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<第1章>

「えっ!」・・・



1995年1月17日午前6時30分、私はまだ寝ぼけながら、目覚まし代わりにニュースを聞こうと思い、枕元に置いてあったラジカセのスウィッチを入れました。

そして、、

「神戸で震度6・・・。」という情報が、私の寝ぼけ頭にいきなり飛び込んで来たのでした。 
かつて震度4以上の地震を経験したことのない私、震度6(当初の発表は震度6で、後日、地域によって震度7と訂正されました)がどの程度の被害をもたらすのか全く見当がつかないまま、咄嗟に私の口から出た声は「えっ!」・・・でした。
その数時間後、当時の村山富市首相が予想外の被害の大きさに驚いて発したと伝えられる「えっ!」と、似たものがあったかもしれません。 
ただ、私の「えっ!」は低音の無声音(息だけの音)でした。
 
震度6と聞き、瞬時に1923年の関東大震災のことを思い浮かべたものの、あの時代に比べて現代の建築技術は格段に向上しているので、或いはそんなに被害が出ていないかもしれないという希望的な可能性も考えました。 
とにかく、何もわからない時点では冷静でいるしかありませんでした。  

即、神戸の実家に電話をしました。 
受話器からは通話中を示す「プーッ プーッ プーッ」という音が聞こえて来たので、『電話中ということは大丈夫だったのかな?』とか、『もしかすると、地震の揺れで受話器が浮いているのかもしれない。』などと、まだ冷静を保つというか、何もわからない状態のまま次に 同じく神戸市内に住む弟のところに電話をしてみました。
結果は同じ。。

『もしかして、母と通話中なのかな?』 
念のため、神戸に住む知人達のところにも次から次へと電話を試みたのですが、全て「プーッ プーッ プーッ」
その時点で私は、深刻な状況を察するようになりました。 

 
当時私は、アメリカから引越し荷物が届いて荷解きをしていた最中でした。
テレビがまだ接続されていなかったので
(アメリカで買ったテレビ、近所の電気屋さんに接続をお願いしたところできないと断られたのでした)、私は映像の見えないラジカセにかじりついていました。 

その日の午前中は、ニュース・メディアも被害の状況について把握できない状態にありました。 
まずは、母と弟のことが心配でした。
引越しの片付けが手につきません! 家中、まだまだダンボール箱が残っているのに・・ 
『今頃、家具の下敷きになって痛い思いをしているんじゃないだろうか・・?』など、考えないようにしようと思いながらも考えました。 
 
一方 その間 弟は、マンションの自室の壁に穴が開き、周りの家々はことごとく壊滅状態だったところ、何よりまず 連絡の取れない母のことが心配で、交通手段が寸断されている中、片道10`以上の距離(上り坂)を歩いて実家に向かっていました。

母の無事が分かった弟、その日の午後3時頃、公衆電話を使って私に連絡をくれました。

私はそのとき初めて、母と弟の無事を知りました。 
追って従姉からも、阪神間に住む伯父(従姉の父)の無事を知らせる電話が私に入りました。 
伯父も弟も 公衆電話を並んで、それぞれ離れて住んでいる家族に連絡をくれたのでした。 
 
後日の弟の話では、実家に向かう途中、火事の消火で住民さん達が必死にバケツ・リレーをしている脇を負い目を感じながら通り過ぎ、実家を目指したそうです。 
 
実家は、岩盤の硬い地域に建つ鉄筋5階建住宅の1室、つまり、言わば“ハニカム(に似た構造)”の1室であること、そして、地震の揺れの方向が家具を置いてある壁面とほぼ同じだったからだと思うのですが、狭い壁にぎっしり並んで置かれてあった大きな家具類が倒れず、食器類が少し割れ、部屋の中が散乱した程度で済んだそうです。 
ただ、冷蔵庫がかなり移動し、テレビとテレビ用キャビネットの間に置いてあった板が床に落ちたとのことでした。
つまり、テレビがジャンプして、ダルマ落しの要領で、間にあった板が前に飛んだことになります。
冷蔵庫も、もしかしてジャンプしたのかもしれません。 
 

父亡き後 1人で生活をしていた母は、ライフラインがストップして水汲みに苦労したようですが、でも、水道・電気・ガス共、比較的早い時期に復旧し、被災された方々には本当に申し訳ないほどの小難で済みました。 
ちなみに伯父は、間一髪のところで命拾いをしたものの築何十年もの家が土台からずれ、後日、その家に住むのは危険と診断されました。 
 
というように 実家が無事だったので、震災当日から私は、視点を外に向け、状況の変化を見ながら自分にできるタイムリーで最良のことを必死で模索し続けました。
神戸で生まれ育ったこと、そして阪神間に親戚や知人が大勢いることもあって、当然のことながら、傍観者ではいられなかったのでした。 

本当は、すぐにでも神戸に駆けつけたかったのですが、まずは知人達の安否確認と、彼らに対して外から補えることを探し出しては急を要する順に整理をしながら、自分にできる範囲の救援にしばらく空回り状態で没頭しました。
そんな状態なので、引越しの片付けは一向にはかどりませんでした・・

“急を要する優先順位“を考える際に葛藤したのが、阪神間に住む親戚や知人達への微力ながらの支援(必要だと思われる物を送る)をしたい! 緊急事態に陥って人手が足りないところに出向いてボランティア活動をしたい! どっちもしたい!!
でも、私には3つ目の選択肢がありました・・引越しの片付けです。

神戸市災害対策本部には救援物資として手持ちの毛布を送りましたが、それ以外の公的支援はひとまず後回しにさせていただき、引越しの片付けをしながら、避難所にいらっしゃる知人達にどのようなものを送らせてもらえばいいのか? その方達に対して私に何ができるのか? そのようなことをあれこれ一生懸命考え、少しでもタイムリーでお役に立てることを模索しながら、外からできる私なりの救援に専念しました。 
 
それにしても、被害があまりにも甚大かつ広範囲に及んでいることと、私自身の力不足から、ごく限られた人数の親しい被災者の方々に対してすら、私にできることといえば過小なことばかりで、実に、どれもこれもが〈焼け石に水〉のようなものでした。 
そうして、そのようにして味わった〈無力感コンプレックス〉と言うべきものが、後のボランティア活動の原動力になったのでした。 
 
知人達の安否を全て確認できたのは、震災後2週間を経てからでした。
最後に連絡が取れた友人は、地震発生直後から避難所に滞在しておられたので、
そうとは知らない私、毎日 何度もその友人宅に電話を試み、新聞の死亡者リストを念入りにチェックし、電話が殺到して全然つながらないNTTの安否情報ダイヤルに、毎日何度も何度も電話を試みていたのでした。
そして或る日、私が出先の公衆電話からその友人宅に電話を試みたとき、避難所から一時的に帰宅しておられた友人と、やっと連絡が取れたのでした。 

 
P.S. 電気屋さんから接続を断られたテレビ、ニュース映像を見たい一心で、この私が震災後間もなく 、自分で接続しました<(^^)>エッヘン
「成せば成る」? 「火事場の○○力」??

  

  

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