『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#086[世界]46先生とA(36)「イフプレッス」

//「もみ消し」
  わたくしは、仏教学者である日本の友人を尋ねて、この事件の宗教的意
 見について、二このことを尋ねてみた。自殺は、人間の弱さをさらけだし
 たものであるとしても、かの僧侶の自殺は、ひとつの英雄的行為だと、わ
 たくしには思われたからである。
  わたくしの友人は、しかし、そうは思わなかった。友人は、かえって非雛
 の口吻をさえ洩らしたのである。友人のいうところを聞くと、仏陀は、自
 分の犯した罪をのがれるための方便としての自殺を、ただ考えるという
 だけでも、その人間を聖者とともに生きる資格のないものとして、精神的
 に勘当したものだ、というのである。自殺したかの僧侶のごときは、釈尊
 が愚者と呼ばれたもののひとりだ。自分の五体をあえて毀損し、それに
 よって、自分の心のなかにある罪の原因をもみ消したと考えられるよう
 な人間こそは、愚者でなくして、なんであろう、というのである。
  そこで、わたくしは抗議を申し入れた。「しかし、この僧の生涯は、潔白
 でしたがね。かりにですね、この僧が、自分では意識しなかったかもしれ
 んが、他人に罪を犯させないために、みずから死を求めたのだとしたら、
 どういうことになるでしょう。」
  友人は、皮肉な笑いをもらしながら、次のような話をした。
        (ラフカディオ・ハーン『心』「因果応報の力」3、平井呈一訳)
//「書きたい事」
  あなたに会って静かに話す機会を永遠に失った私は、筆を執る術に慣
 れないばかりでなく、貴い時間を惜むという意味からして、書きたい事も
 省かなければなりません。
                               (62)
  この文は、[Sは、「叔父」との「談判の顛末」(62)について書かない]理由について語っている。語り手Sが書くに値すると信じていた「大事なもの」(62)は具体的に示されないが、[Sの「書きたい事」の一つは、Sと「叔父」との物語だ]ということは、この文によって、推定できる。「時間」が「貴い」理由は不明。
 さて、「談判の顛末」の、その後は、こうなっている。
  私は永く故郷を離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見ま
 いと心のうちで誓ったのです。
  私は国を立つ前に、又父と母の墓に参りました。私はそれぎりその墓を
 見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。
                               (63)
 「私はそれぎりその墓を見た事がありません」という文と、「もう永久に見る 機会も来ないでしょう」という文の間には、飛躍がある。「永久に見る機会も来ない」理由は、何か。Sが急いで自殺しなければならないからか。しかし、いくら、急いでいるからと言って、「遺書」を書く時間はあるのだから、ほんの数日、帰郷して、「父母の墓の前に脆ず」(61)いたって、罰は当たるまい。
 「叔父の顔を見まい」という感想が、[その後、父母の「墓を見た事」はないし、「永久に見る機会も来ない」]という事実や予想と並べられるのは、おかしい。 [語られるSは、「叔父」を嫌うと同時に、故郷を捨てただけでなく、「父母の墓」をも捨てる]という展開は、追跡できない。語られるSは、「厭世的」(66)になる と同時に、「人類」(66)を「敵視」(66)するということを始める。[「厭世」の物語]はあるが、[「人類」を「敵視」する物語]はない。憎むべき「人類」の中に、Sの「父母」も入っているかのようだ。あたかも、「父母」を「敵視」するのではないと言いわけするために、「叔父」を「敵視」し、しかも、「人類」まで引き出したかのようだ。言いわけに過ぎないから、結局、何もしないのだろう。その代わりに、[Kを「敵視」する物語]が始まり、[「叔父」や「人類」を「敵視」する物語]が消える。
 [「叔父」に対する「復讐以上の事」(30)である「人聞と言うものを一般に憎む事」]をしているから、[「叔父」に「復讐」をしない]というのは、屁理屈にもなるまい。Sは、「叔父」を憎んでいるのでなく、まず、恐れているのではないか。「復讐」を空想することさえできないほど、恐れているのではないか。Kは「叔父」のダミーではないか。「顔を見まい」というのは、顔を見るだけでも怖じ気づいてしまうからだろう。「叔父」ヘの恐れが、Kに対する恐れという、根拠のない、妄想的な気分を生み出す。妄想だから、Kの死後も、恐れは続く。いや、その妄想的な気分が剥き出しになる。恐れは、「生まれた時から潜んでいるものの如く思われ」(108)るが、「生まれた時」にSを恐れさせたのは、「父母」だろう。あるいは、「叔父」が何かしたのに、そのことを忘れたというのか。
 ところで、ここで、[親友面して接近したSの謀略によって、Kは敗北する]という物語があるとして、この物語の中のSが自分の行動を恥じるのはSの自由だが、KとSは、基本的に、どんな謀略に対しても自分達を正当化できない立場にあるということを、改めて確認する必要があるのだろうか。彼らは「天下を睥睨するような事を云っていた」(73)という。だから、「天下」の万民は、いつでも、どこでも、どのような手段を用いてでも、彼らを「睥睨」し返す権利を与えられたことになる。その権利を、Kに対して、その仲間であるはずのSが行使したとしても、何の不思議もない。Sだって、「天下」の万民の一人だからだ。また、「睥睨するような事を云っていた場所が「六畳の間の中」(73)だろうが、貴族のサロンだろうが、新開紙上だろうが、誰かの「頭の中」(67)だろうか、同じことだ。語られるSの「頭の中」で「睥睨」された、「天下」の万民の一人であるS0、『こころ』には登場しないSe、語られるSの「頭の中」の隅っこで息を殺して生きているはずのS0が、自分を「睥睨」したSを呪うことに、何の不思議もない。また、[Kの被害者であるSの、正当な反撃に関する、不必要な後
悔]と、[「偉くなる積りでいた」(73)Sに「睥睨」された被害者S0、まだ「偉く」ない、もう一人の自分S0の呪いに対する、Sの不当な再反撃に対する、被害者S0の恐怖]とが、語られるSの「頭の中」で、ごっちゃになってしまうのも、不思議ではない。思春期には、誰もが体験しそうな混乱だ。だが、語り手Sの言葉としても混乱したままであるのは、おかしい。もしかして、作者には、[思春期は近代の産物で、これは、明治には、生まれたばかりで、まだ、発見されていなかった]という設定か、限界のようなものがあるのだろうか。
 物語の展開を見れば、[「敵視」の物語]は、[SとKの物語]によって決着を見るらしいが、[「厭世」の物語]には、落ちがない。言い換えれば、[「敵視」の物語]は、[加害者Sの物語]として語られるが、「「厭世」の物語]であるはずの[被害者Sの物語]は、出所不明の恐怖と[「寂爽」(107)の物語]に分裂し、有効な結末を持たない。Sの自殺が、「遺書」の中に、予定として、記されるに止まる。自殺の意味するものが贖罪か、逃避か、病気の一種か、新発明の極端な「睥睨」か、Pにも分かるまい。作者にも、分からないのではなかろうか。
 あるいは、[「厭世」の物語]は、密かに語り終えられているのかもしれない。
