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#084[世界]44先生とA(34)「明治の精神」

//「約束」
  夜十一時近く、法官の計らいによって遺骸は故人の望んだ場所に葬ら
 れた。
             (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳)
 Sは、雑司ケ谷が好きだというKに、「死んだら此所へ埋めて遣ろうと約束した」(104)とか。「笑談半分」(104)にしろ、奇妙な「約束」だ。Sに、もともと、Kの死を予期する、いや、期待する気分があったことは否定できない。[Sの、追想の形をとった、死すべきKへの、予期すらしないままに行われた、早過ぎた、逆説的な友情の表現]として「解釈」(66)しなければならないとしたら、遣る瀬ない。
  彼に対する親しみも憎しみも、旅中限りという特別な性質を帯びる風
 になったのです。
                               (84)
 Kに対する「憎しみ」は、いつ、生じたのか。Sは、なぜ、Kに「憎しみ」を抱くのか。片思いの相手が重なっただけで、「憎しみ」が生まれるものだろうか。「憎しみ」は、いつ、消えたのか。あるいは、永遠に消えないのか。
 本当は、[Kに対する「親しみ」は、いつ、Sに、生じたのか]と問うべきだ。
 私は、[静登場以前から蓄えられていた、Kへの殺意の自覚を、Sが回避したために自走し始めた[「嫉妬」の物語]の中で、仮定された加害者Sの、仮定された被害者Kに対する罪責感が、SのKに対する「畏敬」(73)の演技をさせた]と勘ぐる。しかし、この勘ぐりは、すぐに、[Kの死後、語り手Sの哀悼の気分が、語られるSに投影された]と読み換えられるのかもしれない。
 空しい。Nの言葉を読むことは、空しい。この空しさは、Nが感じていた空しさと等質のもののような気がする。Nは、自分の抱く空しさを、他人にも感じさせたかったのだろう。
 Kを経済的に保護するSは、Kを飼い殺しにする気だった。SとKは、解放された奴隷同士が、[主人と奴隷ごっこ]をやっているかのようだ。
//「わざと回避した」
 『こころ』の展開は、普通に考えれば、「遺書」の後、[Kの物語]に流れ込まなければならない。[Kと静の物語]を「すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました」(102)と、語り手Sは記すが、同時に、作者は、[Kの物語]を「わざと回避した」ことは隠蔽する。
 作者は、すでに、Sの耳によって、[Kと静の物語]が、不完全な形ではあるが、語るに足る何かであるかのように見せかけていたが、さらに、駄目押しをする。だが、「わざと回避した」と見える、その場所に、何があるというのか。実際には、語り手Sは、語られるSがKから「聞いた事」(92)について、片鱗も語ってくれていない。また、語らない理由さえ、記さない。[Sは、Pにも、静にも、Kの話をしない]という、[P文書]は、「遺書」において、[Kは、Sに、重要なことを語らなかった]という事実を隠蔽するための煙幕だろう。
 静について、Kが言及することを「わざと回避した」と、語られるSは、勝手に解釈したわけだが、その真偽を、語り手Sは確認しない。しかも、[Kの自殺の遠因は、「失恋のため」(107)ではない]と思い直すのだから、何のために、[Kと静の物語]が仄めかされて来たのか、分からない。[Kは、Sを恨みつつ死んだ]という解釈も検討されない。[Kを死に至らしめた最大の原因は、何か]という問題が漠然としたままなので、[どうすれば、Kは死なずに済んだか]とか、[Kは、死ななかったら、Sを許したか]といった物語は、当然、検討されない。
 Kは、静について記すことを「回避した」だけではない。[Kと静の物語]を含む[Kの語る/Kの物語]の明示を「回避した」ようだ。そして、そのことに、Sは気づいたはずだ。だからこそ、「墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのに何故今まで生きていたのだろうという意味の文句」(102)に注目したはずだ。この文句こそ、[Kの物語]の中核に位置するものだ。ところが、Sも、また、[Sの語る/Kの物語]の明示を「回避した」かのように、[Sの物語]を語り始める。「襖に迸ばしっている血潮」(102)と「死顔」(103)を照らし合わせ、「冷たくなったこの友達によって暗示された運命」(103)の物語とは、勿論、[Sの物語]だが、これは、[Kが「血潮」で語る/Sの物語]と言える。このとき、語られるSは[Kの語る/Sの物語]の聞き手になっている。語り手Sが語るのは、[Kの語る/Sの物語]の聞き手としてのSについての物語だ。
 [SとKの物語]は、最初、分離不安の表出(73)として始まる。それが[Sの語る/Kの物語]を経て、[Kの語る/Kの物語]に寄り道するが、これは「空虚」(76)で、意味不明(85)で、聞こえなく(90)なる。そして、最後の最後にKが死体によって「暗示」したのは、何と、[Sの物語]だったという。
 [SとKの物語]は、[Sの物語]だった。あるいは、[Sの物語]と[Kの物語]は、同一の「背景」(56)を持っていた。しかし、この共通の「背景」の物語そのものは、明示されない。しかも、そのわけは、『こころ』の中に見当たらない。だから、作者の作為だと思われる。作者が「回避した」何かが私達に見えないのは、当然と言うのも愚かだろう。
 原典となるべき物語の明示を「わざと回避し」(102)て、その[世界]だけを利用する方法は、NからAに引き継がれる。この方法は、Nにおいては自覚的ではないので、物語が作者にとって危険な領域に接近すると、自然に防御が働く。その防御の中には、[個体としてのNの病気]という形での表出も含まれる。Nの肉体は、創作中の物語に精神が対応できなくなると、病む仕組みになっていた。病後は、まるで生き返ったかのように、あるいは、襲名したかのように、作家として再始動する。この仕組みは、『明暗』執筆中にも試されるが、体力が持たなかった。
 Nには、「よし旨く行かなくっても、離れるとも即くとも片の附かない短編が続くだけの事だろうとは予想出来る」(『彼岸願過迄に就て』)という自負があった。だが、Aの場合、自己[世界]化が自覚的なので、防御は自然には働かない。自己[世界]化の試みは、物語の進行そのものを困難にする。Aは、言葉を、一個の溜め息に向かって、どこまでも削り込むことになる。
//「暗示された運命」
 Sは、「冷たくなったこの友達によって暗示された運命」(103)と記す。Sは、「運命」を信じ、なおかつ、「運命」なるものが何らかの方法によって「暗示され」るような何かだと信じている人物として、設定されているのだろうか。Sは運命論者であり、運命論は「明治の精神」(110)の一部なのだろうか。
 「冷たくなったこの友達によって暗示された運命」という言葉は、怪しい。「暗示」の主体は、何者か。形式的には「冷たくなったこの友達」だが、死体が何かをするはずがない。生前のKが、自分の死体によって、何かを「暗示」しようとしたという意味か。そのようには読めない。では、「運命」を司る超越者が、Kの死体を素材に、「運命」を「暗示」したのか。いや、そのような超越者の存在は、仄めかすことさえ、されていない。となると、「暗示された運命」という言葉は、正確には、[「暗示された」かのような「運命」]という意味になりそうだ。あるいは、[「暗示された運命」であるかのような何か]という意味なのかもしれない。「暗示」も、「運命」も、本当は、観念としてさえ信じられていないのかもしれない。では、何があるのか。あるのは、レトリックだけだ。
//「映る」
  いままで、あの溺死者がローランの夜々をかき乱すようなことはなかっ
 た。ところがとつぜんいま、テレーズのことを思い出すとともに、その夫
 の亡霊が現われたのだ。人殺しの男はもう目をあける勇気がなかった。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』17、篠田浩一郎訳)
  私は妻と顔を合せているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまり妻
 が中間に立って、Kと私を何処までも結び付けて離さないようにするの
 です。妻の何処にも不足を感じない私は、ただこの一点に於て彼女を遠ざ
 けたがりました。すると女の胸にはすぐそれが映ります。映るけれども、
 理由は解らないのです。
                               (106)
