『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#083[世界]43先生とA(33)「猛烈」

//「自然」
 代助が三千代を愛していたという、代助の発見(『それから』13)は、記憶が事実だったとしても、特別な意味を認めることはできない。作者は、[代助による「二人の間に燃る愛の炎」(同13)の発見]が、あたかも、[三千代による「二人の間に燃る愛の炎」の持続]と同一のものか、もしくは、類似のものであるかのように語る。「代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した」(同14)とか、そんな不合理な展開が可能なのは、代助が平岡に三千代を「周旋」(同16)したことの反「自然」(同13)に不合理が吸収されるかのように、作者が錯覚しているからだろう。このことを裏返せば、[代助は、「自然」に反するような行動を取ることによって、初めて、平岡を羨望するような状況を作り出し、結果的に、「恋愛」に対して「猛烈」(88)になることができた]という話になる。かつては、自覚することさえできないほど微弱だった恋慕が、羨望によって増幅されたようだ。つまり、「恋愛」は発見されたのではなく、羨望によって増幅されて「猛烈」になり、その結果、自覚できるようになるわけだ。あるいは、代助は、羨望して、「猛烈」になるために、「周旋」をした。そして、作者は、この流れに乗って、夢見るように語る快感を覚えた。
 代助が発見したのは、彼が微弱な段階で恋慕を自覚し、それを三千代とともに、うまく発展させられた場合の未来の[代助と三千代の「恋愛」の物語]だったはずだ。しかし、それは、発見というよりは、想像であり、作者に引きつけて言えば、創作だ。代助は、あり得たかもしれない自分の登場する作品を読むように、自己を発見する。作者は、そんな代助の登場する作品を創造する。
  が、最後に、自分をこの薄弱な生活から救い得る方法は、ただ一つある
 と考えた。そうして口の内で云った。
  「やっぱり、三千代さんに逢わなくっちゃ不可ん」
                          (『それから』11)
 [代助は、あたかも、利己的に行動しているようでいて、無意識に、「自然」に即して行動している]という物語を、読者は、自前で作らなければならないのかもしれない。ただし、その物語を、「世間の小説に出て来る青春時代の修辞」(同14)で綴ってはならないらしい。難しいぞ。
//「発見」
  いくら彼の頭が偉い人の影像で埋まっていても、彼自身が偉くなって
 行かない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。私は彼
 を人間らしくする第一の手段として、まず異性の傍に彼を坐らせる方法
 を講じたのです。そうして其所から出る空気に彼を曝した上、錆び付きか
 かった彼の血液を新らしくしようと試みたのです。
  この試みは次第に成功しました。                                                 (79)
 Sは、また、大変な「発見」をしてしまったものだ。しかし、残念なことに、その「発見」を、Kに告げることはできない。だから、Kを「人間らしくする」ことにしたという。この展開は、私には追跡できない。Sは、なぜ、「発見」そのものを、Kに告げないのだろうか。「偉く」なることと「人間らしく」なることの関係が不明だからだ。この二つの言葉の指す状態は等質だというコンセンサスが、SとKの間で得られていれば、Sは、自分の治療方針をKに明示できたはずだ。しかし、そのようなコンセンサスは得られていないばかりか、得られそうにもないことが、旅行中の談話(85)によって、明白になる。語り手Sは、あたかも、この時点で「人間らしい」(85)という「言葉を創造した」(85)かのように語るが、作者の時間では、旅行前の記述で「創造」してから、旅行中に実験するという流れになる。
 さて、[「彼の頭が偉い人の影像で埋まって」いるから、「彼自身が偉くなって行かない」]という文を、私は作っていいのだろうか。いけないと思う。なぜか。Sは、「彼の頭が偉い人の影像で埋まって」いることを批判したくないからだ。Kの[「偉い人の影像」収集癖]と、「要らない」(71)本を買い込む、Sの性癖とは、等質のものだ。Sは、自己批判を経ずに、Kをどうかしたがっている。Sだって、十分に「人間らしく」なっていないことに気づいていない。この場面は、病院の廊下で、古手の病人が入院したばかりの患者を相手に、お医者さんごっこを始めるようなものだ。重篤なのは、Kではない。Sだ。Kなら、きちんと話し合いをするうちに、自覚することもありそうだが、Sは、確信犯的な嘘つきらしいから、¨話し合いで治る見込は薄い。何とか、言い抜けようとするはずだ。
//「男同志」
  私は彼に、もし我等二人だけが男同志で永久に話を交換しているなら
 ば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうと云いました。
 彼は尤もだと答えました。私はその時御嬢さんの事で、多少夢中になって
 いる頃でしたから、自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。然し
 裏面の消息は彼には一口も打ち明けませんでした。
                               (79)
 何が「尤もだ」なんだろう。「男」が「我等二人だけ」ではなく、三人、四人となる場合は、なぜ、考慮されないのか。「直線的に先へ延びて行く」とは、何の比喩か。「直線」でなきゃ、曲線で「延び」たいのか。何だか知らないけど、何かが「尤もだ」から、何なのか。「御嬢さんの事で」云々とあるが、それはSの気持ちであって、ここでKが了解したらしい「男」ではない存在、つまり、「女」は静のことを指していると、Sが思う理由はない。では、誰のことか。静ママか。一般論か。
 この時点で、「性の争い」(『行人』「友達」27)が「裏面」で始まっているのかもしれない。「裏面の消息」だとか、「深い意味」(84)だとか、こんなの、真意を隠すための言葉のモザイクとしか思えない。
 ここで、作者は、「中心」(『行人』「友達」27)を提示したつもりか。「中心」とは、静。[Kがφを好けば、SはKを許す]という文と、[Kが静を好けば、SはKを許さない]という矛盾したような文が、静という「中心」を得ると、「直線」ではなくなり、回転でも始めるのか。回転すると、何か、良いことが起きるような気がしていたが、意外にも、悪いことが起きてしまいそうだと思って、私達は、ここらを、はらはらしながら読むことになっているのか。
//「柔らかい空気」
  私は御嬢さんの事をKに打ち明けようと思い立ってから、何遍歯掻ゆ
 い不快に悩まされたか知れません。私はKの頭の何処か一カ所を突き破っ
 て、其所から柔らかい空気を吹き込んでやりたい気がしました。
  貴方がたから見て笑止千万な事もその時の私には実際大困難だったの
 です。
                               (83)
 おや、「この試みは次第に成功」(79)しつつあったはずなのに、「大困難」になっているぞ。「柔らかい空気」は、「異性」(79)から出るのではなく、「御嬢さんの事」から出るらしいから、話が違うのかもしれない。Kが、静母子の醸し出す雰囲気に酔って、どうにかなるという話(79)は、想像できなくはない。しかし、「御嬢さんの事」という言葉は、茫漠としている。
 ここで、「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました」(83)という文を参照すれば、「御嬢さんの事」は、「自分の心」と同値らしい。二つの言葉を合成すれば、[静に対するSの気持ち]といった意味になろうか。
 ここで、[Sが静に対するSの気持ちをKに語れば、Kは回復する]と作文して良いのだろうか。しかし、この文が正解だとしても、この文が何を語っているのか、私には分からない。[Sが静に対するSの気持ちをφに語れば、Sは回復する]という文なら、分からなくもない。そして、この文を語るのは、誰でも良い。つまり、作者と区別する必要のない、匿名の語り手さえいれば、十分だ。
