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<第5章>

避難所の7つの組織



3月当時、当避難所では次の7つの組織が機能していました。 
@小学校教職員(避難所の最高責任者は校長先生)  
A神戸市災害対策本部(市の職員さんで、同避難所内での通称は行政さん 
B兵庫県教職員組合 
C連合組合(通称連合さん 
D医療チーム 
E避難所住民(通称住民さん 
Fボランティア(通称ボランティアさん 
 
まず、避難所全体を統括していたのが@小学校でした。 
3月初旬、校内の避難住民は1000人近く、学校側は 授業用に2つの教室を確保した以外、全ての教室と体育館を被災住民の避難所として提供していました。 
学校側の組織のまとめ方がいいのでしょう、或る行政さん(Aの市職員さんの通称曰く、「いろいろな避難所を見て来たけど、ここほど組織がしっかりしたところは他にないんじゃないかな?」とのことでした。 
 
A神戸市災害対策本部についてですが、神戸市は震災発生直後に政令を発令し、災害応急対策体制を敷いて各避難所に災害対策本部を設置しました。
この体制の下、市の職員は週7日就労が義務付けられていたとのことです。 
同避難所には市役所と区役所から派遣された市職員5〜6名が、2交替24時間勤務で常駐していました。 
Aは@のオブザーバーとして、学校側と両輪となり、避難所を運営・管理していました。 
 
B兵庫県教職員組合については、〈兵教組〉と書かれた腕章をつけている人が時々災害対策本部の受付に座っておられるところを見ましたが、@やAとの連携がどのようなものであるのか、ボランティアの私には分かりませんでした。
外観は、特に何かの作業を担当されているような感じではなく、ただ、そこに座っておられるだけという印象を受けました。
実際、どのように機能していたのでしょうか??

 
C連合組合は、学校の水道が復旧して間もない3月1日から3月31日までの1ヶ月間を期限とし、避難所の仮設風呂の設営&運営に携っていました。
毎日3〜5名の組合員さんが朝9時から夜9時過ぎまで、お風呂の掃除や湯沸し、入浴者の人数調整を担当していました。 
また、仮設風呂とは別に、週1回、15名前後の組合員さんが組立式のお風呂を搬入して介護風呂のサービスも行っていました。 
幸い、その時期その避難所には寝たきりのお年寄りや病人さんはいらっしゃらず、高齢者の方々がご自分で歩いて来られて介護風呂を利用しておられたようです。 
尚、具体的にどこの連合組合の方達なのか、ボランティアの私には やはり分からなかったのですが、仮設風呂の担当者については鉄鋼労連の方が多かったようです。 
 
D医療チームとして、全国各地の国立病院から医師、看護師、薬剤師、カウンセラーがグループ編成されて避難所に派遣されていました。 
グループ毎の担当期間は3泊4日とのことでした。 
当避難所の場合、学校の保健室が診療所として一般開放され、外部の人も自由に利用できるようになっていて、しかも、診察料、薬代ともに無料、健康保険証も不要でした。 
私もこの診療所には風邪で何度かお世話になり、本当に助かりました。 
また、診療所の隣の部屋にはメンタルケア・ルームがあり、そこには、カウンセラーが待機しておられました。
 
E避難所住民さんについてですが、その時期 まだ避難所に残っておられた住民さんの殆どは他に行き場がない=自宅に戻れないという方達で、3月3日、私が初めてその避難所を訪れたときには1000人近い住民さんが教室、体育館、学校の玄関、廊下にお布団を敷いて避難生活をしておられました。
尚、唯一の暖房具として、彼ら全員に使い捨てカイロが配られていました。 

玄関や廊下は床がコンクリートであるうえに寒風が吹き抜けやすく、その過酷な場所でやむなく寝起きを強いられていた住民さん達には、床に敷く厚さ2cmほどの発泡スチロール板が配られていました。
お年寄りの方でさえ優遇されることなく、寒い寒い玄関や廊下で寝ておられました。
その光景に私はショックを受け、内心、憤慨しました! 
後でわかったことですが、その背景には、先着順が基本で、後から来られた誰かを特別扱いすることは住民間のトラブルの素になるとの理由があったそうなのです。
仮にも先進国である日本は弱者を優遇する大人の社会になるべきだと、当時 先進国のアメリカから帰国したばかりの私は日米間のカルチャー・ショックを受けました。
震災から2ヶ月近く経った3月初旬、避難所住民の人口が少し減ったことから、彼ら全員が教室や体育館に移ることができました。 

避難所住民組織としては、教室毎、体育館内のブロック毎に班長が選出され、Aの行政さん立会いの下、班長が集まって毎週リーダー会議を開いて住民間の問題を話し合い、住民側の代表意見や要望を取りまとめていました。 

3月のリーダー会議では、4月以降の住民さん達の自立化に向けて、困難な話し合いが続いていたそうです。
4月から市職員(Aの行政さん)の勤務体系が変わり、連合組合が撤退し、ボランティアが激減(3/初:約20名→3/末:約10名→4月以降:数名)する見通しの中、仮設風呂の自主運営他 、残り少なくなった住民さん達による自立化が必要になって来たのでした。
話し合いが難航する中も、元来 下町特有の住民自治組織がしっかりしている地域とあって、最終的にはキー・マン(40才代)が手腕を発揮し、住民全員をまとめておられました。 
 
また、震災直後はボランティアが担当していた炊き出しを、住民有志のメンバーの方から自主的に運営されるようになったとのことです。
人材が豊富な彼らの中にはプロの調理人の方もいらして、やはり その運営はプロ並みでした。 
朝夕2回、毎日 定時にお湯とおかゆのサービスを、それ以外に不定期で焼肉、お好み焼き、おぜんざい、焼餅などのイベント・メニューを、避難所や周辺住民の方達にサービスしておられました。
尚、このグループによる炊き出しは@の学校やAの行政の指示&支援の下で運営されていました。

 
Fボランティアについては、次章以降でクローズアップします。 

  

  

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