『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#088[世界]48先生とA(38)「怪人の正体」

//「父母未生以前本来の面目」
  「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。「父
 母未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考えてみたら善かろう」
                             (『門』18)
 本当に、「何から入っても同じ」なのだろうか。もし、「同じ」であれば、読者は、[「悟の遅速」(同21)の問題はあれ、宗助は、いずれは、悟る]という読後感を得なければならないはずだ。逆に、「同じ」ではないとしたら、作者は、「老師」を風刺しているのだろうか。
 この挿話は、近代仏教説話だろうか。あるいは、「老師」か宗助の軽薄さを示すものだろうか。あるいは、どちらでもないのだろうか。どちらでもないとしたら、この挿話は、何のためにあるのだろう。
 私の考えでは、この老師は粗忽だ。宗助のような人物に、こんな考案を出すものではない。「何から入っても同じ」であるような人物は実在するかもしれないが、そのような人物は、宗教に入らなくても、別の方法で「同じ」ような道を歩き、成仏できそうだ。「老師」は、「何から入っても同じ」だと信じているのに過ぎない。この信仰は、仏教や宗教とも、特に関係はないはずだ。「老師」は、自分を、ただの老人ではなく、「老師」だと信じているだけだ。一方、宗助は、「老師」を、その称号に値する存在として見ていない。心服していない。「老師」の言葉に心を開かない。だから、良い効果は生じない。
 宗助は、相手の状態を見ずに適当な考案を出した「老師」を、本心では疎んでいる。だから、宗助は「悟」の境地に入れない。それどころか、「大事がもう半分去った如くに感じた」(同21)だけで、拾い物でもしたように、帰宅してしまう。気をつけろ。車の後に、また、車。
 あるいは、その後、宗助は、また、「大事」にぶつかれば、僧門を叩くのかもしれない。しかし、またもや、「大事がもう半分去った如くに感じた」頃、下山する気だろう。こんなことを繰り返すうちに、立派な宗教お宅ができあがる。お寺さんの方では、縁を結んでやった気でいるから、悪いことではないと思うのだろうか。叱るより、テレビを消して、家族で会話。
 私は、最悪の事態を考える。「宗助が東京へ帰ってからも、全くこの方を断念しない」(同21)で、勝手に瞑想を続けたら、どうなるか。恐ろしいぞ。彼は、[「父母未生以前本来の面目」は、地獄にある]と悟ることだろう。そして、自分の妄想を元にして作り出した地獄から出られなくなる。出られたとしても、今度は、[地獄を体験しなければ、「悟」は開かれない]という信念に基づき、現世に地獄を作り出そうと試みることだろう。
 「父母未生以前本来の面目」という考案は、取り扱い注意。これに取り組んでも安全なのは、修行者の「面目」が肯定的な状態として現れつつある場合に限られる。そこを弁えた上で、初心者に、荒療治として課す場合は、[この修行者は、勝手に下山しない]という見極めが必要だろう。
 言葉は「思想の伝導器」(『文学論』3)だとしても、何を伝えるか、知れたものではない。私があなたに経文を読み聞かせるとき、私は、釈迦の「思想」を伝えているのか。あるいは、経文の行間に作文した、私の妄想を伝えているのか。
 私が私の耳に語り聞かせるとき、つまり、読書中、私は、本当は、何を読んでいることになるのか。作者の「思想」か。あるいは、別の何かか。
 今、私は、あなたに何を伝えているのか。あなたに何が伝わっているのか。
//「理想は技巧」
  一般の世が自分が実世界における発展を妨げる時、自分の理想は技巧
 を通じて文芸上の作物としてあらわれる外に路がないのであります。そ
 うして百人に一人でも、千人に一人でも、この作物に対して、ある程度以
 上に意識の連続において一致するならば、一歩進んで全然その作物の奥
 より閃めき出づる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき
 痕跡を残すならば、なお進んで還元的感化の妙境に達し得るならば、文芸
 家の精神気魄は無形の伝染により、社会の大意識に影響するが故に、永久
 の生命を人類内面の歴史中に得て、ここに自己の使命を完うしたるもの
 であります。
                       (『文芸の哲学的基礎』)
 派手な打ち上げ花火のようだが、絶望が表出されているだけのようだ。
 「自分の理想は技巧を通じて文芸上の作物としてあらわれる外に路がない」というのは、本当だろうか。「技巧」とは、何を意味するのか。「技巧」は、「実世界」にはないのか。あるいは、「実世界」では用いてはならないような、特殊な「技巧」が話題になっているのか。「技巧」を用いずに、「理想」を語ることは、原理的に不可能なのか。Nだけが、Nの「理想」とする「実世界」の有り様を「技巧」なしに語ることができないのではないのか。「一般の世」が拒否したはずの、個人的な「理想」が「社会の大意識に影響する」ことは、私にとって、あなたにとって、好ましいことだろうか。言うまでもなく、あなたや私が「実世界」の住人だとしての話だが。
