著者別「て」
手塚治虫
- 『鉄腕アトム』
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10万馬力の希望と絶望。
アメリカには、明るいスーパーマンと暗いシルバーサーファーがいる。
アトムは、少年の体に、明るい心と暗い心を抱えている。
一度にいろんなものに成りたかったプークは壊れ、アトムに言う。
「ぼくは きみみたいなロボットに なりたいなあ」
元サイボーグ探偵ホームスパンは、人々に語る。
「私は ロボットになれたことを ほこりに思う」
自爆の前に、ベムは言い残した。
「アトム さようなら あなたにあえてよかったわ」
- 『ジャングル大帝』
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この作品は、開化思想の強引さゆえに、一部で評判が悪いらしい。冒険ダン吉なら真剣な遊戯としてやれることを、レオは自滅的に実践する。だから、手塚は、かったるい。
ヒゲおやじは、まずそうなライオンの肉を食わされる。捨身飼虎の逆を行く物語によって示唆されているのは、裏仏教なのか、反仏教なのか、あるいは、安直なヒューマニズムにすぎないのか。ものいう動物を食べることは、印象としては、人肉嗜食に近い。
本当は、ハチャメチャなのだろう。拡散する一方の物語に、落ちの付けようがなくなったのかもしれない。表現と現実、風刺と啓蒙の境目が見えなくなり、読者は悪酔いする。人間と動物のおっかけっこであり、意味と無意味のおっかけっこでもある。
逆説を弄すれば、作者が自覚的であるかどうかは別として、こうした混乱こそが、漫画の本質であるのかもしれない。そして、この混乱が一掃されたものを、劇画と呼ぶのかもしれない。
- 『どろろ』
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RPGのヒーローが物語の進展とともにガチガチに武装してしまうのとは逆に、木製サイボーグの百鬼丸は普通に向かって成長する。この荒唐無稽の成長は、作品内部の論理では、未熟児の遅すぎる成長を意味する。だが、作者の論理では、エディプス・コンプレックスからの回復を暗示している。
一方、百鬼丸と旅するどろろも、性的自己否定から普通の思春期へと向かう。
二人は、普通の男女の出会いに向かって歩み寄るかのようだ。しかし、普通であることの困難さは、最後まで残る。なぜなら、百鬼丸の回復は、暗示、もしくは、比喩としての回復であるのに対し、どろろの成長は、生きられる事実としての回復そのものだからだ。
手塚漫画では、比喩と事実は、しばしば、すれ違う。例えば、『アトム』におけるロボット差別問題は、私たちの社会の差別問題をおちょくっているように、私には見えるので、いい気持ちがしない。手塚ファンは、本気でロボット解放運動を支持しているのだろうか。だとしたら、その運動は、いつごろ開始される予定なのだろうか。
百鬼丸とどろろの場合も、男の生活が比喩としての生活であり、女の生活が事実としての生活だから、二人が普通の男と女になってしまえば、もう、冒険は続けられない。かといって、平安な関係にも入れない。なぜか。平凡な男女ほど、平安から遠く、二人はすれ違うものと決まっているからか。
どろろの恐れたものの向こうに、百鬼丸の恐れたものがいて、その向こうに、作者の恐れるものが潜んでいて、そして、作者は、そのものとの対決を回避したかったか。
- 『火の鳥』
- ヒョウタンツギと『火の鳥』は、同じく漫画だ。ただし、一方に物語はなく、一方には物語が過剰だ。ヒョウタンツギは、手塚個人の感情や思想の産物ではない。手塚少年とその周囲の子供たちとの共同作業の産物だ。では、『火の鳥』は、手塚個人の産物なのだろうか。勿論、種本などがあり、アシスタントもいたろう。しかし、そういうものを統括し操作する手塚個人の感情や思想というものを、私達は想定できるのだろうか。できるとしても、できると何か良いことでもあるのだろうか。
ヒョウタンツギによって表出された感情や思想とは、何だろう。それは、小さな怒りだ。怒りの原因は、継ぎ当ての下に隠された、いつまでも癒えない傷の痛みだろう。傷の原因は不明だ。ヒョウタンツギをヒョウタンツギたらしめる怒りの原因は、秘められている。あるいは、些細なことなので、思い出せない。多すぎて、語り尽くせない。ヒョウタンツギは、しばしば、団体で落下する。しかも、同胞の上に。そのことが、個々のヒョウタンツギの怒りを増幅させるようでもある。ヒョウタンツギの怒りは、一人の怒りを表すものではないらしい。だから、あれだこれだというふうに言うことはできない。口に出して言うことのできない、小さな怒りが、ドタドタと降ってくる。
ヒョウタンツギは、幼い子供の怒りの象徴だ。個人の怒りが複合的であるだけでなく、子供という単複両用の言葉が示すように、ヒョウタンツギは、複数の子供に共通の怒りを表すものでもある。子供は、言葉にしなくても、自分たちの怒りを理解し合っている。彼らは頬を膨らませてから、吐き捨てるように言う。[おとなって!]
「漫画は、おやつです」(伴俊男+手塚プロダクション『手塚治虫物語』)と、手塚はPTAに言いわけした後、「それでも地球は動く」と言ったとか言わなかったとかいう伝説のガリレオのように、後悔する。しかし、漫画は、やはり、おやつだ。おやつだからこそ、子供は好きなのだ。教科書に漫画が載るようになったのは、教科書がおやつになったからだ。学校以外に、子供の「ゆとり」の場所がなくなったからだ。
おやつを含めた嗜好品の効用は、言うまでもなく、その食品の栄養やカロリーなどとは無関係だ。今日のおやつは、その食品の醸し出す雰囲気によって決定される。おやつは、雰囲気作りに一役買う。たとえば、[おとなって!]と言い合うための雰囲気作りに。
『火の鳥』は、思春期のおやつだ。
「漫画空気論」というのがある(伴俊男+手塚P『手塚治虫物語』)そうだ。私は、手塚漫画のほとんどに目を通したが、記憶に残っているのは、極僅かだ。私にとって、手塚漫画は、他の多くの漫画や大衆娯楽とごちゃまぜになった「空気」のようなものなのかもしれない。手塚作品が、昭和の「空気」を写していたという面もある。
昭和といっても、勿論、大戦後のことだが、その時代の「空気」は、冷たかった。「冷戦」という言葉が、そのことを端的に表現している。すべては虚飾に包まれていた。誰も本音で語らなかった。かといって、ご立派な建前が通用していたわけでもない。私たちは、他人の腹の中を探りながら生きていた。漫画でさえ、裏を読まなければならなかった。裏を読みすぎて、買い被ることもあった。
寺沢武一
- 『コブラ』
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どんな話だったか、思い出せない。見る端から忘れてしまう夢のようだ。他の寺沢作品との違いさえ、はっきりとしない。だから、読んだ本を買ってしまう。一度や二度ではない。
正直に言うと、見た目ほど面白いわけではない。逆に言うと、それほど見た目が好い。ああ、また騙されるなと思いながら、新作が出ると、買わずにいられない。
シャワーを浴びるように、絵を浴びたい。
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