漫画の思い出

著者別「お」

大島弓子
『七月七日に』
独りぼっちで嘘の吐きっこ。
 お母さんってばさ、ちっともお母さんらしくないよね。もしかして、お母さんって、本当に、私のお母さん? お母さんが私のお母さんじゃないんだとしたら、本当は何者? あっ、そうか。本当は、私のお父さんなんだ。ワイ! 私って賢いのかも。(いがらしみきお『あんたが悪いっ』参照)
 この作家は、人間関係の組合せを、わざとのように取り違えてみせる。笑いを取るのが目的ではなさそうなときも。
 少女は、「正視できずに見るような印象で存在する」何かについて、ほのめかし、そして、その「印象」を封印する。読者を困らせたいのか。自分で自分を困らせたいのか。
 『キッチン』の原典だって。そんなばなな。
 夫婦関係では、夫の陽に対して妻は陰だが、母子関係では、子の陰に対して母親は陽にとして働く。母子家庭では、母親は子供に対して、父親役を演じなければならないことがある。すると、母親は、陽気が強くなる。そこまでは分かる。しかし、この作品では、[母親は、実は父親だったということがばれて消える]という展開になる。なぜか。時代状況などを理由にするのは、こじつけ。不謹慎。
 この作品では、時間が逆転していると考えるべきなのだろう。まず、父親の不在がある。しかし、その理由は、子には知らされない。子は、そのために、母親に対する信頼を失う。一方、消えた父親に対して過剰な依頼心を抱き、その気持ちを身近にいる大人である母親に投影する。
 重要なのは、親の性別ではなく、[子が親に騙されていた]という物語だろう。子は、情報の欠如を、幻想によって埋める。その幻想とは、[お母さんは、本当はお父さんだろう]というものだ。この物語を自分の幻想として自覚したとたん、子の抱いていた幻想の父親は消える。そして、その後に、子供自身にも理解不能の物語が残る。
 家庭から親が消える場合、普通は何が起こっているのか。離婚だろう。残された親子から、さらに親が消えるのは、再婚が理由だろう。しかし、父子家庭なら、多くの場合、父親の再婚相手の女性がやってきて、父親は消えないのではないか。母子家庭なら、母親は別の男と結婚するために出て行くことだろう。だから、この物語の原型は、[父親が消えた]という物語ではなく、[母親が消えた]という物語のように思える。
 まず、父親の蒸発があり、次に、母親が再婚して去る。この二段階の遺棄を、事実として子供が受け入れないとする。受け入れることができるだけの情報を与えられていないからだ。あるいは、[おとなの生き方は、おとなになれば理解できる]という希望を与えられていないからだ。子供は、不安を回避するために、二段階の遺棄を一つの物語として、自分に向かって語り始める。そのとき、時間の逆転が起こる。[母親は、初めからいなかった]と考える。次に、家庭から去るのは男性的行動だから、[去っていった親は、母親ではなく、父親だった]と考える。 幻想の母親は、こう言ったのかもしれない。「私は、母親である前に、人間だ」と。この台詞を、子は、こう解釈する。「お母さんは、女である前に、男だった。つまり、お父さんだった」
 [去っていった親は、父親だ]という物語が[世界]として選ばれるのは、過去の物語について、すでに耐えてきたという実績があり、危険が少ないと思われるからだろう。
 もし、[母親は、ときどき、父親役を演じる]ということが、母子によって共通に了解されていたら、このような物語は生まれなかったろう。
 ただし、この了解が社会に対して秘匿されている場合、例えば、『母ちゃんbP』(赤塚不二夫)のような場合には、やや問題が生じる。ここに登場する母親は、工場で働くときは男装して世間を欺いている。そして、そのことを知っているのは、本人と息子だけだ。この設定は、子の妄想に近いものだろう。あるいは、子が好んだ物語だろう。つまり、[母親は、家の外では女ではないから、再婚する可能性はない]と、息子は欺瞞する。この欺瞞によって、息子は、自分が陽の男となり、母親を陰とする関係、近親相姦の危険から、自らを遠ざけることができる。
