『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#082[世界」42先生とA(32)「僻み」

//「愛する権利」
  彼女がぼくを愛してくれて以来というもの、ぼくはどれほどぼく自身
 を尊ぶようになっただろう。
  うぬぼれだろうか。それとも本当にそうなんだろうか。─ぼくはロッ
 テの心の中にある人で、ぼくが少しでも恐れなければならないような人
 を知らないのだ。しかし─ロッテが熱い思いをこめて実にやさしくい
 いなずけの人のことを話すとき─ぼくは自分が、名誉や位、帯剣まで
 いっさいをはぎとられてしまった人間のような気がしてくる。
             (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳)
  ぼくだけがロッテをこんなにも切実に心から愛していて、ロッテ以外
 のものを何も識らず、理解せず、所有してもいないのに、どうしてぼく以
 外の人間がロッテを愛しうるか、愛する権利があるか、ぼくには時々これ
 がのみこめなくなる。
                               (同)
//「断られるのが恐ろしい」
 K登場以前から、Sは、未知の「男の声」(70)に対して、「いらいら」(70)していた。だから、Sは、なお、「いらいら」するために、Kを招き入れたようなものだ。『彼岸過迄』では、須永と千代子の間に、突然、高木が出現する。三四郎は、「嫉妬」する暇がなかった。うらなり(『坊ちゃん』)は「嫉妬」を迫られているかのようだ。
 Sが静に申し込みをするのは、Kに静を取られないためらしい。だから、もし、Kが現れなければ、Sと静は結婚に至っていたかどうか、分からない。作者にも、分からないのではないか。
 静に申し込みをしない理由として、Sは、「断られるのが恐ろしいからではありません」と記す。Sは、[「断られるのが恐ろしい」のではない]ということを語っているのではない。[「断られるのが恐ろしい」かどうかは、さておき、申し込みをしない理由は、別にある]と語っているだけだ。
 語られるSは、「断られるのが恐ろしい」ので、[静母子「策略家」(69)疑惑]を捏造し、申し込みを困難にしたのではないか。
 そもそも、「断られる」という仮定は、どこから、出て来たのか。どこからでも出てくるとしよう。しかし、なぜ、「断られるのが恐ろしい」という考えが出現するのか。この恐怖は、「恐ろしさの塊り」(90)を経て、「不可思議な恐ろしい力」(109)に至る[恐怖の物語]に属するようだ。この物語は明示されず、Sは「恐ろしい力」に乗っ取られてしまう。その末路が「不可思議な私」(110)だろう。
 「断られるのが恐ろしい」という考えと「他の手に乗るのは何よりも業腹」(70)という、二つの考えは、[「断られるのが」「業腹」]と[「他の手に乗るのは何よりも」「恐ろしい」]という、二つの考えの捩れたのを、無理やりに分断したもののようにも見える
 Kに対する、Sの恐怖は、どのようにして生まれるのか。単純な算数かな。
 [「畏敬」(73)─「敬」=「畏」]
 「相手は自分より強いのだという恐怖の念が萌し始めた」(90)とき、防衛的に殺意が生まれる。「相手は自分より強いのだという」のは、「畏敬」の「念」だとも言える。
//「自尊心」
  私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心
 と、現にその自尊心を裏切している物欲しそうな顔付とを同時に彼等の
 前に示すのです。彼等は笑いました。それが嘲笑の意味でなくって、好意
 から来たものか、又好意らしく見せる積りなのか、私は即坐に解釈の余地
 を見出し得ない程落付を失ってしまうのです。そうして事が済んだ後で、
 いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、何遍
 も心のうちで繰り返すのです。
                               (70)
 「馬鹿にされた」んだろうね。Sは、「馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、何遍も心のうちで繰り返す」うちに、やがて、[馬鹿にされたんじゃなかろう、馬鹿にされたんじゃないんだ]というふうに横滑りさせることができるんじゃなかろうかという夢に全額を賭けたいのだろう。そんな心の動きを察知されたら、きっと、「馬鹿にされ」ることだろうよ。
 [「嘲笑の意味」/「好意から来たもの」/「好意らしく見せる積り」]といった選択肢の前で迷うことによって、語られるSは、[不快感を被害の感覚に作り替えるか/不快感そのものを否認するか]という荒業に挑戦しているらしい。このとき、語られるSだけでなく、語り手Sさえも、当時、自分に欠点があろうとなかろうと、相手に欠点があろうとなかろうと、とりあえず成り立っていたはずの、互いの「好意」を信じられないらしい。
 ここで、作者は耐えているようだ。[静母子「策略家」(69)疑惑]に属する「男の声」(70)の物語の自走を、必死でくい止めようとしている。
 [静母子は、Sを「苦しめ」(70)るために、「男の声」(70)を聞かせる。「男の声」でありさえすれば、御用聞きの声にだって、Sは過敏に反応する。静母子は、そのことを察知している。Sには幻聴が聞こえるようになる。「何を話しているのかまるで分からない」(70)はずなのに、「何を話しているのか」、すっかり、分かってしまう。Sは、「男の声」の話す内容を拒否したい。しかし、「男の声」そのものは否認できない。[内容はあるが、実体はない]というのは、無意味だからだ。本当は、その内容は、Sの恐れが生み出した妄想に過ぎない。しかし、そのことを認めたくないので、Sは、「男の声」を疑わない。Kは、その「声」の持ち主として、Sが作り上げた人格だ]
 「自尊心と、現に自尊心を裏切している物欲しそうな顔付とを同時に彼等の前に示す」というのが、どういう状態か、私には分からない。とにかく、ちぐはぐな様子なのだろう。だから、「彼等は笑いました」というのは、当然だろう。何も考えることはない。語られるSが、くよくよしていたとしても、語り手Sは、さらっと流せるはずだ。ところが、「嘲笑の意味でなくって」と始める。
 「嘲笑の意味でなくって」というのは、どう読めばいいのか。[語り手Sは「嘲笑の意味」だと思うが、語られるSは認めなかった]という含みではないのか。違うのかもしれない。では、誰が「嘲笑の意味」という選択肢を退けたのか。誰も退けてはいないのか。誰も退けないのに、なぜ、それ以外の選択肢を作り出すのか。
 「嘲笑の意味」というのは、何だろう。[わざと笑って見せたのではなくて、笑っちゃいけないと思いつつ、ついつい、笑ってしまった]のが「嘲笑」で、[わざと笑って見せた」のを「嘲笑の意味」とでもいうのだろうか。
 「嘲笑の意味」を否定すると、なぜ、「好意から来たもの」という選択肢が出てくるのか。「嘲笑」は、「好意」の親戚なのだろうか。
 そもそも、ここは、静母子の真意がどうであれ、「好意」とか,その見せかけが「意味」を持つような場面だろうか。語られるSが「好意」に「意味」があると、なぜか、思ったとしても、静母子が、そう思ったと、なぜ、語り手Sは思うのか。そして、作者は? 
