『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#087[世界]47先生とA(37)「伝導器」

//「意識の連鎖」
  かくのごとく文章の上において示されたる意識はきはめて省略的のも
 のなるをもって、たとひ短時間の心的状態といへどもその一々の推移を
 遺憾なく文字をもって連続的に描き出ださんことはたうてい人力の企て
 及ぶところにあらざるべく、かのいはゆる写実主義なるものも厳正なる
 意義においては全然無意味なるを知るべし。素人の考をもってすれば吾
 人の心に浮かぶ意識をそのまゝ有体に紙上に写すことはさほど困難なら
 ざるやう思はるべけれど、試みに静座してわが脳裏に出現し来るところ
 のものを追究する時はその意外に煩雑なるに驚くべし。かの宗教家が無
 念といひ無想と唱ふるは皆この妄想雑念の世の中を知り尽してはじめて
 口にしうべき言語なり。走馬燈のごとくに回転推移して、非常の速度中に
 吾人意識の連鎖を構成する成分を一々遺漏なく書き出ださんことは決し
 て人間業にあらず。
                            (『文学論』3)
 ここで、[「文章の上において示」すこと]や、[「文字をもって」「描き出ださんこと」]や、[「写実」すること]や、「紙上に写すこと」や、「書き出ださんこと」などは、一括して、[書くこと]と書き換えることができる。[書くこと]は、[「心に浮かぶ」こと]や、[「脳裏に出現し来る」こと]とは違うが、[「追究する」こと]との関係は、不明だ。
 「心的状態」は、[意識A]と[意識B]に分けられる。あるいは、ここに、[「無念」や「無想」]を加えるべきなのかもしれない。「宗教家」は、[意識B]を、[「無念」や「無想」]に向かって、解体する。「文章」家は、[意識B]を、[意識A]に向かって、構築する。
 1.1 [「文章の上において示されたる意識」(意識A)は、「省略的のもの」だ]
 「心的状態」は「連続的」のものだから。
 1.2 [「心的状態」の「推移」を「連続的に」書くことは、できない]
 「推移」を「連続的に」書くことはできないから。
 1.3 [「写実主義」は、「厳正なる意義においては」、「心的状態」の「推移」を「連続的に」書こうとする「主義」だ]
 へえ? 
 1.4 [「写実主義」は、「全然無意味」だ]
 「厳正なる意義」でなければ、どの程度、「無意味」ではないのだろう。
 2.1 [「心に浮かぶ意識」(意識B)を、「そのまゝ有体に」書くことは、「困難」だ]
 「心的状態」と[意識B]は、同じく、「連続的」のものだ。[意識B]の全部を書くことは、「困難」だ。だが、不可能か。
 2.2 [「脳裏に出現し来るところのもの」(意識B)を「追究する」ことは、できる]
 [意識B]を「追究する」と、「追究する」主体は迷子になる。
 3.0 [「無念」や「無想」は、「妄想雑念」(意識B)と区別される]
 [「無念」や「無想」]は、「心的状態」の一部か、そうではないのか。その答えは、「妄想雑念の世の中を知り尽してはじめて口にしうべき」ものだから、私は判断を停止する。因に、判断停止や態度保留や忘却は、[「無念」や「無想」]か。
 4.0 [「意識の連鎖を構成する成分」の全部を書くことは、できない]
 [「心的状態」の「推移」を「連続的に」書くことは、できない](1,2)という話が、いつの間にか、[「意識の連鎖を構成する成分」の全部を書くことは、できない]という話にすり替わっている。このすり替えは、「妄想雑念」の「煩雑なるに驚くべし」と言われて、読者が驚いている間に、行われた。[「意識」は、「連続的」な性質を持つために、捕らえ難い]とされていたはずだ。この理由は、本質的であり、決定的だとも言える。ところが、結論としては、[「意識」は、それを「構成する成分」の「煩雑」さゆえに、捕らえ難い]とされる。「推移」が理由なら、「成分」について論じる必要はない。また、「推移」が理由でないのなら、極めて「短時間の心的状態」において、[ある「意識」を「構成する成分」]の全部を書くことは、できそうな気がする。少なくとも、[意識B]の「成分」の全部が「示された」とは言えないまでも、[示されないとも言えない]といった程度には、[意識A]を拡大することができるはずだ。
 「推移」という条件を外して、[意識B]の「成分」の全部が「示された]としても、まだ、「心的状態」の全部が「示された」とは言えない場合があるのだろうか。つまり、[意識B]は「心的状態」の全体とは決して等しくないとする、「意外に煩雑な」理由でもあるのだろうか。なるほど、理屈のうえでは、前者は後者に含まれる。しかし、後者から前者の「成分」を差し引いた後に、「推移」以外の何かが残っていたとしても、[何かが残っている]という「意識」は「出現」するのだろうか。もしかして、[「無念」や「無想」]が「出現」するのだろうか。
 ある「心的状態」が、[「無念」や「無想」]の段階にあるのではなく、[意識B]として「出現」したとき、その「構成する成分」の全部が「言語」でできているとすると、それを、そのまま、[意識A]に変換することは、理屈では、できるはずだ。逆に、[意識B]を「構成する成分]の全部が「言語」でできているのではないとすれば、[「言語」ではないものを、「文字をもって連続的に描き出ださんこと」]は、「困難」とか、不可能などというべきではなく、その試み自体が「厳正なる意義においては全然無意味」だというべきだろう。
 「心的状態」に限らず、いかなる「状態」も、それが「推移」をするのなら、その過程を書くことは、「困難」だし、不可能だ。しかし、運動を関数として示すことなら、できる。関数を指して、「省略的のもの」と言うことはできまい。私達は、「推移」の過程の全部を書くことはできないが、その過程を「推移」という「言語」によって示すことなら、できる。このとき、「推移」という「言語」は、「推移」の過程を示す関数のようなものだ。
 「言語」だけになった「意識」、つまり、「文章」になった[意識A]と、「文章」になる前の[意識B]を区別するものは、何か。「推移」か。
 本来、「意識」の「成分」であれ、実体の「成分」であれ、それが「言語」でできていないのなら、「文字」にすることはできないはずだ。
 「文章」には、「推移」が認められる。この「推移」は、「心的状態」の「推移」とは違うのかもしれない。だが、なぜ、違うと思えるのだろう。所要時間か。「文章」の「推移」の時間とは、具体的に何を指すのか。執筆時間か。読書時間か。「示されたる意識」とあるから、読書時間だろうか。では、速読するほど、[意識A]は[意識B]に接近するのだろうか。
 Nが言いたいのは、次のようなことなのかもしれない。
 「心的状態」と「意識B]を区別することは、「宗教家」にしか、できない。だから、通俗的には、[意識B]の全部が「言語」でできているような「心的状態」はないと言いさえすれば、十分だ。[意識B]の「成分」のうち、「言語」として「出現」した「成分」だけで、つまり、「言語」だけでできた「文章」から読者が読み取った[意識A]は、作者の「心的状態」、あるいは、それが「出現」した[意識B]の「省略的のもの」だ。
 要するに、「妄想雑念」(意識B)から「妄」や「雑」の文字を「省略」し、[想念](意識A)となった姿が、「文章」だ。
