『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#080[世界]40先生とA(30)「嫉妬」

//「軽蔑すべきものでない」
 Kに対する、Sの「嫉妬」(81)が始まると、実際には何かが起きているようでもないのに、Kは「恋」(90)を募らせる。Sが「嫉妬」をすると、その分だけ、Kは静に「恋」をするかのようだ。Kが「恋」をする分だけ、Sが「嫉妬」をするのではない。Sの「嫉妬」を正当化するために、Kは「恋」をするかのようだ。このことは、作者の設定としてではなく、語られるSに起きていることだ。
 [Kは、「女はそう軽蔑すべきものでない」(79)と言い出した]と記された後、[Sは、「Kの室から出た」(80)と思われる静の「声」(80)を聞いた]という出来事が記される。[密会疑惑]の始まり。[Kは、静を好く]という可能性を感じただけで、Sは、ジェラシーを感じ始めたかのように見える。しかし、どこか、おかしい。[静は、Kの元へ通う]という物語のためには、[静は、Kを好く]という前提が必要だ。しかも、この前提さえあれば、[静は、Kの元へ通う]という物語は、不要だ。[静は、Kを好く]という物語があれば、Sは身を引かねばならないはずだ。どうなっているのだろう。
 [Kは、静を拒まない]という物語のために、[Kは、静を好く]という、濃厚な物語が必要なわけではない。また、[静は、Kの元へ通う]という物語のために、[Kは、静を好く]という前提は、不必要だ。Kが静を嫌っていたとしても、静はKに会うことがある。
  二人のあいだに秘密は、あったのかも知れず、なかったのかも知れぬ
 ─魔力のもとはクレアラである。愛憎ともに痛烈きわまって、彼の意識
 は彼女以外のものの上には永つづきしない。彼の魂は一瞬彼女の目の下
 でもだえると思うと、次の瞬間には容赦もなく彼女につかみかかろうと
 する。自分の所有品が逃げ出そうとしているのだ。わが大切な持ち物が第
 三者の手にわたりかけているのだ。
             (メレディス『エゴイスト』23、朱牟田夏雄訳)
 語り手Sの記述した情報のみでは、語られるSに、[密会疑惑]は起きないはずだ。では、なぜ、[密会疑惑]は起きたかに見えるのだろう。語り手Sは、なぜ、語られるSに[密会疑惑]が起きたと認めることができるのだろう。
  とうとう彼も、彼女はほんとうにいやなのだとの結論に達した。そう彼
 に信じさせるには、あの原っぱの場面だけで十分であった。それはほん
 のちっぽけな火花、あるいは妄想裡の火花でしかなかった! が、第三者の
 存在はぜひ必要だった。さもないと彼は、自分の人柄をいやな奴と想像す
 るほかはなかったのだから。
                              (同23)
//「嫉妬」
  私は彼の迂闊を笑ってやりました。そうして女の価値はそんなところ
 にあるものではないという昔の議論を又彼の前で繰り返しました。彼は
 別段反駁もしませんでした。その代り成程という様子も見せませんでし
 た。私には其所が愉快でした。彼のふんと云った様な調子が、依然として
 女を軽蔑しているように見えたからです。女の代表者として私の知って
 いる御嬢さんを、物の数とも思っていないらしかったからです。今から回
 顧すると、私のKに対する嫉妬は、その時にもう充分萌していたのです。
                               (81)
 Kが静を「物の数とも思っていない」のに、なぜ、「Kに対する嫉妬」の「萌し」がSに生じるのか。Sは、[Kは、静を好きになり始めた]と感じていたと書いてあるのではない。その逆だ。[Kは、静を好きになりそうにない]という意味のことが書いてある。「嫉妬」は、「萌し」としては勿論のこと、妄想としてさえ、成り立たないはずだ。
 Sは、[Kは、静に「恋」(90)する様子がない。だから、Sは、Kに「嫉妬」を感じる必要がない。だから、「愉快」だ]と記しているらしい。そして、その裏側では、[「嫉妬」する必要がないと思うと「愉快」だという感情は、「嫉妬」の「萌し」だ]と語られているのか。そうだとしたら、妙な論法だ。
 「彼は別段反駁もしませんでした。その代り成程という様子も見せませんでした。私には其所が愉快でした」というときの「其所」とは、どこだろう。
 この3文は、[Kは、「成程という様子も見せ」ない。「その代り」「別段反駁も」しない。だから、Sは、「愉快」だった]と記されているのではない。つまり、[Kは、Sの意見を否定しない。だから、Sは、「愉快」だ]と書いてあるのではない。逆だ。[Kは、Sに賛成しない。だから、「愉快」だ]と書いてある。Sは、何を「愉快」だと感じているのだろう。
 [「嫉妬」の物語]では、「愉快」でも構わない。しかし、なぜ、この挿話が、「夏休みに何処」(81)へも「Kは行きたくないような口振を見せました」(81)という話や、「Kと宅のものが段々親しくなって行く」(81)という話に繋がるのか。なぜ、[Sに、Kは、「女を軽蔑しているように見えた」]という事実が、[Kは、Sが「最初希望した通りになる」(81)]という話の「萌し」になるのか。
 後に、Sは、「果して御嬢さんが私よりもKに心を傾むけているならば、この恋は口へ云い出す価値のないものと私は決心していた」(88)と、いやにさっぱりしたことを書く。「此方でいくら思っても、向うが内心他の人に愛の眼を注いでいるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです」(88)とも書く。しかも、こうした奇妙な潔さは、Kが相手の場合に限って現れるのではない。K登場以前から、未知の「男の声」(70)に「苦しめ」(70)られていたときも、[Sは、静に求婚して、「もし断られたら、私の運命がどう変化するか分かりませんけれども、その代り今までとは方角の違った場面に立って、新らしい世の中を見渡す便宜も生じて来る」(70)]という気持ちでいたとされる。
 語り手Sがすぐばれるような嘘をついているのではない限り、普通の意味での嫉妬が成り立つはずはない。「萌し」すら、不可能だ。
 普通の意味での嫉妬なら、次のような独白に繋がるはずだ。
  彼女を手放す? たとい軛につないで彼女をしめ殺すことで、世の嘲笑
 を一身に浴びようとも、ゆめ考えられぬことだ! 