 「好意から来たもの」を否定すると、「好意らしく見せる積り」という選択肢が出て来た。これは、「嘲笑」とは違うのか。「嘲笑」に似ているが、[「嘲笑の意味」ではないもの]に含まれるのか。
 「解釈の余地を見出し得ない」とは、どういう意味か。[「解釈」は、「嘲笑の意味」か、「好意から来たもの」か、「好意らしく見せる積り」の三種類のみでは、不足だ]という意味か。あるいは、[「解釈」は、「嘲笑の意味」のみであり、「好意から来たもの」や「好意らしく見せる積り」などではないというのでは、不足だ]という意味か。あるいは、[「解釈」は、「嘲笑の意味」を除き、「好意から来たもの」か「好意らしく見せる積り」のどちらかでは、不足だ]という意味か。
 「即坐に」という言葉は、どこに掛かるのか。「見出し得ない」か、「失ってしまう」か。形式的には、「見出し得ない」に掛かりそうだ。しかし、そうだとすると、「解釈」を「即坐に」しなければならない理由が見つからない。「失ってしまう」に掛かるとすると、気持ちとしては分かるが、だから、どうなのか。
 語られるSは、「即坐に解釈」できなかったみたいだけど、語り手Sは、そろそろ、「解釈の余地を見出し」たかな。まだ、「落付を失っ」たままかしらね。
 語られるSは、誰かに「嘲笑」されそうな気がした。「嘲笑」される可能性を否定することはできないので、その可能性が静母子の「好意」という外見によって塗り潰されることを期待した。だが、期待は外れた。あるいは、もともと、期待している「好意」は見せかけだけで十分なので、期待以上のものは与えられないという思い込みのせいで、本物の「好意」さえ、見せかけに見えてしまうような気がした。本当は、「嘲笑」しか、見えていない。だが、そのようにしか見えないのは、自分の期待の乏しさが原因なのかもしれないと思う。そこで、Sは、[本物の「好意」は、見えない]という文を作り出し、それを、[「嘲笑の意味でなくって」、見せかけの「好意」かもしれない]という文に作り替えようとする。だが、どうしても、「嘲笑」という「解釈」以外、成り立たないと思うので、「落付を失ってしまう」という「意味」か。
 そもそも、「嘲笑」と「好意」は共存する。「嘲笑」には、殴打、唾棄、無視などと比較すれば、多量の「好意」が含まれると言える。だから、「嘲笑」の周辺に「好意」を発見したとしても、「嘲笑」を否定するための証拠にはならない。「好意」は、「嘲笑」と共存するだけではなく、殴打とも共存するし、殺戮と共存すると言ってもいい。Sは、そして、作者は、無駄なことをしている。
 このとき、「意味」があろうとなかろうと、Sが「嘲笑」されたとしたら、静母子は、Sの「教育から来た自尊心」を笑ったのか、「その自尊心を裏切している物欲しそうな顔付」を笑ったのか、あるいは、それらを「同時に彼等の前に示す」から笑ったのか、あるいは、もっと別の理由で笑ったのか、作者には、見当が付いているのだろうか。そういう見当を付ける必要などなくて、読者も「解釈の余地を見出し得ない程落付を失ってしまう」と、正解したことになるのか。
 語り手Sは、そして、作者は、[語られるSは、誰かの「嘲笑」に値することを思った]という前提で語り始め、Sの思いが相手に察知されたかどうか、また、察知されたとして、どう評価されたかといった、瑣末な問題に飛び付く。Sが何かを思っただけで、それを静母子が察知するとしたら、静母子は超能力の持ち主だろうから、話は取り留めもなくなる。そもそも、Sが何かを察知されたかどうかを問題にする前に、思ったことの内容が誰かの「嘲笑」に値するかどうかを問題にすべきだろう。いや、こんなことが分からない人なんて、いるわけがない。私は、くだらないことを書いているようだ。
 語り手Sは、[静母子は、Sを軽んじたのではない]という前提で何かを語ろうとしているのだろうか。しかし、この前提が確実ならば、[Sと静母子の物語]は、ずっと前に終わっている。
 Sは、[「自尊心」の物語]では、[断られてもOK]と思う。しかし、[「自尊心を裏切している」物語]では、[断られたくない]と思う。前者は[「自尊心」の物語]ではなく、[「虚栄心」(85)の物語]だと推断したくなる。そして、[「自尊心を裏切している」物語]こそ、本音の話だと思いたくなる。いくら、私が思いたくなっても、どうにもならないか。
 語られるSは、この時点で自分が静と結婚できない理由を、自分の疑い深さに求めようとしているらしい。だが、事実は、単純なもので、静に結婚の意志がないだけだろう。誰かが誰かを疑っているとしたら、静母子がSを疑っているのだろう。ところが、Sは、この関係を逆転させて考えている。そう推測するのが常識だろう。Sは、自分が「充分信用されている事を確め」(69)ていたと記すが、「信用」だけでは、結婚に直結しない。第一関門を通っただけだ。通常、この後に続くはずの多くの関門を、作者は想像できなかったか、あるいは、想像したくなかったか、あるいは、主人公が疑われているという可能性を勘定に入れたくなかったか、さもなければ、作者自身の「自尊心」が無用に働いたか。
//「僻み」
  時々さう思ふ事がある、あの人の水臭い仕打の有るのは、多少か自分を
 侮つてゐるのではあるまいか。自分は此家の厄介者、あの人は家附の娘
 だ。そこで自ら主と家来と云ふやうな考が始終有つて、……否、それもあ
 の人に能く言れる事だ、それくらゐなら始から許しはしない、好いと思へ
 ばこそかう云ふ訳に、……さうだ、さうだ、それを言出すと太く慍られる
 のだ、一番それを慍るよ。勿論そんな様子の些少でも見えた事は無い。自
 分の僻見に過ぎんのだけれども、気が済まないから愚痴も出るのだ。然
 し、若もあの人の心にそんな根性が爪の垢ほどでも有つたらば、自分は潔
 くこの縁は切つて了ふ。立派に切つて見せる! 自分は愛情の俘とはなつ
 ても、未だ奴隷になる気は無い。或はこの縁を切つたなら自分はあの人を
 忘れかねて焦死に死ぬかも知れん。死なんまでも発狂するかも知れん。か
 まはん! どうならうと切れて了ふ。切れずに措くものか。
                     (尾崎紅葉『金色夜叉』前編6)
 Sが静母子に抱く「疑問」(69)の[世界]は、『彼岸過迄』だろう。「煩悶」(69)に至る「疑問」の始まりは「猜疑心」(69)であり、それは、須永の言葉では、「僻み根性」(『彼岸過迄』「須永の話」16)ということになろう。
 なぜ、須永は「僻み根性」の持ち主なのか。彼自身、不思議がる(同17)が、不思議がる彼を、私は不思議がる。[須永は、自分の出自の秘密を知らなかったのだから、ひねくれて育つ理由はない]と、彼自身で考えているとしたら、変な話だ。須永は、自分の境遇に疑惑を抱いているから、ひねくれたのだろう。
 Nの語彙では「嫉妬」と呼ばれる、私には不可解な感情の根底にあるのは、「僻み」らしい。「僻み」は、あたかも、養子となった瞬間に張り付くもののようだ。しかし、須永や健三は、出自について知らされる前から、養親に違和感を持っていたことになっている。おかしな話だが、作品の外側からなら、簡単に説明がつく。つまり、[養親自身の、養子に対する違和感を、養子が引き受けた]というように。ところが、主人公達は、この物語を浮上させまいとするかのようだ。この物語は、彼らの「自尊心」(70)を傷つけるからだろう。
