。この「問題」を[「迷惑」ではない]と処理してしまえば、次は、[静母子の方こそ、「迷惑だろう」]という話に移るのでなければ、失礼だ。「御嬢さんの結婚」に差し障りがあるからだ。だから、そこに話を繋ぐのは、飛躍ではあるが、「奥さんの意中を探った」という意図を別にすれば、自然だろう。 Sは、この自然な流れの中で、「機会を逸した」(72)と感じる。しかし、本当にそうなのか。いつ、どう、話を持ちかけようとも、Sの身分が固まるまでは、静ママは、「あんまり急じゃありませんか」(99)と応じるはずだ。 ここには、いくつもの「話」の流れがあり、それが複雑に絡み合っている。Sの気持ちが、二つある。Sの考える[静ママの考え]と、Sの考える[静の考え]というものがある。これらの考えの組み合わせが、程度を加味すると、いくらでも出てくる。しかも、彼らは三人とも「習慣の奴隷」(71)だから、「習慣」の要求する文脈がある。こうした混雑を整理しないで話を進めれば、「後姿」(72)どころか、何一つ、「読める筈」(72)がない。 Sが読めない「後姿」の意味を、文学という「習慣の奴隷」である読者は、いとも簡単に読み取る。ははあんと思う。すると、作者は、「何とも云わずに席を立ち掛ける」(72)Sを描く。そのSに、静の行く末を相談する静ママの意図も、ははあんと読んでしまう。「なるべく緩くらな方が可いだろう」(72)という答えが静ママにとって何を意味するかも、楽々、読み取ってしまう。しかし、語られるSはもとより、語り手Sにも分からないのだろうか。作者には、勿論、分かっているはずだ。語り手Sは、何を書いているつもりなのか。何を、何のために書いているのか、分からなくても、書くことが「嬉しい」(110)のだろうか。 //「勇気」 もし断られたら、私の運命がどう変化するか分りませんけれども、その 代り今までとは方角の違った場所に立って、新らしい世の中を見渡す便 宜も生じて来るのですから、その位の勇気は出せば出せたのです。 (70) 肝心の御嬢さんに、直接この私というものを打ち明ける機会も、長く一 所にいるうちには時々出て来たのですが、私はわざとそれを避けました。 日本の習慣として、そういう事は許されていないのだという自覚が、その 頃の私には強くありました。然し決してそればかりが私を束縛したとは 云えません。日本人、ことに日本の若い女は、そんな場合に、相手に気兼な く自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと私 は見込んでいたのです。 (88) [当時の「日本の習慣として」は、男が女に告白をすることは許されないが、女がそれに答えることは許されている]と、Sは語ったことになる。この話は無意味だ。男が告白をしないのだから、女が答えるも答えないもありゃしない。 Sは、裏側で何を語っているのか。[女に「勇気」(88)がありさえすれば、男は「勇気」(70)を出して告白ができる。そして、その結果、「日本の習慣」は変化する。「日本の習慣」が変化しないのは、女のせいだ。女が「勇気」を持てば、「日本の習慣」も変化し、男は、新しい「日本の習慣」から外れることなしに、告白をできるようになる]とでも言いたいのか。 われわれは女に多くを期待しない。罪悪も期待しないが、勇敢の美徳も 期待しない。女は性格の巻き物をひろげて見せる必要はないのだ。 (メレディス『エゴイスト』10、朱牟田夏雄訳) が、男でも勇気にむけての訓練を受けた者は多くない。若い女に至って は、臆病にむけたしつけを受けている。若い女が率直な言葉で禍に面とむ かい合うなどは、鉄面皮の罪であり、純潔という蝋のような光を失って、 ひいては市場での主導権までも危うくしてしまう。男の好みに合うよう にしつけられて、そのためにはまもなく自己を棄てて生きることをおぼ え、従って自分を見る目も男が見る目と同じになり、棄てたまま顧みない 自己などを苦にしないことも、相手の男がそれを苦にせぬのにほとんど 劣らない。 (同25) 語り手Sは、[SとKの葛藤]において重要な役割をもつはずの静を、[「日本の若い女」一般の「勇気」の不足]という話題に閉じ込めて、無罪ではあるが無能なままにしている。