 というのは、推敲の過程を「煩雑」に説明しただけのようだが、もし、そうなら、先の引用部分の論旨は、[「心的状態」は、「連続的」だと「煩雑」だから、「省略的」にした「文章」は、分かり安くて、便利だ]ということになりそうだ。しかし、論者は、その逆のことを言いたいはずだ。私の総括は間違っているらしい。
//「伝導器」
  このゆゑに言語の能力(狭くいへば文章の力)はこの無限の意識連鎖の
 うちをこゝかしこと意識的に、あるひは無意識的に辿り歩きて吾人思想
 の伝導器となるにあり。すなはち吾人の心の曲線の絶えざる流波をこれ
 に相当する記号にて書き改むるにあらずして、この長き波の一部分を断
 片的に縫ひ拾ふものといふが適当なるべし。
                            (『文学論』3)
 1.1 [「言語」は、これを「狭くいへば文章」だ]
 「文章」ではない「言語」というものは、あるのか。あるとすれば、それは、「文章」になっていない、単語の羅列などを指すのか。つまり、[意識B]=「心に浮かぶ意識」(『文学論』3)と同じものか。もし、そうであれば、[意識A]=「文章の上に示されたる意識」(同3)ではない[意識B]は、「言語」の一部、すなわち、[前「言語」的/「言語」]と定義できそうだ。
 あるいは、「文章」ではない「言語」とは、例えば、[音声「言語」]を指すか。もしかしたら、[意識A]と[意識B]の区別は、[「文字」(同3)「言語」]と[音声「言語」]の区別から、連想されているのかもしれない。
 1.2 [「無限の意識連鎖」には、「うち」がある]
 意味不明。
 1,3 [「言語」は、「無限の意識連鎖」に関係するどこかを「こゝかしこと意識的に、あるひは無意識的に辿り歩」く]
 「言語」は、動物に譬えられ、それ自体が「意識」を持つことになる。
 1.4 [「言語」は、「思想の伝導器となる」]
 「言語」は、「伝導器」に譬えられる。この器械は、それ自体が「意識」を持つ主体でありながら、いや、だからこそ、別の「意識」の媒体にもなるという。論者は、その過程を示しているはずだが、私には読み取れない。
 「思想」とは、何か。それは、「意識」とは別のものか。「意識」を「狭くいへば」「思想」か。「意識」は「妄想雑念」(同3)を含むが、それを「省略的」(同3)にすると、「文章」になる。「思想」とは、「文章の上において示されたる意識」(意識A)のことか。「狭く」言わなければ、[「思想」とは、「言語」によって「示された意識」(意識A)のことだ]と言えるか。だとすれば、私達は、ここから、[意識A]のことを「思想」と呼ぶことができる。[意識B]は「妄想雑念」と呼ぼう。すると、「心的状態」(同3)の構造は、次のように素描できる。
 「心的状態」は、「意識」と「無意識」と、それらを超越した「無念無想」(同3)とに分かれる。「意識」は、[妄想雑念」として「脳裏に出現」(同3)する。「妄想雑念」に含まれた非言語的要素を「省略」すると、「思想」になる。「思想」は、「言語」として実現する。なお、「言語」の一部、もしくは、その中核が「文章」と呼ばれる。
 この素描のどこかに、「言語」が「思想の伝導器」として機能する姿を置かなければならないはずだが、私には描けない。
 2.1 [「言語」は、「心の曲線」の全部を「記号」で表したものではない]
 2.2 [「言語」は、「心の曲線」の「部分を断片的に縫ひ拾ふもの」だ]
 茫漠とした話を、いろんなふうに「書き改」めているだけだ「といふが適当なるべし」といった印象だ。要するに、[「心的状態」と「文章」の間には、「省略」された何かがある]と言いたいだけだろう。しかし、[「心的状態」と「文章」の間で何かが落っこちる]とは、私には思えない。例えば、子供はおとなになるとき、何かを落っことすのか。そんな問題は、無意味だろう。同じように、[ある「心的状態」が「文章」に変わるとき、何かがなくなる]という話も、無意味だろう。
 そもそも、ある「心的状態」が「文章」に変わる過程そのものが、「意識」の新たな「推移」(同3)を作り出す。そして、そのことが分かっているからこそ、論者は、「言語」を擬人化し、「意識」を持たせ、ある「心的状態」の「意識」の「連鎖」のあたりを旅させたのだろう。
 論者には、「心的状態」や「意識」などから話を始める理由はなかったはずだ。私達にも、そんな話を聞く必要はないはずだ。頭に浮かぶ印象ではなく、思いついた言葉さえも、その全部を声に出して言う必要はなかろう。ましてや、それを、文字として記録し、公表する必要は、もっと、ないはずだ。そして、そのものを文学と呼ぶ必要となると、滅多にあるまい。
 Nは、[「意識」と「言語」を比べる]という、難解な問題に取り組んでいるように見せかけながら、実は、[「言語」と「文章」を比べる]という問題に解答を与えているようだ。[「文章」は、「文章」ではない「言語」に比べて、「省略的」だ]と言いさえすれば、Nは満足なはずだ。Nは、[明瞭に「言語」にして思ったり考えたりしていること、つまり、「思想」さえも、その全部を「文章」として明示することは、ためらわれる]という事実を指摘しさえすれば、満足なはずだ。つまり、[人は隠し事をするものだ]と言えば、話は終わり。
 まるで、誰かに[洗い渫いぶちまけてしまえ]と脅迫されて、[すべてを「言語」化することは、できないんですよ。知らないんですかあ]と、苦しい弁明をしているかのようだ。[陰で、こそこそ、口に出して言ってることでも、文字にして残すのは、ちょっと、どうかと思う]という事実を示すことができれば、[何かの全部を、書ける/書けない]という、本質的な問題に捕まる必要はない
//「くたびれてしまう」
  おとなの人たちときたら、じぶんたちだけでは、なに一つわからないの
 です。しじゅう、これはこうだと説明しなければならないようだと、子ど
 もは、くたびれてしまうんですがね。
             (サン=テグジュペリ『星の王子さま』内藤濯訳)
 語り手は、「おとな」と「子ども」を交換して、気取った会話を楽しんでいる。あるいは、気取った会話の相手を捜し求めている。この「おとなの人」は、[「子ども」の心を理解できる「おとなの人」]として、「おとなの人たち」の中に登場し、彼らとともに、素敵なお茶の時間を過ごす。
 [「子ども」「たちときたら、じぶんたちだけでは、なに一つわからないのです。しじゅう、これはこうだと説明しなければならないようだと」「おとなの人たち」「はくたびれてしまうんですがね」]
 こんなふうに「おとなの人たち」に言われた「こども」が「おとな」になると、「こども」のときの「じぶん」が「おとなの人たち」に言われたようなことを、「こども」に言いたくなる。そんな「じぶん」を皮肉に見る「おとな」の語り手が、「こども」の舌足らずな物言いを真似ているところだ。
 言うまでもなく、語り手が「おとな」への逆襲の根拠として提出しているところの[「説明」に「くたびれてしまう」「子ども」]という存在は、虚構に過ぎない。だが、「説明」して、ぶたれる「子ども」なら、いくらでもいる。
 勿論、「子どもは、くたびれてしまうんですが」、その前に「おとな」の方がダウンして「しまうんですがね」
 幼児は、語りながら描く。声を出すことと、絵を描くことと、さらには、踊ることとは、同時に起こる。そのどれかを禁止すると、全部の行動が停止する。いわゆる[固まる]という状態だ。このとき、「心的状態」(『文学論』3)も固まっているはずだ。一時的に、「推移」(同3)は停止する。この停止状態は、擬死に似ている。つまり、[固まる]とは、死の予感の表出だ。