 [Sの語る/SとKの物語]の「主意」(86)は、[語られるSは、Kの回復を願う]というものだ。しかし、[SとKの物語]は、表出としては、「遺書」全体の主題である、[Sは、Sの回復を願う]という文の変奏に過ぎないと想像される。そのとき、[Kは、Sの聞き手候補として導入され、検討の結果、不適と見做され、消去される]という流れが見えて来る。消去法によって、最後に発見されるのは、言うまでもなく、静ママだ。
 さて、P達から「見て笑止千万な事」とは、何か。形式的に見て、適当な言葉は見当たらない。[「打ち明け」られないこと]か。もし、そうだとすると、[Sが静に対するSの気持ちをKに語ること]の不能のようだ。しかし、ここで、Sがそのようなことを語らなければならないと思う理由は、私には、どうも、理解できない。Kへの告白は、「大困難」である前に、不必要だろう。ここでは、作者にとって、[Sと静の「ロマンス」(12)]を具体的に語ることが「大困難」だという事実が隠蔽されているのではないか。「艶っぽい話題になると、正直に自分を解放するだけの勇気がない」(12)という嘘の反復に過ぎまい。
 「笑止千万な事」とは、「実際」には、[Sが静に対するSの気持ちをKに語れば、Kは回復する]という、空想の物語を指すはずだ。作者は、この物語が不合理であることに気づいているのかもしれない。しかし、この物語を捨てられない。この物語を捨てれば、[「侮蔑」(84)にも耐え得ないSが、いっちょまえに、Kを回復させようとする]という、「笑止千万」な物語が剥き出しになるからだ。
 もともと、「貴方がたから見て笑止千万な事もその時の私には実際大困難だった」という文は、時間を無視すれば、常識を語っているのに過ぎない。この文は、[何事も、Kから「見て笑止千万な事」なら、「その時」のSには「実際大困難だった」]という文の偽装されたものだろう。
//「道学の余習」
  今から思うと、その頃私の周囲にいた人間はみんな妙でした。女に関し
 て立ち入った話などをするものは一人もありませんでした。中には話す
 種を有たないのも大分いたでしょうが、たとい有っていても黙っている
 のが普通の様でした。比較的自由な空気を呼吸している今の貴方がたか
 ら見たら、定めし変に思われるでしょう。それが道学の余習なのか、又は
 一種のはにかみなのか、判断は貴方の理解に任せて置きます。
                               (83)
 「何時妻を迎えたのかと云ってわざとらしく聞かれる」(71)ことは、「立ち入った話」ではないらしい。
 語られるSにとって、「道学」の権化のようなKが相手なら、ここで、「道学の余習」を云々しても、無効だろう。語り手Sにとっても、聞き手のP達のために、これ以上、「笑止千万」(83)な話を続ける必要もあるまい。Sは、いや、作者は、なにをしているところか。
 SとKの付き合い方が特殊なものでなく、「周囲」と同じものであるのなら、[SとKの物語]は成り立たないはずだ。だから、ここで、「周囲」について、Sが語ってくれても、SとKにおける事情を知らされたことにはならない。そもそも、SとKには、「周囲」など、ないはずだ。
 現代でも、「女に関して立ち入った話などをするもの」は、多くはいない。少なくとも、そのような話を好んでするのは「妙」だと思われているはずだ。語り手Sは、Pの世代が性的に解放されたと誤解していたのだろうか。当時、一部の小説家が性愛を題材にした作品を発表していて、SやPの住んでいるのは、そうした文芸的空間なのだろうか。あるいは、作者は、この空間を現実のものと混同していたか。逆に、混同したふりをして恋愛について語ることを知的な何かであるかのように見做す書生気質が揶揄されているところか。
//「切ない恋」
  女性について愚鈍なまでに無知な男の、間の抜けた理想化論は、ほかの
 ときなら途方もないですんでも、今は迷惑である。考えられないクレアラ
 の権威失墜につけこんで、おそらくこの男は主人たる自分に説教を試み
 るだろうし、婦人の権利についての弾劾演説だってやってのけそうだ。な
 にぶん女性にも常識だけで対話すると、平気で口にしている男なのだ。
              (メレディス『エゴイスト』29、朱牟田夏雄訳)
 驚くべきことに、いや、驚かなくてもいいが、Sにとって、[Kは、静を好く]という物語は、無に等しいはずだ。Sが、[Kは「御嬢さんを、物の数とも思っていないらしかった」(81)]などと記すからだ。Kの「第一信条」(95)が「慾を離れた恋そのものでも道の妨害になる」(95)などいった一般論のせいではない。
 ところが、Kの「自白」(91)の後、ご丁寧に、Sは次のように証言する。
  私には第一にKが解しがたい男のように見えました。どうしてあんな
 事を突然私に打ち明けたのか、又どうして打ち明けなければいられない
 程に、彼の恋が募って来たのか、そうして平生の彼は何処に吹き飛ばされ
 てしまったのか、凡て私には解しにくい問題でした。
                               (91)
 おいおいって感じ。じゃあ、何で、Sは、いじいじしてたんだよ。私には、語り手Sの方が、よっぽど、「解しがたい男」に見える。Sが「解しがたい」とか「解しにくい」とか、連発していると、読者が[えへん。俺様なら、解せるぜ]とでも思うかと、作者は思ったのかな。
  或時はあまりにKの様子が強くて高いので、私は却って安心した事も
 あります。そうして自分の疑を腹の中で後悔すると共に、同じ腹の中で、
 Kに詫びました。詫びながら自分が非常に下等な人間のように見えて、急
 に厭な心持になるのです。然し少時すると、以前の疑が又逆戻りをして、
 強く打ち返して来ます。凡てが疑いから割り出されるのですから、凡てが
 私には不利益でした。
                               (83)
 Sが抱き続けて来た「疑い」とは、何だったのか。「凡てが疑い」であるところの、Sの想像以外、Kの「恋」を想像する手掛かりはないのに、そのSが、Kの「恋」を「解しにくい問題」だって言っちゃったんだよ。私は、ずっと、Kの「恋」が作者によって描かれないことに耐えて来たが、見事に裏切られた。
 作者にとって、「解しがたい」のは、Kの「恋」ではなく、「恋」一般であり、その事実を伏せるために、Kの「恋」を話題にしているのだろう。
  彼の口元を一寸眺めた時、私はまた何か出て来るなとすぐ疳付いたの
 ですが、それが果して何の準備なのか、私の予覚はまるでなかったので
 す。だから驚ろいたのです。彼の重々しい口から、彼の御嬢さんに対する
 切ない恋を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい。
                               (90)
 『4分33秒』(ジョン・ケージ)を「想像して見て下さい」
 冗談じゃない。『牛の首』(小松左京)じゃあるまいし、「想像」なんか、できるもんか。できたとしたら、Pは、自分の「想像」を、Sの「経験」(110)だと勘違いしても構わないことになる。物語を読者に作らせるのなら、民話の「石のスープ」みないなペテンと同じではないか。
 語り手Sは、「彼の御嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私」の気持ちを「中てて見ろと仕舞に云うのです」(88)
 Sは、Kの「自白」(90)について、「細かい点になると殆んど耳へ入らないと同様」(90)だと記すが、読者は、「細かい点」どころか、Kの「言葉の調子」(90)以外、どんな情報も与えられない。作者は、読者がどんな「想像」をすると思っているのか。Pには「想像」できるのかもしれない。しかし、Pがどんな「想像」をするのか、私には想像できない。もしかしたら、「不意撃に会ったも同じ」(91)ような気分を「想像」すればいいのかもしれない。すると、話は、[Sは、Kの「自白」を信じない]という方向に展開するはずだ。
 語り手Sの顔を立てて、[Kの語る/Kが静を恋する物語]を聞いたことにしてもいい。しかし、その次に、語り手SがKの話の真偽を疑って、また、その次に信じるというような話を、どうやって追跡したらいいのか。
