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#079[世界]39先生とA(29)「虚栄」 //「勉強家」 ふと、[Kは、迷亭が嫌ったところの「知らんと云った事のない先生」(『猫』1)の末裔なのかもしれない]と思った。 つい二、三日前、V……という若い男に会った。顔だちのいい、さっぱり とした青年で、大学を出たばかりなんだ。頭がいいとうぬぼれているん じゃないが、ほかの人たちより物知りだと思いこんでいるらしい。事実い ろいろの点から察するに勉強家だ。まあ学問が少々あるわけさ。ぼくが絵 を描いたり、ギリシア語をかじっているのを聞きつけて(この二つはドイ ツじゃ二つの隕星さ)ぼくのところへやってきて、バトーからウッド、ド・ ピルからウィンケルマンに及ぶ学識のほどを開陳に及んでね、ズルツェ ルの第一部はすっかり読んだの、ハイネの古代研究の原稿を持っている のだのと鼻息が荒いんだ。ぼくは、はあはあと承っておいた。 (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳) こうやって教養を高めるために努力していると思っていたからだ。む りやり妻になんページかを、なにかの逸話を読んできかせようとするこ ともある。テレーズが一晩中もの思いにふけり、じっと黙ったままでいる だけで、書物を手にしたいという気にもならないのに、すっかり驚いてい た。しかし心の底では、自分の妻は頭が悪いのだときめこんでいた。 (ゾラ『テレーズ・ラカン』3、篠田浩一郎訳) //「空虚」 彼は寧ろ神経衰弱に羅っている位なのです。私は仕方がないから、彼 に向って至極同感であるような様子を見せました。自分もそういう点に 向って、人生を進む積りだったと遂には明言しました。(尤もこれは私に 取ってまんざら空虚な言葉でもなかったのです。Kの説を聞いていると、 段々、そういうところに釣り込まれて来る位、彼には力があったのですか ら)。 (76) SがKを「神経衰弱」と診断するのなら、Sは、Kに、医者に行くことを勧めるべきだった。また、[「そういう点に向って」「進む」うちに、自分も病むのではないか]といった懸念が生じなければならなかった。 「神経衰弱に羅っている位」と記されている。「位」という字は、怪しい。「至極同感であるような様子を見せた」という流れで読めば、「明言」とは、本心を「明言」したのではなく、ただ単に「明言」ごっこをしたのに過ぎないかのようにも読める。「まんざら空虚な言葉でもなかった」というのは、[基本的には「空虚」だった]という含みだ。 「進む積りだった」というのは、[かつてはその「積り」だったこともあるが、今は、その「積り」はない]という意味ではないはずだ。では、「だった」とは、何事か。[Kは、Sが以前から「進む積り」でいたことを知らないようだから、教えてあげよう]という含みか。あるいは、英文法における時制の一致が日本語に応用されているだけのことで、直接話法では「進む積りだ」と「明言」したのか。そうではなくて、やはり、懸念はあって、しかし、その懸念は、語られるSのものではなく、語り手Sのものとして残っていて、[Kの存命中、その「積り」になったこともあるが、Kの死後、その「積り」はない]という、言わずもがなの気分が紛れ込んだものか。もし、そうだとしても、そのようなものとして、語り手Sが表現したとは考えにくい。ということは、[作者は、Kと並ぶSを想像しながら、無用の懸念を表出してしまった]といった事態なのだろうか。 いつの時点であれ、Sに、Kと「進む積り」があったとすると、「遂に」という言葉が落ち着かない。だから、要するに、嘘なのだろう。 Sの「明言」は、「Kの説を聞いていると、段々、そういうところに釣り込まれて来る位」のものでしかない、「空虚な言葉」だ。このことは、わざわざ、括弧で囲ってある。なぜだろう。「まんざら空虚な言葉ではな」いということ、すなわち、[本心では、「空虚」だ]という物語を、誰かが「本筋」(57)に取り込みたくなかったからだろう。だが、書かずにはいられなかった。「仕方がないから」括弧に入れたのだろう。だからといって、読者は、括弧の中を読まなかった「積り」で「進む」わけには行くまい。 Kは、Sにとって、何者なのか。何者だったのか。私には、さっぱり、分からない。Kが死んでも、Sは悲しまない。いくら、罪の意識が大きいからと言って、懐かしまないのは、おかしい。あるいは、作者から見て、Kは、本当に意志の強い男なのか。そこも分からない。Kは養家や実家と疎遠になるが、この挿話は、[Kは、恩知らずだ]という文を否定しない。[Kは、家族愛を超越していた]という文を肯定できるほど、強力な挿話は、語られない。本当は、どちらでもなく、[Kは、家族に捨てられた]のだろう。そして、その文を浮上させまいと、作者は粘っているのだろう。こうも嘘ばかり並べられると、芯から疲れる。 //「むずかしい問題」 「Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました」(73)と書いてある。「困らせ」るという言葉は、穏やかな皮肉のようだ。なぜなら、本当に「困らせ」られたのなら、SとKの交際は、「中学にいた頃」に終わっていても、おかしくない。そうでなければ、語り手Sは、語られるSの気の弱さを、欠点として自覚していないのだろう。 「宗教とか哲学」が、どんな「問題」と比較して「むずかしい」と、Sは思うのだろう。「宗教とか哲学」に限らず、数学だって、英語だって、漢文だって、「むずかしい問題」もあれば、易しい問題もある。あるいは、「宗教とか哲学」は、本質的に、人を「困らせ」るような「問題」だという主張が前提にあるのか。あるのかもしれない。だから、何? 難易度は、「問題」を出した側と出された側とで、同じ尺度によって表示されるとは、限らない。例えば、普通は、足し算より掛け算の方が難しいと思われているが、一桁同士の足し算より、一桁同士の掛け算の方が、足し算が下手で九九を覚えている人には簡単だ。 難易度の尺度が同じだとしても、[得意、不得意はある]という意味で、[Kにとっては平易な問題が、Sには「むずかしい」と思われた]と言っているつもりなのだろうか。Kは、「女からも、私同様の知識と学問を要求していたらしい」(79)とされるぐらいだから、Sには、当然、K同様の「知識と学問を要求していた」ことだろう。しかし、「無学」(81)と自己紹介するSは、語り手Sではなく、語られるSなのだろうが、語られるSが、Kに対して「無学」だと自己紹介していたのに、KがSを「困らせ」るのは、おかしい。「困らせ」るとしたら、かなり、意地悪か、健忘症だということになる。Kが意地悪でも健忘症でもなく、Sが嘘つきでもないとしたら、Kが「むずかしい」話題を持ち出す理由はない。また、「困らせ」られていながら、交際を続けるSの気持ちも怪しい。 あるいは、[語られるSは「無学」だったのに、そのことをKに悟られないように、精一杯、背伸びして付き合っていたよ]といったような、ほろ苦い青春の一ペイジが破り捨てられているわけか。