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#085[世界]45先生とA(35)リプリーの場合 //「意気地なし」 彼は不意に、十二歳のころの夏の日を思い出した。ドッティ叔母と彼女 の女友だちにつれられて、車で旅行をしていたときだが、どこでだったか、 ひどい交通渋滞に巻きこまれたことがあった。暑い日だった。ドッティ叔 母は彼に魔法ビンをもたせて、ガソリンスタンドへ氷水を買いにいかせ たのだ。すると、とつぜん渋滞していた車が動きだした。すこしずつ進む 大型車の間を走り、ドッティ叔母の車のドアにいまにも手が触れそうに なりながら、なかなかうまくいかなかったことを覚えている。彼女はすこ しも待ってくれようとせずに、せいいっぱいのスピードで車を走らせ、窓 から叫びつづけた。「さあ、早く、早く、のろまね!」やっと追いつき、苛立ち と怒りで頬に涙を流しながら乗りこむと、彼女は女友だちに、「意気地な しなの! ほんとうに意気地なしなのよ。父親そっくりだわ!」と愉快そう に言った。こんな仕打ちをされていたことも、こんな境遇から抜けだせた ことも、不思議だった。どんな経緯があって、ドッティ叔母はトムの父親 を意気地なしと思ったのか。そんな話をひとつでも聞かせてもらえただ ろうか。聞かせてもらったことがあるのだろうか? 一度もなかった。 (パトリシア・ハイスミス『リプリー』佐宗鈴夫訳、以下同) //「誓いを立てた」 八歳のときすでに、ドッティ叔母から逃れようと誓いを立てた記憶が ある。そして、こんな暴力的な場面を想像していた─ドッティ叔母が引 きとめようとすると、こぶしで殴りつけ、地面に投げとばし、喉を絞め、最 後には、大きなブローチを相手からもぎ取って、喉をめった刺しにするの だと。 //「羨望」 嫉みと自己憐憫がきゅうに込みあげてきて、トムは羨望の念にかられ た。 //「気に入られること」 数日間はこのままなにもしないでいよう、と彼は思った。とにかく、ま ずはディッキーに気に入られることだ。ほかのことはなにも考えていな かった。 //「彼女」 マージはかなりうっとりした様子で、まっすぐディッキーの顔を見あ げていた。トムはひどくいやな気がした。ディッキーが本気ではないこ と、ただこの安あがりなわかりやすい楽な手を使って、彼女との付き合い をつづけようとしているだけであること知っていたからだ。腰にまわさ れているディッキーの腕の下にある、彼女のペザント・スカートのなかの ヒップの大きなふくらみにも、嫌悪感をおぼえた。あのディッキーが! ト ムは彼がまさかこんなことをするとは思ってもいなかったのだ。 //「絆」 「こうするしかなかったんだ。わかってるな」 あいかわらず息を切らし て、マージに言った。鏡に映っている自分の姿を眺めていたのだ。「おまえ はトムとぼくの邪魔をしているんだ─いや、ちがう! ぼくたちの間に はしっかりした絆がある!」 //「ゲイ」 「マージとはうまくいってるさ」 ディッキーはおまえには関係ないこと だというようにぴしゃりと言った。「もうひとつ話しておきたいことがあ る。はっきりと」彼はトムをじっと見つめて言った。「ぼくはゲイなんか じゃないぜ。きみがそう思っているかどうかは知らないが」 「ゲイだって?」トムはかすかに微笑した。「ゲイだなんて考えたこともな いよ」 //「あきらめよう」 ヴィックが居合わせた席で、たぶん、連中相手に三度か四度、「男を好き なのか、女を好きなのか、自分でもはっきりしないんだよ。だから、どっち もあきらめようと思ってる」と言ったのだ。 //「錯覚」 目は他人を観察し、実際に心のなかがどうなっているかをうかがい知 ることのできるただひとつの場所だ。が、そのときは、ディッキーの目を 見ても、固くて冷たい鏡の表面に映る程度のものしか見えなかった。胸が 締めつけられるように苦しくなり、両手で顔をおおった。ディッキーをい きなりもぎ取られたような感じだった。ふたりは友人なんかじゃない。お たがいになにもわかっていないのだ。それがトムには恐ろしい真実のよ うに思われた。いつでもそうなのだ。かつての知り合いも、将来知り合う 相手も、そうだろう。みんな彼のまえに立っていたし、これからも立つこ とになるにちがいない。だが、けっして相手を知ることはないのだ。それ を何度も思い知るだろう。なおいけないのは、かならずしばらくの間は相 手を知ったような気になり、自分たちは似た者同士であり、ほんとうに仲 がいいのだという錯覚におちいることだ。それに気づいたときの言うに いわれぬ一瞬の衝撃は、自分にはとうてい耐えられそうになかった。はげ しい興奮に襲われて、いまにも倒れそうな気がした。たまらなかった。 //「敵」 夕立の雨滴がぽつりと頭に落ちて来た。雷のゴロゴロ鳴る音がしてい る。頭上にも敵がいた。「死にたいよ」と、トムは小声で言った。 //「人間味のない頑固さ」 彼はディッキーの閉じた目蓋を凝視していた。憎しみや愛情や苛立ち や欲求不満といった狂おしい感情が心のなかでふくれあがり、息が苦し くなった。殺してやりたいと思った。そう思ったのははじめてではない。 まえにも一度か二度か三度、怒りか失望から、そういう衝動にかられたこ とがある。それはすぐに消え、恥ずかしい思いだけが残った。が、今回は一 分か二分、そのことを考えていた。いずれにしても、ディッキーとはおさ らばするのだ。もはやなにを恥じることがあるだろう? ディッキーとは なにもかもうまくいかなかった。トムは彼を憎んでいた。この事態はどう 見ても、うまくいかなかったのは自分の責任ではない。こうなったのは、 自分のせいではなくて、ディッキーの人間味のない頑固さのせいだ。それ と、彼の露骨な不作法さだ! トムはディッキーに、友情も、付き合いも、敬 意も、必要なものはすべて捧げてきたのだ。それにたいして、彼は忘恩と 敵意で報いたのだ。トムはのけ者にされていた。この旅の途中でディッ キーを殺しても、事故死ですませることができると思った。そして─彼 はそのとき、すばらしいことを思いついていた。つまり、自分がディッ キー・グリーンリーフになりすますのだ。ディッキーのやっていたことが すべてできるわけだ! //「自分が作り上げた事実」 トムは自分が作りあげた事実にしっかりしがみつき、心のうちで死ぬ までそれらを守りぬく決心をしていた。 //「自然」 トムはローマでの二日間の話をした。つまり、あのころ、ディッキーは 警察の事情聴取をうけて、腹を立てたり、沈みこんだりしていたのだ。そ して、友人や知らない相手からかかってくる電話を避けて、実際にアパー トを出ていった。トムはこれをディッキーの内部で増大した挫折感と結 びつけてしゃべった。絵のほうの腕が思うようにあがっていなかったか らだ。頑固な誇り高い若者、父親に頭があがらないので、期待に背く決心 をした、むしろ生き方に迷っている男、友人にはもちろん、見知らぬ相手 にも思いやりはあるが、気分屋で、ひどく社交的かと思うと陰気に閉じこ もってしまう面をもった男として、トムはディッキーを仕立てあげた。要 するに、自分を非凡な人間と考えたがるごく普通の若者ですよ、と彼は最 後に言った。「自殺したとすれば、彼が自分の足りないもの、無力さに気づ いていたからだと思います。殺人を犯したと考えるより自殺したと考え るほうがずっと自然です」 トムはそう結論をくだした。 |