 私は、むしろ、「凡ては疑い」という状況に引き戻した方がいいと思う。つまり、Kは「自白」しなかったと考える。Sが「自白」されたような気になっているだけだ。「疑が逆戻りをして、強く打ち返して」は、「一寸安心した私はすぐ元の不安に立ち返る」(83)といった状態が、Kの死後も続いていると考えても、話の筋は通る。だから、動機は不明のまま、Kは自殺をする。
  必要な事はみんな一口ずつ書いてある中に御嬢さんの名前だけは何処
 にも見えません。私は仕舞まで読んで、すぐKがわざと回避したのだとい
 う事に気が付きました。
                               (102)
 Kの「自白」の内容が別の話題なら、「御嬢さんの名前だけは何処にも見え」ないのは当然だろう。しかし、語られるSの耳には、[Kは、静に恋する]と聞こえた。あるいは、そのように聞いたものとして、語り手Sが回顧する。あるいは、偽造する。偽造するとしたら、作者が偽造するのだろう。作者は、[Kが静を恋する物語]を[世界]にして、「恐ろしさの塊りと云いましょうか、又は苦しさの塊りと云いましょうか、何しろ一つの塊り」(90)のようなものを表出した。同時に、「石か鉄のように頭から足の先までが急に固く」(90)なるような体験の回顧を恐れた。作者自身の「化石」(90)を埋め戻した。
//「恋」
 「意志弱行」(102)の人が「普通の人」(76)と同じ程度に「強い人」(76)に変わったとしたら、「成功」(78)したと言える。日本で育った人が、英国で育った「普通の人」と同じ程度に英語をマスターできたら、「成功」したと言える。「母のない男」(75)が「普通の人」と同じように「恋」(90)を得ることができたら、「成功」したと言える。しかし、そうした可能性は薄い。だから、Kの「恋」は「切ない」(90)と形容されるのだろう。
 日本語の「恋ふ」は、相手に心を引かれる思いをいう。相手が実際に自分に働きかけていなくても、働きかけられているかのような感じ、受動的な気持ちだ。「その信念が先生の心に好く映る」(17)とか、「乗り移って来る」(68)とか、「釣り込まれて来る」(76)とか、「女の胸にはすぐそれが映ります」(106)という言い回しも、受動的な気持ちの表現だ。
 もし、「懐かしみ」(4)という言葉を遣わず、[親しみ]とか、[慕情]などと記せば、その途端に、PはSを訪問しなくなるはずだ。「恋」と書かず、「専有」(86)と書いたので、Sには、することがなくなる。
 Sは、「嫉妬は愛の半面」(88)と記す。「半面」が[反面]の誤記でないとすれば、[残りの「愛の半面」]は、何でできているのか。「愛」が「ぴたりと一つ」(108)になった状態だとすれば、[残りの「愛の半面」]は、[「ぴたりと一つ」にならせてほしい]という気持ち、つまり、「恋」でできているのではなかろうか。人が能動的に「愛」を成就させようとするとき、その気持ちは、「色気」(61)と呼ばれて、「恋」とは区別されるのではなかろうか。
//「先を越されたな」
 静への「切ない恋」(90)を聞かされたSは、「先を越されたなと思いました」(90)という。この感想は、何事か。[静への「恋」の物語]が、[K-S]と[S-K]のどちらが「先」か、そんなことは、まるで、問題にはならない。まず、聞かせる相手が違う。しかし、聞かせる相手が静ではなくても、[K-静]と[S-静]と、どっちが「先」か、順番を争う必要はない。「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛していたのだよ」(『それから』16)なんて台詞がおかしく感じられないのは、「周旋」(同16)という条件があったからだ。
 また、[静への「恋」の物語]は、[K-S]と[S-K]では、内容が違うはずだ。つまり、[K(K/K,静)S]と[S(S/S,静)K]とでは、中身が違う。
 静母子への疑いによって「絶体絶命」(69)になっていたSは、その状態を打破するために、Kを導入する。Sは、Kのミミックだからだ。静ママに育て直されたSは、Kも同じように育て直されたら、静に対して、どう振る舞うか、実験する。Sは、Kを実験台にして後追いし、良い所だけ、掠め取る気だった。ところが、[石橋渡り](87)で正面衝突してしまう。[Sは、Kに、自分の前を歩かせたい]という物語と、[Sは、Kに、自分の前を歩かせたくない]という物語が、初めて、ぶつかる。こんな理不尽な欲求は、明示できないだけでなく、自覚するのさえ、難しい。もともと、前者の物語は、Sの複雑な心理が作り出したものだ。本当は、この物語を解体しさえすれば、問題は消える。しかし、Sは、この物語を解体したくない。その代わり、後者の単純な物語を前者の複雑な物語にぶつけて、両方とも粉砕してしまう。その結果、前者の物語など、なかったかのようなふりを始める。
 [Kは、「過去が指し示す路を今まで通り歩かなければならなくなる」(97)]ということを、語られるSは「見抜いていた積り」(97)だという。ところが、語られるSだけではなく、語り手Sまでもが、[Sは、「卑怯だ」(96)]とか、[Sは、Kに対して「倫理的に弱点をもっている」(101)というように話を矮小化し、[Sは、Kのミミックだ]という物語を隠蔽するので、妙な展開になる。つまり、自殺によって撤収されたはずの「Kの歩いた路」(107)を、「冷たくなったこの友達によって暗示された運命」(103)として、勝者であるはずのSが、無自覚に模倣することになる。
 語られるSは、語り手Sの時間に追いついても、まだ、Kのミミックだ。しかし、語り手Sは、自分の「倫理上の考」(66)は「損料着ではありません」(56)と主張する。一方、「倫理的に暗い」(56)のだそうだ。意味不明。「矛盾な人間」(55)だともいう。これも、意味不明。意味不明の自己紹介文の頻出は、ミミックでありながら、そのことを認めたくないので、ミミックであり続けるしかない主体の感じる「矛盾」の表出だろう。そして、この「矛盾」は、近代日本人が、近代西洋人のミミックでありながら、そのことを認めまいとする「矛盾」として、仄めかされているのかもしれない。そして、こうした「矛盾」を明示せずに、「こっそり」(110)と始末するために、「明治の精神に殉死する」(110)という意味不明の空想が語られることになるのだろう。
  第三、躰々の先、敵はやくかゝるには、我静かにつよくかゝり、敵近く
 なって、づんと思ひきる身にして、敵のゆとりのみゆる時、直につよく勝
 つ、又敵静かにかゝる時、我身うきやかに、少しはやくかゝりて、敵ちかく
 なりて、ひともみもみ、敵の色に随ひ、つよく勝つ事、是躰々の先也。
                     (宮本武蔵『五輪書』火の巻)
 語られるSは天性の「策略家」(69)なのに、語り手Sは、そのことを隠している。あるいは、「悩乱して」(57)いるので、思い出せない。あるいは、作者が読者を翻弄している。可能性は、この三つしかないと思う。
 Nの作品の主人公達は、自分を窮地に追い込み、「破裂」(『明暗』102)する。東映のヤクザ映画のパターンだ。その前にどうにかしようと思えばどうにかなりそうなものだが、「破裂」を正当化するための我慢だから、どうもしない。
 作者は、読者に、わざと先を越させて、読者を自分の思う壷に嵌めようとしている。語り手Sがまごまごして見せるので、「頭のある」(66)読者は、先走って、自前の異本を作ってしまう。つまり、「聞いた事」(92)にしてしまう。
//「聞いた事」
 なぜ、SはKに静への思いを告白せず、KはSに告白するのか。こんな疑問には、意味がない。SとKは相似形であり、その違いは、[告白する勇気を持っているか、いないか]だけだ。Kから見れば、Kに追従しているSは、K同様の「禁欲」(95)主義者だ。二人の「禁欲」主義者のうち、告白する男がKと呼ばれる。その告白を聞く男は、Sだ。告白を聞く男は、告白した男の存在を否定する。思想的転向の装いは、比喩か、表出に過ぎない。告白する男は、告白を聞く男によって、その存在を否定されるために登場した。
 告白しなかった男Sは、[私は、告白しなかった男だ]ということを、静に告白できない。Sは、Pに、[私は、告白しなかった男だ]と告白する。そして、告白した男だから、死なねばならない。Pが、誰かに、何かを告げれば、Pも死ぬ。
