『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#077[世界]37先生とA(27)「侮辱」

//「軽蔑」
 Pは、「先生は他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものと見える」(4)と記す。「他を悪く取るだけあって、自分はまだ確な気がしていました」(106)といった、Sの述懐を、Pは読み落としたのだろうか。あるいは、作者がPの記述を無視するのだろうか。あるいは、N語で「前」というのは、私の知っている日本語の[後]を意味するのだろうか。違うのかもしれない。
 もともと、Pにとって、Sが「他を軽蔑する」ことと「自分を軽蔑していた」こととの前後関係など、問題になるはずはない。Pが「見える」と主張するのは、SがPと親しもうとしない理由の大小関係らしい。つまり、主な理由としては、[Sは、「自分を軽蔑していた」]ということにあると言いたいわけだ。ところが、Pは、なぜか、大小関係を、前後関係として、記述してしまった。
 何の根拠も挿話も提出せずに、作者が読者と共有したがっていることは、[人間には、「他を軽蔑する」以前に、「まず自分を軽蔑している」という状態がある]ということらしい。しかし、「他」を対象とした経験がないのに、「自分」を対象にするということなど、できそうにない。もしも、そのような状態があるような気がするとしたら、そんな気がする「自分」は、「自分」が「他」を「軽蔑」した体験を忘れているのだろう。
 あるいは、[「他」は、「自分」を「軽蔑」する]という文を、[[自分」は、「他」に「軽蔑」される]という文に直そうとして、失敗し、[「自分」は、「自分」を「軽蔑」する]という文を作ってしまったのかもしれない。
 [「自分」は、「自分」を「軽蔑」する]という文は、誰にとっても、都合がいい。「自分」で「自分」を殴るのは、「他」に殴られるよりは、耐えやすい。殴るつもりの「他」としても、殴らずに済むのは、楽だ。叱られそうになると、早手回しに、自分で自分の頭をコッツンとやる癖の人がいる。「傷ましい」(4)癖だ。「ぐるぐる」(57)癖と同根のものだろう。
 あるいは、[「他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑して」おけば、「他を軽蔑する」罪を免れる]といった、甘い話が転がっているのだろうか。
 「まず自分を軽蔑している」という文は、[犠牲を引き受ける英雄の伝説]に含まれるかのようだ。しかし、実際には、お手盛りの罰によって、本当はもっと重い罰を免れようとしているのかもしれない。だから、この文は、[罰を免れようとする英雄気取りの伝説]に含まれる。ところで、英雄気取りによって、重い罰を免れることは、可能なのだろうか。可能だとは限らない。「自分」の英雄気取りによって、「他」は、「自分」が引き受けた罰に対して、責任を負う必要がなくなる。このとき、「他」は、[「自分」が引き受けた罰は、「他」にとって、正当なもの、必要なものだったのか]という問題を免れる。お手盛りの罰によって、「自分」と「他」は、闇取引をしている。「自分」は英雄気取りを許される代わりに、「他」は「自分」を好き勝手に「軽蔑」することができる。この闇取引は、いつ、どこで、始まったのだろう。作者は、この物語を明示しない。だからといって、別の物語を語るのでもない。明示されない物語を[世界]にして、[Sの物語]が語られるらしい。
 「未来の侮辱」(14)は、明示されない[過去の「軽蔑」]の虚像だ。だからこそ、宿命のように信じられる。[「自分を軽蔑」する、現在の物語]の「前」に起きた[「自分」が「軽蔑」された/過去の物語]は、時間を逆転し、「「自分」が「侮辱」される/「未来」の物語]として、語られる。[「未来の侮辱」の物語]は、『こころ』の中には見当たらない。そもそも、『こころ』の中に、「未来」はないようなものだ。[「未来の侮辱」の物語]は、[未来の/「侮辱」の物語]が区切り間違えられたものだろう。[「未来」の/「侮辱」の物語]とは、『道草』や『明暗』などの、作者の未来の作品群を指す。
//「未来の侮辱」
 「かつてはその人の膝の前に跪ずいたという記憶」(14)について、SはPに語ったと、Pは記す。だが、「遺書」では、「私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪まずく事を敢てした」(76)と記される。もし、この言葉の出所が同一の物語だとすれば、両者は食い違う。前者では、[他人を尊敬すると、自分の自尊心が傷つく]かのように語られているのに対し、後者では、[交際のある相手のためを思って、尊敬するふりをした]かのように語られる。
 「未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたい」(14)という意味不明の言葉は、[健三は「懐かしみを感じた」(『道草』78)相手の「域に達せられなかった」(同78)ので「自分を罵った。然し自分を罵らせる相手をば更に烈しく罵った」(同78)]という文を作って参照すれば、少しは、見通しが良くなるか。
 N語で「侮辱」というのは、[憎悪を抱くことによる、心理的なリスクを最小にするための欺瞞的敵意]と定義されよう。また、N語で「尊敬」とは、[「懐かしみ」を抱くことによる、心理的リスクを最小にするための欺瞞的な好意]と定義されよう。あるいは、「尊敬」は、[畏怖]を隠蔽した「畏敬」(73)か。
 すると、「未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたい」という文は、
[「未来の」「畏敬」「を受けないために、今の」「懐かしみ」「を斥けたい」]という文に置換できそうだ。
 ところで、[「懐かしみ」は、「畏敬」に発達する]という物語を、私は知らない。これは、[SとKの物語]のようだが、そうではない。[Sは、Kを「畏敬」する前に、Kに「懐かしみ」を抱いた]という物語は、ない。
//「誤解される」
 『硝子戸の中』の「硝子」は、自分と自分以外の生き物との疎隔感の比喩だろう。この作品では、Nの自慢話が続くようでいて、あるいは、自分でもそのつもりだったのかもしれないが、書けば書くほど、自分と外界との隔たりが、濃厚に表出される。
 あるとき、少年Nは、書物を、相手の言い値の半値で買う。ところが、後日、売り手の「喜いちゃん」が、[安過ぎたから、本を返せ]と言って来る。
  この最後の一言で、私は今まで安く買い得たという満足の裏に、ぼんや
 り潜んでいた不快、─不善の行為から起る不快─を判然自覚し始め
 た。そうして一方では狡猾い私を怒ると共に、一方では二十五銭で売った
 先方を怒った。どうしてこの二つの怒りを同時に和らげたものだろう。私
 は、苦い顔をしてしばらく黙っていた。
  私のこの心理状態は、今の私が小供の時の自分を回顧して解剖するの