 [母親は、家の外でも、女だ]という思いに苛まれた息子は、『蝶の家』(日野日出志)のような物語を作り出す。ここでは、息子は、母親を陽に仕立てるために、自分を極陰に押し下げる。『母ちゃんbP』では、息子は赤ちゃん帰りしがちだが、『蝶の家』では、さらにその傾向が大きくなり、自立して生きることが望めない、重度の身体障害者として設定される。こうした物語が夢想の領域から漏洩すると、たとえば、『芋虫』(江戸川乱歩)になる。そして、[自分は生きる価値のない存在だ]という物語を受け入れることになる。
 大島が試みていることは、次のような交換の物語だ。
 まず、[母は、優しい]という、紋切型の文がある。少女は、この文をもとにして、事実と照らし合わせたうえで、[母は、優しくない]という文を作り出す。しかし、この文は、[私は、遺棄された]という文につながるので、隠蔽される。そこで、[母は、優しくない]という文を裏返し、[父は、優しい]という文を作る。このままなら、エレクトラ・コンプレクッスだが、現実には、優しい父はいない。だから、[「父は、優しい」という文は、事実ではない]という文に書き改める。この文は、「父は、優しくない」という文と同じ意味になりそうだが、父は不在なのだから、事実を言い表わしたことにはならない。そこで、「父は、優しくない」という文を裏返して、[母は、優しい」という文を作る。
 このとき、[母は、優しい」という文は、事実に照合しない。しかし、少女は、事実に反すると分かっていながらも、優しい母と暮らす自分を思い描くことができたはずだ。そして、おセンチな[母恋物語]を語ることによって、現実から逃避することもできたはずだ。しかし、少女は、そうしなかった。では、何をしたか。
 ここで、少女は、[「父は、優しい」という文は、事実ではない]という文をねじった。そして、「優しい父は、いなくなった」という文を作り出した。この文は、[「父は、優しい」という文は、事実ではない]という文が作り出す、もう一つの流れ、つまり、「父は、優しくない」という文を経て[母は、優しい」という文に至る流れを、密かに含むことになる。
 このとき、「優しい父は、いなくなった」という文は、「優しい母は、いなくなった」という文の比喩となる。二つの文を合成すると、「優しい父は、優しい母でもあった」という文となる。この文を手に入れたとき、少女は小躍りしたはずだ。なぜなら、この文がありさえすれば、「母は、優しい」という文の当否を検討せずにすむからだ。そして、この文を検討しないですむのなら、当然、「私は遺棄された」という文が復活することはないからだ。
 少女は、何を願っていたのだろう。
 私のお母さんは、優しいお母さんであってほしかった。もし、そうであることが不可能なら、「優しいお母さん」を装ってくれるだけでよかった。だって、私が欲しいのは、本当の「優しいお母さん」なんかじゃなかった。そんな贅沢は、言わない。私は、かつて、「私には、優しいお母さんがいる」という文がほしかった。その文がもらえないのなら、せめて、今、「私には、優しいお母さんがいた」という文を下さい。その文をくれたら、「お母さんの優しさを感じ取れない、愚かな私がいた」という文をさしあげます。この文は、お母さんが、あの頃、私から手に入れようとしていた文、「お母さんの優しさを感じ取れない、愚かな私がいる」という文の代わりにはなりませんか? もう、遅いのですか。偽りの記憶でいいから、うそでもいいから、私に「優しかったお母さん」をください、お母さん。
 現代の[母恋物語]は、このような文体で語られる。
 [お母さんは、どうして、真似事程度でもいいから、私に優しくしてくれなかったのだろう]という文を、作家は隠蔽している。
 