だとしたら、Sの「無学」を見破れないKは、粗忽だ。また、「何でも話し会える中」(83)という記述も信じられない。 「学力になれば、専門こそ違いますが、私は無論Kの敵でないと自覚していました」(83)という、その「自覚」を、Sは、Kに告げていなかったとしても、Kに、そのことが知られないですむような「学問の交際が基調を構成している二人の親しみ」(85)とは、どのようなものか。「学力」の差が歴然としていながら、Kは、そのことに気づかなかったのか。だったら、気づかない方がおかしい。「学力」の差を「自覚」しているSが、静への思いだけでなく、「学力」の差についても「気取り」があって、「思い切ってそれを突き破るだけの勇気が私に欠けていた」(85)としても、[Sは、Kを騙したことにはならない]という論法が隠されているのか。 そうだとしたら、[語られるSは、Kに、さまざまなことを隠している]という疑いが生じるばかりか、[Sは、Kに、「恋」以外のことも隠していた]という事実を、Pに対して隠しつつ、「遺書」を執筆しているのではないかという疑いが生じることになる。つまり、[語り手Sは、Pに、さまざまなことを隠している]という可能性を否定することができなくなる。そうだとしたら、読者は、Pの眼を想定しつつ読んだところで、Sの言葉を理解したことにはならない。[Sによって騙されつつあるP]というフィルターが、もう一枚、必要になる。 あるいは、「むずかしい」というのは、[煩わしい/気味が悪い/見苦しい]といった、拒否的な意味で使われているのかもしれない。そうだとすると、Sは、Kを以前から疎んでいたことになる。[Sは、ずっと以前からKを疎んでいながら、そのことを自覚せず、「畏敬」(73)していると勘違いしていた]という物語が浮上しそうで、しない。Sは、なぜ、その物語を語らないのか。いや、作者は、なぜ、その物語を、可能性としても、検討しないのか。その可能性を検討し始めると、[SパパがSの「叔父」の人物を見抜けなかった(58)ように、Sは、Kの人物を見抜けなかった]という物語が浮上するからかもしれない。そして、もし、その物語が起動すれば、「御前もよく覚えているが好い」(58)という言葉で「叔父」を推薦した、Sパパの言葉が間違だったように、「遺書」の中に間違ではないと言えないようなことは、何一つなくなってしまい、「記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです」(109)という、Sの自己紹介の言葉も、本当は怪しいということになるのではなかろうか。 //「檻の中で」 Sは、「Kと私とが性格の上に於て、大分相違のある事は、長く交際って来た私に能く解っていました」(78)と書く。だとしたら、Kの方でも、また、同じようなことが「能く解って」いても、おかしくはない。そして、もし、そうなら、Kにとって、Sとの交際は楽しいものではなかった可能性が大きい。「実をいうと私だって強いてKと一所にいる必要はなかったのです」(77)というような思いは、Kの方にも同様にあったと考えてはならない理由はなかろう。つまり、[SとKの友情は、もともと、ない。あるいは、すでに消えている]と考えなければならないはずだ。 山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合いながら、外を睨めるようなも のでしたろう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでいて六畳の間 の中では、天下を睥睨するような事を云っていたのです。 (73) こんなしみったれた連帯を友情と呼ぶのは自由だが、とにかく、それは長続きがしなかったらしい。Kは、自分の意志でSから離れ、「寺」(74)に住み始めたようだ。Kの方から先に、Sを「必要」としなくなったのだろう。 SがKを「引き取る」(77)のは、Kに対する「多少の責任」(73)を果たすためだ。しかも、その「責任」について、Kが言及したのではない。また、Sも、「私の同意がKにとってどの位有力であったか、それは私も知りません」(73)と言い放つのだから、「責任」は、まったく、Sの空想する[友情の物語]の中の「責任」でしかないことになる。こうした次第は、語り手Sどころか、語られるSにさえ、自覚されている。ところが、この空想は、虚偽とは見做されないらしい。 [SとKの友情/の物語]の中で、Kは「孤独」(78)なのではない。Kの「孤独」は、生来のものだ。しかも、Kの「孤独」は、徹頭徹尾、Sの空想でしかない。Kの死後、Sによって、空想として発見されるところの「Kの歩いた路」(107)の末路について、「Kが私のようにたった一人で淋しくて仕方がなくなった」(107)とされるが、この言い回しは、おかしい。[Sは、Sが空想するKのように「たった一人で淋しくて仕方がなくなった」]というのでなければならない。しかし、こうした言い回しを採用すれば、聞き手Pは、語られるKの実在性か、語り手Sの理性、もしくは、誠意を疑うことになるはずだ。 [SとKは、どのような友情を培っていたか]と問うことは、空しい。 //「母のない男」 [Kの「孤独」(78)は、決定的なものだ]ということを、語り手Sは、「遺書」の書き出し以前から知っているはずだ。では、Kの「孤独」が決定的なものである理由は、何か。それは、次の一文によって、暗示されている。 Kは母のない男でした。 (75) Kに、母の記憶はない。ところが、Sにも、母について、記憶の定かでない部分がある。「記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから……」(57)母から「記憶」が消えたと知ったとき、あるいは、母がそのように振る舞うのを見たとき、母から消えた「記憶」、あるいは、母が消えたことにしたいと思っている「記憶」を、Sも、また、消さねばならないのか、いや、むしろ、消してはならないのではないのかと、心を騒がせた。「だから……」、Sの前に、Kが「母」の「記憶」を持たない「男」として現れたとき、裏返せば、Sの「母の頭」から消された「記憶」の擬人化された存在として、Kが現れたとき、つまり、[「空虚」という母/の「記憶」を持つ「男」]として現れたとき、Sは心を騒がせたっけ。 Kが「空虚な言葉」(86)として表出していたものこそ、「孤独」だろう。[Kの「言葉」は、「普通の人」(76)の耳には「空虚」に響く]ということを、語られるSは知っていた。「空虚な言葉」という指摘は、括弧に入れて初めて語り得るような事実だ。「空虚な言葉」を括弧から出してしまえば、語り手Sは、語られるSの空想の方を括弧に入れなければならなくなる。そのとき、語り手Sは、[語られるSの空想によって造形されたK像]ではなく、[語り手Sの反省によって発見されたK像]を提示しなければならなくなるはずだ。 「私に取ってまんざら空虚な言葉でもなかった」(76)という物語を反省すれば、[Kの言葉は、「普通の人」にとって「空虚な言葉」だと思われたからこそ、語られるSは、Kに「賛成の声援を与えた」(73)]となる。