 だから、比較的明瞭に描き出されるようなものの、その場合の私には殆ん
 ど解らなかった。私さえただ苦い顔をしたという結果だけしか自覚し得
 なかったのだから、相手の喜いちゃんには無論それ以上解る筈がなかっ
 た。括弧の中でいうべき事かも知れないが、年齢を取った今日でも、私に
 は能くこんな現象が起ってくる。それで能く他から誤解される。
                         (『硝子戸の中』32)
 前段には、[Nは悪いことをした/しかし/Nに悪いことをするように仕向けた相手も悪い]という意味のことが記されているらしい。だが、私は、[Nは、悪いことをしてはいない]と判断する。したがって、[Nに悪いことをするように仕向けた相手]というものも、実在しない。勿論、ここで盗品売買が行われていると見做せば、二人は共犯だが、この条件は、ここでは無視する。
 元の売り手の悪いところは、[売値で返せ]と言っている点だ。もし、このやり方が通るのなら、書店は顧客の住宅を倉庫代わりに使用できることになる。代金に保管料を加算すべきだ。いや、その前に、元の売り手は、現在の所有者に対して、売却の意志を問わねばならない。こうした点において、[元の売り手は、現在の書物の所有者を侮辱した]と見做してよい。したがって、Nが怒るのは、当然だ。さらに、現在の所有者である少年Nに売却の意志があったとしても、売値は現在の所有者が決定すべき事柄だ。少年Nは、元の売り手の弱みに付け込んで、法外な値を付ける自由を持つ。こうしたことは、「小供の時」には分からなくても、成人なら弁えておかなければならない。Nも、弁えているはずだ。ところが、こうした常識が、過去の出来事に対しては、応用されない。記憶と知識が、ぶつ切れ。
 元の売り手は苦境にある。だから、勢い、自己中心的な筋書きで行動しようとする。そこに、書物の所有者である少年Nが、巻き込まれる。書物を返さなければ、Nは加害者のように思われる。しかし、Nを悪く思う方が身勝手であることは、分かり切っている。そのことを、Nが「小供の時」に理解できなかったのは、仕方がないとしても、成人である語り手Nが、[値切るのは、悪い]という、幼稚な観点を捨てずに、以下、錯綜した文脈を形成してしまうのは、驚くべき事態だ。
 言うまでもなく、[値切るのは、悪い]という観点は、売り手のものであり、買い手の観点では、「値切って見るのが上策だ」(同31)となる。しかも、元の売り手は、その点でNの徳性を追求しているのではない。「安過ぎる」(32)という理由で、売買を取り消そうとしているところだ。だから、Nは、値切ったことについて、頭を悩ます必要はない。勿論、必要はないとは思っても、この観点に執着するのは、Nの自由だ。しかし、もし、そうであれば、相手の要求を脇に置いて、まず、値切ってしまった自分の徳性について、内省に向かわねばならない。ところが、Nは、内省にも向かわず、相手の観点を否定しもせず、不意に段落を変える。
 後段では、奇妙なことが語られる。[Nは、前段で語られたような心理を自覚していなかった/だから/相手も、Nの心理を理解しなかった]という。[Nに自覚があったとしても、Nは「黙っていた」のだから、相手が理解するはずはない]というのではない。反対に、[Nに自覚がなかったとしても、相手は、Nの立場を思いやるべきだった]というのでもない。Nの「心理状態」が相手に伝わらないことを、あたかも、Nの欠陥であるかのように語る。こんな話は通じない。通じない話を、Nは、さらに、「括弧の中で」言おうとする。さて、私は、ここで段落を変えよう。
 「こんな現象」とは、どんな現象か。[自分を批判すると同時に、自分を批判しなければならない状態を作り出した相手をも批判しようとして、思考が分裂し、停止する]というようなことらしい。そして、つい、黙りこくってしまうので、[相手に、相手を批判していると「誤解される」ので困る]と、言いたいらしい。しかし、この挿話の場合、「先方」に「誤解」はない。少なくとも、Nの主張する「誤解」は、先方にとって、意味がない。、「二十五銭で売った」ことだけが、共通の話題だ。それとは別に、「狡猾い私を怒る」という状態があったとしても、そのことを「先方」が知る必要はない。それどころか、「狡猾い私を怒る」という状態がなくて、「先方を怒った」だけなら、「誤解」では済まない。正面切って喧嘩になる。Nは、[自分は「誤解」された]と思う状態を作り出すことによって、控えめに行動できたことになる。結果的に、ありふれた状態に転がり込んだが、その経緯は、異様だ。
 その後、少年Nは、控えた分だけ、逆襲に出る。[書物は返すが、金も受け取らない]という。相手を詐欺師扱いしている。しかも、子供の気分のまま、「二十五銭の小遣を取られてしまった」(同32)と書く。この逆襲は、少年Nの心理では、[「狡猾い私」に損害を与えて罰する]という意味を持っているのだろう。ところが、罰を甘受するように自分を設定したはずなのに、「小遣を取られてしまった」と逆襲する。
 Nは、[自分にも、悪いところはあった]という前提に固執するので、混乱する。なぜ、Nは、その前提を捨てないのか。この場合は、値切った自分について、反省したくないからだ。[なぜ、自分は「値切って見るのが上策だ」(同31)と思ってしまったのか]という疑問を、「狡猾い」という言葉で封じなければならない理由があるからだ。その理由とは、貧しさだ。「喜いちゃん」(同31)も、複雑な「境遇」(同31)にいた。二人は、似ていた。だから、彼が「安過ぎる」という言葉を出したとき、Nは、彼の苦衷を我がことのように感じ、自分は責めを負うべきだと勘違いして、抗えなくなった。
 「どうしてこの二つの怒りを同時に和らげたものだろう」という「解剖」は、「比較的明瞭」ではあっても、十分に「明瞭」ではない。[少年Nにとって、「怒り」は一つのものだったので、個別に「和らげ」るという発想はできなかった]が、成人のNには、「二つの怒り」だと分かっているので、「同時に」解決しようとしなくてもいいはずだ。個別に検討すればいい。なのに、語り手は、また、子供になって、[「二つの怒りを同時に和らげ」ることは、困難だ]という前提で語ろうとする。そして、少年Nが袋小路に入ったように、成人のNの頭までが動かなくなる。そもそも、「怒り」を「解剖」しても、「二つ」きりで終わるとは限らない。三つにも四つにも「解剖」しなければならないのかもしれない。
 もし、ここで、[数が多ければ多いほど、解決は困難になる]という迷信を持ち出せば、話は無意味になる。