 一億人の内の「千人に一人でも」、いや、一万人に一人でさえ、ヒットだろう。ところが、「作物に対して、ある程度以上に意識の連続において一致する」と感じた読者は、[私は、「千人に一人」の、違いの分かる人間だ]と勘違いするのかもしれない。勘違い読者は、「実世界」の住人とは言えない。少なくとも、約束もない、面識すらない相手を「先生」と呼んで立ち止まらせる権利を与えられたと信じるのは、「実世界」の住人ではない。「実世界」の住人ではないような個人が、「一般の世が自分が実世界における発展を妨げる」ように思うのは、妄想ではなく、事実だろう。
 Nのいう「理想」とは、何だろう。それが「一般の世」で共有されないのは、なぜだろう。それは、「理想」とは名ばかりで、隠された絶望の影に過ぎないからではないのだろうか。
 「理想」を語るとき、「技巧」を用いてはならない。
 「技巧(アート)なら戦争だ」(『彼岸過迄』「須永の話」31)
//「流転」
 敬太郎は、「彼の前に突如として已んだ様に見えるこの劇が、これから先どう永久に流転して行くだろうかを考えた」(『彼岸過迄』末尾)という。だが、「この劇」とは、「森本に始まって松本に終る幾席かの長話」(同)を指すはずだから、この文は、奇妙なことを語っていることになる。[森本の物語]と[須永の物語]は一連の物語ではないからだ。
 あえて、[森本の物語]と[須永の物語]を一連のものと見做すとすれば、二つの可能性が考えられる。一つは、[『彼岸過迄』は、森本は須永だという物語の破綻した姿だ]という可能性。もう一つは、[『彼岸過迄』は、敬太郎が、自分の物語を、それとは気づかずに、当てこすりのように聞かされるという物語の反転したものだ]という可能性。そして、この二つの可能性は、作者にとっては一体のものだったのかもしれない。
 森本と須永は、[自分の物語]の語り手だという意味で、同種の存在だ。そして、それらの物語の聞き手である敬太郎は、[森本 or 須永の語る/自分の物語]を、[φの語る/自分の物語]という対称軸で、聞き手である自分の側に折り重ね、我がことのように、つまり、[敬太郎の語る/自分の物語]であるかのように、聞いている。そんな様子は描かれていないのだが、作者は、[聞き手とは、そのようにして聞くものだ]という前提を持っていたようだ。他人の物語を聞きながら、敬太郎の気持ちは、微妙に変化する。この変化こそ、『彼岸過迄』の隠された本筋、つまり、「劇」と呼ばれるものなのだろう。事実、『彼岸過迄』において、物語に、「劇」的展開は、起きない。何かが起きたとしたら、敬太郎の気持ちの変化として、起きたとしか思えない。勿論、表面的には記されていないことだ。
 作者が作り出そうとしているのは、[物語を受け取る側、聞き手、読者の側の心境の変化/の物語]だ。[作者は、実在の読者の心境を変化させようとしている]というのではない。見かけの物語と、幻想としての読者とを媒介するような受信者が設定されていて、その受信者が変化する。その受信者とは、「吾輩」(『猫』)や「おれ」(『坊ちゃん』)が語りかけている相手だ。読者は、いくら、作品の中を探しても、聞き手を見つけだすことができない。甲野(『虞美人草』)は、「日記」(同19)と称する論文を誰に向かって送信するつもりでいるのか、分からない。
 語り手が見えない作品でも、見えない聞き手が聞いている。例えば、「無信心な彼はどうしても、『神には能く解っている』と云う事が出来なかった。もしそういい得たならばどんなに仕合せだろうという気さえ起らなかった」(『道草』57)という記述は、一見して、無駄なものだ。だが、[ここには見えない聞き手がいて、その聞き手と対話するように語り手は語っている]と思えば、無駄ではないことが分かる。
 ここで、語り手は、「無信心」ではない誰かの物語を語り終えたつもりになって、その物語を否定して見せている。つまり、[「無信心」ではない「彼」は「『神には能く解っている』と云う事が出来」た。「そういい得た」ので、「仕合せだ」]という物語があって、それを否定しているように見える。しかし、なぜ、そのような物語を、語り手は否定しなければならないのか。この物語を否定するのが、作中人物であるのなら、問題はない。
 [「無信心な」私は「どうしても、『神には能く解っている』と云う事が出来なかった。もしそういい得たならばどんなに仕合せだろうという気」は起った]という物語の否定として、先の文が提出されているのなら、無駄とは言えない。しかし、この否定されるべき物語は、どこにもない。あるとすれば、物語の外側にある。つまり、それは、幻想の読者の考えとして、ある。この幻想の読者は、物語の外側にいるが、作品の外側にいるのではない。
 Nは、もう一人の自分である、幻想の読者に語り聞かせるように書いている。Nにとって重要なのは、語られつつある物語そのものではない。物語の聞き手である自分の心の変化だ。