 Sには固まる癖がある。頭の中で「ぐるぐる」(57)やるうちに、Sは、「恐ろしさの塊りと云いましょうか、又は苦しさの塊りと云いましょうか、何しろ一つの塊り」(90)に変身する。このときの気分は、「恐ろしさ」や「苦しさ」という言葉では言い尽くせない。
  罪の意識は、単なる思い込みにすぎないとしても、無力感に打ち勝つ力
 を与えてくれるものなのだ。トラウマによって日々の生活が乱されたと
 き、真に戦うべき悪魔はこの無力感なのである。
  罪悪感と恥ずかしさはしばしばいっしょくたにされるけれど、これら
 は別のものである。罪悪感は特定の行為を悔やむ場合に感じるものだが、
 恥ずかしさほどの重圧はなく、それを打ち消したり、あるいは罪滅ぼしを
 したりする手段を見出せることが多い。自分の罪を許すことは可能なの
 である。一方、恥ずかしさとは、全人格、それも根本的に悪い部分にかかわ
 るもので、打ち消したり許したりすることができない。一般に、恥ずかし
 さは、その時点での特定のできごとや悪事とはほとんど関係がない。自分
 の行為のひとつを暴かれることではなく、自分がほんとうはどんな人間
 なのかを暴かれることにかかわっているのである。恥ずかしさが罪悪感
 と共通するのは、理屈が通用せず、理性に訴えてもすぐには効果がないと
 いう点だ。
 (シンシア・モナハン『傷ついた子供の心の癒し方 子供は助けを求めてい
  る』青木薫訳)
 作者は、「人間の罪というもの」(108)の実例なのか、そうでないのか、判然としない、ある行為を、Sに実行させる。そして、その罪らしきものに対する「罪滅ろぼし」らしきことを実行する。しかし、罪そのものがないとすれば、「罪滅ろぼし」は、有効ではない。いや、無意味だ。「罪滅ろぼし」は無効だったのか、無意味なのか、あるいは、話が別なのか、私には不明だが、どにかく、寄り道に過ぎなかったようで、作者の予定通り、Sは死ぬ。この死も、「罪滅ろぼし」なのか、そうでないのか、分からない。
 語り手Sは、[過去のSの物語]を、自ら「訐いて」(31)みせるという儀式によって、Sのものでもあり、作者のものでもある[現在の「私」の物語]を封印する。[一部を明示することによって、全貌を曖昧にする]という、「遺書」の語りの矛盾した性格は、「不可思議な私というものを、貴方に解からせる」(110)という、矛盾した表現となって表出されている。
 語り手Sは、Kの死後、「他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなった」(106)という。しかし、実際には、この状態は、[Sの両親の死の物語]から始まっている。「覚えていて下さい」(57)と書かれていたことだ。少年Sは、親族一同の厄介者だった。少なくとも、そのような不安を抱くのは自然であり、その不安は、誰かが積極的に取り除いてやらない限り、なくならない。不安を取り除いてくれる人はいなかったらしく、少年Sは、自分で自分の不安を、取り除くのではなく、否認する。語り手Sは、[Sが、「他の徳義心を疑う」(57)根拠は、もっと根深いところに隠れている]という物語を封殺する。語られるSが「叔父を」疑わなかったという物語を、語り手Sが、Pに聞かれてもいないのに、わざわざ、語る(59)理由は、語られるSが、その逆の空想の中に生きていたことの反証になる。実際には、語られるSは、「叔父」を、前々から、疑っていたのかもしれない。そして、否認していた。「叔父」への疑いは、[「私」は、「他」にとって、価値がない]という物語とセットになっているからだ。
 自分の価値に対する疑いを自覚すれば、Sは、「早く死ぬべきだ」(102)という言葉を、「もっと早く」(102)引き寄せていたろう。「早く死ぬべきだ」という言葉は、本来は、Kのものではない。親族の厄介者だったはずのKが、親族から聞かされた言葉だ。あるいは、聞かされたように思い、そして、忘れていた言葉だ。Sの聞いた、未知の「男の声」(70)も、この言葉と同じ「意味」(102)のことを、Sに聞かせようとしているかのように、Sは思ったろう。Sは、この「意味」を、「嘲笑の意味でなくって、好意から来」(70)るものに変換する作業を、静ママに期待する。
 「他」の「嘲笑」や「侮蔑」(95)は、Sには、全人格の否定と感じられる。しかし、Sは、「嘲笑」を否認しようとしたり、「侮蔑」を甘受したりするだけで、堂々と闘おうとはしない。孤立感に根拠が与えられることを恐れるからだ。なるべく、疑いの状態に止めておこうとする。しかし、そのことによって、現実と空想を隔てる垣根が壊れる。加害者を空想する自分と、空想上の被害者である自分とが、混同される。空想の加害者を自分に取り込み、被害者は、加害者の代理人となる。こうして、自嘲、自虐から自殺に至る回路が開く。
//「慈母の取計らひ」
  約言すれば科学者が理性に訴へて黒白を争はんとするに引きかへて、
 文学者は生命の源泉たる感情の死命を制してこれを擒にせんとす。科学
 者は法廷の裁判を司どるがごとく、冷静なる宣告を与ふ。文学者は慈母
 の取計らひのごとく理否の境を脱却して、知らぬまに吾人の心を動かし
 来る。その方法は表向きならず。公沙汰ならずして、その取捌は裏面の消
 息と内部の生活なり。
  これ等内部の機密は種々特別の手段によりて表出せらるるものにして、
 これ等の手段を善用してその目的を達したる時、吾人は一種の幻惑を喚
 起してそこに文芸上の真を発揮しえたりと称す。(中略)
  余の説をもってすれば、およそ文芸上の真を発揮する幾多の手段の大
 部分は一種の「観念の連想」を利用したるものに過ぎず。
                            (『文学論』4)
 『文学論』では、[「心に浮かぶ意識をそのまゝ有体に紙上に写すこと」(同3)は「困難」だ]とされる。ところが、後に、Nは、「自分の心の経路をありのままに現わすことが出来たならば」(『模倣と独立』)と仮定する。いや、仮定ではないのかもしれない。「ありのままをありのままに書いた小説、良く出来た小説」(同)というものは、実在するのかもしれない。「ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得た」(同)「小説」の実例は示されていないので、何とも言えないが、実在しているような雰囲気で語られている。「ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得た」かどうかは、執筆者自身にしか、分からないことだから、読者には縁のない話題だ。また、執筆者自身が[自分は「ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得た」]と、本気で主張したとしても、そのことが、「小説」としてであれ、あるいは、「小説」以外の文書としてであれ、「良く出来た」という評価に繋がるという根拠など、どこにもないはずだ。