『綿の国星』
 このタイトルは、「私の国が欲しい」の略だという。「私の国が欲しい」と言いたくても口に出せない乙女心を、作家は、読者に受け入れられた後も、温存し続けられるものだろうか。
 少女たちが本当に欲しがっているのは、「国」なのだろうか。少女たちは、「私は子供が欲しい」と叫びたいのだろう。でも、叫べない。なぜか。生まれた子供がすくすくと育つための「国」が見つからないからだ。最小の「国」は、母体だ。
 少女は、成熟した「私」の体を発見できない 少女から大人の女になることへの恐れと懐胎への憧れとが複合し、少女は混乱する。だから、退行して、幼女になる。猫は、幼女の比喩だ。
 [猫が人間の女性を母親と誤認している]という設定を裏返せば、[少女が母性に対する違和感を自分自身に振り向け、母性に対して異物を演じている]という物語が露出する。
 娘が自分の母親から一人前の人間として認められるためには、彼女自身も母親にならなければならない。しかし、娘は、自分が母親から一人前の人間として認めてもらえないから、母親にはなれないと思い込んでいる。この矛盾の前では、肉体の課題を迂回して精神的自立を目指すことも、また、逆に、精神の課題を迂回して異性という肉体を引き入れることも、選択肢に上らない。なぜなら、こうした選択は、母親の観点では、どちらも非行だからだ。母親の観点では、まず、娘は母親になろうと決意しなければならない。自立や性交は、母親になるための手段としてしか、選択肢に上らない。
 [猫が変態して人間になる]という物語は、奇跡として語られている。奇跡とは、絶望の異名だ。本当に語られなければならないのは、[自分の母親に絶望する娘と娘の絶望に対して無関心を装う母親の物語]だろう。
 この作家は、床に置いた猫の皿で食事をさせられた体験をもっているのかもしれない。あるいは、猫可愛がりされたのかもしれない。つまり、非力な猫のように振る舞ってみせるときにしか、注目してもらえなかったのだろう。
 ふにゃふにゃした自信無げな筆遣いから連想されるのは、『寺島町奇譚』だ。性と時代の違いを無視すれば、二人は似たような幼年時代を送ったものと推察される。ただし、『寺島町』の作者が作品の中で韜晦しているのに反して、『綿の国』の作者は創作そのものによって自己韜晦を試みている。『寺島町』の少年は、ありふれた、しかし、確かな世間へ旅立つ。一方、綿の国の幼女は、分身(点茶)を排除し、一層深く「私の国」に引きこもるらしい。
 猫と人間の物語がパラレルで進行する構成は『じゃりン子チエ』を思わせるが、違うのは、二つの世界を作家が十分に操作できていない点だ。操作する気はなくて、むしろ、自ら溶け込もうとしているかのようだ。この作家は、夏目漱石のように、想像と創作の間の闇に好んで浸りたがっているように見える。不気味だ。(go to 『いろはきいろ』#058[世界]18先生とA(08)「出鱈目」)
大友克洋
『スカッとスッキリ』
 初期大友の典型的な作品。
 盛夏、エアコンが買えないで、うだっている一家の物語。片や、扇風機すら買えなくて、死にそうな青年の物語。二つの物語は、たまたま、ぶつかることになる。漫画的としか言えないような闘いが、だらだらと流れる汗の描写のためだけに、執拗に続く。そして、最後に、「スカッとスッキリ」
 この作品が発表された時代の気分は、こういうものだった。