 語られるSがKに「聞いた事」(92)とは、つまり、KがSに告白しながら、その内容をSが明示しない、Kの「恋」(90)とは、Sが静に告白しなかった「恋」と等値であり、それは、Pが「仮定」(12)することしかできなかった「美くしい恋愛」(12)であり、そして、作者が「想像」(90)することさえできず、読者に丸投げしてしまった「ロマンス」(12)の全部だ。
 常識的に考えれば、Kの「御嬢さんに対する切ない恋」(90)は、Sが邪魔立てしても、うまく行く可能性がある。そして、そのとき、初めて、「ロマンス」は成就する。Sの「従妹」との結婚の拒否を、「色気」(61)が付いたのに相手が見つからない状態の比喩だとすれば、それは、「恋に上る階段」(13)にいるPの状態に等しい。つまり、「目的物がないから動く」(13)という状態に過ぎない。語られるSは、静という「目的物」を手近な場所に発見するかのように捏造しただけだ。動機が貧弱だから、つまり、「話す種を有たない」(83)から、告白しようにも、誰にもできない。その気分を「色気」以前に折り返せば、「禁欲」主義者Kが出現する。このKが、Pの夢見る「幸福な一対」(20)に成り上がる過程こそ、「ロマンス」であり、Pの知りたがった「先生の過去」(31)の物語だろう。このとき、Sは、[P文書]の語り手Pと同じく、[Kと静の「ロマンス」]の語り手に過ぎない。このことは、「ロマンス」の変奏として、破綻した「恋」を語る場合も、同じだ。必要なのは、語り手Sだけだ。語られるSは、お邪魔虫に過ぎない。
 『こころ』は、単純な物語としては、[Kと静の物語]でなければならない。作者は、ある種の思い込みがあって、[Kと静の物語]を見ていたSを主人公にするという、捩れた物語を作ってしまった。そして、捩れた物語を作るという自覚の不足のせいか、技術の不足のせいか、意味不明で、尻切れ蜻蛉の作品しかできなかった。作者は、ここまで、逃げ回って来たが、馬脚を現す。語られるSの「聞いた事」を明示できない。『こころ』の核心は、空っぽ。
 KがSを模倣すれば、[Sの物語]は[Kの物語]と区別できない。だが、Kの「恋」を、Sが模倣することは、できない。勿論、否定もできない。そんなものはないからだ。[「恋」は不能だ]という物語こそ、[「淋しい人間」(7)の物語]であるはずだ。つまり、「自分の懐に入ろうとするものを手をひろげて抱き締める事の出来ない人」(6)の物語であるはずだ。
//「慈雨」
  彼はただ苦しいと云っただけでした。実際彼の表情には苦しそうなと
 ころがありありと見えていました。もし相手が御嬢さんでなかったなら
 ば、私はどんなに彼に都合の好い返事を、その乾き切った顔の上に慈雨の
 如く注いで遣ったか分りません。私はその位の美くしい同情を有って生
 れて来た人間と自分ながら信じています。                                              (94)
  そいつはご免だ、それこそ友情の押し売りというもんだ。
  僕自身の悲しみでもうこの胸は押し潰されようとしている、
  それなのに君までが涙を無理矢理押しつけてくれば、
  こっちの悲しみは膨れあがるばかりじゃないか。
      (シェイクスピア『ロミオとジューリエット』1-1、平井正穂訳)
  何とか彼女が不幸になれかしと渇望するのは、わが心にあふれる慈悲
 の愛をそそいでやるためである。
              (メレディス『エゴイスト』29、朱牟田夏雄訳)
 Kが静を奪うのでなければ、Kは誰を好きになってもいい。「理想と現実の 間に彷徨してふらふらしている」(95)人には、同情すべきだ。こんな、どうでもいい話を、Sは、なぜ、勿体振って記すのか。想像の中で、Kの回復を祝っているところか。
 Kの死んだ理由は、普通なら、誰にでも簡単に想像が付く。Sと静母子が結託して、初なKを性的にからかったからだ。Kは、悔しくて、情けなくて、恥ずかしくて、死にたくなった。勿論、Kの勘違いだが、Kの立場では、そのように思うはずだ。しかし、Sは、その種の想像をしない。自殺の動機は、単純な「失恋」(107)か、「現実と理想の衝突」(107)か、Kの個人的な[「寂寞」(107)の物語]などのどれかであるはずで、そうでないとしたら、分からないという素振りを示す。[SがKに示した「復讐以上に残酷」(95)な仕打ちによって、Kは、人間に絶望した]という話にはならない。勿論、私は、そんな[「残酷」物語]などがあるとは思っていないから、語られなくても当然だと思うが、「残酷」という言葉を記したSが、そのことでKが苦しまなかったかのように、つまり、Kの本来の資質に原因があるかのように、「たった一人で淋しくて仕方がなくなった結果」などと記すので、じゃあ、[「残酷」物語]は、なぜ、語られたのだろうと思うわけだ。もし、この想像が当たっているのなら、Sは、崖っぷちに立っていたKの背中を、知らずに押しただけではないか。加害の動機はあったとしても、それとは無関係の事故だ。罪悪感は、消えて良かろう。勿論、Kは、常識では計れないような人物だから、何を、どう想像しても、無駄なのかもしれない。だが、Kは、常識では計れない人間だからこそ、性的にからかわれたぐらいで、死にたくなって、そして、本当に死んでしまったのだとも言える。要するに、何とでも言える。『こころ』とは、そういう文書だ。
 作者は、[Kの「相手」は、静でなくてもいい]という物語を語ることの困難さに捕らわれているらしい。作者は、[Kの「相手」としては、静以外には考えられない]という事実を隠すので、精一杯らしい。[SとKの葛藤を描くのに、静を巻き込むと都合がいい]というようなことが隠されているのではない。[Sの「相手」は、Kの「相手」だ]という理由で、SはKを敵視する。いや、敵視するために、静という餌にKが食い付くように仕向ける。勿論、時間的には、話は逆だ。[Kの「相手」が、静だ]という事実は、Kの「自白」(91)によって、初めて明らかになるが、その時点までに、Sは「疑」(83)によって、シュミレイションを重ねている。作者にとって重要なのは、このシュミレイションだった。もし、Kの「自白」が、Sにとって、シュミレイション抜きの「不意撃」(91)だったら、Sは、Kの「力」(76)に押し切られ、静を「周旋しようと云い出した」(『それから』16)ことだろう。
 [静は、Kを愛する]という文は、[静は、Sを愛する]という文とともに、明記されない。この事実を、Pが隠す。Pの独り合点が[Sの物語]を支える。Pが力不足なら、Xがいる。それでも足りなければ、実在の読者が加勢する。静の気持ちをよそに、[静は、Sを愛する]という文が中空に描かれる。
 Sは、「愛の半面」(88)としての「嫉妬」(88)を、「愛情」(88)を「猛烈」(88)にするために、最大限に利用した。あるいは、作者は、[「嫉妬」の物語]を「明らかに意識」(88)するために、[「愛情」の物語]を利用した。
 作者は、[Kは、静を好く]という物語を利用した。「慈雨」は、そのことを隠蔽する小道具だ。[Kは、φを好く]という、不可能な物語が、さも可能であるかのように見せかけるための小道具だ。「美くしい同情」は、蛇足だ。Kは、何をしでかすか分からないような危険人物なのだから、Kの「相手」が誰であれ、安易に「同情」など、示すべきではない。
//「ただ一打で」
  ゼウスの裔にしてラエルテスが一子、智謀に富むオデュッセウスよ、今
 はもうそなたの伜に、包まず一切を話すがよいぞ。これから二人して求婚
 者どもに死の運命を下すべく、謀りごとをめぐらした上、手を携えてその
 名も高き町に向かえるようにな。わたしとて戦いたくてうずうずしてお
 るゆえ、そなたらから遠く離れてはおらぬ積りじゃ。
              (ホメロス『オデュッセイア』16、松平千秋訳)
  口論の時心持の事 随分尤もと折れて見せ、向ふに詞を尽くさせ、勝ち
 に乗つて過言をする時、弱みを見て取つて返し、思ふ程云ふべし。
                        (山本常朝『葉隠』11)
  Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、
 ただ一打で彼を倒す事が出来るだろうという点にばかり眼を着けました。
                               (95)
//「口調」
  私は彼の使った通りを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したの