 「自分の心の経路をありのままに現わすことが出来たならば、そうしてそのままを人にインプレッスすることが出来たならば、総ての罪悪というものはない」(『模倣と独立』)という言い回しを裏返してみれば、Nは、ここで、[「自分の心の経路をありのままに現わすことが出来」なければ、「そうしてそのままを人にインプレッスすることが出来」なければ、「総ての罪悪というもの」は、なくならない]という、根拠のない恐れを表出していると想像される。Nが恐れの根拠を「ありのままに現わすことが出来たならば」、このような講演をする必要はなく、また、「小説」を書く必要すらなかったのかもしれない。同じことは、Sについても言える。
 Sは、Pに、「自叙伝」(110)の全部を示さなかった。なぜか。「自叙伝」とは、Sの「妄想雑念」(『文学論』3)でできていて、「言語」(同3)になり得ないからか。あるいは、[Sは、Sの「生命の源泉たる感情の死命を制してこれを擒にせん」とした。Sは、Pのために、「慈母の取計らひのごとく理否の境を脱却して、知らぬまに吾人の心を動かし来る」ことを企んだ]以下、略。すなわち、Sは、Pに対して、「文学者」として、振る舞ったのか。では、「遺書」は、Sの「小説」か。
 『文学論』では、[「心的状態」(同3)の完全な「言語」化は、原理的に不可能だ]とされている。ところが、不可能が証明されるのを待っていたかのように、「慈母」が降臨する。「慈母」の行う奇跡のことを、「観念の連想」というらしい。「観念の連想」とは、「妄想雑念」ではなかろう。だが、「思想」(同3)でもない。「言語」は「思想の伝導器」(同3)だが、「観念の連想」は、「思想」以外のものを、どうにかするらしい。
 「観念の連想」を利用したかどうかが、[「文芸」/非「文芸」]の区別の指標らしい。しかし、私達は、普通、「文芸」と非「文芸」を区別する指標を必要としないはずだ。[「文芸」でしかない駄弁]と、[「文芸」ではないが、価値のある「言語」表現]とを区別する必要はない。
 『文学論』の論旨は、「文芸」に向かって歪められている。歪んだ先に「良く出来た小説」という理想像が浮かび上がる。その途中に、Nの作品群が蟠る。そこに「慈母」が降臨する。どうやら、「観念の連想」が行われたらしい。
 私達が読まされているのは、「文芸」という奇跡の物語だ。「小説」は、その物的証拠に過ぎない。
 だが、この奇跡の物語そのものを、「ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得た」ものはない。
 「ありのまま」の「母」は、自分のために「取り計らひ」をしただけだ。「ありのまま」の「母」に「慈母」の仮面を被らせたのは、Nだ。[Nの物語]の中で、「慈母」は「慈母の取り計らひ」を行うが、「取り計らひ」の「内部」は「機密」扱いになる。「内部」などないのだから、ありもしない「内部」を「隠しもせず漏らしもせず」に明示することはできない。明示しないことは、[「内部」の不在を「隠しもせず漏らしもせず」書くこと]に等しい。この考えは、魔術的だ。
 [自分の物語]について、「隠し」たり「漏らし」たりされ、「ありのまま」を知らされなかった子供は、「慈母の取り計らひ」に一縷の望みを抱く。この子供は、「慈母」を捏造する。この「慈母」は、何も明示しない。「慈母」は、仄めかし」(『彼岸過迄』「須永の話」6)たり、「匂わし」(同)たりする。だが、本当は、暗示すらされてはいない。暗示したり、明示したりする主体そのものが実在しないからだ。実在しない「慈母」を夢見る子供は、自分の夢見た「慈母」という幽霊の口から、[自分の物語」を聞く。「慈母」は語る。[明示された「愛情のうちには変な報酬が予期されて」(『道草』41)いるよ]と。「慈母」は語り続ける。[明示されない「愛情のうちには変な報酬が予期されて」はいないよ]と。「慈母」は語る。[明示された「愛情」は、虚偽だよ。暗示された「愛情」は、真実だよ]と。やがて、彼は、「薮睨みから惚れられたと自認している人間」(『猫』2)になる。どこか、おかしいと感じてはいるが、もう、引き返せない。膝の上の猫に笑われているなと思っても、思うだけでは、どうにもならない。
//「肝胆相照らす」
 代助は、「三千代の過去」(『それから』14)を発見するが、それを三千代自身には明示しない。個人の文脈に止まる限り、「公平の眼」(『私の個人主義』)を持つことはできない。「公平」という言葉の置かれた文脈が共有されていないから、一方の主張する「公平」が他方にも「公平」と見做されることは、偶然の一致を除いては、あり得ない。「何でも話し合える」(83)と錯覚しているのならまだしも、「互の為めに口にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでいると確信して」(『それから』2)いながら、そのことを明示せずに関係を持続することは、裏切りに等しい。
 美禰子は、三四郎の「第三の世界」(『三四郎』4)に気づかなかったが、三千代は、密やかに、[代助の見た「三千代の過去」]に気づくらしい。そして、気づくと同時に、その「過去」を[自分の見た「三千代の過去」]に等しいと錯覚するらしい。そして、この錯覚を、作者は[恋愛]と見做すらしい。須永や一郎は、この錯覚を他人と分かち合おうとして、しくじり、苦しむらしい。彼らは、しくじりそうだとか、しくじったとか、気づく分だけ、三四郎や代助よりは、まともだと言えよう。
 「自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん」(『私の個人主義』)などといったお上手は、誰にでも言える。しかし、人は、「自分の幸福」を追求し始めた瞬間から、他人の「自由」が邪魔になるものだ。このことは、「個人主義」の内容が微温的だろうが、過激だろうが、全く関係がない。では、どうすれば、いいのか。
 答えは、簡単だ。[では、どうすれば、いいのか]と、尋ねることだ。この場合、尋ねる人の「主義」が、微温的だろうと、過激だろうと、あるいは、それが尋ねられた人の「主義」と近かろうが遠かろうが、そんなこととは何の関係もない。重要なのは、文脈の共有だ。
 『三四郎』では、読者に対しては明かされた[世界]が、『それから』では、暗示に止まる。そして、『こころ』では、ほとんど、示されない。作者は、[「寂寞」(107)の物語]の[世界]を読者と共有しないまま、がりがりと書き続ける。見えているのは、作者の手つきだけだ。ところが、Aは、この手つきに、うっとりとする。[世界]を明示せずに[世界]を利用する技法を、Aは学習する。
 「観念の連想」(『文学論』3)を利用しても、実際には、「芸術家と享受者の間に個性の一致」(『猫』11)がなければ、「肝胆相照らす」(『虞美人草』5)といった結果は生じない。そのような結果が生じたとしても、その返信に「連想法」を用いたら、「個性の一致」の幅は、どんどん、狭くなる。そして、いつか、不通に陥る。不通の手前で、「言うものは知らず」(同5)と呟けば、不通は普通に見えるか。
 『こころ』において隠蔽されているのは、[KをSの物語から排除せよと命じたのは、静ママだ。静は、その戦闘の賞品だ]というものだ。この潜在する物語は、「観念の連想」を利用したものか。あるいは、私が勝手に「観念の連想」のようなことをしただけか。では、両者は区別すべきか。区別すべきだとしたら、区別の指標は、何か。
//「百合」
 『それから』の「百合」(同10)は、『夢十夜』「第一夜」から摘んで来たのだろう。しかし、その経緯を、一般の読者が了解できると、作者が思うはずはない。では、作者は、作品の中で一人遊びをしているのか。