 須永は、「僕はどうしても僕の嫉妬心を抑え付けなければ自分の人格に対して申し訳がない様な気がした」(『彼岸過迄』「須永の話」17)という。こんな話は、私には理解できない。「嫉妬心」は、「人格」の一部だろう。[「人格」の中で、「嫉妬心」と何かが対立していて、その何かを明示できない]というのが、実情なのではないか。「嫉妬心」に対立する何かとは、須永を利用する人々の意図だ。
 [須永は、「どうしても」、彼の「嫉妬心を抑え付けなければ」、親族内で「自分」に期待されている「人格」を演じることができず、彼らに「対して申し訳ない」と謝らなければならない「様な気がした」]
 須永は、いや、須永という語り手は、[自分の物語]と[自分を取り巻く他人の物語]を、ヒロイックに、一身に引き受けて語ろうとする。そして、失敗する。失敗しなければ、天才的な語り手だが、失敗した語り手は、廃物だ。語られる須永が廃物なのではない。失敗した語り手でありながら、語り手であり続けようとするから、廃物になる。人は、[自分の物語]を語っている間は、廃物ではない。
 「僻み」は、英雄的語り手のアキレス腱だ。須永は、語り手として、致命的な弱点を持っている。それは、情報の不足だ。しかし、もしも、情報の不足がなければ、彼は[自分を取り巻く他人の物語]の語り手になる必要はなかったろう。他人は、例えば、松本は、[須永の物語]を、易々と語るのに、須永は、[須永の物語]を含む「松本の話」の語り手になれない。この差別が「僻み」を作り出す。
 『彼岸過迄』は、[ひがみすぎたまで]の地口か。
 作者の時間では、須永が[松本の物語]の語り手になれないせいで、「須永の話」は中断し、「松本の話」へと落下する。とは言え、「松本の話」に含まれた[須永の物語]は、「須永の話」や、それ以前の物語に含まれた[須永の物語]と合成できるのだろうか。できない。『彼岸過迄』作者が、語り手達に、語りを持続するのに十分なだけの情報を与えないからだ。
//「興味」
  そうしたら実は「あの女」に就て自分はある原因から特別の興味を有つ
 ようになったのだ位答えて、三沢を少し焦らして遣ろうという下心さえ
 手伝った。
                         (『行人』「友達」19)
 [三沢は、焦らされる]と、なぜ、語り手は思うのだろう。
  三沢は「あの女」の事を自分の予想以上に詳しく知っていた。そうして
 自分が病院に行くたびに、その話を第一の問題として持ち出した。彼は自
 分の居ない間に得た「あの女」の内状を、恰も彼と関係ある婦人の内所話
 でも打ち明ける如くに語った。そうしてそれ等の知識を自分に与えるの
 を誇りとする様に見えた。
                              (同23)
 知ったかぶりをする人間が「誇りとする」のは、当然だろう。「様に見えた」という言葉で、語り手は何を暗示したつもりか。
  こんな周囲に取り囲まれた三沢は、身体の回復するに従って、「あの女」
 に対する興味を日に増し加えて行くように見えた。自分が已を得ず興味
 という妙な熟字を此処に用いるのは、彼の態度が恋愛でもなければ、又全
 くの親切でもなく、興味の二字で現すより外に、適切な文字が一寸見当ら
 ないからである。
                              (同25)
 「周囲に取り囲まれた三沢」は、馬から落ちて落馬したが、「あの女」という、読者には正体不明の「女」に、いや、あらゆる「女」に「興味」を持つ。「身体の回復」した証拠だろう。「興味」は、[発情]という「二字で現す」方が「適切」のようだ。
 二郎の三沢に対する、自覚されない同性愛に基づいた、妄想的、交差的なジェラシーが描かれているように見えるが、即断はできない。「彼の態度が恋愛でもなければ、又全くの親切でもなく」とあるからだ。勿論、語り手が騙りだとすれば、話は別。しかし、そのとき、作者は何者になるのか。
  始めて「あの女」を控室で見たときは、自分の興味も三沢に譲らない位
 鋭かった。けれども彼から「あの女」の話を聞かされるや否や、主客の別は
 既に付いてしまった。それからと云うもの、「あの女」の噂が出る度に、彼
 は何時でも先輩の態度を取って自分に向った。自分も一時は彼に釣り込
 まれて、当初の興味が段々研ぎ澄まされて行く様な気分になった。けれど
 も客の位置に据えられた自分はそれ程長く興味の高潮を保ち得なかった。
                              (同25)
 「先輩の態度」が気に入らないらしい。
  エゴイズムの書の同じ巻からもう一カ所引用すると、こういうのもあ
 る。「喜んで放棄したき品も、進んで譲るとなれば苦痛あり」
              (メレディス『エゴイスト』14、朱牟田夏雄訳)
  自分の興味が強くなった頃、彼の興味は自分より一層強くなった。自分
 の興味が稍衰えかけると、彼の興味は益々強くなって来た。
                         (『行人』「友達」26)
 「自分の興味」は、強まって、弱まる。三沢の「興味」は、ただ強まる。二人の「興味」に関係があるとは思えない。関係がないから、不愉快なのだろうか。
  自分の「あの女」に対する興味は衰えたけれども自分はどうしても三沢
 と「あの女」とをそう懇意にしたくなかった。三沢も又、あの美しい看護婦
 をどうする了簡もない癖に、自分だけが段々彼女に近づいて行くのを見
 て、平気でいる訳には行かなかった。
                              (同27)
 「興味は衰えた」とか、「どうする了簡もない」とあるのだから、「あの女」についての二郎のジェラシーは、あったとしても、なくなっている。また、もともと、二郎には、「あの美しい看護婦」という対象がある。だから、二郎が「あの女」に対する気持ちを話題にする文脈そのものが、私には見えない。
  其処に自分達の心付かない暗闘があった。其処に持って生れた人間の
 我儘と嫉妬があった。其処に調和にも衝突にも発展し得ない、中心を欠い
 た興味があった。要するに其処には性の争いがあったのである。そうして
 両方共それを露骨に云う事が出来なかったのである。
  自分は歩きながら自分の卑怯を恥た。同時に三沢の卑怯を悪んだ。けれ
 ども浅間しい人間である以上、これから先何年交際を重ねても、この卑怯
 を抜く事は到底出来ないんだという自覚があった。自分は非常に心細く
 なった。かつ悲しくなった。
                              (同27)
 「自分達の心付かない暗闘」に、いつ、どのようにして、「自分」は「心付」いたのか。あるいは、「自分達」に「自分」は含まれず、つまり、[「自分」は「心付」いたが、三沢は、まだなので、「自分達」としては、「心付かない」と言える]というのか。あるいは、[その頃の「自分」は、「我儘と嫉妬」とか「興味」とか「性の争い」などと、とりあえず、いろいろと言葉を置いてはみたが、「暗闘」という言葉には「心付かない」状態だった]という意味か。しかし、何であれ、「心付かない」ことについて、「露骨に」も何も、「云う事が出来なかった」のは、当然だろう。おかしな語り手だ。
 二郎と三沢の「性の争い」は、苦沙弥と寒月(『猫』)の間で、作者にも「心付かない」ものとして表出されていた何かだろう。そして、それは、うまく表現されているとは言えない。寒月は、苦沙弥の知らないうちに「秘密結婚」『猫』11)をしてしまう。三沢も、二郎の知らないうちに婚約(『行人』「塵労」13)している。作者は、男が結婚の意志を固める過程を想像できないらしい。津田に至っては、「この己は又どうしてあの女と結婚したのだろう」(『明暗』2)と呟く始末だ。