 成人のNが、「二つの怒り」を、「同時に」ではなく、一つずつ検討しようとすれば、[「二つの怒り」の物語は、それぞれ、別の物語だ]という事実に直面しなければならない。[少年Nは、「狡猾い」]という物語と[「喜いちゃん」は、「安過ぎる」と分かっていても、売りたかった]という物語は、別のものだ。しかし、Nにとって、この二つの物語は、どこかで通じ合っているように感じられる。そして、その感じが貴重なもののように思われている。[二人は似たような境遇にあったから、二人は同じ物語に属している]と、Nは信じたがっている。その物語とは、[二人は、貧しい子供だ]というものだ。これを[世界]に、[本来は、Nが相手の苦衷を察したように、Nの気持ちも相手に通じるはずで、通じなかったのは、少年Nの自覚が不足していたためだ]といった、奇妙奇天烈な物語が趣向される。こうして、Nは、話を、どんどん、複雑にして苦しむ。複雑な物語の殻に守られて、Nは、自分の[「境遇」の物語]を隠蔽する。
 Nは、さまざまな挿話を、「解剖」しないまま、知的にふるまおうとする。理屈っぽいから情緒的共感は得られず、論理が貫徹しないので「誤解される」ことになる。ときには、「侮辱」(同33)されもする。この自ら招いた事態についての嘆き節が、次回(同33)で展開される。
//「侮辱」
 Nは、「侮辱」(『硝子戸の中』33)されることを恐れる。そして、「侮辱」されそうな事態を回避するために、自分の「態度も相手次第で色々に変って行かなければならない」(同33)と結論する。すると、相手が「悪人」(同33)である場合は、「悪人」とも調子を合わせて行くことになるのか。反対に、相手が「善人」(同33)だと、Nも「善人」に成れるのか。勿論、こんな疑問は、愚かしい。
 人間としての限界を、Nは越えようとでも言うのだろうか、他人の心が「直覚」(同33)できるようにしてくれと、「神」(同33)に祈る。あるいは、他人を「正直もの」(同33)に変えてくれと祈る。しかし、このような力を与えるのは、「神」というよりは、邪神か、悪魔か、妖精だろう。
 Nは、O(同9〜10)を「侮辱」したとは思わないのかもしれない。Oも、「侮辱」されたとは、決して思うまいと苦心したことだろう。自尊心を守るために、[自分は、成功した友人に「侮辱」された]という物語を拒否したろう。しかし、NとOが、この先、親しみを増して行くという雰囲気は、微塵もない。
 Nは、女客が「どう解釈したか知らない」(同7)ような言葉を放って、「人間らしい好い心持」(同7)になれる。その他、諸々を見れば、Nが無情なやり方、ごり押しをする人物であるという印象は濃厚だ。しかし、そのことに、Nは気づかない。まだ、やり足りないふうだ。よくもエネルギーが続くと感心する。
 「物品」(『道草』91)のように扱われた人間は、他人を「物品」のように扱っても、気づかない。それどころか、「物品」として愛し愛される希望さえ、抱く。そうした希望そのものが生き物に対する「侮辱」だという観点はない。
  その上肝心の本人は却って来ても籍は復らなかった。いくら実家で丹
 精して育て上たにしたところで、いざという時に、又伴れて行かれればそ
 れまでであった。
                            (『道草』91)
 この部分は実父の考えとして記されているが、正確には、健三が実父の考えとして想像しているところの考えだ。あるいは、実父が、こういうことを、実際に口に出して言ったとしても、その考えを真実だと思ったのは、健三だ。そして、健三のその思いを、作者は疑っていない。しかし、私は疑う。
 実父には、もともと、健三を実子として認めたくないという、錯綜した思いがある。[「丹精」しない]などいった、消極的な気分ではない。「酷薄」(同91)なものだ。健三の性質や才能といった問題以前に、その存在そのものが疎まれている。語り手は、そのことを否認しようとする。健三は、愛されなかっただけではない。殺されかかっていた。[実家にとって、自分は生きるに値しない存在だった]という事実を認めない限り、健三は、実父の作り出した[「酷薄」な物語]から解放されることはない。健三は、[「酷薄」な物語]の内部で、「物品」から「立派な人間」(同91)への上昇を試みた。そして、その結果、少なくとも、「物品」よりは「立派な人間」に近いはずの、ひとかどの「人間」に成れたという自負を持ったろう。しかし、健三に安心は訪れない。なぜか。健三の考える「人間」は、[「立派な」「物品」]の一種でしかないからだ。健三は、まだ、[「酷薄」な物語]の内部にいる。しかも、一面では、その物語を支持してさえいる。「給仕になんぞされては大変だ」(同91)というのだから、健三は、[「給仕」は、「人間」ではあるが、「立派な人間」よりは、「物品」に近い「人間」]だと思っているはずだ。そうした思いに捕らわれている限り、その思いの持ち主に、安心はない。「人間」は、本来、[「立派な人間」よりは、「物品」に近い]と見做される可能性から逃れることはできない。いくら上昇しても、「人間」は、永遠に、「立派な人間」には成れない。「立派な人間」という観念は、馬の鼻面にぶら下げた人参のようなものだ。「人間」は、「立派な人間」に向かって、死ぬまで、追い立てられる。
 Nは、「その時確かに握った自己が主で、他は賓であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えてくれました」(『私の個人主義』)などと語る。Nは、「信念」を得てから「非常の自信と安心」を得るまでに、どれくらいの期間、頑張ったのだろう。あるいは、その間は、一瞬だったのだろうか。つまり、「信念」と「非常の自信と安心」は、同じ状態を指すのだろうか。また、「非常の自信と安心」を得た後、何に取り掛かる気なのだろか。
 不安な人間は、[今すぐ、安心したい]と願うものだ。「非常の自信と安心」が約束されて不安が消えるものなら、50年後の約束でも、来世の約束でも、有効だろう。安心している人間なら、例えば、どんなに強烈な痛みにも、気を失うまで、耐えられよう。しかし、不安な人間は、どんなに微弱な痛みにも、しばしも耐えられない。「信念」が降りてくるまで、待ってはいられない。
 逆説的な言い方をすれば、[不安な人間は、すでに、1個の「信念」を得ている]と言える。不安な人間は、「自分」の感じている「不安」の正当性を信じている。不安な人間は、[「自己」の不安は正当だ]という「信念」に捕らわれていて、それを否定するような「他」の声には、耳を塞ぐ。不安な人間に、何を言ってやっても、無駄だ。その人の不安を、一時的に緩和してやることしか、「他」にはできない。ちょうど、静ママが、Sにしてやったように。
 Nは、人に何かを語って、「他」を励ましてやっている気だったらしい。しかし、実態は、逆だろう。Nは、「自分」の「信念」とやらを、「他」に聞いてもらうことによって、自己正当化できて、喜んでいたはずだ。本音は、そこにあるから、たった一人でも好意的でない聴衆が出現する(『硝子戸の中』34)と、奈落の底に突き落とされたみたいに、めげてしまう。他人の無理解な態度に接すると、Nの「非常の自信と安心」は、がらがらと崩れてしまう。[無理解な「他」は、「自己」を「主」の座から放逐する]という不安に襲われるからだろう。