 仮説。「百合」の女は実在した。[「百合」の物語]と名付けるべき出来事が、実際にあった。Nの作品は、その女に向けて書かれた暗号文だ。ところが、「百合」の女は、Nの暗号を解読できなかった。少なくとも、[解読した]という旨の返信はなかった。しかし、便りのないのは、良い便り。「言うものは知らず」(『虞美人草』5)とやらで、希望は捨てたくなかった。
 Nは、曖昧な気分のまま、小説の形式で暗号文を送り続ける。「百合を刺繍」(『行人』「塵労」11)してみたり、百合を「所有」(同36、47)するという、突飛な宣言をしてみたりした。
 彼女は、「百合」の出来事を忘れているのかもしれなかった。あからさまにその出来事を告げられたとしても、彼女には思い出せないのかもしれない。あるいは、あからさまに告げた瞬間に萎れてしまう思い出なのかもしれなかった。あるいは、彼女は、百合の花とは、無関係だった。ただ、彼女の印象は百合を思わせ、彼女の耳元で、「百合」と囁いたことがあった。あるいは、一冊の本を二人で聞いたことがあって、その本のどこかに、百合の絵が描かれていた。Nは、そんな日の出来事を、彼女に思い出させようとして、小説を書く。
  ぼくには、あなたがぼくを愛しているってことはわかっていたんだ、最
 初の熱い眼差し、最初の握手で。けれどあなたのそばを離れていたり、ア
 ルベルトがあなたと一緒にいたりすると、いつも熱病みたいな疑いに苦
 しめられたんです。
  覚えていますか、いつかあのおぞましい集まりで、あなたは言葉をかけ
 ることも、握手をすることもならず、ぼくに花を下さいましたね。ぼくは
 夜ふけまであの花の前にひざまずいていた。あの花はあなたの気持の証
 拠だった。
             (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳)
 [あなたは、私を愛していることに、気づいていない。私は、あなたが私を愛していることに、気づかせてやろう。そのために、小説を書こう。小説は、愛の「伝導器」(『文学論』3)だ]
 しかし、愛は、なぜ、「伝導」されなければならないのか。また、「伝導」されると、愛し合えるようになるのだろうか。愛し合えない場合は、[「伝導」技術に問題あり]とすれば気が済むから、グッド・アイデアなのか。
 [小説は、愛の「伝導器」だ]という思いは、Nにとって、根拠を必要としない。その[世界]は、「百合」の女と共有されてはいない。その[世界]を、未来の「百合」の女が共有すれば、[「百合」の女は、Nに、愛を「伝導」した]という[過去の物語]が実現する。この論理は、不合理か。時間を無視すれば、合理的だ。「百合」の女は、時を越える女だ。彼女は、二人の愛を、二重の意味で、「思い出した」(『それから』13)存在として、未来から復帰し、未来に向かって生き始める。この論理は、不合理か。[愛を自覚せずに、愛を「思い出」にするために生きることこそ、至上の愛だ]とすれば、合理だ。
 Nの恋愛が妄想だとすれば、恋愛小説も妄想だろう。Nが、恋愛は妄想だと信じて、恋愛を妄想する[文学者]を演じたとすれば、恋愛小説を書いているというのが妄想だったのかもしれない。Nの小説と呼ばれる文書は、本当は、小説ではないのかもしれない。
 [藤尾の物語](『虞美人草』)が、甲野の「日記」に含まれていて、Sの「遺書」が[P文書]に含まれていて、それらが甲野やPの「小説」だとすれば、[甲野-宗近]や[P-X]は、[須永-敬太郎]や[一郎-H]と、同種の関係を結んでいることになる。前の二人が成功し、後の二人が失敗したとすれば、その理由は、発信した情報が小説か否かによるはずだ。言い換えれば、発信者が[文学者]だったかどうかによる。この考えを推し進めれば、人は、小説を書かなければ、「成仏」(『模倣と独立』)できないことになりそうだ。
 ところで、本当の小説とは、何だろう。本当でない小説とは、何だろう。小説とは、元々、本当でないもののことだろう。かつて、小説は可能だったのか。いつか、可能になるという夢は、夢のまま、過去となったのではないか。小説とは、近代の未来小説に登場する、おかしげな発明品のように、[まだ/ついに]発明されない「伝導器」なのではないか。
//「創造」
 Sは、「人間らしいという抽象的な言葉」(85)を「創造した」(85)と書く。Sは、「人間」と「らしい」を結合した初めての人なのだろうか。少なくとも、Sは、そう信じているのだろうか。もし、そう信じているのではないとしたら、Sは、「言葉を創造した」のではなく、「人間らしいという抽象的な言葉」の意味を「創造」したのだろう。そうでなければ、「創造」という言葉の意味を「創造」したのだろう。
 Sは、「事実を蒸留して拵えた理論」(85)と書く。だが、読者の前に、そんな「理論」は示されない。「自説」(同)とも記す。「遺書」のどこかに「説」や「理論」が記されているのか。「人間らしい」という言葉が「理論」でもあり、「説」でもあるのか。あるいは、「君は人間らしいのだ」(85)云々といった、いいわけがましい、言い損ないの駄弁を指して「説」や「理論」と称するSの糞度胸が、作者によって笑われているところか。
 Sは、「原の形」(85)やら、「直截で簡便な話」(85)を「露出」(85)できない。本当の理由を隠すために、いろいろと、ご苦労にもやっていることだろう。素直な口が聞けない理由を、本当の出来事とは別の物語に、あれこれ、探す。「露出」しにくいという、日常的な気分を、作者は[Sの物語]として表出する。そのとき、[「原の形」か、「理論」か]という二者択一問題が「創造」されるらしい。
 「明治の精神」(110)という、人騒がせな言葉は、人騒がせを第一の目的として「創造」されたものだろう。「創造」したのは、Sではなく、作者だが、Sにしろ、作者にしろ、彼らに、殉じたいと思うほどの「精神」が、彼らの外側にあったか、なかったか、その辺りの確証は、『こころ』の中を捜しても見つかるまい。
 「明治の精神」なんて、[明治の反肉体]なのか、[非/明治の肉体]なのか、まるで、知れたものではない。「明治」という単語が、作者が「明治」だと思っていることの何かと関係するのかどうかさえ、怪しいものだ。「精神」が「倫理」(56)なのか、「神経」(32)なのか、知れない。「精神と肉体とを切り離したがる癖」(77)という文句を思い出せば、「明治の精神」というときの「精神」とは、「切り離し」て摘出された「精神」のことか。それとも、そういうことをする「癖」を持った「精神」のことか。
 もし、Sが、Kに関係した「精神」的な何かに殉じたのだとすると、Sは、SやKを除く「普通の人」(76)にとっては「空虚な言葉」(76)としてしか表現されないような「精神」に殉じたことになる。だから、[「明治の精神」は、明治の「普通の人」に共通の何かだ]ということは、できない。当時の「普通の人」は、言葉によって表現できないが、KやSは、「普通の人」と、ある「精神」を共有していながら、「普通の人」が言わなかったことを、「普通の人」にとっては「空虚な言葉」として、Kは表現し、Sはその表現を理解していたということか。
 ありもしない「心の経路」(『模倣と独立』)なら、「ありのままに現すことが出来」(同)るはずはない。[ありもしない場所にあり得たかもしれない何か]を[ありえたかのように「現す」]ことが、「心の経路をありのままに現すこと」なのだろうか。