「空虚な言葉」の語り手Kの聞き手でいられるのは、Sだけだった。語られるSは、Kの「言葉」の「空虚」にこそ、「釣り込まれて」(76)いた。[「空虚な言葉」は、「母のない男」の表出だ]と、語られるSは知っていて、同情していた。誰も取り合わないような「空虚な言葉」の「背景」(56)にある「孤独」を、語られるSは察知していた。しかし、そのことを、語り手Sは語らない。いや、語れない。なぜか。Sが、「孤独」を察知する能力の由来は、隠蔽されているからだ。このことは、Sに対するPの「直感」(6)などの由来について、作者が明示しないことにも通じる。 語られるSは、聞き手不在の語り手が抱く「寂寞」(107)を、すでに知っていて、Kに同情していた。Sも、「母のない男」だったからだ。Sママは、自分がSの本当の母ではないことを告白して、死んだ。しかし、語られるSは、その事実を、自他共に隠蔽した。Sは、なぜ、親戚を嫌うのか。親戚は、Sが「母のない男」だと知っているからだ。相対的に「母のない男」であるSは、絶対的に「母のない男」であるKに対してのみ、優越者であり得た。だから、Kに見下されても、耐えられた。こうした物語が、[Sの物語]の隠された[世界]だ。 //「事理」 Kを保護するに際し、静ママに育て直されたSは、「私の方が能く事理を弁えていると信じて」(78)いた。Sは、自信を得た自分の姿を見せびらかすために、Kを呼び寄せる。患者から、一気に、お医者様に成り上がろうとする。Sは、人助けのふりをして、望まれてもいない慈善を施す。過去の加害者を辱めるためだ。しかし、Sは、自分の悪意に対して無自覚だから、お医者さんごっこの患者役にされたKの苛立ちを感知できない。しかも、Kが回復し始めると、[Kは、再び、Sを圧迫するのではないか]という恐れが復活する。この恐れが、[Kの「切ない恋」(90)の物語]として、妄想される。「Kの果断に富んだ性格は私によく知れて」(98)いたとしても、だから、Kが何を仕出かすと、語られるSは思ったのか。恐れの内容は片鱗も記されない。[Kの「切ない恋」(90)の物語]は他愛のないものかもしれないのに、そういう検討はなされない。ただ、「恐ろしさの塊り」(90)であり、「苦しさの塊り」(90)としか、記されない。これらは、「恐ろしい影」(108)と同根のものであるはずだ。 [Kの回復の物語]は、[Kと静の物語]が趣向されているために話が複雑になっているが、物語の基本型は、[Sは、Kを、保護の名目で、支配する]というものだ。Sは、Kの回復そのものを意図してはいない。Sの意図は、Kが、Sに対して、一生、頭が上がらないようにすることだ。 Kの死後、雑司ケ谷をKが「大変気に入っていた」(104)という挿話が示される。このとき、Sは、「そんなに好きなら死んだら此所へ埋めて遣ろうと約束した覚がある」(104)などと記す。語られるSの、Kへの殺意は、このときから芽生えていた。いや、作者が、やっと、殺意を引き受けたと考えるべきか。Kは、雑司ケ谷で生きる喜びを味わっていた。だから、作者は、慌てて、Sの空想の中で、Kを埋葬した。Kは、Sとともに生きてはならないからだ。そのことは、作者にとって、決定的なことだ。Kは禁欲的な人物として設定されているだけではない。作者によって、生きることを禁じられている。 Kは、『こころ』では、死ぬ。しかし、Kは、『明暗』で、小林として復活し、またもや、主人公に付き纏う。作者が否認したがっている自己像らしい。[津田と小林の友情の物語]が希薄なように、[SとKの友情の物語]も希薄だ。友情など、ないからだ。あるのは、隠蔽された憎悪だ。Sは、Kから「残酷」な仕打ちを受け続けていたのに、語られるSは、犠牲者として、自分を語ることができず、復讐の機会を狙って、友達を装い、付き合っていた。しかし、この経緯は、作者にも自覚できない。 『坊ちゃん』における[「おれ」:「兄」=「おれ」:「赤シャツ」]の比が、[S:K=P:「兄」]にも当てはまるとしたら、「K」という「余所々々しい頭文字」(1)は、「兄」の音読み、[ケイ]から来ているのかもしれない。 もし、PがSを「先生と書くだけ」(1)ではなく、[親父]と書いていたら、Sは「遺書」の内容を口頭でPに伝えていたかもしれない。Kを[兄貴]と呼んでいれば、Sは、静への思いを、気軽に、Kに告白していたかもしれない。しかし、語り手Sが静ママを「母」(108)と記すとき、彼女が死んでいるように、SがPの[親父]であり、KがSの[兄貴]であるという物語が浮上しかけただけで、『こころ』の中の人物達は集団自殺を遂げてしまうのかもしれない。 //「ぼくのお母さん」 Sは、Kを「母のない男」(75)として憐れむことができるほど、自分の母親について知っていると言えるのだろうか。 ピーターは、ティンクにささやきました。 「ウェンデイのお母さんだ。きれいな人だ。だけど、ぼくのお母さんほど きれいじゃない。あの人の口は、指ぬきでいっぱいだ。だけど、ぼくのお母 さんの口ほどいっぱいじゃない。」 もちろん、ピーターは、じぶんのお母さんのことは、何も知ってはいな いのです。しかし、ピーターは、時どき、お母さんのじまんをしました。 (J.M.バリー『ピーター・パンとウェンディ』石井桃子訳) //「昔の人」 Kの頭は、「偉い人の影像」(79)で埋まっていた。Sの頭は、[「偉い人の影像」の埋まっているK]の「影像」で埋まっている。 もし私が彼の知っている通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしな いだろうと云って悵然としていました。Kの口にした昔の人とは、無論英 雄でもなければ豪傑でもないのです。霊のために肉を虐げたり、道のため に体を鞭ったりした所謂難行苦行の人を指すのです。Kは私に、彼がどの 位そのために苦しんでいるか解らないのが、如何にも残念だと明言しま した。 (85) [ここに何かが「明言」されている]と言えるのだろうか。語り手Sの報告に誤りがなければ、Kは、言語的にか、人格的にか、壊れている。語り手Sが、[Kは壊れていた]と思わないのなら、語り手Sも壊れている。語り手Sが壊れているのなら、この報告は当てにならない。このKの発言が語り手Sの偽造なら、Kは変人ではなかったのかもしれない。作者が、この報告を、不可解ではないものとして提出したのだとしたら、作者が粗雑か壊れているか、あるいは、この私が、とっくの昔に壊れちゃってんだろう。 勿論、Kの発言は、おかしい。しかし、私がおかしいと思うのは、語り手Sがおかしいと思っているらしいところとは、違う。語り手Sは、Kが「難行苦行」をするのをおかしがっているらしい。私は、Kの語り口をおかしがっている。 後に、語り手Sは、静に迷うKについて、「理想と現実の間に彷徨」(95)とか、「現実と理想の衝突」(107)と記す。しかし、もともと、Kは、空想と現実を混同している。Kには、「彷徨」も「衝突」も起こり得ない。起こるとしたら、Kの妄想の中で起きるだけだろう。Sも、Pも、作者も、[Kは、現実と空想を混同している]とは思わないのだろうか。 なぜ、Kは、[Sは、Kの「知っている通り昔の人を知る」ことができない]と決めつけるのか。