  葬式の帰りに同じ問を掛けて、同じ答を得たKの友人は、懐から一枚の
 新聞を出して私に見せました。私は歩きながらその友人によって指し示
 された箇所を読みました。それにはKが父兄から勘当された結果厭世的
 な考を起して自殺したと書いてあるのです。私は何も云わずに、その新聞
 を畳んで友人の手に帰しました。
                               (105)
 「勘当された結果厭世的な考を起して自殺した」というのが、新問記者に代表される「世間」(1)の解釈する[「厭世」の物語]の結末だ。Sが「Kの歩いた路を、Kと同じように辿って」(107)自殺するとすれば、[Sの物語]も、「世間」の観点では、「勘当された結果厭世的な考を起して自殺した」と総括されるのではないか。そして、Sが「書きたい事」というのも、このことなのではないのか。しかし、どう頑張っても、「世間」の解釈を覆すような「自叙伝」(110)を作れないので、「不可思議な私というもの」(110)を残して、ドロンするのではないか。
 「Kに友達という程の友達は一人もなかった」(89)という証言を裏切るかのように、「Kの友人」(達)が登場する。「葬式の帰り路に、私はその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました」(105)と、Sは記す。「その友人の一人」の「その」が指す言葉は、見当たらない。「その」が「私」を指すとすると、日本語として変だ。「Kの友人」(達)の誰かがSの友人であってはならない理由はないが、ここは、そういう意味ではない。「その友人の一人」という人物は、どこから現れて、どこへ去って行くのか。「その友人の一人」と「Kの友人」として登場した人物は、同一人物か。私には、判断できない。彼(ら)は、「世間」とSの中間にいて、「早く御前が殺したと白状してしまえ」(105>と詰め寄るのだろう。そして、「Kの友人」のものとして空想される考えこそ、「Kの友人」であるSの、本当の、比喩でも何でもなくて、本当のSの考えなのだろう。つまり、Sは、Kを殺したのと同じような気分を味わっているわけだ。Sは、殺意を認めている。殺意があったから、殺人者の気持ちを想像してしまうのではなかろうか。
//「胡魔化した」
  一口でいうと、叔父は私の財産を胡魔化したのです。事は私が東京へ出
 ている三年間の間に容易く行なわれたのです。凡てを叔父任せにして平
 気でいた私は、世間的に云えば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から
 評すれば、或は純なる尊い男とでも云えましようか。私はその時の己れを
 顧みて、何故もっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自
 分が口惜しくって堪りません。然しまたどうかして、もう一度ああいう生
 れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。記憶
 して下さい、あなたの知っている私は塵に汚れた後の私です。
                               (63)
 「遺書」読了後の読者には、「私は塵に汚れた」という文句が[SとKの物語]に含まれると誤読するのかもしれない。しかし、この文句は、[SとKの物語]に含まれているのではない。明らかに、[Sと「叔父」の物語]の総括だ。Sが「汚れた」と言うのは、[Sは、「正直」ではない]という意味だ。「正直」というのは、「世間的に云えば本当の馬鹿」という意味だ。しかし、「世間」は、「財産を胡魔化」されたSを「本当の馬鹿」とは呼ぶまい。[「馬鹿」のようだ]とさえ、言うまい。
 [Sと「叔父」の物語]を、「一口でいう」のではなくて、その「顛末を詳しく此所に書く」(62)と、その「顛末」を知った「世間」の人々は、[Sにも、落ち度がある]と判断すると、Sは思うのだろう。Sは、何かを「胡魔化し」ているはずだ。
 Sは、何か、「胡魔化」されたような気がしている。しかし、「胡魔化」したのが、誰か、明示できない。自分で自分に「胡魔化」されているからだろうか。
 「叔父」は、「財産を胡魔化した」だけではない。同時に、語られるSの性愛感情をも「胡魔化」そうとした。つまり、Sの気持ちを確かめもせずに、「叔父の娘と結婚」(63)させようとした。語られるSが不愉快に思っているのは、「財産」問題と「結婚」問題を混同しているからだ。Sは、「財産」問題でトラブルが生じなければ、「叔父の娘と結婚した」(63)かもしれない、その可能性を引きずっている。だから、「ああいう生まれたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持」が消えない。
 ところが、一方で、「叔父の娘と結婚した」くないと表明したからこそ、「財産」問題が生じたと言える。Sは、「叔父の娘と結婚した」かったのか、したくなかったのか。本当のところ、自分でも、分からないでいた。須水(『彼岸過迄』)と同じ迷妄の中にいた。しかし、少し違うのは、「財産」問題で事を荒立てるという、迂遠な方法によって、「叔父の娘と結婚した」くないという気持ちを表出できたことだ。勿論、この気持ちは、「叔父の娘と結婚した」いという気持ちの否定そのものではない。「結婚」に対する不安の表出に過ぎない。
 [「叔父」がSにしたようなことを、SはKにしてしまった]という後悔があるとすれば、SがKにしたことが合法的であるどころか、正当でさえあるように、「叔父」の行為も、どこかに正当性があったのではないか。そして、その事実を隠蔽するために、Sは、叔父との「顛末」を詳述しないのではないか。もし、「叔父」から見たSの姿やKから見たSの姿を思い描くことができたら、Sは死ななかったのではないか。その代わり、「人間というものを、一般に憎む事」はできなくなる。
 Sは、[公表すれば「世間」に批判されるような出来事]を、[静に伝えられない話]として、作り替えているのだろう。
//「通じさえすれば」
  こうして遠くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、お
 れの真心は清に通じるに違ない。通じさえすれば手紙なんぞやる必要は
 ない。
                          (『坊ちゃん』10)
  気取り過ぎたと云っても、虚栄心が崇ったと云っても同じでしょうが、
 私のいう気取るとか虚栄心とかいう意味は、普通のとは少し違います。そ
 れがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。
                               (85)
 人は、自分をどのような存在だと思い込めば、このような作文が可能になるのか。[通じる/通じない]は、受信者の台詞だろう。[通じれば、満足]とは、[通しなければ、不満足]という意味か。だとしたら、倣慢のようだが、文体は、何やら、謙遜のようだ。あるいは、[通じなければ、普通。つまり、不満ではない]ということか。あるいは、[送信者は、通じること以上の何かを、受信者に対して期待しても良いのだが、私は期待しないので、恐れないでくれ]とでもいうのか。しかも、この期待は、作者にとって、自明であるために、明記されないのか。あるいは、普通なら[通じれば]と言うところを、N語では、「通じさえすれば」と書いてしまうのか。
