著者別「え」
江口寿史
- 『ストップ!! ひばりくん』
- 『あばしり一家』を裏返して、ほんわかさせたようなもの。擽ったいような快感。
ひばりくんは、同性愛者だろうか。単なる衣裳倒錯者だろうか。あるいは、彼は、他人にからかって遊んでいるだけなのだろうか。 ここで、前提を疑おう。ひばりくんは、本当に男なのか。
ひばりくんが男だという証拠は、ない。ひばりくんについて、「男/女」という話は、言葉だけのものでしかない。「ひばりくんたら、男のくせして女の子みたいに可愛いから、ぼくたちは戸惑う」というのは、言葉だけの物語にすぎない。言葉を排除して絵の物語だけを見るかぎり、ひばりくんは異様に可愛い少女そのものだ。モデルは、森尾由美かな。
作者は、絵で言葉を裏切る快感に浸っている。
試みに、アニメの音声を消して、勝手にアテレコしてみよう。別の物語が始まるはずだ。
思春期の少年にとって、人間は、「可愛い/可愛くない」の、どちらかに分類される。可愛くない人間の典型が、自分だ。「自分は、異様に可愛くない」という発見をして苦しむのが少年たちの思春期だとすれば、ひばりくんの思春期は、その対極にある。ひばりくんは、異様に可愛い自分を発見して楽しむ。そして、自己自身の姿を楽しめない少年たちのことを笑う。
だが、もしも、ひばりくんがちっとも可愛いくなかったとしたら、笑われていたのは、ひばりくんだろう。もしも、ひばりくんを、普通に可愛くではなくて、異様なまでに可愛く描けなかったとしたら、笑われていたのは、漫画家だろう。
愛くるしいという言葉がある。見ていて苦しくなる。ひばりくんの可愛さは、この世のものとは思えない。勿論、この世のものではない。漫画の世界のものだ。いや、そういう意味じゃなくて、例えば、別世界の住人のようだってこと。他の登場人物と、ペンのタッチから異なる。ひばりくんは、ギャグ漫画出身者ではない。ラヴコメ出身者だ。
要するに、私は何を言いたいのか。「ひばりくんは可愛い」と言いたい。
えびはら武司
- 『まいっちんぐマチコ先生』
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「へんね なんだかスースーするわ? パンティをはき忘れてきたりしてね… (ぺらっ) あらららら… ほ…ほんとうに はき忘れている〜〜 どうりで へんな人がゾロゾロついて来ておかしいな〜〜とは思ったのよね まいっちんぐ」(「大切な忘れ物の巻」)
蛭子能収
- 『絵合わせ小説「犯罪者」』
- 「僕は、普通の人とは違った、非常に暗い、いやらしい子供になってしまったのだろうか」
この作品は典型的なものだろう。誰かが描かねばならなかったものだ。あるいは、似たようなものを、誰かが、すでに描いているのかもしれない。つまり、類型。しかし、類型だとしても、あからさまには浮上しないものだろう。
この作品を収めた「超短篇傑作漫画集」の表紙は、蛭子の顔の大写しだ。それは寺山修司の顔真似のようで、笑える。
「あとがき 言いわけ人生」では、「今度、生まれかわって人生をやり直す事ができれば、自分を強く見せて生きる人を経験してみたいと思っています」と描いている。近頃、TVで見る蛭子は、まるで「生まれかわって」しまったようで、貫禄さえ出てきて、いつも楽しそうに笑っている。照れ笑いも余裕たっぷり。照れ笑いを楽しめる体質になったのかもしれない。人間って変わるものだなあと思う。しかし、画風は相変わらずのようだ。
『去年マリエンバードで』
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この作品を収めた「笑う悪魔の黙示録」に、「特にインテリと呼ばれる人達を笑わすことに熱中しました」(『去年マリエンバードで』前書)とある。私はインテリではないから、蛭子漫画を見て笑うことはない。でも、映画の『去年マリエンバードで』なら、笑える。ユーモアというのは、ブニュエルらがやっているようなことを指す。蛭子漫画にユーモアはない。切羽詰まった人の幼児帰りの産物だ。笑うとしたら、作者その人を笑うのであって、作品は笑えない。
私は、蛭子漫画を見て感心する。[こういう展開は予想できたはずなのに、思いつかなかった。自分は気取って避けていたんだな]などと。
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