 『こころ』までの創作の動機は、幻想の聞き手に人格を与えることにあったと言っても過言ではない。幻想の聞き手は、Pとして完成すると同時に、消える。[語り手のいるところには、いつも、聞き手がいる]という感触を、作者が得たからだ。だから、一部では評判の悪い『道草』なども、作者は書けるようになる。俗に言うところの[自分のために書く]という心境に至ったからだ。
 この幻想の聞き手こそ、Nの作品における、隠れた主人公であり、真の作者だ。ちょうど、夢を見ている人が、自分の見ているものを、自分の作り出したものとは思わないように、この幻想の読者も、自分が行動し、創造しているとは、思っていない。Nは、自分の「意識」(『文学論』)を読み取り、「写実」(同3)していたのだろう。
 「彼の前に突如として已んだ様に見えるこの劇が、これから先どう永久に流転して行くだろうかを考えた」というときの「彼」とは、この幻想の聞き手であるN自身が、作中の聞き手と同一視されたものだ。
//「どうせ解りゃしません」
  私が大学にいる頃教えたある文学士が来て、「先生はこの間高等工業で
 講演をなすったそうですね」というから、「ああ遣った」と答えると、その
 男が「何でも解らなかったようですよ」と教えてくれた。
  それまで自分の云った事に就いて、その方面の懸念をまるで有ってい
 なかった私は、彼の言葉を聞くとひとしく、意外の感に打たれた。
  「君はどうしてそんな事を知ってるの」
  この疑問に対する彼の説明は簡単であった。親戚だか知人だか知らな
 いが、何しろ彼に関係のある或家の青年が、その学校に通っていて、当日
 私の講演を聴いた結果を、何だか解らないという言葉で彼に告げたので
 ある。
  「一体どんな事を講演なすったのですか」
  私は席上で、彼のために又その講演の梗概を繰り返した。
  「別にむずかしいとも思えない事だろう君。どうしてそれが解らないか
 しら」
  「解らないでしょう。どうせ解りゃしません」
  私には断乎たるこの返事が如何にも不思議に聞こえた。然しそれより
 も猶強く私の胸を打ったのは、止せば可かったという後悔の念であった。
 (中略)私の腹には、どうかして其所に集まる聴衆に、相当の利益を与えた
 いという希望があった。その希望が「どうせ解りゃしません」という簡単
 な彼の一言で、美事に粉砕されてしまって見ると、私はわざわざ浅草まで
 行く必要がなかったのだと、自分を考えない訳に行かなかった。
                         (『硝子戸の中』34)
 「その方面の懸念をまるで有っていなかった」とか、「この返事が如何にも不思議に聞こえた」という記述は、私には「不思議」に思える。未知の人間に向かって情報を発信するとき、その内容が「別にむずかしいとも思えない事」と思われていても、理解されない場合を考慮しないではいられないはずだし、また、どんな内容でも反対したがる変人はいるものだ。だから、このNの態度は、自信過剰にしても度を超えていると言える。むしろ、鈍感なのだろう。この鈍感さは、自信のなさを自覚しないための心の鎧だろう。「自己本位」(『私の個人主義』)などという、厄介な言葉を振り回す人に、自信があるはずはない。では、なぜ、Nには自信がないのか。本当の理由は、分からない。しかし、直接の原因なら、明白だ。Nのように独り合点の言葉遣いをしていながら、言語技術者としての自信が生まれるはずはない。[心を鎧うために言葉を弄び、そのせいで自己像を不安定にし、さらに自信を失う]という悪循環に、Nは陥っていたはずだ。
 「聴衆に、相当の利益を与えたいという希望があった」というのが本音なら、Nは、「ある文学士」に頼んで、「彼に関係のある或家の青年」に面会し、「利益を与え」るように努力しては、どうか。しかし、そんな考えは、微塵もあるまい。なぜなら、「聴衆に、相当の利益を与えたいという希望があった」というのは嘘だからだ。
 本音を言えば、[「聴衆に、相当の」影響を「与えたいという希望があった」]とでもいったことになろうか。しかし、ここで、[影響]という言葉を遣えば、自分の「希望」は自分の仲間を増やすことにあり、[「聴衆」の「利益」など、二の次だ]という気分を表明したことになりそうなので、避けた。
 ここまでは、ありがちな欺瞞だが、Nは、この欺瞞を欺瞞として認めたくないものだから、本音と建前がごちゃごちゃになり、自分でも何を考えているのか、分からなくなったらしく、以下、論理が錯綜する。
 Nの抱く「不思議」の内実は、「この稿が新聞に出た」(同34)後、Nが受け取った「好意に充ち」(同34)た手紙に、「何故一学生の云った事を、聴衆全体の意見として速断するかなどという詰問的のものは一つもなかった」(同34)と、Nが付記したことによって、いくらか、透けて見える。