 です。
                               (95)
 Sにとっては最初なのに、「再び」とは、作者の表出だろう。二人は一人のように記述されている。二人を繋ぐものは、「口調」だ。一連の「声」(70〜90)だ。意味の欠落した、気分だけの物語だ。それを、[「心」(「『心』広告文」)の物語]と呼ぶこともできよう。
 Sが[Kの「言葉」(95)を[Kの「口調」]で唱えることによって、Kは「過去が指し示す路」(97)に封じ込められる]と、Sが空想するのは、Sの魔術的な思考の一面と見えなくもない。だが、その魔術が、実際に、Kに影響するという話は、ファンタジーとしか言いようがない。Sが魔術的に考え、しかも、Kは、Sの文脈を共有しているとは語られていないのに、Sの魔術の影響を受けるといった展開は、[作者には、魔術的な思い込みがある]という想像を許すはずだ。私達は、[壷の中から現れた魔神を「再び」封印する呪文は、壷の表面に記されている]といった御伽噺でも聞かされているようだ。
 実際には、Kは、Sが[Kの「言葉」]を「投げ返した」と分かれば、[それは俺の台詞だろう]と突っ撥ねることができる。[「向上心」(95)があり過ぎるほどあるからこそ、俺様は悩んでんじゃないか。おまえに、言われたか、ないね。レヴェルが違うよ]とか。逆に、その「言葉」が以前の自分の発言からの引用だと気づかなければ、[意味、分かんねえよ]と、一蹴することだろう。
//「過去が指し示す路」
 Sは、独善的なKによって精神的に圧迫され続けた結果、殺意を抱くようになる。Sは、[Kの物語]の中の脇役を演じることに疲れた。Sは、まるで、Kの養子のようだ。Sは、言わば、「叔父」とKの、二重の幻想の養子だった。Kとの闘いは、「叔父」との闘いの延長戦だ。
 [Kの物語]では、「過去が指し示す路」(97)とは、[淋しがらない養子として生きる方法]のことだろう。しかし、これは、[「淋しい人間」(7)の物語]の本筋である[淋しがる養子の物語]の裏返しだから、まず、[淋しがる養子の物語]が提示されなければ、意味不明だ。しかし、この本筋は、[誰も語らない/Kの物語]として、構想と同時に破棄されたらしい。しかも、Kの死を隠蓑にして、[淋しがらない養子の物語]も中断される。[「淋しい人間」(7)の物語]の本筋は、逃げ水のように、作者が書き進むほど、遠ざかる。
 語られるSは、[Kの語らない/淋しがるKの物語]の裏で、Kの養子になることで、[淋しがらないS]になるという矛盾を演じようとした。もし、作者が『こころ』を中絶させなければ、Pも、Sに対して、同じ矛盾を演じることになったろう。
//「最後の手段」
  凡ての疑惑、煩悶、懊悩、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸の中に
 畳み込んでいるのではなかろうかと疑ぐり始めたのです。
                               (98)
 「最後の手段」とは、何か。Kの「疑惑」とは、何事か。Sのそれと同質の何かだろうか。
 もし、Kが、静への思いを、静か、静ママに告げ、そして、了承されたとしても、「凡ての疑惑、煩悶、懊悩、を一度に解決する」ことができるのだろうか。この時点のSなら、「解決する」ことになろうが、Kの「疑惑、煩悶、懊悩」が、Sのものと同質である理由はない。むしろ、Kの思想的矛盾は、より深まるはずだ。逆に、Kが静に拒まれたとしたら、確かに、「凡ての疑惑、煩悶、懊悩、を一度に解決する」と言えるのかもしれないが、この場合を想定しているのなら、Sは平気でいられるはずだ。もしかして、[静に拒まれた場合のKの健康を、Sは気遣っている]という意味か。
 あるいは、[Kは、静を殺す]と「疑ぐり始めた」という意味か。
 Kは、Sを恋敵だとは知らないのだから、[Kは、Sを殺す]という仮定は成り立たない。
 Sが具体的に何を示唆しているのか、私には全く想像できない。
//「覚悟」
  そうした新らしい光で覚悟の二字を眺め返して見た私は、はっと驚ろ
 きました。その時の私が若しこの驚きを以て、もう一返彼の口にした覚悟
 の内容を公平に見廻したらば、まだ可かったかもし知れません。
                               (98)
 語られるSは、「果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのが即ち彼の覚悟だろうと一図に思い込んでしまった」(98)が、語り手Sは、[Kは、「覚悟」という言葉を自殺という意味で用いた]と思っているようだ。しかし、どちらがKの気持ちに近いのか、Kに聞いてみなければ、分かるまい。語り手Sは、語られるSと静の婚約が成立したことを知る以前のKの「覚悟の内容を公平に見廻し」てはいない。Kの自殺という出来事から逆に、Kの「覚悟の内容」を想像しただけだ。
 作者は、語り手Sが「公平」であるかのように記す。しかし、根拠はない。根拠どころか、「果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮される」という言葉が具体的に何を示すかさえ、明らかではない。SがKの行動をどのように予想しているのか、私には分からない。だから、その後のSの行動がKの行動を妨げる役に立っているのかどうかも、判断できない。
 「私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極めました」(98)という記述から想像すれば、[Kは、静に婚約を申し込む]と、語られるSは予想したことになるようだ。しかし、そんなことを予想しても、静がKの申し込みを拒否すれば、終わりだろう。
 この時点で、語られるSは、[静は、Kを拒む]と思っているはずではないのか。[静は、Kを好く]という、Sの疑いは、「歌留多」(89)をやって、消えたのではなかったのか。[静の「加勢」(89)によって、「Kの態度は少しも最初と変りません」(89)]という報告は、[Kは、静に好かれていることに気づかない]ということを暗示するのではないはずだ。「眼に立つようにKの加勢をし出し」(89)た静の姿を見て、Sは、[静にとって、Kは安全牌だ]と思ったのではないのか。そして、この静の行動を、[静は、Kを好く]と、Kが誤解したように見えなかったから、Sは「喧嘩を始め」(89)なかったのではなかったのか。
 語り手Sは、[Kが(自分は、静に好かれている)と思いさえしなければ、静の気持ちはどうであれ、とりあえず、語られるSは、その場を凌げた]とでも書いたつもりなのだろうか。もし、そうだとすると、「Kの自白」(91)の主題は、[Kは、静を好く]というものではなく、[Kは、静に好かれて、困っている]というものだったことになりそうだ。勿論、この主題の真偽は、静に確かめるしかない。「他流試合」(95)で勝っても負けても、真実は不明だ。
  私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならない
 と覚悟を極めました。
                               (98)
 「覚悟の二字」は、「Kの知らない間に」、読者さえ「知らない間に」、語られるSのものになるのだろうか。この場合、Sにとって、静の気持ちを確かめるという行動は、SがKの空想だと思っているところの[静は、Kを好く]という文の真偽を確かめるための実験でしかないことになる。この実験が[「嫉妬」と「猛烈」の関係](88)の中身のすべてか。
 Sと静との結婚は、Sが「Kの用いた『覚悟』という言葉」(97)の意味を取り違えて行動した結果の、つまり、瓢箪から駒が出たようなものらしい。
//「最後の決断」
 [静ママは、「策略家」(69)だ]という疑いは、最後まで消えない。[静は、「策略家」だった]という疑いも消えない。[静は、「策略家」だ]という疑いによって、[静ママは「策略家」だ]という疑いは、後退するかに見える。また、[静は、Kを好く]という疑いによって、[静は、「策略家」だ]という疑いも後退するかに見える。[静は、Kを好く]という疑いは、静ママによって、間接的に否定された(99)かのようだが、そのとき、[静、あるいは、静ママは、「策略家」だ]という疑いが否定されない限り、静ママの言葉は、Sにとって無効であるはずだ。また、[静は、「策略家」だ]とすれば、[静ママは、静に騙されている]という疑いすら、浮上するはずだ。[静は、静ママに知れないように、二股を掛けていた]とすれば、[静は、Sを好く]という文は、[静は、Kを好く]という文を、肯定も否定もしないことになる。作者は、目茶苦茶な話を作っている。
