漫画の思い出

著者別「く」

 倉金章介
『あんみつ姫』
 まだ子供っぽかった頃の小泉今日子がTVドラマで演じたとき、すでに、忘れられていた作品。そのドラマも、もう、忘れられた頃だろう。
 漫画が素朴な段階で完成を見せた、典型的な作品。
 昔、漫画は楽しければ十分だった。無理に面白がらせてくれなくてもよかった。面白すぎると、下品だった。
黒鉄ヒロシ
『赤兵衛』
 桑田次郎
『月光仮面』(+川内康範)
 子供の頃、「月光仮面は、誰か」という問題で、友達と言い争いになった。相手は、「月光仮面は、探偵だ」と断言する。私は、猛反対をした。それでは、あまりに見え透いている。ところが、相手は、私に推理能力がないと思ったらしく、さんざん、私を虚仮にするのだった。私は、悔しくてならなかった。
 私の論旨の弱点は、「月光仮面は、探偵ではないとすれば、誰か」という問題に答えられないところにあった。
 多くの変身もののヒーローは、その正体が、作品の外側にいる私たちには、明かされている。
 『ロボ・コップ』の場合、捻りが利いていて、ヒーロー自身の記憶の薄さに、私たちはドキドキさせられる仕掛けになっている。変身前の彼について、変身後のヒーロー自身よりも、私たちの方がよく分かっていると思わされる。本当は、何かが明かされたと言えるほどのことはない。変身前の彼の物語について、私たちも、変身後の彼と同程度にしか、知ってはいない。私たちは、変身の現場に立ち合わされただけだということを忘れている。だが、巧みな語りによって、見事に騙されてしまう。
 『月光仮面』のように、変身の現場が見られないとすれば、変身前と変身後の人格の同一性の証明は、何によってなされるのだろうか。不確かなアリバイによってだ。つまり、変身後の彼がいる場所に変身前の彼はいないという事実によって。しかし、この論理は、ちょっと、おかしい。変身後の彼がいる場所にいない人物は、五万といるはずだからだ。こうした論理が有効なら、人々に自分をヒーローだと思わせたければ、人は誰でも、ヒーローが登場するたびに、身を隠せばいいことになる。
 逆に言えば、記憶をなくす癖のある人がいて、自分が記憶をなくしている時に限って、ヒーローが登場するとしたら、その人は、自分のことをヒーローかもしれないと疑うことになるはずだ。さらに言えば、ヒーローが登場すると、身も心も奪われたようになって見入り、その間、自意識がなくなってしまうような人は、自分とヒーローの区別がつかなくなるかもしれない。
 普通の人間である変身前の人格と、ヒーローである変身後の人格の同一性の証明を、普通の人間であるときの彼は、彼自身を含めて、誰に対しても、どのようにしてなし得るのか。記憶を語るか、確信を語ることによってだ。つまり、「自分があれに変身していた」という記憶の物語か、「自分があれに変身するのは当然だ」という確信の物語か、そのどちらかを語ることになる。
 しかし、記憶は偽造され得る。偽造された記憶は、ヒーローの活躍に我を忘れて見入っていた人々すべての共有物だとも言える。見入る人々の中には、作品の外側にいる私たちだって、含まれないとは言えない。子供は、風呂敷で素顔を隠したとたん、ヒーローに変身する。
 残るのは、確信の物語だ。RPGのプロローグにありがちな、「なんで、俺なの?」という疑問の解答を求めて、映画の『スーパーマン』では、プレ・スーパーマンが、悩み、さまよう。
 さて、『月光仮面』のように、変身の現場が描かれず、変身の記憶も語られず、変身の確信さえ語られない場合、探偵を含めた作品内部の誰かが「ヒーローの正体を突き止めた」と語ったとしても、あるいは、語り手がヒーローの正体を暴露したとしても、その正体が誰であれ、説得力をもたないはずだ。
 要するに、『月光仮面』の設定は子供騙しだ。
 ところで、日本の純文学に登場するヒーロー、ヒロインは、なぜ、ヒーロー、ヒロインたりうるのだろうか。語り手が「彼」や「彼女」や「私」について語る動機は、どこにあるのか。彼らが個性的だからか。しかし、その個性とやらは、本当に発揮されたことがあるのだろうか。その個性が発揮されたかに見えるとき、「彼」や「彼女」や「私」は、もう一人の自分であるヒーロー、ヒロインを夢見たり、演じたりしているのにすぎないのではないか。そのもう一人の自分と、個性を発揮していないときの自分との同一性を、「彼」や「彼女」や「私」は、そして、作者は、何によって証明してきたのだろうか。
 証明の必要はない。読者が、証明を必要としないからだ。純文学の読者は、月光仮面の正体は自明だと信じる子供のように、純文学を信じ、そして、信じない者を蔑む。日本の風土、純文学という体制さえあれば、その中では反体制も、無頼も、不倫も、病気も、ファンタジーのように流通してしまう。種を知っている手品を、いや、知っているからこそ、安心して楽しむ人々がいる。ガイジンに勝つと決まっていた力道山は、ちっぽけなナイフで死んでしまったというのに。書物に顔を埋めたとたん、読者である普通の彼や彼女は、物語に描かれた、語られるに足る「彼」や「彼女」や「私」へと、何の根拠もなく変身してしまう。
 私の論旨の弱点は、「私によって、私として語られる人物が、この私ではないとすれば、誰か」という問題に答えられないところにあると思う。
 サンタ・クロースは、誰だろう。サンタ・クロースが誰なのか、あなたは、どのようにして知ったのか。ママがサンタにキスをする現場を目撃したからか。あなたのママは、サンタとも不倫をしていたのか。
 私だって、最初の頃は、「月光仮面は、誰か」という問題について、他の子供と同じ意見をもっていたと思う。ところが、誰かが囁いたのだ、「そんなの、見え透いている」と。しばらくして、どうも、私の意見、というか、私と誰かの意見は、制作者たちの意図とは違っているらしいと思い、私は、その誰かに、そう言ったのだ。すると、その誰かは、「そうか」とだけ言って、話題を変えたのだと思う。
 私の記憶の弱点は、「その誰かとは、誰なのか」という問題に答えられないところにある。
 本当の父とは、誰か。