  自分は三沢と「あの女」が別れる時、どんな話をしたか、詳しく聞いて見
 ようと思って、少し水を向け掛けたが、何の効果もなかった。しかも彼の
 態度が惜しいものを半分他に配けてやると、半分無くなるから厭だとい
 う風に見えたので、自分は益々変な気持ちがした。
                              (同32)
 こうして、だらだらと引用を続けるのは、書かれていることが、私には、ほとんど、想像できないからだ。ここで、男達というよりは、少年達が、性的に成熟する速度を競い合い、牽制し合う様子が描かれているかのように見える。しかし、「性の争い」が少年期に限定された心理だとすれば、「これから先何年交際を重ねても、この卑怯を抜く事は到底出来ない」という言葉が、何を語っているのか、分からなくなる。
 「心付かない暗闘」とは、何か。「中心を欠いた興味」の「中心」に静がいれば、「暗闘」に「心付」くことができるようになるのだろうか。
  あの男こそは彼を利己的自我と恋愛の自我と、ほぼ相等しい二つの部
 分に分断した最初の男だった。
             (メレディス『エゴイスト』47)、朱牟田夏雄訳)
 三沢と二郎の「性の争い」は、意外なほど、簡単に終息する。
  「又会う」
  自分は「あの女」の為に、又「その娘さん」の為に三沢の手を固く握った。
                         (『行人』「友達」33)
 二郎の気持ちは、どうして変わってしまったのだろう。語り手である二郎は、その経緯を明らかにしない。
  「結婚式は何時だい」
  「ことによると向うの都合で秋まで延ばすかも知れない」
  彼は愉快らしかった。彼は来るべき彼の生活に、彼の有っている過去の
 詩を投げ懸けていた。
                         (『行人』「塵労」16)
 三沢が「過去の詩を投げ懸けていた」ということを、なぜ、二郎が知っているのか、私には分からない。単なる想像だろうか。想像の中でも、「愉快」に見える三沢に対して、二郎は「性の争い」を始めないらしい。しかし、三沢の結婚式の場面を、作者は描かない。二郎も、自分の結婚に二の足を踏む。この状態で、『行人』の時間は停止する。彼らの未来の「生活」は、「過去の詩」の反転したものに過ぎないからだ。「過去の詩」とは、言うまでもなく、[三沢と「あの娘さん」の物語]を指す。三沢は、[私は、φに愛される]という、根拠の薄い期待を抱いている。二郎も、そんな期待を持とうとしているが、体験的な根拠はないので、結婚に乗り気になれない。「嫂」との関係で、[女は、φに愛す]という文を手に入れているだけだ。「詩」を信じる三沢と、信じない二郎と、どちらが実際的なのか、即断は難しい。
 二郎の文から三沢の文へ向かう、薄弱な期待の矢の射手を探せば、一郎だろう。その矢は、「幸福は嫁に行って天真を損なわれた女からは要求出来るものじゃないよ」(同「塵労」50)という弓から放たれたらしい。そして、その矢の名を、「興味」というのかもしれない。
 『行人』は、表現としては、二郎の文から三沢の文へ向かう、未来への期待の物語だ。しかし、表出としては、「過去」を向いている。『行人』が絶望の書なら、物語は明瞭だ。しかし、そうではない。作者は、「過去の詩」を時間的に反転させた未来への希望を失っていない。だから、物語は擱座する。
 三沢にとって、「過去」の体験が「詩」であるのは、彼の体験が貧弱だったからだ。この貧弱さは、一郎の貧弱さが二郎を経由して、三沢に受け継がれている。[一郎→二郎→三沢]という順番。名前の頭に付いた漢数字も、表出的なものだ。この表出が表現になれば、[三沢は、二郎のようになり、一郎のようになり、絶望して、死ぬ]という物語になる。表現的には、「この眠から永久覚めなかった」(同「塵労」52)というのが、結末になる。しかし、『行人』は、表出であるために、「この眠から永久覚めなかったら」(同52)というように、仮定で終わる。作者は、自分が何を書いているのか、知らないはずだ。
 [二郎の語る/三沢の物語]における「興味」は、[三沢の語る/三沢の物語]を通過し、[二郎の語る/一郎の物語]に持ち越されるが、二郎は退場させられ、語り手がHに変わる。[Hの語る/一郎の物語]でも、「興味」の謎は解けない。[一郎の語る/一郎の物語]で、ようやく、「お貞さんは君を女にしたようなものだ」(『行人』「塵労」49)という文が浮上する。この文は、[三沢の語る/三沢の物語]における「あの女の顔がね、実はその娘さんに好く似ているんだよ」(同「友達」33)という文の変奏だ。そして、[一郎の語る/一郎の物語]は、この文で擱座し、後を引き受けたHがそそくさと店を畳む。
 作者は、[私は、φに愛される]という文を抱いてさまよう。作中の男達にとって、「興味」とは、「あの女」が「あの娘さん」を経由して「あの美しい看護婦」に変わる期待のことでなければならない。ところが、作者は、[三沢と「あの女」の心中未遂もどき](同20)から、[「あの女」の死の予感」(同31)を経て、[「あの娘さん」の死]という順番で、絶望を表出する。
 三沢と二郎の間で、また、二郎と一郎の間で「性の争い」が生じるのは、「あの女」と「あの娘さん」と「あの美しい看護婦」が、時空の異なる物語では、同一人物だからだ。あるいは、「嫂」と「お貞さん」が同一人物だからだ。「調和にも衝突にも発展し得ない、中心を欠いた興味」とは、『行人』の内部では合成不能の一人の女性の不在を暗示している。この女性が登場しない限り、[男達の物語]に「発展」はないらしい。「男同志で永久に話を交換しているならば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎない」(79)という、意味不明の台詞の原典は、『行人』にあるようだ。
//「猛烈な兇行」
 須永は、千代子を愛していないのに、なぜ、「嫉妬」するのか(『彼岸過迄』「須永の話」35)と問われ、窮する。同時に、作者も窮した。そして、突如、語り手を交替させる。しかし、代わって登場した松本にも、話は発展させられない。
 一郎の妻には、一郎が空想する不倫相手はいない。願望としてさえ、不倫相手は実在しない。ところが、一郎は、妻と二郎が、自覚しないままに愛し合っていると思っているようだ。三四郎と美禰子の場合も、そんなふうだったのか。無自覚の恋愛というものを重要視するのなら、一郎のジェラシーにも意味はある。しかし、そうまでして、理由を探す執念の方を、先に問題にすべきだろう。もしかして、[妻が夫を愛さない理由は、不倫にしかない]という前提があるとすると、一郎の言葉を追跡することは、常人には不可能だろう。
  或女に意のあった或男が、その婦人から相手にされないのみか、却って
 わが知り合の人の所へ嫁入られたのを根に、新婚の夫を殺そうと企てた。
                     (『彼岸過迄』「須永の話」27)
 この物語は、殺人という「猛烈な兇行」(同28)を含む。作者は、この物語とは、直接の関係にはないはずの「須永の話」を、「嫉妬」の例として語る。意図不明。
  僕は初めて彼の容貌を見た時から既に羨ましかった。話をする所を聞
 いて、すぐ及ばないと思った。それだけでもこの場合に僕を不愉快にする