              (メレディス『エゴイスト』23、朱牟田夏雄訳)
  いやがっているとわかれば、彼女を焼いて食ってしまうほかはない。そ
 うなればいやでも応でも彼女は自分のものだ! ─どうだ! 焼いて食っ
 てしまうのだ! そうなれば恋敵も消え失せる。婚約の相手の妻になるの
 がいやなどという気持も、もう口にされず、第一、気持そのものもなく
 なってしまおう。
                              (同23)
//「是非」
 Sが「是非御嬢さんを専有したいという強烈な一念」(86)というときの「是非」という言葉は、現在、普通に使われているのとは、どうも、違う用法のようだ。副詞の「是非」は、[是が非でも]の略であるはずだが、Sの「強烈な一念」には、「是」と「非」がある。[静は、S以外の男を好きになる]という物語では、「非」であるはずだ。[静母子は、「策略家」(69)だ]というのも、「非」だろう。
//「地位ヲchangeセン」
 [静は、Kを好く/ならば/Sは、静を諦める] and [Kは、静を好く/ならば/Sは、Kを許さない]
 この無意味すれすれの命題は、何を語っているのか。この命題が意味をもつための文脈は、どのようなものか。
  嫉妬は、大切な関係にたいする脅威への反応だが、羨望は、自分より優
 れているように見える対象にたいする敵意の表現であり、その対象の優
 位性を自分のものにしたいというだけなく、対象そのものを破壊してし
 まいたいという欲求である。
 (アヤーラ・パインズ『ロマンチック・ジェラシー 嫉妬について私たちの
  知らないこと』鈴木晶+川勝彰子訳)
 「嫉妬のごとく一方にてはある者を愛し、同時に一方にてはこの愛する目的物を得ざるより、思慕と憤怒を併発し一情緒を生ずること」(『文学論』同1-1)というのは、普通の意味のジェラシーだろう。だが、Nは、多くの場合、「嫉妬」という言葉を、羨望と区別できないように遣っている。「嫉妬─甲ニナレザルヨリ甲ノ地位ヲchangeセントス」(Balzac(H.de) Shorter Stories from Balzac 裏表紙への書き込み)というのが、N語の「嫉妬」の定義だろう。なお、この「嫉妬」は、「嫌悪」(同)と対比されている。
 ジェラシーの原因となるべき物語、[静は、S以外の誰かを好く]という物語は、事実としては、『こころ』には格納場所がない。証拠の有無に拘わらず、つまり、客観的事実であれ、妄想であれ、語られるSによって事実と認定された時点で、Sは身を引くはずだからだ。[ジェラシーに苛まれる主人公を想像するのさえ、汚らわしい]と、作者は思っていたのかもしれない。
 では、[密会疑惑]とは、何か。この疑惑が生じた時点で、語られるSは、なぜ、静から身を引かなかったのか。[密会疑惑]は、疑惑でしかないと、語られるSさえも知っているからか。語られるSは、あたかも語り手Sであるかのように、[自分の疑惑は杞憂だ]と知っていたか。杞憂だと願っているのではなく、知っていたのか。
  私の印象では、ほんの影ほどの疑惑でもあの人の心をかすめた途端に、
 自分の想像した姦淫の先まわりをして、復讐の罪に首までひたってしま
 おうという類の人だと思います。男の人には珍しくないことです。
              (メレディス『エゴイスト』35、朱牟田夏雄訳)
 『こころ』で用いられる「嫉妬」という言葉は、静との関係では、Kに対する羨望の意味としてさえ、機能しそうにない。Sは、[Kは、すでに、静をゲットしている]とは、妄想としても、思わないはずだからだ。「嫉妬」という言葉の用法は、「恐ろしさの塊りと云いましょうか、又は苦しさの塊りと云いましょうか、何しろ一つの塊りでした」(90)という言い回しによって示唆される、正体不明の感情に繋がる何からしい。その程度の読みしか、私にはできない。「恐ろしさ」でもあり、「苦しさ」でもあるのか、ないのか、何でも有りのようなないような、その辺りに言葉を探せば、[脅威]とでも名付けるべきか。いや、分からない。
 語り手Sが「嫉妬」と名付けた感情は、[SとKの物語]を通り越して、「生れた時から心の底に潜んでいる」(108)のか、いないのか、わけの分からない「恐ろしい影」(108)の印象へと繋がるらしい。
 代助は、平岡を羨望したらしい。しかし、恐れているようには見えない。一方、Sは、Kを羨望するらしい。そして、恐れる。羨望から恐れへの経路が、私には、見えない。
 静の存在によって際立つ、Kへの対抗意識。対抗意識のせいで自覚される、弱者Sの抱く脅威。脅威が恒常的なものであるらしい、出所不明の不安、憂鬱らしきもの。こうしたものを、適当に混ぜ合わせ、どろどろになったものを、ご賞味くださいと出されても、手が出ない。手は出せても、掴めない。
 私に感じ取れるのは、[作者は、何かを示唆したがっている]という気分だけだ。そのとき、作者が用いる言葉は、作者が示唆したがっている何かを掴む手掛かりには、なりそうにない。
 普通の意味で、ジェラシーが成り立つには、[静は、Kを好く]という条件が必要だ。同性愛的妄想でも、同様。だから、普通の意味でのジェラシーは、Sにはない。男性同性愛の変形としてのジェラシーと仮定すると、「慈雨」(94)云々が成り立たない。
//「声」
 Sは、[Kは、「異性には気に入るだろう」(83)]と想像する。この想像は、「私には平生から何をしてもKに及ばないという自覚があった」(78)という、[劣等感の物語]に含まれる。Kへの「畏敬」(73)とされるところの羨望らしき感情は、学問の分野から性愛にまで拡張されるのかもしれない。
 「嫉妬」(81)は、K登場以前に始まっている。それは、未知の「男の声」(71)に始まり、静への「切ない恋を打ち明け」(90)るKの「声」に至る。それらの「声」は、Sにとって、はっきりとした意味がない。その調子だけで、Sは苦しむ。
  私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。
                               (70)
 [静がφを好けば、Sは身を引く]という仮定がありながら、[φが静を好けば、Sはφを排除する]というのなら、[静がφを好けば、Sはφとともに身を引く]ことになるはずだ。したがって、[静は、Sと結婚するか。誰とも結婚しないか]という二者択一しか、ない。Sの心理は、通常のジェラシーや羨望としては、理解できない。静に対する呪いのようなものか。
//「事理」
  私には平生から何をしてもKに及ばないという自覚があった位です。
 けれども私が強いてKを私の宅へ引張って来た時には、私の方が能く事
 理を弁えていると信じていました。
                               (78)
 Sは、自分の方が「能く事理を弁えていると信じ」られるようになったので、「強いてKを私の宅へ引張って来た」のだろう。
 Sは、「平生から何をしてもKに及ばない」ので、「侮蔑」(95)されるように感じていて、その「復讐」(95)のために、「異性の傍に彼を坐らせる方法を講じた」(79)のだろう。