 「己の所為じゃない」(『道草』97)という健三の弁解を否定的に描く作者は、勘違いをしている。ここは、言葉通りに取るべきだろう。少なくとも、最初は、健三のせいではなかった。しかし、少年の健三が「立派な人間」という観念を実現すべき目標として設定した瞬間から、「父」達が健三の「自己」に溶け込み、健三の肉体を酷使する段階に入ったはすだ。彼は、[「酷薄」な物語]の制作に加担し、「父」達の曖昧で強引な性格を、家庭内文化として、受け継ぐことになる
 親が子に、次のように言うとする。
 [おまえを給仕にしてやる/おまえを立派な給仕にしてやる/おまえを立派な人間にしてやる/おまえを人間にしてやる]
 どの文がどの文よりも「酷薄な感じ」を与えるとか、与えないというようなことは、決められない。作者は、健三少年の苦痛を、十分に発掘しないまま、[「父」達の物語]の変奏を健三に生きさせる。
 健三の養父には、彼自身に原因があるとしても、物質的貧困のゆえに、健三を利用する理由がある。しかし、健三が思い描く、実父の像は、あまりにも表面的だ。健三は、現実味のある実父の像を直視したくないようだ。そして、作者さえも、自分の、ではなく、健三の、しかも、死んだ実父を恐れるかのようだ。
 「酷薄という感じが子供心に淡い恐ろしさを与えた」(『道草』91)と作者は記すが、その「恐ろしさ」は、成人後の健三を引っくるめ、作者自身をも支配している。Nの恐れる「侮辱」は、この「恐ろしさ」の予兆ではないか。Nは、その「恐ろしさ」を直視することを回避し、[感情を物語の中に閉じ込める]という方法で、「恐ろしさ」を再生産し続けたらしい。自分が恐れるものを、他人にも恐れさせようとした。少なくとも、[恐れるのは当然だ]という物語を作り出そうとした。
 実父の像を破壊したとして、その後に、何が見えるのか。実母の像だ。実母は、なぜ、夫の言いなりになって、乳児Nを手放したか。また、その後も、なぜ、Nを実子として扱わなかったか。こうした疑問は、深く閉じ込められる。それは、やがて、[清子は、なぜ、津田を捨てたか]という、[竹輪の穴の中身は、どこへ消えたか]みたいな疑問として、表出される。[実母は、「始めから私を嫌っていたのでは」(4)なかろうか]という疑問に羽交い締めにされたまま生きて死ぬことを、Nは選ぶ。あたかも、その疑問自体が[母]であるかのように。
//「二十世紀の堕落」
  代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触
 を敢てし得ぬ、現在の社会を、二十世紀の堕落と呼んでいた。そうして、こ
 れを、近来急に膨張した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたもの
 と解釈していた。又これをこれ等新旧両慾の衝突と見做していた。最後
 に、この生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯と心得ていた。
                           (『それから』9)
 この引用の第1文の骨子である、[「社会を」「堕落と呼んでいた」]というのは、どういう日本語だろう。[代助は/現在の社会を/堕落と呼ぶ]という文は、日本語として成り立たない。
 1.1[「代助は」、他人を「腹の中で侮辱する事なしには」、他人と「接触を敢てし得ぬ」]
 1.2[「現在の社会」では、「人類」は、「互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ」]
 1.3[1.2のような「現在の社会」は「堕落」していると、「代助」は考える]
 1.4[「現在」は、「二十世紀」だ]
 1.5[「現在の社会」における「堕落」の現象は、「二十世紀」に特有のものだ]
 1.6[「代助は人類の一人」だ]
 1.7[「代助は」「現在の社会」に属する]
 1.8[「代助は」、「現在の社会」の「人類として」「堕落」している]
 第2文の「これ」は、「堕落」を指すようだが、落ち着かない。
 2.0[「堕落」の原因は、「近来急に膨張した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がした」ことにある]
 第3文は、「又」とあるから、「堕落」の原因が列挙されるのかと思えば、そうではない。「崩壊」の原因が語られるらしい。
 3.0[「生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がした」原因は、「これ等新旧両慾の衝突」にある]
 第4文は、「最後に」とあるが、何の「最後」なのか、分からない。[「代助は」/「呼んでいた。」「そうして、」「解釈していた。」「又」「見做していた。」「最後に、」「心得ていた。」]という構成になっているらしい。つまり、列挙されているのは、代助の心の動きらしい。こんな文を、日本語は許容しないはずだ。
 4.0[「生活慾の目覚しい発展」は、「欧洲から押し寄せた」ものだ]
 以上の腑分けが適当だという自信はない。「生活慾」と「道義慾」が何を指すのか、分からない。なぜ、「これ等」が「新旧」に振り分けられ、しかも、「衝突」するのかも、分からない。そもそも、全体の主張が怪し過ぎる。
 さて、この段落の後、なぜか、改行されて、「この二つの因数は、何処かで平衡を得なければならない」(同9)という、意味不明の断言を経て、「けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於て肩を較べる日の来るまでは、この平衡」(同9)の後は略して、とにかく、日本人は、「罪悪を犯さなければならない」(同9)ことになる。だが、「代助は人類の一人として、かかる侮辱を加うるにも、又加えらるるにも堪えなかった」(同9)で、締め。
 となると、私が、「代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ」で切ったのは、間違いだったらしい。しかし、間違いだとしたら、「代助は人類の一人」なのに、なぜ、「侮辱」し合う関係の外側に立っていられるのか、その理由が分からなくなる。実際問題として、「かかる侮辱を加うる」ことを自分に禁じたとしても、「加えらるる」ことを免れるはずはない。となると、もしかしたら、「堪えなかった」というのは、[不可能だった]という意味ではなく、[「堪えな」いような気分になった]というのを略した形なのかもしれない。
 この次から、「父」の話になる。代助は、「父」のせいで、「矛盾の苦痛を、頭の中に起こした」(同9)という話らしい。国際情勢は親子喧嘩の枕だったか。
 作者は、代助の頭のいいところを見せておかないと、[親子の物語]に取り掛かれないと思ったのだろうが、私は、作者の日本語のひどさに面食らい、読書意欲を喪失する。
 作者は、自分の家庭的な不幸の遠因を社会制度の不備に求めようとして、小説を書いて見せているのかもしれないが、家族内政治、親族内政治に勝ち抜くこともできないような人物達の社会観を、読者は尊重すべきではあるまい。
//「不安」
