『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#078[世界]38先生とA(28)「偉大な男」

//「偉大な男」
 Kとは何者か。Kは、[S(K/S,K)P]では「偉大な男」(78)で、[S(K/K)P]や[S(S(K/K)静ママ)P]では、「神経衰弱」(76)で、「変に高踏的」(83)で、「口で先へ出た通りを、行為で実現」(78)しようとして、「ただ自己の成功を打ち砕く意味に於て、偉大なのに過ぎない」(78)ような「恐るべき男」(78)だ。Kは、「物質的の補助」(75)の申し出は「一も二もなくそれを跳ね付け」(75)るのに、「二人前の食料」(77)のための支出がどうなっているか、「知らない」(77)でいられる程度に「独立心の強い男」(77)で、「道」のためなら「養父母を欺むくと同じ事」(73)をして金を得ても「構わないと云う」(73)のに、「なるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論する」(76)わけだ。愉快な人だよ。
 誕生寺(30)の挿話では、Kは、[Kの聞きたいことを、「坊さん」(30)は言ってくんない]みたいな、無茶な不満をSが共有しないという理由で、八つ当たりする。こんな人間が「独立心の強い男」であるはずがない。Sだって、[そうか、そんなに言うんなら、これから、「坊さん」を殴りに行こうか]と提案したら、どうか。愛嬌のない弥次喜多だ。
 Kについて語られるとき、強くて弱い、二つの極端な性質、観点、もしくは、物語が複雑に絡み合う。こうした齟齬が、社会通念上許容された嘘としての世辞、同情、憐憫、冗談、誇張、皮肉、「気取り」(85)などの表現の濃淡のどこかに位置すると考えることは、できそうだが、その分だけ、Sの語りは信用できなくなる。
//「精進」
  寺に生れた彼は、常に精進という言葉を使いました。そうして彼の行為
 動作は悉くこの精進一語で形容されるように、私には見えたのです。私は
 心のうちで常にKを畏敬していました。
                               (73)
 Kが、[自分の「行為動作はこの精進一語で形容される」]と主張したのなら、話は分かる。しかし、「私には見えた」って、本当かね。[Sには、「見えた」ようなふりをしなければならないような負い目か、「気取り」(85)があった]のではないか。あるいは、「見えた」ことにしないと、作者が困るんじゃないか。「見えた」という記憶が真実だったとしても、Sは、Kに、[君の「行為動作はこの精進一語で形容される」]と言ってやったことはあるのか。いくら、「常に」ったって、「心のうち」じゃあなあ。
 「見えた」と、語り手Sは主張する。だが、例えば、ただ、座っているKの姿が「精進」に「見えた」とすると、そのSの目玉は、どうなっているのか。眠っているKの姿は、「精進」に「見えた」か、見えなかったか。
 [「寺に生れた彼は、常に精進という言葉を使いました。そうして彼の行為動作は悉くこの精進一語で形容されるように、私には見え」ることを、「彼」は私に期待していると、私は思ってい「たのです。私は心のうちで常にKを畏敬してい」るふりを「敢えて」(76)してい「ました」]という物語を透視してはいけないのか。いけないとしたら、なぜ、いけないのか。本当は、Sの目玉に映っていたのは、「行為動作」ではなく、[「精進」という「形容」の言葉]だけではないのか。その証拠に、語り手Sは、Kの「行為動作」を具体的に示せない。
 Kの「行為動作」そのものは、尋常だったのか、なかったのか。Sの見方が歪んでいたのか、いなかったのか。「私には見えた」という言い回しは、[S以外の人には見えなかった]という含みを持つ。そして、別の見方として「神経衰弱」(76)という言葉が出てくる。この言葉は、語り手Sの反省によって得られたものではない。語られるSの表現だ。だから、ある見方からすれば「精進」であり、別の見方では「神経衰弱」であり、そして、語られるSは、少なくとも、この二つの見方を、Kに対してしていたということになる。だったら、「悉く」というのは、嘘だ。嘘ではないとしたら、「精進」と「神経衰弱」という言葉には共有部分があるということになる。誤解のないように言っておかなければならないが、「悉く」という言葉があるのだから、[Kは、あるときは「精進」し、あるときは「神聖衰弱」になり、また、あるときは私立探偵で、しかして、その正体は……]といった物語は起動しない。となると、[「精進」は、「神経衰弱」の症状だ]というような、意地の悪い見方しか、残るまい。語られるSは、Kを侮辱するというよりは、「精進」する人々全員を侮辱していたことになる。勿論、[語られるSは、若気の至りで、「精進」そのものを侮辱していた]という話になっても構わないが、そのときは、語り手Sではなく、語られるSは、徹頭徹尾、Kの「行為動作」を斜めに見て、侮辱していたことになる。もし、そうだとしたら、「畏敬」(73)という言葉に含まれる「敬」の字は、何を意味するのか、分からなくなる。分かろうとすれば、[Sの語る/Kの物語]は、全部が全部、イロニーになってしまいそうだ。なっても構わないが、そうなると、語り手Sは、何をしていることになるのか。
 あるいは、[「悉く」「見えた」時期と、「我慢と忍耐」(78)に分けて「見えた」時期と、「神経衰弱」のみに「見えた」時期があるということか。語り手Sは、[語られるSもKも、「精進」と「神経衰弱」を混同していた]という観点で語るのか。あるいは、[語られるSか、Kの、どちらか、一人だけが、「精進」と「神経衰弱」を混同していた]というのだろうか。[「精進」が高じると「神経衰弱」になることもある]という物語が前提にあるのか。そして、[語られるSは、ただの「神経衰弱」なら治せないが、「精進」が高じた「神経衰弱」なら治せると思い上がっていた]ということか。
 Kは、「我慢と忍耐の区別を了解していない」(78)と、語られるSは思っていたそうだ。その思いは、語り手Sの見解でも、間違いとは見做されないらしい。その後、突然、「貴方のために」(78)と、お説教が始まる。このお説教が噴飯物で、文は捩れるは、話は飛ぶは、比喩と実例が混同されるはで、大騒ぎだ。粥のように消化のいいものを食べることが、なぜ、「我慢と忍耐」についての実例になるのか。このお説教は、粥ばかり食べているらしい修行僧に聞かせるべきか。
 Sは、これから死のうというときに、悠長にも健康法の指南などをやってくれる。ほとんど、ギャグだね。「夜露は、体に毒なのよ」(ラッキーセブン?)っていうの。しかも、それが例え話で、医者の受け売りだってんだから、どこまで笑わせる気だろう。[Kの真似をしたら、死にたくなりますよ]というわけだが、[粥を食わなきゃ、長生きする]って、そんなわけ、ないよ。
 Sは、というよりは、作者は、[Sは、自殺する気だ]ということを、ちょくちょく、忘れてしまうのかもしれない。あるいは、[語り手Sは、本当は、「悩乱」(57)している]という表現か。
//「普通の人」
 Kの使う「精進という言葉」(73)は、具体的に、どのような「行為動作」(73)か。「約一年半の間、彼は独力で己れを支えて行った」(76)ことのみを指して、「精進」ということはできない。Kは、その前後も「精進」しているはずだから。
  Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養っ
 て強い人になるのが自分の考だと云うのです。それにはなるべく窮屈な
 境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まる