  今まで書物で城砦をきずいてその中に立て籠っていたようなKの心が、
 段々打ち解けて来るのを見ているのは、私に取って何よりも愉快でした。
 私は最初からそうした目的で事を遣り出したのですから、自分の成功に
 伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。私は本人には云わない代
 りに奥さんと御嬢さんには自分の思った通りを話しました。
                               (79)
 「自分の成功に伴う喜悦」とは、何事か。Kは、実験動物のようだ。Kの「愉快」や「喜悦」の有無は、問題にもされない。当然、「本人には云わない」というよりも、言えるはずがない。
 語られるSの「最初から」の「目的」は、「自然と私の前に萎縮して小さくなる」(96)Kの姿を見ることだった。作者は、Kの「萎縮」を描きたかった。
//「宅のもの」
  私はただでさえKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているの
 が、余り好い心持ではなかったのです。私が最初希望した通りになるの
 が、何で私の心持を悪くするのかと云われればそれまでです。私は馬鹿に
 違ないのです。
                               (81)
 語られるSには、なぜ、Kが「物の数とも思っていない」(81)静と「親しくなって行く」ように見えたのだろう。そして、そのように見えたとしても、[Kにしてみれば、「軽蔑すべきものでない」(79)程度の交わりだろうよ]とは、なぜ、思わなかったのだろうか。
 一般に、「最初希望した」ことでも、いざ、実現してみると、不快に感じるというようなことは、結構、あるはずだ。そのくらいのことで、「馬鹿」呼ばわりするのは、厳し過ぎる。無意味に近い。
 作者は、物語が破綻しそうになると、その責任を、語られるSに転嫁しようとするが、ここでは、「違ない」と書いてあり、[「違な」かった]と書いてあるのではない。語り手Sは、現在の自分をも「馬鹿」扱いしているのだろう。
 こうした不都合は、語られるSが「最初希望した」ことを、語り手Sが明示しないことから生じると思われる。「最初希望した」のが[Kと静は、親しくなる]ことでないのは、当然だろう。「Kと宅のものが段々親しくなって行く」というとき、「宅のもの」とは、静ではなく、静ママを指している。
 例えば、[海老で鯛を釣ろうとして、海老が惜しくなって、釣りを止める]というのなら、「馬鹿」かもしれない。しかし、釣り針まで取られそうなら、どうだろう。Kは、Sを、静母子の家から弾き出しかねない。Kが静ママの息子のようになれば、男であるKはこの家の最上位を占め、下宿人Sは最下位になる。
//「後廻し」
 「御嬢さんが凡て私の方を先にして、Kを後廻しにするように見えた」(86)というが、この文は、SとKを入れ替えても成り立つ。しかも、「御嬢さんは私だけに解るように、持ち前の親切を余分に私の方へ割り宛ててくれた」(86)というのだから、なおさらだ。静は、SとKの両方に、[自分の方が好かれている]と思わせることが可能だ。
 Sは、ここで静の奥ゆかしさを表現したつもりらしい。だが、「策略家」(69)としての一面を表出したとも言える。だからこそ、その後、[密会疑惑](86)から[石橋渡り](87)へと、物語が展開することになる。この展開は、表現の舞台で起きているのではない。表出の奈落で起きている。
//「当然以上」
 「Kの室から出た」(80)と思われる静の「声」(80)を聞く。その「声」が止むと、「Kの室では誰の声もしません」(80)と語られる。しかし、行ってみると、「其所に二人はちゃんと坐って」(80)いる。「一週間ばかりして私は又Kと御嬢さんが一所に話している室を通り抜け」(81)る。すると、語り手Sは、「嫉妬」の「萌し」(81)を「回顧」(81)する。この「回顧」は語り手Sのものなのに、語られるSが「回顧」し、そして、その「回顧」を「萌し」にして、[密会疑惑]を補強するかのように、語られるSは振る舞う。
 Sは、Kを静から引き離すために、旅行に連れ出す。帰ると、静は、Sを厚遇(86)するように、Sには思われる。「何時帰っても御嬢さんの影をKの室に認める事はない」(86)と語られる。あたかも、[Sの一時的な不在によって、Kに傾きかけていた静の心は、Sに戻る]かのようなのだが、そのような物語には、何の機能もない。語られるSは、[静は、φを好きになるか]という問題に介入する気はないはずだからだ。しかも、この物語は、[Kは、静の元に通う]という可能性の否定的要素にすらならない。静が「Kの室」にいなくても、Kが静の部屋にいるのかもしれないからだ。ここは、[Sは、「嫉妬」に苦しむような場面に出くわさずに済んで、楽ちんだったよ]という事実が述べられているだけだ。だから、当然のように、また、[密会疑惑]が起こる。しかし、語り手Sは、そのようには語らない。語られるSの気分なり、心理に対応する出来事が、実際に起きていたのかもしれないかのように語る。おかしい。
 語り手Sは、[密会疑惑]の真相を知らないのではないか。あるいは、疑惑を、現在も抱いているかのようだ。Sが静に「遺書」を読ませたがらないのは、静がPに真相を知らせないようにするためかもしれない。いや、知りたくないのは、S自身なのかもしれない。あるいは、作者。
  すると居ないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。同時に御
 嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。
                               (86)
  然し御嬢さんはもう其所にはいなかったのです。私はあたかもKの室
 から逃れ出るように去るその後姿をちらりと認めただけでした。
                               (86)
 語られるSには、静が「Kの方ばかりへ行くように思われる」(86)というが、語り手Sにとっては、どうなのか。「思われる」だけだったと思うのか。そうではないような感触が生々しく残っているのか。その問題は、[石橋渡り](87)で盛り上がり、[世界定め](88)を通過し、立ち消えになる。
//「主意」
 語り手Sは、「是非御嬢さんを専有したいという強烈な一念に動かされている私には、どうしてもそれが当然以上に見えたのです」(86)と語る。語り手Sにとっては「当然」以下であるはずの[密会疑惑]を、語り手Sは、しつこく語り続ける。その燃料は、何だろう。
 Sは、「何故Kに宅を出て貰わないのか」(86)という疑問を、架空のPに提出させてから、「Kを無理に引張って来た主意が立たなくなるだけ」(86)と弁解してみせる。くだらない。語り手Sにとって「当然」以下であるはずの疑惑に駆られて、[語られるSは、容疑者Kを放逐する]という物語を、語り手Sは語られるSに成り代わって否定する必要はないはずだ。語られるSは、どうせ、「馬鹿」(81)なんだから、手前味噌の「主意」に拘ろうと、拘るまいと、似たり寄ったり転んだりの青春だろう。