 「「真心」が「通じる」ためのメディア]は、どこにもないはずだから、送信者は、受信者の読心術に頼ることになる。すると、送信者が情報を送信したのではなく、受信者が送信者の頭の中に侵入し、情報を盗んだことになる。危ない。
 Nの言葉は、私には、しばしば、通じない。意図が通じないのではない。言葉
そのものが、日本語として、通じない。Nが、こういう言葉遣いを、[相手次第では通じる]という、甘い構えで、日頃からやっていたとすれば、あちこちで誤解を生んだことだろう。Nは、被害妄想であるかのように見えるが、実際に、Nに接した人の多くが不快な感情を抱き、わざとではなくても、Nの気分を害するような反応を示したろうことは、想像に難くない。
//「真に受けて」
  私は何でも他のいう事を真に受けて、凡て正面から彼等の言語動作を
 解釈すべきものだろうか。
                         (『硝子戸の中』33)
 Nは、何を書いているつもりなのだろう。私は、Nの言葉を、「真に受けて」いいのか、「解釈すべきもの」か。
 「真に受けて」いたら、「解釈」する必要はないはずだ、外国語じやあるまいし。持てよ。もしかしたら、Nには、自分語というようなものがあって、彼は、人々の言葉を自分語に「翻訳」(『三四郎』4)しながら生活していたのかもしれない。だったら、N語辞書が編纂されないことには、Nが日本語を媒介にして日本人に向けて発信した情報を、「真に受け」ることも、「解釈」することも、してはならないのではないか。
 私達は、からかわれているのだろうか。
  美学者は笑いながら「実は君、あれは出鱈目だよ」と頭を掻く。「何が」と
 主人はまだ言虚わられた事に気がつかない。「何がって君の頻りに感服して
 いるアンドレア・デル・サルトさ。あれは僕の一寸捏造した話だ。君がそん
 なに真面目に信じようとは思わなかったハハハハ」と大喜悦の体である。
                              (『猫』1)
//「翻訳」
  「君、不二山を翻訳してみたことがありますか」と意外な質問を放たれた。
  「翻訳とは……」
  「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうからおもしろい。崇高だ
 とか、偉大だとか、勇壮だとか」
                            (『三四郎』4)
 「崇高だとか、偉大だとか、勇壮だとか」が、なぜ、「人間」なのか、私には分からない。「自然」は、猫が「翻訳」しても、「人間」になるか。「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本は矢つ張り人間にあるのさ」(『虞美人草』5)という文がある。では、猫が「翻訳」すれば、猫になるのだろう。哺乳類が「翻訳」すれば哺乳類になり、広田が「翻訳」すれば広田になり、三四部が「翻訳」すれば三四郎になるのか。ならないのかな。なぜかな。
  美しい女性を翻訳するといろいろになる。─―三四郎は広田先生にな
 らって、翻訳という字を使ってみた。――いやしくも人格上の言葉に翻訳
 のできるかぎりは、その翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個
 性を全からしむるために、なるべく多くの美しい女性に接触しなければ
 ならない。細君一人を知って甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全に
 するようなものである。
  三四郎は論理をここまで延長してみて、少し広田さんにかぶれたなと
 思った。実際のところは、これほど痛切に不足を感じていなかったからで
 ある。
                            (『三四郎』4)
 「翻訳するといろいろになる」と書かれているが、「いろいろ」の実例は挙げられていないようだ。いるのかな。「翻訳から生ずる感化の範囲」を狭くしたとしても、曖昧な「論理」を「延長」すれば、「言葉」の誤差は拡大することだろう。
 未婚の三四郎が、「細君一人」に「不足を感じ」たり感じなかったりするわけがないから、ここは、[視野を広げるために、多くの体験をしたい]という思いが記されているのだろう。だが、そのためには、[事物を「人格上の言葉に翻訳」する]という手続きが必要だと考えられているらしい。[事物は、それ自体で「言葉」である]というような認識とか、思想のようなものが前提にあるのだろうか。事物そのものを「翻訳」するというのは、言い損ないで、実は、事物と日本語の中間に、N語があって、そのN語で言ったことが日本語に「翻訳」されるのだろう。そういう話でなければ、おかしい。Nの母語は、日本語ではないのかもしれない。Nの言葉には日本語の達者な外国人の話す日本語に似通う、もぞもぞした、妙な雰囲気がある。
//「不思議な動物」
  そうして其所に胡坐をかいたまま、茫然と、自分の足を見詰めていた。
 するとその足が変になり始めた。どうも自分の胴から生えているんでな
 くて、自分とは全く無関係のものが、其所に無作法に横わっている様に思
 われて来た。そうなると、今までは気が付かなかったが、実に見るに耐え
 ない程醜くいものである。毛が不揃に延びて、青い筋が所々に蔓って、如
 何にも不思議な動物である。
                           (『それから』7)
 苦沙弥(『猫』)の顔が醜いらしいことは私の印象にあるが、代助の足が「醜くい」理由は思い当たらない。[代助の足は、醜い]という文は、[代助の心は、醜い]という認識を、逆向きに「翻訳」(『三四郎』4、『虞美人草』5)したものか。富士山という物体は「人間」(『虞美人草』5)や「人格」(『三四郎』4)といった精神的なものに代置されたが、代助の精神は肉体に代置されるらしい。
 作者にとって、「人間」とは精神のことであるらしい。Kは、「精神と肉体とを切り離し」(77)たつもりになり、「精神」だけが自分で、「肉体」は自分ではないかのような生き方を、わざとしようとしたらしいが、代助も、似たようなことをしているのだろう。勿論、[「精神」が、「肉体」を、「精神」とは「無関係」の「不思議な動物」として発見する]という事態は、さして不可解ではない。問題は、「精神」が、自分とは「無関係」の物体を「醜くい」と評価する点にある
 もし、本当に「無関係」だったら、判断の必要はなかろう。作者の描写では、代助の足は、取り立てて醜いようではない。成人男性の足は、大体、こんなものだ。ところが、作者は、そのことに気づかず、自分の足を「醜くい」と評価する代助を疑わない。代助の評価は、本当は、臼己嫌悪として自覚されるべきものだろう。ところが、自己嫌悪の本体である自己愛が、自己嫌悪を否定してしまうので、足が自己主張を始める。
 [私の肉体は、醜い]という文は、[私は、私の精神を「醜くい」とは「翻訳」しない]という心理が、肉体に向かって「翻訳」し直されたものだろう。
 [私は、私の精神を醜いとは思わない]という文なら、複雑ではない。しかし、Nにおいては、「醜くい」という単語自体が何かの「翻訳」の結果なのかもしれない。