 「代助は父に呼ばれてから」(『それから』10)、「気分」に「暗調を帯び」(同10)て、「その上」(同10)、「現代の日本に特有なる一種の不安に襲われ」(同10)る。この「不安」は、「相互が疑い合うときの苦しみ」(同10)だとされる。「相互が疑い合う」原因は「日本の経済事情に帰着」」(同10)するという。
 このような要約が、どれほど、適当なものか、私には、自信がない。こんな話は、とても、受け入れられないからだ。
 作者が「日本の経済事情に帰着」すると、次に、汚職刑事の挿話がある。
  代助が父に逢って、結婚の相談を受けた時も、少しこれと同様の気がし
 た。が、これはただ父に信仰がない所から起る、代助に取って不幸な暗示
 に過ぎなかった。そうして代助は自分の心のうちに、かかる忌わしい暗示
 を受けたのを、不徳義とは感じ得なかった。それが事実となって眼前にあ
 らわれても、やはり父を尤もだと肯う積りだったからである。
  代助は平岡に対しても同様の感じを抱いていた。然し平岡に取っては、
 それが当然の事であると許していた。ただ平岡を好く気になれないだけ
 であった。代助は兄を愛していた。けれどもその兄に対してもやはり信仰
 は有ち得なかった。嫂は実意のある女であった。然し嫂は、直接生活の難
 問に当らないだけ、それだけ兄よりも近付き易いのだと考えていた。
  代助は平生から、この位に世の中を打遣っていた。だから、非常な神経
 質であるにも拘わらず、不安の念に襲われる事は少なかった。そうして自
 分でもそれを自覚していた。それが、どう云う具合か急に動き出した。代
 助はこれを生理上の変化から起るのだろうと察した。
                              (同10)
 よく分からない文だが、決定的に分かりにくいのは、「それが、どう云う具合か急に動き出した」と記しながら、作者も、「どう云う具合か」と首を捻っているように見えるからだ。
 代助が、「不安の念に襲われ」る理由は、はっきりしている。「父に呼ばれ」たからだ。「呼ばれてから」ではなく、[呼ばれたから]に決まっている。しかし、作者は、とぼけ続ける。代助の苦しみは、すべて、父親に原因がある。他に、原因は見当たらない。『それから』の分かりにくさは、[代助の苦しみは、すべて、父に原因がある]という物語を表出しながら、その物語が表現として浮上しないという点に絞り込むことができる。あたかも、代助の欺瞞を作者が引き受けるかのように、物語は進行する。
 なぜ、父親が代助を「不安」にさせるのか。父親が代助を「信仰」していないからだ。ところが、代助は、自分が父親を「信仰」できないせいだと考えているらしい。そして、作者までも。
 「父に信仰がない」という言葉は、[「父」が何かを「信仰」していない]という意味か、[代助が「父に」対して「信仰」する気になれない]という意味か、判断できないが、とりあえず、後者だとする。[「父」が何かを「信仰」していない]という文は、この付近に収まる場所がないように思えるから。また、「けれどもその兄に対してもやはり信仰は有ち得なかった」という文も参考になる。
 「これと同様」の「これ」は、指す言葉が見つからない。「悪事を働らいた刑事巡査の話を新聞で読んだ」(同10)とき]を指すのかもしれない。「が、これは」の「これ」は、「同様の気」か、[「同様の気がした」こと]か、どうも、そのようなことを指すらしい。つまり、代助は、[父親は、「経済事情」のために、代助を利用して、「悪い事をする」(同10)]という「暗示」を受けたと書かれているらしい。「かかる忌わしい暗示を受けたのを、不徳義と感じ」るというのは、[息子が父親を疑うのは、「不徳義」だ]という意味にしか取れないが、どうも、そうではないらしい。ここは、[「かかる忌わしい暗示を受けた」ところの「暗示」そのものについて、「不徳義とは感じ得なかった」]という意味らしい。だから、「暗示」でしかないことが、「事実となって眼前にあらわれても」というふうに続いているようだ。[初めは「不徳義」と思ったが、すぐにその考えを否定した。怖くて]というのが実情ではないのか。
 しかし、私は、こうした解釈に自信がない。私の知っている日本語では、こういう構文を許容しないし、また、この解釈によって得られた物語は代助の錯誤だと思うからだ。勿論、代助は、何らかの錯誤に捕らわれているというふうに描かれているようだから、この解釈でいいのかもしれない。しかし、[代助は、根本的な錯誤に捕らわれている]と描かれているようでもない。
 [代助は、自分の親族が自分を「経済事情」のために利用することは、刑事が自分の家族を養うために家族以外の人間を犠牲にすることと「同様の気がした」]と、作者は書いているらしい。そして、このように利用されることについて、代助は、「尤もだと肯う」という。
 この代助の態度は、奇妙だ。だから、作者は、この奇妙な態度の原因について、説明する。「代助は平生から、この位に、世の中を打遣っていた」というふうに。そして、だから、「不安の念に襲われる事は少なかった」という。ところで、「自分でもそれを自覚」と記されているから、[「代助は平生から」「世の中を打遣っていた」から、「不安の念に襲われる事が少なかった」]という考えは、まずは、作者の考えとして、披瀝されていると考えられる。となると、奇妙なのは、代助の考えだけではない。作者も奇妙な考えに取り付かれていると見做さざるを得ない。代助が「打遣って」いるのは「世の中」ではなく、自分自身だからだ。つまり、他人に「侮辱」される前に、前以て自分の価値を貶めているから、「侮辱]されても、「不安の念に襲われる事は少なかった」という話だ。この話は、嘘でなければ、勘違いか、鈍感のせいだろう。
 代助は、「非常な神経質」だと紹介されている。しかし、むしろ、正反対で、非常に鈍感なのだろう。あるいは、鈍感を装っている。その結果、神経が正常に働かず、対象の重要度を識別できなくなり、「尋常な外界から法外に痛烈な刺激を受ける」(同10)ことになる。
 苦痛を感じている人間は、ときとして、その苦痛に対して無感覚になることで、苦痛の原因を直視せずにすむように努力する。代助は、なぜか、父親を過剰に恐れている。代助が、彼の父を恐れなければならない理由は、描かれていないようだ。作者の父親観が表出されているのだろう。
 代助が感じる「不安の念」について、「生理上の変化から起るのだろうと察した」という代助の素人診断が書かれているが、[原因は、「父」にある]と「察し」てもいいはずだ。勿論、推察の域を出ない。しかし、このような推察は、読者にとって不可避なのだから、作者は、この推察が間違っているのなら、間違っていると記さなければ、「非常な神経質」という言葉が宙に浮いてしまうことになる。ところが、作者は、そこまで気が回らないらしい。[代助は、主として、「父」との関係が原因で、「非常な神経質」に陥っている]とは考えていないことになる。「神経衰弱」という言葉は、宙に浮く。作者は、代助が苦し紛れに持ち出す文明論を支持しているらしい。もしかしたら、この中学生の落書きのような文明論を、本気で読者に訴えていたのかもしれない。