Kは、書物を通じて「昔の人」を知ったのだろう。では、Kの読んだ本を、Sも読めば良かろう。いや、Kが「肉を虐げたり、道のために体を鞭ったりした所謂難行苦行」を実践しているところを見学させてもらう方が、手っ取り早い。ところが、Kは、「解らないのが、如何にも残念だと明言した」という。[解る/「解らない」]という話題は、どこから飛び出したのか。Kは、明らかに、おかしなことを「明言」している。「明言」という言葉を採用したのは、語り手Sだ。Kではない。だから、「明言」という言葉を採用した語り手Sが、まず、おかしいはずだ。このおかしさを始末できなければ、Kの話題に入っても、混乱するだけだ。[語られるSは、おかしなKに巻き込まれていた]というのが事実だとしても、おかしなKに巻き込まれていたSを、語り手Sは、おかしいと思っていないらしい。Kの死後も巻き込まれたままだからだろう。巻き込まれたままの語り手Sを、作者は、おかしいとは思っていないらしい。だから、「遺書」は、おかしい。不気味なほど、おかしい。不気味な「遺書」をありがたがるPは、おかしい。だから、『こころ』は、おかしい。 [「昔の」「人達とKと違っている」(78)]という理由で、Sは、Kを批判する。しかし、その批判は、Kに「明言」されない。そんな批判は無効だからだ。Kの観点では、Sは[Kの知る「昔の人」]を知らないのだから、[Kの知る「昔の人」]とKの区別など、Sに、できるはずがないと、Kは思うはずだ。だから、この場合、語られるSは、最初に、[Kの知る「昔の人」]と[Sの知る「昔の人」]とを突き合わせて見せなければならない。そして、その相違点を、Kに「明言」してもらわねばならない。ところが、語られるSは、Kの「難行苦行」が無益だという考えをKに述べようと考え、しかも、できない。できないようなことを考えている自分をおかしくないと思っている。そこが、おかしい。語り手Sは、語られるSが述べられなかった考えの内容を検討せず、述べられなかった理由だけをPに述べている。その理由とは、[Kに「反抗される」(78)]とか、そんな、どうでもいいようなものだ。こうした弁解は、巻き込まれた人のものだ。語り手Sは、Kの死後も、Kに取り付かれたままのようだ。 語られるSは、Kに、「彼の知っている通り昔の人を知る」方法を尋ねるべきだった。次に、Kの「難行苦行」がSに見えない理由を尋ねるべきだった。ところが、語られるSは、そんな手数を必要としない。なぜなら、語られるSは、Kとは別の方法で、「昔の人」を知っていたし、Kの「難行苦行」の様子も見えていたからだ。しかも、両者を突き合わせた結果、[Kの「難行苦行」は、Kが「昔の人」のようになるためには、無効だ]と見抜いていた。語られるSは、大した努力もせずに、Kの境地を、軽々と超越していて、しかも、そのことをKに悟られずにいたわけだ。和光同塵。ところが、こんなにも優秀なSなのに、Kの有害な努力に対して、実際には、何もできなかったという。こんな大嘘に、Pは突き合わされているところだ。私は付き合いたくない。 語られるSは、Kに巻き込まれているくせに、Kを見下すという錯誤に陥っている。その錯誤を、語り手Sは、支持している。[Kに巻き込まれているからこそ、Kを見下すという自己欺瞞の演技をしなければ、Sには自尊心を保てなかった]といった事態を、隠蔽したいのだろう。もし、そうだとしたら、そうした事態を察していたかもしれないKが余裕でSを侮るのは、当然のことだ。 //「明白に述べなければ」 Kは私より偉大な男でしたけれども、全く此所に気が付いていなかっ たのです。艱苦を繰り返せば、繰り返すというだけの功徳で、その艱苦が 気にならなくなる時機に邂逅えるものと信じ切っていたらしいのです。 (78) 私も「全く此所に気が付いて」いない。この前には、「粥」(78)がどうのこうのと、意味不明の例が並べてある。「艱苦」について話したければ、消化に悪い食物を例にすべきだ。面倒だから、そこは読まなかったことにして、「艱苦を繰り返せば、繰り返すというだけの功徳で、その艱苦が気にならなくなる」という話に入る。 「艱苦を繰り返せば」、「功徳」かどうか、知らないが、「その艱苦が気にならなくなる」ことは有り得る。だから、Kよりも、Sの方がおかしい。Sは、「艱苦が気にならなくなる時機に邂逅える」ための手段を論じている。しかし、根本的な問題が抜けている。それは、[Kは、「艱苦が気にならなくなる時機に邂逅える」としても、そのとき、Kは、より「偉大な男」になったと言えるのか]という問題だ。 私はKを説くときに、是非其所を明らかにして遣りたかったのです。然 し云えばきっと反抗されるに極っていました。また昔の人の例などを、引 合に持って来るに違ないと思いました。そうなれば私だって、その人達と Kと違っている点を明白に述べなければならなくなります。 (78) 私は、誰かに、「是非其所を明らかにして」もらいたいと思う。語られるSは、Kが到達しようとしている地点について、知悉していたかのようだ。語られるSは、Kよりも「偉大な男」だったのだろう。そうでなければ、目的を問わずに、手段だけを問うことは、飛躍だ。あるいは、「偉大」という形容は、皮肉か。 少なくとも、語り手Sは、Kが到達しようとした境地に至っているらしい。だから、方法論に過ぎないような「我慢と忍耐の区別」(78)について、Pに説教できるのだろう。Kの到達した境地に至ってもいないのに、方法だけを論じるとしたら、語り手Sは、厚顔無恥な奴と言うべきだ。あるいは、Kよりも「偉大な男」なのは作者だけなのに、作者は、自分の考えと語り手Sの考えとを「区別」できなかったのかもしれない。「偉大な男」Kと、語り手Sと、作者とは、どこがどう違うのか、「是非其所を明らかにして」もらいたいものだ。 語られるSは、「昔の人」と「Kと違っている点を明白に」知っていると思っていたからこそ、「違っている点を明白に述べ」ることができると想像していたのだろう。しかも、Kを上回るほど、よく知っているつもりだったのだろう。だったら、語られるSは、Sの知っている「昔の人」について、Kに教えてやるべきだったのではないか。[つまらない「反抗」などをしていると、いつまでたっても「昔の人」のようにはなれないよ]と、Sは「明白に述べなければ」ならなかったのではないか。 しかし、そういう話にはならない。なぜか。語られるSは、Kの「卑しいところ」(73)を見破っていたからだろう。「見える筈はありません」(73)と理屈では思っていても、見えちゃったんだろうね。語られるSは、[Kのいう「道」は、自分の「孤独」を直視しないための嘘だ]と見破っていた。だが、そのことを指摘できなかった。[他人に「卑しいところ」を見つけてしまうのが、自分の「卑しいところ」なのかもしれない]と思って、見えないふりをしていたのだろう。 勿論、Kへの疑いは、語られるSの表出であり、同時に、作者の表現であるか、あるいは、作者の表出だと考えられる。どちらにせよ、Kへの疑いは成立する。しかし、Kへの疑いは、それが誰の疑いだとしても、立証できず、推測の域を出ない。