 で酔狂です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなってい
 ないのです。彼は寧ろ神経衰弱に羅っている位なのです。私は仕方がない
 から、彼に向かって至極同感であるような様子を見せました。
                               (76)
 「普通の人から見れば、まるで酔狂」というわけだが、では、その評価を誰がしたのか。Sは、なぜ、その評価を否定しないのか。[Sは、「普通の人から見れば、まるで酔狂」に見えると分かっている、Kの「行為動作」を根拠に、Kを「畏敬」(73)していた]というのは、どういう事態か。[Sも、また、「普通の人」ではないが、ただし、Kとは別種の変人だ]という意味か。もし、そうなら、ここに「普通の人」という証言者を呼び出すのは、時間の無駄だろう。さっさと、[変人Kvs変人S]の覆面レスラー対決を始めろ。
 Sが「普通の人」だとすれば、Sは、なぜ、Kを「畏敬」するのか。「畏敬」という単語は皮肉であり、語り手Sが死んだKをからかっているところか。[「畏敬」という言葉で、作者は、SとKの関係をからかっている]と取るのが、一番、楽そうだが、そうなると、『こころ』は破綻するはずだ。
 [「畏敬」という遊びは、Sが「常に」「心のうちで」やっていたことに過ぎないので、「普通の人」には、SとKはお仲間に見えなかったので、Sには都合が良かったよ]と回想されているのか。
 作者は、『こころ』の冒頭で、「世間」(1)という言葉を始末できなかったが、「普通の人」という言葉も扱いかねているようだ。作者は、「普通の人」の視点に立たず、しかも、独自の視点を設定することもできず、無用に視点を変え、そのときどきの読者の読解力に過剰に期待し、読者を脅したり賺したりしながら、がりがりと筆を進めるらしい。要するに、何とか、言い抜けようという魂胆だ。この魂胆が作者だけのものなら、ご愛嬌だが、Sのものでもあるようなので、困る。
 「なるべく窮屈な境遇」(76)にいることも、「精進」には含まれない。Sと暮らし始めたKは、「なるべく窮屈な境遇」にはいないはずだから。
 言うまでもなく、「普通の人」から見て、Kが「贅沢」(77)であっても、SやKや作者には「窮屈」と判定される可能性は、大いに、ある。「汚い室」(77)にいて「食物も室相応に粗末」(77)なのが「精進」なら、貧乏人は、全員、「精進」していることになる。逆に言えば、貧乏でもないのに「窮屈な境遇」にいるのを「酔狂」というのだろうが、Kは貧乏になったはずだから、「普通の人」がKを「酔狂」と言うはずはない。
//「余計な仕事」
 Sは、「私は彼に向かって余計な仕事をするのは止せと云いました」(76)と記すが、これもおかしな話だ。Kは「余計な仕事」をしているのではなく、「自活」(75)のために、必要な仕事をしていたはずだ。Sの「忠告」(76)に対して、「意志の力」(76)がどうとか、言い返すKも、おかしい。こうした妙な会話は、学生にありがちな「気取り」(85)で飾られているものとして読まなければならない。もし、そうなら、『こころ』全体が、書生っぽいお飾りのお喋りに見える。
  学問を遣り始めた時には、誰しも偉大な抱負を有って、新らしい旅に上
 るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業間近になると、急に自
 分の足の運びの鈍いのに気が付いて、過半は失望するのが当り前になっ
 ていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮り方は又普通に比べ
 ると遥かに甚しかったのです。
                               (76)
 長い文だなあ。ここにも「普通」が出てくるが、すぐ後に、「Kはただ学問が自分の目的ではないと主張する」(76)という事実が記されるから、ここで「普通に比べる」必要はなかろう。そもそも、この長たらしい文が記される必要からして、ないはずだ。
 ここは、Kが素直に「失望」できなくて、「ただ学問が自分の目的ではないと 主張する」という欺瞞を読み取るべきか。Kは、乱読癖が祟って、学課の勉強をなおざりにした結果、進学できそうになかったのだろう。負け惜しみで、Kは、乙なことを「主張する」わけだ。そして、語られるSは、Kの欺瞞を察知していながら、黙っていたらしい。しかも、語り手Sまでが、Pに黙っていた。
 Kは、[Kの物語]に捕らわれていただけだろう。あるいは、[Kの物語]の貧弱さに捕らわれていた。Kの「足の運びの鈍い」のは、達成すべき物語の欠如にあるはずだ。「養家」の期待を裏切り、「自分の詐を白状してしまった」(74)時点で、[Kの物語]は燃え尽きている。「今更仕方がないから、御前の好きなものを遣るより外に途はあるまいと、向うに云わせる積りもあった」(74)という想像が当たっているとすれば、Kは、[「養家」の語る/Kの物語]と[Kの語る/Kの物語]の融合に失敗した時点で、やることがなくなったのだろう。Kは、「養家」や「実家」の支持がなくても、自分で方針を立てられるような「強い人になる」(76)という希望に向かって、[Kの物語]を再開しようとしている。宙ぶらりん。[少年Kの物語]は終わったが、[青年Kの物語]は始まらない。二つの物語を繋ぐ物語は、見つからない。この決定的な亀裂を、Kは矮小化し、Sは隠蔽する。
 Kの「傾向は中学時代から生家の宗旨に近いものではなかった」(95)という。Kは、「生家」を挑発するようだ。「生家の宗旨」と異なる思想を選んだだけで、仏教や宗教を拒否しないのは、[「生家」と完全に切れたくはない]と思ったからだろう。家族の紐帯が強ければ、その成員が異なる宗教を選ぶことなど、まず、あり得ない。Kは、「生家」に対する親疎の感情を、微妙に表出している。
 一方、「養家」が希望する「医者」(73)という進路を拒否しなければ達成できないような「好きなもの」)について、具体的な報告はない。そんなものは、特にないはずだ。「普通」に考えても、ない。Kは、[自分を「強い人」に見せかけつつ、「養家」の希望に従う]という遊びを始めていたのかもしれない。
//「贅沢」
  仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢をいうのを
 あたかも不道徳のように考えていました。なまじい昔の高僧だとか聖徒
 だとかの伝を読んだ彼には、動ともすると精神と肉体とを切り離したが
 る癖がありました。肉を鞭撻すれば霊の光輝が増すように感ずる場合さ
 えあったのかもしれません。
                               (77)
 「仏教の教義で養われ」ていなくても、人は、「衣食住についてとかくの贅沢をいうのをあたかも不道徳のように考えて」いるのではなかろうか。日本語では、「贅沢」という言葉は、「不道徳」というと言い過ぎだが、マイナスの評価を含む。だから、この挿話において、Kの特殊性が記述されているとは思えない。[Kは、「贅沢」をしなかった]という報告でも、まだ、役に立たない。金持ちにとって「贅沢」ではないことでも、貧しい私がその真似をすれば「贅沢」になる。[おまえが生きていること自体、「贅沢」なんだよ]という主張も、成り立つ。
 語り手Sは、[「贅沢をいう」ことのないKは、「不道徳」ではない]という文を表現したつもりらしい。[「贅沢」を実行しない]ことじゃなくてね。ひええい! 驚いて、布団被って、寝ちまうぞ。