 [私は、「醜くい」肉体の持ち主だ]と錯覚した精神が、[私は、私の「醜くい」肉体を美しくしよう]と決意して、エクササイズを始めたとしても、その精神に自分の肉体が美しく見えるときは訪れない。足が美しく見えるようになったとしても、今度は別の部位が「醜くい」ものとして発見されることだろう。あるいは、[「醜くい」部位を切断し、美しい他人の部位を移植する]という可能性が本気で検討されることもある。また、本当に他人から見ても、ある部位が「醜くい」としても、健康な「精神」なら、[醜くくてもゝ自分の一部なのだから、いとおしい]といった二面性を引き受けるはずだ。
 代助の足の美醜について語られる文は、何を表出しているのか。[代助は、自分の精神が肉体に「翻訳」されていることに、自分で気づいていない]という、作者の心理を表出している。この作者の心理は、[私には「無関係」に見える事物でも、実は、関係が深い場合がある]という文を経由して、[代助は、三千代への思慕が三千代との恋愛として「翻訳」されていたことに気づかなかった]という、猥雑な物語として表出されることになる。代助は、[三千代との過去の恋愛]を妄想することによって、[三千代への現在の思慕]を自覚する。この思慕は、実際的な生活全般への思慕の代行のようだ。この関係は、ちょうど、代助の社会批判が父親批判の代行なのと同じ構造を持つはずだ。この場合、父親が社会に「翻訳」されている。
//「インプレッス」
  都に帰って、世語にせさせ給へと、思ふはなほも妄執か、ただうち捨て
 よ何事も、よし足引きの山姥が、山廻りするぞ苦しき。足引きの、山廻り。
  一樹の蔭一河の流れ、皆これ多生の縁ぞかし。ましてやわが名を夕月
 の、憂き世を廻る一節も、狂言綺語の道直に、讃仏乗の因ぞかし。
                           (謡曲『山姥』)
  元来払はこういう考えを有っています。泥棒をして懲役にされた者、人
 殺をして絞首台に臨んだもの、─法律上罪になるというのは徳義上の
 罪であるから公に処刑せらるるのであるけれども、その罪を犯した人間
 が、自分の心の経路をありのままに現わすことが出来たならば、そうして
 そのままを人にインプレッスする事が出来たならば、総ての罪悪という
 ものはないと思う。総て成立しないと思う。それをしか思わせるに一番宜
 いものは、ありのままをありのままに書いた小説、良く出来た小説です。
 ありのままをありのままに書き得る人があれば、その人は如何なる意味
 から見ても悪いということを行ったにせよ、ありのままをありのままに
 隠しもせず編らしもせず描き得たならば、その人は描いた功徳に依って
 正に成仏することが出来る。法律には触れます懲役にはなります。けれど
 もその人の罪は、その人の描いた物で十分に清められるものだと思う。私
 は確かにそう信じている。
                         (N『模倣と独立』)
 「信じている」って、本当かなあ。このとき、Nには、Sの亡霊が乗り移っていたんじゃないのか。「ありのままをありのままに書いた」ものは、「小説」から最も遠い文書のはずだがな。
 「如何なる意味から見ても悪い」のに、「総ての罪悪というものはない」とは、「如何なる意味」か。[罪悪感はなくなる]とでも言ったつもりか。「良く出来た小説」とは「ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得た」ものらしいが、誰が、その判定を下すのか。後に、「その人はその人の罪が十分に消えるだけの立派な証明を書き得たものだと思っている」(同)とあるから、自分で自分の「証明」の当否が判定できるらしい。ところが、前には、「人にインプレッスする」とも書かれている。この「人」とは、他人のことだろう。本人が「清められる」と思いさえすればいいのなら、他人のことなど、話題にする必要はなかろう。
 逮捕されちゃったら、「ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず」に自白させられるんではないか。そして、その当否は、司直によって徹底的に吟味されることだろう。逮捕されるほどの悪事ではなくても、関係者―同に吊るし上げを食う。
 ほとんど、意味不明だけど、ここに書かれたことがルールだとしよう。「その人の罪は、その人の描いた物で十分に清められる」とすると、Sは「遺書」によって「成功した」(同)と、Nは考えているのか。この「成功」という単語も、「私の成功というのはそういう単純な意味ではない」(同)と、N語を使っておられるので、私は、自分でも、何を書いているのか、分からなくなってきて、実に心もとないが、とりあえず、「成功した」と、Nが考えているとすると、Sは、なぜ、自殺をしてしまうのか。「清められ」ても、死ぬことは死ぬのであって、問題は、[「成仏」するか、しないか]という点にあるのか。凄いな。何で、「成仏」するとか、しないとかいうことが、Nに分かるのかな。分かるんなら、なぜ、「成仏」するSの姿を描かないのか。
  北に紫雲の雲立てば、西に紫雲の雲が立つ。紫雲と紫雲が回り合ひ、た
 なびき合ふこそめでたけれ。この世にてこそ御名乗りなくとも、もろもろ
 の三世の諸仏、弥陀の浄土にては、親よ兄弟、父・母よと、御名乗りあるこ
 そめでたけれ。
                           (『かるかや』)
 Nは、「乃木さんの死んだ精神などは分らんで、唯形式の死だけを真似する人が多いと思う」(『模倣と独立』)と言うが、Sの「遺書」には、「私に乃木さんの死んだ理由が能く解らない」(110)と記されている。この言葉は謙遜か。あるいは、やはり、Sも、「真似」しただけの人間か。そもそも、Nに、なぜ、「形式だけを真似する人が多い」と言えるのか。Nには、見ず知らずの人間の心を透視する能力でもあるのか。あるいは、[Sは、「明治の精神」(110)といったキャッチ・コピーや、「遺書」を作文する能力を持っていたから、「真似」ではない]のだろうか。そもそも、[Sは、「真似する人」ではない]ということが証明できたとしても、そのことに、どんな価値があるのか。
 「真似する人」とからかわれた人の近親者は、「乃木さんの死んだ精神などは分らんで」などと言われれば、[実際に、近親者に自殺された者の「精神などは分らんで」]と、叫びたくなることだろう。
 Sが「真似する人」でないとすれば、Nが「真似する人」と誹謗した人も、実は、「真似する入」ではなかったのかもしれない。Nが「真似する人」と決めつけた人々とSとが、本質的に違うタイプの人間だとしても、その違いを、Nは具体的に明示してはいない。逆に、両者を区別できないとしたら、[Sは、個人的な困難を一般的な困難とすり替え、自分で自分を祭り上げようとする、ありがちな知的俗物の一人に過ぎない]ということを、N自身が認めたことになる。つまり、どちらにしても、Sは分が悪い。Sは、この分の悪さを隠蔽するために、作者によって消去されたかのようだ。
 Sは、自分の「過去」を「偽りなく書き残して置く」(110)という「努力」(110)はしたつもりらしいが、本当に、「偽りなく書き残」すことができたのかどうか、S以外の誰にも分かるまい。しかも、Sは、「貴方にも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れません」(110)と記す。Pにさえ「呑み込めない」という可能性を残していると自分で思うのだから、「偽りなく」書いたのかもしれないが、「書き残し」たことがあるはずだ。
//「成功」