だから、語られるSがKへの疑いを明記しなかったとしても、仕方がないような気もする。しかし、その結論は、怪しい。[Kの自殺が、Kへの疑いを小さくしてしまったという物語]が、別個にかたられるのは、おかしくない。だが、疑いは、小さくは成っても、自殺程度では、払拭できない。 おかしなことに、語り手Sは、語られるSの疑いを、Pに対して、隠蔽しているように見える。ところが、そのような語り手Sの偽善を、作者が批判的に表現しているようには見えない。あたかも、語り手Sの「意気組に卑しいところの見える筈はありません」(73)と、Pが裏書きをさせられているかのようだ。しかし、Pに裏書きなど、できない。ここは、[「意気組」の語り手Kに対する聞き手Sの偽善を、語り手Sに対する聞き手Pが踏襲し、そして、作者に対する読者も、以下同文。そうすることは、「気高い」(73)んですよ]と、作者が読者に暗示をかけているところだろうか。 語られるSは、Kよりも賢かったのに、Kの方が賢かったかのように、語り手Sは語る。こうした事態は、語り手Sの優越感が語られるSに投影されることによって起きた、見掛けだけの現象のようでもある。しかし、どちらにせよ、おかしなことに、語り手Sは、語られるSよりも、賢くなくなっている。さて、突然ですが、ここで、問題です。語られるSと、語り手Sと、Kと、そして、作者のうち、最も賢いのは、誰でしょうか。 //「友達」 もし、Kに、本当に、「力」(76)があるのなら、彼には信奉者が何人もいたはずだ。少なくとも、静や静ママは、Kを「畏敬」(73)すべきだ。だが、Kの「力」は、Sにしか及ばない。 かつて、Kが「友達なぞは一人もいない」(89)と語ったことを思い出しただけで、語り手Sは、「成程Kに友達という程の友達は一人もなかった」(89)と、Kの発言を補完するような記述を加える。Sは、Kを「親友」(78)だと思っているはずだが、「親友」は「友達」に含まれないのかもしれない。勿論、[Sは別にして]という限定を読み取ったものだろうが、しかし、そのような限定を、本当にKがしていたという確証を、読者は得られるのだろうか。 このとき、同時に、静ママは、Sにも、K以外の「友達」の話をしなければならないはずだが、そういう話にはならなくて、Sは「私も生憎そんな陽気な遊びをする心持になれない」(89)などという「好い加減な」(89)理由で、「友達」の話は立ち消えになる。語り手Sは、語られるSの「友達」について、話題にすることを避けているかのようだ。 Kの「第一信条」(95)は、「道のためには凡てを犠牲にすべきものだ」(95)というものであり、[道のためなら、養父母を欺くようなことをしても、構わない](73)し、「慾を離れた恋そのものでも道の妨害になる」(95)というのだから、[Kは、友情など、屁とも思わない]と考えるのが、道理だろう。そう考えないSは、おかしい。 語り手Sは、「慾を離れた恋そのものでも道の妨害になる」と聞いて驚いたSを示しているが、語られるSの驚きは、嘘っぽい。そうでなければ、語り手Sが嘘をついているのだろう。この程度の禁欲主義は、現代でも珍しくはない。[精神的にも、経済的にも自立できない間は、有意義な恋愛はできないから、止めておけ。片思いは、自立できていない証拠だから、なおさらだ]という意見に、[Y/N]の二者択一で答えよという調査を、現在の日本で実施したら、[どちらかと言えば]も含めた賛成派は、少なくないはずだ。もしかしたら、過半数を占めるかも知れない。だから、なぜ、語り手Sが、こんな報告をPにして見せるのか、私には分からない。 胎内の水子が生れ、成人つかまつり、母もろともにこの寺に尋ね上り、 衣のすそにすがりつき、落ちよ道心、落ちさせたまへ重氏と、名乗りかく ると夢を見た。夢心にも心乱れて悲しやな。もしもかやうにあるならば、 立てた誓文の御罰をば、なにとなるべき悲しやな。とかく女人の上らぬ高 野に上らん (『かるかや』) Kが、禁欲主義を吹聴すれば、却って、むっつり助平かと勘ぐりたくなる。いや、勘ぐるべきか。そして、[Kは、静に「肉の方面から近づく」(78)つもりだった]と受け取るよう、語り手Sか、作者が仄めかしているところか。 いや、Kは、変ではない。Kの主張に驚いて見せるSが、変だ。変なSを、変ではないかのように示す、語り手Sは、間違いなく、変だ。私には、Kが孤立していたとは思えない。孤立していたのは、語られるSの方だろう。Kは、彼の語り口を除けば、有り触れた[お宅]に過ぎない。しかも、Kの語り口は、語り手Sが再現したものだから、当てにはならない。「遺書」だけを見れば、Sは、Kを遠くから見てやっていれば、十分だったはずだ。Kに食料が不足しそうなら、ときどき、陣中見舞いをしてやればいい。しかし、そういう可能性は、検討されない。いや、そのことは語られていないだけで、語られるSは検討したのだが、実現不可能だったという物語を、私は、また、ここで、泥縄式に拵えねばならないのか。いや、そんな必要はない。Sには、Kと密着すべき理由があったはずだ。「遺書」では、その理由が隠蔽されている。 そもそも、どんな「信条」だろうと、自分で勝手に決めた「信条」なのだから、誰かに監視されていて、破れば罰されるというのでもないし、しかも、目的に達するまで守り通せたというのなら、多少は聞く価値もあろうが、結局は守り通せなかった「信条」なのだから、どれほど奇妙なものであっても、驚くに値しない。守れないような「信条」なら、誰だって、いくらでも奇妙で厳格な「信条」を持つことができる。[Kの話は、他愛もない]と言ってしまえば、[『こころ』そのものが他愛もない]と言ったのと同じことになるのだろうか。 Kが、本当に変なのは、「激する」(78)ところや「変に高踏的」なところではない。「軽蔑」(79)や「侮蔑」(84)という言葉に象徴される、過剰な自己防衛の姿勢だ。Kは、何かを異常に恐れているようだ。Sも、何かを恐れている。Sは、Kを恐れるふりをしているだけだ。もし、本当にKを恐れるのなら、[Sは、Kに殺されていたかもしれない]と反省すべきだ。Kは、「自己の成功を打ち砕く意味に於いて、偉大な」(78)のではなく、現在の自己を「打ち砕く意味において」過激だ。そのことを、Sのみか、作者までが過小に評価をしている。Kの、自己自身に向かう、過激な「信条」も、他者に向かう、無闇な「侮蔑」も、対象の設定できない、恐れと怒りの表出だ。 Kの怒りは、自分に向けられ、自殺という結末に至る。もし、その怒りがSに向けられれば、Sは殺されていたろう。Sも、また、同種の恐れと怒りを共有していたから、[自殺するか。Kを殺すか]という瀬戸際に立っていた。Kが自殺すると、Sは、それを模倣する。同時に、作者がそれを模倣するかのように、『こころ』は自壊する。作品の自壊は、作者の自壊を意味する。Sは、「寂寞」(107)などで死ぬのではない。そんな、しょぼくれた死に方をしたのではない。KとSは、怒りを隠したまま、死ぬ。Kは、「運命」(103)であるかのように、何も分からずに、死ぬ。Sは、自分の怒りに気づきながら、「明治の精神」(110)という言葉で、[恐れと怒りの由来の物語]であるはずの「長い自叙伝」(110)を封印する。