 [「贅沢」を欲しないのではなく、言わないことが、「不道徳」ではない]としても、そのことが「窮屈」(78)と結び付かなければならない理由はない。「贅沢」と「窮屈」という、言葉だけのブランコ遊びによって、[Kの「精進」(73)伝説]が語り終えられるらしい。「精進」の実態が詳述されないのは構わない。問題は、「精進」の実態を、「あたかも」告げたかのように、作者が通過することだ。こうした手品によって、[Kの「精進」伝説]は、語られるSによって信じられていたとしても、語り手Sまでが信じていたとは思えないのに、その区別がないまま、物語を展開することが可能になる。
 Kの「精進」(73)の実態の欠落は、[「普通の人から見れば、まるで酔狂」(76)だと語られるSには分かっていながら、語られるSが「畏敬」(73)したと強弁するところの、語り手Sにとっては無意味であるはずの「行為動作」(73)という言葉で特定されるような「精進」が、SとKだけではなく、「普通の人」にも観察されていたのか]という問題を隠蔽するのに役立つ。また、[「普通の人から見れば、まるで酔狂」といった評価を、K自身は、なぜ、検討しなかったのか]という、簡単な疑問すら、隠蔽してしまう。
 言葉が、内実を持たないまま、ずらずらと並ぶ。「精神と肉体とを切り離したがる」とは、何事か。[「切り離し」て考え「たがる」]という意味だろうか。しかし、もし、[「切り離し」て考えた]とすれば、「衣食住についてとかくの贅沢をいうのをあたかも不道徳のように考え」なくても良かろう。[「贅沢」は、「精神」に影響を及ぼさない]と嘯いていられるはずだ。[「切り離した」はずの「肉体」を「鞭撻すれば霊の光輝が増す」]というのも、おかしい。「切り離した」はずの「肉体」を「鞭撻」しても、「肉体」にしか影響はない。「精神と肉体を切り離した」が、「肉」と「霊」は切り離さなかったのかしら。あるいは、「精神」と「霊」は別物で、「肉」と「肉体」も別物なのかな。だったら、ここは、[Kは、「精神と肉体とを切り離したがる」だけで、「切り離した」ことはない]などと記されるのでなければ、理屈に合わないことになる。勿論、こんなことは当然だから、わざわざ、付言する必要はないと、作者は思ったのかもしれない。
 とにかく、「贅沢」を言わない程度のことで、「精神と肉体」がどうだらこうだらと、うるさい人だ。「霊の光輝」なんて、目映いだけの話でしょ。
//「修養」
 SとKが「書物の話と学問の話と、未来の事業と、抱負と、修養の話位で持ち切っていた」(83)というときの「修養」とは、どんな行為か。「書物」とは別に「修養」という項目が立てられているのだから、「書物で城壁をきずいてその中に立て籠っていたようなKの心」(79)というとき、Kは「修養」をしていたのではないはずだ。
 「精進」や「修養」といった言葉から思い浮かべられるのは、「書物を読むのは極悪う御座います」(『門』18)とあるように、書を捨てて山に籠もるような行為のことだが、そのような「話で持ち切っていた」様子はない。よしんば、「持ち切っていた」として、だから、何なんだよ。「修養」したいよな。したいっしょ? したいっていうか、すべきなんじゃない。かなんか、言い合ってたわけ? 
 SとKは、「修養」と称して、何をしていたのだろう。もしかしたら、「修養」はKがしていて、Sは、「修養の話」をしていただけなのかもしれないな。あるいは、Kが「修養の話」をするのを聞いて、Sは、パチパチ、拍手をしたり、熱涙を絞って見せたりしていただけなのかもしれない。
 問題は、[Kは何をしていたのか]ではなさそうだ。[Sは、Kが何をしていると思っていたのか]でさえ、あるまい。問題は、[語り手Sは、Pに、何を語ったつもりでいるのか]ということになりそうだ。そもそも、作者は、何を書いているつもりでいるのか。
 Sが「Kと一所に住んで、一所に向上の路を辿って行きたいと発議し」(76)たとき、Kは、具体的に、何を「発議」されたと思ったのだろう。特に何も思わなかったのだろうか。
//「東京と東京の人」
 私には、Kがどのような人物か、想像できない。そのわけは、[語り手SのK像が、ぶれている]ためだけではない。[語られるSのK像も、ぶれている]からだ。しかも、K自身のK像もぶれているらしい。語られるS像は、K像との比較によって、形作られている側面があるので、当然、S像もぶれる。語り手Sは、こうしたぶれを、そのまま、映し出すのだが、[語り手Sの手持ちカメラそれ自体は、ぶれていない]とも言えないので、どうにも読み取れない。
 カメラがぶれていない証拠は、背景のぶれ具合によって知れる。背景がぶれず、被写体がぶれていたら、[カメラは動かず、被写体が動いた]と分かる。逆に、被写体がぶれず、背景がぶれていたら、[カメラは、被写体を追って動いた]と分かる。ところで、『こころ』には、背景が写っていない。背景とは、例えば、「周囲にいた人間」(83)のことだ。
 「周囲にいた人間」という言葉はある。だが、彼らは、滅多に口を利かないし、「みんな妙でした」(83)と語られるのだから、確かな視点として、使えない。静母子までが寡黙だし、語られるSに疑われてもいる。しかも、その疑いは晴れない。SとKが[自分達は、一般的だ]と称するのなら、彼らの考えを視点にすることができるが、彼らは、[自分達は、一般的だ]と思っていない。
 SとKの「二人は東京と東京の人を畏れました。それでいて六畳の間の中では、天下を睥睨するような事を云っていたのです」(73)と記されているが、「東京の人」や、「天下」の人が、SやKについて、また、「二人」の関係について、どのように見ていたか、記されていないので、[彼らは、「二人」とも揺れていた]のか、[「二人」が並ぶと、揺れた]のか、[カメラが、一方の揺れに合わせようとしても合わせられず、揺れている人物がぶれて写っただけでなく、揺れていない人物までもぶれてしまった]という事態なのか、判断ができない。
 もともと、語り手Sは、語られるSの心の揺れを写しているが、[Sの心の揺れは、語り手Sの手振れによって、実情より、大きく、あるいは、小さく、写っている]という疑いがある。しかも、この疑いは、K像のぶれによって、さらに複雑になる。いや、無意味同然になる。
//「責任」
  夜ごと、心の底では身ぶるいし、ひそかに自己嫌悪を覚えながら、カ
 ミーユのたぐいまれな美点だとか、やさしい心根や才気を会話のたねに
 する。自分の犠牲になった男をほめちぎり、恥しらずぶりもいいところ
 だった。それでも、ときおり、異様な光をたたえてじっと自分の目にそそ
 がれているテレーズの視線にであうと、ローランは身ぶるいし、しまいに
 は、溺れた男について自分が数えあげている長所が、すべてほんとうのこ
 とのような気がしてくる。すると、ふいに残忍な嫉妬心におそわれて口を
 つぐみ、この未亡人はあの男を愛しているのではなかろうか、自分が川に
 投げ込んでおきながら、こうしていま、うわごとでもいうように、いかに
 も確信ありげに自分がほめちぎっている男のことを、愛しているのでは
 なかろうかと思った。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』19、篠田浩一郎訳)
  その時彼の用いた道という言葉は、恐らく彼にも能く解っていなかっ
 たでしょう。私は無論解ったとは云えません。然し年の若い私達には、こ
 の漠然とした言葉が尊とく響いたのです。よし解らないにしても気高い
 心持に支配されて、そちらの方へとする意気組に卑しいところの見える
 筈はありません。私はKの説に賛成しました。(中略)然し万一の場合、賛
 成の声援を与えた私に、多少の責任が出来てくる位の事は、子供ながら私
 はよく承知していた積りです。よしその時にそれだけの覚悟がないにし