 Nは、「あの乃木さんの死というものは、至誠より出でたものである」(『模倣と独立』)とする。その当否は、私には分からないが、「乃木さんの行為の至誠であるということはあなた方を感動せしめる。それが私には成功だと認められる」(同)という展開は、おかしい。Nは、[人々を「感動せしめる」ことがなければ、乃木の自殺の動機が「至誠」から出たものだったとしても、Nは、その行為を「成功」だとは認めない]と言っているのだろうか。そもそも、乃木は「成功」しなければならないのだろうか。乃木の霊魂は、自分が「成功」したと思うと、あるいは、「成功」したとNに認定されると、にんまりするのだろうか。
 [乃木は、本人の意図は別として、自殺によって、故人である明治天皇以外の誰かに、何かを示すことができたとか、できなかった]などと、私達は言って良いのだろうか。良いとしても、なぜ、良いのだろうか。
 Aは、『将軍』において、乃木の自殺について、「感動」どころか、反感を示している。ということは、Aについて言えば、Nは、「不成功」(『模倣と独立』)だったことになるはずだ。Aが噛み付きたがって、噛み付き損なっていることは、このあたりにあるようだ。[もし、乃木の自殺の動機に表現への欲求があったとしたら、「至誠」は小道具に過ぎない]という疑問は、拭えまい。つまり、[受けると分かってりゃ、人間、何だってやるさ]といった、皮肉な人間観を否定するのに十分な何かが、Nの考えの中には見当たらない。
 Nは、乃木の「至誠」に「感動」したというよりも、乃木が人々を「感動」させた方法そのものに「感動」したのではないか。[「至誠」を、乃木は、殉死によって示した]というよりは、[「至誠」を包含する文脈を、明示せずして、示し得た]その技法やスタイルに着目し、「感動」しているのではないか。勿論、この乃木は、私が想像するところのNが想像する乃木のことだ。
//「自叙伝」
 Nが表出していることは、次のようなことだろう。
 事物は、それが近代日本語として表現される前に、ある種の言語、もしくは、言語らしきものによって記述し終えられていなければならない。人々は、この[前=近代日本語的言語]によって記述し終えられた文章を「背景」(56)としなければ、近代日本語を理解することはできない。そして、しばしば、人々は、この[前=日本語的言語]の存在を知らない。あるいは、ないがしろにする。そのために、人々は孤独に陥る。
 こうしたことは、『それから』では、[日本の社会は、代助が働きたくなるような条件を整備していないから、代助は無職だ]という、「胡麻化」(同6)しただけみたいな物語として表出される。[条件整備のために行動する]という考えは、検討されない。
 Nの主人公達が[社会参加]について消極的な理由は、本当は、何か。送信者の用いる言葉の「意味は、普通のとは少し違い」(85)があると承知していながら、「それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです」(85)という、[前=言語的言語]の流通する夢から覚めたくないからだ。この夢物語の主題は、古典主義でもあり、ロマン主義でもあり、甘えでもある。しかし、それだけなら、古語で書き、地方語で書き、喃語で語るといった作業に没頭していれば済む。しかし、Nは、自己満足を得られない。理解されることが必要だった。
 語り手Sは、「遺書」の語り手だが、彼の「自叙伝」(110)の語り手ではない。そのわけは、「自叙伝」が実在しないからではない。
 [P文書]と「遺書」を比較すると、[P文書]において、最も重要だと思われる出来事が、「遺書」では触れられていないことに気づくはずだ。それは、避暑地の出来事。鎌食海岸における「見染めの場](1〜3)だ。
  「あなたは何でそう度々私のようなものの宅へ遣って来るのですか」
  「何でと云って、そんな特別な意味はありません。─然し御邪魔なんで
 すか」
                                (7)
 語られるPは、嘘つきなのか。あるいは、語り手Pが、嘘つきなのか。「どうしても近づかなければいられない、という感じが、何処かに強く働らいた」(6)からではないのか。ところが、語り手Pは、Sに嘘をついたことを暴露しながら、少し前に、「傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づく程の価値のないものだから止せという警告を与えた」(4)と書いたことを忘れているらしい。Pは、自分の頭の中で、[Pは、Sに接近する。Sは、Pを拒否する。Pは、拒否の理由を知り、お預けを食わされた大のように、その場で一回転する]というダンスを踊っている。
 一方、Sは、Pの心理ダンスのことを知らないのに、あたかもそのパートナーであるかのように振る舞う。Sは、どのようにして、Pを迎え入れたか、語らない。Pが「真面目」(31)宣言するまで、Sは、Pの「意見」に対して「尊敬を払い得る程度にはなれなかった」(57)というのに。
 接近する側の物語はあるが、接近される側の物語はない。これは[P―S]だけでなく、[S-静母子]や[S-K]においても同様だ。接近する側の物語というのを、もう少し、露骨に言うと、接近させられるように感じる側の物語となろう。つまり、語られない物語は、[P(S―P)S]、[S(静母子―S)静母子]、[S(K―S)K]だ。なぜ、語られないのか。括弧の中の物語の信憑性が小さいからだ。あるいは思い込みに過ぎないという自覚があるからだ。
 語り手達は、語られる人物が密かに語っている物語を明示せず、勿論、検討もせず、疑わしいままに、それらを前提として語る。だから、分かりにくい。
 「先生はそれに気が付いている様でもあり、又全く気が付かない様でもあった」(4)という文は、何を仄めかしているのか。Pは、何のために、このような文を記述するのか。そして、作者は何をしているつもりか。
 作者は、迫られる人物を描けない。なぜか。誰も迫ってはいないからだ。例えば、[P(S―P)S]を、[S(P(S―P)S)P]として、包含できないからだ。Pが密かな期待を持って語る[S―P]と、Sが明示する[S―P]とは、別物だ。
 「その人の眼鏡の縁が日に光る」(5)という描写は、Pの視線がSに跳ね返されたことを仄めかしている。作者は、[Sは、Pを、生身の人間としては、拒む]という気分を表出している。Pが実在する必要はなかった。Pは、Sの空想の産物でも良かった。「遺書」の受信者として、幻想としてしか、存在する必要はない。作者にとって、そうであるだけではなく、Sにとってさえ、そうだった。  この関係が「自叙伝」にも言えるとすれば、「自叙伝」が出現しない理由は、簡単に想像できる。「自叙伝」読者が現れないからだ。いや、語り手Sが、「自叙伝」読者を想像できるほど、成熟していないからだ。
 作者の時間において、[「遺書」の物語]がPによって読まれる過程として実現したように、「自叙伝」も「自叙伝」読者の読書行為によって、起動するはずだ。あたかも、受信能力の規模が、送信可能な情報の質と量を決定するかのような倒錯的な感覚を、Sと作者は共有している。本当は、[「遺書」の語り手Sは、「遺書」作者に等しい]と言ってしまえば、話は簡単だろう。しかし、それは、作者の時間としては言えても、「遺書」の語り手Sの時間では、不合理だ。
 「遺書」の聞き手Pの読解能力が拡大することによって、その未来に、「外の人」(110)という、無限定の読解能力の持ち主が夢想される、あるいは、夢想されそうになる。その段階で、「遺書」は、「自叙伝」という言葉を引き入れることが可能になり、同時に、「遺書」執筆の、真の目的も達成される。「外の人」は、『道草』読者だろう。