 静は、正鵠を得た「怨言」(106)を吐く、「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう」(106)と。[P文書]では、静は、「私は嫌われてるとは思いません」(17)と発言している。聞き手Pには、この矛盾は解消できない。静は、甘ったれの嘘つきかもしれない。しかし、そのように判断する根拠はない。むしろ、その反対の情報の方が多い。しかも、なお、静が嘘つきだとしたら、[女は、ひどい嘘つきだ]という前提が必要になる。必要なのかもしれない。
 「それが映ります」というときの「それ」は、何を指すのか。「この一点」ではないようだ。[「彼女を遠ざけたが」ること]らしい。だが、[「ただこの一点に於て彼女を遠ざけたが」ること]では、なさそうだ。「映るけれども、理由は解らない」のだから。
 さて、私には、「理由は解らない」だけでなく、「映る」こともないので、この挿話の存在意義が掴めない。私には、Sとくっついている静の気持ちが分からない。金のためか。だったら、[静「策略家」(69)疑惑]は、予感としてだけでも当たっていたことになる。
 静に「不足を感じない」というのは、Sの本音だろうか。相手に「不足を感じない」としても、ただ何となく嫌うことはある。ここは、[普通の人なら、嫌うが、Sは嫌わないから、Sは立派な男だ]という皮肉なのだろうか。そもそも、「不足を感じない」としても、[静といたら、きっと「幸福」(108)を実感できる]という保証など、どこにもない。Sにも、静にも、何の魅力もない。むしろ、うっすらと満遍なく変な人達だ。
 Sが「寂寞」(107)である「理由」は、誰にでも分かるはずだ。Sが「嫌われ」るタイプだからだ。
//「寂寞」
  私は寂寞でした。何処からも切り離されて世の中にたった一人住んで
 いるような気のした事も能くありました。
                               (107)
 [「厭世的」(107)な人物が「寂寞」を苦にする]という話は、私には通じない。しかも、Sは誰かに「切り離されて」いたのではないはずだ。こんな話が成り立つのなら、[拒食症患者が、誰かに食物を取り上げられたせいで、空腹に苛まれる]という話も、信用しなければならなくなる。
 Sは、やがて、「世間と切り離された私」(108)と書くことになる。「たった一人住んでいるような」という直喩が、暗喩になっただけのようだが、あるいは、「何処からも切り離されて」いたというのは比喩だが、「世間から切り離された」というのは事実と読まなければならないのか。あるいは、語り手Sの言葉が直喩から暗喩に変化する過程で、語られるSの生活に変化が生じたのか。
 作者は、[Sは、「寂寞」のゆえに死ぬ]という、私には不可解な物語を語るために、なりふり構わず、奇弁を弄するかのようだ。
 Sの「淋しい」(14)わけがKを裏切ったことにのみあるのなら、「Kが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった」(107)などと記すのは、因果関係が逆転していることになる。日本人全員が「淋しい」ように言う(14)Sは、法螺吹きとしか、私には思えないが、百歩譲って、Sが勝手に決めたらしい「現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならない」(14)というルールを認めたとしても、そのときは、「Kが私のように」と語るのではなく、[Kが「現代に生れた我々」(14)と同じように]とでも語るべきではなかろうか。Kは、「現代に生れた我々」の動静を感知できていなかったらしい。「昔の人」(85)とばかり付き合っていたせいだろうか。となると、『こころ』のテーマは、[「現代に生れた我々」は、「Kのように」「現代に生れた我々」の動静を感知できないので、「現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならない」というルールを知らないで生きているから、不埒だ]ということになりそうだ。だったら、[Kも、Sも、死によって「淋しみ」から逃げたのだから、不埒だ]ということになる。
 全然、当たっていないようで、掠ってはいるのかもしれないような、この総括は、もし、作者の側に混乱があると仮定すれば、掠る程度にしか総括できないからこそ、正解だと言える。
 もともと、Sも、Kも、互いとは無関係に、淋しかったのだろう。勿論、「現代」とも無関係だ。Pも、また、独自に淋しかった。情況証拠なら、いくらでも表出されている。作者も淋しかった。淋しさのあまり、作者は、淋しさを乗り越えるのではなく、「淋しみ」を人々と共有したいという、実現不可能な野望を抱いた。「淋しみ」の共有によって、「淋しみ」が解消すると錯覚したのだろうか。あるいは、そんな錯覚を広めたかったのか。そのとき、[世界]として導入されたのが、出所不明の[淋しい養子の物語]だ。
 明治の文化は、「親の遺産を受け継いだ富ではなくって、他人の家へ養子に行って、知らぬものから得た財産である」(『東洋美術図譜』)と、Nは記す。おかしい。養家の人々は、「養子」にとって、「知らぬもの」ではないはずだ。Nは、「養子」という言葉を差別的に用いているように見えるが、そうではない。別のことを示唆しているつもりだろう。あるいは、表出している。「養子」とは、「淋しい人間」(7)の換喩だ。
 [近代日本人は、「養子」のようなものだ]という感傷が、それも、感傷だけが読者に伝わるように、『こころ』作者は仕組みたかったのだろう。だから、[「淋しい人間」の物語]の原典であるはずの[Kの物語]は、明示されなかった。それが明示されれば、養子でない読者には、他人事として読み終えられてしまいそうだからだ。作者は、[P/S/K]という三重の皮膜によって[淋しい養子(N)の物語]を隠蔽する。隠蔽によって、個人的な感傷が全体へ浸透することを容易にし、やがて、それは[世界]として共有されると空想した。
//「罪滅し」
  あらゆる努力を傾けて、ふたりにとってそれほど貴重な健康をラカン
 夫人が保つようにさせようとした。医者を呼び、なにくれとなくまわりで
 世話をやき、この看病の仕事に忘却、鎮静さを見出だし、そのためますま
 す熱心になった。自分たちの夜々をなんとか耐えられるものにしてくれ
 る第三者を失いたくなかったのだ。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』24、篠田浩一郎訳)
  私は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身の
 為でもありますし、又愛する妻の為でもありましたが、もっと大きな意味
 からいうと、ついに人間の為でした。私はそれまでにも何かしたくって堪
 らなかったのだけれども、何もすることが出来ないので已を得ず懐手を
 していたに違ありません。世間と切り離された私が、始めて自分から手を
 出して、幾分でも善い事をしたという自覚を得たのはこの時でした。私は
 罪滅しとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたの
 です。
                               (108)
 「罪滅しとでも名づけなければならない」というとき、「罪」「とでも名づけなければならない」何かがあるのだろうが、それは「罪」なのだろうか。すぐ後に、「人間の罪」(108)という言葉が出るから、「罪」はあるらしい。「罪」はあるが「罪滅し」の方法は、あるのか、ないのか。「罪滅しとでも名づけなければならない」行為は、「罪滅し」そのものである可能性を含むのか、含まないのか。そんなことは、どうだって構わないのか。「罪滅し」に成功すれば、Sが死ぬ理由も消滅するはずだ。しないのか。「罪滅し」の演技なら、気晴らしだろう。
 「罪」という言葉から思い出すのは、「恋は罪悪」(12)という言葉を巡る、「朦朧」(13)とした逸話だ。この「罪悪」らしきものが、Kの死に対する、Sの責任感と関連する何かなら、ここで、静ママが話題になるのは、おかしい。また、静に「優しく」(108)する理由も、分からない。
 私がうろうろしていると、[「罪滅し」かもしれない何かは、「大きな意味からいうと、ついに人間の為で」あるような何かだったんだよ]と明かされる。まごつく私を尻目に、勢いに乗った語り手Sは、「大きな人道の立場からする愛情」(108)について、説教を始め、果てには、「義理」(108)がどうとかと、静を貶めるようなことを口走る。
 私は、勿論、Sの苦悩を理解できないので、Sが自分の行為を「人間の為」とか、「人道」とか、勝手に形容することの判定は、できない。しかし、自分を責めていた人物が、突然、静を批判したり、「世間と切り離された私」などと、被害者のような言い回しをするので、驚くわけだ。