 ても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当
 てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当になる位な語気で私は
 賛成したのです。
                               (73)
 「語気」など、担保にならない。しかも、「語気」は、誰かに対するブラフだろう。自分自身には、担保も、ブラフも、無用だ。[嘘ですよ。嘘ですよ。ここに書いてあることは、全部、嘘なんです。誰か、私を止めて]といった声が聞こえて来そうだ。『昼下がりの情事』(ビリー・ワイルダー監督)みたい。嘘を並べ立てる「傷ましい先生」(4)を、Pは「大きな人道の立場から来る愛情」(108)で包んで差し上げている様子を、『こころ』読者は想像しなければならないのかもしれない。「近づく程の価値のないものだから止せという警告を与えた」(4)というときの「警告」が、比喩か虚偽でしかないように、「責任」や「語気」も、比喩か虚偽だろう。「責任」や「語気」を、Kが意味として受け取っていたら、Kは、[Sは、Kを「子供」扱いする]と思うのに決まっている。「独立心の強い男」(77)Kが、Sの「賛成」を必要とするはずがない。実際には、Kは、「独立心の強い男」ではなく、そんなふりをしたがる甘ったれだったとしても、同じことだ。いや、そうであれば、なおのこと、[Kは、他人の「賛成」という松葉杖を必要とする]などとは、認めたくないはずだ。
 語り手Sが、[Kは、「独立心の強い男」だ]という物語と、[Kは、他人の「賛成」を必要とした]という物語を、同時に語る気なら、決着をつけねばならない。決着とは、[どちらが嘘か。その嘘は、誰のための嘘か]という問題に、きちんと解答を出すことだ。
 「支配されて」とか、「子供」とか、「割り当てられた」などといった言葉は、KとSの関係について、Sが感じていたことを表出している。そして、語り手Sは、過去の関係の罠に落ちたまま、語り続けている。くねくねした言い回しの中に、当時のSが予想していた「成人した眼」の見方と、当時を「回顧」する、「成人した」語り手Sの見方とが、ごちゃごちゃに入り交じっている 「年の若い」というのは、語り手Sが語られているSについて形容している言葉だが、「子供ながら」というのは、語られるSが、当時、誰かに対して、空想の中でだろうが、自分を卑下してみせたときの言葉だ。
 結局、Kは死んでしまうので、Sの「責任」問題は消滅する。語り手Sは、Kが死ななければ背負い続けなければならなかったはずの、自分の「責任」の重さに、思い至らないらしい。もし、そうだとすれば、語り手Sは、この点に関しては「成人した」とは言えないことになる。Sは、いくつになっても、Kに対しては、「子供」としてしか、振る舞えないようだ。Sは、Kのことを思うと、時間の観念が乱れるらしい。Sは、「私と同じ地位に置かれた他の人と比べたら、或は多少落ち付いていやしないかと思っている」(57)と書くが、「同じ地位に置かれた他の人と比べ」るのではなく、「普通の人から見れば」(76)、どうなのか。
 『こころ』に、決定的に不足しているのは、「普通の人」の観点だ。「普通の人」の観点が語り手に想像できないのなら、まだしも、想像できなくはないのに、それを軽視するのは、怪しいことだ。
 「気高い心持」がどうとかした「意気組に卑しいところの見える筈はありません」というのは、どういう報告か。[「気高い」は、「卑しい」とは違う]ということを、読者は教わっているところか。[「卑しいところの見える筈はありません」というのは、[語られるSには見えなかったが、語り手Sには見える]という注釈か。あるいは、[Pには見えるかもしれないが、Sには見えない]ということを仄めかして、語り手Sの予想する、Pの誤解を解いたつもりか。しかし、語り手Sは、「卑しいところの見える筈」という事態を想像しているではないか。この想像を否定するのは自由だが、どこから沸いて出た想像か。この想像の本源を示さない限り、否定は、偽の否定に「見える筈」ではないか。この点について、語り手Sが無頓着だとしても、作者までが無頓着だったとは考えられない。作者は、冷笑している。そして、その冷笑を押し殺している。あるいは、表出か。
 語られるSは、彼の予想する「成人」した自分の「眼」から見て、「過去を振り返る必要」を想定しているが、語り手Sは、それと同じ「眼」で「過去を振り返る」ということをしているわけではない。だから、[語られるSの「責任」は、語り手Sから見ても、「至当」だ]という判断が下されているのではない。語り手Sは、実際に「成人した」Sが「年の若い」Sの予想した「成人した」Sではないことに気づかないらしい。あるいは、[自己自身への裏切りなど、Kの自殺に比べれば、屁のようなものだ]という、甘い認識が語られているのか。
 根拠は、「語気」だけだ。「気高い心持」の根拠さえ、「語気」だけだ。「年の若い私達には、この漠然とした言葉が尊とく響いた」というのは、虚偽だ。語り手Sは、突然、「私達」などと言い出して、Kと連帯して見せるが、理不尽だ。「道という言葉」が、Kに「能く解っていなかった」としても、その「言葉」が指していることなら、「解って」いたはずだ。さもなければ、Kは、嘘つきだ。語られるSは、[Kは嘘つきだ]と思っていながら、黙って付き合っていたことになる。
 [誰かに、「道という言葉」が「能く解って」いるとき、それはxと表される]とする。一方、[Kにとって、「道という言葉」が指すものは、yと表される]とする。そして、なぜか、[x≠y]だとする。しかし、Kは、yだけを見ているのだから、[x≠y]だと分かれば、「道という言葉」を遣わないことにすればいい。あるいは、[K語で「道という言葉」は、yだ]と定義すればいい。ここは、所詮、「言葉」だけの問題だ。 一方、語られるSにとって、「道という言葉」は、「漠然とした」ものであり、それがxでもyでも構わないらしい。こんな二人を、「私達」という言葉で括るのは、詐欺だ。さもなければ、SもKも、嘘つき以前の、実在が疑われるほど、「漠然とした」存在だ。
 ここで、語り手Sに対する、読者の信用は、最低にまで下落するはずだ。
 語られるSには、Kの「心持」なるものが、それが「気高い」ものだろうが、「卑しい」ものだろうが、「能く解っていなかった」からこそ、Kの死が必然となるはずだ。だから、語り手Sは、[「年の若い私」には、「漠然とした言葉」ほど、「尊とく響いた」]と記すべきだ。一方、[「年の若い」Kには、「漠然とした言葉」ほど、「尊とく響いた」]という話は成り立たない。その「言葉」を口にしたのは、Kだからだ。勿論、Kの声はKの耳に「響いた」ことだろう。しかし、屁理屈を言っている場合ではない。もし、Kにも「響いた」としたら、響かせたのは、誰か。Sしか、いないはずだ。そして、Kに、「道」という「漠然とした言葉」を、頻繁に遣わせるように仕向けたのは、Sであるはすだ。聴衆はSだけなのだから。Kに、「道」とやらへ「動いて行こう」とさせたり、そこから逸脱させようとしたり、また、「過去が指し示す路を今まで通り歩かなければならなくなる」(97)ように仕向けたりしたのは、Sだ。そうでなければ、Kの妄想の中に誰かがいたのだろう。どっちだ? 語り手Sは、この問題を隠蔽し、語られるSを「責任」という言葉で美化するだけで、のほほんとしている。
 語られるSは、[Sの語る/Kの物語]の語り手だったが、主人公Kを操ることができずに、切り捨ててしまう。同じことが、[Sの語る/Sの物語]で繰り返される。
 「道という言葉」を、語り手Sは、「能く解って」いるのだろうか。作者は? あなたは? 