 『こころ』擱筆直後に、「遺書」の受信者(達)は、『こころ』という虚構の空間の周辺から、「道草Jという虚構の空間の周辺に移動するが、そのとき、作者は、虚構の受信者達が実在の空間を通過する夢を見る。この夢を、実在の読者達も見る。虚実混交の時空において、「こころJはロ承文芸となる。つまり、語り物として語り継がれるべき作品となる。S発信の「明治の精神」(109)は、「『心』広告文」作者Nから、巷の『こころ』推薦者へと、リレーされる。
 この送受信の仕組みが作品を古典にする。と、Aは考えた。この仕組みを作り上げる主体は、「インプレッス」(『模倣と独立』)された受信者(達)だ。こうした受信者(達)は、作品の一部と化して、文学的に、あるいは、芸能的に欠かすことのできない機能体になる。
//「文学者の手際」
  しかしいくら感じが乗ってもなんの意味か分らなくてはならぬ。人生
 問題を比喩的に説明したということを人が理解しなくってはゆかぬと主
 張する人があるかもしれぬ。一応はもっともであるけれども、これは必ず
 しも感興を害してまでも説明する必要はないはずである。浮世の苦難と
 か不幸とかいうものを図で示せばこうだと説明するよりも、あるものを
 仮って浮世の苦痛を直覚的に読者に悟らしむるのが文学者の手際である。
 直覚というのはなんだか暖味な言葉であるなら暗示するといってもよろ
 しい。暗示には感じだけあって理由が分らぬことがある。したがって神秘
 的である。したがって常識を満足せしめないことになるかもしれない。
                           (『文学評論』3)
 [「なんの意味が分からなくてはならぬ」という「主張」は、「一応はもっともである」が「感興を害してまでも説明する必要はない」]と、Nは語っているらしい。この文が「なんの意味が分からなくて」、私は困っている。
 「なんの意味か分からなくてはならぬ」という、受信者の「主張」を無視する自由は、どんな送信者にもある。[おまえ、頭、悪いんだよ]と突き放す自由は、誰にでもある。[おまえに言ってんじゃねえよ]とかいうのも、ありだ。
 一方、受信者の「感興を害してまでも説明する必要」があるという「主張」を、受信者がすることは、自由だ。[私には、送信された情報から「感興」を得る「必
要」はない。「感興」なら、十分、間に合っている。私がほしいのは、「説明」だけだ]という「主張」には、意味がある。
 「必ずしも感興を害してまでも説明する必要はない」という「主張」は、「一応はもっともであるけれども」、ときには、「感興を害してまでも説明する必要」が出てくる。そのとき、「説明」できるような何かを、「文学者」は準備しているのだろうか。「あるものを仮って浮世の苦痛を直覚的に読者に悟らしむるのが文学者の手際である」と言いたければ言うのは自由だが、「直覚的に」悟ることのできない読者のための「説明」を、「文学者」は準備しているのだろうか。
 作者が「説明」について論じる「必要」はない。作者に、読者の「感興」を考慮する「必要」はない。作者には、どんな「必要」もない。しかし、Nには、ある。「浮世の苦痛を直覚的に読者に悟らしむる」という「必要」がある。おかしな話だ。Nの想定する読者は、「苦痛」を受信して「感興」を得るという。マゾかしら。
 私にとって、Nの言葉に接することは、「浮世の苦痛」の、具体的、かつ、典型的な一例だ。私が、動物的な「苦痛」ではなく、「浮世の苦痛」を感じるのは、「不得要領」(31)の言動に出会うときだ。
 Nは、[「浮世」は「説明」でできている。「説明」は「感興」を伴わない。したがって、「浮世の苦痛」が生まれる。「感興」を得るには、「暗示」が「必要」だ。「文学」は「暗示」でできている。「文学者」って偉い]と「主張」するのだろうか。
 「苦沙弥先生よろしく御茶でも上がれ」(『猫』9)
 「浮世」は「説明」でできてはいない。「説明」は「感興」を伴わない。しかし、「感興」の裏返しである「苦痛」も伴わない。では、「浮世の苦痛」は、どうして生まれるのか。「説明」を回避し、「暗示」を「必要」とする「文学者の手際」を披瀝する人々の言動によって生まれる。「文学者」って嫌い。
 探偵小説は、「説明」でできている。「説明」からも「感興」は得られる。そんな「感興」は低次元のものだと「主張」するのは、論者の自由だが、低次元でも、「苦痛」よりは好ましいと思う。
 語られるPは、「説明」できないような「理由」によって、Sに近付く。その「理由」について、語り手Pは、[Sは、Pに、近づくのは「止せという警告を与えた」(4)]と「説明」する。しかし、[Pは、近づくなという「警告」を察知したので近づいた]という物語は、Pの悪意を想定しなければ、「常識」に反する。Pに悪意はないはずだから、Pの語りは、「神秘的」で、「常識」に反する。
 「Sは、(Sに近づくな)という「警告」を、Pに発した]という物語がある。この物語は、語られるPに「説明」されたものではない。「暗示」されたのでもない。Sが、このような物語の語り手であるはずはない。この物語は、後に、語り手Pによって整理された物語だ。この偽造の物語において、語られるSは、「警告」
を発する。この「警告」は、語り手Pの視点では、反語として解釈される。つまり、空想上のSの[近づくな]という「警告」は、空想上の語られるPにとっては、[近づけ]という「暗示」として機能したと、語り手Pは回想する。勿論、語り手Pは、実在のSが[近づけ]という命令を、「暗示」として、Pに発信したと思っているのではない。[Pに近づいてほしい]という、語られるSの気分の表出を、語られるPが無自覚に受信したという想像を、語り手Pがしているところだ。この想像の当否は、雄にも判断できない。Sにさえ、できないはずだ。
 [近づくな]という言葉は、語られるPの想像の中のSの言葉だ。[近づけ]という言葉は、語り手Pが語られるPの想像の中のSの言葉、[近づくな]という言葉を、反語として解釈したときの、Sの言葉だ。[語り手Pの想像を、語られるPは察知した]と考えるのでなければ、[語られるPは、語り手Pの解釈を採用し、Sに近づく]という事態は起こり得ない。また、[P文書]において、[Pは、Sに近づく]という事態は、実際に生じていたという前提を否定することはできないはずだ。だから、PがSに近づく理由は、実際には、「説明」されてもいないし、「暗示」されてもいない。つまり、意味がない。
 この挿話に意味を探すとすれば、もう一層の反語を想定しなければならない。つまり、[語り手Pは、何かを「暗示」しているのではなく、何かを「暗示」するふりをしているだけだ]と解釈するしかない。「下らない事に能く笑いたがる」(80)のと同質の気分が表出されているのだろう。Pは、照れ笑いしながら、書いている。そのくせ、「文学者の手際」を示したつもりだ。
 しかし、そのような解釈は、作品論としては、成り立たないはずだ。この挿話に意味があるとすれば、それは、作者の表出としてしか、見つかるまい。
 [ここで、作者は、Sについて、読者に「説明」をすべきではないと思っている。「暗示」に止めるべきだと思っている]
 要するに、これだけ。
//「同情」
 例えば、[個人/国家](『私の個人主義』)、「独立/模倣](『模倣と独立』)、[日本/西洋](『近代日本の開花』)、[自分を擬がう/他人を擬がう](『彼岸過迄』)、[整った頭/乱れた心](『行人』)、[「美くしい同情」(95)/「単なる利己心の発現」(95)]などの対比は、基本的に無意味だ。無意味な対比において、前者が後者より優れているとか、あるいは、その逆だと言うのも、無意味だ。