 「何かしたくって堪らなかったのだけれども、何もすることが出来ない」というのは、おかしい。「何か」とは、「幾分でも善い事」に限定しなければならないらしいが、そうだとしても、おかしい。人間は、どんな悪人でも、「罪滅し」のためなどではなく、社会にとって、「幾分でも善い事」をさせられることになっている。語り手Sは、何を仄めかしているつもりなのか。語り手Sは、いや、作者は、[「不可思議な私」(110)の「厭世」(66)と「狐疑」(72)の物語]の孕む「矛盾」(55)を最後まで処理できず、引っ込みが付かなくなり、主人公に腹を切らせることにしたかのようだ。「一番楽な努力で遂行出来るものは自殺より外にない」(109)などと、自殺する本人が主張するのは、悪い冗談としか思えない。こんな主張は、作者のものでなければならない。あるいは、[語られるSは、作者のふりをする語り手Sによって、殺される]とでも言うべきか。しかし、『こころ』において、そんな皮肉が意図されているとは思えない。
 語られるSが「世間と切り離され」ているように感じていたとしても、その感じが妄想でない限り、「世間」を拒んでいるだけのことだ。Sが無人島に漂着したのでないことは明白だから、「世間」からSを切り離すのは、静でなければ、S本人しかいない。どっちだ。
 ところで、Sは、「世間」を拒んではいない。ささやかながらも付き合いを残している。「何かしたくって堪らなかったのだけれども、何もすることが出来ない」という状態ではない。[P文書]では、ちょこまか、動いている。「友人を新橋へ送りに行って」(10)みたり、「友人に飯を食わせ」(15)てみたり。
//「広い背景」
  母の亡くなった後、私は出来るだけ妻を親切に取り扱かって遣りまし
 た。ただ当人を愛していたからばかりではありません。私の親切には箇人
 を離れてもっと広い背景があったようです。丁度妻の母の看護をしたと
 同じ意味で、私の心は動いたらしいのです。妻は満足らしく見えました。
 けれどもその満足のうちには、私を理解し得ないために起るぼんやりし
 た稀薄な点が何処かに含まれているようでした。然し妻が私を理解し得
 たにしたところで、この物足りなさは増すとも減る気遣はなかったので
 す。女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても
 自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思わ
 れますから。
                               (108)
 人に「親切」にするのに理由が必要だとは、たまげた話だ。「親切」にされたはずの静が「物足りなさ」を感じるとすれば、「出来るだけ」の「親切」では足りないのだろう。Sの考えは、違うようだ。どういう感覚の持ち主なのだろう。
 「妻が私を理解し得たところで、この物足りなさは増すとも減る気遣はなかった」というのは、おかしい。人や物それ自体を「理解」するという言い方もおかしいが、それは俗語として許容しよう。しかし、Sが言おうとすれば言えるようなことを言って、その内容を静が理解したとして、その後、[静は、「物足りなさ」を感じる]と、なぜ、Sは想像するのか。[静は、Sという人物そのものに好感を持てなくなる]という意味でないとしたら、何なのか。好感を持てない人物と、「ぴたりと一つ」(108)になることは、なれたとしても、なりたくないことだろうから、「物足りなさ」どころの話ではないはずだ。そもそも、言う気になれば言えるようなことが、Sに、本当に、あるのだろうか。
 語り手Sは、いや、作者は、理想的な理解者を想定できなかった。無理解な受信者の究極の姿が、静だ。では、理想的な理解者が現れれば、[Kの物語]を語ることができるのか。できないというのが、『こころ』の答えだ。あるいは、語りたくないというのが、本音かも知れない。
//「恐ろしい影」
  相知った最初の瞬間から、二人の心はいかにもぴったりと調和してい
 て、ウェルテルとのながい交際の間にいろいろと一緒に過してきた折々
 は、自分の心にぬぐいがたい印象を残している。面白いと感じたもの、面
 白いと考えたものは、ウェルテルとともにこれを相分つのが常であった。
 ウェルテルが自分から離れてしまえば、自分という存在に二度と埋めが
 たい空隙がぽかりと口をあけそうに思われる。ああ、もし、この現在、ウェ
 ルテルという人を自分の兄弟に変えてしまえたなら。どんなにか自分は
 幸福であろう。
             (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳)
  妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれない
 ものだろうかと云いました。私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧な
 返事をして置きました。妻は自分の過去を振り返って眺めているようで
 したが、やがて微かな溜息を洩らしました。
  私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃めきました。初めはそれ
 が偶然外から襲ってくるのです。私は驚ろきました。私はぞっとしました。
 然ししばらくしている中に、私の心がその物凄い閃きに応ずるようにな
 りました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜
 んでいるものの如くに思われ出して来たのです。私はそうした心持にな
 るたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑って見ました。け
 れども私は医者にも誰にも診て貰う気にはなれませんでした。
  私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をK
 の墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうし
 てその感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私はその感じのため
 に、知らない路傍の人から鞭たれたいとまで思った事もあります。こうし
 た階段を段々経過して行くうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭
 つ可きだという気になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺
 すべきだという考が起ります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行
 こうと決心しました。
                               (108)
 Sが、「医者」に行かないのは、[「恐ろしい影」の由来は、Kだ]と思い当たったからだろう。しかし、この展開は、逆でなければおかしいような「感じ」がする。「偶然外から襲ってくる」というのが、どのような状態を示すのか、明らかではないが、これが妄想なら、「どうかした」のだろう。「医者」に行こう。
 Sは、「自分の胸の底に生れた時から潜んでいるものの如くに思われ出して来た」と記す。「如く」という言葉を挿入し、事実ではないかのように装う。さらには、「自分の頭がどうかしたのではなかろうか」と、反語めかして駄目押しをする。[今になって、「どうかした」のではないが、「生れた時から」「どうか」していて、今になって、自覚症状が出た]という可能性は、検討されない。そんな可能性はないからだ。なぜか。
 「恐ろしい影」は、[Sの物語]にはないからだ。[Kの物語]にも、ないのだろう。[Nの物語]にはあるのかもしれない。そうでなければ、私の知らない作品か、諺か、何かに含まれているのだろう。とにかく、『こころ』の中には、発見できない。作者は、ある物語を隠蔽しつつ、ある物語に含まれた「恐ろしい影」を引き込んでいる。
 「恐ろしい影」の出現の契機は、一つしかない。それは、静の「溜め息」だ。
 「私の胸にはその時分から恐ろしい影が閃きました」という文は、日本語として、おかしい。ここで、「閃きました」という言い回しは、[閃くようになりました]などと記すべきところだ。あるいは、この文全体が、[「私の胸に」「その時」「恐ろしい影が閃きました」]という文の偽装だろう。