「明治の精神」という言葉は、『こころ』を内側から封印する。作者は、『こころ』によって、自分の心の物語を封印する。 『こころ』という未完成の作品は、作者の恐れと怒りを封印した箱だ。作者は、小説を作ったのではない。小説を作ろうとしたのかもしれないが、箱を作ってしまった。[箱としては、完成した]と判断したので、擱筆したのだろう。 //「何でも話し合える」 Kと私は何でも話し合える中でした。偶には愛とか恋とかいう問題も、 口に上らないではありませんでしたが、何時でも抽象的な理論に落ちて しまうだけでした。それも滅多には話題にならなかったのです。 (83) ここでは、[何でも話したが、何でも話したわけでもない]という主張がなされているらしい。 Sは、[Kは、Sに何でも話した]ということを、どのようにして知ったのだろう。「話題」というものが、例えば、学校の科目のように、いくつと決まっていて、それらを虱潰しに取り上げれば、「何でも話し合える」と結論することはできそうだが、ここは、そういう意味ではないはずだ。 代助と平岡は中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して後、一年間 というものは、殆ど兄弟の様に親しく往来した。その時分は互に凡てを打 ち明けて、互に力に為り合う様なことを云うのが、互に娯楽の尤もなるも のであった。この娯楽が変じて実行となった事も少なくないので、彼等は 双互の為めに口にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を 含んでいると確信していた。そうしてその犠牲を即座に払えば、娯楽の性 質が、忽然苦痛に変ずるものであると云う陳腐な事実にさえ気が付かず にいた。 (『それから』2) 『こころ』作者は、「陳腐な事実」を、[「恐るべき」(78)Kと「傷ましい」(4)Sの物語]に作り替える作業に没頭するうち、自分が何をしているのか、忘れてしまったらしい。代助の過去の行為について、語り手は「犠牲」という言葉を遣い、彼自身は「義侠心」(同16)という言葉を遣う。『それから』作者は、言葉を弄んでいる。正確に言うと、言葉を弄ぶという自覚を失っていない。しかし、『こころ』作者は、どうだろう。語り手Sに、「親友」(78)や、それに類する言葉を遣わせるとき、作者は、自分が言葉を弄んでいることを忘れているのではないか。言葉の酔いに身を任せているのではないか。 「犠牲」や「義侠心」という言葉は、『それから』では、皮肉な意味で用いられている。代助は、本当は「犠牲」を払ってはいないし、本当の「義侠心」を持っていたわけでもない。ここで、[何が本当の「犠牲」であり、「義侠心」か]という問題を解く必要はないはずだ。これらの言葉は、「熱誠」(13)などと同様に、作者が皮肉な意味で用いていることは、明らかなのだから。 問題は、別のところにある。『それから』作者は、皮肉を遣わずに、「陳腐な事実」を「陳腐な」言葉で表現できたのだろうか。 「互に凡てを打ち明けて、互に力に為り合う」という文は、「様な」で受けられているから、虚構だと分かる。ところが、「何でも話し合える中でした」と書いてしまえば、最早、収拾が着かない。慌てて、「それも滅多には話題にならなかった」(83)と、対立的な文を付け加えてみても、手遅れだ。 『こころ』作者は、SとKが「陳腐な事実にさえ気が付かずにいた」ことを知悉しているはずだ。作者は、[過去の/友情の物語]を「必要」(77)としたが、[過去の友情/の物語]を「必要」としていたわけではない。ところが、作者は、[Sは、Kを「人間らしく」(85)するために、関係を維持する]という[「虚栄」(85)の共栄/の物語]を捏造しさえする。 「陳腐な」言葉に置換すれば、「犠牲」は「屈辱と損害」(31)となろうか。「義侠心」は「虚栄心」(85)か。「熱誠」は「意地」(76)で、「親友」は「厄介なこの友達、もっと適切に言うと、この敵」(『明暗』181)だろう。 勿論、こうした置換によって、すぐに「陳腐な」思想が露呈するのではない。まず、どのような思想も露呈しない。文脈が乱れるだけだ。皮肉や「言葉ちがい」(『猫』10)によって支えられていた思想は、自壊し始める。 //「虚栄」 静に対するSの「感情」(85)を、Kに「露出」(85)できなかった理由について、Sは次のように記す。 私にそれが出来なかったのは、学問の交際が基調を構成している二人 の親しみに、自から一種の惰性があったため、思い切ってそれを突き破る だけの勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。気取り 過ぎたと云っても、虚栄心が崇ったと云っても同じでしょうが、私のいう 気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。それがあなた に通じさえすれば、私は満足なのです。 (85) Sは、[「勇気」の欠如]を罪悪であるかのように、「自白」する。本当は、[語り手Sは、「自白」という言葉が受けるべき罪悪を隠していて、そのことを「自白」したくないのだが、「自白」したような気分になって、罪悪感を消したい]という気分が表出されているらしい。 罪悪であるかのような[「勇気」の欠如]は、「気取り過ぎ」とか「虚栄心」と言い換えられるが、その「意味は、普通のとは少し違い」があるという。そして、[その特殊な「意味」が、Pに「通じ」る]という想像をして、Sは「満足」を覚える。おめでとう。 ここで、[「勇気」の欠如]の原因と思われるところの「気取り」や「虚栄」に似た言葉を探すよう、SがPに、あるいは、作者が読者に、求めているのだろうか。S、あるいは、作者は、ここで、何をしているのか。なぞなぞか。私は、Sにも、作者にも、ここで、なぞなぞ遊びをしなければならない理由はないと思う。では、S、あるいは、作者は、求めるべき「意味」を知らないのだろうか。Sは、自分の知らない「意味」を、他人に「通じ」させようとしているのだろうか。あるいは、「通じ」なくてもいいと思っていて、その諦めか何かが、Sの絶望的な心境の片鱗として示されているところか。 この疑問は、私には解けない。だから、この疑問を素通りして、「気取り」や「虚栄」に似た言葉を探してみる。すると、[自尊心]とか、[自己満足]とか、[自惚れ]といった言葉を思いつく。「薮睨みから惚れられたと自認している人間」(『猫』2)という言葉も思い出す。 少し前には、「道学の余習なのか、又は一種のはにかみなのか」(83)という言い回しも見える。そして、この場合も、Sには断定できず、「判断は貴方の理解に任せて置きます」(83)とされる。 語り手Sは、語られるSがKに「事実を蒸留して拵らえた理論」(85)を示すだけで、「事実」を「露出」(85)できなかった理由について、縷々、述べる。しかし、語り手SがPに、「気取るとか虚栄とかいう意味」を「露出」しない理由については、述べない。そうした心理を言語化すること自体が、ためらわれるからだろう。言語化をためらうSの姿によって、何かが表現されているようではない。