『8マン』(+平井和正)
 8マンのようになりたかった。かなり、熱く思ったことだ。SF的真実として、「8マンのようになれる日が来る」と信じた。
 ところで、「ロボコップのようになりたい」と願う少年は、いるのだろうか。
 『8マン』と『ロボコップ』には、設定として、大きな違いが二つある。一つは、言うまでもなく、8マンが変身できることだ。もう一つは、改造前の自分について知っていること。
 この二つは、関係がないようで、実は、関係がある。過去を知らなければ、改造前の自分に、そうとは知らずに変身してしまう惧れがある。ロボコップは、幸いにも変身できないので、記憶がなくても困らない。自分の息子に隠し事をしながら接し、型に嵌まったような父親役を演じることで、観客をがっかりさせるといった恐れがない。むしろ、淡い記憶に、犬のように小首を傾げるとき、「消そうとしても消せない人間性」という春風が、暗い客席を渡るほどだ。TV版では、その点が強調されていたようだ。
 『ロボコップ』は、ロボットのように働かされてワーカホリックになった男が、仕事や家族と自分との関係を見つめなおし、回復しようと努力する物語だと言えよう。ロボコップには、「失われた過去を取り返す」という未来が用意されている。
 『8マン』は、子供の変身願望を満たしてくれる。変身願望は、未来志向だ。しかし、同時に、8マンは、過去の桎梏に縛られている。この桎梏は、彼自身の過去に属するものというよりは、家業を継がねばならない長男に課せられた義務に似ている。長男は、義務をはたすために、八方美人になる。「八」の文字に注目。先代にとっては既知だが、跡を継がされた自分にとっては未知の人々、例えば長年の取引先の社長などと出会ったとき、彼は、自己自身ではない、別人のように振る舞わざるをえない。八方美人の8マンは、ケイス・バイ・ケイスで変身する。『8マン』は、事件解決のために変身できるから、事件があるかぎり、永遠に働き続ける。そういう設定になっている。『8マン』の物語に、未来はない。「持てる能力のすべてを傾注して働き続ける」という現在が繰り返されるだけだ。もしも、8マンに未来があるとすれば、それは、「自己像が拡散してワーカホリックになる」という未来だけだろう。
 勿論、主人公がワーカホリックになる前に、この物語自体が読者に飽きられて、連載が終わったのだろう。遅れ馳せながら告白するが、私は、『8マン』の結末を知らない。ウルトラマンたちのように、帰って行く場所があったとは思えない。スーパーマンのように戦死したのだろうか。8マンが過労死か何かで死ぬとき、誰がその骸を抱いて泣いてやるのだろう。そのとき、彼は誰の姿で死ぬのだろう。
 ロボコップになら、なっても仕方がないような気がする。しかし、8マンには、なりたくない。


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