 疑惑が疑惑に過ぎない限り、それを理由にKを放逐することは、理不尽だろう。しかし、[Kを放逐するには、疑惑を理由にしなければならない]というルールは、ないはずだ。
 「御嬢さんを専有したいという強烈な一念」は、「Kに宅を出て」行かれれば消え去るような「一念」だったのではないか。
 「主意が立たなくなるだけ」という言い回しは、奇妙だ。これは、[「主意が立たなくなるだけ」では、損だ]といった文が断ち切られた姿なのではないか。語られるSは、毛程も損をしたくないのか。あるいは、リスクを承知で、「遣り出した」(79)「事」(79)を、最後までやり遂げたいのだろう。この気持ちは、作者のものであるはずだ。つまり、[SとKの物語]を完成させたいという気持ちであるはずだ。しかし、その気持ちが語り手Sを飛び越えて、語られるSのものになっている。ここで、Kがいなくなれば、「もう一人男が入り込まなければならない」(72)という、語り手Sの記述が無駄になる。厳密に言うと、嘘になる。「入り込まなければならない」という言い回しが作者的であったように、「立たなくなるだけ」という言い回しも作者的だ。だから、語り手Sは、語られるSが、Kを、始めから下宿に呼ばない理由や、ある時点で入れる理由や、ここで追い出さない理由などを、想定できないのだろう。
 作者の構想が、Kに対する、語られるSの悪意の表出となっているかのようだが、語り手Sは、過去の自分の悪意を、可能性としてさえ、明示しないので、読み取りが極めて困難になる。あるいは、読解不能なのかも知れない。
 語り手Sは騙りかもしれない。あるいは、語られるSとともに、語り手Sも、「頭」(66)のない「馬鹿」(81)なのか。あるいは、語られるSがKに対して隠蔽していた悪意を、作者が、語り手Sと連帯して、隠蔽しているのか。あるいは、語られるSは、作者のように思考し、行動していて、そして、そのことを、語り手Sは無視し、作者は自然な振る舞いと見做しているのかもしれない。いくらか確からしいようなのは、Kに去られては、作者の「主意が立たなくなる」ということ「だけ」だろう。
 骨と肉と皮を切り分けるように、語られるSと語り手Sと作者の、それぞれの物語を分解することができれば、[語られるSの物語]という骨は、ばらばらの小骨だけだと分かるはずだ。語り手も、作者も、言葉だけの存在だ。Sが本当に生きていた証拠は骨だが、その骨は、いろんな物語の寄せ集めだ。そんな動物は実在しない。語られるSが生きていた形跡は、ない。
//「薮睨み」
  高慢も、占有の高慢ほどひどいものはないから、加えるべき致命の一撃
 は、その占有に疑問を持たせることです。これ以外に「高慢」に叡知を教え
 る方法はありません。
              (メレディス『エゴイスト』28、朱牟田夏雄訳)
 『それから』における[「恋愛」の物語]は、代助が「急にこの友達を憎らしく思った」(同2)ところから始まる。代助が以前から三千代に好意を寄せていたとしても、その程度のことは、お話にならない。三千代の兄の死によって生じた空席に、代助は座る。そして、自分が座りたかった席に、平岡を座らせる。そのとき、代助に羨望が生じる。
 まず、[平岡は、三千代を愛する]という文が与えられる。代助は、平岡を羨望し、平岡を模倣するために、[代助は、φを愛する]という文を作る。「中心を欠いた」(『行人』「友達」27)羨望だろう。平岡に対する羨望が募り、代助は平岡と入れ替わる。そして、[代助は、三千代を愛する]という文が生まれる。この文は不義を含意するので、一旦は拒否されるが、本来は不義とは出所が異なるものだから、制御できない。よって、この文は、[代助は、三千代を愛する/ことはない]とはならない。平岡が否定されたまま、代助も撤退する。[φは、三千代を愛する]という文が残る。
 次に、[三千代は、平岡を愛する]という文があるとして、これが現実に当てはまらないことを、代助は確認する。この確認は、欺瞞的なものだ。だから、[三千代は、平岡を愛する/ことはない]という文を、冷静に眺めることはできない。代助は、この文を捩って、[三千代が、φを愛する]という文を作る。
 こうして、[φは、三千代を愛する]と[三千代は、φを愛する]という、2文が手に入った。なお、[φは、平岡ではない]ことも実証された。このとき、代助は、あたかも自己自身を発見するかのように、[φは、代助だ]という文に遭遇する。一時撤退した自己が復活するわけだ。[代助は、三千代を愛する]と[三千代は、代助を愛する]という2文は、突然、しかも、容易に合体する。こうして、[代助と三千代の「恋愛」の物語]という、中身のない物語が生まれる。
 実際に、こういう思い込みをやって、相手に付きまとえば、犯罪になる。常識的に考えて、三千代は、この空っぽの物語に対応できるはずはない。しかし、この思い込みは、代助の頭の中でだけ起こっているのではない。作者の頭の中で起こっている。だから、三千代も即応することになる。常識的な読者には、奇跡にしか見えないはずだ。
 『それから』作者は、主人公が恋愛妄想を実現させてしまう物語を描いた。恋愛妄想の原点は、妄想知覚の物語、つまり、「薮睨みから惚れられたと自認している人間」(『猫』2)の物語にある。あるいは、興ざめを「失恋」(同6)と呼ぶような言葉の空間で、何かが起こり、何かが隠された。
 [妻は、二郎を愛する](『行人』)と想像する一郎の[ジェラシーの物語]は、[妻は、φを愛する]という文を経由して、[妻は、夫は愛する]という文を手に入れるために企まれたものだ。[男は、女を愛する]という文は、『三四郎』と『それから』において、手に入った。が、その逆、[女は、男を愛する]という物語が、作者には想像できない。その代わりに、[妻は、夫を愛する]という文を持ち出す。しかし、同時に、[私の妻は、私を愛しているか]という疑問が生じる。しかも、その疑問に直面できない。そこで、[女は、男を愛する]という文と並べ、[妻は、女か?]という疑問文を作り上げる。そして、夫は妻を女として行動させようとするが、その試みは不義としてしか実現しないので、ディレンマに陥る。妻が発情してもしなくても、夫は悲観する。
 『こころ』では、[Sは、静を愛する]という文は、[Kは、静を愛する]という文と同様に、[男は、女を愛する]という文の変奏として、容易に作り出せる。しかし、『行人』同様、[女は、男を愛する]という文は作れない。なぜか。
 『猫』から『こころ』までの恋愛は、作者の妄想だからだ。男である作者は、女を妄想の主語とする「恋愛」の物語を描けない。切羽詰まって、作者は曲芸を演じる。[不毛な愛の物語]である『門』を[世界]として、[Kの亡霊によって妨害される/Sと静の困難な夫婦愛/の物語]を語るふりをする。作者にとって本当に困難なのは、愛ではない。その物語だ。作者は、[(作者にとって)困難な/愛の物語]を、[(主人公にとって)困難な愛/の物語]に見せかける。