 には充分だったかも知れない。けれども段々彼を観察しているうちに、彼
 は自分の得意な点を、劣者の僕に見せ付ける様な態度で、誇り顔に発揮す
 るのではなかろうかという疑が起った。その時僕は急に彼を憎み出した。
                              (同16)
//「形にならない嫉妬」
  落ち付いた今の気分でその時の事を回顧して見ると、こう解釈したの
 は或は僕の僻みだったかも分らない。僕はよく人を疑ぐる代りに、疑ぐる
 自分も同時に疑がわずにはいられない性質だから、結局他に話をする時
 にも何方と判然した所が云い悪くなるが、若しそれが本当に僕の僻み根
 性だとすれば、その裏面には未凝結した形にならない嫉妬が潜んでいた
 のである。
                     (『彼岸過迄』「須永の話」16)
 「解釈」の動機に過ぎない「僻み」と「形にならない嫉妬」の、どちらが「裏面」で、表面なのか、問題にしても無意味なのかもしれないが、どちらが主な要因なのかは、問題にしなければ、意味がないと思う。しかし、須永の言う「僻み」も「嫉妬」も、私の知っている意味とは違うようなので、問題にしようがない。
 須永は、[他人を疑うことは、悪い]という前提で語っているらしい。しかし、彼は、子供のときに、[知らない人について行っちゃ、いけませんよ]と、教えられなかったのだろうか。作者は、どうか。
 この語り手は、須永のキャラクタ設定よりも深く病んでいるようだ。彼は、[信頼できる他人がいない]という状況を、[他人を信用できない]という「性質」として語っている。この種の韜晦は、「気取り過ぎたと云っても、虚栄心が崇ったと云っても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います」(85)という、不可解な弁明と無関係ではなさそうだ。作者は、自分に[信頼できる他人]がいないことを、自分の恥と誤認し、隠蔽しようとしているようだ。[率直に意見を交換することは、基本的に不可能だ]と思い込んでいて、その思い込みがおかしいとは思いつつも、その思い込みの由来の物語を明示しようとはしない。[思い込みの由来の物語]を明示するのに先立ち、須永は、思い込みを誰かと共有しなければならないと思うらしい。実現不可能な望みだ。もしも、ある人が、その人なりに思い込みを持っていれば、その人は[信頼できる他人]の代用品になるとでも、須永は思うのだろうか。だが、その相手も、また、他人を疑ったり、自分を疑ったりと、頭の中が多忙なので、顔を合わせても、にらめっこが始まるだけだろう。
  今までの彼は嫉妬を知らない。嫉妬などは縁のない悪魔、卑俗な連中の
 のろわれたおなじみくらいに見ていた。運のない奴らはこの病気にとり
 つかれようとも、自分はかかりはしない。
              (メレディス『エゴイスト』23、朱牟田夏雄訳)
  僕は男として嫉妬の強い方か弱い方か自分にも能く解らない。競争者
 のない一人息子として寧ろ大事に育てられた僕は、少なくとも家庭のう
 ちで嫉妬を起す機会を有たなかった。
                     (『彼岸過迄』「須永の話」17)
  僕は普通の人間でありたいという希望を有っているから、嫉妬心のな
 いのを自慢にしたくも何ともないけれども、今話した様な訳で、眼の当り
 にこの高木という男を見るまでは、そういう名の付く感情に強く心を奪
 われた試がなかったのである。僕はその時高木から受けた名状し難い不
 快を明らかに覚えている。そうして自分の所有でもない、又所有にする気
 もない千代子が源因で、この嫉妬心が燃え出したのだと思った時、僕はど
 うしても僕の嫉妬心を抑え付けなければ自分の人格に対して申し訳がな
 い様な気がした。僕は存在の権利を失った嫉妬心を抱いて、誰にも見えな
 い腹の中で苦悶し始めた。
                              (同17)
 「僕はどうしても僕の嫉妬心を抑え付けなければ自分の人格に対して申し訳がない様な気がした。僕は存在の権利を失った嫉妬心を抱いて、誰にも見えない腹の中で苦悶し始めた」という部分は、「権利は無論有っていなかったのでしょう。私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を裏切している物欲しそうな顔付とを同時に彼等の前に示すのです」(70)という部分の[世界]になるか。
//「競争心」
  何ぶん子供のときから、自分を運命の特別な秘蔵っ子、寵児と信じて
 育って来た男なのだ。してみれば彼の呪詛は当然女性の上に落ちざるを
 えない。さもなければ彼は、貧乏詩人らがくるまって快とするのにも似
 た、夢という最後の暖い毛布を喪失することになったろう。
              (メレディス『エゴイスト』29、朱牟田夏雄訳)
  僕の高木に対して嫉妬を起した事は既に明かに自白して置いた。その
 嫉妬は程度に於て昨日も今日も同じだったかも知れないが、それと共に
 競争心は未だ甞て微塵も僕の胸に萌さなかったのである。
                     (『彼岸過迄』「須永の話」23)
 藤尾は、なせ、死ぬのか。三千代の死を、なせ、代助は「解った」(『それから』16)のか。こうした疑問は、[なぜ、静は、生ける屍のように、口と耳を塞がれているのか]という問題と無縁ではなさそうだ。
  私のことをどう申し上げたかご記憶でしょうか? 私は冷酷で物質的な
 女です。ロマンスへの信仰は捨てました。私の生涯にはずっと骸骨がつき
 まといます。それに健康もすぐれません。ただお金がほしいのです。結婚
 するとすればお金のためです。あなたを崇拝など致しません。私は重荷に
 なりますよ。それも無反応で冷やかで、とても生きた重荷とは申せませ
 ん。
                         (『エゴイスト』49)
  僕には自分に靡かない女を無理に抱く喜こびよりは、相手の恋を自由
 の野に放って遣った時の男らしい気分で、わが失恋の傷痕を淋しく見詰
 めている方が、どの位良心に対して満足が多いか分らないのである。
                     (『彼岸過迄』「須永の話」23)
 須永は、[レイプは、「良心」に反する]とでも言いたいのだろうか。あるいは、[鮪女と寝ても、面白くない]という意味か。だったら、「良心」という単語の出番がない。「靡かない女を無理に抱く喜こび」とは、何だろう。そんなものはないのに、ないはずの「喜こび」が話題になっているのだろうか。「靡かない女を無理に抱く」と「失恋の傷痕」はできないのだろうか。[できるのだが、「淋しく見詰めている」ような事態はない]という意味か。「良心に対して満足」とは、どういう状態か。そのとき、「良心」は「満足」しているのか、いないのか。「満足が多い」とあるから、「靡かない女を無理に抱く」とき、「良心に対して満足が多い」とは言えなくても、多少は「満足」があるのか。「競争」とは、「靡かない女を無理に抱く」という競争を意味するのか。「靡かない女」を靡かせる「競争」ではないとすれば、「競争」とは、何なのか。いや、こんな疑問は、無駄か。「競争」は、否定されているのだから。でも、なぜ、否定されるのか。
  男の身勝手から出る自己放棄、自己犠牲という不思議な情熱を、一人の
 女に吹きこんだのだ! 
