著者別「う」
上田とし子
- 『フイチンさん』
- スタイル画から飛び出してきたような、きれいな線で、おてんばな女の子の生活が描かれる。舞台は、旧満州。貧しい白系ロシア人や日本人も絡む。西洋の少女小説のような展開で、日本人の作品とは思えないくらい、こざっぱりしている。忘れたくない名作。
内田かずひろ
-
『シロと歩けば』
-
これこそ、『ぼのぼの』ならぬ、ほのぼの。
シロという犬のドラマでもなく、飼い主一家のドラマでもなく、普通の犬の気持ちを普通に想像して描くという作業は、とても大変だと思う。
こんな漫画の種は、二つか三つなら、誰にでも見付けられる。しかし、何冊もの本になるほどは、見付けられない。しかも、言われてみれば確かにそうだと思えるような種を見付けるのは、難しい。
どうでもいいような話だから、読んでしばらくすると、忘れる。忘れた頃に読み返すと、また、笑える。
内田春菊
- 『目を閉じて抱いて』
- 女優の股間に棒状の物をくっつけて両性具有だと言い張るポルノ映画があって、ちょっと世間を騒がせたことがあるが、この漫画の発想はそれから得たものか。
本物の両性具有は、こんなものではないと思う。スポーツのセックス・チェックで知られているように、大方の両性具有者は女性として育っているらしい。本人さえ気付かない。しかし、こういう詮索は、野暮なのだろう。
はじめはソフト・ポルノだと思って、楽しんでいた。しかし、徐々に暗くなり、死人まで出たので、不快になり、私はSCEAN20あたりで脱落した。この作品は、単行本の第1巻で終わっているようなものだ。
妊娠騒ぎに男たちは振り回されるが、こんなやつらが実際にいたら、おかしい。そのことだけで、別の長い物語が必要になるほどだ。男たちの狼狽ぶりは、女性の出産恐怖が投影されたものだろう。作者は、両性具有を対称軸に用いて、女の出産恐怖を男に感染させようとしているのかもしれない。妊娠出産における環境整備の諸問題を、男女関係の問題とすり替えているようにも見える。所有の助詞「の」にこだわる、言語フェチ女は、作家の自画像だろうか。
楳図かずお
- 『猫面』(?)
- この作品は実在するのだろうか。実在したとしても、その作者は楳図なのだろうか。しかし、彼以外の誰に描けよう。少しエロで、かなりグロの残虐な時代劇だから、現在では出版できないのかもしれない。
小学校の教室で、一人の女子がこの本を読み始めると、凄い凄いという気分がさあっと伝染し、人だかりができた。後ろの子は机に乗って、何十人かで一緒に覗き見た。外はかんかん照りだったが、人垣の中には薄暮が訪れた。
日頃は触れ合うことのない男子と女子が、知ってか知らずか、押しくら饅頭のように身を寄せ合っていた。恐怖とエロティシズムが同居するとき、男子と女子も一つになれるのだと、そのとき、私は感じていた。
- 『おろち』
- 気の利いた短篇集。「本当に恐ろしいのは、妖怪なんかではなく、人の心だ」ということを教えてくれる。私は、あまり、そんなこと、教わりたくなかったよ。
- 『洗礼』
- 失われた美貌を取り戻すために、母親が娘に自分の脳を移植する。一種の若返り法か。洗礼ではなく、洗脳だろう。落ちはいただけないが、妥協しよう。
マザ・コン少年の物語の主人公を少女に置き換えたようにも見える。
「いびつな者は自分でそれを感じることはできない。そしてそれを感じた者がいびつにされる」というテーマは、『狂気と家族』(レイン)を思わせる。
犬の首を載せた少女の姿は、作品の内容とは別のところから、恐怖を滲ませる。
- 『ト・モ・ダ・チ』(?)