 [Sと静の「幸福」(10)な関係]は、一気に成立し、即座に綻ぶという、あり得ないような話として、ちらつく。本当は、成立しなかっただけだ。夫婦の不幸に触れることが第三者にはためらわれがちであることを利用して、作者は、[女に、男を選定する能力はあるのか]という問題を隠蔽する。[女が男を選定するかに見えるときでも、その行為の根底には、「徒らな女性」(20)の心が動いている]という考えを隠すふうに見せかけながら、[女は、男を愛さない]という、絶望的な文を隠す。
 こうして、[「薮睨みから惚れられたと自認している」(『猫』2)「誤謬」(同2)の物語]は、苦沙弥が「大和魂」(『猫』6)論によって韜晦し、迂回した[「失恋」(同2)の物語]を、作者も、慎重に、必死に避けながら、『こころ』に辿り着き、一息ついて、『明暗』へと向かう。
 言うまでもなく、[この過程は、個体としてのNの恋愛妄想の経過を示す]などと、断言することはできない。Nは、恋愛というものの妄想的性質に気づいているはずがない。
  「それがさ。病人の事だから恋愛なんだか病気なんだか、誰にも解る筈が
 ないさ」と三沢は答えた。
                         (『行人』「友達」33)
 では、妄想的ではない、現実的な人間関係とは、どのようなものか。そのあたりに思考が差しかかると、作者の頭に「ぼんやりした点」(108)が生じるのだろう。静がSについて抱く「ぼんやりした点」は、男である語り手Sが[女が男に対して抱く不満]として、[女性一般の理解力の限界]という独断と偏見に溶解してしまいたいと望んだ何からしい。あるいは、作者が女性に対して抱く、根拠の定かでない不信感の表出だとも取れる。
 『道草』では、女性不信が描かれるが、同時に、男女関係に限らず、作者の対人関係不全の症状が、主人公の姿を借りて、ぼろぼろと表出される。主人公に寄り添う語り手は七転八倒し、物語は足踏み状態。『明暗』では、不毛な人間関係からの逃避としての「恋愛」に回帰する真似をして、物語が袋小路に入る時期を遅らせながら、作者は作品の中に入り込む。
 Nが、何を「恋愛」に置き換えたつもりなのか、私には分からない。また、何を文化論や文学論等に置き換えたつもりなのか、そのことも、分からない。そもそも、人間は何を言葉に置き換える生き物なのか、私は知らない。
//「問い詰める権利」
 「奥さんが御嬢さんと私だけを置き去りにして、宅を空けた例はまだなかった」(80)と、Sは記す。その事実は、[静ママは、Kの存在を無視している]のでないとすれば、[静とKの交際を、静ママは公認している]ということになる。どちらにしても、極端な可能性だ。どちらも、ありそうにない。だから、私は、もともと、[密会疑惑]の原因となるような出来事はなかったのだろうと思いたくなる。つまり、[Kと静が二人きりでいたことはなかった]と考えたくなる。「下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません」(80)と、Sは記す。しかし、執筆時、夫であるSに、問う「権利」はあるはずだ。なぜ、Sは、問い詰めないのか。「嫉妬」を隠したいからだと考えられるが、そうではない。何もなかったからだ。「問い詰める権利」がないのではない。「問い詰める」種がない。
//「瑣事」
  然し食事の時、又御嬢さんに向って、同じ問を掛けたくなりました。す
 ると御嬢さんは私の嫌な例の笑い方をするのです。そうして何処へ行っ
 たか中てて見ろと仕舞に云うのです。その頃の私はまだ癇癪持ちでした
 から、そう不真面目に若い女から取り扱われると腹が立ちました。ところ
 が其所に気の付くのは、同じ食卓に着いているものうちで奥さん一人
 だったのです。Kは寧ろ平気でした。御嬢さんの態度になると、知ってわ
 ざと遣るのか、知らないで無邪気に遣るのか、其所の区別が一寸判然しな
 い点がありました。若い女として御嬢さんは思慮に富んだ方でしたけれ
 ども、その若い女に共通な私の嫌なところも、あると思えば思えなくもな
 かったのです。そうしてその嫌なところは、Kが宅へ来てから、始めて私
 の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬に帰して可い
 ものか、又は私に対する御嬢さんの技巧と見做して然るべきものか、一寸
 分別に迷いました。私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気
 はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面にこの感情の働き
 を明らかに意識していたのですから。しかも傍のものから見ると、殆ど取
 るに足りない瑣事に、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたか
 ら。
                               (88)
 このあたりは、漱石枕流に類する晦渋な文に満ちたNの文の中でも、特に読み辛いところだ。ここでは、これまで使い回されて来た、複数の[世界]を、[「嫉妬」の物語]一本に絞り込むという曲芸が試みられている。ここを無事に通過できれば、Kの自殺から「明治の精神に殉死する」(110)Sの物語へと雪崩込む回路が開く。
 [Sにとって「嫌な例の笑い方」をする静の動機は、何か]という疑問が、一つの文脈を形成するらしい。そこに、[静の笑いの動機を疑うSの動機は、何か]という、前の疑問の価値を怪しむかのような疑問が絡むのだろう
 「ところが其所に」の「其所」とは、どこか。[「不真面目に若い女から取り扱われると」、Sは腹を立てる性格だ]と作文したくなるが、Sの心理的傾向に、ここで他人が気付いてみても、仕方がない。このとき、Sは腹を立てていたのだろう。だが、[Sは腹を立てていた]とは、書いてない。なぜ、書いてないのか。書いたつもりだからだろう。「腹が立ちました」というのは、Sの傾向や性格の表現ではなく、そのときの状態を表現しているらしい。要するに、[Sは腹を立てたが、その原因は、この時点で、静が笑ったことだけにあるのではないと]と書いたつもりらしい。
 まず、[静は、Sの「嫌な例の笑い方」をした]という文脈がある。この文を理解するためには、「例の」という言葉があるのだから、読者は先例を探さなければならない。先例は、[密会疑惑]にあるようだ。
 静ママの不在の理由を問うSに対して、静は「ただ笑っている」(80)
  私はこんな時に笑う女が嫌でした。若い女に共通な点だと云えばそれ
 までかも知れませんが、御嬢さんも下らない事に能く笑いたがる女でし
 た。
                               (80)
 頭がくらくらしそうだ。「こんな時」に、「下らない事」が起きているのか。
 語られるSにとっての「こんな時」を、静は共有していないはずだ。共有していない文脈によって、Sが言葉を掛けたのだから、静が戸惑って笑うのは、自然なことだろう。「若い女」でなくても、誰でも笑うはずだ。
 「下らない事」に出会えば、誰だって笑うはずだ。さもなければ、無視する。Sは、笑われるよりは、無視されたかったのだろうか。違う。