 作者は、[代助は、彼を利用する父親を「許していた」]と書いたつもりらしい。一方、「代助は平岡に対しても同様の感じを抱いていた。然し平岡に取っては、それが当然の事であると許していた」という。「然し」というのだから、当然、[代助は、父を「許して」いない]というのでなければならない。どちらが本当か。どちらも本当とは言えない。作者は、この種の問題を「打遣って」いるからだ。
 代助の鼻持ちならない傲慢さは、一種の過剰防衛によるものだ。代助は、父親によって自尊心を奪われた。そして、そのことについて、怒ったり、異議を申し立てたりすることを、非常に恐れた。だから、そのような事実などないかのように振る舞ったり、あるいは、せいぜい、文明論にすり替えて気取ったりすることで、残り僅かな自尊心を慰撫しようとした。
 ところが、作者は、そのようには描かない。[恐れの物語]の明示を恐れるからだろう。
 表現としては、[「代助は」「かかる忌わしい暗示を」「不徳義とは感じ」「なかった」]と読める。しかし、表出としては、[「代助は自分の心のうちに、かかる忌わしい暗示を受けたのを、不徳義とは感じ」たが、その「心のうち」を「自覚」し「得なかった」]と読める。[「父」の代助に対する「不徳義」の物語/「侮辱」]と[代助の「父」に対する「不徳義」の物語/「不安」]とが、複雑に絡み合い、不可解な文を作り出している。
 代助の「異常な神経質」は、この「自覚」の拒否が原因になっていると思われる。そのこと自体を問題にする必要はない。しかし、作者が、代助と同様に、「自覚」できず、[「父」の物語]を記述することができないとしたら、問題だろう。しかも、この問題を浮上させないために、作者は、彼の「代」役であり、「助」手である代助に人物評をさせて、その裏で、「父」を批判する快感を掠め取っている。
 [「平岡を好く気になれないだけであった」が、「父」については、嫌った、あるいは、憎んだ、恐れた。「兄を愛していた。けれども」「父」を「愛してい」なかった。「嫂は実意のある女であった。然し」「直接生活の難問に当」る「父」には、「兄よりも近付き」たくなかった]
 こうした裏返しの批判文を認めようとしただけで、作者は、気分がおかしくなり、「不安の念に襲われる」主人公を表出したと思われる。[日頃から、代助は、父親に非難がましい目を向けていた]というのは表向きで、それは、ここで初めて作者によって言語化されたものだ。そして、そのせいで、作中人物である代助が初めて自分の苦痛を自覚したかのように苦しみ始める。作者が主人公に自分を投影するのではない。主人公は、あたかも、作者によって語られた物語の最初の読者であるかのように、自分の物語を、実感より少し遅れて、再演し始める。
//「特殊」
 代助の父は、社会の一般と比較して、「特殊」であるようには見えない。もし、「父」が「特殊」であるとすれば、一般人は、「相手が今如何なる罪悪を犯しつつあるかを、互に黙知しつつ、談笑」(『それから』9)していることになる。
 [代助の父は、「維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた」(同9)]と、代助は思っているのに、その父が、「一方には、激烈な生活慾に冒され易い実業に従事した」(同9)とも思っている。しかし、こうしたことは、代助の想像に過ぎないのだから、「矛盾の為に大苦痛を受けなければならない」(9)はずの父が「苦痛」を受けていないとすれば、代助の想像全体が的外れだと思わなければおかしい。そのことに、作者は思い至らないらしい。
 ちょっと、待てよ。ここで、[父は、「大苦痛を受け」ている]と記されているのか。あるいは、[父は、「大苦痛を受け」ても当然なのに、「受け」ていない]と記されているのか。あるいは、[この先、「受け」ることになるはずだ]と予言されているのか。作者か、代助か、どちらかが、「もし」(同9)と続ける。
 「もし、内心にこの苦痛を受けながら」(同9)と続くのだから、[父は、「大苦痛を受け」ている]ということについて、判定は出ていないらしい。なのに、作者、あるいは、代助は、屋上屋を架す。
  もし内心にこの苦痛を受けながら、ただ苦痛の自覚だけ明らかで、何の
 為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種であ
 る。代助は、父に対する毎に、父は自己を隠蔽する偽君子か、もしくは、分
 別の足らない愚物か、何方かでなくてはならない様な気がした。そうして、
 そう云う気がするのが厭でならなかった。
                               (同9)
 「偽君子」か「愚物」以外の、平均的な人々が「大苦痛」を受けていて、その「苦痛」を「自覚」し、しかも、その「苦痛」の原因について、代助と同じ考えを持っているのだとすれば、代助が孤立的である理由を、読者は、どこに求めればいいのか。作者は、明らかに矛盾している。代助の父は、代助の考える「偽君子」か「愚物」にすら属していない。父は、「特殊」ではなく、代助には見えない一般人に属していて、「大苦痛」など、感じてはいない。だからこそ、代助の孤立感に根拠があるはずだ。
 では、なぜ、[「父」は「特殊」だ]と形容されるのか。そのわけは単純なものだ。代助の父は、代助と「特殊」な関係にあるからだ。代助は、自分の独特の思想を、父と共有できないので、「厭でならなかった」わけだ。しかも、「父は代助の手際で、どうする事も出来ない男であった」(同9)ために、「代助は凡ての道徳の出立点は社会的事実より外にない」(同9)という観点から、空想上の「父」を攻撃する。この観点こそ、彼が「父」との関係を修復するための「出立点」として選んだものだ。ある考えを「社会的事実」と勝手に呼んで、その空想上の「事実」を、投網のように、「父」に被せるわけだが、こんなものは、何の役にも立たない。「父」と代助の親子関係の「事実」には矛盾があって、その矛盾について、「代助は未だ曾て父を矛盾の極端まで追い詰めた事がなかった」(同9)というのだから、代助は、父親と自分の関係がどのようなものか、本当は、確信を持って掴んではいないことになる。だから、父親が「特殊」なのか、父子関係が「特殊」なのか、代助が「特殊」なのか、誰にも分からない。と、このように「追い詰め」ることのできない作者は、「特殊」だと言える。
 「道徳の出立点は社会的事実」にはない。「道徳の出立点は社会的事実より外にないと信じていた」(同9)という言い回しによって、語り手が馬脚を現したことから見て取れるように、「道徳」について語るときは、「事実」の問題としてではなく、誰のものであれ、信念の問題として語るべきだ。また、「道義の縄は(中略)新たに張らねばならぬ」(『虞美人草』19)という考えは、「縄」がどのような性質のものであったとしても、それが個人の認識した「社会的事実」から出立するとすれば、その個人は、孤立せざるを得ない。