 「同情」という言葉は、共感という含みで用いられているらしいが、とにかく、「同情」のようなものと「利己心」とは、対立しない。「同情」と対立するのは、[反感]や[敵意]などだ。また、「利己心」の対義語は、[利他心]だろう。だったら、ここで、「同情」と利他心が同義語であるような文脈を、私達は設定しなければならないのかもしれない。
 将棋などに譬えれば、[文学者に限って、作者の駒は、いつでも、好きな場所に指すことができて、しかも、どこでも、金に成ることができる]といった、主催者優遇ルールのようなものでもあるのだろうか。
 Nの作品の語り手達は、無意味な対比を設定するに当たって、[一方は優れていて、他方は劣っている]といった前提を持っているらしい。もし、そうだとしたら、語り手達の考えは、間違っている。間違った考えを持つ人物が物語に登場することを、聞き手は拒めない。しかし、間違った語り手の語りを、聞き手は拒むことができる。ただし、作者が間違った語り手を皮肉な表現として設定した場合には、聞き手ではなく、読者は、間違った語り手の語りによって語られる物語であっても、拒むべきではない。
 『猫』からP明暗」までの作品の語り手達の語りが、基本的に、皮肉つぼいものであることは、誰もが感知できるはずだ。作者達は、思想家としてのNの論理の脆弱さを、皮肉という錨によって、現実に繋ぎ止めている。ところが、Pこころ」の場合は、そうではない。作者が宗旨変えをしたかのようにさえ見える。
 もし、語り手Sが、[Kに恋人ができたら、Sは、我がことのように喜ぶ](95)と語ったつもりなら、その「同情」は、「雄なる利己心の発現」ではないのかもしれないが、基本的には「利己心の発現」の枠内に止まる。こんなことを、作者は知らないとでも、言うのだろうか。にころ』作者は、童話作者Aのように、読者をたぶらかそうとしているのではなかろうか。あるいは、読者は、[読者をたぶらかしてでも「同情」を得なければ、大正を生き抜けないほど、個体としてのNの「明治の精神」(110)は弱っていた]と察知し、個体としてのNに「同情」しなければならないのだろうか。
//「不思議」
  Kは猶不思議そうに、なんて極が悪いのかと追窮しに掛かりました。奥
 さんは微笑しながら又私の顔を見るのです。
                               (100)
 「不思議」は、周囲の共有する文脈を共有できず、しかも、[寂しい]と訴えることもできないときに推造される感情のようだ。「神秘的」(P猫6)という言葉も神聖とか秘密などとは、関係がない。この言葉は、他人の話が理解できないときの不安を表している。「不可思議」(110)とは、出来事を合理的に説明できないときの不安を表す言葉らしい。すると、「不可思議な私というものを、貴方に解らせる」(110)という記述によって語り手が表現したつもりになっていることは、[「私」は、自分に起きたことを説明できない。また、説明できない理由についても、説明できない。そんなときの「私」の気分を「貴方に解らせる」]というようなことだろうか。もし、そうだとすれば、このとき、「解からせ」られたPに、Sに対する「同情」(95)が生まれるのだろうか。そして、Sを「傷ましい」く4)と感じるのだろうか。しかし、このとき、本当に「傷ましい」のは、Pだ。「遺書」読了後のPこそが、「不可思議な私」に変貌する。Pによって理解されたはずのSに「不可思議」はないからだ。「不可思議な」Pは、開き手Xに向かって、「不可思議な私というものを、貴方に解らせる」ために、[P文書]を書き始めることになる。[P文書」と「遺書」を読了したXは、Sから「不可思議な私」にさせられたPを「傷ましい」と感じ、[P文書]の前説を語り始める。すると、Xが「不可思議な私」に変貌する。こうして、百年が経とうとしている。
 Sは、[Pには「背景」(56)がない]と決めつける。Sの言う「背景」がどういうものか、私には想像できない。が、Sは言い損ないをしているような気がする。Sは、EPは、Sと「背景」を共有していない]と言うベきではないか。「時勢の推移から来る人間の相違」(110)というのは、これも、また、意味不明の物言いだが、世代論らしい。[世代の「相違」から、「背景」の「相違」が生じて、相互理解を不能にする]と作文すれば、辻棲が合いそうだ。しかし、「時勢の推移」と並べて「佳人の有って生れた性格」(110)が挙げられているから、確定はできない。作者は、あてずつぼうで言葉を並べただけかもしれない。
 「噸笑の意味」(70)云々の挿話が孕む問題は、「意味」にはないはずだ。意図ですらあるまい。「哨笑」の由来だろう。語られるSは、「男の声」(70)について、「物足りるまで追窮する勇気」(70)どころか、「権利」(70)もないと思っている。しかし、そのことは、「噸笑の意味」を「物足りるまで追窮する」ということとは、別問題だ。もし、本当に「噸笑」されたのなら、「噸笑の意味」について、「噸笑」された人には「追窮する」「権利」が生じる。
 勿論、人は隠し事をする。しかし、それは、特定の誰かを仲間外れにするためではない。身の安全を守るためだ。ところが、Sは、自分にとって、理解できない言動に接すると、[相手は、自分を陥れるつもりではないか]という不安を抱くらしい。被害妄想なのかもしれない。
 Sは、自分が他人と文脈を共有できないせいで苦痛を感じているはずなのに、Pに対して、「時々笑った」く70)りする。Pは、「不得要領」(31)で苦しむ。だから、「少し不愉快になった」(13)り、「憎らしく思った」(30)りするが、「ところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論其処に気が付く筈がなかった」(27)などと、プリプリのブリツ子語に逃げ込む。Pでなくたって、誰だって、「先生自身の経験」なんか、持てるものか。「大きな意味」なんて、「大きな真理」(23)や、「深い意味」(84)などと同様の「感傷的な文句」(36)であり、「空虚な言葉」く76)に過ぎない。勿論、そうではないのかもしれないが、そうではないという証明はできないのだから、そうではないという証明ができそうにない言業を、何の断りもなしに用いるような態度は、「世間」(l)の「普通の人から見れば、まるで」(76)「軽薄」(36)だろう。
  「給仕になんぞされては大変だ」
  彼は心のうちで何遍も同じ言葉を繰り返した。幸にしてその言葉は徒
 労に繰り返されなかった。彼はどうかこうか給仕にならずに済んだ。
  「然し今の自分はどうして出来上がったのだろう」
  彼はこう考えると不思議でならなかった。その不思議のうちには、自分
 の周囲と能く闘い終せたものだという誇りも大分交っていた。そうして
 まだ出来上らないものを、既に出来上ったように見る得意も無論含まれ
 ていた。
  彼は過去と現在との対照を見た。過去がどうしてこの現在に発展して
 来たかを擬がつた。しかもその現在の為に苦しんでいる自分にはまるで
 気が付かなかった。
                            (『道草』9l)