 「男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうか」という質問に対して、Sは「曖昧な返事をして置きました」と記す。しかし、Sの「返事」は、「曖昧」ですらない。話のすり替え。Sは、このとき、何かに脅えていたのだろう。しかも、作者も脅えた。作者の「胸に恐ろしい影が閃き」、逃げるように、語られるSに「曖昧な返事」というものをさせた。さらに、「返事をして置きました」などと、語り手Sに妙に気取った物言いをさせた。
 このとき、静は、[Sの「殆ど信仰に近い愛」(68)は、現実には不可能だ]と暗示したことになる。そうなると、共倒れだ。しかし、語り手Sは、その後も、「私と妻とは決して不幸ではありません。幸福でした」(108)と、しらを切り続ける。「私は妻に対して非常に気の毒な気がします」(108)というのに、なぜ、Sは、静の「幸福」について、保証できると思うのか。まるで、静は、自分が「気の毒な」状態であることに気づかないかのようだ。「不幸」に麻痺したのか。そもそも、何の権威に依拠するから、他人の「幸福」について云々できると思うのだろう。静と「ぴたりと一つになれない」と思われているSが、静の代弁者になれるはずはない。
 「あたしはどうしても絶対に愛されて見たいの」(『明暗』130)と願うお延が、「自分だけの事しか考えられない」(同109)人物だというのが本当なら、静も、また、「自分だけの事しか考えられない」人物として設定されているのかもしれない。そして、この性格は、「女」(108)一般に解消されるようなものではなく、静の欠陥と考えなければならないのかもしれない。それぞれ、どこかが壊れている、Nの作品の登場人物達の中で、静だけが壊れていないと考える方が、おかしいのだろう。とは言え、[絶対に「愛されて見たい」という渇望に対して同情できないような人間の精神は、「貧弱」(『明暗』126)なものだ]という設定、もしくは、感傷のようなものが隠されているのかもしれない。
 静の「物足りなさ」(108)は、Sの「寂寞」(107)やらの結果ではなかろう。Sの「寂寞」は、静の「物足りなさ」のせいで生まれる。あるいは、自覚される。Sは、静に「理解させる勇気が出せない」(107)自分を責めて見せるが、物語の根底にある、静への不信、あるいは、不審を、語り手Sが隠蔽しているので、辻褄が合わない。[Sは、今、静を満足させられない]という、Sの失望は、[静は、もともと、Sを愛していない]という、Sの不満の偽装だろう。[Sの不満が静に「映り」(106)、静が「物足りなさ」を表出すると、Sは、それに過剰に反応し、失望の演技を始める]というお粗末。
  「貴夫に気に入る人はどうせ何処にもいないでしょうよ。世の中はみん
 な馬鹿ばかりですから」
                            (『道草』92)
 Sは、静の愛を疑っている。しかし、[自分は、愛されていない]と認めると、なぜか、「恐ろしい影」が出現する。その理由は、誰にも分からない。作者にさえ、分かるまい。分からないから、なお、恐ろしい。ここで、Sは、[自分は、愛されていないのではない]と言い抜けようとして、[自分は、静から愛されるように仕向けていない]という物語を作る。だが、この物語は、[自分は、愛されるべきだ]という、誰にも自然にある感情と矛盾する。この感情は、静に対する怒りとなる。一方、Sも、また、静を愛していないので、Sは、静と同罪になる。Sは、静に向けた怒りを、静から向けられるべき怒りと混同し、自分を責めて遊ぶ。この主客混合遊びによって、「恐ろしい影」が「物凄い閃き」に反転する。
 「男の心と女の心」は、どうすれば、「ぴたりと一つになれ」るのだろうか。「男の心と女の心」が出所不明の[恐ろしい影」に脅えて、一緒に主客混合遊びを始めるときだろう。「若い時なら」、愛の地獄でなら、「なれるだろう」
  サン=ヴィクトール街の下宿の入り口までくると、とつぜん上にあがっ
 てゆくのが、ひとりきりになるのがこわくなった。説明しがたい、思いが
 けない、子供のような恐怖心におそわれ、屋根裏の部屋にだれか隠れてい
 るのではないかと不安になったのだ。いままで一度も、こんな臆病風に吹
 かれたことはなかった。それでこの不思議なおののきがどうして起こっ
 たのか、筋道たてて考えてみようとさえしなかった。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』17、篠田浩一郎訳)
  ふたりは向き合ったまま十時まで、ありきたりのことを話していたが、
 たがいに相手の心は理解していたし、ふたりともまなざしで、水死した男
 と一体となってたたかえる日が早くくるようにつとめようと、誓いあっ
 ていた。
                              (同17)
  いまではふたりは、同じひとつのおののきに身をふるわせていた。ふた
 りの胸は、いたましいえにしに結ばれた兄妹のように、同じひとつの苦悩
 にしめつけられていた。そのときからふたりは、楽しむときにも、苦しむ
 ときにも、ただひとつの肉体しかもたなかったし、ただひとつの霊魂しか
 もたなかった。
                              (同18)
  唇も開かず、ただじっと見つめあったまま、ふたりとも同じひとつの夢
 魔におそわれ、ふたりともたがいに目で、同じひとつのいきさつを語りか
 けはじめていた。こうしておびえきったまなざしをとり交わし、こうして
 人殺しについての暗黙の物語をしようとしていると、ふたりは鋭い、耐え
 がたい懸念におそわれるのだった。
                              (同21)
  ところが、ふたりの意志とは関係なしに、不思議な現象によって、ふた
 りがうつろな言葉を口にしているときも、ありきたりな言葉の下に隠さ
 れたさまざまな考えを、たがいにおしはかることができるのだった。いく
 ら追いはらっても、やはりカミーユのことが頭に浮かんでくるのだ。ふた
 りの目は過去のいきさつを語りつづけていた。大声で、ゆきあたりばった
 りに言葉のうけこたえをだらだらとやっている一方で、筋道のとおった、
 声のない対話がずっとまなざしでつづけられていた。ふたりがときどき
 発する言葉にはなんの意味もなく、前後に脈絡がなく、矛盾している。と
 ころが、ふたりは全身全霊を傾けて、たがいの胸をおののかす記憶のかず
 かずを、沈黙のうちにとり交わすことに没頭していたのだった。ローラン
 がばらの花だとか、煖炉の火だとか、なんだかんだとしゃべっていると
 き、テレーズは相手が小舟の中で格闘していたときのことや、カミーユ
 が鈍い音をたてて落ちていった姿を思いだしているのが、ありありとわ
 かっていた。そして、テレーズが無意味な質問にええとかいいえとか答え
 ているとき、ローランは、相手があの犯罪のある箇所を覚えているとか、
 覚えていないといっているのがわかっていた。ふたりはこうしてしゃべ
 りながら、ありのままに心をうちあけ、言葉を用いず、実はぜんぜん別の
 ことを話していたのだ。
                              (同21)
//「実証」
  「じゃ話して頂戴。どうぞ話して頂戴。隠さずにみんな此所で話して頂戴。
 そうして一思いに安心させて頂戴」
  津田は面喰った。彼の心は波のように前後へ揺き始めた。彼はいっその
 事思い切って、何もかもお延の前に浚け出してしまおうかと思った。と共
 に、自分はただ疑われているだけで、実証を握られているのではないとも
 推断した。もしお延が事実を知っているなら、此所まで押して来て、それ
 を彼の額に叩き付けない筈はあるまいとも考えた。
                            (『明暗』149)
 お延は、[虚栄心を捨てて、津田に「憑り掛りたい」(同149)と訴える]という演技に賭ける。彼女は必死だ。必死に演じている。演じることで、何かに「憑り掛りたい」という感情を解放する。お延は、津田に「憑り掛りたい」わけではないから、津田の本心を見極める必要がない。だから、津田の演技を見破れず、津田に「慰撫」(同150)されてしまう。
 作者は、お延を聞き手とする[津田と清子の物語]を構想できない。津田が隠したいからではない。津田は、誰にも、[津田と清子の物語]を語れない。作者は、[お延は、津田からでなければ、真実を知ることができない]という規則を固めることによって、実は、読者にこの規則を守らせようとしている。
 [津田と清子の物語]の語り手は、津田しかいない。しかし、同時に、津田には、この物語を語ることができない。いや、語ってはならない。津田は、[津田と清子の物語]の語り手ではなく、聞き手でいたいと思っているからだ。彼は、その物語を清子から聞きたいと思い、再会する。津田は、自分の期待する物語を、清子から聞きたいと願う。しかし、こうした願いこそが、[津田と清子の物語]を起動不能にしたはずだ。ここで異本を作れば、[津田の押し付けがましさは、清子を離反させた]という物語になる。