 「御嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず私を制する」(88)という文の後に、「最後の決断が必要だ」(98)という文があるので、先の「疑念」は晴れたと思いたくなる。ところが、[静は、Sに「意がある」か]という疑問は、静ママが「承知」(99)するまで尾を引いていたことが分かる。となると、「御嬢さんがKの方に意がある」という文と、[静がSの方に意がある]という文とは、矛盾しないと考えられている可能性が残る。困ったもんだ。
  ぼくには、あなたがぼくを愛しているってことはわかっていたんだ、最
 初の熱い眼差し、最初の握手で。けれどあなたのそばを離れていたり、ア
 ルベルトがあなたと一緒にいたりすると、いつも熱病みたいな疑いに苦
 しめられたんです。
             (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳)
 [Kと静の恋愛の物語]は、疑惑に過ぎなかったのか。疑惑としては正当だったが、事実ではないと、後に分かったのか、いつ、分かったのか。事実だったものを誰かが破壊したのではない理由は、何か。[静は、Kを好く]という文を、Sは、自分の空想だと思いながらも、なぜか、苦しんでいたというのか。
 [語られるSの希望が、時間の経過とともに、語り手Sの確信に変化しただけなのに、語り手Sは、そうした事態に気づくことがなく、しかも、作者も気づかない]といった事態が起きているのかもしれない。このとき、語られるSの希望は妄想的であり、語り手Sの確信は妄想的であり、そして、希望が確信に成り上がるのは妄想の作用だろうから、結局、作者にとって、[創作とは、妄想の正当化の手段だ]ということになる。
//「微笑」
 Sの気持ちを静ママから聞かされたらしい静は、「何時ものようにみんなと同じ食卓に並びません」(100)と記される。この静の行動について、静ママは「大方極りが悪いのだろうと云って、一寸私の顔を見ました」(100)というのだから、[静は、Sとの婚約を承諾した]という含みだろう。だが、[静ママ「策略家」(69)疑惑]が完全に消滅したという事実がない以上、この場面は、静ママの暗示するのとは正反対の解釈が可能だ。静が、最も「極りが悪い」と感じる対象は、Kであっても、おかしくはない。「道学の余習なのか、又は一種のはにかみなのか」(83)といった程度の縛りでは、他人には、[Sは、静に対する気持ちを、Kに告げていない]とは考えにくい。だから、[Kと静の恋愛の物語]の中では、[Kは、静に対する求愛権を放棄した]という想像が成り立つ。
 ここで、Sが代助の二の舞いを踏んで、「Kから聞かされた打ち明け話を、奥さんに伝え」(89)たと、Kが考えたとしたら、どうだろう。Kにとっても、静の不在は、[静-K]の肯定の意味を持つはずだ。
 実際に起きているのは、[静ママ(静ママ(S((S-静))静ママ)静)S]だが、Kが次のように空想する可能性はある。
 [静ママ(静ママ(S(K(K-静)S)静ママ)静)S]
 もし、そうであれば、この文は、[φ-K]によって括られなければならない。だが、そのような状態が起きない。だから、「Kは不思議そうに聞いていました」(100)とか、「不思議そうに、なんで極が悪いのかと追窮しに掛りました」(100)と記されることになる。Kが「追窮し」たくなる理由は、「Kから聞かされた打ち明け話」との関連でしか、思い当たらない。勿論、Sは、そのようには語らない。作者も、自覚してはいないのだろう。K自身にすら、自覚できまい。
 この挿話では、Sと静ママの間で、非言語的交通が成立したことが語られる。「奥さんは大方極りが悪いのだろうと云って、一寸私の顔を見ました」という文は、「奥さんは微笑しながら又私の顔を見るのです」(100)というように強調されている。以下、Sが、静ママの「顔付で、事の成行を略推察して」(100)いたこと、「事の成行」を、Kに「話されては堪らないと考え」(100)ていたこと、そして、Sの気持ちが、あたかも、静ママに伝わったかのようであることなどが語られる。「奥さんはまたその位の事を平気でする女」(100)であり、しかも、「機嫌のよかった」(100)と形容されているのに、Sの「恐れを抱いている点までは話を進めずに」(100)終わったという。
 静ママの「微笑」は、静母子の「嘲笑の意味」(70)に始まり、静に腹を立てるSに「気の付く」(88)静ママの描写を経た[Sと静ママの物語]の結末だろう。
//「弱点」
 Sは、「私はこの家族との間に成り立った新らしい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました」(101)と記す。「この家族との間に成り立った新らしい関係」とは、何か。そんなものはない。「新らしい関係」は、Sと静ママの間にだけ「成り立った」ものだ。[Sと静の物語]には、何の展開もない。今後も、何も成り立たない。「結婚」(105)という言葉が「Kの墓」(105)という言葉と並べられるだけだ。
 語られるSは、相変わらず、「話す種を有たない」(83)ままだ。「倫理的に弱点をもっている」(101)から、話せないのではない。また、Kに話せない「事情を打ち明け」(101)ることができないのも、「弱点」のせいではない。
  要するに私は正直な路を歩く積りで、つい足を滑らした馬鹿ものでし
 た。もしくは狡猾な男でした。
                               (101)
 語られるSは、「狡猾な男」なのか、「馬鹿もの」なのか。この二者選択を、自分で出しておきながら、語り手Sは、答えない。語られるSが「正直な路を歩く積り」だったという話が、どこかで語られていたろうか。では、「狡猾な男」というのが、答えか。違う。語られるSは何者でもない。もはや、存在しないようなものだ。
 「私はこの家族との間に成り立った新らしい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました」という文は、[Sは、静ママとの「間に成り立った新らしい関係」を、自分自身に「知らせなければならない位置に立ちました」]という文の偽装されたものだ。
//「弁護」
 Sは、「弁護を自分の胸で拵え」(100)るが、無効だと悟る。この過程を振り返り、語り手Sは、語られるSを「卑怯」(100)と断罪し、話をすり替えてしまう。「何の弁護もKに対して面と向うには足りません」(100)というが、Sは、何を「弁護」しようというのだろう。語られるSは、静の気持ちを、静から、直接、聞いてはいない。だから、まだ、他人に報告する段階ではないはずだ。ところが、静ママは、「貴方もよくないじゃありませんか、平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」(101)と、Sを「詰る」(101)という。静ママは、何を話すべきだと仄めかすのだろう。「話す種」(83)は、ない。
 問題は、「話す種」の有無にはない。勿論、「弁護」の有効性にもない。語り手Sが表出しているのは、[Sと静ママの物語]だ。この物語は、[SとSママの物語](57)を乗り越えるための物語だ。[SとSママの物語]は、[S(φ-S)Sママ]となって、Sを「ぐるぐる」(57)癖にした。静ママは、この欠落した物語を[S(静-S)静ママ]として、回復する。しかし、これは[SとSママの物語]の異本だから、情報の内容に確かな意味があってはならない。だから、非言語的交通として実現する。言語の一歩手前にあるのが、眼差しであり、「顔付」(100)であり、「微笑」(100)だろう。
 [SとSママの物語]を対象軸にして、[Sと静ママの物語]を折り返すと、[KとKママの物語]になる。それは、[「母のない男」(75)の物語]という、完全に無内容の物語だ。[Sの語る/Kの物語]の希薄さは、「母」の不在の表出だ。Kは、静ママによる無視と、静の不在に立ち会わされ、「不思議そうに」(100)している。まるで道化だ。「母のない男」は、[静ママの協力を得られない男]として語られる。静は、「母」争奪戦の副賞に過ぎない。あるいは、勝利の証拠。