 「彼」が、「まだ出来上らないものを、既に出来上ったように見る得意も無論含まれていた」ことに気づいていないのなら、「不思議」に思うのは当然だろう。また、「現在の為に苦しんでいる自分にはまるで気づかなかった」という言葉が、[「彼」は、苦しみを自覚していない]という意味ではなく、[「彼」は、苦しみの原因が「現在」にあることを知らない]という意味なら、「不恩礁」に思うのは当然だろう。
 ここで、語り手は、[「彼」が「不思議」に思うのは、当然だ]と主張しているのだろうか。あるいは、その逆のことを主張したつもりなのだろうか。また、語り手は、「彼」の「闘い」や「発展」の経緯を、知っているのだろうか。もしかしたら、語り手も、「彼」と同様に、「不思議」だと思っているのではないか。
 こうした疑問を、全部、棚上げにしても、私には疑問が残る。それは、[「彼」の「闘い」や「発展」の経緯について、語り手が知っていても、いなくても、「彼」自身が知らないのなら、どのようにして、「彼」に「誇り」が生まれたのだろう]というものだ。由来の定かでない「誇り」は、「苦しんでいる自分」の夢想に過ぎないのではないか。
 ここに引用した挿話は、不合理だ。まず、養父が「何かの序に」く同91)言ったとかいう、「もう此方さ引き取って、給仕でも何でもさせるからそう思うが可い」(同91)という台詞は、宙に浮いている。どんな「序」だったのだろう。この台詞が意味を持つ文脈を、私は想像できない。またこの台詞には人を喜んで迎えるような雰囲気がないから、養父は、健三が「驚いて逃げ」るように仕向けているように見えて、おかしい。しかも、「食わすだけは仕方がないから食わして遣る。然し、その外の事は此方じや構えない」(同91)という実父の態度よりは、まだ、養父の方に実意がありそうだから、億三が養父から「鮨簿という感じ」を受ける理由も、明らかではない。私達は、ここで、[健三少年にとっては、養父によって、将来、「給仕」にさせられることよりも、実父によって、現在も、将来も、遺棄されたままであることの方が好ましい]という前提を作り出さねばならないのだろうか。もし、そうだとしたら、「不思議」と呼ぶべき事態は、このときから始まっていると言える。
 語り手は、[健三少年は、「立派な人間。こなって世間に出なければならない」(同91)と思っていたから、「給仕になんぞされては大変だ」と感じた]というふうに語る。この展開は、おかしい。健三は、まず、養家も実家も捨てて、「世間」に逃げ出そうと思ったはずだ。その次に、[家という後ろ盾のない人間としては、「立派な人間」にてもなっておかなければ、「世間」から一人前と見倣してもら
えない]と考える。そして、その次に、飛躍がある。[実家にいれば、「立派な人間」になるチャンスがある]と期待する。この期待に根拠はない。あったのかもしれないが、私は知らない。もし、この期待に、いくらかでも現実味があると健三少年が考えていたのなら、そのとき、「食わすだけは仕方がないから食わして遣る」云々という、実父の台詞を誇張として受け取っていたことになる。そして、事実、誇張だったのだろう。しかし、誇張というのなら、養父の台詞も誇張だったのかもしれない。一方を誇張と取り、一方を暴露と取る根拠は、何か。養父が発散する「酷薄な感じ」そのものだろう。
 「他と反りが合わなくなるように、現在の自分を作り上げた彼は気の毒なものであった」(同91)と、語り手は語る。しかし、「他と反りが合わ」ないのは、「過去」も同じことだろう。何も変わっていないはずだ。
 「現在」の億三の「誇り」は、「立派な人間になって世間に出なければならない」という、「過去」の希望の達成感に依拠している。つまり、本質的には[「過去」の物語]に属している。「誇り」は、「発展」の結果、得られたものではない。少年期にも、「この己は立派な人間だという信念が何処かにあった」(106)はずだ。希望は、「まだ出来上がらないものを、既に出来上がったように見る得意」を孕んでいるものだ。健三の心は、少年の頃から、本質的には、何も変わっていない。だから、「誇り」は、この先も「発展」し続けるしかない。つまり、完成することはない。満足はない。生き延びるために、彼は「得意」を手放すことができない。健三は、「得意」を[安心]と交換した。[安心しようとすれば、不安になる]という不合理を生きることに決めた。「得意」の裏側には、「淡い恐ろしさ」が、いつまでも、くつついていることだろう。
 「現在」の「彼」は、実家を去って独立し、養父を拒むことができる。だから、「現在」の状態は、「過去」のそれとは、いささか、違うようだ。しかし、養頼を拒むことなど、成人すれば、「給仕」にだってできる。大差はない。
 建三少年は、養家から「逃げ帰った」が、そのとき、「畠簿という感じ」から受けた「淡い恐ろしさ」を、一緒に連れて来た。「給仕」という職業は、「恐ろしさ」の象徴に過ぎない。「現在」の健三は、「給仕」から、可能な限り、遠い地位に就いた。しかし、職業は、象徴に過ぎない。「現在」も、健三は、「恐ろしさ」から「逃げ」続けている。
 「彼は過去と現在との対照を見た」
 「過去がどうしてこの現在に発展して来たかを擬がつた」
 「しかもその現在の為に苦しんでいる自分にはまるで気づかなかった」
 この三つの文は、それぞれ、何を語り、そして、どのような関係にあるのだろう。「過去と現在との対照」を、私達は「見た」と言えるのだろうか。「過去」は、本当に、「現在に発展して」いるのだろうか。「発展」がないからこそ、「どうして」と考えても、答えが得られないのではないか。「しかも」という接続詞は、こごで、どんな機能を果たしているのか。「その現在」とは、どのような「現在」か。「どうかこうか給仕にならずに済んだ」という、謙遜のような、情けない実感を指すのだろうか。
 本当は、健三は、大金持ちになり、実家も養家も支えて、しかも、自分では精神的に「立派な人間」だという「誇り」を持てるような地位を得たいのだろう。しかし、「現在」でも、そうした状態には程遠く、また、この先、実現の見込もない。だから、「苦しんでいる」のだろう。こうした事実に、億三は「気づかなかった」と、語り手は語るのだろうか。
 よく分からないが、こうした飛躍や省略の多い文や振れた文などが、その発信者を孤立させたと想像することは、容易だ。人々はNの言葉に対応できず、Nは、自分が予想したり、期待したりしている範囲内の情報を得られない。この状態が「不思議」と呼ばれ、これが日常化すると、「淋しい人間」(7)になる。
 「不思議」というから、話がややこしくなる。[不明]と書けば、どうか。健三が、自分にとっては不明の、ある出来事の経緯について、「自分の周囲と能く」話し合えば、「不思議」は、少しずつ、解消されるのではないか。そうした作業を省略して、未来に向かって「現在の自分を作り上げ」ることは、できないはずだ。賃労働を拒否し、離婚して、親権も放棄し、あらゆる交際を断ち、「無言生活」(79)でも始める気なら、話は別だ。そんなつもりがないのなら、健三には、「得意も無論」、「誇り」までも捨てて生きるしか、方法がない。そのとき、彼は、「神でない」(同96)のは当然だが、「立派な人間」でもなくなる。その候補でもない。逆に、「給仕でも何でも」ない、「泥棒だろうが詐欺師だろうが何でも」(同77)やりかねないような、あるいは、それ以下かもしれない、冊しい、危うい存在として、「他」の前に身を晒すことになる。
 こうした作業こそ、それを想像するだけでも、作者に、「淡い恐ろしさを与え」るのに違いない。


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