漫画の思い出

著者別「つ」

つげ義春
『紅い花』
 「紅い」と記されると、印刷の黒い花弁が、紅色に見えるか。主人公の目に「紅い」と映ったのではない。誰かの思い出の中で、「紅い」のでもない。漫画家は黒く塗った。その黒が、読者の頭の中で、「紅い花」になることを願いつつ。

『大場電気鍍金工業所』
 「メッキの職人は必ず肺をやられる」という。元工場長は、「立ち上がれないほど衰弱していていつも床板の割目から池にウンコをしていた」と語られる。その場面が、まるで倒錯的な極楽のように描かれる。高熱のとき、こんな絵が頭に浮かぶようだ。
 苦と楽は、どこで分かれるのか。そこがどうにも分からないから、少年は、経営者が夜逃げしたのに、もくもくと散弾を研き続けるのだろう。

『峠の犬』
 「私はもと来た道を引き返さなければならない 引き返さなければならない理由はなにもないのだが」という思いは、眠りに溶ける。風景は雨に溶ける。雨の中を去って行く男の姿は、夢に見られた彼自身の姿か。あるいは、峠の犬に見られているのか。もしかして、彼が夢を託した犬のものと同じ目で、彼は彼自身を夢に見るようになったか。

『ねじ式』
 バリー・ユアグローは、自分の夢を題材にすることはないと言っているらしい。『ねじ式』の作者も、これは作者の夢を描いたものでもなければ、象徴的なものでもなく、単なる出鱈目だと言っているらしい。
 しかし、こんな言いわけは、無駄だ。単なる出鱈目というのは、カードをばらまいたときなどにしか、ありえない。しかも、ばらばらのカードを見る側は、どうしても意味を見つけてしまう。意味を見付けられることが予想される状況で出鱈目を演じるからには、やはり、何か、意味がある。
 さて、やっと、振り出しだ。
 何か意味があることは確かだが、その意味は、差し当って、作家のプライヴァシーに属することだろうから、詮索は止めて、びっくり箱に驚かされていよう。

『ゲンセンカン主人』
 「ぼく」は、ゲンセンカンという宿の主人と瓜二つらしい。村人の止めるのも聞かず、その宿を訪ねる。すると、主人と女将は、「ぼく」を見て、異様な恐れを示す。
 彼らは、「ぼく」が彼と入れ替わるためにやって来たとでも思っているのだろうか。思うわけがない。「ぼく」は素顔を見られていないのだから。「ぼく」は、女将が「ぼく」と主人を取り違えないように、天狗の面を被ってきた。だから、何も驚くことはないはずだ。「ぼく」は面を被っているので、「ぼく」と主人がどれくらい似ているのか、誰にも確かめられない。確かめることができるのは、「ぼく」だけだ。しかし、「ぼく」は面を被っているので、「ぼく」がどれくらい驚いているのか、誰にも分からない。ところが、人々は、「ぼく」の驚きが映ったかのように驚いている。その様子を、「ぼく」は、どう思って見ているのだろうか。「ぼく」は主人ではないと主張することに、何か意味があるのだろうか。似ているけれど違うということを、どうやったら分かってもらえるのだろうか。誰も分かりたがっていないことを、どうして、「ぼく」は分からせたがっているのだろうか。
 『やなぎ屋主人』にも、類似の話がある。

『李さん一家』
 「僕」は、ぼろ家を借りている。貧しい李さん一家が「いつのまにか二階の六畳にすみついて」しまう。どういうことなのか。これは夢の話か。それとも、「僕」が、何か、勘違いしているのか。読者は、最後まで、もぞもぞした印象を拭えない。「僕」は李さん一家を怪しんでいるが、怪しみつつ同居している「僕」の方がもっと怪しい。
 ラストの絵は、李さん一家が二階の窓からこちらを眺めているところだが、これがいつまでも頭に残るようなら、あなたも彼らに住み着かれたことになる。つまり、これは、あなたの物語になる。

『懐かしい人』
 「私」は、「不純な関係」にあった女のいる温泉を、妻と訪れる。女はまだいて、妻も薄々感付いているようだ。「私」は惚ける。夜、夫婦二人切りで大浴場にいると、その女も入ってくる。
 体の線の崩れ始めた裸体が、かえって艶かしい。