                         (『エゴイスト』31)
 Nの全作品は、『エゴイスト』との戦いという側面を持っているように見える。勿論、その戦いは、撤退線だ。『若きウェルテルの悩み』でも援軍に呼べば別だ。Nは、「傷ましい先生」(4)が逃げ延びるための戦いを続ける。いや、戦うふりを続ける。ちょうど、Aが『杜子春』で試みたような、原典批判というか、方法的原典誤読によって、Nは、武器を捨て防具を脱ぎながら、愛されたがる幼心だけを懐に入れて、『明暗』の山中に消える。そして、作者は、[落人伝説]の主人公になる。[落人伝説]とは、「一般の世が自分が実世界における発展を妨げる」(『文芸の哲学的基礎』)という虚構だ。
  悲劇が迫っているから、あるいは悲劇が少くとも喜劇の水準からまっ
 さかさまに顛落する危険があるから、親としてその良識を見せたのだ、と
 は博士は言わなかった。結婚する男女の親というものを、劇中人物と考え
 る気は博士にはない。
                         (『エゴイスト』50)
  千代子と僕に高木を加えて三つ巴を描いた一種の関係が、それ限発展
 しないで、その中の劣敗者に当る僕が、恰も運命の先途を予知した如き態
 度で、中途から渦巻の外に逃れたのは、この話を聞くものに取って、定め
 し不本意であろう。僕自身も幾分か火の手のまだ収まらないうちに、取り
 急いで纏を撤した様な心持がする。と云うと、僕に始からある目論見が
 あって、わざわざ鎌倉へ出掛けたとも取れるが、嫉妬心だけあって競争心
 を有たない僕にも相応の己惚は陰気な暗い胸の何処かで時々ちらちら陽
 炎ったのである。僕は自分の矛盾をよく研究した。そうして千代子に対す
 る己惚を飽まで積極的に利用し切らせない為に、他の思想やら感情やら
 が、入れ代り立ち替り雑然として吾心を奪いに来る煩らわしさに悩んだ
 のである。
                     (『彼岸過迄』「須永の話」25)
 三角関係が「発展しない」理由は、須永が三角関係という「渦巻の外に逃れた」からではない。三角関係そのものが成り立っていないからだ。須永は、あるいは、作者は、あたかも、須永が「渦巻の外に逃れた」りしなければ、三角関係が激化するかのように語るが、とんでもない。須永が頑張れば、高木が驚いて離脱するかもしれないし、千代子が須永を軽蔑して離脱するかもれない。
 ここには、[「矛盾をよく研究した」結果、「煩わしさに悩んだ」ということが判明した]ということが書かれているのだろうか。あるいは、「よく研究」することと、「煩わしさに悩」むこととが、同時に起きているのだろうか。つまり、同じ状態を別の言い方で表現しているのだろうか。
 「利用し切らせない為に」というときの「為」という単語は、目的を表すのか、原因を表すのか。「利用し切らせない」というとき、「利用」をするのは、「僕」なのだろうが、では、何が「僕」を使役するのか。「他の思想やら感情やら」が「僕」を使役するのか。あるいは、「煩らわしさ」か。
 ここで、[須永は、「千代子に対する己惚」を十分に「利用」することができない]という文と、[須永は、「千代子に対する己惚」以外の「他の思想やら感情やら」に「煩らわ」された]という文を、私達は作ってもいいのだろうか。いいとして、さて、この2文は、どのような関係にあるのだろうか。「利用」困難と「煩らわしさ」の関係って、ああ、煩わしい。
 要するに、何だか、うまく行かないらしいが、その原因は、「競争心を有たない」ことにあるらしい。そして、「嫉妬心」は、「競争心」とは関係が浅く、「己惚」とは関係が深いようだ。
 松本に言わせれば、須永は、千代子を、「高等淫売」(同「報告」12)として扱っているようなものだ。つまり、彼女は、須永の「己惚」を維持するための道具だ。では、須永は、なぜ、「己惚を飽まで積極的に利用し切らせない」のだろうか。[愛されてはいるが、愛せないので、より愛されることがない]と語られているのか。[千代子が、いくら、愛を捧げても、須永は満たされない]というのか。あるいは、[千代子は、誰も愛せない]というのか。[須永が愛されていると思い込みさえすれば、ハッピー・エンドだ]という妄想、いや、妄想への憧れが述べられているのか。
//「高い塔」
  僕はこの二日間に娶る積のない女に釣られそうになった。そうして高
 木という男が苟しくも眼の前に出没する限りは、厭でも仕舞まで釣られ
 て行きそうな心持がした。僕は高木に対して競争心を有たないと先に断っ
 たが、誤解を防ぐために、もう一度同じ言葉を繰り返したい。もし千代子
 と高木と僕と三人が巴になって恋か愛か人情かの旋風の中に狂うならば、
 その時僕を動かす力は高木に勝とうという競争心でない事を僕は断言す
 る。それは高い塔の上から下を見た時、恐ろしくなると共に、飛び下りな
 ければいられない神経作用と同じ物だと断言する。結果が高木に対して
 勝つか負けるかに帰着する上部から云えば、競争と見えるかも知れない
 が、動力は全く独立した一種の働きである。しかもその動力は高木が居さ
 えしなければ決して僕を襲って来ないのである。
                     (『彼岸過迄』「須永の話」25)
 「高い塔」に上るから、飛び降りるという行動が可能になる。飛び降りるのが恐ろしければ、高い所に上らなければいい。なぜ、上るのか。
 須永は、他人の目を借りて、自分自身を非摘出子として蔑んでいる。須永は、[他人の目から見れば、自分は不当に「高い」地位にいる]と思う。そして、本来の自分を受け入れるためには、「飛び下りなければ」ならないと思う。本当は、「飛び下り」ずに、ゆっくりと降りて行けばいいのだが、降りたくないので、恐ろしい状況を想像し、降りることを困難にする。
 須永は、[自分は、不当に「高い」地位にいる]という考えを拒む。そして、[義母のために、「高い」地位を捨てるわけにはいかない]と欺瞞する。ところが、その理屈を貫徹すれば、[義母のために「高い」地位から「飛び下り」なければならない]ような場合も起こり得ることに気づかない。そのような場合とは、自分の意志とは無関係に、結婚させられることだ。
 「高木」と「高い塔」は、暗に通じる。「それは高い塔の上から下を見た時、恐ろしくなると共に、飛び下りなければいられない神経作用と同じ物だ」という文は、[位置エネルギーとは、高い位置にある物体を落下させる物理的作用だ]という文を蝶番にして、「その動力は高木が居さえしなければ決して僕を襲って来ない」という文に変換される。「動力」は、「高い塔」では物理的な高さから、「高木」については社会的な高さから、それぞれ、生じる。
 須永を社会的な高所恐怖症にしてしまったのは、義母だ。義母は、暗に、[須永の社会的地位を支えているのは、義母だ]と信じ込ませ、須永に義母の社会的地位を支えさせようと企む。彼らは共犯関係にある。作者が、そのことを明示すれば、三角関係は「発展」(同25)する。いや、『虞美人草』まで後退するか。
  新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威
 張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したから
 である。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階位
 から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさず
 に飛んで見せますと答えた。
                           (『坊ちゃん』1)
 「二階」(同1)にいるから、「そこから飛び降りる」(同1)ことになる。
  或時サローンに這入ったら派出な衣装を着た若い女が向うむきになっ
 て、洋琴を弾いていた。その傍に脊の高い立派な男が立って、唱歌を唄っ
 ている。その口が大変大きく見えた。けれども二人は二人以外の事にはま
 るで頓着していない様子であった。船に乗っている事さえ忘れている様
 であった。
  自分は益つまらなくなった。とうとう死ぬ事に決心した。それである
 晩、あたりに人の居ない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。
                        (『夢十夜』「第七夜」)
//「我儘」
  僕はこの変な心持ちと共に、千代子の見ている前で、高木の脳天に重い
 文鎮を骨の底まで打ち込んだ夢を、大きな眼を開きながら見て、驚ろいて
 立ち上った。