作者は、作中の誰かに、[自分は、激しい欲求不満の状態にある]とか、[自尊心が、深く傷ついている]というようなことを明言させたくないらしい。作者の自尊心は、あまりにも傷ついているので、物語としてさえ、そのような文を明示することができないのだろう。しかし、そういう心理状態にあるということを知って貰いたいとは思っているので、ややこしい言い回しとしてだが、表出が起きてしまうのだろう。 //「犠牲」 Sは、[「跪ずいた」ら、「侮辱」するので、「尊敬を斥けたい」という「覚悟」](14)を、Pに語ったとされる。この「覚悟」は、[SとKの物語]を「背景」(56)に持つかのようだが、[SとKの物語]では、「私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪まずく事を敢えてした」(76)と記されているから、「覚悟」の「背景」(56)は別にありそうだ。それは、[「犠牲」(『それから』2)の物語]だろう。 「犠牲」という言葉は、ズバリ、「自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」(14)という、丸尾君(さくらももこ『ちびまる子ちゃん』)の口癖か、天気予報を思わせるところの、Sの台詞に登場する。この予言めいた台詞で、「その犠牲」というときの「その」は、「現代」を指すようだから、ここでは、[「みんな」は、「現代」という、特殊な時代の「犠牲」にならなくてはならない]というような考えが述べられていることになる。こんな話は通じない。だが、[「犠牲」を払えば、「苦痛」を感じる](『それから』2)という話だったら、ありそうだ。 『それから』では、代助と平岡は、「兄弟」(同2)愛のような交友関係を維持するために、それぞれ、「犠牲」を払ったのだろう。そして、そのために「苦痛」(同2)を感じるまでになった。しかし、そんなふうになったのは、代助と平岡が、それぞれ、変人だったからではなくて、時代とか社会の風潮に原因があるとされる。そんな発明か、発見が、『それから』で表現されているのだろう。勿論、こういう発明か、発見が、歴史的に正しいのかどうか、私は知らない。 ところが、『こころ』では、[「みんな」は、「現代」の「犠牲」にならねばならない。あるいは、すでに、「犠牲」になっている]という話が前提だ。なぜ、「犠牲」は一般化されるのか。Sが、[「淋しみ」は、「現代」の一般的な情緒だ]と考えるからだろう。[「淋しみ」の物語]は、『こころ』によって、表現されつつある物語ではなくて、『こころ』の[世界]として、言い換えれば、「背景」(56)として、読者に暗示されているものだということになる。 『それから』が、『こころ』の[世界]なのではない。『それから』と『こころ』に共通する[世界]が、かつて、どこかで語られていたかのようなのだが、私は、その[世界]の原典を知らない。 //「喧嘩」 「私は彼と喧嘩をする事は恐れてはいません」(78)という不必要な言葉は、なぜ、記されるのか。苦沙弥と寒月は、表面的には争わない。しかし、物語の深層では、凄惨な闘いを続けている。勿論、作者は、その深層の物語を読者に提出したつもりはない。表出されただけの、男同士の闘いは、『こころ』では、[SとKは、静を奪い合った]というように誤読される可能性を孕んで展開する。もし、この読みが誤読でないのなら、[苦沙弥と寒月は、富子を奪い合った](『猫』)とか、[「おれ」と「赤シャツ」は、「マドンナ」を奪い合った](『坊ちゃん』)とか、[甲野と宗近は、藤尾を奪い合った](『虞美人草』)というふうに読むのも、誤読とは言えまい。逆に言えば、[SとKは、静を奪い合った]というのは、単純な誤読でない。読者は、Nの言葉に接するとき、常に、こうした危うい橋を渡らなければならない。須永と高木は、実際には、闘わなかった。しかし、有り触れた恋の鞘当てとは比べ物にならないような苦しみを、須永と三千子に与える。 相手の女性は彼らの双方に無関心ではなかった。だが、いつまでたって も、ハッキリした選択を示さないのだ。彼らはほとんど一時間ごとに、あ まいうぬぼれと、胸をかきむしるような嫉妬とを、交互に感じなければな らなかった。今はもはやこの苦痛に耐えがたくなった。相手が選択しなけ れば、こちらできめてしまうほかはない、どちらかが引きさがる? 思いも よらぬことだ。では決闘だ。 (江戸川乱歩『吸血鬼』) 「彼らの双方」がとてもよく似た変人([恋人]の誤記ではない)同士でない限り、こうした事態は、実際には、起こらない。「相手の女性」が「ハッキリした選択を示さない」のは、「双方に無関心ではなかった」としても、どちらにも取り立てて思し召しがないからだ。あるいは、一妻多夫を、密かに望んでいて、口にできない状態なのかもしれない。どちらにせよ、[男達が「決闘」して、「相手の女性」は勝者に接吻する]という筋書きだけしかないと思い込むのは、軽はずみだ。もともと、考えるまでもないことだが、「彼ら」には「嫉妬」する資格がない。「相手の女性」は、「ハッキリした選択を示さない」のだから。男達は、「相手の女性」の意を迎えることに精力を注ぐべきだ。二人で争っている間に、鳶に油揚げを攫われるといった事態だって、ないとは限らない。争う男達にあるのは、弱い忍耐力と、狭い現状認識と、過剰な「うぬぼれ」だけだ。女性一般に対する憎悪か、恐怖のようなものが潜んでいるのかもしれない。 [SとKの物語]の基調は、ジェラシーではない。Sの「うぬぼれ」の異常な強さが物語の推進力となるはずだ。 //「道義的同情」 Nは、『首飾り』(モーパッサン)について、「細君が虚栄心を折って、田舎育ちの山出し女とまで成り下がって、何年の間か苦心の末、身に釣り合わぬ借金を奇麗に返したのは立派な心掛けで立派な行動であるからして、もしモーパッサン氏に一点の道義的同情があるならば、少なくともこの細君の心行きを活かしてやらなければ済まない」(『文芸の哲学的基礎』)と批判する。「道義的同情」という言葉は、私には変な感じだが、この問題は棚上げ。 さて、「細君が虚栄心を折っ」たのは、物質的な面における虚栄に限られている。彼女の「虚栄心」は悪化したと言える。彼女は、「借金」の元を作った自分の失態を明かして素直に詫びるということをしたくないために、辛酸を嘗めることになる。自業自得だろう。だから、彼女が「借金を奇麗に返した」からといって、そのことを指して「立派」とは言えない。「習慣」(同)に過ぎない。返さずに済ませる方法があるのに頑張って返したのなら、「立派」かもしれないが、返さざるをえないものを返しただけだけだから、褒めるようなことではない。しかも、借金は、彼女が望んで背負い込んだものだ。 だが、このヒロインは、自分自身の「行動」を「立派」だと自負したのだろう。だから、後に、持ち主に、苦労話を「逐一を述べ立てる」(同)ということをしたのだろう。褒めて貰いたかったのだろう。あるいは、恨みがましい気分も手伝ったか。このヒロインは、自分の手前勝手な空想の物語の中では「立派」なのかもしれない。しかし、実際には、空回りをしているだけのことだ。