| 著者別「か」 
 貝塚ひろし 
『ゼロ戦レッド』
 偽戦史物の原点か。戦闘は楽しいが、戦争は悲しい。大東亜戦争も、戦略さえしっかりしていれば勝てたかもしれない。というのは、本末転倒。だが、戦術のことなら任せとけとばかりに、少年たちが好き勝手に暴れ回る場面は、痛快だった。ゼロ戦が搭乗型ロボットに代わると、『マジンガー』のような作品になる。いつの時代でも、少年は、でっかいものを操りたいわけだ。
 
 笠間しろう 
 上村一夫 
『同棲時代』
 思い切り気障な作品。だが、今日子と次郎は、鼻持ちならない何とか崩れではない。なぜなら、彼らは貧しいから。貧しさゆえに、彼らはすべてを許されている。性愛から逃れるために貧しい性行為を繰り返し、言葉から逃れるために貧しい会話を繰り返す。そして、一層の貧しさに出会う。
 相手の貧しさと別れるために、二人は別れる。もう一度出会うために別れる。二人きりであることの貧しさに出会うために。不意の、ささやかな頷きに出会うために。
 
 雁屋哲 
『男組』(+池上遼一)
 男は、「男」に生まれるのではない。「男になる」のである。『花のあすか組!』における闘いが遊戯的になってゆくのは、闘いを正当化するための大義とそれを実現するための戦術との関係が明瞭ではないからだ。
 少女は、多分、「女組」を作ろうとはしないはずだ。自分を中心とした「組」ができたところで、守りに入る。しかし、少年たちにとって、「組」は、同時代の世界に一個あれば十分で、二個以上あってはならないものだ。
 「男組」という言葉は、善玉、悪玉、いずれかの「組」を指すものではない。また、両者を指すものでもない。「男組」とは、「男」という言葉のために闘ったすべての少年たちを指す言葉だ。その中には、架空の人物とともに葛藤した読者も含まれる。そのことに気付いたとき、少年は、安らかに本を置くことができる。
 だが、物語の中の少年たちは、永遠に闘い続ける。彼らが闘い続けていることを信じて、少年たちは拳をポケットに突っこみ、口笛なんか吹きながら町の角を曲がって、そして、オトナになる。
 
 
『美味しんぼ』(+花咲アキラ)
 面白いとか、食通を気取れるとかいった次元の話ではない。ここに盛られた情報がどれくらい正確なものか、私には分からないが、この作品は、最高のメニューとともに、食物について考えるための最低の基準を提出してきたはずだし、今後もそうした役割を果たすに違いないと思う。善かれ悪しかれ、連載が続くかぎり、日本は平和だ。
 
 かわぐちかいじ 
『ダボシャツの天』?
『沈黙の艦隊』
ソ連崩壊直前のかったるい危機の時代には、手に汗握るほど、面白く感じられた。政治評論家たちさえ、ほとんど冗談ではあるが、この作品の設定を一つの概念図として利用していたほどだ。ところが、1991年、ひどく悔いてたゴルバチョフ(go to 「歴史年号暗記法」)以降、あっという間に色褪せ、手に取る気さえ失せた。
 川崎のぼる 
『いなかっぺ大将』
 絵柄がギャグ向きではないと思いつつ、話の面白さに釣られていた。
 川崎三枝子 川本コオ |