                     (『彼岸過迄』「須永の話」28)
 この白日夢の中の「僕」は、「ゲダンケの主人公」(同28)とは似ていない。「ゲダンケの主人公」の、真の目的は恋敵を殺すことにあるのではない。真の目的は、「或女」に対する復讐だ。須永は、自分で要約しながら、そのことに気づかないらしい。作者も、気づかないらしい。
  然し実を云うと、僕は千代子の口から直下に高木の事を聞きたかった
 のである。そうして彼女が彼をどう思っているか、それを判切胸に畳み込
 んで置きたかったのである。これは嫉妬の作用なのだろうか。もしこの話
 を聞くものが、嫉妬だというなら、僕には少しも異存がない。今の料簡で
 考えて見ても、どうも外の名は付け悪いようである。それなら僕がそれ程
 千代子に恋していたのだろうか。問題がそう推移すると、僕も返事に窮す
 るより外に仕方がなくなる。僕は実際彼女に対して、そんなに熱烈な愛を
 脈搏の上に感じていなかったからである。すると僕は人より二倍も三倍
 も嫉妬深い訳になるが、或はそうかも知れない。然しもっと適当に評した
 ら、恐らく僕本来の我儘が源因なのだろうと思う。ただ僕は一言それに付
 け加えて置きたい。僕から云わせると、既に鎌倉を去った後猶高木に対し
 ての嫉妬心がこう燃えるなら、それは僕の性情に欠陥があったばかりで
 なく、千代子自身に重い責任があったのである。
                              (同30)
 「恋」がなければ、「嫉妬」はなかろう。「嫉妬」という「名は付け悪い」はずだ。千代子の「責任」を捏造してまで、須永は何をしようとしているのか。
 須永は、「人より二倍も三倍も嫉妬深い」のに、「嫉妬心のない」ように見せかけている。あるいは、須永は、「熱烈な愛を脈搏の上に感じていなかった」だけで、つまり、自覚が不足しているだけで、本当は、千代子に「熱烈な愛」を抱いている。あるいは、千代子は因習的に須永との結婚を望んでいるだけなのに、須永はそれ以上の愛情を空想し、その愛情が満たされないと予感し、煩悶ごっこをしている。「私が従妹を愛していない如く、従妹も私を愛していない事」(60)を、須永は嘘のように語ろうとしている。須永の「己惚」は空想であり、そのことを彼自身も知っていれば、結婚に踏み切れないのは、当然だろう。
 「嫉妬心だけあって競争心を有たない」(同25)という記述は、須永の嘘か、勘違いだろう。あるいは、作者の言葉遣いが、私の知っている日本語の用例とは違っているのだろう。須永には、高木に対する対抗心はあるが、千代子へのジェラシーはない。須永は、自分より優れた継承者候補の出現に怯えるのだろう。『虞美人草』と対比すれば、[甲野:小野]=[須永:高木]であるはずだ。甲野と藤尾の結婚が不可能だったように、須永と千代子の結婚も不可能なこととして設定されている。あるいは、[養母を目的とする「嫉妬心だけあって」、千代子を目的とする「競争心を有たない」]とう記述を略したものだということに、須永はもとより、作者も気づかないのか。
//「慈母」
 千代子は、「何故愛してもいず、細君にもしようと思っていない妾に対して(中略)嫉妬なさるんです」(『彼岸過迄』「須永の話」35)と尋ねるが、須永は逃げる。彼は、どうして、次のように言わなかったのか。
  高木を媒鳥に僕を釣る積か。釣るのは、最後の目的もない癖に、唯僕の
 彼女に対する愛情を一時的に刺戟して楽しむ積か。或は僕にある意味で
 高木の様になれという積か。そうすれば僕を愛しても好いという積か。或
 は高木と僕と戦う所を眺めて面白かったという積か。又は高木を僕の眼
 の前に出して、こういう人がいるのだから、早く思い切れという積か。─
 僕は技巧の二字を何処までも割って考えた。そうして技巧なら戦争だと
 考えた。
                              (同31)
 言えない理由は、言う相手が違うからだろう。この懸念を表明すべき相手は、千代子ではなく、義母だ。須永は、そのことに気づかないからか、この懸念を抱えたまま、義母と千代子が髪を結う様子を眺めて楽しむ。作品の裏側で、和解が成立したか。全面降伏か。
  母の性格は吾々が昔から用い慣れた慈母という言葉で形容さえすれば、
 それで尽きている。僕から見ると彼女はこの二字の為に生れてこの二字
 の為に死ぬと云っても差支ない。まことに気の毒であるが、それでも母は
 生活の満足をこの一点にのみ集注しているのだから、僕さえ充分の孝行
 が出来れば、これに越した彼女の喜はないのである。が、もしその僕が彼
 女の意に背く事が多かったら、これ程の不幸は又彼女に取って決してな
 い訳になる。それを思うと僕は非常に心苦しい事がある。
                               (同4)
 子を「非常に心苦しい」思いにさせる母親を、子が「慈母」と呼んでいる。須永と千代子の結婚を、「両方共物心の付かない当時から」(同6)決めたのは、この「慈母」だ。そして、その決定が裏目に出てしまったという設定だ。「母一人で懐に抱いていた問題を、その後は僕も抱かなければならなくなった」(同6)のだから、実際問題として、須永が、まず、ぶつからなければならないのは、「母」だろう。しかし、須永は、「母」の「意」として想像すべきことを千代子の「技巧」として空想してしまう。
 [「高木の様になれ」「そうすれば」「愛しても好い」]と、須永の想像の中で、須永を脅すのは、「慈母」だ。千代子がこんなことを思うと、須永が思うのは、おかしい。勿論、現実の千代子が、このような戯けたことを口走らないとは言えないが、ここは想像だ。[千代子は、(千代子が須永を愛していることを須永は知らず、しかも、須永は千代子を愛している)と誤解し、そのうえで、千代子は事実に反することを種に須永を脅迫する]と須永は想像するというような物語は、有り得る。もしかしたら、ここはそういう話なのかもしれない。
 「御父さんが御亡くなりになっても、御母さんが今まで通り可愛がって上るから安心なさいよ」(同3)という言葉に、須永少年が「厚い疑惑の裏打をしなければならない」(同3)のは、「慈母」が仮面に過ぎないことに、須永が気づいているからだろう。あるいは、想像ぐらいはしているからだろう。その「疑惑」を「打ち明けたが最後、親しい親子が離れ離れになって、永久今の睦ましさに戻る機会はないと僕に耳語くものが出て来た」(同3)という、その「もの」とは、「母」の「意」の変形だ。「慈母」への思いは、「畏怖」(同3)に変わる。
  が、幾何勝手を云い合っても、母子は生れて以来の母子で、この貴とい
 観念を傷つけられた覚は、重手にしろ浅手にしろ、まだ経験した試しがな
 いという考えから、若しあの事を云い出して、二人共後悔の瘢痕を遺さな
 ければ済まない瘡を受けたなら、それこそ取返しの付かない不幸だと思っ
 ていた。この畏怖の念は神経質に生れた僕の頭で拵らえるのかも知れな
 いとも疑って見た。けれども僕にはそれが現在よりも明らかな未来とし
 て存在している事が多かった。だから僕はあの時の父と母の言葉を、そ
 れなり忘れてしまう事が出来なかったのを、今でも情なく感ずるのであ
 る。
                               (同3)
 この語りは、時間が逆転しているはずだ。「現在よりも明らかな未来」という言葉に、そのことが表出されている。須永は、「畏怖」を先取りしている。本当は、すでに、「取返しの付かない不幸」に陥っているのに、それを「未来」だと言い繕っている。「貴とい観念を傷つけられた覚」のない人物が、「二人共後悔の瘢痕を遺さなければ済まない瘡を受けたなら、それこそ取返しの付かない不幸だ」と恐れるという、極端から極端への心の動きのどこかに、嘘がある。[「神経質」だから、「畏怖の念」を抱く]のではなく、[常々、「畏怖の念」を抱かざるを得ないような境遇にあったから、「神経質」になった]と考える方が自然だ。
 語り手も、作者も、「畏怖の念」の生じた環境を隠蔽する。須永が「孝行」の美名によって、[「畏怖」の物語]を隠蔽、ないしは、過小評価することは、話の展開として、無理ではない。しかし、作者が隠せば、読者は、五里霧中だ。
 「母の性格は吾々が昔から用い慣れた慈母という言葉で形容さえすれば、それで尽きている」(同4)云々といった、恐れを知らぬ書き振りに秘められた怨念のようなものを読み落とせという指令が、どこからか、出ているのだろか。
//「考えずに観る」
  僅かの旅行で、僕の神経だか性癖だかが直ったと云ったら、直り方があ
 まり安っぽくて恥ずかしい位です。が、僕は今より十層倍も安っぽく母が
 僕を生んで呉れた事を切望して已まないのです。