 ここで、「下らない」という判定を下しているのは、静ではない。Sだ。[静は、Sにとっての「下らない事に能く笑いたがる」]とされている。では、[「この時」、語られるSは、自分にとっては「下らない事」を、静に「聞き返しました」(80)]と、語り手Sは語っているのか。違う。
 「こんな時」と「下らない事」とを結ぶ物語は、明示されていない。だから、私達は、[語られるSは、「こんな時に笑う女が嫌」だが、下らない事に能く笑いたがる女」なら、「嫌」ではない]という文を掘り起こさなければならないらしい。そして、この発掘に手間取っている間に、[「こんな時」とは、どんなときか]という話題を忘れてしまわなければならないらしい。この後、「御嬢さんは私の顔色を見て、すぐ不断の表情に帰りました」(80)と続く。「不断」という文字は怪しい。[中断はなかった]と言いくるめたいかのようだ。
 語り手Sは、「こんな時」という特殊な場面について、その内実を明示せず、「下らない事」云々という「不断」の話で、しかも、静個人を越えた「若い女」一般に話題を拡張することによって、「こんな時」という言葉の孕む特殊な場面が語られたかのような錯覚を、聞き手に与える。つまり、「こんな時」を共有したかのような錯覚に、聞き手は捕らわれる。
 [語られるSは、「こんな時」、静の笑いによって、不快を覚えた]と語られているらしい。読者には、静の気持ちが分からないだけでなく、本当は、Sの気持ちも分からないはずだ。語り手Sは、この場面が朦朧としている理由を、[語られるSには、静の気持ちが分からない]ということに求める。駄目押しとて、「下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません」(80)と、無駄な弁解を付け加える。普通に考えれば、「下宿人」のSには「権利」がなくても、夫のSにははありそうだ。しかし、静に対する[「遺書」の物語]の秘匿という、縛りがあるので、そんな話には進まない。言うまでもなく、この縛りは、Pに対するものに過ぎない。だが、読者は、S自身にも適用されると錯覚することだろう。
 「下宿人」の「権利」という物語は、「私はそれ以上に立ち入った質問を控えなければなりませんでした」(88)という文の[世界]になるのかもしれない。すると、この文に、「下宿人」の「権利」という言葉を挿入して読むべきなのだろうか。そんなはずはない。静の外出という話題と、「下宿人」の「権利」は、くっつかない。このことからも、「下宿人」の「権利」という物語が、ご都合主義的なものでしかないことが分かる。
 「立ち入った質問を控えなければなりません」という言葉が、[「立ち入った質問」は、通常、控えるべきだ]ということと、同じことを語っているのか、別のことを語っているのか、聞き手は、分からないはずだ。
 「それ以上に立ち入った質問」とは、何か。[静は、「何処へ行ったか」]というものではない。Sが知りたがっていたのは、Kと「連れ立って」(88)歩いているときの静の気持ちだろう。その質問を控える理由は、Sが「下宿人」だからではない。勿論、夫になってからも、聞く勇気は出なかったろう。その理由を、語り手Sは、Kの死に結び付けるつもりだろうが、Kが別の女性と幸福に暮らし、そして、Sとは無関係に死んでしまったとしても、語られるSには聞けなかったはずだ。こうした可能性を、作者は、ごっそりと隠蔽してしまう。
 どうでも良いようなことだが、[静は、「何処へ行ったか」]、私は気になって仕方がない。『こころ』で気になることは、それぐらいだと言いたいぐらいだ。
 [静は、静ママにも内緒で、Sへの贈り物を買うために外出する。浮き立つ静を不審に思い、Kは、静を尾行し、見つけられる。静は、Kに「真砂町で偶然出会った」(88)と思う。静は、Sのためとは言わず、男物の品の選択を、Kに頼む。静は、Sの友人であるKを、Sのダミーにして、心を開く。Kは、勘違いをする。ある日、Kの選んだ品が、静の手から、Sに送られる。Kは、真実を悟り、悲観する]
 こんな簡単な展開さえ、作者は構想できなかった。なぜか。静は、Sを愛していないからだ。いや、[女が男を愛するとき、女はどんなふうになるのか]、作者には想像できないからだ。
 さて、「こんな時」がどんなときか、分からないまま、「食事の時」「こんな時」が繰り返されることになる。ところが、語り手Sは、繰り返されたのは「こんな時」ではなく、静の「笑い方」だと主張する。私は、「こんな時」とは、[人から笑われそうな気がするとき]だと言ってしまいたいくらいだ。
 静の「嫌な例の笑い方」について、[静は、Sが嫌がっているのを承知で、「わざと」笑うのか]、あるいは、[静は、Sが嫌がっているのも知らずに、「無邪気に」笑うのか]という選択肢が提出されているようだ。そして、「知って」という言葉が「気の付く」と同義だとすれば、「其所」は、[Sが静の笑い方に腹を立てている様子]を指すのだろう。すると、「ところが」の前に、[そのとき、Sは、静に腹を立てた]という文が省略されていることになる。そして、「其所」は、この省略された文を指すことになる。この文を、作者は記したくなかったらしい。なぜなら、[このとき、Sは、静に腹を立てた]のではないと思いたいからだ。[静に対してではなく、「若い女」に対して腹を立てただけだ]と欺瞞したいからだ。「若い」ことは、静の本質ではないらしい。共白髪のつもりだ。
 さて、なぜ、[「其所」に気づいたのは、静ママだけだ]と、Sに分かるのだろう。静が「知って」いる可能性はあるから、「奥さん一人」と断定することはできないはずだ。ここは、[Sの不快に気づいたと、Sに見えた人は、静ママだけだ]と、作文すべきか。意味、ないか。
 「Kは寧ろ平気でいた」という文は、おかしい。Kは、気づいてもいないのだから、「平気」でさえあり得ない。ここは、[静ママは、「平気」ではなかった]ということが示されているのだろうか。あるいは、Sの疑問がKにも振られていて、[Kは、静の「嫌な例の笑い方」を見ても。「平気」だ]という意味なのだろうか。あるいは、[Kは、Sが不快だとは感じるが、そんなことには「平気」だ]という意味か。分からない。
 [Kは、静の「笑い方」に含まれる「嫌な」感じに気づかないから、「平気」だ]と作文しなければならないとしたら、なぜ、Kは気づかないのかという疑問が生じる。[静が放つ「嫌な」感じは、静に愛されている者にしか、伝わらない]というファンタジーが語られているのだろうか。「あると思えば思えなくもなかった」程度の、「傍のものから見ると、殆ど取るに足りない瑣事」というとき、語り手Sは、Kを、「傍のもの」として、仲間外れにしているつもりか。
 ここで、Sは、静の像を美しいままに保存しようと腐心している。静の「嫌な例の笑い方」は、Kの登場後、Sの「眼に着き出した」ことに、Sは思い当たったらしい。「私はそれ」の「それ」は、[「私の眼に着き出した」わけ]かな。
 「Kに対する私の嫉妬」が原因である場合、[静は、以前から、ある種の「笑い方」をしていたが、Sは「嫌な」印象を持たなかった]ということになる。この場合、Kの登場前後で、静に変化はない。ずっと「無邪気」だ。