『宇宙パトロール シゲマ』
 漫画ならではのナンセンスな表現と劇画のもつリアリティーを意図的に混用し、語りのレベルがどこにも設定できないような、奇妙な世界を描きだした。卓抜した作品。才気が迸る。これ一作だけでも、大友の名は、漫画史のみならず、物語史に記載されて良い。
 ラストで白け世代に背を向ける少年の瞳は、『童夢』以降の恐るべき子供たちの瞳と同じもの。大友は、『AKIRA』よりも、もっと遠くへ行けるはずだ。

『NOTHING WILL BE AS IT WAS』
 くだらないことで口論を始め、成り行きで友人を殺す。死体の始末に困り、食べてしまった。
 背景を極端に省略した、白っぽい画面が、延々と続く。
 殺されたぐらいで死んじまうなんて、わがままだよなあ。そういうやつだから、嫌いだったんだ。殺してみて、やっと分かったよ。
 ばらばら死体を収める冷蔵庫が、魔術の道具のように輝いている。
おーなり由子
『くどうくん』
 好きな女の子を困らせてしまう、くどうくん。よくある話だが、よくある絵、よくある言葉ではない。
 プールで少女の足が攣る場面。「足がピーンとかたくなりました チカチカの白いものがぐるぐるまわって ずんずんずんずん みんなの声がひくくなりました」
 擬態語が視覚的にうまく処理されている。
 今後を期待していたら、絵本作家になってしまった。『天使のみつけかた』など。

『春が咲いて』
 最初の猫の絵に目が吸い寄せられる。これで、勝ったも同然。
 飼い主の少年に恋する猫が、猫の町でひととき少女に変身し、告白する。奇跡が終わり、路地から出てくる猫の姿に、はっとさせられる。
 猫の独白。「はやく わたしのこと 気づいてくださいよ」
 本音は、あんまり早く気づかれてもつまらない。そういうことまで、分かって描いている。この作家には、難しいことを難しくしすぎない賢さが備わっているらしい。

『春のいちれつ』
 男の子と女の子が、一緒になって元気に遊んだり働いたりしましたというお話は、大抵、嘘なのだけれど、この作品は嘘っぽくない。バス・タオルを被ってふざけ合う子供たちの姿には、確かな未来が感じられる。
 「かなちゃんが笑うと ぼくはなんか うれしくなる それは な かなちゃんが な おんなのこやからやねん」
 女の子に生まれてよかったねと言ってあげたい。

『なつやすみ』
 母親が死んで一年も経たない夏の午後、少女は公園で転寝をしていて、夢の中で母親と出会う。その出会いは、別れの挨拶でもあった。喪が明けたらしい。
 こんな物語は、飽きるほど聞いたような気がする。しかし、どれとは思い出せない。とりあえず、思い出されるのが、この作品。
 枠の線を重ねたり外したりして、心のゆらぎが表現される。見事な技術。早熟というより、老成。

『冬にririri』
 いじめっ子が蛙と電話で友達になる。そのことを級友に信じてもらおうと努力するうち、素直な子になる。というふうに要約すると、道徳のようだが、いや、道徳でもかまわない。
 蛙が電話に出るのを待つ間、「るるるる」という書き文字が、画面いっぱいに広がる。不安と期待の高まり。 うまい。このうまさは、本物だ。

『六月歯医者』
 少女は、いつ、性に目覚めるのか。作者によれば、乳歯に虫歯ができたときらしい。虫歯の発見は、ショックで、気絶するほどだ。しかし、抜いた歯はビー玉で、日にかざすと虹が見える。
 こんな陽気な自己肯定に出会うと、少年たちは、ケッとか言うかな。言わせておけ。
 漫画が表現として確立されたことを示す作品。短篇のお手本。