 代助が平岡に三千代を「周旋」(同16)する動機には、「父」に由来する「道徳」が深く関係しているらしい。だから、『それから』における、[代助vs平岡]の闘いは、実は、[作者vs代助の父]の代理戦争だ。このことは、「父」と平岡が最後に通じ合うという展開として表出されている。
 [代助vs平岡](『それから』)の闘いは、「中心を欠いた興味」(『行人』「友達」27)として、特定の異性の存在がなくても発生し得る「性の争い」(同)だ。この「性の争い」は、[SとKの物語]に持ち越される。
//「発現」
 「おれ」(『坊ちゃん』)は、「兄」と「喧嘩」(同1)をして、「おやじ」に「勘当」(同1)されそうになる。「おれ」は、自分の方から親を「勘当」したかのように、都落ちし、「兄」が変身したかのような「赤シャツ」と闘う。
 Pは、「兄」が、Sについて、「何もしないで生きていようというのは横着な了簡だ」(51)と非難するのに対抗できず、家族関係から離脱するかのように、上京する。Pは、「兄」に、自分の考えのS的部分を非難されたようなものだ。「兄」は、Sと面識がない。だから、具体的にS批判をすることはできない。だから、S批判によって、「兄」は、婉曲に、Pを批判していることになる。あるいは、Sの将来を危惧し、窘めている。Pは、「兄」の老婆心を鬱陶しく感じている。しかし、こうした経緯を明示することは、この兄弟には、できない。しかも、語り手Pにも、できない。
 Kは、Sに、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」(84)と言う。このKの断言は、Pの「兄」の、S批判と同種のものだと言える。Kは、このとき、「坊さん」(84)のことを念頭に置いていたはずだ。Sは、八つ当たりされただけだ。だが、Sは、自分と「坊さん」に共通する何かを批判されたと思って、凹む。
 KはPの「兄」が変身した姿であり、若き日のSはPの変身した姿だと考えられる。作者は、言わば、江戸の敵を長崎で討つようなことをしている。
 「おれ」とその「兄」の不和、Pとその「兄」の不和は、家族内政治の文脈で起きているはずだ。すると、SとKの争いも、静母子を含む、未来の家族内政治の文脈で闘われていると考えられる。だから、マドンナに人格が必要なかったように、静にも人格は必要ではない。彼女達は、将棋の駒にすぎない。
 「おれ」の「兄」は、「卑怯な待駒」(『坊ちゃん』1)をする。「おれ」は、「赤シャツ」を待ち伏せする。Pの「兄」は、Sを「イゴイスト」(51)と論う。SやPの観点では、「イゴイズト」の称号は、実業にかまけている「兄」にこそ相応しいのかもしれない。だが、Pは、そのように言い返せない。Sの観点では、Kにとって重要だと思われる問題にかまけているK自身こそ、「精神的に向上心のないもの」だと言えるのかもしれない。だから、この発言を聞いたSは、即座に、そのままを、Kに「投げ返した」(95)ら、良かったのかもしれない。
 Kは、静によって、堕落させられる必要はなかったのかもしれない。だが、作者は、静を引きずり込まなければ、Kに対抗するSを描くことができなかったのだろう。
 Pは、「兄」に、[「イゴイスト」は、おまえだ]と言えなかった。その悔しさは、過去のSに転写され、「兄」のように人を見下すKと闘うSの物語が起動する。Kの言葉を「投げ返した」事実について、Sは、「私の言葉は単なる利己心の発現でした」(95)と記す。作者は、「イゴイスト」の称号を自分自身に授与するSを描くことによって、多くの合理的な物語の「発現」を不能にする。
 Nの作品に、利己的でない人物は登場しないと言って良い。だから、誰が誰に勝とうと、ぶっちゃけた話、空しい。語り手(達)は、この空しさを「発現」させまいと、頑張って来た。Nの語り手(達)は、騙りだった。だが、騙りに限界が見え始める。『彼岸過迄』と『行人』を見れば、このことは明瞭だろう。作品として成立しない。[語り手は騙りだ]という事実を、懐に抱き抱えたまま、語り手Sは失踪する。騙りの語り手は、作品の表面から消える。
 そして、何が起きたか。作者の奇妙な偏差が「発現」し始めた。『道草』は読解不能だと言える。語りの基調が、どこか、常に、ずれている。作者は、このことを隠蔽したくて、『こころ』まで、書いて来たのだろう。その偏差は、作者として隠蔽したかったものというよりは、『猫』以前からあったものだろう。あるいは、この偏差を、文学的な何かとすり替えるために、書くことに賭けたのかもしれない。
  もし夫が入院しないで、例もの通り宅にいたならば、たといどんなに夜
 更しをしようとも、こう遅くまで、気を許して寐ている筈がないと思った
 彼女は、目が覚めると共に跳ね起きなかった自分を、どうしても怠けもの
 として軽蔑しない訳に行かなかった。
  それでも彼女は容易に起き上らなかった。
                            (『明暗』58)
 私は、この部分を、何かしら、典型的だとかいうようなことで、捜して来たのではない。本を取って、ぱっと開いたら、あった。今に限らず、私としては、Nの作品を改めて通読する気には、とても、なれず、[ぱっと開いたら]方式で、やっているわけだが。
 さて、ここに、何が表現されているのだろう。[「彼女」は、疲れて、寝坊した]ということが表現されているのだろうか。特に、何かが表現されているわけではない。強いて言えば、[作者は、疲れて、先を書けない]ということが表出されているようだ。
 なかなか、起きて来ない苦沙弥(『猫』10)を思い出させる、この場面には、奇妙なことが描かれている。「彼女」は、まだ、起きていないのに、「目が覚めると共に跳ね起きなかった自分」について、考え続けている。もし、この場面が表現なら、作者は、[「彼女」は、疲労のせいで頭がおかしくなった]と暗示しているのでなければならない。しかし、そうではない。「彼女」は、寝たまま、自分の寝坊を正当化することに成功する。そして、また、眠るのかと思えば、「一旦解放された自由の眼で、やきもきした昨夕の自分を嘲けるように眺めた彼女が床を離れた時は、もう既に違った気分に支配されていた」(『明暗』58)という。
 「彼女」が「昨夕の自分を嘲けるように眺めた」という事実は描かれていない。だから、この部分は、[やがて、「彼女」は、なぜか、「昨夕の自分を嘲けるように眺めた」]と記されなければならないはずだ。しかし、そう記すと、「彼女が床を離れた」という事実に繋がらない。
 まず、「彼女」は、「目が覚めると共に跳ね起きなかった自分」を「軽蔑」していた。しかし、[その作業にかまけている間、まだ、起きていない]という事実には、気づかないようだ。作者も気づかないらしい。「その内眼を開けた瞬間に感じた、済まないという彼女の心持が段々緩んで来た」(同58)と記されるが、そのことと、「この位の事をしても差支なかろうと考え直すようになった」(同58)というときの、「この位」という言葉は繋がらない。[目覚めると同時に起床しなかった]ことを正当化しても、[だらだらと寝続ける]ことまでを正当化したことにはならないからだ。