『夏の思い出』
 銭湯の帰りに、女が車に当て逃げされる。偶然来合せた男が、失神した女の下着を下ろして、見た。その後、罪悪感に苛まれ、男は落ち着きをなくす。役に立たない権威に縋ろうとさえする。ほとぼりが冷めたころ、日中、その女とすれ違う。男は思う。「なつかしいな」
 ピュグマリオン・コンプレックスか。
 読者にもよく見えない、その女の顔を、作者は見たことがあるのか。

『枯野の宿』
 旅に病んで、泊まった宿の壁に画かれた、寂れた風景の中に、夢現つで入って行く。魘されて目覚めれば、枕元には、絵のように、妻が座っていた。  汗を掻いたから、熱は引いた。入道雲を背に、妻の飛白の着物が映える。小康を得た身に、外光が洗礼のように降り注ぐ。
 妻から逃げながら、妻に出会った。その妻は新しい妻のようで、しかし、新しいのは我が身なのだろう。この体で、まだ、もう少しは耐えられそうな日々を数える。偽の希望を、偽と知りつつ、受け入れるのは、強さか、弱さか。

『近所の景色』
 近所に、立ち退きを迫られている集落があった。住民は反対。そこを洪水が襲い、人々は、否応無く去って行く。水の引いた後、飼われていた魚が、床下の水溜まりで生きていた。
 嘘のような本当の話。あるいは、現つのような夢か。

『事件』
 『夏の思い出』『事件』『退屈な部屋』を、連作として読むことができる。夫婦関係を壊す理由にはならないはずの外部の出来事が、夫婦に徐々にずれをもたらすという流れ。
 勿論、ずれを作ってしまうのは、男だ。少なくとも、男は、ずれを感じながら、それを修復しようとしない。二人がずれ始める前から、男は独りでずれていて、男はそのずれにこだわって忙しかった。女には、男の忙しさが見えない。男が勝手に女からずれていくように、女には見える。男は、女が、男のずれを、男と女のずれだと思うかもしれないと思うから、男は独りのずれを独りでどうにかしようとして、そして、二人のずれはさらに大きくなる。
 狭い車内に閉じこもっておかしくなる男は、主人公の未来の姿であり、現在の比喩でもある。

『夢の散歩』
 視線やジェスチャー、言葉などによる合意を前提としない性行為というと、強姦しか思い浮かばないというのは、何かしら、貧しい感じがする。そうじゃなくて、何か、他にあるんじゃないか。でも、思いつかない。苛々する。ええい、やっちまえ。
 ヌルヌルのぬかるみは、触感から出発する関係を示唆する。同時に、一蓮托生の、逃げられない、逃がさないという関係。乳児の愛か。『盲獣』(江戸川乱歩)を明るくした感じ。

『夜が掴む』
 寝苦しい夜、窓が開いている。男は、そのことで妻を叱る。しかし、妻には叱られる理由が分からない。読者にも分からないが、男に味方したくなる。男の焦燥が、あまりにも激しいので。
 妻は、体にキス・マークを付けて帰宅する。美しい肌。男は、苛めて快楽を得る。妻は、わざとキス・マークを付けさせたのではないか。最後通牒。
 妻はいなくなる。男は妻が戻ることを念じつつ、眠ろうとする。夢現つで、夜が自分に迫ってくるのを感じる。こうなることが怖くて、男は妻を叱ったのに、妻には分からなかった。だから、妻に対して苛立っていた。
 本末転倒の物語。
 誰がいけないのか。

『無能の人』
 「無限に生えてくる髪の毛を捨ててしまうのはじつにもったいないことである」
 苦髪楽爪という。楽髪苦爪ともいう。
 無限に湧いていくる印象を漫画にしないのはじつにもったいないことである。
 あっさりと映画化された。意図不明の映画。
土田よしこ
『きみどりみどりあおみどろ』
 箸が転んでもおかしいくせして、ギャグ漫画なんか、見てるんじゃないよ。だいたい、こんなもの、どこが面白いのか、分からないね。などと、少年たちは冷たく言い放つのだった。でも、私には面白かった。ところが、『つる姫じゃー』となると、どこが面白いのか、分からなかった。『つる姫』にやたらと受けている青年がいて、笑いを強要するのだが、私は、『きみどり』なら面白いんだけど、『つる姫』はわざとらしいんだよねなどと、微妙な批評をしなければならないのかと思うと、舌が縺れ、結構辛いものがあった。


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