 語られるPは、「イゴイストという言葉の意味が能く解るか」という問題を自分で立てておきながら、その解答を示さなかった。語られるPは「若い」(4)ので、Pには「漠然とした言葉が尊とく響いた」のだろうか。また、[語り手Pは、「イゴイストという言葉の意味が能く解る」]という話題は、かけらもなかったが、同じように、[語り手Sは、「道という言葉」が「能く解って」いる]という話題も、かけらもない。このことは、怪しさを越えて、恐るべき事態だと言える。『こころ』には、出来事はおろか、登場人物達の心さえ描かれていないらしい。「漠然とした言葉」が並んでいるだけらしい。
//「実を言うと」
 Sは、Kの経済と健康の両面について、「責任」(73)を負うことになる。あるいは、その「積り」(76)になってみる。
  意見と云ふは、先づその人の請くるか請けぬかの氣をよく見わけ、入魂
 になり、此方の言葉を兼々信仰ある様に仕なし候てより、好きの道などよ
 り引き入れ、云ひ様種々に工夫し、時節を考へ、或は文通、或は暇乞などの
 折か、我が身の上の悪事を申し出し、云はずしても思ひ當る様にか、先づ
 よき處を褒め立て、氣を引き立つ工夫を碎き、渇く時水呑む様に請け合
 せ、疵直るが意見なり。殊の外仕にくきものなり。年來の曲なれば、大體に
 て直らず。
                         (山本常朝『葉隠』1)
  人に出会ひ候時は、その人の気質を早く呑込み、それぞれに応じて会釈
 あるべき事なり。その内、理堅く強勢の人には随分折れて取合ひ、角立た
 ぬ様にして、間に相手になる上手の理を以て言ひ伏せ、その後は少しも遺
 恨を残さぬやうにあるべし。これは胸の働き、詞の働きなり。
                               (同2)
  私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一だと考えました。(中略)最
 後に私はKと一所に住んで、一所に向上の路を辿って行きたいと発議し
 ました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪まずく事を敢てし
 たのです。そうして漸との事で彼を私の家に連れて来ました。
                               (76)
 ここで、確認しなければならないのは、[Sは、Kの「前に跪まずく」という演技をした]と語られているのではないということだ。語られているのは、[Sは、心の中で、Kの前に「跪まずく」という演技をしている自分を空想した]ということだ。良くも悪くも、Sには、そんな芝居がかった行動を、実際にやってのける元気はない。「遺書」の根幹は、[Sの語る/Sの物語]ではなく、[Sの語るSの空想する/Sの物語]だ。その物語は、「頭の中の現象」(76)でしかないのか、多少は、事実なのか、語り手Sにとっても「解釈の余地を見出し得ない」(70)ような物語だ。
 例えば、「神の前に己を懴悔する人の誠を以て、彼は細君の膝下に跪ずいた」(『道草』54)という表現がある。実際に「彼は細君の膝下に跪ずいた」のか。違うはずだ。「彼」の空想だ。もし、実際にそのような行動を示したとしても、その行動は、「懴悔」とは何の関係もない。なぜなら、「彼」には「懴悔」すべき何かがあるように、書かれてはいないのだから。ましてや、「神」まで引っ張り出しておいて、何をやらかす気か。「神の前に己を懴悔する人の誠を以て、彼は細君の膝下に跪ずいた」という言葉の中で、比喩として用いられていない自立語は、「彼」と「誠」ぐらいのものだろう。こうした表現は、読者を惑わすものだ。だが、もしかしたら、作者自身も、この種の欺瞞的表現に酔う癖があったのかもしれない。その酔いから醒めると、次のような表現になる。
  実を言うと、私だって強いてKと一所にいる必要はなかったのです。け
 れども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれ
 を受取る時に躊躇するだろうと思ったのです。(中略)私はただKの健康
 問題について云々しました。
                               (77)
 [S(S(K/S,K)K)P]では「健康」が主眼となり、「Kと一所」という条件が重要になる。[S(S(K/S,K)静ママ)P]では「金」が主眼になり、「Kと一所」という条件は重要ではなくなる。
 語られるSが相手次第で違ったことを言うのは、許される。例えば、「Kの経済問題」(77)について、語られるSが静ママに知らせなかったらしいことは、読者にとって、少しも不都合ではない。しかし、語り手SがPに対して違ったことを報告するのは、読者にとって、極めて不都合だ。
 「実を言うと」語り手Sは、嘘をついている。あるいは、「実を言うと」という言葉の用法が、私の知っている用法とは違う。[Sには「Kと一所にいる必要」はあったのだが、他人から見ればなさそうに見えると思う]ということを、こういうふうに記しているのだろう。あるいは、[「実を言うと」現実に「Kと一所にいる」ことが不愉快だったので、現実から存在を消去してやろうと思って、世間の目を避けた、私的な空間に誘い込んだ]という物語が隠蔽されている。
 「健康問題」とは、何事か。Sは、不健康なKの存在を許容できなかったらしい。つまり、[そのときの、あるがままのK]を抹殺したかったのだろう。SとKは、言わば、一心同体だった。Sは、静ママによって回復した。Sは、Kの回復を願うが、その一方で、Kが回復しないのなら、消去する気だ。あるいは、Sは自分の貧弱な過去を塗り潰すように、Kを潰してしまいたかった。ちょうど、語られるSは、[自分の物語]の作者であるかのように、[自分の物語]の脇役であるKを弄ろうとしている。『こころ』は、あたかも、語られるSが書いたものであるかのようだ。主人公と語り手と作者が、分離できていない。
//「孤独」
  その上私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神経衰弱に羅ってい
 たように思われたのです。よし私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激
 するに違いないのです。私は彼と喧嘩をする事は恐れてはいませんでし
 たけれども、私が孤独の感に堪えなかった自分の境遇を顧みると、親友の
 彼を、同じ孤独の境遇に置くのは、私に取って忍びない事でした。一歩進
 んで、より孤独な境遇に突き落とすのは猶厭でした。
                               (78)
 ここで「説き伏せた」というのは、[「説き伏せ」ようとした]というのでなければ、おかしい。日本語では、「説き伏せる」というのは、他人を「激する」ことのないような状態にすることであるはずだから。