 作者が「明治の精神」という言葉で封印した何かは、苦沙弥によって「吾輩」に名前が与えられなかった理由や、作者によってSに名前が与えられなかった理由と同根の何かだろう。人が自分の属する集団の中で得られるべき安定した地位の象徴が、名前だ。明治に、安定した地位を得られなかったことの表出として、[名前を与えられない存在の物語]が語られる。しかし、その物語は、[名前を与えられない由来の物語]を隠蔽するための物語だろう。「明治の精神」とは、作者が実在の明治の人々と、同時代には共有できないと感じていた、自分の「精神」のことだろう。言い換えれば、[「明治の」作者の「寂寞」(107)の「精神」]だ。ところが、[思い出せば、あの頃は角突き合わせていたけれど、というのも、同じ穴の狢だったからだろうよ]といった、何の慰めにもならない、ありふれた感傷が生まれる。勿論、その感傷を「世間」(1)が共有しそうにないことぐらい、作者には分かっているはずだ。
 「明治の精神」とは、作者が、[隔たりを感じていた/過去の環境の物語]を隠蔽する言葉だ。作者にとって、実感しにくい、自分の環境があり、そして、Sは、その中の人物だろう。その環境そのものの実在が疑わしくなれば、つまり、『こころ』の内部で「明治」が終われば、虚構の「明治」の中で、Sは、その環境ごと、消されてしまう。[Sの死の物語]は、[Sの環境の消滅/の物語]の比喩だ。
 [「明治」が終わるから、Sは死ぬ]という物語は、意味不明だ。では、Sが死ぬために、「明治」は終わってくれたのか。そんなはずはない。「明治」とは、語られるSの生活空間である前に、語られるSの影のようなものだ。Sが消えるから、影も消える。その逆ではない。だが、その逆であるかのように、Sは語る。だから、無理が生じる。
 「明治」とは、Sが見ていた「明治」のことだから、Sが死ねば、その「明治」が消えるのは、理の当然だ。また、Sの「明治」が終わると同時に、静の何かが終わらないのも、当然だ。しかし、このことを、作者は隠蔽する。そして、[Sは、かつて、「世間」(1)と、いや、「たった一人で好いから」(31)、誰かと、何かを共有したことがあるのか]という問題を、読者は、想像しようとさえ、しなくなる。
//「露の秋」
  雨戸の外にはいつの間にか憐れな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに
 思い出させるような調子で微かに鳴いています。
                               (57)
 「鳴いて」いるのは、「虫」であり、「虫の音」ではない。だから、この文には主語がない。また、「いつの間にか」「鳴いています」という構成は成り立たないから、[「いつの間にか」「憐れな虫」が「忍び」こんで「鳴いています」]という文の切れ端が転がしてあると考えるしかない。しかし、「憐れな」という言葉は「虫」に係るのではなく、「声」に係るはずだし、「忍び」は、「虫」の行動ではなく、「忍びやかに思い出させる」と流れる言葉の一部だ。しかし、「忍びやかに思い出させる」という事態は、想像できない。
 要するに、無茶苦茶な文なのだが、何となく意味ありげに見えるのは、「露の秋をまた」という言い回しによって、私達が、ある[世界]の感触を得るためだ。もしかしたら、「また」という言葉は、[ことさらに]といった含みで、「忍びやか」に係るのかもしれない。だが、[ことさらに「忍びやか」]な音は、聞こえないようなもので、「思い出させる」効力があるとは思えない。「また」という言葉は、空転している。ただ、表出的には反復を示唆し、既知の何かがここを通過したような印象を生み、[「思い出」す]という言葉に、凭れるように繋がるらしい。
 「思い出させるような」というとき、誰かがSに「思い出させ」ようとしているわけではない。Sは、今から、過去の出来事を書こうとしているわけだが、その前に、[思い出す]という心の準備体操をしているところだ。そのために、自分の過去の体験ではなく、出所不明の「露の秋」を思い出そうとしている。しかし、[「露の秋」の物語]を思い出してしまえば、[Sの物語]は停止するから、この言葉は、漠然とした[世界]の雰囲気以上のものしか示さず、「いつの間にか」、「また」、「忍びやかに」、「ような」、「調子」、「微かに」などと、何重にも曖昧な言葉に覆われて、どこへともなく、消える。
 言うまでもなく、「露の秋」は、Sの過去の体験に含まれてはいない。だから、思い出すことはできない。「露の秋」は、Sの想像の産物ですらない。「露の秋をまた」というときの「また」という言葉は、Sの現実においては、機能しない。だが、誰かの現実においては、一定の機能を果たしていたと想像される。だから、その人物の物語を「思い出させるような」ことをする誰かがいても、おかしくはない。[誰かが、誰かに、誰かの「露の秋」の出来事を「思い出させるような」ことをする]という物語そのものが、括弧に括られて、Sに届く。ここで、その特定の人物を思い出す必要はない。重要なのは、「思い出させるような調子」と言う、その「調子」だけだ。
 要するに、書き手Sは、「調子」を整えているのに過ぎない。
 Sは、あるいは、Pは、ここで、何かを思い出そうとしているのではない。「露の秋」という言葉がある[世界]の感触を与えたように、これから語られる[Sの物語]にも、ある[世界]の感触が伴うように、作者と読者が祈りを捧げているところだ。祈りに中身はない。だから、この文は、「何も知らない妻」(58)という言葉を、表出の水準で、引き寄せることになる。「何も知らない妻」は、現実と出所不明の[世界]の接合部分を隠す。
 これから語られる[Sの物語]は、「露の秋」というタイトルの、空っぽの[世界]に収まる予定だ。しかし、両者に、密接な関係はない。物語と[世界]を繋ぐ力を持つのは、語り手でなく、聞き手だ。語りを促し、語り手を励ます聞き手は、語り手にとって、対立しつつも従属するような、矛盾した存在でなければならない。そのような存在は、ときとして、異性として夢想される。語り手は、聞き手を[ツマ」と呼ぼうとした。だが、ためらい、静かに眠らせた。
  みんながぎょっとしているとき、十二番めの女が進みでました。この女
 は、自分の願いごとを、まだいわないでいたのです。けれど、前の悪い呪文
 をすっかりうち消すわけにはいかず、できるのは、それをやわらげるだけ
 なので、この占い女はいいました。
  「それでも、お姫さまは、死んでしまいはしません。百年のあいだ、深い眠
 りにはいるのです」
                   (グリム『いばら姫』大塚勇三訳)
 表出の水準では、静は、眠りの中で、Sの「懴悔」(106)を聞いている。静のための[Sの物語]は、静の夢の中でしか、語られない。[夜話]で、静は、Pに、[Sの物語]の構成を依頼する。作者は、Pに代わって、Pを鋳込んだ「遺書」を構成する。静は、Pに語られつつある[Sの物語]を夢に見ることになる。
 [φ(S(S(静-S)静)P)静]
 これは、静がPに依頼した物語、[P(S(S(静-S)静)P)静]の原型だ。この原型の物語は、Sの遺言によって、起動できない。つまり、[P(S(S(静-S)静)P)φ]となる。『こころ』は、これらを合成して、[φ(P(S(S(静-S)静)P)φ)静]とした姿だ。これは、表現としては成立し得ない物語だ。
 作者は、Pに代わって、静のために「遺書」を認めている。作者が書いている場所は、静の夢の中だ。その夢の[世界]は、「露の秋」と呼ばれるのだろう。