彼女には、「一点の道義的同情」の余地もないとまでは言えないかもしれないが、あるとしても、「一点」ぐらいのものだろう。 彼女が「借用品」とは別の品を「何知らぬ顔で返却して、その場は無事に済まし」(同)たのは、持ち主の了解を得た行為ではないから、詐欺や窃盗のようなものだ。例えば、現金と帳簿の数字が合わないからといって、自分の財布を出して、足したり引いたりして、いいものか。[「借用品」は、思っていたより安物だった]から、苦労話が笑い話で済んだ。しかし、[予想よりも遥かに高価だった]とか、[記念品だった]といった事情であれば、どうか。そのとき、苦労話で、裁判官のお涙が一滴でも絞れたら、お慰みだ。このヒロインは、「あたかも人を欺くのは差し支ない、只化けの皮があらわれた時は困るじゃないかと感じたものの如くである」(『猫』1) 結果的には、[ヒロインは、自分の思惑を越えた物語の中では救われている]とさえ言える。実際には、窮乏どころか、刑罰を課されても、おかしくはない。ところが、ヒロインの窮乏生活にべったりと「同情」した読者Nは、ヒロインと同様に、[ヒロインの思惑を越えた物語]を想像できない。 Nの作品では、[主人公の思惑を越えた物語]が希薄だ。作者の哲学、一杯一杯の主人公を作ってしまうから、作品に余裕がない。余裕があるかのような『草枕』にも、余裕はない。作者が贔屓をしているらしい人物の苦しみは、作者の創作の苦しみの表出でしかない。主人公の「頭の中の現象」(67)と、作品の中の現実を区別する指標は、私には見つからない。[主人公は、夢と現実を区別できない]という物語が語られているのではない。主人公は区別しているつもりらしい。だが、読者としての私には、区別できない。主人公の夢想と、作者の構想は、区別できない。だから、物語は迷走し、暗礁に乗り上げる。 『首飾り』のヒロインに肩入れしてしまった読者Nは、[ヒロインは、「暗に人から騙され」(同)た]などといった、奇妙な言い回しによって、誤読の溝を埋めようとする。ヒロインが「暗に人から騙され」たのなら、『首飾り』作者は、「暗に」騙した人を「暗に」罰さねばならないわけだが、その場合、友人を無用に苦しめたという自覚によって、騙した人は「暗に」罰されるという結末になっていると言える。その程度の後始末はしてあるが、それぐらいでは、読者Nの怒りは溶けない。 そもそも、『首飾り』は、「暗に」何かをどうこうするというような手の込んだ作品ではない。このヒロインは、明らかに人を騙していて、しかも、愚かだから、そんな彼女を、作者と読者は、後ろめたさを感じずに、笑い者にすることができる。いい仕事がしてある。 『首飾り』のヒロインは、自分の語る物語の中では悲劇のヒロインだったが、『首飾り』そのものは喜劇だ。この皮肉を読み落とすのなら、『首飾り』を読んだことにはならない。 『虞美人草』では、悲劇と喜劇について、逆転が起きる。藤尾は、藤尾の語る物語の中では、喜劇のヒロインだ。ところが、藤尾を非難する甲野の語る物語の中では、おかしなことに、悲劇のヒロインになる。一方、大衆の感想では、藤尾は、喜劇のヒロインだ。藤尾は勝利者だ。何に勝利するのか、分からないが、とにかく、大衆は、藤尾に勝たせてやりたい気になる。[『虞美人草』作者に、「一点の」フェミニズム的「同情があるならば、少なくとも」藤尾の「心行きを活かしてやらなければ済まない」]などと言いたがる人は、今でも、生きていることだろう。 [「借用品」は、偽物だった]という結末は、ヒロインの軽薄さを象徴するものでもあり、ヒロインが憧れる階級の軽薄さを象徴するものでもあろう。[偽物のような生活]と[偽物を本物だと思い込んで憧れたり苦しんだりする生活]が、等し並みに、からかわれている。あるいは、もっと単純に、[本物はしまっておいて、外出の際、身に付けるのはレプリカという、ブルジョワの習慣を、ヒロインは知らなかった]という前提があるのかもしれない。 モーパッサンは、「徳義心に富める天下の読者をして、適当なる目的物に同情を表する事が出来ないようにし」(同)て、「虚栄心」に「富める天下の読者」をからかったのだろう。「同情を表すべき善行をかきながら、同情を禁じたのがこの作品」(同)だと思えば、モーパッサンが「軽薄な落ちを作った」(同)と言えそうだが、この作品に「同情を表すべき善行」など、書かれていないのだから、「同情を禁じた」という話は成り立たない。よって、「軽薄な落ち」というものもない。勿論、「軽薄な落ちを作った」作者もいない。 言うまでもなく、[「軽薄な落ちを作った」作者は、いない]という文は、[モーパッサンさんは、「軽薄」だ]とか、[『首飾り』は、「軽薄」だ]という文を、否定も、肯定もしない。 『首飾り』の構成は、[SとKと静の物語]の主筋の構成と同質のものだ。『首飾り』のヒロインが首飾り紛失の事実を告白していれば、首飾りが安物だったことはすぐに知れて、苦労話はなかった。Kが静への思いを告白する前に、Sが静への思いをKに告白していれば、そして、その告白の時期が早ければ早いほど、Kが穏便に身を引く可能性は大きい。しかし、Nの主人公(達)は、いろいろ、口実を設けて、告白しない。作者の設定した事件に巻き込まれて、告白の時期を逸するというのではない。告白しないことが、あたかも、告白すべき内容の重要性の根拠であるかのように、沈黙する。ここで、「言葉の重み」(90)という、軽い言葉を思い出そう。 『首飾り』のヒロインは、首飾りの持ち主に対する負い目を感じなくなるまで、首飾り紛失の事実を告白できない。同じように、Sも、Kに対する劣等感を克服できない限り、本音で語れない。彼らの心理的な弱さの中核にあるのが、虚栄だろう。 『首飾り』作者は、告白できないヒロインに「同情」しない。『こころ』作者は、告白できないSに「同情」する。この相違は、虚栄に対する作者の考えの相違に起因するものだろう。勿論、虚栄は、どちらの作品においても、批判されてはいる。しかし、『こころ』の場合、虚栄に捕らわれた人間に対する「同情」は、異様なまでに深い。『こころ』では、虚栄は、笑うべき罪ではない。深刻な罪だ。 「自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心」(70)とは、いわゆる自尊心と同じものとは言えず、むしろ、虚栄の偽装である疑いが濃厚だ。『こころ』作者は、自尊心と虚栄の区別がつかないらしい。Nは、『自負と偏見』(オースティン)の読者だったはずだが。 「気取り過ぎたと云っても、虚栄心が祟ったと云っても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のと少し違います」(85)という文は、Sの言語能力の限界を表現するものではなく、作者の「道義」観の限界を表出したものだろう。この限界は、『首飾り』読者Nの「道義」観の限界と同じものだと思われる。 『こころ』作者は、[Sの「虚栄心」の物語]に対して、「道義的同情」があり過ぎるために、「世間を憚かる遠慮」(1)という大枠を無視してでも、Sの「心行きを活かしてやらなければ済まない」と考え、基本的には喜劇である『こころ』を、悲劇に見せかけようと腐心する。 |