著者別「ち」
ちばてつや
- 『紫電改のタカ』
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戦争漫画の名作。剣豪の果たし合いのような空中戦を描く一方で、厭戦的な気分もうまく出ている。
紫電改は、やっと戦争に間に合った少年たちが搭乗するのにふさわしい名機だろう。
ときどき伏し目の滝城太郎が、美しい。
戦争の切なさがしみじみと伝わってくるラスト・シーン。
- 『あかねちゃん』
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愛の妖精、あかねちゃんが、人間性を失いかけた人々を立直らせるヒューマン・ドラマかと思いきや、洟垂れ小僧のひでばろと絡んで、ジェリー・ルイス風のスラプスティック・コメディーへと脱線する。
「かびじょうあかれじあいたいじょー かびじょうあかれどこじいるんらー」
原典は『フイチンさん』か。
セントバーナードのチビも、なかなか。
- 『123と45ロク』
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アングルで、さりげなく心理を描写する。このまま、映画の絵コンテに使えそう。5人きょうだいの性格を、違っていながら、やはり、きょうだいだと思わせるように描き分けている。
淡泊な贅沢品。さらっと描かれているが、かなり高度な技術が用いられていると思う。
- 『ハリスの旋風』
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この前に『ハリス無段』というのがあって、ハリスにも困ったもんだと思っていた。でも、『旋風』は、私の学級では、一番人気だった。国松手書きの新聞を真似て、私たちも学級新聞を作った。おチャラと志乃ちゃんと、どっちが好きなタイプか、言い合ったりした。そういうことを話題にする土壌が、当時はあまりなかった。国松と同じ空気を吸おうとした。
「ドンガ、ドンガ、ドンガラガッタ」という国松登場の歌は、アニメの主題歌ではなく、鼓笛隊の有りがちなモチーフを思い浮べながら読もう。
- 『あしたのジョー』(+高森朝雄)
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私はスポーツも根性も苦手なので、2大スポ根ものとも言える『ジョー』と『巨人の星』には、連載中、興味がなかった。数えきれないほどあったスポ根ものの多くは、残酷なことを美化しているような気がして、いやだった。しかし、『ちかいの魔球』や『黒い秘密兵器』や『柔道一直線』や『サインはV!』?や『金メダルへのターン』?などは、たまに見ていた。これらは、荒唐無稽の、いわゆる漫画だからだ。
『ジョー』と『巨人』だけは、単行本になってから通読した。『巨人』は、ついつい、読まされるといった程度の面白さで、しかも、結末が悲惨で、読後感が頗る悪い。今では、半ばジョークにされているのではなかろうか。一方、『ジョー』は、古典的名作だと思う。わざわざ、言う必要もなかろう。
ジョーが宮本武蔵なら、力石は佐々木小次郎で、段平は沢庵、西は又八となる。白木真理は、お通か朱実? その他の対戦相手も、それぞれ、剣豪たちに対応しそうだ。
『それからの武蔵』があり、『新・巨人の星』もあるのに、『あしたのジョー』の「あした」は、なぜ、ないのか。ジョーが「あした」を消費してしまったからだ。ジョーの「あした」がタコ八郎だというのは、タコ八郎には申しわけないが、やはり、悲しい。だからといって、元スポーツ選手の肩書きが外れないまま、中途半端な立場でTVに出ている怒りん坊の芸能人といった姿は、もっと見たくない。赤井英和ぐらい格好よければ別だが。
ボクシングは、受験勉強に似ているようだ。これらは、少年がとりあえず生き延びるための課業だから。そして、少年が生き延びておとなになれたとしても、その後、どう生きればいいのか、マニュアルがないところも似ている。柔道、剣道のように、「道」などの不可解な観念によって、老後の精神世界が保証されているわけではない。一発当たったことのある、30過ぎのロックンローラーのように、バック・バンドのお仕事に守られて、闘うふりだけ見せて、ふりだけだと分かっているファンとの馴れ合いで余生を過ごすといった真似もできない。ジョーが2代目段平を襲名するというのでは、物語はグルグル回るだけだ。
この作品の根底を流れる「あした」のない虚しさこそが、少年たちを虜にするのだろう。少年というのは、「あした」のない生き物のことだからだ。「あした」が見えた者から順に、「トッツァン」?になっていくわけだ。
- 『おれは鉄兵』
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脇坂さんが、ぽっと頬を赤らめるとき、私も照れる。
『ハリスの旋風』の二番煎じだが、よく出た二番煎じ。絵がきれいすぎるのが難点か。スピード感が素晴らしい。これが面白くなければ、何が面白いのか。少年漫画の一つの頂点。読み出すと止まらない。忙しいときは手に取らないのが賢明。
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