  「いま夢を見ているところなんだ。」と、トウィードルディーがいいまし
 た。「なんの夢を見てると思うかね?」
  「そんなこと、わかるはずがないわ。」
  「いいかい、きみの夢なんだよ。」 トウィードルディーは、勝ちほこった
 ように手をたたきながらさけびました。「もし、王さまがきみの夢を見な
 くなったら、きみはどこにいると思うかね?」
            (ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』高杉一郎訳)
//「ペン」
  私が筆を執ると、一点一劃が出来上がりつつペンの先で鳴っています。
                               (57)
 「私が筆を執る」ことと、「一点一劃が出来上が」ることと、何かが「ペンの先で鳴って」いることとの間に、どんな関係があるのだろう。形式的には、[「私が筆を執ると、一点一劃が出来上がり」ます]という文が復元できる。しかし、この文には、意味がない。「鳴って」いるのは「一点一劃」のようだが、こんなことは、比喩としてさえ、理解できない。
 いっそのこと、[「私が筆を執ると」魔法が始まる]とでも書けば、どうか。「筆」を「ペン」と言い換えると、それは、「魔法棒」(90)になり、現実を作り替えてくれると言い張れば、どうか。
 ここには、書記に伴う、無意味な擦過音を、読み手の応答のように聞く、書き手のフェティッシュな感覚が表出されている。あるいは、Sにとって、「ペン」は楽器の一種なのかもしれない。演奏家は、自分以外の聞き手を、必ずしも、必要としない。
 文字の「一点一劃」は、音楽における一つの音と同様に、それ自体では意味を持たない。勿論、例えば、ある線は、私達に、ある印象を与える。そのことは、ある音色がある印象を与えるのに似ている。
 ここで、実際に、「出来上がりつつ」あるのは、「一点一劃」ではない。文字だ。意味ではない。その文字が表音文字なら、一字では意味を形成しない。また、その文字が表意文字であったとしても、それが熟語の一部なら、それは、書き手の頭の中で「出来上がりつつ」ある思想とは、直接の関係を持たないかもしれない。単語だけでも、思想を形成しない。思想を形成する最小の単位は、文だ。だから、「出来上がりつつ」あるという言い回しに相応しいのは、ここでは、[文]でなければならない。
 書記に際してのSの感覚は、文を作るために文字を書く人のものではない。書家の感覚だろう。Sの感覚は、[意味によって思想を形成する思想家]の側面と、[視覚的な美を文字の意味との兼ね合いで形成する書家]の側面とに、引き裂かれている。この分離を見かけのうえで接合するのが、出所不明の「露の秋」(57)という[世界]だ。
 不確かな[世界]の記憶が呼び覚まされるとき、眼前の出来事は、過去の復活ではないが、馴染みのあるものに見え始める。出来事は、生々しくもなく、腐ってもいない。驚異だが、危険ではない。気分は、未知と既知の狭間に揺蕩う。例えば、Pは、Sについて、[不思議」(6)なのに、「見た事のある顔の様な」(2)、矛盾した印象を抱き、慕うが、このような感覚を、書き手Sは、[Sの物語]について、予め、作り出そうとしている。そのとき、言わば、開幕のベルの代わりに鳴るのが「ペン」の音だ。
 書き手が出す気もないのに出る音に、聞きたいわけでもないのに聞こえてくる音、「電車の響」(57)や「虫の声」(57)などが重なり、ある雰囲気を醸し出す。「すやすや」(57)は擬態語であって、寝息ではないが、それは、沈黙の声のように、環境音楽の基層となる。Sが書くことと、静が眠ることとは、作者の意識のどこかで繋がっている。
 書くことは、夢見ることに似ている。夢の中に、夢の作者はいない。夢の作者であるはずの自分は、それを見ている。自分が作り出したものとは知らず、驚いたり、笑ったりしている。夢見る人の反応が、夢を作って行く。この様子は、ちょうど、語りの場において、語り手が聞き手の応答によって、語りを変化させて行くのに似ている。
 書く人は、その作業を、リアル・タイムで励ましたり邪魔したりする受信者を持っていない。作者は、書くことを持続させるためには、幻想の読者を調達しなければならない。しかし、その幻想の読者が邪魔をするようでは、困る。この条件を最低の水準でクリアする、疑似的な反応が、Sの場合、「ペン」の音だ。「ペン」の音が心地よく聞こえるとき、書き手は、うまく書けていると感じることができる。勿論、うまく書けていると思うから、「ペン」の音が心地よく耳に響くだけのことだ。
 「ペン」の音を聞きながら、Sではなく、作者は[Sの物語]を書き進める。最初、[Sの物語]は、[P-X]だった。しかし、それは、完結しない。[S-P]は、「不得要領」(31)だった。[P-静]は起動しない。[S-静]は否定される。[S-「外の人」]は、未来の話だ。再び、「遺書」の形で、[S-P]が試される。しかし、これに対するPの答えはないから、これも伝達として完結したとは言えない。すべては、夢のようだ。「自叙伝」(110)を夢見るSと、Sの「自叙伝」を夢見る作者は、区別できない。『こころ』の出来事のすべては、夢と区別できない。
 『こころ』は、夢の外皮を厚く纏う。[Sの物語]の中核をなすのは、[Kの物語]だが、それは「空虚な言葉」(76)でできている。『こころ』が表出しているのは、生活とは無縁の言葉で「城壁をきずいてその中に立て籠って」(79)いるような、孤立した人間の儚さ、そのものだ。
 [Kの語る/Kの物語]に対して、Sが抱いた違和感は、Sの乃木に対する違和感(110)として、微かだが、確かに残存する。そして、その違和感は、『こころ』の外側に溢れ出て、『こころ』に対する読者の違和感を形成するはずだ。
 KやSの孤立が『こころ』読解の障害になるのではない。彼らの物語が孤立的であることによって、『こころ』は読解困難になる。[孤立したK/の物語]ではなく、「孤立した/Kの物語]を過剰包装する過程が、『こころ』の生成過程だ。『こころ』とは、[『こころ』の内部に、物語はない]という事実を隠蔽する作業の痕跡でしかない。作者は、『こころ』を、物語として孤立させたまま、放棄する。物語の孤立、あるいは、物語の起動不能という現象そのものが、作者の孤立感や無力感の表出となる。
 作者を孤立させ、無力にさせるのは、「声」を喪失した言葉としての文字だ。読書人にとって、重要な思想は、文字によって得られる。『猫』作者は、音を気にするとき、滑稽な印象を得るらしい。「子供の言葉ちがい」(『猫』10)は、成人の作者を恥じ入らせるかのようだ。「苦沙弥」という言葉は、音では滑稽だが、字面は深刻だ。この[滑稽/深刻]の分裂に、『猫』作者の思想の分裂が表出されている。Sは、「声」(70)を恐れる。自分の「声」さえ恐れるかのようで、しばしば、沈黙する。「声」に対する不信感や恐怖は、生きた人間に対する不信感や恐怖と密接に結び付いているはずだ。
 Sは、聞き手不在の語り手として設定されている。この設定を、そのままにして、もし、作者が、Sを、考えるだけの人物ではなく、例えば、静ママの遺影に向かって、いや、壁に向かってでも、とにかく、肉声で語る人物として描いたとすれば、『こころ』は、今あるものと同じ展開を示したろうか。作者自身が「声」を恐れているのでなければ、ほぼ同じ展開を示すはずだ。