 静の「技巧」が原因ならば、[静は、自分の「笑い方」に、Sが過敏に反応するようになったのを知って、「わざと」笑いかける]という話になる。
 とこりで、「技巧」という言葉は、[媚態]などを思わせるが、違う。
  高木を媒鳥に僕を釣る積か。釣るのは、最後の目的もない癖に、唯僕の
 彼女に対する愛情を一時的に刺戟して楽しむ積か。或は僕にある意味で
 高木の様になれという積か。そうすれば僕を愛しても好いという積か。或
 は高木と僕と戦う所を眺めて面白かったという積か。又は高木を僕の眼
 の前に出して、こういう人がいるのだから、早く思い切れという積か。─
 僕は技巧(アート)の二字を何処までも割って考えた。そうして技巧なら戦争
 だと考えた。
                     (『彼岸過迄』「須永の話」31)
 「僕」の、この考察は、全く無用だ。「僕」には千代子と結婚する気はないのだから。なのに、「僕」は、ぐずぐずと語り続ける。だが、この種の考察は、Sの場合には、少しは意味がある。ただし、[静が「技巧」を用いるのなら、Sは静と「戦争だ」]という文に直結するわけではない。
 [「嫉妬」か/「技巧」か]という問題について、Sは「一寸分別に迷い」はするが、結論は、はっきりと出せると言う。[「嫉妬心を打ち消す」ことはできないから、「嫉妬」が原因だ]という。奇怪な論法だ。私には理解できない。語られるSは、なぜ、ここで、二者択一に意味があると判断するのだろう。その判断を、語り手Sも、作者も、疑わないのだろうか。
 「この感情の働きを明らかに意識していた」というのは、[「嫉妬」していることを自覚していた]という意味らしい。「この感情がきっと首を持ち上げたがる」というのは、[「嫉妬」しようとしている]ということだから、「嫉妬」は、まだ、していないはずだ。「嫉妬心を打ち消す気はありません」というのは、[「嫉妬」しなかった]ことの理由にはならない。[「嫉妬心」を否定しない]という文は、[「嫉妬心」以外には、何もない]という意味には、ならない。
 [静は、「若い女」だから、「若い女」に共通の「嫌な例の笑い方」を、以前から、「無邪気」にしていた。しかし、「嫉妬」が少ない頃のSには、その「笑い方」が気にならなかった。ところが、Kが登場すると、気になり始めた。だから、気になるのは、「嫉妬」のせいだ]
 こういうのがレジュメなら、語り手Sは自分の書いたことを忘れている。作者も忘れている。
  彼等は笑いました。それが嘲笑の意味でなくって、好意から来たもの
 か、又好意らしく見せる積りなのか、私は即座に解釈の余地を見出し得な
 い程落付を失ってしまうのです。
                               (70)
 K登場以前の語られるSは「解釈の余地を見いだし得ない」ようだったが、K登場後のSは「見出し」たか。「見出し」てはいない。[「好意」か、その偽装か]という疑問は、[「嫉妬」か、「嫉妬」を誘発するための「技巧」か]という疑問に作り替えられたのに過ぎない。誰が作り替えたのだろう。語られるSだ。ところが、この経緯に、語り手Sは気づかない。二つの疑問を[「不可思議な私」(110)の物語]に閉じ込めて、終わる。
 この間に、何が起きているのか。Sを笑う人物が、「彼等」から、静に変わっている。なぜだか、私には分からないが、「彼等」から静ママが抜けて、しかも、Sの気持ちに「気の付く」ことのできる、たった「一人」の人物になっている。だから、静への思いを打ち明ける対象として、静ママが選ばれる。
  私はそれまで躊躇していた自分の心を、一思いに相手の胸へ擲き付け
 ようかと考え出しました。私の相手というのは御嬢さんではありません。
 奥さんの事です。
                               (88)
 『こころ』で問題になっているのは、「心」ではない。「心」の中身を打ち明ける「相手」選びだ。[打ち明ける「相手」を正しく選べば、作者さえ、「却って変な気持ちに」(99)になるほど、「話は簡単でかつ明瞭に片付いて」(99)しまう]という夢が、作品の底を流れているようだ。
 苦しい外科手術を経て、[Kへの「嫉妬」の物語]は、[静への「愛」の物語]の「裏面」から摘出された。その後、言わばレジュメが、埋め草のように続く。ここまでの経過が[「嫉妬」の物語]に適合するように語り直され、[静の物語]に変化はないと、密かに確認される。だから、[歌留多会](89)で、静が「眼に立つようにKの加勢をし出し」(89)ても、[「嫉妬」の物語]として語られ、[静は、Kを好く]という文は浮上しない。Kに「得意らしい様子を認めなかった」(89)だけで、[歌留多会]は終わる。秘めやかに、「嫁選」(尾崎紅葉『金色夜叉』前編1)が終わった。
//「心の耳」
  私の考えでは今いちばん警戒を要するのは、あなたの可愛らしい試合
 刀が、あの人にいわせればすこし見当が狂って、真剣にすぎ、行きすぎに
 なったのじゃないかという点です。もうすこし目があいていたらとあの
 人を責めるのは簡単ですが、男の人が、自分は手に取り上げられても用が
 すんだらまた下におかれる武器にすぎないと悟ったら、うめき声を発せ
 ずにはいないでしょう。
              (メレディス『エゴイスト』35、朱牟田夏雄訳)
 Sは、[静は、Kを好く]という疑惑を、事実としては、否定したのかもしれない。同時に、[Sの疑惑は、彼自身の何かに由来する妄想ではなく、静によって用意された疑惑だ]と喝破した気になったのかもしれない。もし、そうであれば、Sは、静に対して怒りを覚えるはずだ。ところが、そういう展開にはならない。だから、Sの疑惑は、事実でも妄想でもなく、静によって用意されたものでもないことになりそうだ。では、何なのか。
 [静は、Sに「試合刀」を使った]という疑惑を、[静は、φを好く]という文脈から外してみよう。すると、[語り手Sは、過去の静の罪を、「若い女」(88)一般に転嫁し、静を許す]という結末が暗示されたかに見える。もし、そうだとすると、「遺書」は厄介極まりない文書になる。静は、「遺書」を読まないのだから、静に対する許しは無効だ。では、「遺書」の意図は、[語り手Sは、静を許すSを、Pに見せつける]ことにあるのか。しかし、この意図は、空転する。[作者は、Sを、読者に見せつける]というのでなければ、無効だ。
 もし、[密会疑惑]の結末が、静に対する許しであるとすれば、話は振り出しに戻ったことになる。ところが、振り出しには戻らない、かと言って、語られるSには、することは何にもない。
  私は隙かさず迷うという意味を聞き糺しました。彼は進んで可いか退
 ぞいて可いか、それに迷うのだと説明しました。私はすぐ一歩先へ出まし
 た。そうして退ぞこうと思えば退ぞけるのかと彼に聞きました。すると彼
 の言葉が其所で不意に行き詰りました。彼はただ苦しいと云っただけで
 した。実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。