 SがKを「説き伏せ」ようとすると、Kは「必ず激する」という。なぜか。[説き方が悪いのだろう]という反省は、起きないらしい。原因は、Kにあるらしい。Kが「ただ自己の成功を打ち砕く意味に於て、偉大なのに過ぎない」(78)からだ。しかし、Kがそういう性格の人物だとしても、Sは、Kが「激する」ことのないように説き伏せる努力をしてもいいのではないか。
 「激する」とは、どういう状態か。むっつり、黙るのか。小さく舌打ちするのか。柱を拳で叩くのか、コツン、コツン、コツン。いつまでも止めない。拳から血が出ても止めない。卓袱台を引っ繰り返す。怒鳴る。喚く。殴る。蹴る。髪の毛を掴んで引きずり回す。巴投げ。卍固め。部屋に火を点けるか。崖からSを「突き落とす」か。「丁度好い、遣ってくれ」(82)
 Sは、なぜ、Kとの「喧嘩」を恐れないのか。Kは口先だけの男で、「喧嘩」に弱いからか。二人は仲良しなので、「喧嘩」をしても大事に至らないからか。Sが「恐れてはいません」と思う程度にしか、Kが「激する」ことはないからか。
 Sは、Kを説得するためには、Kと「昔の高僧だとか聖徒」(77)とが「違っている点を明白に述べなければならな」(78)いと思い込んでいる。「それを首肯ってくれるようなKなら可いのですけれど」(78)と、Sは勢い込んで語り続けるが、ちょっと、待った。「違っている点を明白に述べ」てやったのに、なぜ、Kは「首肯ってくれ」ないのか。いや、違った。ここは、Sの想像だ。だから、こう言い換えなければならない。[Kは「明白に述べ」られたことを「首肯ってくれ」ない]と、なぜ、Sは、前以て思い込んでしまうのか。説得を実行してみなくては、「結果」(78)は分からないはずだ。
 Sは、[自分は、「違っている点を明白に述べ」ることができる]と想像しているが、その想像に根拠はあるのか。Kがどんな人物か、Sは、Pに紹介したつもりだろう。しかし、「昔の高僧だとか聖徒」を紹介してはいない。「昔の高僧だとか聖徒」が、どのような人物を指すのか、私には見当が付かないから、その偉人達とKとが「違っている点」となると、まったく分からない。ところが、『こころ』読者は、「違っている点を明白に述べ」ることができるらしい。いや、Sは、Kに、「もし私が彼の知っている通り昔の人を知るならば」(85)と言われちゃってんだから、Kでさえ、[Sは、「昔の人」を知らない]と思っているわけだ。勿論、この言い掛かりにも等しい、Kの「明言」(85)に、Sがどう対応したか、記されてないので、何とも言えないが、多少の教養では、「違っている点を明白に述べ」たと、Kが見做してくれない可能性が高いことは、想像できる。一方、Sは、[自分は、「違っている点を明白に述べ」ることができる]と想像しているのだが、[誰が「違っている点を明白に述べ」たと判定するのか]という話題は、ない。
 [Sにとっては、Kを「説き伏せ」ることはおろか、「説き伏せ」ようと試みることさえ、難しい]という話にならなければ、おかしいはずだ。Sは、Kを「説き伏せ」る努力をする前に、[「必ず激する」K]の姿を思い描くので、[「説き伏せ」る力が自分にあるのか]という問題を棚上げにできるわけだ。愉快でしょ。
 いや、もっときちんと読まなければならなかった。Kの「知っている通り」と書かれている。[Kは、「昔の人」を知っている。そして、それと完全に同じ知り方を、Sはしていない]と、Kは言う。KやSにとって、いや、作者にとって、[知る]とは、どういう作業を指すのだろう。たかだか、[知る]という言葉についてさえ、私と『こころ』作者の間には、大きな隔たりがあるらしい。
 Sは、[Sは、Kと同じように知ることができない]ということを知っていた。いや、[Sは、Kと同じように知ることができていたのに、Kは、そのようには見做さなかった]と読まねばならないのか。そして、この事実を述べると、Kが「激するに違いない」と、Sは思うのか。なぜ、思う。ああ、わけが分からない。
 Kが「激する」と困るので、Sは、Kと同じように知ることができていたのに、そうではないかのように振る舞っていたのか。Sは、Kの考えを理解していたのに、[Kは、Sに理解されることを拒んでいる]と、Sは思っていたのか。[Kは、Sにさえ理解されない考えを持っていると考えると幸せだった]と、Sは思っていたのか。[Kは、自分の考えを誰にも理解されたくない]と、Sは思っていたのか。あるいは、[Kは、自分の考えは人には理解できないと考えることが好きだ]と、Sは思っていたのか。要するに、[Kは、「孤独」が好きだ]と、Sは思っていた。
 違う。Kは、「必ず激する」のではない。「激するに違いない」と、Sが思うだけだ。[Sは、Kを「説き伏せ」る]という物語がSの想像で、[Sに説かれて、Kは「激する」]という物語もSの想像で、想像は、さらに続く。[「激する」Kに、Sも激して、SとKは「喧嘩をする」]という物語も、また、想像。さらに、この「喧嘩」の結果、[SとKは、不仲になる]という物語が省略されている。省略された、想像の物語の結末として、Kを「孤独な境遇に突き落とす」という想像が、ひょっこり、浮上する。つまり、[Sの方から、Kとの交際を断つ]という想像を、Sはしているらしい。なぜ、[Sは、Kとの交際を断つ]という物語に、Sは自分を導かなければならないのか。なぜ、[Kは、Sとの交際を断つ]という物語は、検討されないのか。また、[Sは、Kに拒まれても拒まれても、Kのために尽くし、ときには愛の鞭も使ううち、Kは自分の過ちに気づき、Sに詫びを入れ、友情が深まる]というような、ハートウォーミングな物語は、あり得ないのか。
 Sは、生温かい物語とは別の物語を思い描いている。[友人の「健康」のためを思って心を尽くしているのに、相手がそのことに気づかず、自分勝手な思いで反発するばかりなので、こっちも腹を立ててしまって、友人を見捨てることになる。すると、自分が悪人のように思えて、不愉快になる]という、一方通行の物語。語り手Sは、この想像の物語の実現を阻もうとしている。しかし、「結果から見れば」(78)、この物語が実現してしまう。ということは、『こころ』の粗筋は、ここで語り終えられていることになる。しかも、設定としては、語り手Sは、「結果」を知っている。勿論、作者の時間では、どちらも予定に過ぎないが、とにかく、ここで、[SとKの物語]は終わっている。だから、この先、静が絡む必要はないはずだ。
 「孤独の感に堪えなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤独の境遇に置くのは、私に取って忍びない」という、自他の区別を失った感傷が正常なものとして成立するためには、まず、[Kは「孤独」だ]ということ、つぎに、[Sは、Kを「より孤独」にする力を持っている]ということ、そして、何よりもまず、[Kは、「孤独」を好まない]という前提が必要になる。しかし、こうした前提は、一つも立証されない。