 Nは、[「聴衆全体」が「解らなかった」と、「文学士」が「教えてくれた」]と思ったという仮説が成り立つ。もし、そうだとすれば、「この返事が如何にも不思議に聞こえた」のも当然だろう。自分にとって「別にむずかしいとも思えない事」を語って、「聴衆全体」が「解らない」というような事態に遭遇すれば、誰でも驚くはずだ。しかし、その話は聞き伝えなのだから、本当かなと思うのが、普通だろう。[「文学士」は、どうやって、「聴衆全体の意見」を知ったのだろう]と疑うはずだ。そして、「文学士」の言葉を点検すれば、「文学士」は、そんなことを言っていないことが分かる。「文学士」が告げたのは、「聴衆全体の意見」ではない。「或家の青年」の「言葉」だ。このことを思い出した時点で、「意外の感」は消えることだろう。Nが自分の書いた文章を読み返さないのでない限り、「意外の感」という言葉は、別の事態を指しているはずだ。
 Nは、Nを「後悔させた」(同34)講演の挿話の後に、別の講演の回想を記す。そして、そのときに聴衆だった人々との交流によって得られた[「満足」(同34)の物語]へと暴走する。『こころ』が[「世間」(1)の語る/Sの物語]の異本だったように、[「満足」の物語]は[[後悔」の物語]の異本であるかのようだ。
 「この稿が新聞に出た」後、手紙を送った学生は、どうやら、この[「満足」の物語]を[世界]にして行動したようだ。そこには、「私が此処で述べた失望を打ち消すような事実を、反証として書いて来てくれた」(同34)というのだが、さあて、この「反証」は難しいぞ。聴衆全員の感想を調査し、しかも、その感想が全員一致していなければならないだけでなく、「文学士」の言葉に対する誤解らしき場合とは逆で、全員が「解らなかった」と答えるだけでは駄目で、全員が理解したと主張しても、全員誤解という場合もある。
 この難しい「反証」が学生達の手紙の中ではできていたと仮定しよう。しかし、その「反証」が嘘ではないという検証を、Nはしていない。学生達の手紙が証明しているのは、[全員が「解らなかった」と主張するわけではない]という事実に過ぎない。そして、そんなことは、証明する必要もない。どんなに難しい話でも理解したふりをしたがるおっちょこちょいは、どこにでも、いる。
 今度は、Nは、[なぜ、Nにとって「好意に充ち」た「四五通の手紙」(同34)を「聴衆全体の意見として速断するか」]と「詰問」されるべきだ。「好意に充ち」た手紙など、何通来ても、「反証」にはならない。「好意」と理解は、別物だ。
 [「満足」の物語]における講演は「誤解を招き易い内容を含んでいた」(同34)のだから、「好意」(同)的な反応が一つでもあれば、Nが「満足」を覚えても、おかしくはない。しかし、[「後悔」の物語]における講演の内容は、「別にむずかしいとも思えない事」なのだから、「好意に充ち」た手紙は、「四五通」どころか、その十倍、百倍あっても、おかしくはない。「四五通」では、むしろ、少ないとさえ言える。結論を言えば、Nは、無茶苦茶なことを書いている。
 Nは、「後悔」と「満足」の、二つの物語を入れ替えるために、ある前提を密かに導き入れたはずだ。それは、[聴衆の理解力の低さを指摘することは、聴衆に対する侮辱だ]というようなものだろう。そのような前提は、一般的には、成り立たない。なぜなら、発話者にとって「別にむずかしいとも思えない事」が、多くの聴衆にとって理解不能のとき、笑うのは聴衆の方だからだ。Nは、笑われるのを恐れる。だから、笑われる可能性を拒む。そして、笑われるべきは聴衆の方だという[世界]を作り出そうと足掻く。しかし、それは嘘の[世界]だと分かっているから、明言できない。そこで、[聴衆の理解力についての前提を明記すれば、聴衆を侮辱することになるから、明記しない]という口実を設けて、言語技術者としての自分の能力を俎上に載せないようにする。一方、普通の人々は、Nのような前提を持たないから、自分達が侮辱されたとは思わない。したがって、Nを「詰問」しようなどとは、夢にも思わない。ところが、独自の前提を持つNには、「詰問的のものは一つもなかった」という、何でもない事実が、手紙の発信者の「好意」の現れとして利用できる。
 もし、[聴衆の理解力]といった前提が嘘でなければ、Nは、「後悔の念」などに苛まれるはずがない。「おれ」(『坊ちゃん』)のように、青少年を罵倒するか、嘲笑するかして、終わりだ。そうしないのは、Nが、失敗した発話者として、極めて自然な「後悔」をしているからだ。そのくせ、Nは、そのことを認めない。だから、話の筋が混乱する。「私の不明を謝し、併せて私の誤解を正してくれた人々の親切を有難く思う」(同34)という話に作り替えながら、Nが密かに「謝し」ているところの「不明」は、[発話者としての「不明」]だったはずだ。
 [聴衆の理解力]についての独自の前提は、一般的に成り立たない。そして、この挿話の場合も、成り立たなかった。そういうことが書いてあるだけだ。ところが、Nは、この前提が否定される過程を、自分の「不明」や「誤解」が明らかにされる過程であるかのように語ってみせる。本当は、誰にとっても自然であるはずの[「後悔」の物語」を語りたくなくて、それを[「満足」の物語]にすり替えるためにやっていることだ。そんなことをして何になるのかと言えば、Nの気が休まる。学生達は、Nの気休めのための詐術に巻き込まれ、[「満足」の物語]を[世界]にして、その異本を体験するかのように、「四五通の手紙」を送る。