 「彼女は、目が覚めると共に跳ね起きなかった自分を、どうしても怠けものとして軽蔑しない訳に行かなかった」という文と、「一旦解放された自由の眼で、やきもきした昨夕の自分を嘲けるように眺めた彼女が床を離れた時は、もう違った気分に支配されていた」という文は、直接には繋がらないはずだ。ここで、「軽蔑」の対象と、「嘲ける」対象は、別物だ。ところが、あたかも、この2文の間で「軽蔑」が解消されたかのように語られる。この場面は、[「彼女」は、自分自身に向けた「軽蔑」から逃げ回っているうちに、現実感を喪失したが、そのことを「解放」と勘違いした]という表現ではないはずだ。
 語り手は、何をしているのだろう。語り手が騙りではないとすれば、「彼女」の頭がおかしいのだろう。そうでなければ、作者は、重要な事実に気づかないで書いていることになる。その事実とは、[「彼女」は、「彼女」の現在を生きていない]ということだ。
 Nの作品の登場人物達に共通すると思われるのは、こうした傾向だ。作者は、[人間は、自分自身の現在を生きることはできない]と信じているかのようだ。そのように信じることは、信じる人の自由だろうが、そのような観念を隠された文脈として持つような言葉は、私には理解できない。
  山道を登りながら、こう考えた。(中略)……
  余の考がここまで漂流して来た時に、余の右足は突然坐りのわるい角
 石の端を踏み損くなった。
                             (『草枕』1)
 「余の考がここまで漂流して来た時に」というように、語り手が物語の中に入り込み、作中人物に変身するためには、「こう考えた」という部分は、[「こう考え」ていた]と書き換えなければならないはずだ。
 あるいは、[「余の考が」そこまで「漂流して来た時に」]と書いた語り手「余」は、語りの場にいるが、語られる「余」は、語り手「余」にとっての過去に属しているという事実を、明らかにするという方法もある。このとき、言うまでもないことだが、「ここ」と[そこ]の違いは、物理的な空間の遠近を示すのではない。語り手と聞き手と話題との関係を示す。
 「山道を登りながら」考え始めたことは、「……」という記号が示す通り、結論に達していない。だから、「考えた」と言い切るべきではない。作中人物のものであるはずの「余の考」が「漂流」中であるように、語り手が過去に完成されたものと想定している[「考えた」こと]も、また、「漂流」中であるはずだ。二つの考えは、作品の末尾において、初めて一致する。こうした苦しい事情を覆い隠すために、語り手は、「余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就した」(同13)と、大見得を切って見せる。言うまでもなく、「画面」は、実際には「成就」していない。「成就した」かに見えるのは、「余の考」だけだ。しかも、それを「成就した」ものと見做するのは、作者だけだ。『草枕』という作品が「成就した」のでもない。[那美の物語]は放棄された。
 『草枕』の主人公である画家は那美が不要になったが、語り手は[那美の物語]を語り終えていない。語り手が[那美の物語]を持続すれば、当然、主人公の行動は検討される。このことは、主人公と語り手が同一人物であろうが、なかろうが、同じことだ。しかし、作者は、主人公の行動を全面的に支持しているので、主人公を批判しかねない語り手を黙らせてしまう。
 過去の自分の物語を語る語り手「余」と、語り手にとっての過去において、自分の考えを語る作中人物「余」とは、別の存在だ。両者は、語り手であるという理由だけで、一致することはない。この不備は、[両者は、時間を隔てた同一人物だ]という設定では、始末できない。『草枕』の語り手は、文芸の伝統によって許容された機能体だ。本当は、誰に語っているのか、分からないような、怪しげなやつだが、疑っても仕方がない。一方、作中人物が相手もいないときに語るのは、十分に病的だと言える。演説の稽古なら、分かるが。
 『草枕』では、 作中人物は、あたかも、解けることが決まり切っている問題を解くように、独白を続ける。一方、語り手は、問題を、普通に解きつつある。こんなことは倒錯だ。
 「坂道を登りながら、こう考えた」という文には、主語が明示されていない。日本語の習慣としては、第一人称が来そうだが、そうと決まったものでもない。作者の時間では、「こう考えた」主体は、決定していなかったはずだ。この主体を、「彼」と記しただけでも、不備は明白になる。また、時間の指標を明示すれば、もっと、明白になる。しかし、作者には、できなかった。その理由は、作者が、こうした区別というものを、根本的に知らなかったからではない。幼児でもない限り、こんな区別は、誰にでもできるはずだ。作者は、こうした区別を明示すれば破綻が明白になるような、不合理な考えを表現しようとしているのだろう。複数の語り手とその話題との関係を曖昧にすることによってしか、作者の考えは意味ありげなものに見えないからだ。そして、そのとき、聞き手の像も曖昧になる。読者は、個々の文に接するとき、自分は機能体としての聞き手か、主人公に従う、作中人物である聞き手か、作品の読者か、といった、鮮明な立場を選べなくなる。しかも、そのような不安を与えるのが作品主題ではないことは、明らかだ。落ち着いて不安を楽しんでもいられない。
 作者は、意図せずに、読者を翻弄している。[語ることは、翻弄することだ]と、信じているのだろう。作者は、生活者であったとき、[自分に語りかける相手は、自分を翻弄しようとしている]と思っていたからだろう。
 『草枕』では、語り手と語られる主人公との位相が区別されていないので、まるで、作中人物が大声で独白しながら歩いているように見える。しかも、その声は、作中の他人には聞こえない。聞こえたら、いいのに。でも、聞こえたら、困るのだろう。誰が困るのかな。
 語りの場と語られる場面との断絶を明示しなければ、作中人物でもある語り手は、野放図に、何でも語ることができる。作者はお気楽だろうが、読者はくらくらする。くらくらしない読者は、目茶苦茶、三半規管が強いか、飛ばし読みしているか、どちらかだろう。
 「余」は、物語の「坂道」に着地したとき、くらっと来たらしく、「突然坐りの悪い角石を踏み損くなった」そうだ。この場面を映像にすれば、[画面全体が、「突然」、揺れる]という表現になる。そして、観客は、自分達が今まで仮託して来た人物と、そして、それとは別の人物の目とを、二つ、重ねて外界を見ることになる。『マルコヴィッチの穴』(スパイク・ジョーンズ監督)みたい。こんな事態は、常識的にはあり得ないことだ。多重人格で、隠れている上位の人格が、出ている下位の人格の目を用いるとき、こんなふう見えるのかもしれない。


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