 もし相手が御嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合の好い返
 事を、その渇き切った顔の上に慈雨の如く注いで遣ったか分りません。
                               (94)
 この部分は、明らかに、[「絶体絶命」(69)に陥ったSの物語]の反復だ。ただし、Kには、[静母子「策略家」(69)疑惑]は、ない。疑惑はなくとも、「策略家」は実在する。それは、語られるSだ。静母子は、Sの手助けをしている。疑惑も持たないKにとって、障害は、自分の「信条」(95)だけだ。[Kは、この障害を乗り越える]と、Sは想像する。だが、そんな想像が実現したからと言って、その先に何が起こるのか、私には予想できない。Sにも予想できなかったはずだ。
 「君は君の平生の主張をどうする積りなのか」(96)という問いは、[作者は、Kの「平生の主張をどうする積りなのか」]という問いの表出だろう。
 Kは、「覚悟」(96)という「夢の中の言葉」(96)を遣う。語られるSは、その言葉を、自分の「夢の中の言葉」として聞く。しかし、その意味は、実は、正反対のものだった。というのは、本当か。本当のようだが、本当とも言い切れない。なぜなら、Kは、この段階では、[Sと静の婚約]の事実を、暗示としてさえ、受けてはいないからだ。自殺と「覚悟」を直結させることは、本当は、できない。
  私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私は
 すぐその声に応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの
 知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極めました。
                               (98)
 この部分は、「絶体絶命」の物語の後、「どうでも可くない事」(70)として語られる「男の声」(70)に対抗して、「勇気は出せば出せた」(70)と、Sが大見得を切って見せる流れの反復であることは、明らかだろう。つまり、「最後の決断」とは、K登場以前の「決心」(70)の「最後」のものだ。この「決断」は、振り返ってみて、結果的に「最後」になったものに過ぎない。通常の語りでは、[最初の「決断」]と語られるべきものだ。あるいは、単なる「決断」で、十分だ。[最初の「決断」]を「最後の決断」と語るとき、語り手Sは、語られるSから、現在という時間を奪っている。Kは、語られることによって奪われた、語られるSの現在の中の人物に過ぎない。「絶体絶命」から「最後の決断」までに語られた出来事は、語られるSの「頭の中の現象」(67)と区別できない。その間の現在という時間は、一瞬から数十年まで、幅を持ち、作品内部の論理では、確定できない。
 [Sと静の物語]において、Kは必要な人物ではなかった。三角関係は成り立っていない。Sは、Kの「覚悟」を、自分の「決断」に読み替えただけだ。Kの「覚悟」の内実は、誰にも知れない。だから、[死に至るKの物語]は、実在しなかったのに等しい。いまさら、[Kは実在しなかった]というわけにもいかないから、作者はKを始末してしまう。[Kは、Sのエゴイズムの犠牲者だった]というよりも、[Kは、作者のご都合主義の結果、消去された]のに過ぎない。あるいは、語り手Sが、そのように語る。「Kの知らない間に」という言い回しや、Kの不在(99)という設定は、Kの本質的な不在の表出だ。
 「Kから聞かされた打ち明け話を、奥さんに伝える気のなかった私」(99)と、Sは自己紹介する。言うまでもなく、「Kから聞かされた打ち明け話」の内容を、語り手Sは、聞き手Pに「想像」(90)させるだけで、「伝える気」があるのか、ないのか、とにかく、私達は何も知らない。
 S以外の人間にとっては、聞き手Pにとってさえも、Kが実在する必要はなかった。Kは、Sの「心の耳」が聞いた「男の声」の擬人化された存在でしかない。そのことは、「空虚な言葉」(76)や「言葉の重み」(90)云々の挿話を思い出すまでもなく、了解されよう。
 Sは、Kから「切ない恋を打ち明けられた」(90)としても、Sは、[Sは、静を好く]という文によって、Kと正面衝突する必要はない。[静は、Sを好く]という、K登場以前に固まっているはずの文を、Sは復唱すれば済むはずだ。勿論、Kは、この文を乗り越えられたかもしれない。しかし、もし、そう考えるのなら、[Kは、結婚後、静のストーカーになる]という展開だって、否定はできない。
 Kは、Sにとっては、もともと、亡霊のような存在だった。だから、死後も、Sは「Kに脅かされる」(106)ことになる。
 作者は、語り手Sに、[静は、Sを好く]という文を明示できないという事実を隠蔽させている。[静は、φを好く]という文は、検証されないままだ。静さえも、この文を明言しない(17)のだから、[静は、Sを好く]という文は、誰かの誤読の結果だとしか思えない。誤読だとすれば、誰の誤読だろう。
 「後姿だけで人間の心が読める筈はありません」(72)というのは、語り手Sの文だ。語られるSは、静の心を誤読していた。しかし、[語られるSは、「読める筈」のないことを読んだ気になっていた]と、語り手Sは暗示しているらしい。しかし、本当は、作者が、読者に誤読を強いているのではあるまいか。作者は、読者の誤読の物語の中を、誤読と知りつつ、揺蕩うかのようだ。
  「美しいミドルトンさん、どうぞ正直に答えて下さい、あなたはウィロ
 ビーに薬をきかせておこうという気持ちなど、かけらほどもなかったと
 言い切れますか?」
  クレアラは、頬の赤らむのを本能的に弁護しようとする自分の舌を、制
 止した。何だか自分が解体崩潰してゆくような気持だ。
                         (『エゴイスト』35)
 次のような『こころ』異本の出現は、可能だ。
 [静は、Kを好きだったわけではない。しかし、Kを好くような素振りを、Sにしてみせたことはある。その意図は、Sのジェラシーを煽り立て、自分に引き付けるためではない。静の意図は、その正反対のものだ。Kへの、偽の思いをちらつかせ、Sに静を思い切らせようとしていた。一方、Sは、静の意図を察知しないわけではなかった。だが、察知したのは、半分だけだ。Sは、静が、Sに、Kを思い切らせようとしていると勘違いした。Kの死後、Sは、自分の勘違いに気づく。あるいは、勘違いの可能性に気づく。Sが静に知られまいとしているのは、この勘違いの物語だ。Sは、自分に勘違いをさせたのかもしれない罪の、そのすべてではないにしても、その重要な部分を、静に負わせて、そして、その罪を許したつもりになりたがっている]
 しかし、この一人芝居が成り立つ可能性は、極めて小さい。そして、そのことを、語り手S、あるいは、作者は、知っている。だから、明示できない。語り手S、いや、作者は、欺瞞の物語に酔いしれてみたかったのだろう。


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