しかし、[「日本の若い女」一般の「勇気」の不足]について、どのような見解も示さないのだから、Sの見解は「世間」(1)の常識と同様だと見做していいのだろう。つまり、[女は黙ってろ。男も黙ってろ] 女も男も黙っていて、さて、どうなるのか。周囲がくっつけちゃう。Sは、静ママに、静と自分をくっつけてほしいと願っている。しかし、そのことに気づきたくない。[Sが気づかないようにやってくれ]と願っているのではない。[Sが気づかないようにやってくれ/とSが願っている]ことに、語られるSは気づきたくない。語り手Sも、そして、作者も、そのような経緯であることに気づかずに語りたいと願っている。この願いの隠蔽が、静の沈黙として、表出される。静は沈黙という話題に閉じ込められているのに、静という人物の個性と彼女の沈黙の意味とは無関係であるかのようであるのは、そのためだ。Sと静と静ママの潜在的な関係を明示すれば、『こころ』は破綻するはずだ。 [静に「打ち明ける機会」はあったのに、Sは「わざとそれを避け」た]という作り話を、語り手Sは、Pに届ける。しかし、「日本の習慣として」(88)「許されていない」はずのことができそうな「機会」とは、どんな「機会」か。例えば、現在の日本では、[婚外性交渉をする「機会」はあるが、「日本の習慣として」「許されない」から、婚外性交渉はしない]などと、語る必要はないはずだ。「許されていない」という条件さえあれば、十分だ。だから、「然し決してそればかりが」以下は、無用。話のすり替え。 好意を表す言葉を通り魔のように投げ掛けるだけなら、どんな時代にも可能だ。語られるSにとって、「この私というものを打ち明ける機会」とは、どのような「機会」か。どのくらい、時間をかけ、どんなふうに盛り上がったから、そんな「機会も時々出て来た」のか。「時たま、御嬢さん一人で、用があって私の室へ這入った序に、其所に坐って話し込むような場合」(67)のことか。しかし、そのとき、Sは「心が妙に不安に冒されて来る」(67)のではなかったか。そして、「御嬢さんの立ったあとで、ほっと一息する」(68)のではなかったか。さらに、K登場後は、自分の作り出した疑惑に翻弄されていたのではないのか。語られるSには、「打ち明ける機会」など、なかったはずだ。 世間にぼくがいらいらするときは必ず君の助けを借りるよ。それでわ れわれのあいだは完全なものになる。やがてぼくがわかるよ。ちゃんとそ のうちにはね。ぼくが自分を打ち明ける相手には、ぼくは神秘などではな い。 (メレディス『エゴイスト』11、朱牟田夏雄訳) が、この不幸な紳士は、自分が愛されている、「愛」そのものの胸に抱か れていると想像している。自分に関係することならすべてが、娘らしい好 奇心、女らしい尊敬をよびおこし、もっと自分を知りたいという熱望をか き立てるものと妄想して、さてこそ同じことを何度でもくり返してそう いう熱意にこたえてやろうと試みるのである。 (同11) 問題は、「機会」にはない。勿論、「勇気」にもない。「この私というものを打ち明ける」という空想にある。作者は、結婚の申し込みと「ロマンス」(12)を混同しているらしい。「ロマンス」があれば、結婚の申し込みは仕上げに過ぎない。「勇気」がなくても、「機会」は、相手や周囲が作ってくれるものだ。Sと静の場合でも、いつか、静ママが動き出したはずだ。 作者は、もしかしたら、「相互を残りなく解するというのが愛の第一義である」(『猫』2)と、本気で信じているのかもしれない。しかし、そうだとしても、まず、誰が誰を「解する」のかと言えば、[私は、あなたを「残りなく解する」ことを望む]はずだ。[静の方から、「この私というものを打ち明ける」ことはない]と、語られるSは思っていたらしい。「ロマンス」があったとしても、結婚の申し込みを受けた場合、当時の「日本の若い女」でなくても、現在の若くない女でも男でも、「日本の習慣として」は、一人で勝手に承諾したりはしないはずだ。だから、ここで、そんな話をしても、仕方がない。 Sには、いや、作者には、[男女の「愛」(88)は、「この私というものを打ち明ける機会」を提供する]という奇怪な空想があるのだろう。