著者別「い」
李學仁
- 『蒼天航路』(+王欣太)
- 劇画は健在。
三国志の超解釈に、気持ち良く騙されよう。すると、箍が外れ、目から鱗が落ち、古代と近未来が重なることだろう。
いがらしみきお
- 『あんたが悪いっ』
- 医者「あなたはガンですっ」
患者「ふっ、先生…… 気休めは止して下さい…… あたしは死んでるんでしょっ? 先生っ」
『ぼのぼの』以前の作品が忘れられるのは、残念。
- 『いがらしみきおの「しこたま」だった』
- 漫画的精神は、言葉にも表れる。「これが青春か!」「ひがんで悪いかっ」「どーせ死ぬんだっ」「オレがオレがっ」「そらそーだよ」「オレにもくれ」「んでもいいんだ」「だったりするもの」
ナスのマサヒロは、究極の手抜きギャグ。彼は「なんにもしないのである」
副題の枠内の一齣漫画も、見落とすな。
- 『やんのかコラッ』
- 子「かーちゃん ミソ汁の中にゴキブリ入ってるゥ」
母「なんで好き嫌いすんだい? 作ったものはちゃんと食べなっ」
子「とーちゃーん」
父「一郎…… ガマンして食べな とーちゃんだって嫌いなゾーキン食べてんだからよ」
で、かーちゃんは、何、食ってんだ?
- 『ネ暗トピア』
- 「わからん わしにはわからん 何故冗談などに命をかける…… 何故人生を棒にふる」
『ネ暗トピア』が本格的に面白くなるのは、第3巻あたりから。それからは、ブレイキが利かない。いがらしのギャグを越えることは、もう、誰にもできまい。いがらし本人にさえも。
ただし、線の太いのと細いのがあって、なぜか、細いのは空振りが多い。別人が描いているみたいだ。
- 『ぼのぼの』
- そこらの分からん珍に熟読玩味させたいよと思いながら追跡していたが、分からん珍というのは熟読玩味なんかしたことがないから分からん珍なんだろうし、見せても、『ぼのぼの』を「ほのぼの」と誤読して平気なくらいだから、もう、黙っていようと決めた頃、12巻あたりだったか、飽きちゃってた。
いがらしゆみこ -
『とはずがたり』
-
「私が死んだ後 なんともふしだらな女よとうわさされるかもしれない いっそのこと私自身が『源氏物語』風に華麗に私の生涯を書き記そうか」
悶々の一代記。『源氏』は必ずしも絵空事ではないと思わせてくれる。子供には、むずかしいかな。
『とはずがたり』は、昭和15年まで世に知られていなかったという。この作品の印象は、日本の伝統という言葉から思い浮かぶような、雅びなものとは、かなり違っている。過去の日本の新しい姿を垣間見ることができる。
以前、『あさきゆめみし』(実相寺昭雄監督)の題名で映画化されたことがある。
池上遼一
- (go to 小池一夫 、 雁屋哲 、史村翔)
石井隆
- 『赤い教室』
- ヒロインの名前は、土屋名美。土屋とは、土の穴蔵。名美とは、名のみの美。「無み」とは、不在の告知。名は、夕べに呼び合う口。美は、犠牲の羊。
この名美さんは、あの名美さんだろうか。そうだ、あの名美だと断定すれば、名美は涙となって流れるのだろう。
名美とは、誰でもなく、誰でもありえた、名も知らぬ、「あの人」の名だ。女たちの廃墟から一人しか発掘されない、捏造の美女の墓標。
作家は、男たちが誰を捜していたのか、教えてくれた。
- 『少女名美』
- 少女は男たちに追われるのに疲れ、自ら誘う。誘うのは、逃げる理由を確かめるためだと、自分では気付かなかった。
独白。「なぜ追いつめるの?」
そういう女なのだ、名美は、少女の頃から。
追いつめるのは、違反か。でも、何の違反。
追い掛けるから逃げるのか。逃げるから追い掛けるのか。そんな追い駆けっこみたいな疑問を頭の片方に溜め込んで、夕暮の駅前で震えているより、名美はまだ少女だから、追われて逃げることに決めた。
逃げない女の前で男は萎えるものとは、まだ、知らなかった。だから、逃げた。どこまでも、どこまでも、自分の心の奥深く。
心の奥まで追い掛けてくれる人がほしかった?