 この異本の物語は、作者の物語でもある。それは、[作者の強引さは、物語の自然な流れを目茶苦茶にして来た]というものだ。
 作者は、起動不能の物語を語る。つまり、本当には、何も語っていない。
 [作者は、「いっその事思い切って、何も」物語など、ないのだと、読者の「前に 浚け出してしまおうかと思った。と共に、自分はただ疑われているだけで、実証を握られているのではないとも推断した。もし」作者が「事実を知っているなら、此所まで押して来て、それを」読者の「額に叩き付けない筈はあるまいとも考えた」]
 「隠さずにみんな此所で話して頂戴」という、作中人物の訴えは、読者Nが作中人物に託した願いだ。「則天去私」しちゃえば、作者は、この願いを叶えることができるのだろうか。
 「浚け出して」しまうなら、[お延は、津田に愛されたことがない]と語られ、[津田は、清子に愛されたことがない]と語られ、[清子は、津田に愛されたことがない]と語られ、[作者は、φに愛されなかった]という文が露出する。だから、[作者は、φを愛さなかった]と続く。そして、[作者は、誰かが誰かを愛する物語を語ることができない]という文が摘出される。
 「憑」という文字は、不気味だ。「乗り移って来る」(68)と、Sが思うとき、お延に似ているのかもしれない静は、男に「憑り掛りたい」と思い、Sにも、Kにも、「乗り移って」いたのかもしれない。「母のない男」(75)KにSが「釣り込まれ」(76)るように、[父のない女]静は、Sに「乗り移って来る」わけか。そして、その事実、もしくは、可能性を、S、もしくは、作者は、隠蔽しつつ語るのか。
 [Sは、隠蔽した]と、作者は暗示するのか。作者が隠蔽し、そして、暗示するのか。あるいは、作者は、隠蔽したつもりなのに、表出してしまったのか。さもなければ、私には想像できないような、合理的な解釈があるのか。あるいは、合理的な解釈など、必要ないのか。
//「人間の罪」
  私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をK
 の墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうし
 てその感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私はその感じのため
 に、知らない路傍の人から鞭たれたいとまで思った事もあります。こうし
 た階段を段々経過して行くうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭
 つ可きだという気になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺
 すべきだという考が起ります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行
 こうと決心しました。
                               (108)
 Sが生まれた時から「罪」を持っていたとしても、それが「人間」一般に当てはまるとは限らない。生まれたときから持っている「罪」といえば、つい、[原罪]という言葉を連想してしまうが、連想だけでは、どうにもならない。
 「人間というものを一般に憎む事を覚えた」(30)と、Sは語った。他人に「屈辱と損害」(30)を与えることが、「人間の罪」の中身だろうか。SがKに「屈辱と損害」を与えたと考える必要はないと、私は思うが、誰かが[Sは、Kの死に対して「罪」を感じるべきだ]と言うなら、言うのは、その人の勝手だと思う。しかし、「その感じ」と同じものを、Sが静ママに抱く理由は、私には想像できない。ましてや、「路傍の人」の手を煩わせるといった話になると、自虐の快感に酔った夢想だろう。あるいは、語られるSの「思った事」は、「肉を鞭撻すれば霊の光輝が増す」(77)という手品のリバイバルに過ぎないと、語り手Sが承知しているのだろう。そもそも、「路傍の人」など、呼び止める必要はない。Pがいるのだから、Pに「鞭」を渡せば良い。なぜ、そうしないのか。「遺書」の物語は、Sの「頭の中の現象」(67)に過ぎず、その中に、Pが実在しないからか。Pは、まるで、手足をもがれ、口を塞がれ、「見たり読んだりする」(『草枕』1)だけの存在に作り替えられたかのようだ。
  涙を流したくなり、むせび泣いて気を晴らしたくなると、たちまちこの
 手足のきかない老婆の前にひざまずき、叫び声を上げたり、息をつまらせ
 たり、自分ひとりで良心の呵責なるものの一幕を演じ、それで気やすめを
 し、体をしずめるのだった。
              (ゾラ『テレーズ・ラカン』29、篠田浩一郎訳)
 「こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭つ可きだという気になります」以下云々の記述は、不可解だ。物語が不可解なのではなく、言葉自体が不可解だ。「こうした階段を段々経過して行く」という比喩が具体的に何を示すのか、私には分からない。また、ここで、なせ、「階段」の比喩が用いられるのかさえ、分からない。空想の「階段」のようなものがあるとしても、その第1段は、「人間の罪というものを深く感じた」というものだから、そのステップに足を置くまで、現実から、何段も「経過」したのではなかろうか。「Kの墓へ毎月行かせ」るのが、K個人に対する思いではなく、「人間の罪」に関連する何かだというのは、随分、人を食った話だろう。しかし、そういうものがあるとしても、なぜ、それは、静ママに関連して作用するのか。また、静ママを「経過」してから、静に至り、その後、「路傍の人」の側を素通りして、不意に、もう一人の「自分」に出会うという。この「階段」は、どういう構造になっているのだろう。
 「自分で自分を鞭つ」ったって、「鞭」の一本も購入した気配はないから、当然、比喩なのだろうが、それは、何の比喩なのか。「殺す」という言葉だけは現実的なようだが、この段階では、勿論、未遂の事実すらなさそうで、「死んだ気で生きて行こうと決心し」て、要するに、何だろう、この状態は、「書物の中に自分を生埋にする」(107)とか、「酒に魂を浸して、己れを忘れよう」(107)などというのと、具体的に、どう違うというのか。あるいは、この「時期」(107)のことを総括しているところだったか。
 言うまでもなく、実際に「路傍の人から鞭たれ」るよりも、「死んだ気で生きて行こうと決心し」た方が、楽に決まっている。[「死んだ気で生きて」いるから、「私と妻とは元の通り仲好く暮して」(108)いるふりができた]とでも言いたいのだろうか。「妻の母の看護」が演技なら、「妻に優しく」したのかどうか、知らないが、したとしても、それも、また、演技なのだろう。
 「死んだ気」だろうが何だろうか、とにかく、「生きて行こう」ということで、めでたく振り出しに戻ったらしいから、ここらで、ハッピー・エンドになりそうなものだが、ならない。なぜだろう。作者が困るからだ。作者は、どうあっても、Sを始末する気だ。しかし、語られるSに、死ぬ理由はなくなった。そこで、理由が必要になる。それが乃木の殉死(110)だ。
//「明治の精神」
 [明治製菓の製品]が何を指すのか、明らかだ。しかし、「明治の精神」(110)が何を指すか、明らかではない。明治製菓に社訓のようなものがあって、それが[明治製菓の精神]と呼ばれるということは、ありそうだ。そして、その場合、[明治製菓の精神は、明らかだ]と言える。明治天皇が自ら語った人生観のようなものが記録されているとしても、それを[明治天皇の精神]と呼ぶことは、私には、ためらわれる。その記録は、明治天皇が自分の精神だと思っていたことの記録でしかないからだ。誰かが、その記録の趣旨とは別の趣旨のことを、[明治天皇の精神]と呼ぶことは、不敬かもしれないが、不合理ではない。このことは、両者のどちらかが事実に反するとか反しないといった議論とは、別の問題だ。
 [明治政府の精神]という題名の文書があるのなら、その文書の内容を指して、[明治政府の精神]と言う人がいても、仕方がない。だが、[明治政府の施政方針]を指して、[明治政府の精神]と呼ぶのは、短絡だ。
 [明治の文学]という言葉を[明治に公刊された文学作品]という意味で用いれば、それが何を指すのか、明らかだが、[明治に執筆された文学作品]という意味に取れば、分かりにくい。執筆時期を特定することは、容易ではない。
 [明治の哲学]という言葉が[明治に公刊された、哲学的著作物]という意味なら、何を指すのか、明らかだが、[明治に執筆された、いや、思考された、不特定多数の人々の哲学]という意味なら、極めて曖昧だ。