  一方には悪魔たちの吐く焔・煙・叫び声があり、一方には王の勇士らが
 いる。たちまち王軍と悪魔の戦闘開始─そして長くはつづかなかった。
 王は呪術によって敵の三分の二を縛り、そのほかは重い鎚矛でなぎ倒し、
 傷つき倒れた悪魔たちを懲らしめに縛りつけて捕虜にする。彼らはつぎ
 のように助命の嘆願をした。
  「王よ、私らを殺さないでください。そうすれば、あなたの役に立つ新し
 い技術を私らから学びとることができましょう」
  名高い王は悪魔らが秘術を伝えることができるよう、その願いをきき
 とどけた。彼らは鎖から解き放たれると、哀れな声で王の保護を求める。
 彼らは王に文字をおしえ、知識によって王の心を輝かせたが、その文字も
 一種類ではなく三〇にちかい。
             (フェルドウスィー『王書』1-3、岡田恵美子訳)
//「床しい」
 『文学論』(N)において、「意識」、「言語」、「文字」などに、明らかな定義は与えられなかった。しかし、「文字」については、自明であるようだった。私は、「文字」という言葉を「言語」の換喩として読もうとした。だが、うまく行かなかった。
  私がかつて知人から書簡を受取ったことがある。見ると非常にみごと
 な筆跡で、いかにも床しい心持がした。けれども不幸にして、草体蜿蜒と
 でも評して好いのか、いっこう用向が解せなかった。已を得ず人のところ
 へ馳せ付けて、読んでもらってようやく返事を出して済ました。デフォー
 の小説を読むと対照としてこの手紙のことを考えずにはいられない。彼
 はいくらみごとでも解らぬ手紙はかかぬ男である。下手でも、拙でも旅館
 の勘定書のように明細にかく、必ず払の取れるように書く男である。
                          (N『文学評論』6)
 もし、この「書簡」の文字を読める人が、誰もいなくても、Nは、「床しい」という印象を抱えていられるか。書いた当人さえ読めないとしたら、どうか。書いた当人が、「実は君、あれは出鱈目だよ」(『猫』1)と答えても、やはり、「床しい」という印象を訂正しない覚悟はあるか。
  往来で空を眺めていると二人立ち三人立つのは訳はなくやる。それで
 空に何かあるかというと、飛行船が飛んでいる訳でも何でもない。けれど
 も飛行船が飛んでいるとか何とかいえば、大勢の群集が必ず空を仰いで
 見る。その時に何か空中に飛行船でも認めしむることが出来ないとも限
 らない。
  それほど人間という者は人の真似をするように出来ている情けないも
 のであります。
                          (『模倣と独立』)
 「大勢の群集が必ず空を仰いで見る」側を無反応で通り過ぎる人こそ、「情けないもの」と呼ぶべきだろう。私の知っている日本語では、そうだろう。
 Nは、何を「情けない」と言うのか。そもそも、どの行動を指して「真似」と言うのだろう。当時の文化では、こうしたことを「模倣」とか「真似」と言ったのだろうか。「飛行船が飛んでいるとか何とかいえば、大勢の群集が必ず空を仰いで見る」といった行為は、「模倣」とは言えまい。「空中に飛行船でも認めしむること」に至っては、「模倣」も何も、その対象がない。人それぞれの思い描く「飛行船」の形は、異なっているはずだ。形が一致するとしたら、「飛行船」の形に決まりがあると信じられているからだろう。「模倣」しているとしたら、その決まり切った形を「模倣」しているのであって、人々の頭の中に出現した形を「模倣」しているのではない。
  「そら、見給え」
  「何をですか」
  「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
                               (29)
 このSは、詭弁を弄している。いや、無茶な揚げ足取りをしている。「返事一つですぐ変る」と、人は「悪人」(29)と呼ばれるのか。不動心を持たないものは、挙動不審で、「悪人」か、容疑者になるのだろうか。
 Nが、読めもしない文字を見て、「床しい」と感じたのは、書き手の独立心を愛でたのだろうか。しかし、その書き振りが有名な書家の手跡を「模倣」していなかったとは、言えまい。Nにだって、臨書に励んだ経験があるはずだ。あるいは、有名人の「真似」をするのは、「情けない」とは言えないのだろうか。
 「草体蜿蜒と」した文字の書き手でも、封筒には、誰にでも読める字で書いていたはずだ。そうでなければ、郵便屋さんが配達できない。Nにも、差出人が、分からない。この書き手は、敢えて、読みにくい字を認めたのだろう。挑戦状だ。書き手は、その「用向」とは別に、文字の教養で、Nに挑戦した。Nは、敗れた。だから、本当は、「床しい」ではなく、[悔しい]と記すべきだ。ところが、Nは、敗北を認めたくないので、挑戦など、されなかったかのように回想する。そのせいで、[相手は、失礼なやつかもしれない]という疑いを自覚できない。ところが、敗北感は残るから、それを打ち消すために、[勝者を讃える]という芳香剤をぶちまける。正直に負けを認め、返す刀で、[気障な奴]と、舌打ちすれば済むことなのに、傷つきやすい人は忙しい。
 「床しい」文字を書く義務など、誰にもないように、「デフォーの小説」と呼ばれているものが、Nの考える小説に属さなければならない理由もない。物語が書き過ぎてあれば、頭の良い読者は、斜めに読めば良い。話がくどいのは、聞き手には閉口だが、文字なら、読む方で調節できる。しかし、書き足りないのは、困る。文字は、読めなければ困るし、物語は通じなければ困る。勿論、人を困らせるのが目的で書くのは自由だ。
 「デフォーの小説」の読者にとって、「デフォーの小説」が小説や文学と呼ばれなければならない理由は、特にない。それが歴史とか報道に分類されていても、構わない。「デフォーの小説」を読みたい人が、[小説]で検索するとしたら、愚かだ。[デフォー]で検索する方が、ずっと早い。
 Nは、デフォーが羨ましいのだろう。N語で言えば、「嫉妬」しているようだ。Nは、まるで、算数の勉強を始めたばかりの子供が指を折って数え上げている様子を見て、[子供っぽい]と咎める子供のようだ。[デフォーのやつ、何だか、とっても、いけないことをしているみたいだぞ。いいのかな、いいのかな。恥ずかしいよ。叱られないのかな]みたいな。
 昔、読めない手紙を受け取ったとき、私は困惑した。小さな手が、紙片を机の上に置いた。幼い顔が、私を見上げていた。
 見ると、そこには、[+]や[キ]のような、単純な線によって構成された形のものが、あたかも自己増殖するかのように並んでいた。尋ねても、答えはなかった。、恐れのような、戸惑いのような、悲しみのような、弱々しい表情が浮かんだ。重ねて問うと、口を開き、「おとうさん、おかあさん、たいせつにしよう」と、スローガンを唱えた。そして、空を見る。諦めて、私が笑うと、ほっとしたように、薄く笑った。
 私が読んだふりをして頷くと、また、[字]を書き始める。細かい字だ。書き終えると、紙を机に押し付けるようにして置く。そして、ほんの少しだけ、こちらへずらす。手に取り、読んだふりをして、頷くと、また、書き始める。頷きを求めて、彼女は、何枚も手紙を書いた。
 手紙は、扉の前の廊下に散らばっていることもあった。


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