- 『天使のはらわた』
- 「行くな、名美」
なぜ、ほんの少しでも早く、その言葉を言えなかったのか。その言葉が別れを準備するという、古い迷信でも信じていたのか。愛は、もっと古い迷信なのに。
石川球太
- 『巨人獣』
- ある日、理由もなく、普通の男が巨大化し始めたら、どうなるか。普通に思いつく設定だが、この作品ほど普通の展開を見せる物語は、まず、あるまい。
生活保護法の話が出てくることから勘繰れば、巨人獣は失業者の群れの比喩なのかもしれない。現代の社会では、労働力の過剰という事態を回避できない。必ず、人手の余るときがある。次に人手不足になったとき、余った人に仕事があるかというと、ない。仕事がないと言って暴れてくれれば抹殺する口実になりそうだが、実際には刑務所が満員になって二進も三進も行かなくなる。もともと、多くの人は暴れない。暴れる気力も、仕事をする気力もなくし、おとなしい路上生活者となって、町を静かに占拠する。こうした現状を解決することは、不可能に近い。小市民たちの差別や同情は、良くも悪くも、事態を変える力にはならない。
私だって、明後日あたり、道端で、「オオーンオーン」と泣いているかもしれない。
巨人獣が戦闘的なら、兵士として活用できる。国連の平和活動に従事するという展開なども、可能だろう。宇宙人でも攻めて来た日には、重宝する。開拓に向いているが、開拓した以上に食ってしまいそうだ。このダイダラボッチは、あまりにも普通なので、使い道がない。普通の存在は、巨大化すればするほど、邪魔になるだけだ。普通であることの歯痒さ、おかしさ、悲しさが、だらだらと描かれる。落ちは切ない。
石ノ森章太郎
- 『竜神沼』
- 石ノ森は、自著『マンガ家入門』で、この作品を詳細に分析してみせた。当時の少年は、この分析から、漫画だけでなく、映画、演劇、小説などの技法を学んだ。あるいは、学んだ気になれた。
- 『ジュン』
- 『ジュン』を発見した少年は、確信した。漫画が、映画や演劇、小説などと肩を並べる日は遠くない、と。
今から思えば、何のことはない。あの確信も、『ジュン』も。
少年は大人になり、日本の映画や小説は勝手に後退し、その空席を漫画やアニメが占めることとなった。その成功の多くは、後発の利点を生かしたものにすぎない。
志において、『ジュン』を越える漫画表現はない。越える必要はなかった。越えてしまえば、漫画ではなくなる。漫画のような、あるいは、漫画表現を取り込んだ芸術になってしまう。『ジュン』は、漫画の脇道に佇む、芸術コンプレックスの少年が見た、淡い夢だ。
一条ゆかり
- 『風の中のクレオ』
- 母性愛に飢え、繊細、痩身、長身、長髪の美少年という、少女漫画定番のキャラクタは、この作品によって、定着したものだろう。訴えるような眼差しとかもね。
後に、作家は、この若々しい作品を恥じているが、とんでもないことだ。この軽々しさ、騒々しさこそ、漫画の真骨頂だろう。
一見どじな女の子が、お洒落でスタイル抜群で賢いというのも、新鮮だった。一条漫画は、「アンアン」以前の日本では、「流行通信」の役目も果たしていたはずだ。
虚栄心に身を蝕ませる、魔女的なキャラクタというのも、新しかったと思う。(go to『いろはきいろ』#019[世界]01)
- 『雨あがり』
- 義母に恋する美少年というモチーフは、当時、かなり、危険だった。漫画で、文芸映画に匹敵するような心理描写ができるということは、驚きであり、その点で、少女漫画は、少年漫画に大きく水を空けていた。
井上洋介
今村祥子
- 『ハッスルゆうちゃん』
- 平凡な家庭の十人並みの少女の、ちょっとユーモラスな日常生活を描く。こういうものは、珍しかった。ちょっとしたことでプンプン、怒るところが女の子らしいなあと思いながら見ていた。
岩明均
- 『寄生獣』
- 寄生獣とは、思春期を象徴する何かだ。といった論法は、オバQにだって使える。
どこが違うのか。本来は宿主を乗っ取るはずの寄生獣を猟犬のように飼い馴らして闘うという、男の子好みの設定が、違う。外側から入り込んだ異物なのに、「あなたの心のおくからつかわされたんですよ」(佐藤さとる『名なしの童子』)と囁きそうな、危うい感傷が、違う。
そういえば、こういうの、俺の体にもいたよな、あの頃。今の俺には……、いや、俺が、それなのかな。
|