 もともと、SがKを「孤独」にしておいたのではない。Kは、自分の考えで、Sに先立って、そのような「境遇」を選んだ。だから、「一歩進んで、より孤独な境遇に突き落とす」こととなると、さらに無用の展開になる。Kが「孤独」であるのかどうか、私は知らない。親族と疎遠になり、「友達という程の友達は一人もいなかった」(89)らしいからといって、Kが「孤独」だとは限らない。しかし、そういう詮索をしても意味がないから、ここは、[Sから見て、Kは「孤独」だ]と受け取ることにしよう。
 では、Sの目に、[Kは、「孤独」のゆえに苦しむ]と映ったのか。「彼は性格から云って、自活の方が友達の保護の下に立つより遥かに快よく思われたのでしょう」(75)という記述がある。では、[Kは、「性格から云って」、対等な関係の「友達」と同居するよりも、独居の方が、「遥かに快よく思われた」]とは、思えないのか。Kの側からすれば、[Sは鬱陶しい男だ]という想像も成り立つ。あるいは、Sは、[Kは、「孤独」を愛するふりをする、知的スノッブだ]と推断していたと読むべきか。そして、Kがひた隠しにしている苦しみを、Sが後ろ手で慰めてやらなければならないような「責任」(73)を感じて、Sにとっては決して本心とは言えないような男気を見せたという話か。「万一の場合には私がどうでもするから、安心するようにという意味」(76)の手紙をKの「義兄」に書いた手前、引っ込みが付かないからか。
 Sは、Kを「同じ孤独の境遇に置く」かのような気になることはできるし、「一歩進んで、より孤独な境遇に突き落とす」かのような夢を見ることもできる。また、そうした「境遇」、ありもしない「境遇」からKを救助する夢を見ることもできる。こうしたことの全部は、「畏敬」(73)がSの「心のうちで」(73)起きていたように、Sの「心のうちで」は起きる。
 「よし私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違いないのです」という言い回しによって、語り手Sは、語られるSと入れ替わる。ここは、[「激するに違いない」と思っていた]と書かなければならない。こうした、些細な書き損ないによって、どうにか、『こころ』の文は接合されている。
//「無口な男」
 Kは「無口な男」(90)だった。例えば、「深い意味の日蓮」(84)について、Kは、自分では語れず、「坊さん」(84)に語らせようとする。Kが「日蓮」について耳にしたかったのは、「モハメッドと剣」(74)に通ずるような弘通の激しさについてだったかもしれない。だが、「モハメッド」や「日蓮」を見習うべきKにとって「力」(76)を奮える相手はと言えば、「彼の唇がわざと彼の意志に反抗するように容易く開かないところに、彼の言葉の重みも籠もっていた」(90)などといった異様な感受性を持つSだけだ。そして、そのSでさえ、Kの言葉を理解しているようではない。語られるSは、Kの言葉を理解したふりをしていたか、あるいは、聞き流していたらしい。語られるSは、Kの言葉の何を聞き取り、何を尊重していたのか。この問題には、語り手Sも、作者も、触れたがらない。
 作者にとって重要なのは、「言葉」の意味ではなく、「言葉の重み」らしいが、「言葉の重み」というものを図る目安は何か。「唇がわざと彼の意志に反抗する」というのだから、言いたくないことを言うと、言葉に「重み」とやらが加わるのか。唸ると重くなるようだが、それは声の質であって、「言葉の重み」ではなかろう。「言葉の重み」とは、常識的には、有言実行のことだろう。しかし、Kは、[死にますよ]と言って死んだのではない。「覚悟」(96)などという、曖昧な言葉が、本当に自殺を仄めかしたことになるのか。なるとしても、「覚悟」という言葉は、重いか、軽いか。そういう問題ではないのか。
 根本的な問題がある。Kの「唇がわざと彼の意志に反抗する」のは、なぜか。「肉を鞭撻」(77)云々と絡ませた性格設定のつもりか。だが、[Kは、本音でものを言えない人物なのではないか]という疑いが、すぐに浮上するはずだ。「精神と肉体を切り離し」(77)てしまえば、嘘をつくのは簡単だ。人は、なぜ、手を挙げて声を出して、宣誓させられるのか。また、なぜ、自筆で署名をさせられるのか。その理由は簡単だ。[「言葉」と「肉体」を「切り離し」てはいない]ということを証明するためだ。語り手Sが、あるいは、作者が、Kを「無口な男」として設定したとき、私達は、常識に反して、Kを実直な人物と見做さねばならないらしいが、結果的には、「平生の主張」(96)を反故にするような「自白」(90)をし、そして、そのことを裏付けるように自殺したのだから、やはり、[Kは嘘つきだった]という仮定に立ち戻ることになる。『こころ』読者は、なぜ、このような無駄な遠回りをさせられるのか。
 Kは、嘘つきだった。しかし、こんなことは、Sにとっても、作者にとっても、取るに足りない事実なのだろう。嘘をつかねば生きられないような人間の心理を知ることが、「人間を知る上に於て」(110)重要だと考えられているからか。「傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せという警告を与えたのである」(4)という文は、常識的には、虚偽だ。Sは、「警告」など、「与えた」ことはない。「警告」は表出されただけだ。この「警告」は、「私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪まずく事を敢てした」(76)というときの「跪まずく事」と同様に、実現してはいない。
 そもそも、「近づくほどの価値のないものだから止せ」というとき、「警告」という言葉は似合わない。「警告」は危険の予告だろう。Sに「近づく」と、Pに、どんな危険が及ぶのだろう。自殺幇助の危険か。また、Pは「警告」を無視したはずだが、その結果、Sは、どんな反撃を行ったのか。辻褄の合わない、退屈な「遺書」を読ませるという拷問か。
 あるいは、この「警告」は擬態に過ぎず、実害はないのか。
 あるいは、[Sは、「自分」が「近づくほどの価値のないものだ」と人に知られたくなくて、警戒していたが、そのことを告知することはできなかった]という文を明示できず、[警戒]でも[告知]でもないが、どちらにも跨がるような「警告」という言葉を、まるで造語でもするように選んだか。「警告」という言葉の「意味は、普通のとは少し違い」(85)があるのかもしれない。
 [『こころ』は、善意に基づくという弁解によって、嘘を正当化しようとする物語だ]という疑いが濃厚だ。しかも、結局、正当化しきれず、語り手Sは、「こっそりこの世から居なくなる」(110)ことになる。語られるSが死ぬ理由は、特にない。語り手Sが、「遺書」の語りを維持できなくなっただけだ。この経緯は、語り手Pが[P文書]を維持できなくなったので、読者の前から姿を消した次第の反復だろう。Kが死ぬ理由も明らかではないあ。だから、この場合も、語り手Kが、[Kの物語]を維持できなくなったためだと想像される。[Kの語る/Kの物語]は、語られるSを含め、誰にも理解されなかった。そして、そのことを、Kは知っていた。だから、「無口」にならざるを得なかった。