 [Nの言葉は、理解しにくい]という話題が、[「後悔」の物語]を経由して、無関係の[「満足」の物語]に組み込まれる。その過程で、Nの言葉が「解らなかった」存在、つまり、「或家の青年」は、抹殺される。凄まじい。Nは、自分の意見に賛同しない人間を、それが無名の若年者であっても、ただの一人も、許容できない。想像上の批判者にさえ耐えられず、躍起になって、その存在を忘れようと努め、そして、忘れる。
  「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰ゃる事は何だかちっとも分りゃ
 しないわね」
                            (『道草』102)
//「怯づ怯づ」
  何でも冬に近い木曜日の夜、先生はお客と話しながら、少しも顔をこち
 らへ向けずに僕に「葉巻をとってくれ給え」と言った。しかし葉巻がどこ
 にあるかは生憎僕には見当もつかない。僕はやむを得ず「どこにあります
 か?」と尋ねた。すると先生は何も言わずに猛然と(こう云うのは少しも誇
 張ではない。)顋を右へ振った。僕は怯づ怯づ右を眺め、やっと客間の隅の
 机の上に葉巻の箱を発見した。
  「それから」「門」「行人」「道草」等はいづれもこう云う先生の情熱の生ん
 だ作品である。先生は枯淡に住したかったかも知れない。実際又多少は住
 していたであろう。が、僕が知っている晩年さえ、決して文人などと云う
 ものではなかった。まして「明暗」以前にはもっと猛烈だったのに違いな
 い。僕は先生のことを考える度に老辣無双の感を新たにしている。が、一
 度身の上の相談を持ち込んだ時、先生は胃の具合も善かったと見え、こう
 僕に話しかけた。─「何も君に忠告するんじゃないよ。唯僕が君の位置
 に立っているとすればだね。」……僕は実はこの時には先生に顋を振られ
 た時よりも遥かに参らずにはいられなかった。
                   (『文芸的な、余りに文芸的な』17)
 なま言っちゃった後から急に怯えた子が慌てて言い繕ったかのような、この挿話の後段は、「実は」実話ではなく、作り話のようだ。種ぐらいは、あったかもしれないが、前段と後段では、「参」るときの感情が正反対なので、怪しい。正反対でないとしたら、[どちらも、迷惑だった]という話になる。
 Nが、どれほど、Aの身の上について、親身になったつもりになったとしても、他人の「位置に立っている」ことなど、できない。Nは、Nの「位置に立って」Aに「忠告」なり助言なりをすれば、良かろう。Aが「忠告」に従って行動した結果、失敗したり、損失を被ったりしたら、Nが責任を取ることにしよう。
 他人の「位置に立って」考えるなどという曲芸は、元来、不要だし、出過ぎた、厚かましい態度だとさえ言える。そして、大体は、不徹底に終わる。NがAの「位置に立って」考えただけで終わるとしたら、贔屓なのであって、きちんと考えるためには、Nは、Aの抱える問題の関係者全員の、それぞれの「位置に立って」みなければならない。その際、関係者達が、NやAの知らない場所で交渉することによって生じる変化など、諸条件を勘定に入れなければならない。また、無関係のギャラリーの評価というものも、考慮しなければならないこともある。そこまで考えるのは複雑過ぎると感じて、考えることを中途半端で止めてしまうのなら、初めから何も考えず、好悪や直感で行動する方が、まだ、ましだ。考えることを中途半端で止めてしまえば、考えた部分だけが重要なことのように錯覚され、状況判断を誤る。
  テレビの悩みの相談コーナーを見ていると、かならずといっていいほ
 どカウンセラーが口にする言葉に「私だったら」というのがある。たとえ
 ば離婚問題で悩んでいる相談者の現状をひと通り聞いたあと、カウンセ
 ラーは「私があなただったら、もうすこし我慢しますね」と言う。その言葉
 に相談者がわけなく従ってしまうのは、「私があなただったら」と言われ
 て、「この人は、まるで自分のことのように私の悩みについて考えてくれ
 ている」と錯覚するからにほかならない。そうした心理に陥ると、そのあ
 とに続く助言は、たとえ自分にとって不利な話でも、自分のためになる話
 と思い込んで素直に聞き入れてしまうのである。
                  (多湖輝『こんな手口にご用心』55)
 しかし、こうした諸々の支障について、Aは、十分に承知しているつもりだ。そのうえで、Aは、Nに、弟子に対して親身になることのできる先生を演じさせることを選んだ。少なくとも、Nについて、そのように語ることを好んだ。Nは、勿論、こうしたAの企みに気づいてはいない。ここで、Nは、「与し易い男」(『道草』78)と見られている。Aは、Nを利用している。その代わり、Nに取り憑かれる不快に耐えている。Nは、他人に成り代わって空想を逞しくする快感に酔っている。そんなNを、Aは、複雑な思いで眺めている。