『手紙』
  「わたしは
  うたう
  しごとがしたい
  と思っています
  そのために よけい
  ひとりきりに
  なるかも
  しれないけれど」
 「てのひら童話」所収。
岡部冬彦
『ベビーギャング』
 幼児が、ベビー服に黒マスク、玩具のピストルで、大人を困らせる。どうでもいいような悪戯が、次々に展開される。落ちというほどの落ちもない。岡部の洒落た線とユーモアが楽しめたら、十分。
 ほのぼの漫画『アッちゃん』で知られた漫画家だが、彼にも渋み、苦みはあって、それが品良く出ている。忘れがたい作品。
奥浩哉
『HEN 吉田と山田、おかしなふたり編』
 [男性経験豊富な美女、吉田ちずるが、奥手の山田あずみに、生まれて初めて恋をする]というのが本筋のようだが、これは、[冴えないが悪い人ではないらしい龍一とご近所では可愛い娘さんと評判のあずみの初恋物語]を際立たせるための背景にすぎない。
 ちずるは、龍一とあずみを結ぶ恋のキューピッド。性的に自信のない二人を発情させるために、ちずるは登場している。作者の分身である龍一には、女性を発情させる力がない。作者は、作者の理想の女性である、あずみを発情させたいのだが、あずみが発情するとしたら、龍一以外の男性に発情するという事態しか思い描けないので、女性同性愛によって、あらかじめ、あずみを発情させておこうとする。一方、男として責任をとる必要のないちずるを相手に、自らも発情訓練を受ける。
 [ちずるは男性経験豊富で、しかも、レズビアンではないのに、同性のあずみに発情する]という奇妙な設定は、この間の事情を反映している。[ちずるは、レズビアンではない]という設定は、[龍一は、童貞だ]という話の裏返しだ。[ちずるは、滅多にいない女だ]という文を裏返せば、[ちずるは、男だ]という、作者の秘密が暴露される。作者が、ちずるに、男のように能動的で無謀な性行為を楽しませていることは、その傍証になる。
 作者は、ちずるに化けて、あずみの裸体を鑑賞し、あずみに接触する。二人の絡みによって、レズビアン的な快楽が描かれているのではない。女装することによって、作者は男子禁制の空間に潜り込める。男性読者も、ワクワクする。女装することによって、男性の意識は、男性としての責任感から解放され、寛ぎ、発情が容易になる。この作品で、絡み合う女体の描写が違和感なく見えるのは、そのためだ。
 作者と読者は、[男である自分が二人の女を相手にしている]という幻想を楽しんでいるのではない。その種の可能性は、ちずるのセックス・フレンド、ヒロユキの提案、「3人でってのはどうかな?」(「主演女優は誰」)を、ちずるが無視するということで、問題外、あっさりと否定されている。
 [ちずるは、龍一を羨望し、龍一とあずみの中を裂こうとする]という物語は、[龍一は、ライヴァルに打ち勝つ]という物語と[龍一は、あずみの愛を獲得する]という物語をあえて混同するために作り出されたものだ。
 こうした戦略は、夏目漱石の『こころ』(go to 『いろはきいろ』#080[世界]40先生とA(30)「嫉妬」)と同種のものだろう。『こころ』の後半で、主人公とその男友達は男性同性愛を疑わせるような関係にあるが、『HEN』では、その種の偽装が、女性の側に折り返されている。男が男に恋をする『変』という作品があるようなので、それを見れば、こうした事情が鮮明に見えてくると思うのだが、趣味じゃないから、パス。
 普通の三角関係とは違って、龍一のライヴァル、ちずるは女なのだし、しかも、ちずるは、本来は異性愛者なのだから、この勝負は、初めから龍一の勝ちと決まったようなものだ。こんな安易な勝負を、なぜ、作者は描き、そして、読者は、それをワクワクしながら見るのか。遊戯的な性行為なら簡単に想像できるが、素朴な男女の関係がどのようにして成立するのか、なかなか、想像できないからだろう。作者と読者は、遊戯的な性行為から処女と童貞のロマンスへと、いわば時間を逆転するかのように旅することになる。この物語は、見かけの大胆さに惑わされなければ、かなり慎ましいものだと分かる。
 作者は恋愛未体験で、そして、そのことを自分の人生の問題としてどう考えていいか、分からないらしい。作者にとって、この物語を語る目的は、作者自身の恋愛に対する無知を隠蔽し、その隠蔽工作から自他共に目を逸らさせ、恋愛についての固定観念に揺さ振りをかけることだ。
 「恋とか… 子供っぽいとか言ってたくせに… あたし ぜんぜん わかんないよ なんで そこまで 人のこと好きになれるの? 変だよ絶対 ドラマとかマンガとかの見過ぎじゃないの?」(「博多弁の少女」)