 [Kの物語]は、なぜ、信じられないのか。中身がないからだ。なぜ、中身がないのか。[Kの物語]を語るべき、最初の人物が不在だからだ。つまり、「Kは母のない男」(75)だからだ。あなたの物語の最初の語り手は、あなたの「母」だろう。Kの書淫は、[Kの物語]の貧弱さを補おうとする表出であるかのようだ。Kは、自分の物語を、「昔の高僧だとか聖人の伝」(77)の行間に探していた。
 ところが、作者は、「母」の不在という要素を、語り手の不在としてではなく、聞き手の不在として表現したかったようだ。「もし彼の母が生きていたら、或は彼と実家との関係に、こうまで隔りが出来ずに済んだかも知れない」(75)という仮定において、K「復籍」(75)後のKママが担っている役割は、[Kママ(K/K)「実家」]という物語の語り手だろう。そして、このときの「実家」とは、具体的には、Kパパだろう。しかし、作者は、そのことを明示しない。[K(K/K)Kパパ]が[K(K/K)φ]となる経過を全面に押し出す。静の問題でも、[K(K/K)静]が[K(K/K)φ]となったために、Kは死ぬかのように語られる。しかし、もし、そのことだけが原因だとしたら、「もっと早くに死ぬべきだ」(102)という、Kの言葉は、甘ったるく宙に浮く。表出としては、「Kの歩いた路」(107)は、[φ(K/K,Kママ)K]が常態だったために、「たった一人で淋しくて仕方がなくなった結果」(107)に至るはずのものだ。勿論、語り手Kママが不在でも、その役割を別の誰かが代行できれば良かった。語り手代行者は、Kの「姉」(76)でも良かったし、語られるSでも良かった。
 語られるSは、[S(K/K)「調停」(75)者,Kの「実家」,Kの「養家」]の語り手となるが、「効果」(75)はない。[S(K/K)Kの「義兄」]においては、「効果」について、触れられもしない。語られるSは、基本的に、[Kの物語]の有能な語り手になることを望んでいない。[Sの語る/Kの物語]の語り手としてのSにとって、重要なのは、語り手のふりをすることだ。だから、Kと「養家との関係」(75)について、「その顛末を詳しく聞かずに」(75)、Kの「実家」と「養家」の「双方を融和するために手紙を書いた」(75)などと、平気で回想する。Sを「軽蔑したとより外に取りようのない彼の実家や養家」(76)という言い回しには、[Sは、「軽蔑」されても仕方のないような内容の「手紙」を書いたのかもしれない]という反省を不能にする意図が秘められている。Kの「義兄」に対して与えた[Sは、Kに経済的な援助をする]という仄めかしは、仄めかしに止まる限り、Kの「姉」や「義兄」にとっては、気休めにもならないどころか、逆に、語られるSの人格を疑わせるのに十分だろう。
 語られるSは、自分の書いた「手紙」をKに見せて了解を得たのだろうか。もし、了解を得ていないとすると、Sの行為は出過ぎたものであるはずだ。また、Kの意に反するものだったのかもしれない。Sは、Kをも引っくるめた三方を「融和するために手紙を書いた」と思われる。しかし、Kは、そのような「融和」を望んだろうか。少なくとも、外面では望まぬ風を装ったことだろう。そのことが分かっていながら、あたかも、Kの内面を察したかのように、Sが「融和」を試みたとすれば、外面的には、Sは、Kを欺いていたことになる。この「融和」が成功したのなら、[Sは、Kに独断専行の罪の許しを請い、そして、許される]という物語は起動する。しかし、成功しなかったのだから、起動しない。むしろ、[放って置けばなるようになったかもしれないのに、Sがしゃしゃり出たばかりに、却って話が拗れた]という可能性すら、ありそうだ。こうした可能性について、語られるSは検討し、「責任」(73)という言葉をちらつかせるが、そういうことで十分なのかという検討を、語り手Sは、していない。むしろ、語られるSの幼稚な振る舞いを、語り手Sは正当化するかのようだ。そして、作者も。
 作者の問題として考えれば、もっと単純に、超越的な語り手が超越的な聞き手に[Kの物語]を語るという設定で十分だったはずだ。つまり、[Kの物語]を作者が客観描写できさえすれば、十分だった。そのとき、Kに死ぬ理由はない。だから、Sが死ぬ理由もない。よって、「遺書」は書かれない。だから、[「遺書」の物語]が静に対して秘匿される必要もない。静は、[「遺書」の物語]について、無知であり続けるためのキャラクタだから、静の出番もない。その静に謎をかけられるためにPがうろちょろする必要なんて、さらさら、ない。出現すべきなのは、『タルチュフ』(モリエール)のような[偽坊主Kの勘違いの喜劇]だ。
 Nの作品を悲劇に見せかけているものは、本来は喜劇であるべき要素だ。つまり、言葉の取り違えや勘違いだ。[Kが「無口」で、SがKにお座なりを言い、Sと静と静ママが互いに真意を隠し、SとPが共同で、静に対して「遺書」を秘匿する]といった設定は、喜劇的だ。しかし、この喜劇を悲劇と見做すような観点があるらしく、そして、その変な観点と「明治の精神」(110)は、無関係ではないらしい。
 作者が腐心しているのは、喜劇を悲劇に見せかけることだ。「吾輩」(『猫』)のような視点を設定すれば、Nの作品の主人公(達)の苦悶は喜劇でしかなくなる。作者は、主人公を「軽蔑したとより外に取りようのない」(76)「世間」(1)に対する「意地」(76)から、主人公に同情的な語り手と聞き手を設定するが、作者は、「世間」の観点を根本的には拒否できないから、やがて、語りの辻褄が合わなくなり、主人公を旅立たせたり、眠らせたり、死なせたり、作品を途中で投げ出したりすることになる。「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない」(『道草』102)なんて述懐は、作者の居直りの表出に過ぎない。
 作者が作家という、1個の人格と混同されるのは、[作家は、その肉体が1個であるように、雑多な物語を、1個に片付けることができる]と信じられているためだ。だから、作品が1個に片付かなければ、作品に付随する作者も1個ではないから、それらが個体としての作家と混同されるという事態は、訪れないはずだ。ところが、文学の伝統では、分裂した言葉の背後で、作家は生き延びることができるらしい。このことが、私には、不可解であり、不愉快だ。
 私は、[作者と作家の混同]という事態を非難しない。私は、手品を非難しない。私が許容できないのは、[失敗した手品]を[成功すれば見事だったかもしれない魔術]と混同することだ。[種も仕掛けもある手品なら、失敗しない。種も仕掛けもない魔術だからこそ、失敗する。失敗は、その実践が手品ではなく、魔術だという証拠になる]といった主張には、私は苛立つ。


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