 Aは、Nと「互に力に為り合う様なことを云うのが、互に娯楽の尤もなるものであった」(『それから』2)という事実を伏せて、「何でも話し合える中でした」(83)というふうに、読者に勘違いさせようとしている。その際、「娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでいると確信していた。そうしてその犠牲を即座に払えば、娯楽の性質が、忽然苦痛に変ずるものであると云う陳腐な事実に」(『それから』2)も気づいていた。しかし、Aは、そして、Nも、迎合する側の「犠牲」よりも、迎合された側の損失の大きさを計量し損ねていたはずだ。例えば、Kのような人物は、Sに迎合されなければ、自然に方針変更をしていたかもしれない。平岡の恋は、代助が仲人役を演じなければ、結婚には至らず、その結果、不和に苦しむこともなく、美しい思い出が残ったかもしれない。
 さて、真偽の程は別として、Aが[悩める若者の物語]でSのご機嫌を伺っていたら、その物語の主人公を演じているAに「嫉妬」して、Nは、[その役、おいしいね。ちょっと、代われよ]とばかりに、Aを押しのけ、Aの「位置に立って」、[悩めるAの物語]を[世界]に、異本を語り始めた。[Aの語る/Aの物語]は、[Nの語る/Aの物語]となる。原典に則るのではなく、原典を乗っ取った。
 [Pの語る/Sの物語]をSは乗っ取って、[Sの語る/Sの物語]を作り出した。あるいは、[Kの語る/静の物語]を、Sは「猛烈」(88)になって乗っ取り、[Sの語る/静の物語]を作り出す。
 根こそぎ持ってかれちゃって、Aは、唖然とする。しかし、すぐに、Aは、[これこそ、芸術家の姿だ]と、無理やり、自分を納得させる。そして、[こうした経緯に注目して、納得できた弟子は、自分だけだろう]と自負する。
 自覚の度合いは知れないが、AとNは、互いを利用し合った。彼らは、[人間は、他人を利用して生きるものだ]という人生観から自由ではなかった。他人を利用することが悪いということよりも、他人に利用されて、楽しくもないのに、自慢するところが、おかしい。
 Nが事実だと誤認したらしい「個性の一致」(『猫』11)は、しばしば、[恥の記憶の「一致」]であり、[罪の「一致」]として実現する。送受信者は、明示された言葉の裏側で、「声のない物語」(『テレーズ・ラカン』21)を共有し、そして、破滅する。恥や罪の共有は、愛に似ている。恥や罪の共有に似た愛は、やがて、憎しみから殺意へと変貌する。「とにかく恋は罪悪ですよ。よござんすか。そうして神聖なものですよ」(13)ってなわけさ。
 Nが、罠と知らずに作った罠を、Aは罠と知って作り、自分で落ちようとした。そうすることが「天才」の仕事だと信じた。実は、そうすることしかできなかったからだが、そうすることしかできない自分を合理化するために、Aは、Nを「天才」と称した。私は、誰が「天才」なのか、知らないし、また、Aが「天才」とはどういうものか、知っていたのかどうか、知らない。私に想像できることは、[Aは、身近に「天才」を必要とした]ということだ。Aは、必ずや、「天才」を[発見]したことだろう。なぜか。彼は「天才」以外とは交際したくなかったからだ。[自分が近親者と交際しないのは、近親者に「天才」がいないからだ]という詭弁を合理化するためだ。
 Aは、Nを利用している。その場ではどうだったか、とにかく、追憶の中では、利用している。どのように利用しているかというと、自分を、利用させてやるという形で、利用している。利用するという言い方を少し変えれば、[Aは、Nに、Aをかわいがらせてやっている]と言うこともできる。[AがNにAをかわいがらせてやることによって、AがNをかわいがる]とも言える。他人に利用されながら育ったAは、Nが、Aと同じように、他人に利用されやすい性格の持ち主であることを見破っていた。Nは、Aに利用されたことを知らない。少なくとも、死後、Aに、こうして、文章の中で、自分が利用されることになろうとは、予期すべくもなかった。
 [Nが、この種の危険を察知しないはずはない。知っていて、Nは、Aと戯れてくれた]という可能性に、Aは、有り金全部を賭ける。[「聡明な」(『戯作三昧』)Nは、自分の「愛読者」(同)であるAに、それなりの「好意」(同)を抱いていたはずだ]と、Aは思いたい。[Nは、Aを「嫌っていたのではなかった」(4)]と、Aは思いたい。[こうした遠回しの語法は、師弟が密かに耽っていた遊びのルールだ]と、Aは思いたい。[この秘めやかな遊びをNと遊べたのは、Aだけだ]と、Aは思いたい。そう思わなければ、Aは、自分が惨めな存在に思えて、死にたくなる。しかし、こうした事態を明確に言語化するのも、恥だ。
 [N-A]で起きたことは、[K-S]でも、[S-P]でも起きた。その結果、SはKを自殺に追い込むし、AはNの死に「歓びに近い苦しみを感じていた」(『阿呆』13)と記すことになる。依存の関係がこうした帰結を迎えることは、自明だと言える。だから、『こころ』作者は、こうした惨めな結末を、Pに記させないために、物語を投げ出す。