 [子(φ-子)φ]である[「母のない男」の物語]が[子(母-子)母]として回復する物語が、静ママの「微笑」として語られる。このとき漏らされる「微笑」は、やがて、『明暗』に登場する。作者は、この「微笑の意味」(『明暗』188)を解けないはずだ。いや、解いてはならないはずだ。
//「窮境」
  私は飽くまで滑った事を隠したがりました。同時に、どうしても前へ出
 ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟まってまた立ち竦みました。                               (101)
 Sは、自分が「滑った事」にしてしまった。ということは、[語られるSは、「狡猾な男」ではない]と暗示したわけだ。こういう語り方は「狡猾」だ。
 Sは「立ち竦」んでいたというのだから、「前へ出」てはいないはずだ。すると、「隠し」ているはずだ。だったら、「この間に挟まって」いるとは言えない。
 この「窮境」(101)という題名の隠蔽は、静ママによって、打開される。静ママが、すでに、話してしまっていたという。Sは、Kの反応を聞かされ、「胸が塞るような苦しさを覚え」(101)たと記すが、その「苦しさ」のわけは、Kに対する憐れみではない。
  私はその時さぞKが軽蔑している事だろうと思って、一人で顔を赧ら
 めました。然し今更Kの前に出て、耻を掻かされるのは、私の自尊心に
 とって大いな苦痛でした。
  私が進もうか止そうかと考えて、ともかくも翌日まで待とうと決心し
 たのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまった
 のです。
                              (102)
 これまで、Sが「進もうか止そうかと考えて」、進んだ試しがあったろうか。「ともかくも翌日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところが」日曜の晩になっても「進もうか止そうかと考えて、ともかくも翌日まで待とうと決心した」ことだろう。告白タイムは、永遠の「翌日」に属する。もし、Kが「土曜の晩」に「自殺」せず、Sと静の結婚式にも出て、その後も生きながらえていたとして、さて、Sに、告白の契機は訪れたろうか。Sは、Pに「会って話をする気でいた」(110)という、Pとの「約束」(56)を反故にしたように、Sの「決心」も、実現には至らなかったはずだ。
 語られるSがKに告白できなかったのは、「彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遥かに立派に見え」(102)たからだという。では、「自殺して死んでしま」おうとしているKと自分とを、「頭の中で並べて見ると」、どっちが「立派に見え」るのだろう。もし、「先祖から譲られた迷信の塊」(61)が「今でも潜んでいる」(61)としたら、Sは、あの世で、Kの霊に「会って話をする気で」自殺するのだろうか。そんなことは、想像していないのだろうか。
 なぜ、Sが告白を「決心した」、ちょうど「その晩に、Kは自殺して死んでしまった」と記述されるのだろうか。S、あるいは、作者にとって、Kの死は、なぜ、「その晩」として記述されるのか。その答えは、一つしか、考えられない。[Sは、誰にも、「話す種を有たない」]という事実を隠蔽するためだ。語られるSは、「頭の中」のKに、何かを告白していたのだろうか。していたとして、それを、語り手Sは、「頭の中」のPに、いや、「頭の中」の静に向かって、再演できるのだろうか。Sの告白を阻むものは、現実のあれこれではない。そんなものは、全部、言いわけに過ぎない。要するに、Sは、あの世でも、Kに頭を下げたくないだけだ。あるいは、Kに頭を下げるSを、作者が想像したくないだけだ。
 この展開は、[Sは、Kに告白しないと「決心」した]というのと、実質的には、同じものだ。だが、もし、そのように明示すれば、聞き手P、あるいは、読者は、Sが告白しない理由を知りたがることだろう。作者は、この疑問を浮上させないために、綱渡りをしているようだ。とは言え、この綱渡りは、読者をちょろまかすためと言うよりも、自己欺瞞の匂いが強い。
 ここで、SがKに頭を下げる必要はない。もともと、SがKに告白する義務など、ないからだ。Kの告白を聞かされたからといって、[実は、俺も静ちゃんのことを……]なんて、しゃべる義務は、誰にもない。SがKを恐れるのは、[実は、俺も……]の続きがないからだ。Sは、Kを恐れているから告白できないのではない。「話す種を有たない」からだ。[Kと静の物語]は、「とても容易な事では動かせないという感じ」(90)をSに与えた。Sに「相手は自分より強いのだという恐怖の念が萌し始めた」(90)のは、「殆んど信仰に近い愛」(68)だとか、静の「親切」(86)だとか、「是非御嬢さんを専有したいという強烈な一念」(86)だとか、そんな言葉でしかないものを粉砕したからだ。
 [Kの物語]は、物語として、成立している。しかし、[Sの物語]は、成立しない。感傷的な言葉の羅列でしかない。語り手Sが、いや、作者が隠蔽しようとしているのは、[自分は、感傷的な言葉を並べるのが関の山で、物語を完成する力がないのではないか]という疑いだ。しかし、作者は、間違っている。作者は、[Kの物語]を完成すれば、十分だ。[Sの物語]なんか、要らない。Pが「遺書」の前文作者でしかないように、Sも「Kの物語]の前文作者でしかないはずだ。しかし、そのことに、語り手Sではなく、作者が、耐えられない。
  「君は今あの男と女を見て、冷評しましたね。あの冷評のうちには君が
 恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交っていましょう」
                               (12)
 「恋を求め」るとは、[「恋」に恋する]こと、つまり、「色気」(61)だけの状態らしい。なぜなら、「相手を得られない」とは、[恋する「相手」はいるが、その「相手」に恋されない]という状態ではなく、[とりあえず、恋する「相手」はいない]という状態らしい。「Kに対する嫉妬」(81)が「萌し」(81)たのは、[Sは「相手を得られ」たのに、Kは「恋を求め」てもいない]という状態を確認したからか。だが、この話は、おかしい。「嫉妬」という言葉は、私には確定できないが、少なくとも、「嫉妬」が起きるとしたら、SとKの立場が逆の場合だろう。しかし、話題は、「嫉妬」そのものではない。[「嫉妬」が「萌し」た]ことだ。[Sは、Kに優越感を抱いたが、優越感の原因は「嫉妬」にある]という話らしい。こんな混乱した語りを、私は追跡できないが、仕方なく突っ走る。
 Sの「頭の中で」(102)、SがKと競い合っているつもりでいるらしいのは、実在の静と自分との気持ちの近さではなく、静を恋する力の大きさであるようだ。あるいは、静に引かれる強さ、つまり、実際に静が引く強さではなく、自分が引かれたように感じる思い込みの強さだろう。そんな競争をして何になるのか、私には理解できない。理解できないから、私は、自分の読み取りに自信が持てない。
 Sが、Kの「超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値すべきだ」(102)と考えるのも、理解できない。静に恋するKの力が、Sに比べてではなく、絶対値として小さければ、Kは「超然として」いるのではなくて、何の痛痒も感じなかったと考えられる。「外観」どころか、何もない。
 Sが、Kの「超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値すべきだ」と考えるのなら、Kの「自殺」は、Sにとって、「たとい外観だけにもせよ、敬服に値すべき」ではないことになるのではなかろうか。Kは、「自殺」によって、Sの「畏敬」(73)の対象ではなくなったはずだ。だから、当然、畏怖の念も消えなければならない。ところが、結果的には、「畏敬」や「敬服」という熟語から、「敬」の字が取れたことによって、逆に、「畏」や「服」という文字の印象がゾンビのように立ち上がり、Sを悩ますことになる。こんな展開は、私には追跡できない。言葉がちぎれたままで機能するような印象は、『こころ』という、統括不能の物語の象徴であるかのようだ。