 [明治の文化]という言葉は、言うまでもなく、便宜的なものでしかない。もし、[年号が明治から大正になった途端に、文化が変化する]という前提があるのなら、大変、困ったことになる。
 明治から大正にかけて、何かが変わったことは、誰もが認めることだろう。だが、文化の変化と年号の変化との間に有意味な関係があることを、証明することなど、できるのだろうか。勿論、明治天皇が文化政策を行ったのなら、その部分について、[明治天皇の「精神」は、明治の文化に影響を与えた]と言えよう。しかし、こうしたことは、事実を挙げてしか、言われない。
 Sは、「明治の精神が」(109)「天皇に終ったような気がしました」(109)と書いている。ということは、[「明治の精神」は、明治天皇の死が原因で終わるようなものではない]という含みを残す。[本来は、「終った」とは言えないような「精神が終ったような気がしました」]と言いたいのだろう。だから、Sは、「精神」という言葉を、文化などという言葉と同様に、幅のある、便宜的な、曖昧な言葉として用いているはずだ。「精神」とは、どのようなものか。[「精神が」「始まって」「終わった」]というのだが、「精神」は、始まったり終わったりするような何かであるらしい。
 私は、いつ、「明治の精神」という言葉に到着するのだろう。いつまでも、到着しない。私は、[「明治の精神」という言葉に到着するための道筋は、私には、ない]ということを示したかっただけだ。
 Sは、「殉死する積り」(110)と言っただけだから、言葉通りのことを実行したのかどうか、分からないが、とにかく、何らかの「精神に殉死する」ことは可能だということを示唆したことは、確かなようだ。しかし、どのような「精神」のためであれ、「精神に殉死する」という言葉によって示される出来事を想像することは、私にはできない。[殉教]ということも、話には聞くが、そのようなことが実際に起きているのかどうか、詳らかにしない。
 [Sの物語]が明治の何かを代表したり象徴したりするといった考えは、私には滑稽の極みだ。もし、Sの人生が明治の典型的な人生だというのなら、[明治の下宿には、それぞれ、孤立した二人組が住んでいて、仲良しごっこをしながら、下宿の娘を奪い合っていた]という事実を証明しなければなるまい。しかも、当時の青年の半分が自殺し、残りの半分も、成人後に自殺するのだ。
 「明治の影響を受けた私ども」(109)という記述は、奇妙だ。[乃木希典は、明治天皇の「影響を受けた」/受けなかった]と言うことはできる。しかし、[S夫妻は、明治天皇の「影響を受けた」]という話は、あまりにも唐突で、ありそうになく、情況証拠さえ見当たらない。
 「明治の影響を受けた」と言えるのは、[大正]だけだ。字面では、それしかない。だから、S夫妻は、大正が始まったか、あるいは、後に始まったとされることになる頃に、[大正の「精神」]を身につけてしまっているのかもしれない。
 さて、「明治の精神に殉死する」(110)という言い回しになると、もう、私の手には負えない。「殉死」という言葉は、ややこしい。「殉死」なんて、勝手にするものじゃない。この問題に目を瞑って走り抜けたとしても、しかし、Sの死に先立ち、「明治の精神」は死んでいなければならないことになる。
 [「明治の精神」は、死んだ]という文は、有意味だとしよう。このとき、S夫妻の頭の中で、「明治の精神」は死んでいるのか、いないのか。「明治の精神」が死んでいるとすれば、[Sの「精神」の一部に欠落が生じた]という比喩によって、自殺の物語に駒を進められるか。「明治の精神」が死んでいないとすれば、[殉教]といった、「殉死」よりもややこしい概念を引き寄せることになりそうだ。そして、その場合は、[Sは、自殺によって、「明治の精神」なるものを、永遠に栄えさせようと試みた]と解釈することになりそうだ。
 改めて言うまでもなく、[Sは、明治天皇に殉死する]などとは、考えてもいない。「もし自分が殉死するならば」(110)というのだから、はっきりとした区別があるはずだ。勿論、その区別の仕組みは、明示されていない。
 ここで、[Sは、「明治の影響を受けた」人々に共有されているはずの「精神」に「殉死する」]と作文するのは、困難ではないように思える。だが、Sが、人々と、「精神」であれ何であれ、共有していたと想像するのは、困難と言うよりは、滑稽だろう。人々と共有するものがあったのなら、「寂寞」(107)から、なぜか、「恐ろしい影」(108)に取り憑かれ、不意に「人間の罪」(108)へと飛び付き、「鞭」(108)まで持ち出して、自殺を決意する「経過」は、ドタバタ喜劇になる。猫が酔って水に落ちて死ぬ(『猫』)のと、変わりがない。ブラック・ジョーク。だったら、「明治の精神」なんて、「トチメンボー」(『猫』2)とか何かと同工異曲の「出鱈目」(『猫』1)の類いではないか。
  この僧都、ある法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは
 何物ぞ」と、人の問ひければ、「さる物を我も知らず。若あらましかば、この
 僧の顔に似てん」とぞ言ひける。
                       (吉田兼好『徒然草』60)
 Sが拘る「明治」という年号は、[慶応]か[大正]と区別されるものであるはずだ。Sが大正の気分を知るはずはないから、慶応かとも思うが、慶応だって、知っているとは言えまい。要するに、明治しか知らないSに、「明治」という言葉を持ち出す必然性はない。しかし、「現代」(14)は、秘めやかに大正初期を指すのだろう。だから、「明治」は、やはり、大正と対照されている。この対照が可能な時間の意識は、大正に生きる作者のものだろう。
 作者の時間の流入の例として、「私を理解してくれる貴方」(106)という記述が挙げられる。「遺書」を始めた頃は、「記憶して下さい」(63)と記されていた。それから、「通じさえすれば、私は満足」(85)だという感触があって、いつしか、理解可能の領域が生まれている。「呑み込めないかも知れません」(110)という疑念は残るが、「満足」なのだろう。
 こうした変化の原因を、「遺書」執筆中に起きたのかもしれない、語られるSの生活の変化などに求めることはできない。また、「遺書」執筆体験による自信の獲得などを空想するのも、不合理だ。自信ができたのなら、「恐ろしい影」を直視する自信が生まれても、良さそうではないか。それほどの自信でもないというのなら、読者は、Sの自信の程度を、微細に計測しなければならない。
 自信は生まれた。しかし、それは、Sに生まれたのではない。語り手Sのものであってもおかしくはないような自信は、作者に「宿る事」(56)となった。
 Pに対する信頼度の上昇は、『こころ』連載当時の新聞読者の反響によるものと想像される。作品に対する読者の評価の上昇によって、作者の側には読者に対する評価の上昇が起きて、そのことが、SのPに対する評価の上昇として表出される。作者の自信が語り手Sに投影される、しかし、それは、語られるSとは、直接の関係がない。だから、語られるSについて、初期設定に変化はなく、SにとってのK同様に、あるいは、Sにとっての乃木同様に、Pにとっては原因不明のまま、死ぬ。
 『こころ』は、素材を見ると世話物のようだが、倫理を強く押し出すところは時代物らしい。物語か歴史かと言えば、乃木夫妻の死を取り込むので、歴史だ。叙情か叙事かと言えば、叙事だ。登場人物達は非凡な性質で、「直覚」を具備している。
  予言しているのではなくて、実はこの時舞台にはいままで進行してい
 たドラマの時間とはまったく違う時間が入ってくる。
              (渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』「大詰」)
 静パパが軍人(64)という設定は、潜在的に、乃木事件を準備する。時代物は、素朴な時代劇ではない。[歴史的な事件に無名の庶民が関与した]という裏話、捏造を平然と行う、屈折した心理に基づく、歴史批判のドラマだ。『こころ』は、[乃木事件を正当に評価し得たのは、市井の無名の知識人Sだけだ]という、屈折した歴史認識を表明している。こんな物語は、実際にあったとしても、歴史的価値はない。だが、作者にとって、明治という環境は、このような物語に価値を認めたくなるようなものだったらしい。その根拠は、私には不明だ。
 作者にとって、明治のイメイジは、[『こころ』に記されたような出来事が実際にあり得た]ような時代として想起されるらしい。そのとき、『こころ』の中の時空は、「頭の中」(『三四郎』1)より狭い「日本」(同1)として、『こころ』という作品の中の時空としてではなく、その外の時空として、空想されているのではなかろうか。