                     (『彼岸過迄』「松本の話」12)
 「生んで呉れた事を切望」というのは、おかしい。須永は、妄想に入り込みたいと「切望」しているかのようだ。「安っぽく」どうのこうのといった場面ではない。須永は、「直って」などいない。病識を失いかけているだけだ。
 ここで、「開化の影響を受ける吾等は、上滑りにならなければ必ず神経衰弱に陥いるに極っている」(同5)というルールが生きていて、人間は「物の真相は知らぬ内こそ知りたいものだが、いざ知ったとなると、却って知らぬが仏で済ましていた昔が羨ましくって、今の自分を後悔する」(同5)ものだとしたら、須永は、「直った」のではなく、[直ることを諦めた]のだろう。
 松本宛の須永の文書に含まれた、この文が、『彼岸過迄』の、いわば、結論だろう。しかし、この文書は、敬太郎の知る須永の回復を語るものではない。敬太郎が知る以前の須永の気分が記されているのに過ぎない。だから、敬太郎の時間から見れば、[須永は、かつて、「直った」かに見えた時期があったが、実際には直ってはいなかった]という物語になる。しかし、作者に、そんな物語を作った覚えはないはずだ。楽観すれば、[須永は、一度は直りかけたのだから、直る可能性はある]とでも言おうか。しかし、そういう結論ではない。この流れは、作者の表出としてしか、意味がない。つまり、物語の中の時間の前後よりも、叙述の前後に、意味がある。
 須永の「母」への疑惑は、払拭されてはいない。疑惑が深化する以前のごまかしの時期を、須永が懐かしんでいるところだ。そして、そのような感傷、言わば[赤ちゃん返り]を、作者は肯定している。作者は、倒錯した時間においてしか、主人公の回復を想像できなかったようだ。このとき、作者こそが、「母」を「切望している」ことになる。
 そもそも、松本宛の須永の文書に、信憑性はない。「母」を疑う須永が、その背後に構える松本に、「真相」を漏らすはずはないからだ。須永は、「安っぽくて恥ずかしい位」のことを「切望して」見せることによって、松本を欺瞞し、松本を通して「母」を欺瞞したかったのかもしれない。あるいは、須永の文書は、松本の偽造なのかもしれない。松本は、敬太郎を通して、誰を欺瞞したかったのだろう。田口か。迂遠な話だ。欺瞞しているのは、作者だ。作者は、作品を通して読者を欺瞞している。このとき、作者にとっての読者とは、須永にとっての田口や松本や「母」に似た誰かだろう。
 「真相」を知ったと思わされた須永は、松本に、次のように応じる。
  「もう止します。もう決してこの事に就いて、貴方を煩らわす日は来ない
 でしょう。成程貴方の仰しゃる通り僕は僻んだ解釈ばかりしていたので
 す。僕は貴方の御話を聞くまでは非常に怖かったです。胸の肉が縮まる程
 怖かったです。けれども御話を聞いて凡てが明白になったら、却って安心
 して気が楽になりました。もう怖い事も不安な事もありません。その代り
 何だか急に心細くなりました。淋しいです。世の中にたった一人で立って
 いる様な気がします」
                      (『彼岸過迄』「松本の話」6)
 須永の恐れには、根拠がある。ところが、作者は、それを打ち消し、反対に、「淋しい」という方向に話を進める。須永の感じる淋しさは、「真相」を不十分にしか知らされることのない犠牲者に特有の諦念だ。ここでは、[松本-須永]に偽装された情報は、[φ-須永]となる。[須永の「解釈」は、「僻んだ」もの]として、無情にも退けられ、[須永-φ]にもなる。その結果、松本の「御話」が「真相」の名に値するのかどうか、確かめることは不可能になってしまう。[須永は、親子の秘密を知っている]という事実を、須永は語れない。だから、須永は、松本以外には、「母」に対してさえ、無知を演じなければならない。須永は、松本によって生活空間から隔離され、松本の精神的奴隷にされたようなものだ。
 「観る」は、なぜ、[見る]と表記されないのか。何を仄めかしたつもりか。所詮、[愚に似た賢/を演じる逃避]に過ぎまい。しかし、須永の逃避を表現したつもりは、作者にはあるまい。困ったものだ。
 須永の淋しさや恐れは、作者が「安心」を急いで「安っぽく」落ちを付けたせいで、その根拠が隠蔽される。勿論、同時に、作者も、その根拠を見失う。だから、「世の中にたった一人で立っている様な気がします」という、須永の気分は処理されず、「何処からも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事も能くありました」(107)というような、正体不明の「寂寞」(107)として表出されることになる。
 須永の恐れは、『こころ』では、静ママに「断られるのが恐ろしい」(71)という、Sの予想から出発し、Kという妄想的な迫害者によって「恐ろしさの塊り」(90)にS自身が変身させられた後、「冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさ」(103)というように、何やら、普遍的、決定的なものとして表現されることになる。しかし、『こころ』は、表出としては、別のことを語っていて、しかも、表出としてしか、物語は持続しない。
 別のこととは、「母が僕を生んで呉れた事を切望して已まない」という、未熟な文に代表される物語だ。Kは、静ママの息子の座をSから奪いかねない、仮想の敵として、登場する。Sに殺されるKは、静ママによって養育を拒まれそうなSの代理人だ。つまり、[Sは、静ママに「断られる」]という物語を明示せずに否定するために、静ママに「断られる」人物として、Sが自己自身から分離し、排除しようとした、自己の一部の擬人化された姿、それがKだ。
 Sの表出と、作者の表出とは、重なり、区別できない。語られるSの「頭の中の現象」(67)としての[語られるSの語る/Sの物語]と[語り手Sの語る/Sの物語]と、作品としての「遺書」は、分離できない。しかも、Pが裂け目を隠す。
//「普通の人間」
  僕は普通の人間でありたいという希望を有っているから、嫉妬心のな
 いのを自慢にしたくも何ともないけれども、今話した様な訳で、眼の当り
 にこの高木という男を見るまでは、そういう名の付く感情に強く心を奪
 われた試がなかったのである。
                     (『彼岸過迄』「須永の話」17)
 須永は、[「普通の人間」は、「嫉妬心」を持たない]というのか。あるいは、[「普通の人間」は、「嫉妬心」を持たないだけでなく、「嫉妬心のないのを自慢」しない]というのか。あるいは、[「普通の人間」は、「嫉妬心」を適度に持っているが、須永は「嫉妬心」を持っていないから、「普通の人間」ではない]というのか。
 須永は、「普通の人間でありたいという希望を有っている」わけだから、[須永は、「普通の人間」ではない]と思っているはずだ。一方、常識的には、[「普通の人間」は「嫉妬心」を持っている]はずだ。須永が「普通の人間」ではない理由は、「嫉妬心」を持たないからか。あるいは、理由はそれだけではないのか。それだけではないとしたら、決定的な理由が、別にあるのか。
 「普通の人間」ではない須永にも、「普通の人間」と同じ「嫉妬心」があるのなら、「嫉妬心」は、須永と須永以外の人間を比べる地平になる。ところが、須永と「普通の人間」を比べる地平は、読者に与えられていない。だから、須永が何を語ろうと、その全部が怪しいことになる。「普通の人間」なら、「嫉妬心」を話題にする前に、結婚したくない女性との接触を断つはずだ。顔を見るのもいやになるはずだ。「須永の話」全体が、嘘で固められているとしか、考えられない。
 須永は、「普通の人間」とは違う。その違いは、「普通」の状態から逸脱することによって生じた結果ではない。「普通の人間」との隔たりを埋めようとして、「普通の人間」を模倣し、模倣し損ねた結果だ。そんなものは、「普通の人間」には、想像できない。
 ところで、[須永は、「普通の人間」ではない]というのは、本当だろうか。須永は、[自分は、「普通の人間」ではない]と思い込んでいるのではないか。その思い込みを捨ててしまえば、「普通の人間」なのではないか。
 もし、そうであれば、誰かが、須永に妙な思い込みを持たせたはずだ。[おまえは、「僻み根性」(『彼岸過迄』「須永の話」16)の持ち主だ]と示唆したのも、その人物だろう。須永が持っているのは、「僻み根性」でもなく、「嫉妬心」でもない。「猜疑心」(69)か、「狐疑」(72)か、あるいは、怨恨。


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