//「軽蔑」
  私は私に取ってどんなに辛い文句がその中に書き列ねてあるだろうと
 予期したのです。そうして、もしそれが奥さんや御嬢さんの眼に触れたら、
 どんなに軽蔑されるかも知れないという恐怖があったのです。
                               (102)
 この「恐怖」は、[Sの「懴悔」(106)に「嬉し涙をこぼして」(106)いる静]という空想によって部分否定されるから、「恐怖」の対象は、静ママに限定される。
 Nの語彙では、「軽蔑」という言葉は、「恐怖」という言葉に直結する。「軽蔑」や「侮辱」は、それを受けた側の存在価値を根底から奪うものらしい。
//「もっと早く死ぬべきだ」
  然し私の尤も痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく
 見える、もっと早く死ぬべきだのに何故今まで生きていたのだろうとい
 う意味の文句でした。
                               (102)
 Kは、「意志の力を養って強い人になる」(76)ことを目的に「生きていた」のだから、「自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺する」(102)という結論が出るのは、不合理ではない。だが、ここで、Kが問題にしているのは、目的ではなく、理由だ。しかも、この問題には「もっと早く死ぬべきだ」という前提がある。この前提にも、問題が含まれている。それは、[「もっと早く死ぬべきだのに、何故」そのとき死ななかったのだろう]というものだ。言うまでもなく、この問題は、さらに問題を含んでいる。それは、[「もっと早く死ぬべきだ」と思ったのは、「何故」か]というものだ。こうして、疑問は際限なく浮上する。
 Kも、Sも、自分の自殺の動機を明示しない。同じく明示できないという理由で、Sが仄めかす(107)ように、二つの原因を同質のものと見做すことは、できないはずだ。しかし、同質らしい。その根拠は不明だ。
 Kの自殺の動機など、いくらでも思いつく。逆に言えば、決定的な動機は思いつかない。Sが「明治の精神に殉死する」(110)のなら、Kは[明治前期の精神]に殉じたとでも言うがいい。作者は、Sに、Kの自殺の動機について、あれこれ、考えるふりをさせているが、自分で広げた風呂敷を畳み損ねているだけだろう。Sは、Kが[Kと静の物語]を明示することを「わざと回避した」(102)と思うわけだが、後には、この想像はどこかへ消えてしまう。要するに、作者が[Kの物語]そのものの明示を「回避した」としか、考えられない。明示はされないが、持続はしている。だから、後に、「Kが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった」(107)という想像が可能になる。
 [P文書]において不明だった[Sと静の物語]は、[Kと静の物語]によって支えられるかのようだが、[Kの物語]が不明なので、[Kと静の物語]は不明となり、よって、[Sと静の物語]も不明で、要するに[Sの物語]そのものも不明になる。作者にとっても、不明になったはずで、だから、すべてを不明にすることが、作者の、隠された目的だったようでもある。
 ここで、作者は、[自殺に、具体的な原因など、ない]という前提で話を作っていると、私達は思わなければならないのだろうか。もし、そうだとしたら、Kの自殺の記憶に苦しんで死のうとするSは、本当は、何をしていることになるのか。また、そういう自分を描くSは、Pに対して、具体的に、何を告げたつもりでいるのか。こんなわけの分からないことを書く作者は、何をしているつもりなのか。それを読んでいる私は、本当は、何をしているつもりなのか。
 「もっと早く」という言葉を、Kが時期を特定せずに記したとすれば、単なる感傷に過ぎない。しかし、この「文句」を「尤も痛切に感じた」Sは、かなり、おかしいか、何かを隠しているか、どちらかだろう。そうでなければ、作者が隠しているはずだ。
 SとKは、ともに実家から離れて育った。また、Pは、Sの隠れ養子になった。[養子の物語]が、3人に共通する「背景」(56)の物語だと推定できる。しかし、このことは明示されない。明示せずに「背景」を伝達する技術の一つが、[血の呪法](56)だ。血とは、白い血、精液のことで、Sに対するときのみ陽であるKからKに対する陰であるSへ、また、Pに対するときだけ陽であるSから、Sに対する陰であるPへと、[養子の物語]が、受胎の比喩(56)によって、伝達される。その際、陽の人物は、物語を分泌することによって、極陰となり、死ぬ。Pの聞き手Xが明示されないと言うか、不在なのは、Pが物語受胎者のままでいることの比喩だろう。
 静が受胎しないことは、彼女が物語を伝達されないことの比喩だろう。Pは、[受胎]はするが、[出産]はしない。『こころ』の中で、時間は止まる。[P文書]は、『こころ』の中の「世間」(1)には、出ていない。だから、静の目に触れることはない。[P文書]は、「遺書」を、鈎で括った形で、孕み続ける。
 「私は妻に血の色を見せないで死ぬ積りです」(110)と、Sは記す。「血の色」とは、Kの「血潮」(102)と同様に、「運命の恐ろしさ」(103)を「暗示」(103)するものだ。「運命」とは、[養子的存在]の「運命」のことだ。その「恐ろしさ」を、Sは、自分が「満足」(56)するために、Pに、比喩の血液顔面シャワーとして施す(56)わけだ。
//「暗示された運命の恐ろしさ」
  私はただ恐ろしかったのです。そうしてその恐ろしさは、眼の前の光景
 が官能を刺戟して起る単調な恐ろしさばかりではありません。私は忽然
 と冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じ
 たのです。
                               (103)
 Sは、「冷たくなったこの友達によって暗示された運命」(103)と記す。Sは、「運命」を信じ、なおかつ、「運命」なるものが何らかの方法によって「暗示され」るような何かだと信じている人物として、設定されているのだろうか。
 「冷たくなったこの友達によって暗示された運命」という言葉は、怪しい。「暗示」する主体は、形式的には「冷たくなったこの友達」だが、死体が何かをするというのは、おかしい。生前のKが、自分の死体によって、何かを「暗示」しようとしたという意味にも取れない。では、「運命」を司る超越者が、Kの死体を素材に、「運命」を「暗示」したのか。いや、そのような超越者の存在は、仄めかすことさえ、されていない。
 この文は、[Sは、「運命」を司る神の存在を仮定する。この仮定された世界で、神が「冷たくなったこの友達」を素材に、Sの「運命」を、Sに「暗示」したという物語を、Sは想像する。その想像の物語の中で、Sの「運命」は、誰かにとって、多分、仮定の世界の中の想像の物語の中のSにとって、「恐ろし」いものだろうと、「深く感じた」Sがいる]といった意味になりそうだ。
 なお、「忽然と」という言葉の収まりそうな場所は、私には決められない。もし、これが「冷たくなった」という言葉に係るのなら、Kの部屋は冷凍庫のように冷えていたのだろう。「冷たくなった」という言葉が[死んだ]という言葉をお洒落に言い換えたものだとしても、Sは、Kの死に際に立ち会っていないのだから、「忽然と」だか、[徐々に]だか、知るはずがない。勿論、死ぬ寸前までは生きていたに違いないから、[死ぬ瞬間は、いつだって、「忽然と」やって来る]と言えるが、だったら、無駄な修飾だろう。あるいは、[知らない間に]という含みを読み取るべきか。[今までピンピンしてたKが、あっと言う間に死体になった]というような、記憶の欠落か、魔術を思わせる比喩のつもりか。
 さて、このとき、「運命の恐ろしさを深く感じた」Sは、どんな世界に属するのだろう。現実のSは、「忽然と」姿を消したかのようだ。


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