[「愛」は、相互理解を「第一義」とする]という、出所不明の前提を利用して、Sは、「この私というものを打ち明ける機会」を狙っていたらしい。不気味だ。 Sは、[「結婚してから」(88)は「愛情の方も決して元のように猛烈ではない」(88)]と記す。「愛情」が足りないから、「懴悔」(106)を避けるし、「理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せない」(107)でいるし、「妻に凡てを打ち明ける事のできない」(109)まま、Pに「妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として」(110)おくよう、依頼して、死ぬのだろう。 Sの拘りは、「この私というものを打ち明ける」ことにある。「この不可思議な私というものを、貴方に解らせる」(110)という、困難な目的というよりは、意味不明の衝動から、『こころ』の言葉は発生している。そして、この衝動は、本当は、作者のものだろう。 私には、語り手Sが嘘をついているように見える。[語られるSは、静を愛したことはないし、愛そうとしたこともない]と思える。しかし、そうではあるまい。欠けているのは、語られるSの体験ではなく、語り手Sの能力でもあるまい。作者の想像だろう。作者は、語り手Sに婉曲語法を遣わせて、「ロマンス」の欠如を隠蔽しているらしい。私は、[作者には恋愛体験がない]というような意味の非難をしているのではない。もし、そういう非難をするのなら、[友人を死なせた体験]をも問わねばならなくなる。ここは、あくまで、想像の問題だ。作者は、自分に体験がないことを不必要に隠蔽し、読者の想像に期待している。読者のダミーがPで、作者は、自分が混乱すると、Sに空想のPを呼び出させ、物語を丸投げする。作者は、「ロマンス」など、実際には、誰も体験したことがないという事実を知らないのかもしれない。体験を文学に変えることは身売りのようなものであり、文学を体験に代えるのは自殺のようなものだ。 代助は『煤烟』について、「肉の臭い」(『それから』6)という評言を漏らす。非難しているつもりらしい。語られるSの「心は、全く肉の臭いを帯びていません」(68)と語られる。作者は、「肉」という言葉で、読者を欺いている。重要なのは、『煤烟』作者が「ロマンス」を成功させたのに対して、語り手Sが「ロマンス]を語れないという事実だ。このことは、森田草平とNの体験の差から生じるのではない。勿論、道徳観などとは、無関係だ。 彼は過去と現在との対照を見た。過去がどうしてこの現在に発展して 来たかを疑った。しかもその現在の為に苦しんでいる自分にはまるで気 が付かなかった。 (『道草』91) この「彼」には、「打ち明ける」ことのできる形になった「自叙伝」(110)などない。「現在」が苦しかろうと楽しかろうと、「現在」は、「過去」とも未来とも、切断されている。この切断を接合することは、独力ではできない。 『明暗』で、[過去の物語]と[現在の物語]とを接合するためか、津田は、「一人で説明しようと試み」(同188)るが、無駄な努力だろう。二つの物語は、「一人」では接合できない。「一人」で接合できたかのような「発展」を物語が示したとしても、[「一人」でできるもん]という異本が、一つ、無用に増えるだけのことだ。実際に、『明暗』は、当然のように、津田が「説明」の魔物と化したところから先へは、進めなかった。 //「勇気のいる行為」 ではさきほど身につけていた あの望みは酔っぱらっていたの? あれから一眠りして、 いま目が覚めてみると、二日酔いで蒼ざめて なにを見ても身ぶるいするというの? これからは あなたの愛もそんなものだと思うことにしましょう。 こうありたいと思うご自分を、勇気のいる行為をする ご自分にすることがこわいのね? この世の華と 思い定めた王冠を手に入れたいと望みながら、 ご自分で臆病物と思い定めて生きていこうというのね? 魚は食いたいが脚はぬらしたくないという猫のように、 「やるぞ」と言っては「やれない」と嘆くのね? (シェイクスピア『マクベス』1-7、小田島雄志訳) |