 「明治の精神」とは、明治という、『こころ』作者にとっての過去を、『こころ』の中の言葉として「翻訳」(『三四郎』4、『虞美人草』5)するために必要な媒介変数のようなものかもしれない。[「明治の精神」という言葉は、『こころ』読了後には、読者の印象から消える]と、作者は考えていたのかもしれない。ところが。それは消えるどころか、奇妙なノイズとして、読者の「精神」にこびりついた。そして、そのノイズは、『こころ』の印象を歪めただけでなく、現実の明治のイメイジまでも歪め、大正から昭和へと引き継がれた。そのとき、『こころ』作者が無自覚に歪めた矢印は、そのまま、訂正されずに、虚構の明治のイメイジの上に実在の大正、昭和が出現した。だから、虚構の明治のイメイジを否定すれば、現実の大正、昭和のイメイジが壊れてしまう。
 例えば、現実の明治に、虚構の『三四郎』が発表された後、実在の水たまりが三四郎池と呼ばれるようになる。すると、『三四郎』出現以後の思い出の中だけではなく、それ以前の思い出の中でも、その水たまりは、三四郎池と呼ばれることになる。この思い出を、虚構と呼ぶことはできない。
 明治天皇は、生前は、[明治天皇]とは呼ばれなかった。だが、私達は、生前の明治天皇の言動の主語として、[明治天皇]という言葉を用いる。
 広田の「頭の中」(『三四郎』2)の日本は、三四郎の「頭の中」の日本と、同じものではない。広田は、広田の「頭の中」の日本が、三四郎の「頭の中」の日本より、広いと思っているのか、狭いと思っているのか。そんな比較はできない。広田は、[あるものは、あるものの中にあるものより、小さいことはない]という、当たり前のことを気取って言っているだけだ。比較するとしたら、広田と三四郎の、それぞれの「頭の中」の広さでなければならない。この比較は、『こころ』では、「背景」(56)の有無として、再演される。驚くべきことに、「背景」の広さの比較ではない。
 広田の「頭の中」を覗くと日本が見えたはずだが、生憎、見せてはもらえなかった。Sの「背景」を、あるいは、「過去」(56)を眺めると、明治が見えるらしいが、これも、生憎、見えない。
 日本も、明治も、作中人物の「頭の中」にしかない。地理や歴史のお勉強をいくらやっても、無駄だろう。例えば、ドン・キホーテが信じた[騎士道精神]を、実在した騎士達の思想や心情と比べるという作業は、やるだけ、無駄だろう。比べるとしたら、作中人物が読んでいたらしい騎士道物語に盛られた[騎士道精神]と比べなければならない。では、私達は、Sの読んでいた「書物」の中に、「明治の精神」を探すべきなのだろうか。はて、Sは、何を読んでたっけ。
//「明治の影響を受けた私ども」
 「最も強く明治の影響を受けた私ども」(109)という文句の「私ども」という言葉を、具体的に[S夫妻とK]に書き換えてから、「明治」の部分を空欄にして見てみると、あなたは、そこにどんな言葉を挿入したくなるか。静ママだろう。
 [「最も強く」静ママの「影響を受けた」Sと静とK]が、静ママの死後、「生き残っているのは必竟」何とかかんとかだ「という感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にそう云い」たくても言えなかったので、沈黙する私に「妻は笑って取り合いませんでしたが」、自分でもそう「思ったものか、突然私に、では殉死でもしたら可かろうと調戯いました」](109))
 母は死にました。        │ すると夏の暑い盛りに明治天皇が
                 │ 崩御になりました。
 私と妻はたった二人ぎりになりま │ その時私は明治の精神が天皇に始
 した。             │ まって
 妻は私に向って、これから世の中 │ 天皇に終ったような気がしました。 
 で頼りにするものは一人しかいな │
 くなったと云いました。     │
 自分自身さえ頼りにする事の出来 │ 最も強く明治の影響を受けた私ど
 ない私は、妻の顔を見て思わず涙 │ もが、その後に生き残っているの
 ぐみました。          │ は必竟時勢遅れだ
 そうして妻を不幸な女だと思いま │ という感じが烈しく私の胸を打ち
 した。             │ ました。
 又不幸な女だと口へ出しても云い │ 私は明白さまに妻にそう云いまし
 ました。            │ た。
 妻は何故だと聞きます。妻には私 │
 の意味が解らないのです。    │
 私はそれを説明してやる事が出来 │
 ないのです。          │
 妻は泣きました。        │ 妻は笑って取り合いまぜんでした
                 │ が、何を思ったものか、突然私に、
 私が不断からひねくれた考で彼女 │ では殉死でもしたら可かろう
 を観察しているために、そんな事 │
 も云うようになるのだ      │
 と恨みました。         │と調戯いました。
              (108) │              (109)
 静は、静ママに死に後れ、Sを頼るが、Sは拒む。Sは、「恨」まれる。
 Sは、「時勢遅れ」になり、静を頼るが、静は「取り合」わない。Sは、「調戯」われる。
 「不幸な女」という言葉の「意味」を、つまり、それが属する文脈を、Sは、静と共有できない。では、Pとは、共有できるのだろうか。
 「ひねくれた考」という言葉の属する文脈を、静は、Sと共有しているつもりなのか。Sは、どういう文脈で、この「言葉」を聞くのか。Pは、静か、Sか、どちらかと文脈を共有しているのだろうか。
 静の言う「殉死」という言葉の属する文脈を、Sは知らないはずだ。知らないのに、なぜ、Sは「調戯」われたと思うのだろう。Sは、文脈の知れない言葉を投げかけられると、反射的に、「嘲笑の意味」(70)に取るのだろうか。静も、Sの言う「不幸な女」という言葉の文脈を知るまい。だから、静も、それを「嘲笑の意味」に取って、「恨」むのだろう。二人は似ているのだろうか。二人とも、相手の文脈を「物足りるまで追窮する勇気を有っていなかった」(70)ようだ。こんな傾向は、「普通の人から見れば、まるで」(76)何だと形容されるものと、作者は思っているのだろう。「勇気」の欠如が話題になるような場合ではない。
 「明治の精神」(110)という言葉の属する文脈を、Sは、「最も強く明治の影響を受けた」静や、自分を「理解してくれる」(106)と思うPと、共有していると思うのだろうか。作者は、この言葉の属する文脈を、読者と共有できると信じているのだろうか。信じていないとすれば、作者は、読者を「調戯」うのだろうか。「調戯」うのは、「仲好く」(108)やれている証拠だとでも言うのだろうか。
  私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻り合せがあります。二人を一束
 にして火に燻べるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としか私
 には思えませんでした。
                               (109)
 Sにとって、何が「無理」で、何が「無理」ではないか、私に分かるのは、「無理」のようだ。
 ここで、Sは、弁解をしているらしい。何のための弁解だろう。[なぜ、Sは、静を殺さないのか、その理由を、Pは知りたがる]と、Sは思うのだろうか。あるいは、[静は、実は、無実ではない]という仄めかしか。あるいは、無実だが、夫唱婦随で、心中しない静を、Sが庇ってやっているところか。しかし、[静は、Sに、心中話を持ちかけられて断った]のではないのだから、Sが静を庇う必要はない。勿論、断ったとしても、静を責めるのは、酷い。
 「未亡人」(64)という言葉がある。静は、静ママ同様、未亡人になるわけだ。[妻は、夫の死に殉ずるべきだ]という[世界]があって、そして、[静の殉死の義務を、Sは免じる]という物語が裏で語られているのかもしれない。[Sの死後、静が後追い自殺をしなくても、Sは恨まない]という意味か。あるいは、[「未亡人」静について、Pは、Sに対する静の愛を疑ってはならない]と仄めかされているのか。Pが疑いさえしなければ、S自身の疑いもないことになるのか。あるいは、Pが静の愛を疑えば、静はともかく、Sが侮辱を感じるのか。
//「どっちが苦しい」
  乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っ
 ていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦
 しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろ
 うと考えました。
                               (110)
 あ、そう。「考え」たのね。で、「どっち」に決めたの? 