- 友達だと思っていた人からひどい目に遭わされたと思っている人は、その前に自分が友達にした仕打ちを都合よく忘れている。
思い出させてやろうか。
「友達を作る」と、恐ろしいことになるよ。
- 『闇のアルバム』
- ほとんどが1枚1齣というぜいたくな試み。絵本とも言える。表紙を含めて8枚の短篇が、24話。
デッサンに癖のある絵が大画面ゆえに細部まで描かれ、執念を感じさせるようで、不気味。
夢の中で夢だと分かっていて、夢を操ろうとしたばかりに、かえって、自分に不都合な状況を作ってしまい、現実感も増して苦しむといった体験に似ている。
- 『イアラ』
- 死んだ恋人の復活を願って永遠にさ迷う男。素朴な感傷を反芻するうちに、そのもともとの感傷こそが、何かの反復だったことに思い至る。
SFのようで、実は中世日本文芸のパロディー。
芭蕉の登場する「かげろう」の物語は、「一家に遊女も寝たり」の句から発想されたものだろう。
- 『漂流教室』
- 学校は、お母さんが埋めてくれたものを発掘する場所だ。
「ただいま」
今という時間をお母さんと共有できない子供は、お母さんが埋めてくれたと信じるものを頼りに、今という、この恐ろしい時間を、どうにか、生き延びる。
恐ろしいのは、時間ではなかった。恐ろしいのは、この空間だ。教室。
教室には、大人になりきれない大人が、教師という病名を与えられ、閉じ込められている。社会は、彼らを隔離するために教室という檻を作ったのだが、そのことを悟られないために、生徒という慰み物が投入される。教育と称する拷問を受けても、地縁から隔絶された子供が子供として生きられる空間は、教室しかなかった。いや、教室の後ろの方だけ。
- 『神の左手悪魔の右手』
- 「私はとてもうれしくなり、その女の子が好きになりました。そこで私は女の子を……殺しました」
非常に怖い。スポーツのような力任せの残酷。究極のスプラッタ・ホラー。しかも、人間の心の歪みについて、きちんと描かれている。
連載は中止されたのではなかろうか。この頃から、日本の社会では、猟奇的な事件が増えた。いや、猟奇的な事件の報道が増えた。事実であれ、虚構であれ、猟奇的情報の需要が増えたことは、歴史的事実。
- 『わたしは真悟』
- 小説的な本筋は、語り手の「私」の存在が徐々に明らかにされる過程。
表面的な物語が、二つある。一つは、少年と少女の心が強い力で引き合うというロマン。これが、わざと古臭く大仰に語られる。もう一つの物語は、コミュニケイションそのものを自己目的とする機械の成長過程。こちらの物語はSF的。
新旧の、ありえないような物語が共鳴した結果、現実にありそうな近未来社会の見取り図が出現する。見事。漫画でなかったとしても、十分に面白い話だ。かなり多くの専門家のアイデアが投入されているようだ。学習漫画かもしれない。
- 『14歳』
- 人間という種が思春期を越えられなくなるという設定。現在の先進国の精神的風景の風刺らしいが、作家は風刺を突き抜けてしまい、現在の希望のない社会を肯定しているようにも見える。行くところまで行ってしまえという、呪いとも諦観ともつかない。悲しい楽観。笑うしかない悲惨。これが漫画的精神というものだろう。
楳図は、もう、漫画を描かないと決めたらしい。力作を生産し続ければ、誰だって疲れることだろう。しかし、理由は、個人的な疲労だけにあるのではないと、私は推察する。漫画に限らず、物語一般の表現の限界という壁に、この作家は突き当たったのだと思う。
現在、何を語っても、現実に追い越されてしまう。例えば、『沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ)という、かなり面白い作品は、現実に追い越され、あっという間に色褪せたものになった。だからといって、現実を追い越すような物語を描いてみせたとしても、それは難解なものになりがちで、一般受けしない。現代小説が辿ったのと同じ過程を、映画も辿ったし、漫画も辿りつつある。頭の栓が抜けるような、本気でわくわくできるような物語は、マニアにしか理解できない。
|