 さて、「忠告」について、NとAは、否定的な見解を共有しているようだが、そのことを、彼らは明言しない。彼らは、[「忠告」は、強制の異名だ]という物語を共有していながら、そのことを明言できない。明言すれば、[「忠告」は、強制の異名だ]という考えの「背景」(56)を語らねばならなくなるからだ。「背景」を語れば、彼らと彼らの家族の恥をも語らねばならなくなる。恥の物語の中では、「忠告」のふりをした強制を退けることはできない。[恥の物語]の中では、[あからさまに強制するのではなく、「忠告」のふりをしてくれる分だけ、愛情が混入されている]と語られることになっている。
 Aの観点では、Nの門人達のほとんどは、Nの心理を誤解していたことになる。門人達は、Nに[信頼に足る保護者]を投影していた。しかし、事実は、逆で、Nは、Aと同様に、[信頼に足る保護者]を求める精神的孤児だった。ただし、一方は、「猛然」となることができるのに、一方は、「怯づ怯づ」してしまう、そういう違いがあった。とは言え、そんな違いが分かるのも、違わない部分があるからだ。Aは、自分だけがNと通じ合えたという神話を、「怯づ怯づ」と語っている。そして、そのような神話を、私達が語り継ぐように仕向けている。
 Aにとって、Nは希望の星だったが、そのわけは、Aと同種の恥を隠していたからだ。だから、Aは、Nが彼らに共通の恥の神秘化に成功することを期待していた。しかし、同時に、Nが恥を暴露するのではないかとも恐れていた。Aは、自分達の恥が何であるか、よく知っていた。あるいは、知っているつもりだった。しかし、Nは、恥を自覚的に隠蔽していたのではなかった。その点、信用がならなかった。
 [Nの作品群は、遺棄された子供が一人遊びを繰り返しながら形成する、個人的世界と、本質的には同じものだ]ということに気づいているのは、自分だけだと、Aは信じていた。しかし、その[世界]の由来を白日の下に晒すことは、Aにはできなかった。Nによる禁止のようでいて、自分の恥のようでもあるので、暴露できなかった。本当は、Aの保護者達の恥なのだが。
 自分の責任ではないと思いつつ、自分の恥だと思うことを、[自分の恥ではない]と語ることは、嘘だろうか。あるいは、[文学]だろうか。
 Aにとって、[N≒芭蕉(『枯野抄』)]ならば、[Nは「大山師だった」(『続芭蕉雑記』)]という文が成り立つ。そして、Aも、また、「大」の字が付くかどうかは、ともかく、「山師」のつもりでいたのだろう。Aは、芭蕉を「不具退転」(同)と形容しているが、この言葉には、[不倶戴天]という気分が表出している。
 Nの[奥義]を自得したつもりのAは、作品と[世界]の関係の解明によってではなく、作品による[世界]の酷使によって、つまり、作品の本来の「背景」である個人的[世界]を、一般的な共有物である[世界]に置換したかのように装うことによって、Nが陥った文学的閉じこもりから脱出し、現実の生活空間に着地できると考えた。彼は、言葉の内側から生活空間への通路を開こうとした。無意味すれすれにまで拡張された[暗示的語法]は、この企みのためにある。「天上から地上へ登るため無残に折れた梯子」(『西方の人』36)という比喩に、その次第が暗示されている。
 言葉をわざと多義的に使用し、読者に読解を委ねるのは、幼児期に満たされるべき全人格的受容の快感を、作者が成人後も期待するからだろう。そして、その結果、作者が「敗北」(『阿呆』51)するのは、当然だろう。とは言え、語り手Aは、語られるAの「敗北」さえも、自滅的な実験の成功と見做したのだろう。
//「神々」
 Nは、Aを「顎」(『文芸的な、余りに文芸的な』17)で使った。Aは、Nを「先生」として利用した。Aは、イエスのことも利用した。
 Aは、自分の死後、「A先生」(『歯車』2)として、自分を私達に利用させようとした。私達に利用させることによって、逆に、「A先生」となって永遠に私達を利用できるような仕掛けを作ってから、逝った。[イエスも、そうした]と、Aは思った。
 「クリストたち」(『続西方の人』13)は、自らを、人々に、「クリスト」として利用させるために、「クリスト」として現れた。彼らは「クリスト」を僭称したのではない。「嘘と云うのはあなたがただけの偏見ですよ」(『河童』9)
 Aは、イエスの愛の方法を発見した。イエスの暗示の方法を発見した。[愛とは、愛の暗示だ]と発見した。そして、その発見を隠蔽した。私達に、その愛を再発見させるためだ。Aが「クリスト」として復活するためだ。 「みづから神に」(『或旧友へ送る手記』)なるのではなく、[自分が主人公になるための神話の作り方]をイエスは示したと、Aは思う。イエスは、自分を神とは言わなかったし、救世主とさえ、言わなかった。ただ、何事かを暗示した。
 信じ難いことを信じてもらうために、暗示が方法として選ばれる。暗示は嘘ではない。しかし、[暗示されたものは、虚偽ではない]とは言えないという大前提を、Aは忘れている。いや、それを忘れるための大博打か。
  彼は神を力にした中世紀の人々に羨しさを感じた。しかし神を信ずる
 ことは─神の愛を信ずることは到底彼には出来なかった。あのコクト
 ーさえ信じた神を!