 「どっち」にせよ、「世間」(1)から「遺書」について説明を求められることよりは、苦しくないのだろう。逮捕される前に自殺する人は、少なくない。
 Sは、[乃木は、過去の過失に拘泥していた]と想像するらしいが、この想像が事実だろうとなかろうと、こんな想像をするのは乃木を冒涜するのと同じことだと、私は思う。俗に言う[贔屓の引き倒し]だ。[腹を切るとき、乃木は痛がったらしいよ]なんてことを示唆して、何が楽しいんだろう。
 人の弱点を認めて、「人間らし過ぎる」(85)などと、褒めるのか、貶すのか、わけ分かんないことを言って悦に入るのは、当人の勝手だが、謀ってまで「人間らしくする」(79)のは、犯罪的なお節介だろう。ましてや、想像の中で、人を「人間らしくする」のは、その人に対する悪意の表出としか、思えない。
 上流階級の人間を自分達の身の丈に合わせて庶民的に描くことは、「かつてはその人の膝の前に」(14)云々で、「侮辱」(14)しているわけだが、作者はそのことに気づかないのだろうか。知盛に宿屋をやらせ(『義経千本桜』)たりするのと同様の、趣向のための趣向でしかない。
 『こころ』作者は、「不可思議」(110)とやらを装うためか、できるだけ、あり得ない方向に話を引っ張って見せる。私には、「不可思議」には見えない。ただの失敗、混乱に見える。
//「先生の本を読みながら」
 Aは、「自殺者の心理をありのままに書いたものはない」(『或旧友へ送る手記』)と書くが、ないのも当然だろう。何かを書きつつある人は、まだ、生きている。死んだら、何も書けない。自殺者の霊が書いたとされるものはあるかもしれないが、それが「ありのままに書いたもの」かどうか、確かめることはできまい。「自殺者」のものだろうが、自殺志願者のものだろうが、誰のものだろうが、人の「心理をありのままに書いたもの」があるかどうか、分かるはずがない。もし、そのような文書が実在すると、Aが信じるのなら、妙な懐疑心など、すぐに捨てられるはずだ。
 [Kは、その遺書で、静について書くことを「わざと回避した」(102)]と、Sは書く。そして、その「回避」行動の裏側に、Kの複雑で痛切な情念のようなものを想定し、それを受け取ったかのように装う。Sは、Kの「回避」行動の見事さに感動する。あるいは、感動したふうを装う。「回避」行動だったのかどうか、確認は取れないのに、Sは、Kが書かなかったことにこそ、重要な意味を見つける。あるいは、見つけたふりをする。あるいは、見つけたという物語を仄めかす。仄めかされているのは、Pだ。Sも、何かを「回避」している。自分がKの「回避」行動から得たと仄めかす何かについて、詳述することを「回避」する。Pも、また、Sから得た知識の大部分について、詳述することを「回避」する。そして、『こころ』読者も、自分の読後感の詳述を「回避」する。「回避」こそ、Sの知恵の奥義であるかのようだ。
   あらゆる詩人たちの問題は恐らくは「何を書き加えたか」よりも「何を
 書き加えなかったか」にある訣であろう。
                  (A『文芸的な、余りに文芸的な』37)
 「明治の精神」(110)とは、[明示しない語法]、つまり、表出としての[暗示的語法]のことだ。『こころ』で、作者は、[暗示的語法]の限界を認める。ただし、「暗示」(103)として認める。あるいは、認めたのと同じような表出をする。[暗示的語法]の限界の表出として、Sの自殺が暗示される。Sの死は、明示されない。Sは死ななかったからだ。Sは、死んだふりをして、読者の前から姿を消し、仮面を取って、Nに戻り、生き延びる。
 自殺と擬死は、死が実現するまで、区別できない。何かを暗示することと、何かを暗示したふりをすることとの違いは、暗示された何かが明示された後でなければ、明らかにならない。私達が聞かされている言葉や見せられている所作が、本当は、誰が誰のために発信するものなのか、分からない。
 勿論、手品師本人が、自分の手品を手品だと思わない場合もある。暗示を暗示だと思わず、明示だと思う場合もある。Nは、自分の言葉遣いを手品の一種だとは思わなかったのかもしれない。「念力」(『彼岸過迄に就て』)だと思っていたらしい。手品を「念力」だと、自他共に思い込ませることのできたNを羨望して、Aは次のように記す。
  どこか遠い空中に硝子の皿を垂れた秤が一つ、丁度平衡を保っている。
 ─彼は先生の本を読みながら、こう云う光景を感じていた。……
                            (『阿呆』10)
 Aには、Nにとって、[正気/狂気]が、あるいは[本質/非本質]が、あるいは[個人/国家]が、あるいは[愛/富]が、あるいは[神聖/罪悪]が、現実から遊離した、仮想の空間で、やっと「平衡を保っている」ように見える。現実に触れれば、そのバランスが壊れるだけではなく、「硝子の皿」そのものが粉々に砕け散ってしまおう。[非文学/文学]が。
 現実の諸関係の中で試されることのないように思想を紡ぐことは、可能だ。人は、その営為を[文学]と呼ぶらしい。可能だと信じさえすれば。
 Nは、日本で、最初に「文学者」(『野分』1)を演じた作家の一人だ。「文学者」という立場にないのに、作者になってしまうのは、Nには、危険なことだと思われたはずだ。「文学者」ではない作者は、「ヒステリイ」(『文芸的な、余りに文芸的な』35)患者の同類だと思われるからだ。本当は、幼児だと思われるのだが。
 Aは、自分が患者に見えないように、「文学者」を装う。ところが、Nは、そうした危惧を自覚することなしに、「文学者」を演じることができた。
 現代風に言い換えれば、[抑圧は、芸術の源泉だ]ということにでもなろうか。しかし、実際には、[個人的な芸術]という概念が認知されると同時に、「ヒステリイ」という概念が発明、あるいは、再発見されたのだろう。


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