 「二人は自分たちが愛し合っていることをどのようにして知ったのか」(ボルヘス『七つの夜』/go to 『いろはきいろ』#075[世界]35先生とA(25)「美くしい恋愛」)という問いに対する答えは、一つだ。つまり、「ドラマとかマンガとかの見過ぎ」というもの。作者は、この答えを、逆説的に、「子供っぽい」もののように仄めかす。しかし、「恋とか…」は、子供っぽいものではない。「恋とか…」は、大人っぽいものだ。そして、大人っぽいものに憧れる態度は、「子供っぽい」ものだ。子供がネクタイを絞めて、「ほら、パパだよ」と言うようなもの。ネクタイは大人の象徴だが、象徴を身に付けただけでは、本物にはなれない。
 ちずるがいくら淫乱でも大人の女には見えないように、ちずるを含めた登場人物たちが「恋とか…」をしたとしても、大人らしくもなければ子供らしくもない。「恋とか…」を無視して性行為をすることと、性行為を無視して「恋とか…」をすることとは、ポポイのポイだけの思春期の裏表にすぎない。また、「恋とか…」を性行為の口実に使うのは、性教育の示唆によるものだろうが、そうなると、薄っぺらどころではなく、「変だよ絶対」と言うべきだ。
 作者は、[「ドラマとかマンガとか」に描かれたものではない、本物の「恋とか…」がある]と思っているのだろうか。だったら、間違いだ。読者は、本物など要求していない。素敵な「恋とか…」を、「ドラマとかマンガとか」で見たいだけだ。
 年少者の間で気持ちが「恋とか…」にまで深まらないのは、彼ら自身が関係を深めるということを知らないからだ。そのことに気付かないと、「恋とか…」を妨害する何かがあると勘違いする。『HEN』の場合、レズビアンに対する当人自身の偏見が妨害とみなされているらしいが、その方がよほど「変だよ」  勿論、このような勘違いに根拠がないとも言えない。少年と少女の関係を、少女の女友達が、しばしば、邪魔するように見える事態があるからだ。少女の女友達が、母親のようにうるさく付きまとうことがある。本人は[この子のこと、心配なのよね]などと言い張るが、本当は覗き見趣味だろう。彼女は、「恋とか…」が「ドラマとかマンガとか」のように展開される現場に立ち合いたいのだろう。大なり小なり、[少年は、少女を、彼女の属する少女集団からいかにして引き離すか]という試練を課されているものだ。そのように考えると、『HEN』は、極端なだけで、ちっとも変ではないのかもしれない。
 お節介で物見高い女性集団は、どのようにして形成されたのだろう。
 もしかしたら、昔は、[破瓜の際に処女がなるべく傷付かずにすむように、初夜の前に女性集団が花嫁をよってたかって発情させておいて、花婿に提供する]という体制があったのかもしれない。仲人などは、その名残ではないか。この発情支援の体制は、出産や子育て支援の体制へと続くものだったろう。しかし、出産や子育ての主要な部分が医療機関や教育機関に肩代わりされてからは、女性集団の価値は薄れ、その全体像が見えなくなったのかもしれない。だから、そんなこととは夢にも思わない少年には、少女たちの結束が「変」なものに見えて、ちずるとあずみのような関係が空想され、その空想の世界で「変」に遊んでしまうのかもしれない。
尾瀬あきら
『夏子の酒』
 この作品の素材が酒ではなくて、味噌や醤油のようなものだったら、私はこの作品を手放しで推奨できたろう。だが、そもそも、『春子の味噌』とか『秋子の醤油』だと、雑誌の企画は通らなかったろう。
 この作品を読んで酒飲みになられては、困る。その一方で、悪い酒を飲んでいる人に良い酒の存在を報せたいという思いもある。ジレンマ。
 良い酒というものは、漫画の中だけではなく、実際に存在する。そして、それなら、飲んでも悪酔いはしないし、飲みすぎもしない。勿論、味覚と精神が病んでいたら、お話にならないが。
 より良い酒は、病んだ味覚と精神を癒すものだ。私は、そういう酒を知っている。しかし、まあ、日常的には飲まないに越したことはない。だから、教えない。苦労して探しなさい。探している間は、飲めないからね。
 とにかく、くだらない酒を飲むことは、真面目に酒を作っている人を侮辱する行為であるだけでなく、自分自身を侮辱する行為でもあるということぐらいは、わきまえてほしい。


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