                            (『阿呆』50)
 どの「コクトー」さん? 「あのコクトー」とは、『阿呆』作者が読者と共有しているか、あるいは、共有しているふりをしたがっているところの[コクトー神話]の主人公のことだろう。私が知っているかもしれないコクトーは、「あのコクトー」といった言い方をされるのを嫌っていたらしい。
 『阿呆』読者は、やがて、[「あの」芥川「さえ」ホニャラララ]と、語り始めるよう、促されているはずだ。そして、「これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(『マタイによる福音書』27)というような補注でも期待されているか。
 なぜ、「神の愛を信ずることは到底彼には出来なかった」と断言されているような人物が、自分の伝説を、[イエスの伝説]に重ねて見せるのか。Aの動機は隠されている。その動機とは、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」(『マタイによる福音書』12)という文を、私達に発掘させることだろう。[イエスの伝説]では、この問いは、「天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(同)という答えに繋がる。しかし、[Aの伝説]では、逆に、その断絶が暗示される。この[断絶の物語]を明示すれば、[私には、神よりも、肉親の方が大切だ]という、平板な主張に終わる。この主張は、[Aの伝説]では、[私は、神よりも大切な肉親がほしい]という希望の[世界]として機能するが、それは滅びた希望として、いや、滅びることによって発掘可能となった希望として、暗示されるしかなかった。
 「梯子」(『阿呆』1)の上で覚醒したAは、ヤコブの「梯子」(『西方の人』36)を蝶番にして、自分を「クリストたち」(『続西方の人』15)の一人に重ね合わせつつ、「見じめに死んで行った」(同)らしい。
 私には、Aの信じなかった「神」と、「コクトーさえ信じた神」と、あなたの信じる神とが同一の神であるかどうか、検討することはできない。いや、そんな苦労をしなくてもいいように、Aは、私達のために、死んでくれたらしい。検討[不要/不能]のまま、私達は、[芥川神話]を受容するか、そうでなければ、「分からないのか」(『続西方の人』15)と罵倒されることを甘受するか、二者択一を迫られることになる。
 Aは、Aを利用する「先生」として、Nを利用した。Nの死後も、Aは、Nを利用する癖を止められなかった。その利用の仕方は、打算的な権威付けとは性格を異にする。Aは、Nの生き霊を自分に取り憑かせて遊んでいたようなものだから、Nの死後、そんな遊びを続けようとすれば、死霊の実在を認めるような話になる。ところが、Aは「神秘主義」(『歯車』2)を信じないので、死霊と遊ぶ話を続けることはできない。
 『猫』から『明暗』までの切れ目のない悪夢のような物語に[自分の物語]を閉じ込めたNの方法を、Aは先鋭化させる。[φの語る/彼の物語(his story)]が「ヒステリイ」(『文芸的な、余りに文芸的な』35)として表出されることを恐れたAは、異本の歴史(history)に[自分の物語]を象眼しようと企てた。
  ずっと長い途を歩いて来た僕は僕の部屋へ帰る力を失い、太い丸太の
 火を燃やした炉の前の椅子に腰をおろした。それから僕の計画していた
 長篇のことを考え出した。それは推古から明治に至る各時代の民を主人
 公にし、大体三十余りの短篇を時代順に連ねた長篇だった。僕は火の粉の
 舞い上るのを見ながら、ふと宮城の前にある或銅像を思い出した、この銅
 像は甲冑を着、忠義の心そのもののように高だかと馬の上に跨っていた。
 しかし彼の敵だったのは、─
  「嘘」
                             (『歯車』3)
 権力者は、自分の権力を正当化するために歴史を改竄する。Aは、歴史を改竄すれば権力者になれるとでも勘違いしたか、さまざまな[異本]を作成し続けた。嘘を嘘で裏返すメンコの勝負ね。
   「おれはお前たちを祝ぐぞ!」
  素戔嗚は高い切り岸の上から、遥かに二人をさし招いだ。
   「おれよりももっと手力を養え。おれよりももっと知慧を磨け。おれ
 よりももっと、……」
  素戔嗚はちょいとためらった後、底力のある声に祝ぎ続けた。
   「おれよりももっと仕合せになれ!」
                       (A『老いたる素戔嗚』)
 自分がなればァ? 
//「怪人の正体」
  僕は魔法さ アンナ 君だけの魔法だ もし僕のことを だれかに話した
 りしたら─魔法は終わりになる 僕は永遠に消えるんだ ママも消えて
 しまう そして みんなも 永遠に消えるよ 残されるのは君だけ
          (マイケル・コーン監督『異常犯罪心理捜査』森本努訳)
  ぼくらは死父に死んでもらいたいのだ。ぼくらは目に涙を浮かべてす
 わりながら、死父に死んでもらいたいと思っている―そうしつつ、ぼく
 らの手で驚くべきことをあれこれやっている。
               (ドナルド・バーセルミ『死父』柳瀬尚紀訳)
  そこへトラックですい子やザンバロや探検隊の人々がかけつけた。
  「アメンホテップのおじさん、あなたはだれです。そのお面を取ってくだ
 さい」
  真吾がいった。
  「よろしい」
  アメンホッテップは重々しく面に手をかけた。
  「悪人はみんなほろびた。みどりの石も安全だ。わしももう顔を見せると
 きだ」
  一同はこの怪人の正体をかたずをのんで見つめた。
  あらわれた顔! それはなかば髪の白くなったりりしい、りっぱな顔で
 あった。
  「おーっ!」 吉川が叫んだ。
  「あーっ! 先生!!」 ザンバロはポロポロと涙をながし、「真吾さん! おと
 うさんですよ、おとうさんですよ」と、ささやいた。
  「えっ! おとうさん!?」
  「そうだ、真吾!」
  「お、おとうさーん!」 親子はひしといだきあった。
                       (山川惣治『少年王者』)
  「あなたは、とっても悪いひとだと思うわ」 ドロシーがいいました。
  「いや、それはちがうよ、お嬢さん。わしはほんとうはとてもよい人間な
 んじゃ。しかし、とてもできのわるい魔法使いじゃということは、みとめ
 なくちゃなるまいな」
             (L・F・ボーム『オズの魔法使い』15、佐藤高子訳)


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